一章 目が覚めたら…
目覚めたら押し倒されていた。
いや、日本語として変なのは百どころか二千と五百三十二くらいは承知しているんだが。
いやいやそうじゃなくて。落ち着けオレ。そうだ。こういう時こそ5W1Hを実行するのだ!
いつ…朝だ。新しい朝だ。希望の朝だ。
どこで…自宅。っつーかオレの部屋。
誰が…オレが。
どうして…どうしてだろう…?
どのように…押し倒されている。
どうなった…良い匂いがする。
うむ。解決!してないじゃん。途中おかしいよ。どうしてこうなった。もう一度やってみよう。
いつ、朝。どこで、オレの部屋。うん、ここまではOK。
誰が…目と鼻の先に居る、去年までは男だったがTS病なる珍妙な病によって女になった親友が。
どうして…どうしてだろう?
どのように…両手でオレの両腕と、右膝で俺の左肩を抑え付けている。
どうなった…良い匂いがする。
うむ。さっきより状況が見えてきた。
相変わらずどうしての部分がさっぱりわからんが。ついでにどうなったの部分が変わってないが。
や、だって髪から良い匂いがするし、それ以外にも石鹸なのか香水なのかなにやら甘い香りがするし。
むぅ、起き抜けの生理現象と合わさってマイジュニアが最強に。
ついでに理性は頭がおかしくなって死にそうです父よ。
あ、亡くなった母さんが川の向こうで手を振ってる。三途リバーの水は冷たいです。
…そんな幻視をしたら我に返った。どうやら時間経過は一瞬で済んだようだ。
こいつは親友、性欲の対象にはなりえない。心の中で呪文のように繰り返しながら問い掛ける。
「な、何をしてるんだ」
「わかんn…らないの?」
「わからんから聞いてる」
きゃー襲われるー位は言いたい所だがこいつは女になってから性的な冗談を嫌がる様になったから言葉を選ぶ。
自分が女になってしまった事実を突きつけられているようで聞きたくないんだそうな。
ちなみに、女の子扱いも嫌がる。気持ちは想像出来なくも無い。
「う…そ、そう、頭突きで起こそうと思った所で起きちゃったんd…のよ!」
「そりゃまた随分な起こし方だな…オレになんか恨みでもあるのか?」
「当たり前だ…でしょ。この体になってすぐの頃、学校でからかわれた時はおr…私の喧嘩を奪ったし」
「席順で俺のが近かったからな」
「10ヶ月前にゲーセンで絡まれた時も」
「あれは数が多かったから逃げたんだったな」
「ずっと手を引っ張り続けるからすげ…ごく痛かったのよ」
「よく覚えてるな?」
「それだけじゃね…ない。8ヶ月前はおr…私が捕まえようとした痴漢を先に捕まえちゃうし」
「お前だとは気付かなかったがアイツが何してたかは俺の位置からよく見えたからな」
「半年前、カラオケで…その…初めて…その、出血した時も冷静でさ。馬鹿にしてたんだ…でしょ」
「あの少し前、妹が赤飯を食べるイベントがあってな…」
あの時は親父とオレと当の妹でひたすら慌てふためいたもんだが、経験が生きた訳だ。
…赤くなった顔が可愛いとか思ってはいかん。
力尽くで位置を引っくり返したいなんて思ってない。思ってないったら思ってない。
「5ヶ月前におr…私の悪い噂が流れた時は
『こいつの前で一言でもその手の台詞を吐いた奴は俺が地獄へ叩き込む!』
とか啖呵を切って」
「そんな事言ったか?オレ」
「4ヶ月前と先月だって、告白を断ったら逆切れされて襲われそうになった時に横から手を出すし」
「…改めて羅列すると、お前って隙だらけだな…」
「ちげ…がう!いつもいつも獲物を横取りしや…されるから怒ってるの!」
男の頃から喧嘩っ早い奴だったが、それは女になっても変わっていない。
それこそこいつが男だった頃は肩を並べて喧嘩をしていたものだが、
こいつが女になり、見た目通りに非力で華奢になってからは、
護ってやらなくてはという気分になっていたのは否定できない。
前と同じ感覚でいる限り、いつ大怪我をしても不思議ではないし、俺はそんな光景を見たくはなかったのだ。
たとえ当人がそれを嫌がっていたとしても。
…なんの事はない。こいつが女になった事を冷やかす事だけは確かにしなかったが、
女扱いを嫌がるこいつを一番女扱いしていたのはオレだった。
一番の親友だと思っておきながら、ずっとその友情を裏切り続けていた訳だ。
こいつが怒るのも当然だろう。
「なるほど。積もり積もった恨みを晴らしたいと」
「そ、そうd…よ」
「…ちなみに、無理して言葉使いを変えなくてもいいと思うぞ」
「だま…うるさい!いいの!今から鼻の頭を狙うからね!今の私の力でも骨折くらいはさせられるんだからね!
覚悟はいい?目を閉じて、歯を食いしばれ!」
どこまで本気かわからないが万が一に備えて言われた通りにする。
…鼻の奥にガツンと来る衝撃と、目玉が飛び出そうになる激痛。
しかし予想より遥かに軽い。これなら鼻血も出はしないだろう。
痛みに慣れ目を開けようとした時、唇に柔らかい何かがそっと触れた。そして息が唇をくすぐる位置からの声。
「ほんっと、ばかだね…でも…ありがと…」
目は開けたものの、呆然としているオレの体から降り、部屋のドアから出て行く。
扉が閉まる直前振り返り、一言。
「早く起きないと遅刻しちまうぞ!さっさと準備しな!」
やれやれ、どういうつもりなのか…ただ単にオレの考え過ぎだったのかね?
帰宅途中の公園
TS病とかいうおかしな病気のせいで女になってしまって一年が経つ。
失ってしまったものはあまりに大きい。
…別に、ナニの事じゃないぞ。
そもそも他人と比べた事なんかなかったから比較しようがなかったし。
その機会は永久に失われたんだし。
…あー、やっぱり、元の体を思うと凹む。
凸の跡地は立派に凹んだけどな!
や、立派ってのは言葉の綾でさ。
そもそも他人と比べた事なんか以下略。
…やべ、また泣きそうだ。
女になって涙腺が弱くなったのか簡単に涙が出ちまう。全く忌々しい。
それだけじゃない。男の体の頃は出来た事が今じゃ出来なくなっている事も多くて腹が立つ。
背が縮んだせいで高い所に手が届かなくなったのも、
体力が落ちた上に鍛えても筋肉が付かなくって、
体育の成績が電柱やアヒルになってしまったのも、
1ヶ月の内1週間くらい体調が崩れるのも、
大小に関わらず腰掛けなきゃいけなくなった事も、
全部はとても挙げ切れないけど、腹が立つ。
胸は平均よりも発育が悪く体を動かす時にそれほど邪魔にならないのが幸いと言えるのかどうか。
…こすれてもぶつけても痛いからやっぱり邪魔か。
けれどそんな事より、一番許せなかったのは親友の事。
並んで立っていた筈の背中が今は遥か遠くて。
根性では覆せない程の差がついてしまって。
対等だった筈の関係が壊れてしまった。
なのに、対等の振りをする。手加減されてしまう。
歩みを止めて、振り返って、待ってしまう。あいつは。
確実に俺の何歩か先で。
どうせなら、置き去りにしてくれれば。背中も見えなくなる位、先に行ってしまえば。
割り切って、諦める事も出来るかも知れないのに。
夢見てしまう。追いつく事を。
かつての様に、互いに手加減なしの全力で、隣に並べる日が来るのではないかと。
…ん、何かこういう言い方はフェアじゃないな。
本音を言おうか。正直、わからないんだ。
『そんなあいつが許せない』のか、『あいつにそうさせてしまう自分が許せない』のか。
いや、まぁ色々ごちゃごちゃ屁理屈捏ねてるけどさ。
要するに、甘えている訳だ。かつて親友だったあいつに。
今も親友なのだと思い込みたくて。
とっくに自分にはその資格はなくなっているのに。
今の俺はもう、あいつの隣には立てないのに。
…そう言えばいつの頃からだったっけ。
あいつに庇われる事が…護られる事が、苦痛ではなくなってしまったのは。
そうだ。あれは確か二ヶ月ちょっと前の事だった。
「雪○だいふくには幸せが詰まっているのです」
うん、美味い。丸呑み出来なくなったのが悔しいが。
「お前、ソレ食う度に同じ台詞を吐いてないか?」
「いいんです。私の些細な幸せの邪魔をしないで下さい」
「…マジで些細っつーか、安上がりな幸せだなおい」
「大きなお世話です」
放課後、学校帰り。
小遣いに余裕がある時のお約束で、コンビニで雪見○いふくを購入して公園で駄弁りながら齧るのだ。
個人的にはメーカーとしてのロ○テはあまり好きじゃないんだが、コレを創った事は素直に感謝だ。
「人類が生み出した文化の極みなのです」
「どっかで聞いた言い回しな上に大袈裟な」
「放っておいて下さい」
いちいちツッコミを入れないと気が済まないのかこいつは。
「…ちなみに何故、学校モードを続けてるんだ?」
学校モードとは、女言葉を使いたくないが男言葉は嫌がられてしまう俺の苦肉の策、
この何となく敬語っぽい喋り方の事だ。
男のままだったとしても、どうせいずれは社会に出て敬語を使う事になるのだし、私という一人称も普通に使う。
ちょっと早い段階からその練習をしているのだと思えば我慢も出来るという訳だ。
とはいえ自宅と学校が生活の大半を占める学生たる身分では殆ど四六時中と言ってよい。はっきり言って息が詰まりそうだ。
素で喋れる貴重な帰宅時間を何故、学校モードにしているかと言うと。
「そこに佐藤と鈴木が居る」
声のボリュームを下げて言う。
「級友を気にするなんてらしくないな」
「万が一にでもおふくろの耳に入ってみろ。小遣い減額の上、衣服が一着交換なんだぞ」
「…服?交換?」
「…男物が棚から一着消えて、ふりっふりの女物が一着増やされるんだ…」
「げはっ…わははははっ!!」
「笑うnっ…わないで下さい!」
危ない、ボリュームを上げてしまったので慌てて切り替える。
「いやぁ…大変だな。頑張れとしか言えない」
「ちっ…幸せな気分を台無しにしてくれやがって。謝れ、そして俺に雪見だ○ふくを1パック奢れ!」
「まぁ、いいけどな。んじゃちょっくら買って来る」
「あ…」
冗談だったのに行ってしまった。せっかちな奴。
コンビニまでの往復だと10分弱くらいか。
あいつの前では何でもない振りをしてはいるが、こうして一人になるといつもの悩みが顔を出す。
ベンチに腰掛けて、溜息を一つついて空を見上げる。
「並び立つ…やはり、無理なのか…距離を取らないと…離れないと駄目なのか…?」
「公園で一人憂える美少女…絵になるわね」
「うひゃ!?」
そんな呟きが漏れた直後、すぐ背後から声を掛けられてびっくりして飛び上がる。
立ち上がり慌てて振り返ると先程まで離れた位置に居た筈の佐藤と鈴木が立っていた。
あいつの一喝が効いたのか、いい加減慣れたのか直接的なものは無くなったが、
女になって復学した時の級友達の好奇と忌避の入り混じった視線は未だ無くなった訳ではない。
ただ、俺はそんな視線に敏感になっていて、視線の種類を見分けられるようになってしまっていた。
思えば、級友とはいえ接点が無かったからまともに話した事もなかったが、
この二人からはそんな視線を感じた事はなかった。それは今も。
「お、おm…貴女達、何時からそこに?」
「座った直後くらいから?」
「う…な、何か、聞こえたりしました…?」
「別に何も?うふ♪」
をいをい佐藤よ、何だよその含み笑い。しっかり聞いてたと言ってるよーなものじゃねえか。
「…悩みは人に話すだけで楽になる事も多い。話すなら、聞く」
基本無口であまり表情を変えない鈴木はとっつき難い印象はあるが、良い奴だ。
「そうそう、おねーさん達にどーんと話してごらんなさい」
「同い年ですよ…」
「…女の子暦はわたし達の方が十数倍」
つまりそれだけ年増なんだな、とちょっと言ってみたくなったが、何となく後が怖いので黙っておこう。
…人の事は言えないが、こいつらも大抵はセットで動いてる。きっと親友同士なのだろう。
だから、少し位、話してみてもいいかと思った。
「お二人は、お互いを親友だとお思いです?」
「ふぇ?あたしら?」
「…」
二人同時に顔を見合わせる。
「…むしろ、心の友」
「それってどっかのガキ大将が自分に都合が良い時だけ使う言葉じゃなかったっけ?」
「…まさにその通り」
「ひっどいわねぇ。あたしはこぉんなにアイシテルのにぃ」
「お二人の仲が大変よろしいのはわかりました。どんな所を認め合っているのですか?」
「そうねぇ。嫌味言いながらだけど、勉強教えてくれるし、
しょっちゅう実験台にもされるけど美味しいお菓子作って差し入れしてくれるし?」
「…わたしは、どうしてなのかな…」
「ちょっ、それひどくない!?」
「…うそ。おばかだけど明るいし阿呆だけど明るいし間抜けだけど明るいしおっちょこちょいだけど明るいし…」
「あたしの取り柄は明るいだけかぁ!?そこまで行ったらなんかもう太陽顔負けって感じじゃない!」
「…冗談。いつも五月蝿いけど、あまり健康じゃないわたしに気を配ってくれているらしいし?」
「何故に疑問系!?」
「た、楽しそうですね…」
「まぁねー」「うん」
同時に頷いた。こういう時の息はぴったりだ。
「でもさ。ちょっと思ったんだけど…つまりあんたの悩みは相棒の事な訳ね?」
「そうなりますね」
「一緒に居るのに理由とか理屈とか必要なの?認め合うって、並び立つってそういう意味だよね、多分。
ただ気が合うからじゃいけないの?
何かする時に、一人でやるより、あるいは他の誰とより、
一緒にやった方がより楽しく出来たなら、それが親友ってものだと思うんだけど」
あー、やっぱり聞かれてましたかちくしょうめ。
「…多分、問題はそこじゃない。その位はわかってる筈」
「どういう事よ?」
「…望む望まないに関わらず、自分が変わってしまえば、人間関係も変わらざるを得ない」
「そうですね」
体の変化によって、両親とも、級友達とも男の時と同じ関係では居られなかった。
同じ関係で居てくれようと努力してくれているあいつは言うまでもない。
努力させている事自体が変化の証なのだから。
「…変化後の、新しい関係を目指すのは…怖い?」
「怖くないと言えば嘘になる…俺だけの事なら問題なんて何もない。
でも人間関係ってこっちだけの都合で成り立つものじゃない。新しい関係を否定されたらお終いじゃないか」
学校モードも忘れて、つい素で答えてしまう。
「そんなんで変わる関係ならそもそも親友なんかじゃない…って言っても納得しなさそうだね」
「俺が…!俺があいつの事を親友だと思う気持ちは変わらない!
新しい関係も怖いけど…今のままでも駄目なんだ。今のままじゃ、俺はあいつの隣には居られない」
くそ、涙なんか浮かんでくるんじゃねぇよ。
「うーん…どうしてそうなるのか、あたしにはちょっとわからないけど」
「…男として生きてきた自負が、そのまま今の自分に対する劣等感になっている」
「そうだよ…!女なんかになっちまって、いい事なんか何一つありゃしなかった!
戻りたい…元の体に…あの頃に…帰りてえよ…」
泣き喚きたいのを堪えて歯を食いしばる。涙は止まらない。
袖で乱暴に拭おうとしたらそっと止められる。
反射的に振り払おうとするが、その前にぼふっと柔らかく暖かい何かに体が包まれる。
一瞬何が起こったのかわからなかったが、佐藤の腕の中に抱きしめられていた。
その柔らかな暖かさに包まれていると、何だか落ち着いてくる。
恥ずかしながら、促されるままにベンチに腰を掛け、そのまま暫く縋り付いていましたよ。涙が止まるまで、えぇ。
「…彼に対する確固たる位置が欲しいなら、簡単」
ようやく落ち着いてきた頃、鈴木がぼそっと言った。
「そうね。とっても簡単」
「…?」
そそくさと離れて、おふくろに強引に持たされたハンカチで顔を拭きながら首を傾げる。
「付き合っちゃえばいいのYO!」「…恋人として」
な、なんだってー。
「え、え、えぇ?」
いやいやいや、ちょいと待って下さいよお嬢さん方。
なんでそーなりますか。男同士で親友ですよ俺ら。BLという名の魔空間にでも引き込もうって腹ですか?
…あ、俺の体は今女なんだっけ。一瞬失念してたよ。それなら良いのか?
マテ。良くない。良くないぞ。オレサマ体はどうあれ心は男。BLもウホッも勘弁。うむ。俺ノーマル。
アレ?そうすると俺の恋愛対象、女?
男だった頃はキレーなオネーサンもグラマラスな美女もナイチチ美少女も何でもござれで好きだったけどさ。
そういやぁこの体になってから割とどうでもよくなってたなぁ。
女を好きになっても、男として愛せないってのがわかっちゃってるからかなぁ。
え、そうすると俺、もう誰も愛せない?
それはそれで寂しい。
ふむ…ちょっと想像してみるか。
鏡で見る自分を中央に配置。右隣に可愛い女の子。
キャッキャウフフしながら街を練り歩く。
うーむ。ときめかん。どう見ても仲の良い女の子同士のじゃれあいにしか見えん…チョイスを間違えたか。
改めて自分を中央に、右隣を消して左隣に綺麗な女性を配置。
街を練り歩く。キャッキャウフフ。あれ、何かノらない。
ぬぅ、他か…一旦デリートして中心に自分を配置。
何故かあいつが俺の隣に勝手に出現してきやがった。やめろボウフラの如く涌いて出てくるんじゃねぇ。
…あれ、何かイイ感じですよ?
並んで歩いている内に距離が縮まって、やがて手を繋いで…普通の握手型が交差型に変わって…
そこから腕を組んで…やがて向き合って、抱き合って…顔と顔が近付いて…
あ、こうやって見ると結構あいつイイ男…
「おおお?顔が真っ赤。なぁにを考えたのかなぁ?」
はっ。いやいやそうじゃなくて。そうだこれはきっと某高名な軍師の罠だ。落ち着け俺。
「…きっと、イチャラブ妄想」
「ち、ちちちちちちtがいますよ?」
「舌回ってないぞー」
えぇい、違う!そんな事思ってない。思ってないったら思ってない!
「…他に、良い案があるの?」
「さっきも言ったろ。仮に、仮にだ!俺がそれを受け入れたからってあいつが受け入れなかったら終わりじゃねぇか!」
「でも、このままじゃ隣に居られないんでしょ?」
「そ、そうだけど…」
「…だったら、受け入れさせればいい」
「どうやって!?」
「そんなの決まってるでしょ。女を磨くのよ!」
「はいぃ?」
「…男は意中の女を振り向かせる為に男を磨く。女は意中の男を振り向かせる為に女を磨く。違いはない」
「いや…だって…俺、男だぞ…?」
「大丈夫よぅ、あんた美少女なんだから」
「…可愛いと綺麗を足して2で割った感じ。磨けば多分割る分が消える」
「は?俺が?」
「あんた鏡見た事ないの?」
「生憎自分の顔に見惚れる趣味はない」
「はぁ…」
これみよがしな溜息をついてくれやがった。
「大体、恋人として付き合うのって対等なのかよ?」
「何を指して対等とするかによると思うけど」
「…男と女はそもそも役割が違うから、同じ土俵で語るのがおかしい」
「どういう意味だ?」
「そうねぇ。例えば…働く旦那さんと専業主婦の奥さん。どっちが偉い?」
「それは役割分担だろ?どっちが偉いって事はないんじゃないか」
「なんだ。わかってるじゃない」
「わかんねぇよ」
「…生きる道は人それぞれ違うけど、物理的な距離がある訳じゃない」
「目指す場所が違っても、並んで歩く事は出来るって訳ね」
「一つ助けてもらっても、別の事で一つ助けてあげられれば、対等の関係でしょ」
「…同じ事で張り合う必要はない」
「いきなり女の子になっちゃって戸惑うのはわかるけどね。
悪い所ばかり見てちゃ駄目だよ。良い所も見つけないと」
「そう…だな…」
「…帰って来た。そこの水道で顔を洗った方がいい」
う、確かに泣き腫らした顔なんぞ見せられないな。
動揺のあまり落としていたハンカチを拾い、ちょっと離れた位置の手洗いに行き顔を水でざばざば洗う。
ついでにハンカチも洗って絞って顔を拭う。ちょっとさっぱり。
戻ると二人の所にあいつも居て何か話している。声が届く範囲に入った時、打ち切ったのか終わったのか静かになった。
…何か妙な事を吹き込んでないだろうな。
「すみません。お待たせ致しました」
「おぅ、買ってきたぞ」
「お帰りぃ」
「…じゃ、わたし達は帰る。また明日」
「あ、お二人とも、今日はありがとうございました」
「お礼はその雪見だい○く1つでいいよ?」
「あげません」
「…じゃあ、そっちの人ごと貰っていく」
「雪見だいふ○は置いていって下さいね」
「…オレの人権はガン無視か…ってか、アイス以下か…」
「「「あはは」」」
そう、きっかけはこの時からだった。
…ちなみに鈴木と佐藤は何故か俺を気に入ったらしく、俺にとって初の女友達になるのだがそれはまた別の話。
見舞い
公園での出来事は確かにきっかけにはなったのだが、だからどうという事も無く日々は過ぎていた。
それがもう少し具体的になったのは、それから一ヶ月ほど過ぎた頃の事。
あいつが、風邪で学校を休んだ。
風邪を引く度に長いから今回もそうなるだろう事がわかる。
俺が男だった頃は何も考えずに電話したり、見舞いと称して遊びに行って大騒ぎしたりしていた。
だから今回もそうしてもいいんだが…何故か躊躇してしまう。俺も大人になったって事なのかねぇ。
…違うぞ?意識なんてしてないぞ?
ほんとだぞ?ほんとだぞ?大事な事だから二回言っておくぞ?
あいつの家はおふくろさんが居ない。
親父さんは仕事だし妹は学校があるしで世話を焼く者が居ないから長引くんだ。
普段は、まだ小学高学年でありながらしっかり者の妹が家事全般をこなしているのだが、
非常事態になると明らかに手が足りなくなる。
…やっぱり、行くべきなのかな…
俺もかつての俺とは違う。この一年近くで家事全般をスパルタ式に叩き込まれたので、
昔の様にただ治す事を邪魔するだけという事はない…筈。
俺だってそんな事やりたくなんか無かったさ。面倒臭ぇ。
でもな…今、俺の部屋は殆ど丸ごと巨大な人質ならぬ物質なんだよ…服だけじゃなく。
おふくろに一回逆らうと男時代の品が一つ消えて無駄に可愛らしい女性用のナニカが一つ増やされるんだ…
具体的には、壁紙もシーツも布団も既にパステルカラーだの花柄だのにされている。
他にも、小学生の頃に作ったプラモは熊のぬいぐるみに取って代わられた。
部屋も服も、既に半分近くは女物に侵食されてしまっている。
や、服は残しといても俺が縮んだからまともには着られないんだけどな?
わかってるよ未練だよ。でも十数年男として生きた証なんだよ。
まるでそれが無かったかの様に女物に取って代わられるのが我慢出来ないんだ。
俺の心が、俺は男だと主張しているんだから。
…ちなみに、最初に消えたのは隠しておいたアレな本だった。「もう要らないでしょ?」の一言と共に。
そうだけど、そうなんだけどさ。プライバシーって言葉を知れ母よ。
…多少主題から逸れたりしてはいるが、主の居ない席を眺めながら考えに耽っていると。
「…寂しい?」
…どうしてこいつらはいつも背後に出現しますか。
「べ、別に寂しくなんかありませんよ?」
「ふぅん。風邪だって?」
華麗にスルーしやがりながら問いかけてくる。
「そうです。すごい鼻声のしゃがれ声で電話がありました」
「…倒れてる当人には申し訳ないけど、アピールするチャンス」
「そうそう。ここは点数を稼がなきゃ」
「何の話ですか?」
「もう、わかってる癖にぃ」
ちょ、肘で脇腹をぐりぐりするな。くすぐったい。
「…とぼけると、こう」
わ、背中に圧し掛かるな。重い…けど、柔らかい二つの山がぶにゅっと…
でえぇい!こいつら俺が男だという自覚がないなぁ!?
…ないんだろうなぁ…それに慌てなくても俺の胸にも付いてるじゃん。
サイズはともかく同じ柔らかさのがさ…はぁ。
しかし事ある毎にこの調子で絡まれたりすると鬱陶しい事この上ない。
「からかいのタネにされる位なら行きません」
「えぇ?」
「…つまらない」
「貴女達を楽しませる為にしている訳ではありませんから」
そうきっぱりはっきり言ってやった。
そして退屈な授業の時間は過ぎ去り放課後帰宅途中。
「…なぜ俺はここに居る」
そうここはあいつの家の前。
しかも手には鞄の他に途中立ち寄ったスーパーのビニール袋なぞがあったりする。
「行かないって決めたじゃんよ…」
まさに勝手知ったる他人の家。普段はずけずけ上がり込むんだが、今日はなんだか敷居が高い。
えぇい、ここまで来て気後れしてどうする!
いつも通り、玄関をがちょっと開けて大声で「おっじゃまっしまーす!」と一言入れて、
てけてけ階段を登ってあいつの部屋に入ってベッドに横たわってるあいつに
「優雅に学校サボって昼寝してんじゃねーぞ!」
と理不尽な事を言って、それから台所を借りて買ってきた材料を使っておかゆを作って、
「ありがたく食すがいい!」
と恩着せがましく渡して、ひどそうなら帰って大丈夫そうなら漫画でも読む…それだけだろ。
いざ推して参る!
がちょっ
「おっ…」
靴のつま先でとんとんと床を蹴ってる、いかにもこれからお出かけです!ってな風情の、
あいつの妹が目を丸くしてこっちを見ていて、挨拶の言葉が空を切った。
ちょっ…最初の一歩でシミュレート崩壊してるよ!どうする俺?続きはWebで!じゃなくて!
「あ、おねーちゃん。こんにちは。いらっしゃい」
相手が俺とわかって警戒を解いたのか、にっこり笑いながら挨拶をしてくる。
…呼称を『おにーちゃん』から『おねーちゃん』に変えた当初は言い辛そうだったけど、
今じゃお互い慣れたもので全然違和感が無くなっている…寂しい限りだが。
まぁ、それを表に出しても気を使わせるだけだから見せはしないけど。
しかし可愛いなぁ。何かこう小動物ちっくで。
「え、あ、う…ん、こんにちは。お邪魔するね」
ほわんとした雰囲気に毒気を抜かれて普通に返す。
「あ、ひょっとして何か作るつもり?」
俺が持つビニールに目をやって聞いてくる。
「う、うん。おかゆでも流し込んでやろうかってね。こう、漏斗をぷすっと口に刺して」
身振り手振りを交えて大仰に説明する。大丈夫、いつものノリだ、いつも通りだ…
「おねーちゃんも風邪引いたりしたの?お顔赤いよ?」
「そ、そそそそそそsんなことないですよ?」
小首を傾げながら俺の様子を伺う。
「んー…今日ピアノレッスン諦めてお兄ちゃんの看病しようかと思って、
その為のお買い物に行こうとしてたんだけど…おねーちゃんに任せて行って来てもいいかな?」
むぅ、流石は混じり気なしの天然100%美少女。上目遣いでのおねだりが凄い破壊力。
「いいよ。こっちは任せて行ってきなよ」
以外の言葉が浮かびませんでしたよ、えぇ。
男だった頃はこんな風に任される事なんてなかった。
むしろ余計な手間が増えると言ってますます張り付いてたな。
「わぁい、ありがとおねーちゃん!」
そして飛びつかれる訳ですよ。この体になってからこうして甘えてくる様になった。
可愛いからそれ自体は歓迎なんだが。発育が良くて5歳差なのにもう身長も…
その…胸も既に追い付かれている辺りちょっと微妙な気分にさせられるけど。
女として負けてるとかそういう意味じゃなくて、貧弱になってしまった自分の体を儚んで、だ。
なに?既に両方抜かれてるだろうって?そ、ソンナコトハナイデスヨ…多分…きっと…
俺はオンナノコ1歳だから負けてもしょうがないんだよばーろぃ!…ぐっすん。
えぇい!この話はこれで終わり!
「それじゃ、準備してくるから。ごめんね、ありがとう、よろしくね、おねーちゃん」
そう言って履いていた靴をぽいぽいと放り出して部屋へと戻っていく。
やれやれ、こういう所はまだまだレディには遠そうだ。
…なぁんて偉そうな事を思っておきながら自分がそんなモノになるつもりはこれっぽっちも無かったり。
「冷蔵庫の中にあるもの、好きに使っちゃっていいからね」
ぱたぱたと鞄を抱えて戻って来て慌しく飛び出しながらもそんな台詞を残していくあいつの妹。
一人息子転じて一人娘の俺にとっては憧れを抱く程、理想的な妹だ。あいつに言わせると、
「母さん代わりを自任してるもんだから口煩いぜ」
となるのだが。
「なら寄越せ」「誰がやるか」
即断で返す位には妹を溺愛してる。全く素直じゃない。
あの時の憮然とした顔が可笑しくて思い出し笑いをしながらあいつの部屋に向かう。
玄関口に立った時以上の圧迫感を放つドアの前で深呼吸。大丈夫、さっきのシミュレーション通りにやれば。
…初っ端からケチがついてるあまり縁起の良くない奴だが。いかんいかん。何を弱気になっている。
ドアを開けながら…
「学校サボって昼n…!」
うん、認めよう。やっぱ駄目だあのシミュレーション。何か想定した状況になってくれない。
…高めの室温設定がなされている部屋の真ん中に、ちょうど着替えてる途中らしく、
トランクス一丁で全身の汗をタオルで拭っている我が親友の姿。
その足元にはずぶ濡れでくしゃくしゃのTシャツと取り出したばかりで綺麗に畳まれているTシャツ。
浅黒く、鍛えられ引き締まった肉体の表面を艶やかに覆う汗。強いオトコの匂いに全身を包まれ、声が止まる。
動きを止め、どことなく焦点の合っていない目で俺を見つめる。俺はドアを開けた姿勢のまま硬直している。
流石に今の体になってからは無いが、こいつの着替えシーンなんて嫌って程見てる。
別に驚く程の事じゃない…筈、なのに。
「あー…閉めてくれ。温度が逃げると寒気がする…」
「あ、わ、わりぃ…」
癖でそのまま踏み込んでドアを閉める。
男の体臭は世の女性達は臭いと感じるらしい。確かに良い匂いとは言えないが、俺は嫌いじゃない。
悪臭と思うより先に懐かしさを感じるからかも知れない。
呆然と立つ俺を気にする事無く、汗を拭き終わり着替えを済ませ、
汗で濡れたタオルとシャツ、寝巻きのズボンをドアの方…俺の足元に放る。
そのままもそもそと布団に潜り込みながら、
「何とか食えそうだ…めし、頼む…」
と掠れた声で言ってきた…あれ、ひょっとして妹と勘違いしてる?
…まぁいいか。元よりそのつもりで来たのだし、妹にも看病頼まれてるし。
ベッドからちょっと離れた位置に置いてある水が張られた洗面器と濡れタオル…
冷えピタとかじゃない辺りがらしいというか何と言うか。甲斐甲斐しいぞ妹。
洗面器と濡れタオルを抱えて、濡れた寝巻きも拾い上げて、部屋を出る。
他の洗濯物は妹が片付けていっている様だ。ならとりあえずこの分だけで回しておこうか。
ネットに入れて、洗剤、柔軟剤、ハイターもちょっと入れて…ぴっぴっぴ、と。
うちのとはメーカーが違うから細かい操作が違うが多分これで大丈夫だろう。スタートっと。
水が十分に注入されて、ぐおんぐおんと音を立てて回り出したらタオルを一枚補充して台所へ。
エプロンを装備しながらまずはご飯の確認。五合釜。中身は無し。
冷蔵庫を確認。食パンを発見。ふむ…牛乳と蜂蜜とレモン汁もある。
シナモンパウダー…ある。ならパン粥かな。
あまり時間をかけると食欲が失せたり寝直したりでタイミング外すかも知れないからな。
包丁とまな板を取り出して食パンの耳を切り落とし、適当に千切っては手鍋に放り込む。
牛乳をだばーっとぶっかけて火をかける。
洗面器に水を張って、冷凍庫から氷を何個か取り出して浮かべてタオルを放り込む。
二階に上がって奴の部屋に入って濡れタオルをそのままぺしゃっと顔に貼り付け…
たくなる衝動を抑えてきゅっと絞って額に乗せたら素早く台所にリターン。
火を使ってる最中は長く台所を空けちゃいけません。
ついでに米を五合釜に開ける。水を張って軽く濯ぐ。ふむ、米ぬかがあまり出ないから無洗米。
母曰く「虫とか入ってたら嫌でしょ」との事なので無洗米でも一応洗う。
普段のこの家の夕飯時のちょっと前に炊き上がるようタイマー予約。ぴっぴっぴっとな。
パンの耳はフライパンにマーガリンを溶かし弱火で炒めながら、砂糖を振り水をちょっと垂らして混ぜる。
牛乳が煮立ってきたから火を止めて蜂蜜とレモン汁を投入し、
シナモンパウダーをぱぱっと振ればパン粥の出来上がり。どんぶりに移してレンゲを添える。
耳の方も砂糖が溶けてコーティングされてかりっと仕上がったらこちらもシナモンを振って完成。
…こっちはおやつであって主食ではないぞ。ちなみに別に自分で食う為のもんでもないぞ、念の為。
お盆にどんぶりと、氷を一個だけ浮かべたお冷を載せて再び二階の奴の部屋へ。
「餌だぞ」
「…あー…」
んぼーっと上体を起こす。
膝の位置にお盆を載せてから背中にカーディガンを掛けてやり、額から落ちたタオルを洗面器に突っ込む。
「少し空気入れ替えるぞ」
「…んー…」
カーテンを払い、窓とドアを開ける。新鮮な空気が流れ込む。
「…ざぶー…」
「すぐ閉めるから我慢して食ってろ」
寝惚けてやがるな。素直とゆーか何とゆーか。たまにはこういう反応も面白い。
「…おー…」ずずっ…むぐっ…
「…むー…?」ずずっ…はくっ…
「…ちげー…?」もぐもぐもぐもぐ…
「そろそろ閉めるか」
「うおっ!?」
あ、目覚めたらしい。
「ど、どこから涌いて出た!?」
「ん、この窓からにょきっと」
閉めた窓を指差しながら答える。
「…ところでこの物体はその…お、お前が作ったのか?」
物体って何だ、失礼な。それに自分で振っといてスルーするなよな。
「ありがたく思え。そして感涙に咽ぶが良い」
よしよし、普通に会話が続けられる。問題ない、問題…
「…俺、便秘じゃねぇぞ」
ドアを閉める為に動いていた全身がぴきっと音を立てて動きを止める。どういう意味だ。腹を壊すとでも言いたいのか?
「返せ。今すぐ耳を揃えて全部返せ」
「耳なかったじゃん」
「誰が上手い事を言えと」
「美味かった。おかわり」
空になった皿を俺に差し出しながらにかっと笑ってそんな台詞を吐きやがった。
何故かどきっとした。何だか頬の辺りが熱くなる。
べ、別におかしくないよな。自分の料理を誉められれば嬉しいもんだよな?
いや待て。そもそも今のはいつものノリで、前後の会話の流れでそう言っただけだろ。
上手い事言えと言ったから美味いと言ったに決まってる。
嬉しがるだけ損だ、損。
「ほんの10秒前の自分の台詞を思い返してみろ」
「美味いから食い過ぎて腹壊すかもって意味だ」
「嘘だ!」
「嘘なもんか。そうでなきゃおかわりなんて言うか。おかわりまだー?」
どんぶりを手元に持ち直してレンゲでちんちん言わせる。
「おかわりは無い」
第一ガタイの良い高校生がそれをやっても似合わないぞ。
「えー、病人にはもっと優しくしろよな」
「自称病人は寝てろ」
「起きたばかりだ。眠気はあの青空の彼方へ飛んで行った」
「…今日、曇ってるぞ」
「我が千里眼の前には雲なぞなんの障害にもならんわ!」
「その千里眼、テストの時に使えよ。高得点狙えるぞ」
「はっ、そんな手段があったのか!」
さて、そこで大袈裟に嘆いている馬鹿は放って置いて片付けるか。
「ほれ、どんぶり寄越せ」
「おかわりくれるのか?」
くっ…むくつけき野郎のお目々キラキラ攻撃は…意外と悪くない、かも?
いやいや!んなこたぁない!気色悪いだけだ!
「あーもーわかったわかった。おかわりはマジで無いが違う物持ってきてやるから大人しくしてろ」
「おぅ!」
くっそー。そんな嬉しそうな顔するなよな。こっちも満更でも無くなってくるじゃねーか。
り、料理の腕を認められたからだぞ。他意はないぞ!
喉を鳴らしてお冷を飲み干し、中身が綺麗に空になったお盆を渡される。
この飲みっぷりなら水分ももっとあった方が良さそうだが、
あの調子で飲まれる事を考えるとあったかめの物のが良さそうだ。
台所に戻り、どんぶりを軽く洗って拭いてから、本来妹用のつもりだったラスク風パン耳を盛って緑茶を淹れる。
珈琲の方が合うんだろうが、淹れ始めると時間掛かっちまって待たせるし、
そもそも珈琲は病人向けじゃないんじゃないかと思うからこれで妥協だ。
「餌おかわりお待ち」
「ほほぅ、これはこれは…まったりとしていながらしつこくなく、それでいて濃厚な甘味が味わいとなって…」
ぽりぽりと齧りながら料理漫画の解説の真似事を始める阿呆。
表現が矛盾だらけでどんな味だか作った本人ですらわからなくなりそうじゃねーか。
そもそもそんな複雑な代物じゃねーし。
「そういや妹は?」
「お前を俺に任せてピアノだとさ」
「そうか、さんきゅーな。この借りはちゃんと仇にして返そう」
「そうか倍返しか。楽しみだな」
「おぉ、覚悟しとけよ」
「あぁ、期待してるよ」
「よし、超豪華な粗品をお前の金で買ってやる」
…普段なら俺も気が済むまで根競べするんだが、流石にこんな時までそんな気にはなれない。
洗面器の水に浸していたタオルを絞って投げ渡してから部屋を出る。
「…今から晩飯の準備にかかるから程々にな」
「あいよ」
台所に戻って使用済みの食器を洗い、土鍋に水を張りまず鶏肉を刻んで放り込んだら火をかける。
あっさりとした食べやすさを優先しつつ各種栄養素を叩き込み、
かつあったまるメニューという事でシンプルに水炊きなぞにしようかと思っているのだ。
安かったので今回はエノキを投入し、ミズナ、白菜、長葱、春菊と適当に刻み、
しらたき、豆腐にも切れ目を入れて準備は完成。ザルに移していく。
鍋の湯が沸騰してきたらアクも取っておく。
他は…オムレツでも作ろうか。
ボウルに卵を割り入れ、砂糖をざらっと、塩をちょこっと。みりんをたぽっと。牛乳をだぱっと。醤油を一滴。
フライパンをよく拭いてラスク風パンの耳の残りカスを取り除いたら火を掛けて油を引いて、
ちゃっかちゃっかと掻き混ぜて熱したフライパンに流し込む。ちゅーんと音を立てればいい按配。
くるっと一回り傾けて広げたら弱火にしてちょっと待つ。
下が固まってきたらピザ用チーズをざらっと中心部に投入。
…ここからが勝負所。軽く揺すった時、全体が動いて形が崩れなければ、手首を前後に返して半分だけ畳む!
ふぅ、成功。綺麗な半円形になった。フライパンのサイズや重さが家のと近かったからかな。
軽く焦げ目が付く頃には中のチーズがとろけて、割れば滴り落ちてくる俺の自慢の一品だ。
本当は出来たてが一番美味いと思っているのだが、レンジでチンしてもらう事にしよう。
皿に移す。同じ手順をもう二回繰り返し三人分完成。
ボウルも洗ってからザルの下に敷いて、ラップを被せて、鍋の火も止めて蓋をすれば飯の用意は一通り終了。
汚れた調理器具を洗って片付け、流しとコンロまわりを手入れしてからエプロンを外して洗濯機を見に行く。
終わっているようだ。太陽に当てて乾かした方が良いのは確かなのだがもう陽は落ちてる。
この辺りの判断は我ながら未熟だ。とりあえず乾燥機をセットして乾かす事にする。
…さて、あいつは大人しくしてるかな?
どんぶりと湯飲みの回収を兼ねて様子を見に行くと、大人しく布団に包まって額にタオルを乗せている。
よしよし、寝ていたら起こすのも哀れだから静かに…あ、タオルが乾いてる。
洗面器の水はもうぬるくなってるし、取り替えてやろうかと考えながら手を伸ばした時、
寝返りをうたれて手が空を切り、バランスを崩した。
「ひゃっ」
「…あー」
圧し掛かってしまいましたよ。起こしちゃったよ。なんでこうなるかな…
身を起こそうとしたら、腕を掴まれた。そのまま横にずらされる。
腕を基点に体を支えていたものだから、倒れこむように抱き寄せられてしまう。
え、え、えぇ、ふえぇええ?
また寝惚けてやがるのかこいつは?
な、なんか急に心臓がばくばく言いだしたぞ?
「…よ」
…?
何か言ってる。
「離れるなよ…隣に…居ろよ…」
「…っ!?」
「お前が…どんなお前でも…傍に居てくれれば…何だって出来る、ん、だから…」
…鼻詰まりで、しゃがれてて、しかも寝惚けての台詞だから凄く不明瞭で不恰好だ。
けれど、そこには普段俺を気遣って口にしない本音が透けていた。
嬉しいのか、悔しいのか、恥ずかしいのかもわからなくなってしまった。
何か、妙に鼻の奥が痛い。
…くそぅ、佐藤鈴木コンビめ。やっぱりあの時なんか吹き込んでやがったな。
…でも。
…いいのか?こんなに何も出来なくなってしまった俺でもお前はいいって言うのか?
もし、そうなら…
この、寝惚けた台詞が、お前の、本気の、本音、なのだとしたら…
顔が近い。いつかの妄想で見た時と同じ位の距離。
熱が出ているのだから当たり前なのだろうけれど、妄想のそれより熱っぽい、けれど焦点の合っていない目。
男らしく薄い唇が、呼吸を求めて僅かに開かれている。
…してみたい。
…キス、してみたい…
でも、俺は男で、こいつも男…
『付き合っちゃえばいいのYO!』『…恋人として』
いつか言われた言葉を思い出す。
一時の激情かもしれない。でも俺はそれも良いかと初めて思った。
…けれどこいつは?
…親友として隣を空けてくれているんじゃないのか?
…親友の、元男とキスなんて気持ち悪いと思うんじゃないだろうか?
…今なら、多分、こいつの記憶には残らない。
…して、しまおうか。
改めて上体を起こす。もうちょっと上にずれないと届かない。片膝を前に出して位置を合わせる。
近付いていく。息が顔にかかる。あと、ちょっと…
がちゃ、と遠くの方、玄関の扉が開く音で我に返る。
「ただいまー。おや、誰か来てるのか?」
「…!!」
思わず飛び退りベッドから離れる。親父さんが帰って来たらしい。
「あ…あー…俺、寝てた…?」
そしてこいつも意識がはっきりしてきたらしい。
…この後の事はパニックを起こしていたらしくあまり覚えていない。
翌日以降の様子から判断するに不審な行動は取らなかったみたいだが。
この時の俺は食事の誘いを丁重に断り一人で帰ろうとしたが、
夜道の一人歩きは危険だからと、親父さんに送って貰った…らしい。
我に返ったのは自宅に帰ってからで、それから暫くはずっと自問自答を続けていた。
思えば、この頃から、あいつに庇われたり護られたりするのが嫌じゃなくなっていたんだろう。
自問自答に決着が付いたのがついこの前で。忌避していた女言葉も、こっそり練習を始めた。
まさか一週間も経たずに同じ姿勢に持ち込めて、披露する羽目になるとは思ってもいなかったが。
…ちなみに料理は好評だった。一安心だ。
『おねーちゃん、お兄ちゃんと結婚して本当のお姉ちゃんになって!』
と後日、妹に言われたのは喜ばしい…のか?
朝は大体こんな感じ+α そして冒頭へ
俺の朝は早くから母親に叩き起こされて始まる。
「ほら、起きなさい。カウントダウン開始。10,9,8,7,6,5,4,3,2,1,ぜ…」
「うわあぁ!起きた、起きました!」
「残念時間切れ。今日はカーテンに決定♪」
「あああああ…」
朝一番から相変わらずの物質作戦に翻弄される俺。人生を儚みたいです、マジで。
一つ大欠伸をかまし頭をがしがしと掻きながらベッドを降りる。
「せっかくこんなに可愛く産んだのに…どうしてこんなにガサツなのかしら」
「…可愛く産まれたかどうかは知りませんが、少なくとも可愛くは育てられていませんから」
「だからこうして可愛くなるよう教育してるんじゃないの」
おふくろの目線を追って自分の体を見下ろすと、体を覆うねぐりじぇなる物体が目に入る。
…そうだった。昨日の攻防戦に敗退した結果、男物の寝巻きはその全てが失われてしまったのだ。
はぁ…今日も朝からブルーだ。
とりあえずトイレを済ませて部屋に戻る。
「…まだ外が暗いのですが」
「あんたがもっと手際良くなればちょっとの早起きで済むわよ?」
「結局早起きさせられるんですね…」
制服一式を手にお風呂場へ。洗い物篭に目が行く。
中に多少溜まっている。着ている物を脱いで一緒に洗濯機へ。まだ回さないけど。
シャワーを浴びながら風呂桶の水を抜き、洗剤をかけてタワシで擦り洗い流す。
一通り終わったら洗髪。
ついこの間までは洗髪を行う度に、ばっさり切ってショートカットにしたいと思っていたものだが。
今は長いままにしておいて良かったかな、とちょっと思わなくもなかったり。
べ、別にあいつに綺麗な髪だって誉められたからとかじゃないぞ!?
しかしシャンプーやトリートメントの消費量が半端なく増えた。勿体無いと思う俺は貧乏性かね。
洗髪が終わったら髪を纏めてタオルを巻いてから体を洗う。
最後に全身を洗い流してバスタオルで水分を取る。
母親曰くここで化粧水だかがどーの保湿液だかがこーのらしいが…化粧なんてしねぇんだから関係ない。
大体、一回無理やり母親にやられたら見事に負けたし。痛痒くて大変だった。
この体は皮膚まで軟弱らしい。全く困ったものだ。
下着を身に着け、制服を着込む。使用済みのバスタオルとタオルを洗濯機に追加してスイッチオン。
居間に行きテレビつけてをチャンネルをN○Kに。次に台所へ。エプロンを装着しながら釜を確認。
ご飯はある。冷蔵庫確認。シシャモを発見。換気扇を回しながら火にかける。
冷凍庫からはミートボールを取り出し電子レンジで解凍…そのまま加熱。
ニュースは聞き流すが天気予報には耳を傾ける。今日は晴れだそうな。干していっても大丈夫だな。
小さめの鍋に水を張りこれも火にかける。あぶらげ、豆腐を小さめに切る。
もう一回冷蔵庫の中身と相談。ごぼう、にんじん、じゃがいも辺りがある。豚コマもある。
…白菜辺りも入れちゃっていいかな?ちょっと色が悪くなりかけてるし、えぇい入れてしまえ。
ざくざく刻む。湯が沸くまでの間にボウルに卵を開けて、味付けは前に作ったオムレツと同じ。
フライパンに油を引いて流し込むまでは同じだけど今回はそのままぐりぐりと掻き回していり卵にする。
沸騰した鍋に肉、それからごぼう、後は順次鍋に投下。
昆布の粉末と塩もちょっと加えておこうかな。
最後にお玉に味噌を乗せて少しずつ溶かし込む。具全部に熱が通ったら小皿に一口移して味見。
ちょっと薄いかな?朝だからこれでいいか。
…豚汁と味噌汁のあいの子みたいな代物になったがちっちゃい事は気にすんな。
ししゃもも良い匂いをさせている。火を止めて茶碗にお椀、皿、湯呑みと箸を三人分準備。
汁物は弱火にしてまだ煮込む。昨晩の夕食の残りであるウィンナーと茹でたほうれん草を取り出し、
弁当箱も三つ展開。半分ちょっとにご飯を詰めて、
ほうれん草を搾って水分を抜き、特製酢味噌を絡めておかずスペースの隅に配置。
いり卵をその隣に配置。ミートボールとウインナーを挿し、ご飯にふりかけをぱらぱらと。
ちょっとスペースが余ってる。
きゅうりを手早く洗い、スライサーで薄切りにしたら塩で揉んで絞る。
ツナ缶を開け汁を捨てたらこれも絞って水分を飛ばしきゅうりと混ぜてマヨネーズを合えた物を詰め込む。
これで弁当が完成。蓋を閉じハンカチで手早く包む。
そろそろ親父が降りてくる時間だな。
ポットのお湯を湯呑みに入れて急須に茶葉をざらっと流し込む。
玄関に行き新聞を取り込んでテーブルの上に配置し、湯呑みのお湯を急須に移し変える。蓋をした所で、
「…おはよう」
「おはよう」
親父がのっそり現れる。そのまま食卓にどっかり座り込み、新聞を広げる。
お茶を注ぎ、親父の前に置いてやる。
「うむ」
何がうむだこんにゃろう。(心は)一人息子の俺にこんな事をさせておいて。
ありがとうの一言でも言ってみやがれってんだ…や、そんな親父想像出来ないからやっぱいいや。
おふくろもパリッとした格好で降りてきたので茶を渡してやる。
それからご飯と汁をよそい、ししゃもを皿に乗せて、
弁当に使った余りのミートボールやツナサラダ、ほうれん草などを添えてテーブルへ。
エプロンを外して俺も席に着けばいただきますと声を揃えて飯タイム。
流石にお喋りに興じる時間的余裕はなく、黙々と食う。
食い終わった食器は下げて水を張ったたらいに洗剤を垂らしその中に漬け込む。
洗濯が終了しているからベランダに干す。
…本当は別に気にしてはいないが、これみよがしに親父の下着を箸で摘んでやろうか、
とか思わなくもない今日この頃。鬱憤溜まってるねぇ我ながら。
干し終わったら戸を閉めて鍵も閉める。戸締り確認良し。
篭を元の位置に戻してしゃっこしゃっこと歯を磨き、台所へ戻って汚れた食器を洗う。
…部屋に戻るとおふくろが手薬煉引いて待ち構えていて。
かつて、真っ先に処分されたアレな本の代わりに設置された鏡台の前に座らされる。
一年近くもやってれば手馴れるのも当然だろう、さっさかブラシを通していく。
「女の子は支度に時間が掛かるものなのよ」
「…料理や洗濯までやらせるからでしょう?」
「あら、別にやらなくてもいいのよ?自分で出した条件でしょ」
「やらないといけない状況に追い込んだのはお母さんです」
「確かに頑張ってるわね。料理、洗濯、掃除はもう及第点よ」
「当然です。私がどれだけの努力を重ねていると思っていますか」
「その調子で自分を飾る事も努力しない?」
「しません」
意地になって自分の身に頓着しない俺に、せめてこれ位はしろとおふくろが髪を梳かす。
自分でやれと口では言うものの楽しんでいる節があり、この一年近く毎朝の恒例となっている。
「もう、そんな事じゃお嫁に行けないわよ?」
「行く訳ねぇだろが!…あっ」
ニヤリと邪悪に笑う母。
「さぁて、今回は下着かしらねぇ」
くっそ、嵌められた。
そもそも何故俺がこんな分の悪い勝負をしているかと言うと。
女になりたての頃、俺に女らしくなって欲しいらしいおふくろは俺の部屋を全面改修すると言い張った。
勿論、俺は冗談じゃないと全面否定。ただしこんな時、子供は立場が弱い。
このままでは俺が泣きを見る事になるのを見かねたのか親父がこの勝負の話を持ちかけた。
当然俺はそれも反対したのだが、親の強権発動で脅されてしまっては手も足も出せない。
家を飛び出そうにも変化したばかりの体では勝手が違い過ぎてとても一人で生きてはいけなかった。
そこで仕方なく、家事を手伝えば小遣い支給と、
没収された品々の将来的な買戻しを条件に、その勝負を受けたという訳だ。期限は高校卒業まで。
…現在までのところはご覧の通り負け越している。いっそ男物を全部捨てたら楽になれると思う事も…
いやいかん。それは悪魔の誘惑だ。この勝負には俺の男の矜持と意地が詰まってるんだ。
…男の矜持を守る為にやる事が家事全般って辺りで既に嵌められてる気もしてるけどな…
はっ…物思いに耽っていたらいつの間にかおふくろの手にリボンが。
おふくろは何故か俺の髪を弄り倒したがる。放っておくととんでもない髪型にされてしまう。
全く油断も隙もあったもんじゃない。
「ありがと、それじゃちょっと早いけど行って来ますね」
言いながら席を立つ。
「あぁん。今日はぽやっとしてるからいけると思ったのに」
悔しがるおふくろ…あぁ、危ない所だった。
俺は逃げ出すかの如き勢いでそそくさと家を後にして学校へ向かうのだった。
「…寝坊したのですか」
朝のHRと1時限目に現れないからどうしたのかと思ったらどうやらそういう事らしい。
「あぁ、ここんとこ調子が悪かったが、ついに力尽きたらしい」
何の事はない、目覚まし時計の話だ。
しかしこいつの家ではこいつが一番遅いので寝過ごすとリカバリーする手段がない。
「仕方ありませんね。ちょっと寄り道して差し上げます」
「お、マジか?助かる。ついでに飯も頼む」
「寝言は寝てから言って下さい」
むぅ、まさかこんなに早くチャンスが訪れるとは。
…実はここ一ヶ月近く、悩んでいた事がある。先月こいつが風邪で一週間休んだ時だ。
あの時の気持ちが一時の気の迷いだったのか、それとも俺自身も気付いていなかった本心の発露なのか。
ずっとそれを考え続けていた。
え、あの時の気持ちって何の事だって?
い、言わせるなよそんな事。恥ずかしいじゃねーか。
…そうだよ!キスしたいって思ったんだよ!ずっとそれで1ヶ月悩んだんだよ!
ついでに言うなら1ヶ月経っても治まってないんだよ!
今だってしたいと思っちまってるんだよ!何回かは夢にまで見ちまったんだよ悪いかよこんちくしょう!
あー…くそ、悪夢だ。二重の意味で。
で、いいかげん結論を出したのが五日前。
あのコンビの言う事をちょっと実践してみようかと思ったんだ。
…チャンスというのは、こいつの、目を覚ましてから実際に頭が働き始めるまでの結構な時間差の事だ。
一言で言うと、その隙を突いて唇を奪ってしまおうという計画…
うぅ…ほ、ほんとにやるのか、やれるのか俺…?
何か…いや、確実に変態の道を辿ってる気がするぞ俺。
引き返すなら、思い留まるなら今の内だぞ俺。
いや、据え膳食わぬは男の恥!虎穴に入らないと虎と戦えないし、蛇を出す為には藪を突付かないと…あれ?
何か違う…まぁいいか。
ともかく、そんな熱い決意を胸にこの日を過ごした。
つまりは授業なんて耳に入ってなかったって事だ。
そして翌日、寝ボスケ野郎を起こす為にちょっと寄道した俺。や、主目的はご存知の通り別にあるのだが。
べ、別にいつもより丹念に体を洗ったのは気合を入れる為であって他意はないぞ?
ちょっと髪や下着の辺りに香水を振ったのだって、男臭い部屋に入ったという痕跡を隠すためだぜ?
親父さんも妹も既に出た後。今この家にはベッドで平和に寝こける標的しか居ない。
体に乗った時にこいつが目を覚ましたのも予想通り。
寝返りをうたれたり、避けられたりして狙いを外さない様に両手と片足で抑え付けて。
焦点の合ってない目から視線を外さずに顔を近付けて…唇に視線を奪われた次の瞬間。
「な、何をしてるんだ」
…!なんでよりにもよって視線を外した瞬間に…なんで今日に限って動き出すのがこんなに早いんだ!
あぁ…頭が真っ白で、どうすればいいんだか…言い訳しないと…えっと、えっと…
あ、足に何か固い物が押し上げてくる感触…単なる生理現象?それとも、俺に、興奮、してる…?
気色悪いと思うより先に、何だか嬉しいような気になった。
それを意識した瞬間、なんか吹っ切れた。もういいや。いっちゃおう。
本当は今だって怖いんだ。拒否されたらって。でも、
『…だったら、受け入れさせればいい』『女を磨くのよ!』
やってやろうじゃないか。女とやらを磨く時間は殆ど取れなかったが。
1日30分でまだ5日しか練習してないから付け焼き刃というにも程があるが…
慣れなくても女言葉で、こいつに俺を女だと意識させて。
護ってくれてありがとう、と。
庇ってくれてありがとう、と。
感謝の気持ちを伝えながら、キスをしよう。
…そして唇が触れ合った直後我に返った俺は、恥ずかしさのあまり、
捨て台詞を吐いてその場を逃げ出す事しか出来なかった訳で…
二章 登校
オレの親友は女になってからどっかの菓子の様で見ていて面白い。一粒で二度美味しいって奴だ。
それが何故かは…今は置いておこう。
今はオレの数歩先をせかせか息を切らしながら歩いている。
「おい、待てって」
オレがちょっと歩調を早めると簡単に追い付く。
こいつ、ちっちゃくなったからなぁ…言うと傷付くだろうから言わないけど。
「急がないと、遅刻しちまうだろ」
頑なに顔を前に固定しつつそんな事を言っている。
「予鈴まで後15分、そしてガッコまであと5分あれば到着するんだが」
「おぉそーか。俺の時計が、ちょっと、時間ずれてるか。そりゃすまねぇ」
時間の確認もせずに棒読みで返してくる。
こいつは普段は人の顔を見て話すんだが、恥ずかしがってる時は目線を合わせようとしない癖がある。
原因は…朝のアレだろうなぁ…実はオレもちょっと対処に困っている。
何であんな事をしたのか問い詰めた方がいいのか、気にしていない素振りをした方がいいのか。
これが数ヶ月前の出来事だったなら悪質な嫌がらせだと断言出来た。
まぁ…男の意識のままで、男に性的な興味もないのにそんな事をすれば、自分も同じダメージを受ける。
そんな悪戯を好んでする奴でもない。
ただ、今は…どうだろう。ここ23ヶ月で、急に女らしくなった気がする。
や、日常生活で猫を被ってる部分の事じゃなくてだな。二度美味しい部分ではあるんだけど。
こいつが人前で被る猫は結構優秀だ。丁寧な口調、柔らかい物腰、控えめな微笑み、などなど。
男であったこいつが、自分が理想とする女性像を演じてるもんだから、実に女らしく見える。
始めた当初は不自然さもあったが、大分板に付いた。
…頭に血が上ると簡単に剥がれる化けの皮だけど。
ただオレが言いたいのはそういった部分じゃなくて、他人の目がなくて演技する必要のない情況での事だ。
裏道を使っていて人目の無い今もそうだが、大股ででけでけ歩いて、口調もぶっきらぼう。
…あれ?どうして女らしくなったと思ったんだオレ。全然そんな事ないんじゃないか?
ともあれ、そう、今朝の話だ。多分、殴られてからキスをされた。目を瞑っていたから多分、だけど。
殴られたのはまあ、いい。当人が言っていた様に鬱憤が溜まっていたのだろう。
問題はその後の仮定キスだ。どういうつもりだったんだろう。
そういえば、その後に馬鹿だの言われたよな。やっぱりからかわれたのか?
しかし礼の言葉も言っていた気がする。と、すると…?うーん。わからん!
結局こいつはオレにどうして欲しいんだろう?
オレはこいつにどう接したらいいんだ?
少なくとも去年こいつが女になった時点から暫くは、こいつ自身は女になった自分を認めていなかった。
今も認めきったとは言い難い。にも関わらず周囲はそれを許さない状況だった。
だからせめて、最も親しいと自負していたオレぐらいは、こいつが望む元の関係を維持しようと思った。
…今朝になるまでそれが上手くいってはいなかった事に気付かなかった訳だが。
自分が鋭いとは確かに思ってなかったがここまで鈍かったとは。とほほ。
ついでに言うなら、かなりの美少女になっちまってて、雄の本能が刺激される事だって無い訳じゃない。
とゆーよりかなり頻繁に…イヤイヤ。ソンナコトハナイデスヨ。
まぁ、お子様体形なのが難点ではあるんだがね。妹と大差なかったりする。
そこがまた可愛らしく見えたりするから余計に問題…
いやいや、これじゃなんか俺ロリコンかつシスコンみたいじゃねーか。
恋愛対象は同年代が良いに決まってる。は、こいつ同年代。駄目だ考えちゃ駄目だ。
だってしょーがないじゃん!オレだって健全な高校生なんだぜ!?
ついでに言うと妄想が炸裂しやすいチェリーボーイなんだよ!
ほんのちょっとの刺激でマイジュニアがスタンバったりするんだよ悪いかよこんちくしょーい!
…げふんげふん、落ち着けオレ。
偽りの平穏は終わったんだ。お互い、気付いていながら気付かない振りをしてきた。
今オレとこいつは多分、境界線の上に立っている。今ここでオレが取る態度が、オレ達の未来を決める。
何の根拠も無いが、そう思った。
よし、真面目に話をしよう。そう決心し、相変わらずせかせか歩いているこいつの肩を叩く。
互いの足が止まる。振り向かないのはわかっているから少し力を入れてこちらを向かせる。
ぐにっ
…しまった。人差指が勝手に立ってた。いや、笑いを取れと叫ぶオレの中の芸人魂がだな…
先祖にも親戚縁者にも芸人は居ないけど。いや今はそんな事を気にしてる場合じゃなくて。
しかし柔らかいなこいつのほっぺ。手触りもいい。ついそのまま撫ですさりたく…でもなくて!
あああ…ジト目で睨まれてますよ?なんでこうなったんだ。
しかし逆の見方をすればやっとオレと目を合わせたって事でもある。
「なぁ、聞けよ」
「あんだよ」
「今朝のアレはどういう意味だ?お前は、どうなりたい?そしてオレにどうして欲しい?」
「…シリアスな顔と声で喋る前に、指を離せ」
「おぉ」
ははは、指動かしてなかったからそのまま食い込ませてたや。慌てて肩から手を離す。
「全く、仕方の無い奴だな」
「シリアスは1分しか保てないから切り替えが必要なのさ」
一つ、溜息を吐いて肩の力を抜く。その顔には苦笑が浮かんでいる。
「あの時言ったろ?朝のは感謝の気持ちだ。気色悪いってんならもうしないから安心しろ。
次は何だっけ。俺がどうなりたいか、か。俺は、自分がどうなりたいか、自分でもまだわかっていない。
そしてお前に望む事は…」
言い淀む。困った顔になったかと思ったらみるみる頬が赤くなっていく。
「別に気色悪いとは思わなかったが…途中で止めるなよ。気になるから」
「…」
「聞こえないぞ」
「…お前の、隣に、居たいんだよ!俺の隣に居て欲しいんだよ!」
「居るじゃないか、今までも、今も」
「そうじゃない!俺は!お前と対等でありたいんだ!」
…あぁ、そういう事か。二ヶ月前に公園で級友達から貰った忠告を思い出す。
『あのコ、このままじゃあんたの隣に居られないってさ』
『…理由を、必要としてる』
『オレは別にそんな事気にしてねぇぞ』
『それはあんたの問題じゃなくて、あのコ自身の問題。あんたの問題は…』
『…あなたがこのままの態度だと、遠からず彼女はあなたから離れていく』
『どうしてだ?』
『あのコは、今の自分を認めていない』
『…だから、あなたが認めなきゃいけない。今の彼女を』
『意味わかんねぇよ…』
『今はわかんなくてもいいけど、時間はあんまり無いよ?』
『…あなた達の漫才は見てて楽しいから、がんばって』
…最後の台詞がちょっと何か引っ掛かるがそれは置いておこう。
言われた時は意味がわからなかったが、今のこいつの台詞で何となく理解できた。
こいつの心情自体はわからない。しかしそれはしょうがない。
同じ経験でもしない限りは理解できはしないだろう。
けど、まぁ…なんてーか、こんなんなっても真面目っつーか律儀っつーか。
そこが気に入ってる部分でもあるんだが。
口は悪いがお人好しだし、ウチの妹の事を、
『甲斐甲斐しくて可愛らしい理想の妹』
なんて評しているが、女になったこいつはそれ以上だと思う…怒るから言わないけど。
しかしこいつはわかってないなぁ。
「あのなぁ…好き勝手な事を言いやがってくれてるが、今やっと対等なんだぞオレら」
「…は?」
「確かに運動だの喧嘩だのはガタイとタッパの差でオレがやや有利だったけどな。
それ以外の全部で負けてたんだよオレは。成績だって女子の人気度だってな」
そう、特に成績関連は絶望的なまでの差が開いてた。
こいつは特に勉強している訳でもないのに常に上の中から下はキープしている。
対するオレはというと下の中から上って所だ。
課題やら試験勉強やらでどれほど助けられた事か。
そしてルックスに関しても、いかにも漢!という風貌のオレと比べると、
所謂美少年顔で、女子の人気度も天地の差があった。
…自分で挙げておいてなんだが、劣等感刺激されまくりだ…何で親友やってんだろオレ。
まぁ、それは既に過ぎ去った過去だ。気にしても仕方ない。
「成績なんてお互い気にもしてなかったじゃないか。
女子の人気度とやらだってお前が気付いてなかっただけだ」
「はぁ?それこそオレがモテる筈ないだろ!?」
「ほんっとに、鈍いよな…」
ちょ、そこで溜息付くなよ。感じ悪ぃぞ。
「今となっちゃ人気度なんてどうでもいいんだよ!」
「自分で言い出した癖に」
「成績の事も言ったろうが!こちとら勉強助けてもらってるから赤点免れてんだよ!」
何で自分の欠点を力説せにゃならんのだ。悲しすぎるぞ…
「そんなので、いいのか…?」
俯いて考え込むような素振りを見せる。少し、機嫌が直ってきた様だ。
「…お前、本当に肉体面しか考えてなかったのか…頭良いくせに馬鹿だよな」
思わずその頭に手を乗せてわしわしと撫でる。
少しくすぐったそうにしてから、オレを睨み、手を払いのけようとして…
「…背、伸びてる?」
なんて訊いてきた。しまった。最近は背筋を曲げて誤魔化してたんだが気が緩んでたか。
「お、お前も少し伸びたんじゃないか?」
とりあえず手を離しながら話を逸らしてみる。ついでに徐々に背筋を丸めていく。
「おぅ!この一年で6mm伸びたから140.2になったぜ!」
嬉しそうに胸を張って報告する。オレはかつてのこいつを思い、内心で同情の涙を流す。
3年前はどちらかといえばチビに分類される背丈だったのが、一昨年からめきめき伸び出して。
去年、女になる前169ちょっとで、170に乗るのを心待ちにしていたんだよな確か。
そんで、このペースなら180だって夢じゃないと意気込んでたっけ…
「…で、お前はどうなのさ?」
くっ…誤魔化せなかったか。一足早く成長期に突入したオレは、
こいつが女になった頃大体175で、一年経った今は6cm伸びて181なんだが…
言えない。それが言える雰囲気じゃない。正直に言ったらまた機嫌が悪くなる事請け合いだ。
しかし、伸びてないなんてあからさまな嘘も言えない。
「あ、あー…大体4cm伸びて179かな、今」
かつてのこいつの最終目標値より低く答える、そんな妥協点しか見出せなかった。すまん友よ。
「そ、そうかぁ…それならすぐに180だな。羨ましいぞこの野郎」
確実に引きつっていたが、一応笑顔と呼べる表情でオレを見上げる。何とかセーフ…か?
なんて考えた時、ちょっと風が舞い上がった。
無意識だろうが、咄嗟にスカートを抑えた後、少し乱れた髪を手櫛で軽く整える様子を見て、
こういう何気ない仕草が女らしくなったのかと改めて思う。
「折角起こして貰ったのに遅刻したら馬鹿馬鹿しいし、そろそろ行こうぜ」
「ん、あぁ…そうだな」
そうしてオレ達は歩き出した。
朝の件は微妙に有耶無耶なままな気もするが…
当人もどうしたいのかはっきりしてないんじゃしゃーないわな。
やれやれ、運命の悪戯って奴に翻弄されてる気もするが、これも青い春って奴なのかね?
放課後
「ね、また遊びに行ってもいい?」
「出来れば来て欲しくありません」
「…けち」
「そもそも、貴女達が私の母に余計な事を言うからです。また部屋と服が…はぁ」
「ああぁ、悪かったってば。知らなかったんだもん、しょうがないじゃない」
「先週の事はもう過ぎた事だから構いません。けれど…母と意気投合していましたね?」
「…おばさま、とても話がわかるから」
「帰り際のお喋りの内容はしっかり覚えていますよ。
『うちの娘が学校で男っぽく振舞ったら包み隠さず教えてね?』『まぁかせて!』でしたね」
「あ、あはは…だってあの時のおばさん、すごいプレッシャーを放つんだもん」
「…蛇に睨まれた蛙の気分」
うそこけ。すげぇイイ笑顔でサムズアップしてたじゃねーか二人揃って。
「おかげで学校でも気を抜けなくなってしまったではないですか」
嘆息しつつ愚痴をこぼす。最近愚痴っぽくなった気がする…男らしくないから嫌なんだが。
「いいじゃない。だから認められたんでしょ?聞いたよ。とっくに解禁してるって」
なんの事かって?女子更衣室と女子トイレだよ。
体が女になったからって元男には入って欲しくない場所だろう。
かと言って男子と共に、という訳にはもっといかない。流石に俺も遠慮したい。
そういう訳で用足しも着替えも職員用のトイレ…不本意ながら女性用で行っている。
それがこの前、正式に使用許可が出た訳だ。何でも今の俺なら問題ないとの事らしい。
学校モードを続けた甲斐があったと言うべきかも知れん、が。
…問題、大有りだ。
「認めて頂いてもあまり嬉しくないと申しますか…そもそも私が入りたくないんです」
そう、俺は未だに職員用を使っている。実際遠いし不便なんだが…
や、好奇心が無い訳じゃないぞ?でも何かこう…入ったら負けを認める様で嫌なんだ。
体育の授業で女子組に入れられてるだけでも屈辱だというのに。
しかもその成績が下から数えた方が圧倒的に早いという状況が俺に追い討ちをかける。
男だった頃は体力自慢だったから尚更だ。
反射神経だの敏捷性だのは男の頃と比べてもそう変わらないんだが、
筋力や持久力がとことん無くなっちまってて動かし続けられないんだ。
少し気合を入れて無理矢理酷使すると筋肉痛どころか痙攣起こすし。
それを繰り返して鍛えようにも熱を出して寝込むし…やっぱこの体、碌なモンじゃねぇ。
「えー?このあたしのダイナマイツボデェに興味ない訳ぇ?」
暗い気持ちになってる俺に気付きもしないで能天気な台詞を吐く佐藤。
「…確かに、ダイナマイトみたいにメリハリがなくて上から下まで一直線」
「意味が違ぁう!!そこまで一直線じゃないし!
そりゃあんたみたいに胸に二つ手榴弾抱えちゃいないけどさぁ!」
「…うふ」
不覚にも俺もちょっと笑ってしまった。
こいつら、俺とあいつの事を漫才師呼ばわりするが、当人達も充分その素養があると思うぞ。
それともひょっとして、暗くなった俺に気付いてわざと明るくしてくれてるのか?
まだこいつらが掴み切れない。悪い奴らではない…
ってか、傍に居て楽しい奴らではある。たまに鬱陶しいが。
まぁ、そもそも嫌いなタイプだったら、家に来てみたいと言われても突っぱねてるわな。
女子を家に上げるのはこっ恥ずかしかったが…
その理由が『勉強教えて』だったから、あいつとなら普段やってる事だし、
部屋に上げずに応接間で片付くだろうし、相談に乗ってもらったりもしてるからいいか…
ってな感じで軽く請け負ったのさ。
まさか仕事から早く帰って来たおふくろと意気投合した挙句、例えば公園の時の様に、
学校モードを維持し切れなかった時の事をばらされるなんて思いもしなくてな。
俺もその辺りの事を言ってなかったし、責めるのがお門違いだって事はわかってるさ。
納得はしてないけどな。特にさっきもちょっと言ったが別れ際の挨拶に。
…と、そんな事が先週あって、遊びに来たいと言われて難色を示してる訳だ。
結局、特に用事もないし依怙地になって嫌と言う程でもないから押し切られて遊びに来る事を認める。
…出る前に小用を足しておこう。
「ちょっと席を外しますね」
「ん、あたし達も付き合おうか?」
「来ないで下さい」
「えぇ、いいじゃない。慣れも必要よぅ?」
「…これは抑えておくから、いってらっしゃい」
「お願いします。行ってきますね」
「これ扱いするなぁ!…行ってらっしゃい」
席を立ち、職員室の方向へ向かいながら、何故あの二人を好ましいと思えるか理解出来た気がした。
こちらの、妥協できる点と出来ない点の見極めが上手いのだ。
気が乗らない程度であれば強引に押し切ってくるが、心底嫌な時はあっさり引いてくれる。
だから不快にならない。女ってのは皆ああなのか?だとすると恐るべき存在なのかも知れない。
俺には同じ真似はとても出来そうにない。
等と考えながら1階の職員用トイレに入ろうとすると、荷物の山を抱えた日本史教師に呼び止められた。
「あぁ、後でいいんだがちょっと手を貸してくれないか」
「力仕事でなければお手伝いしますよ」
「お前にそんな事は頼まんよ。4階の視聴覚室からこれと同じ位の荷物をあと一回持ってこなきゃならないんだが、
見ての通り手が塞がるんで鍵だけ掛けて欲しいんだ。一旦降ろすのも後二往復するのも面倒でな」
「わかりました」
「鍵は俺の机の上に置いとくから、頼んだぞ」
「はい」
やれやれ仕方ない。用を足してから言われた通り鍵を持って階段を登る。
職員室は一階の端、そして視聴覚室は四階の反対側の端、つまり最も遠い。
教師が嫌がるのも無理はない…だからと言って通りすがりの生徒を巻き込むなよという気はするが。
廊下をてけてけ渡って視聴覚室へ。荷物を抱えて慎重に階段を降りている教師の背中が目の端に過ぎる。
念の為中を覗き人が居ないか忘れ物がなさそうか確認してから鍵を掛ける。
荷物を抱えてる横を手ぶらで歩くのも気が引けるがかといって手伝える体力もない。
違うコースを行くのが無難だと結論付け、再び廊下を歩く。
階段に差し掛かった時、上…屋上へと向かう数名の背中が一瞬見えた。
耳を澄ますと、小声で脅しつける様な声。喧嘩というよりこれは…
足音を忍ばせて登る。鉄製のドアが軋む音。風が流れ込んでくる。屋上に出られると面倒だな。
「何をしてる?」
屋上へ出ようとしていた3人が振り返る。
ある意味馴染みのある二人と、それに挟まれておどおどしている一人の生徒。
…やっぱり性懲りも無くカツアゲか。飽きないなこの二人も。
こいつらは見た目は一般的な生徒…というにはちょいとばかり眼つきが悪いが、性格は判り易い小悪党だ。
こういった現場に何度か居合わせてかちあった事がある。
「おやおや、今日はお姫様お一人かい?」
一瞬顔を引きつらせた後で強気な台詞を吐く。
「黙れ脇役A」
「誰が脇役Aだコラァ!」
「別に雑魚Aでもやられ役Aでもいいぞ?人の事をお姫様だとか抜かす奴にはそれで充分だ」
「そのナリでやる気か?ナイト様が居ないってのに随分と強気じゃねーか。
…殴られた恨みもあるこったしなぁ?今ここで晴らしてやろうか」
「喧嘩なんだから殴って殴られては当たり前だろうが。一方的にタコ殴りにした訳でもねーし」
「いいや!累計でてめぇのが27発多く殴ってる!忘れてねぇぞ!」
「…すげぇ記憶力だな。それを勉強に使えば学年トップ狙えるんじゃないか?」
まだ階段を挟んでいるから一触即発とまではいかないが…つい飛び込んでしまった。さてどうしよう。
物心ついてから10年以上培った性格は一年程度じゃ変えられないんだよ。変える気もないし。
思い返せばこの体になってからこの手の現場に居合わせた時って、常に隣にあいつが居たんだよな。
あー…何も考えずに飛び込んでいっても何とかなったあの頃が懐かしい。
…ちなみに噂のあいつは現在絶賛補習中だ。
付き合ってやろうかと思っていたんだが、その前にあのコンビに捕まったのでこういう事態になっている。
「チャンスだ。やっちまうか?」
「そうだな。積年の恨みを晴らすいい機会だ」
気弱そうなのを放り出し、俺に向かって階段を降り始める二人。
嬉しそうというにはちょっと下劣な笑顔が浮かんでいる。何か鳥肌が立っちまったぞ。
しかし改めて考えると、パワーもスタミナもなければリーチもない。
とてもじゃないが喧嘩に向いてるとは言えない体になっちまったんだなぁ…
喧嘩横取りすんなって怒った俺が馬鹿みたい…とゆーより馬鹿だな、うん。orzな気分だ。
まぁ、なっちまったもんは仕方がない。なったなりの手段で対処するまでだ。
まだ距離がある内に、二人に掌を向けながら言う。
「さて、俺も大人になって丸くなったからいきなり殴りかかったりはしない…が、
例えばここで大声を上げたらどうなると思う?放課後で人は少ないが、居ないって訳でもない」
忌々しそうな表情を浮かべて立ち止まる二人。
「プラス、走り出したりすれば倍率も更にアップするよな?」
不敵に笑ってみせる。ちなみにはったりだ。少なくとも4階を横断した時には人っ子一人見かけなかった。
ついでに言うと、俺に本当にその手段が取れるかどうか自信はない。男の意地が邪魔をする。
…睨み合いが続く。脇役Bが鼻で笑う音で膠着が破れた。
「はっ…憐れなもんだな」
「なん…だと…!?」
「かつては問答無用で殴りかかって来てた熱血野郎が、
今や真っ先に取るのが他人を当てにする手段なんだからな」
「そうそう、いつもべったり引っ付いてるあいつの名前でも叫んでみたらどうだ?」
安い挑発だ…が、問題なのは今の俺には良く効くという事だろう。何とか堪える。
「どうせ股おっ広げて繋ぎとめてんだろ?」
ただの中傷だ。そんな事実はない。
「元は男同士だったってのによくやるわな」
…しかし、一ヶ月悩んだ挙句、今朝実行に移した行為はなんだった?
男同士であれば極一部の例外な人達しかしない行為ではなかったか?
いや、あれは女としてあいつの隣に在る為の準備…というか予行演習の意味合いが強かった。
なら俺は女なのか?女になれるのか?女になりたいのか?
確かに、あいつの唇を奪った時は女になってもいいと思った。
なら、今ここで女らしい解決方法を使う事に躊躇いを覚えるのは何故だ?
わからない…が、一つ確かなのは、現状で自らの考えに没頭して気を逸らすべきではなかったという事だ。
階段の半ばから一気に飛び降りた脇役Bに対する反応が遅れた。
気が付くと目の前にたたらを踏んでいる男の体があった。着地に失敗したらしい。
あるいは最初からそれが狙いか、見事に俺を押し倒す形で転倒してくれやがった。
内臓が丸ごと引っ繰り返ったかの様な衝撃と、床に打ち付けられた背中の痛み。
立ち直った時には、所謂マウントポジションを取られていた。
こうなってはなりふりなぞ構ってはいられない。大声を出そうと息を吸い込んだ所で、視界がぶれた。
次いで、頬に灼熱感を伴う痛み。正面を向いていた筈が、横倒しになった壁や階段が見える。
叫ぼうとした喉はそのまま空気を吐き出すに留まり、溜息の様な掠れた呻き声にしかならなかった。
頬を張られたのだと気付き、下卑た笑いを浮かべる顔がある正面に向き直り睨み付ける。
今度は反対側の頬を張られそうになる。腕を上げて防御する。押さえ切れずに逆向きに視界がぶれる。
少し切れたらしい。血の味がする。しかしそんな事は気にしていられない。
背中を蹴りつけるがびくともしない。もう一人が俺の両手を掴み、押さえ付ける。
口を覆う様に頬を捕まれる。ぎりぎりと力が籠められる。その掌に力いっぱい噛み付く。
ぶつっと皮膚を貫通する感触と血が口の中に流れ込む感触。
「つぅっ…このぉ!」
もう片手が俺の首にかかり、締め上げる。呼吸が出来ない。こめかみが破裂しそうな圧迫感。
視界が徐々に黒ずんでいく。苦しさと、痛みが…遠ざかっ…て…い、しき、が…
「くそ、痛ぇ…とりあえず屋上へ運ぶぞ」
という声と、両肩と両膝を抱えられ持ち上げられる感触。
「軽いな…」
気を失ったのは多分一瞬だけで、全ての感覚は正常だ。
「はっ、ざまぁねぇよ」
ただ、寝惚けている時と同じで、外界からの刺激に頭が反応しない。
「なぁ、どうするんだ、ヤるのか?」
屋上へ連れ出された。そこから物影へと運ばれる。
「まさか。こんな発育の悪い元男なんてごめんだ。ただ二度とおれ達に逆らえない様にするだけさ」
床に降ろされる。ネクタイで後ろ手に縛られる。
胸のリボンを毟り取られ、口の中に押し込まれる。
もう一本のネクタイで猿轡をされる。
上着をたくし上げられ、白無地のスポーツブラを露出させられる。
「はっ…色気のねぇ。わざわざ覆わにゃならん程大層な代物でもねぇからお似合いかも知れねぇが」
そして下半身を無骨な手が這い回る感触。
スカートをめくり上げられ、ブラと揃いの白無地のショーツを露にされる。
その下着に手が掛かった時、我に返った。
「ん、むぅうっ!!」
目の端にBが携帯のカメラを準備しようとしている姿が映る。
撮らせる訳にはいかない。腕が自由にならない分、足を振り回して抵抗する。
腰の位置に居たAの顔面に膝が命中する。
「ぺあっ…このぉっ!」
鼻っ柱に当てたらしい。鼻血が一筋、口を伝って落ちた。ざまぁみやがれ。
しかし逆上させてしまったらしい。拳を固めて振り上げ、全力で振り下ろしにかかる。
下はコンクリート。今の俺がこれを食らったらただでは済まないだろう。
縛られ痛めつけられたこの体では避けようがない。
思わず目を瞑り顔を背ける。次の瞬間、ぐしゃっという音が響いた。
…しかし、どこも痛くない。
恐る恐る目を開けると、そこに見えたのは倒れ伏し痙攣しているAと、
親友であるところのあいつが仁王立ちしている姿だった。
普段はすっとぼけた面をしているあいつの顔が、今は正に鬼と呼ぶに相応しい形相をしている。
あいつが脇役Bに飛び掛り、嵐の様に殴り蹴る。Bも反撃しようとしているが、気合いが違い過ぎる。
その間に佐藤・鈴木コンビが駆け寄って…あ、痙攣しているAを蹴りつけ、踏みつけてから来る。
「ちょっと、無事!?」
俺はとりあえず頷く。
佐藤が口を縛るネクタイを解いてくれている間に、鈴木が服装を直してくれる。
「むぐぁ…ぺっ」
あーあ、リボンが血混じりの唾液でべたべただ…落ちるかな、これ。
「…こんな、事まで」
鈴木の声が僅かに震えている。
「ほんっと、女の子の体を何だと思ってるのよこいつら!?」
佐藤も声を荒げる。
「…口、開いて見せて」
鈴木が顎にそっと触れる。これには別に抵抗する必要がないので言われるままにする。
「…頬の内側と舌がちょっと切れてる。首が赤い。後で痣になりそう。あと、腫れるかも」
佐藤も頭をぺたぺたと触っている。後頭部の辺りでぴりっとした痛みを感じる。
「痛い所は?あ、ここにたんこぶがあるねぇ」
「それはいいから早く手を解いてくれ」
「…駄目、怪我の把握が先」
「あいつらに変な事されなかった?唇は無事?胸は?アソコは?」
その勢いに押される様にかっくかっくと頷く。
「だ、大丈夫だから…」
ふと目の端に映ったあいつら、Bはぼろ雑巾の様な有様になっていてぴくりとも動いていない。
我が親友は標的をAに変えてぼろ雑巾の製作に余念がない。
「…いや、いくら何でもやり過ぎだろう。あれは」
「「「そんな事はない!!!」」」
三人が同時に叫ぶ。あまりの迫力に俺は二の句が継げなくなった。
「そ、そうか…」
しかしこいつらの暴走はここでストップする事になった。
「お前達、何をやってるんだ!?」
数学の教師と日本史の教師が現れたからだ。
佐藤が、教師達の目の前でこれみよがしに俺を縛るネクタイを解いた。さらには、
「もうだいじょうぶだからね!」
妙に張り切った大声で、でも微妙に棒読みで、そんな台詞をのたまった。
「…そう、あなたをおそったわるいやつらは、かれがやっつけてくれたよ」
倒れ伏しているBの傍らに屈み込んで何かしていた鈴木も続ける。
漫才師の才能はあっても役者の才能は無いかもしれないなお前達…
教師達はぼろ雑巾二つを抱えて保健室に向かい、俺以外は視聴覚室で事情聴取される事になった。
俺はというと保健室に連行された。
発見時の状況から、保健室で一緒にならない様配慮してくれたらしい。
俺自身、大丈夫だから一人で行くと言ったんだが…
佐藤鈴木コンビがついて来ると強硬に主張したので根負けして任せる。
あいつも付いて来るつもりだったらしいが。
「「男子禁制!」」
という二人に止められ、何故か大して食い下がりもせずに大人しく視聴覚室で不貞腐れている。
俺はといえば多少はふらつくが、支えが必要な程でもない。
なのに二人揃って人の事をまるで重病人か何かの様に扱う。
「そんなに心配しなくても大丈夫だって」
「あんたねぇ…」
「…見て」
手鏡を向けられたので何気なく覗き込んで、言葉を失った。目を疑い、鏡を疑い、正気を疑った。
俺自身、そんな顔…表情をしているなんて欠片も思っていなかったし、しているつもりもなかったのに。
鏡に映っていたのは、まるで今にも泣き出しそうな、迷子の子供の様な、青ざめた不安げなオンナの顔。
…本当にこれが俺なのか?何かの間違いだろう?
それ以上見たくなくて、顔を背けながら手で鏡を押し返す。畜生、何だか目頭が熱くなってきやがった。
今の自分が情けなさすぎて嫌になる。
保健室の前に来たからとりあえず両手で頬をぱんぱん叩いて気合を入れ…
ぐあ、そういや口の中切れてたんだった、痛ぇ。
…先に担ぎ込まれた二人はそのまま病院に搬送された様だ。
「それじゃ、あなた達はここまで。後は先生に任せて視聴覚室へ行ってらっしゃい」
ぶーぶー文句を言う二人を締め出す養護教諭。
「…出来れば後で視聴覚室に来て。確認したい事がある」
離れ際、鈴木が囁く。頷いて別れる。
怪我の状態を確認するとかで服をまくって見せろとか言われたから正直助かる所ではある。
本音を言うなら養護教諭にだって見せたくはないんだが。
引き離されたのだから、根掘り葉掘り訊ねられるかと思って黙っていた。
負けた喧嘩の話なんてしたくないし。
しかし養護教諭は腹や胸、背中と触診しながら俺を気遣う台詞しか言ってこない。
「首の痣だけじゃなく背中にもちょっと打ち身が出来てるわね…本当に大丈夫?」
会う奴全員揃ってこう心配されると、こっちの気分まで滅入ってきそうだ。
「病院に行った二人と、彼は、どうなるのですか?」
だからとりあえずこちらから話題を振ってみる。
さっきの今で処分が決定する筈もないだろうから、気を逸らす為の口実みたいなものだ。
「そうね。二人の正式な決定は先になるでしょうけど…停学は多分確実、重ければ退学かもね。
どの道入院で暫く学校には来れないわね。ただ…」
脱脂綿に消毒液を染ませて咥えさせられる。
傷口を痛みが突き抜け、えもいえぬ苦味が口の中に広がる。
「?」
痛みを堪えて首を傾げてみせる。一瞬で舌が痺れてしまって上手く喋る自信がない。
「あなたを助けた彼も、そうなるかも知れない」
「!?」
驚きと恐怖、そして怒り。俺のそんな顔から言いたい事を正確に読み取って続ける。
「ここで治療し切れない様な怪我を負わせてしまったのは、やりすぎだからよ」
教師の一員として私情を交えないようにだろう。無感情に言い放つ。
正直、俺自身もちょっとそう思ったから分からなくもない話ではあるが。
それで納得出来るかと言われればそんな筈はない。理性が一瞬で沸騰した。
咥えていた脱脂綿をゴミ箱に捨てる。
たんこぶや背中に薬を塗りながら、
「ご両親が迎えに来るまでベッドで休んでいなさい」
と言う養護教諭を振り切って保健室を飛び出す。
「待ちなさい!」
後ろで制止する声が聞こえるが無視…
「せめて服を正してから行きなさい!」
…できなかった。見下ろせば制服をまくり上げたままだった。
その状態で引っ掛かる程立派じゃないから、
手を離した時点である程度は下りているが腹の辺りは剥き出しだったり…
ちょっと赤面しつつ階段を駆け上がりながら直していざ視聴覚室へ。
扉の前に立った時、強い調子の声が聞こえてきた。数学教師だ。
「だから!そういう時は我々教師に報告するなり、
暴力に訴える以外の、他の手段があっただろうと言ってるんだ!」
「だから!そんな時間的余裕は無かったって言ってるでしょう!?」
「警察まで呼ぶ羽目になったんだぞ!少しは反省したらどうなんだ!?」
「悪い事をしたとは思ってませんから。反省なんてしませんよ!」
あー、煮えてるなぁ…ここに俺が乱入したら火に油を注ぎかねん、が…しない訳にもいかないか。
感情的になるとそれだけ不利になるって事にまでは気が回ってない。
…その点はあまり人の事は言えないけどな。
「失礼致します」
がらっと扉を引いて視聴覚室に入る。
まず目に付くのが唾を飛ばしあっている数学教師とあいつの姿。
脇に立ち仲裁しようとしている日本史教師と警官。
病院まで連れて行かなきゃならんような騒ぎになった以上、警察が出張ってもおかしくはない。
…本来事情を聞くべき立場の警官が仲裁してるってのもおかしな話だが。
そしてやや離れた位置にいる鈴木佐藤コンビと…
気弱そうな一人の男子生徒。あの二人に絡まれてた奴だ。
「何しに来た!保健室で休んでいろと言われてるだろう!?」
やっぱり数学教師の矛先がこっちに向いたか。まぁ狙ったんだけどな。
「当事者として立会いを希望します」
「お前からは後日改めて話を聞く!今は別の話の最中だ!」
「あの二人から話が聞けない状況であるなら、
最初から最後まで事の次第を通して話せるのは私だけです」
「言いたい事はわかるが、お前一人から先に話を聞くのは公平さに欠ける」
日本史教師が諭す様に言う。こちらは冷静だ。
今回の敗北で一つ学んだ事は、どんな手段であれ躊躇うな、という事だ。
俺の下らない意地が今回の騒動の原因だ。
あいつ等に何を言われようと気になどせず素早く人を呼びに行っていれば、
ここまで話が大きくなる事はなかった。
女である自分を最大限、利用する。
悔しくないと言えば嘘になるが、もっと大事なものを守る為だ。
「分担して聞いて頂ければ問題はないかと存じます。
私としてもあまり男性教諭に話したい内容ではありません」
「元男の癖に、何を女々しい事を…!」
「先生。その言葉を最後まで言うつもりですか?」
遮ったのは佐藤だ。数学教師の台詞はTS病患者の人権問題に関わる禁句とされている。
一般的にこれを遵守する奴は少ないし、陰口や悪口として普通に使われる。
しかし勿論、公式の場や事件に関わる聴取でこの手の台詞を教師が使った事が公になれば…
辞職や免職に追い込む程度の大事に出来る。俺は勿論そこまでするつもりはないし、
佐藤もそれを汲んでくれた上で、数学教師の口を封じる為に敢えて口にしただけだ。
素早くアイコンタクトで感謝を伝える。警官が口を開く。
「わかりました。先生、どなたか女性の先生に来て頂く事は出来ますか?」
「はい。お待ち下さい」
出て行く日本史教師を見送って忌々しそうに舌打ちをし、
これみよがしな貧乏揺すりを行う数学教師。
あいつが目で大丈夫かと問いかけているから軽く頷いて答える。少しだけ安心した様子だ。
目の端で鈴木が手招きしている。傍に拠ると耳打ちしてくる。
「…丁度良かった。これを見て。男には見せたくないだろうけど。
女教師になら見せてもいいと言うなら切り札になる」
そしてこっそりと差し出される携帯の画面。黒くてごつい、不似合いな男物…なるほど。Bのか。
そこにはかなりブレているものの、縛られ猿轡を噛まされ、下着を露出させられている俺の写真。
「…具体的な暴行の証拠だから、例え向こうの親が彼を起訴すると息巻いても、
こちらも起訴すると言えば確実に勝てる。だからそれを交換条件として不問にする事は可能。
けどこの札は、切るとそれなりの数になるだろう関係者が見る事になりうる。
極力抑える方向にはなるだろうけど、長い目で見るとリスクはそれなりに高い」
「どう使えばいいと思う?」
「…信頼出来る教師に預けるのが良いと思う。
このまま持っていると盗んだと言いがかりをつけられる可能性があるから」
「なるほどな…現場で拾って持ち主を確認しようとしたら、
この写真があったんで教師に渡した…ってな所か?」
「…そう。察しが良くて結構。
…今は非常事態だし、おばさまには内緒にしてあげる。くす」
はっ…男言葉だったか。やべぇ、そこまで気を回してられなかった。
そんな会話をしていたら日本史教師が養護教諭を連れて戻って来た。
早いと思ったら他でもない、逃げ出した俺の様子を見に来る途中でバッティングしたらしい。
連れ戻されるのかと警戒していたら、苦笑しつつ肩を竦めてみせる。
「どうせ私が大人しく寝ていなさいって言っても聞かないでしょう?」
「…すみません」
譲れない部分だけに謝るしかない。
「で、改めて聞くけど…何があったの?」
俺が関わっていない部分をここでやっと聞く事が出来た。
助けに来るタイミングが良かったのが不思議ではあったんだ。
その一番の立役者は気弱そうなのだったというから驚きだ。
斉藤…いつまでも『気弱そうなの』は哀れだから苗字で呼ぶ事にする…は、
ターゲットが俺に向いた瞬間から屋上に飛び出し反対側まで走り階段を駆け下り、
戻りが遅い俺の様子を見に来ていた佐藤と鉢合わせ、事情を説明。
佐藤は即座に教室へ行き鈴木と合流。
補習中だったこいつを引き摺り出して屋上へ…という事らしい。
いつの間にか隣に立ち、照れ笑いを浮かべながら、斉藤曰く。
「僕、気合を入れると気配が薄くなって気付かれ難くなるんだ。ごく短い時間だけど」
面白い特技というか…どこかのバスケ漫画の主人公かキミは。
確かにあいつらと向き合った瞬間から認識が抜け落ちているが。
いやしかし考えようによっちゃすげぇ特技だ。様々な使い道が思い浮かぶ。
主に浮かんだのが犯罪行為ばっかだから具体例は述べないが。
人の良さそうな笑顔を浮かべているこいつがまさかそんな事してる筈ないだろうし。
わざわざ悪い道に引き摺り込んじゃいけないよな、人として。うん。
…そして俺達の動きは結果から言うと、大成功の部類に入るだろう。
養護教諭は頼りになるおねいさんだった。
俺の体を診ていただけあって状況の理解が早い。
それにこちらの切り札とその使い方にも理解を示してくれた為、俺達は携帯を託した。
切り札をちらつかせながらも切らずに済ませるというテクニックを見せて貰った。
未だ鼻息の荒い数学教師を宥め、警官を頷かせ、
中立を保とうとする日本史教師すらも傾かせた。
内容は要約するとこんな感じ。
「相手は二人でした。対して彼は一人。
まさかこの彼女達に助力を頼む訳にはいかないでしょう?
素早く確実に動けない様にしないと、一人に手間をかけている間に、
もう一人が彼女を人質に取る可能性も十分にありました。
それだけではありません。助けに来てくれた彼女達にも被害が及んだかもしれません。
また彼らは彼女に暴行を加えるのみならず、その様子を写真で収めようとしていました。
その証拠となる写真がここに一枚あります。
ただし、どういった写真であるかはここでは伏せます。
理由は言わなくてもおわかり頂けますね?暴行しながら撮影しようという意図なのですから。
仮に、そういった写真が外部に流出してしまったりしたら取り返しの付かない事になります。
つまり彼の言葉通り、時間的な余裕はなかった。
故に、今回の彼の対応は止む無しであると思われます」
『任せなさいって。姉が弁護士でね、ちょっと詳しいのよ』
と耳打ちされても反応に困るぜ先生。
各自が見解を述べた所で両親が迎えに来たので、俺は一足先に帰る事になった。
最後まで居たかったが、全員に帰れコールされてしまっては致し方ない。
そして予想してはいたが、貧弱なこの体は夜から高熱を発し、
ついでに体のあちこちが悲鳴を上げていてまともに動けず、
以後一週間ばかり休む事になってしまうのだった。
自宅にて
…あれから四日が経過して、背中や首にくっきり出来ていた痣も目立たなくなった。
最初の日なんて声もまともに出せない、痛い、苦しいと踏んだり蹴ったりだった。
ついでに連日悪夢にうなされて眠りは浅いしで、もうね…
両親は休みを取って俺を病院に連行したりあいつの家に挨拶に出向いたり、
学校と連絡を取り合ったりでばたばたしていた。
親父は言うに事欠いて、
『女の子なんだから危ない真似をするな』
とか説教くれやがりましたよ。無茶言うなよ。去年までは、
『正しいと信じる道を突き進め!それで他人とぶつかった時は拳で語れ!』
ってな教育方針だった癖に。染み付いてるってーの。
まぁ親父はこの際放っておくとしてもだ。おふくろに泣き出された時はマジで参った。
かつては山ほど青痣や流血をこさえて帰っても笑ってたおふくろがだぜ?
挙句の果てには写真を見せられたのか両親揃って殴り込みをかけかねない勢いで激昂したり。
勘弁してくれよ。あれはあいつを守る為の切り札なんだ。
その旨を説明したら納得したのか落ち着いたから助かったけど。
…それとは別問題で今度は馬鹿親父、
『お、お前が男と付き合おうだなんて20年は早いぞ!』
とか寝言ほざきやがるし。根拠を尋ねると曰く、
『娘としてのお前は一歳だ。成人するまで男と付き合うなんぞ許さん!』
だ、そうな…その頃俺の実年齢がいくつだと思ってるんだろうな。
おふくろはおふくろで調子に乗って、
『自分の経歴に傷付く事を恐れずに護ってくれる男の子なんてそうそういないわよ。
嫁ぎ先に困らなくていいわね。絶対逃がしちゃ駄目だからね?』
なんて抜かして親父と俺をからかうし。親父が益々煩くなるからほんっとやめて欲しい。
向こうの親はやはり息子が入院までする怪我を負わされた事態の責任を追及してきたらしい。
その原因が婦女暴行(不本意ながら俺の事だ)を行ったからであると知っても強気だった。
まぁ、俺は入院まではしていないからそうなるだろうな。
しかしそこで切り札をチラつかされ、勢いに水を差される。
舞台とやり方が違うだけでこういうのも喧嘩と同じらしい。一度怯んだら終わりだ。
『そちらが強硬な態度を取るならこちらも娘の恩人の為に一肌脱ぐ事はやぶさかではない』
と証拠を盾に脅しかけたら(『まぁ失礼な。穏便に説得したのよ』byおふくろ)折れたそうな。
細かい事はガキである俺達には聞かされないし、言われても多分わからないから、
大まかに説明された事を自分なりに解釈した結果なんだけどな。
この頃になると体調も大分回復しているものの、家事は免除されているので時間が余る。
なので毎日佐藤鈴木コンビにより届けられるノートのコピーを元に自習したりしている。
学校での事件の扱いはその時に聞ける。
被害は最小限に留まった。あいつは今日、翌日から三日間の停学処分を受けた。
ただこれはどちらかと言うと向こうや世間を納得させる為のポーズで、
本来なら山の様に書かされる反省文は免除されるとの事。
内申的にもこの三日分はこっそり病欠扱いにしてもらえるんだそうな。
流石に、暴力事件を起こしてお咎めなしという訳にはいかなかった模様。
あいつらは処分が下る前に自主退学だかを選ぶらしい。
退学処分は学校側も外聞が悪いから出来ればしたくないらしく、
それとなく内容を伝えつつ決定するまでの時間を稼いで自主的に行動させたいのだとか。
転校先の斡旋もやったとかやらないとか。事なかれで問題を他所に放り出したいだけだろ?
それでいて『若者の未来を一度の過ちで閉ざしたくない』とか大義名分を掲げるんだぜ。
オトナッテキタナイヨネ。
まぁ、そんなこんなであいつの停学が明ける頃には問題は殆ど片付くとの事。
俺としても一安心で、この日の夜はぐっすり眠れる…と思ったんだが。
翌朝、学生さん達は既に学校に居なければならない時間帯。
あいつは何故か俺の部屋に居たりする。ちなみに両親はとっくに仕事に出ている。
「停学って自宅謹慎じゃなかったか?」
「ここは第二の自宅だから問題なし!」
…貴様は人の家を何だと思っているのか、とちょっと思ったが…
よく考え…なくてもお互い様だから今更言っても仕方ないか。
「とりあえず俺は寝るから相手はしてやれないぞ」
「あー、適当に時間潰すから気にすんな」
「散らかすなよ」
「へいへい」
ちなみに、ネグリジェじゃないぞ。交渉の結果パジャマをいくつか増やす事に成功している。
…見るからに暖色系の女物だが。アレよりはマシだろう。
そして寝不足な俺はすぐに眠りに落ち、また夢を見る。
夢の中では俺は未だ男で、女になったのが悪い夢だと思っている。
かつてそうであった様に、現在そう在りたいと望むままに、こいつと二人肩を並べて。
ナンパしたり、遊んだり、馬鹿やったり。
そしてガラが悪い連中に絡まれて喧嘩を買う。
調子良くぶちのめし、最後の一人を沈めた所で、後ろから強烈な一撃を貰う。
格ゲーかなんかみたいに錐揉みしながら地面に倒れる。
素早く圧し掛かって来たのはあいつで、その巨体に任せて俺の動きを封じにかかる。
左手一つで両手首を掴まれ、頭上に押さえ付けられる。
何しやがる、馬鹿な真似はよせと叫ぶ自分の声は変声期を過ぎた男の声ではなく、
聞きたくない、けれど既に慣れてしまった女の声で。
ぎょっとして体を見下ろすと、やはり見慣れてしまった貧弱な女の体にいつの間にか変わっていて。
同じく女物にすり替わっている制服が、右手によって引き裂かれる。
下着も剥ぎ取られ、ささやかな膨らみも、つるんとした股間も露にさせられる。
口汚く罵りの言葉を吐き続けていると、口にぼろ布と化した制服を詰め込まれてしまう。
いつの間にか手首を拘束するのは紐状の物体に変わっていて、
これまたいつの間に脱いだのか知らないが裸のあいつが俺の両脚に割り込んでくる。
薄い胸の脂肪を、抓り上げる様に揉まれる。痛い。
すぐに手は離れ、今度は俺の両脚を抱え上げる。
股間に、熱く脈打つ物体が押し付けられる。
そのまま、股裂きにする様に押し込まれ…
「わあああぁぁぁ!?」
悲鳴と共に飛び起きた。まただ。最近はこんな夢ばっかりで全然熟睡出来ない。
がくがくと震える体を抱いて抑える。あいつが、驚いた顔でこっちを見ている。
「お、おい…どうした?」バシッ
肩に手を置かれた瞬間、全身に鳥肌が立ち、それを力いっぱい払ってしまう。
「え?」
「あ、わ、わりぃ…寝ぼけたかな…?」
今のは…恐怖と嫌悪…か?何故だ?
「…わりぃんだけど…手、触ってみてくれるか?」
「あ、あぁ」
おずおずと差し出した手を、無造作にひょいと掴まれる。やはり全身に鳥肌が立つ。
「お、おい、どうしたんだよ?」
振り払いたい衝動を必死に抑える。しかしすぐに限界を迎える。
こ、呼吸が出来ない…目の前が暗くなる…
「も、ぅ、は、はなして…く…」
嫌だ、いやだ、イヤダ、イヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダ!!
「お、おぉ」
手が離れた。不調が嘘の様に引いていく。
はぁ、と安堵の溜息を一つ吐いてそのままベッドに倒れ込みながら手で顔を覆う。
「お、おい…大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃ、ないみたいだ…」
まさか自分がこんな事になっているとは思いもしなかった。
毎晩見る悪夢はこれを暗示してたっていうのか?
男に、触れられるのを拒絶してしまう。
けどまさかたったあれだけの事で?もっと痛い経験だって山ほどあるってのに。
だからこれは体の問題だ。どこまで弱いんだよ…本当にいい加減にしやがれってんだ。
そりゃ、元々親しくも無い奴に触れられるのは嫌だったさ。この体になってからは尚更だ。
しかし今になるまで気付かなかったのは何故だ?
あぁ、そうか…あれからオトコに触れるのはこれが初めてだったか。医者も女医だったし。
あいつらにってんならわかる。けどなんでこいつまで。
自らの半身とも思っている、かけがえのない親友なのに。
親友で居られないなら、別の手段を用いてでも傍に居たいと思える奴なのに。
男としても女としても好きなのに。そうだよ。好きなんだよ。
認識するのを避けてたけど、そんなんじゃないと思い込もうとしてたけど。
なのに、どうして拒絶してしまうんだよ。
こんなんじゃ、もう駄目じゃないか…そう思った時には、既にそれは口から零れ落ちていた。
「なぁ…もう帰れ。そんで二度と来るな」
「はぁ!?いきなり何を言い出すんだよ」
もう、会わせる顔が無い…
「俺、お前の隣に居られない」
「何だよそれは!?」
「何かさ…笑っちまうよな。男が怖くなっちまったらしいんだよ。
そんなつもりはないのに、体が勝手に男を拒絶しちまう」
「…お前は、それで納得できるのか?オレは出来ないぞ」
「納得出来る出来ないじゃない。仕方が無いじゃないか…」
「何が仕方ないんだよ!?お前がオレに愛想を尽かしたってんならそれこそ仕方ねぇけどな。
そうじゃないんだろ?ならそんな事言うなよ」
「その理由でいいんならそうだって事にするから、納得しろよ…」
「なら、オレの目を見て言えよ。オレが嫌いだから、オレに愛想を尽かしたから!
もう二度と顔も見たくないって!ほら、言えよ!」
声に押される様に上半身を起こし、こいつの目をしっかりと見る。
「…俺は…お前が、きら…」
嫌いだなんて言える筈がない。こんなに好きなのに。視界が滲む。
「…」
何も言わず、ただ真剣な目で俺を見つめる。視線に圧される様に俯いてしまう。
…それでも、何も言わない。沈黙に耐えられない。限界だった。
「…好きだよ!お前の事が好きなんだよ!俺は女になって、壊れちまったんだ!
男としてお前の隣に並べないからって、女として隣に居られる手段を探したり!
体が女になったからって心は男のままな筈なのに!気色悪いだろう!?
けどそれも無理になっちまったんだ!こんなつまらない事で!
だから…だから…もう…帰れよ…」
まただ。また涙を止められない。喉が痙攣してしまってこれ以上言葉に出来ない。
「…わかった。帰る」
そしてあいつは振り返る事無く立ち去って行った。
俺は、ただ泣いてその日を過ごした。翌日も、何もする気になれずただ無為に過ごした。
三章 ディスカウントストア
あいつの告白を聞いて、あいつの家を出てからずっと考えていた。
オレには想像も付かない体験をしたあいつに、オレが何を言えるのか。
苦しんでるあいつの為に、オレに何が出来るのか。
告白に対する返答は始めから決まっている。問題はそれをどう伝えるかだけだ。
そして、決めた。翌日、早速その為の準備に取り掛かった。
風車に戦いを挑むボケ老人の名を冠する、深夜までやってるディスカウントストア。
ここが今日のオレの戦場だ。
まず第一の障害、目標物が置いてあるエリアに近付く。
カラフルなこの一角はある意味人を選ぶ結界だ。
選ばれなかった者でここに踏み込めるのは、周囲の目を気にしない…
もしくは、KYな奴だけだ、と思う。
しかし、こんな最初で躓いていては目的を達成する事など夢のまた夢。
今からオレはKYな奴になる!
…え、元からだろうって?それは言わないお約束だぜベイベェ。
どかどかとそのエリアに踏み込み、一つ一つ値踏みする。
中々見つからない、場違いな場所に居るという焦りだけが募る。
これじゃない。これでもない。これはいけそうか?…うお、予算的にキツイ。
そうこうしている内に目標物を発見。手に取るだけでもある意味痛い。
レジで差し出す時の事を思うと手が震える。かつてやった罰ゲームの
『制服で明るい家族計画を購入してくる』より遥かに難易度が高いと思うぞ。
えぇい、躊躇うなオレ!カゴに放り込む。
そして次の標的…すぐに見つけた。だが、正直何を選べばいいかよくわからない。
店員に聞く。怪訝を超えた不審者を見る顔。今すぐ逃げたい。せめて言い訳したい。
それは許されない。オレの挑戦は既に始まっているのだ。
オレの強張った顔から何かを感じたのか、店員が態度を改めて応対してくれる。
…憐憫の光が目の奥に見え隠れしている気がしなくもないが。
いやいや、それはきっと被害妄想。気後れしているオレ自身が勝手に見る幻さぁ。
とりあえず説明を聞き、一番安い一式をカゴへ。
カゴの中を見た通りかかる他の客の目線が痛い気がする。気のせい気のせい。
レジで取り出した店員の目線がオレとブツの間を二往復した。
せ、せめて目を逸らしたい…だが逸らしたら負けだ!
にやりと笑ってみせる。引きつった営業スマイルが帰ってきた。
会計が終わり、袋に詰める。これで見られる事はなくなった。ちょっと一安心。
家に帰って一通りやり方を調べる…やっぱりよく分からんが何となくわかった気はする。
…一応、晩飯後に練習しておこう。
そうだ。晩飯時についでに妹目覚ましをセットしないと。
何の事はない。妹に『明日起きたら起こしてくれ』と言うだけなんだけどな。
そして翌日。妹目覚ましで覚醒した俺は二度寝をする事も無く無事に起きられた。
休みは今日までだ…そういや一応停学であって休みじゃないんだっけ。
まぁ、もっと大事な者の為だ。例え許されなくても覚悟の上。
ちなみに今回の事件に関してのウチの家族の反応はというと。
『お前、男同士でツルんでばっかりで女っけが無くて心配してたんだが。
女の為に闘う甲斐性があったんだなぁ。父さんは一安心だ』
と親父に感心された。いやアレを女っけと言っていいものかどうか。
親父の言う男同士でツルんでるのの延長線上の話だし。
あいつの両親が家に侘びと礼の挨拶に来た時も、
『ウチの愚息を末永くよろしくお願いいたします』
とか言いながら逆に頭下げて困惑させてたし。それは色々ちげーだろ親父よ。
『おねーちゃんに酷い事した人達なんてそんな目にあって当然だよ!
むしろどうしてもっと長く入院する位ぼっこぼこにしておかなかったの!?』
と、妹はむしろオレが引く位怒り狂って過激な意見をのたまった。
まぁ懐いてたからなぁ…そういや当人には内緒にしとけと釘を刺されたが、
男だった頃のあいつが初恋だとか言ってたっけか。もはや懐かしい記憶だ。
ともあれそんな調子で、こっちが拍子抜けする位あっさりしたものだった。
さて…準備をしなければ。あーでもないこーでもないと一人で悪戦苦闘する。
まー自分が納得いく出来になる事はぜぇっったいに有り得ないから適当だが。
準備を終えて、家を出よ…く、なんだこの玄関から感じるプレッシャーは!?
いや、分かり切っている。家を出るなという内なる声でしかない。
貴様は所詮オレの中の迷いや躊躇い…そんな弱さでしかない。消えろ。
中二病的にそう呟きながら玄関を抜け、俺は外へと踏み出した。
目指すは一路、あいつの家!
たかが数百メートルの距離。走ればすぐだ。
しかし今日のオレはゆっくり歩かなければならない。
…通行人のオレを見る目が痛い。いや、露骨に視線を逸らされてもダメージを貰うのだが。
凝視されるか逸らされるかの二択というのも中々出来ない経験だ。
出来ればしたくない経験ではあるが。しかしまさか、
『ままー、なにあれー』『しっ、見ちゃいけません!』
のコンボをリアルで拝む日が来ようとは思わなかったぜふぅはははー…はぁ。泣けてきた。
目標地点までが遠い。足が鉛の様に重いのに走り出したくて仕方がない。
矛盾した心境を抱えながらも、何とかあいつの家の前まで到達した。
鍵は当然掛かっている。そして予備鍵が普段隠してある場所にはない。
オレが上がりこむのを警戒して隠したのだろうか。まぁ予想の範囲内だ。
呼び鈴を鳴らす…反応が無い。予想通り。だが家の中に居る気配は感じる。
ぴんぽーん…ぴんぽぴんぽぴんぴんぴんぽぴんぴんぴぴぴぴぴんぽぴんぽーん
思わず遊んでしまう…反応はない。いや、極僅か、あいつの部屋のカーテンが揺れた。
「おーい。開けてくれー」
部屋の方向に向き直って中に居るあいつに聞こえる程度の大声で呼び掛ける。
「あんまり長く玄関口に居られない事情があってだなー」
また反応が無くなった。仕方ない。奥の手だ。
「開けてくれー。最悪開けなくてもいいからちょっと見てくれー。
このままじゃ警察に連行されかねないんだー」
カーテンの端がそっと動いた。
そして直後ぶほっという音。次いで階段をバタバタと駆け下りる音。
やった。見たな。今のオレのこの姿を!
ガチャリと鍵を開ける音。血相を変えたあいつが玄関を開けた。
「な、なにをやってるんだお前は!?」
自宅にて(2)
あいつが何も言わずに立ち去ってから二回、夜が明けた。
俺は部屋に引き篭もっていた。何もしたくない。何も考えたくない。
本当は、少し期待したりしたんだ。放っておけないから残ると言ってくれるのを。
或いは、何事もなかったかの様にまた訪ねて来るのを。
無言の背中が拒絶を示していたなんて認めたくなくて。
けれどその日も翌日も、鍵を開けておいた玄関が開いて、
『おっじゃまっしまーす』
と調子のいい声が聞こえてくる事はなくて。
終わったんだと実感するのに充分な時間が過ぎて。
鍵を隠しておく必要も無くなったから回収して。
食事に呼ぶ声に答える気力も、そもそも食欲も出なくて、あれから飯は食っていない。
眠る気にもなれないから寝てもいない。どうせまた悪夢を見るだけだし。
だから、ただベッドの上で蹲っていた。
チャイムが鳴ったけど出る気はなかった。
連打された時はまさかと思ってカーテンをはぐって確認しかけたけど、やはり止めた。
開けてくれと呼ぶ声が聞こえても、今更何を言っているんだとしか思えなかった。
そしたら警察に連行という台詞が聞こえてきて、少しだけ気が引かれた。
こっそりとカーテンの端を持ち上げて玄関を見やる。
…そこには、奇怪なモノが立っていた。
もう少し具体的に述べるなら、
『ミニスカのコスプレメイド服を着た、顔面白塗り口裂け女メイクの、むくつけき大男』
がそこに居た。
ちょっ…呼吸に失敗してむせたぞ、何してくれやがる…ってかナニしてやがるんだあいつは。
アレは確かに警察を呼ばれかねない。視覚の暴力、いや既に公害レベルだ。
赤の他人だったら俺もそうする…ってか、男だった頃の俺なら実力で排除してる。
とりあえず部屋を飛び出し、一路玄関へ。
鍵を開けるのももどかしく玄関を開放しておぞましい物体を中へ引きずり込む。
「な、なにをやってるんだお前は!?」
顔を合わせづらいとか、明日から学校でどんな顔すればいい、とか考えていたんだが。
今は別の理由で見たくない。見る度に噴く。間違いなく。
「ナニって…女装?」
「理由を聞いてるんだ!…それと、それは女装とは言わん」
「じゃなきゃ何だよ。理由はいくつかあるが」
「猥褻物?その格好でここまで来たのか?」
「ひでぇなぁ。その通りだけど」
「だからひでぇのは今のお前だ!」
「詳しい話は落ち着いてからしよう。お邪魔するぜ」
「上がっていいとは言っt…ぶっ」
思わず見てしまってやっぱり噴いた。
決して俺だって化粧に詳しい訳じゃないが、それでもコレが酷いのはわかる。
とりあえず塗りたくってみたという風情のファンデーション。
アイシャドーという概念を突破してパンダみたいになった目元。
チークというより東村山出身のコメディアンがやるお殿様の様な赤丸が描かれた頬。
そしてはみ出しまくって口裂け女と見紛うばかりに巨大になった赤い口。
マジで勘弁して。顔を見なくて済むように俯くと、
フリルとパフスリーブ付きのブラウスがぱっつんぱっつんの上半身が目に入る。
よく見ると胸毛がちょっと透けてる…うわぁ、おぞましい。
そこから逃げる様に視線を更に下に下げると、
ストッキングに押し潰された脛毛が透けて見えるごつい足が目に入る。
エプロン付の、細かいプリーツでふわりと広がる構造のミニスカートからは、
やはりストッキングに押し潰されているトランクスがちょっとはみ出して見える。
駄目だ。どこも視界に入れられない。入れたくない。ダレカボスケテ。
そして制止するタイミングを逸してしまった。既に俺の部屋に向かってしまっている。
毒気を抜かれた…というよりは毒気に中てられて力が抜けた。溜息が一つ漏れる。
「わかった。わかったからまず顔のソレを落とせ。話はそれからだ」
「おぉ、そうする。べたべたして気持ち悪かったんだ」
洗面台に取って返してじゃばじゃばと音を立てて顔を洗う。
や、ちょいとお待ちよお前さん。それじゃ…
「む」
アイシャドーも頬紅も口紅も半端に流れて顔面上でブレンドされて更にカオス。
っつーかこっち見んな。眩暈がする…既にギャグを超えてホラーだ。
おふくろのメイク落とし用の石鹸とクレンジング剤を渡すときょとんとした顔をする。
「…いいから、それ使って洗え」
「あいよ…おぉ、すげぇよく落ちるな。お帰りオレの地肌!会いたかったぜぇ!」
自分を抱きしめてクネクネすんな。格好と相俟ってまぢ気色悪い。
とりあえず揃って部屋に。俺はベッドに、こいつはクッションに腰掛ける。
「…とりあえず体育座りはヤメロ。だからって横座りすんな。
股関節痛いなら無理して女座りもしなくていい。出来るのはわかったからすげーから。
胡坐も駄目d…あぁもういい、俺が悪かった。好きに座れ」
どんな座り方されても視覚的にきちぃ。いや、俺が気にしなきゃいいんだ。
…やっぱ気にしないとか無茶すぐる。せめて卓袱台を置いて遮る事にする。
「で、話を聞こうか?何しに来たんだよ、今更」
「スリーサイズなら内緒よん♪」
裏声出すなキモチワルイ。
「帰れ」
…とは言いながらも相変わらず過ぎて何だか可笑しい。
俺があれだけ思い詰めたのは何だったんだよと言いたくなる。
「一つは、お前に近付く為だな。気持ちを知る為と言ってもいい」
「はぁ?」
「去年の今頃、お前は多分こんな気持ちで街を歩いたんだろうな、と思った」
「いやいやいや、感情面は確かに女装してる気分だったけどな。
少なくとも理性面では傍から見て違和感がない事は理解してた。
今日のお前の羞恥プレイほど恥ずかしくはなかったと思うぞ」
「お前が感じた以上で無いと意味がないから、成功だった訳だ。
もう一つの理由はな、お前が男を拒絶するって言うから女装してみたらどうかと思った」
「…その発想はおかしいだろ、色々と」
「これも成功だったけどな?」
「何がだよ」
「お前、オレの腕掴んで引っ張ったじゃん。玄関で」
あ…言われてみれば確かに。しかしそれは断じて女装のおかげではない。
「度肝を抜かれてそこまで気にしてられなかっただけだ!」
「理由は何でもいいさ。お前が思い込む程、大した問題じゃないって実感してくれれば」
「何で…何でそんなに俺に構うんだよ…」
「放っておける訳ないだろう?出会ってから殆ど一緒に行動してたんだ。
隣にお前が居ないと視界が広くて落ち着かないんだよ」
「だったら何で、あの時何も言わずに帰ったんだよ…」
「何言っても聞かない状況だったじゃねーか。頭冷えるまで待ったんだよ…
ってのは建前で、実は自分の考えを纏めるのに手一杯でそこまで気が回ってなかった」
あー、視野狭窄起こしやすいからなぁこいつ。
しかしアレだ。考えた結果がコレか。斜め上過ぎて思い付かねーよ普通。
仮に思い付いてもやらねー…ってか出来ねー。そこに痺れ…も憧れもしないけど。
「だ、だって…お前、俺の気持ちは聞いただろう?
元男なのに、親友なのに、男にも女にもなれない半端者なのに、
お前の事を好きになっちゃったんだぞ?気持ち悪くないのかよ」
ぴ、と俺の口を抑える様に、卓袱台に置いてあったシャーペンを、
立てた状態で押し付けられた。思わず、口を閉じてしまう。
「前から言おうと思ってたんだけどな。お前は律儀な奴だよ。
オレと違って物事きっちりしてるしな。それは美点だが欠点でもある。
男とか女とかきっちり分けて、無理に線引きしなくてもいいんじゃね?
好きか嫌いか、必要なのはそれだけでさ」
シャーペンをどかして反論する。
「お前はいい加減すぎる。じゃあ聞くけど、お前は俺をどう思ってるんだよ」
「ん、好きだぞ?嫌いな奴を一々気にかける訳ないじゃん」
「それは、男としてか、女としてか?」
「また線引きしてる。オレはお前がどんな姿形をしてようが関係ない。
お前という存在を気に入ってるんだからな」
「じ、じゃあ…その、今の…女の俺を…抱きたいと、思う、か…?」
流石にこんな台詞を言うのは恥ずかしい。途切れ途切れになってしまう。
「少なくともこの一年で、両手の指では収まらない程度にはそう思ったなぁ」
う、嬉しいのか恥ずかしいのか悔しいのかわかんなくなった。
答え辛いコメントしやがって…まさか、ずっとそんな目で見られていたとは。
こいつも、他の奴等と変わらなかったって事だ…が、何故か今はそれが不快じゃない。
「…俺が男のままでも、そう思ったかよ?」
「流石にそれはないな」
まぁそりゃそうだ。もしここで頷かれてたら今後の付き合い方を考え直さにゃならん。
「ほら見ろ、やっぱり違うじゃないか。分ける必要があるだろう?」
「表現方法が変わるってだけだろ?分ける必要性を感じないね。
じゃあ逆に聞くけど、お前はオレの事が好きなんだろう?」
「き、聞き返すなよそんな事…」
「…まぁいいや。で、オレの隣に居たいんだろう?」
「…あぁ、そうだ」
「線引きしたがるお前に合わせてやるよ。それは親友として?それとも恋人として?」
くっ…意地の悪い言い方をしやがってこんにゃろう。わかってる癖に。
「俺は…どっちでも…構わなかった…」
「じゃあさ。どっちも、でいいじゃん」
「…は?」
「だからこれも分ける必要ないって事。親友にして恋人。
親友ってだけより、恋人ってだけより、強い絆で結ばれた関係。いいと思わねぇ?」
「そん…な、適当な…」
「適当で何が悪い」
えへん、と胸を張って言い切りやがった。
「そんなのが、いいのか…?」
「あぁ、そんなのが、いいな」
「俺で、いいんだな…?」
「お前だから、いいんだよ」
俺が欲しい言葉が、間髪入れずに返って来る。
「あ、あは、あはは、ははははははは…」
何だか、無性に可笑しくなった。今まで悩んでた自分がとても下らなく思えた。
ベッドを降り、卓袱台に突っ伏す。久しぶりに、心置きなく笑った様な気がした。
やっと笑いの発作が収まって顔を上げたら、
素早い動きでかつて一度だけ体験した距離に顔が近付いてきた。
不意を付かれて動けないでいる内に、唇に、やはり一度だけ体験した事がある感触。
事態を認識する前にそれは俺から離れた。
「やっぱり、拒絶反応が出るか?」
動けずにただ呆然としていると、心配そうに聞いてくる。
今の感覚を改めて思い起こす。頬が熱くなっていくのがわかる。
「ちょっと、怖いかも…」
「でもちょっとなんだな?やっぱりこの格好のおかg」
「それは絶対に違う」
何で不満そうな顔しやがるんだよ。実は気に入ったとか言わないだろうなその格好。
ってか、身を乗り出したからまた強調されて…視覚の暴力が相変わらずキツイ。
「じゃあ、怖くなくなる様、慣れるまで練習あるのみだな」
怖いくらい真剣な口調でそう言って卓袱台を脇に退ける。
だから…シリアスな顔と声にすればする程ギャップが激しくなるんだって!
しかも俺の眼を護っていた卓袱台が退かされたからまた全体像が!
「待て!せめて服を脱げ!今のお前は何を言っても何をやっても決まらないから!」
「…本当に、大丈夫なのか?」
心配そうに尋ねてくる。
俺を気遣ってくれるのは嬉しいが洒落になってないんだってば。
「お前のその格好を見続ける方が大丈夫じゃないんだよ!」
「…そうか」
だからどうしてそこで残念そうな顔をするんだ。
まさか何かに目覚めたんじゃないだろうな。
ぱつぱつな上、ボタンの配置が普段と逆だから脱ぎ辛そうだ。
俺も始めの頃は戸惑った記憶がある。今はすっかり慣れちまったけど。
露になっていく男の裸体を見続けているのもバツが悪い。
「…帰りもそれなのか?」
「や、鞄に普段着詰めてある。帰りまでこの格好する意味はないし流石に無理」
「そういう事は先に言え!」
「聞かれなかったし」
確かに聞かなかったけどさぁ。や、普通に考えればそうするんだろうけど。
こいつ、色んな意味で普通じゃないしな…今回は特にそう思ってしまった。
脱ぎ終わりトランクス一丁で仁王立ちする我が親友兼恋人。
うわぁ、奴の息子が何か激しく自己主張してますよ?
脱いでく姿を見られて興奮してるんじゃないだろうな?
「さて、始めるか…脱ぐのと脱がされるのはどっちがいい?」
ずずい、と近寄りながらそんな台詞を吐く。
な、何かうやむやの内にこのままコトに雪崩れ込む流れが形成されてないか?
ってか、掌をこちらに向けてわきわきと動かすその手付きがキモいです。
「…脱がしたいんだな?」
「流石はオレの親友兼恋人。以心伝心、ツーといえばカーと答えてくれる!」
わからいでか。質問しちゃいるが、雄弁なまでに心の内を語ってるよその手が。
「だから自分で脱ぐ…あぁもう、嘘だからそんな泣きそうな顔すんな」
ベッドに横たわる。直接触れないよう気を使いながらその傍らに来る。
奴の手がぎこちなく俺が着ている女物のパジャマのボタンを外していく。
首から胸、腹へと中心線に沿って解放されていく。
未知への恐怖と拒絶反応への恐怖が同時に襲いかかる。
あ…そういえば、俺…
「ち、ちょっと待て。俺、一昨日から風呂入って無くて、
綺麗じゃ無いからシャワーを浴びたいな、なんt…」
「却下」
うわぁい。一言で切り捨てられちまったい。
「どうして!?」
「我慢出来ん」
あー…まぁ俺も男だったから気持ちは分からなくもないが。
「それに、良い匂いだ」
すん、と鼻を鳴らして言われると恥ずかしさを感じてしまう。
「ば、馬鹿…嗅ぐなよっ」
パジャマのズボンをずり下げられる。少し腰を浮かせて抜きやすくしてやる。
下半身を覆う衣服が取り払われ、俺とおふくろの趣味の妥協の産物である、
シンプルな無地のピンクのショーツが露わになる。
脱がされる事に対する羞恥心がない訳じゃない。
しかし、まだ出来るだけ直に触れないようにしてくれる心遣いは素直に嬉しいと思う。
そっと、ボタンが全て外されたパジャマを開かれる。
ブラなんかしていなかったから、それだけで胸が露になる。
医者とおふくろ以外には見せた事がない、ささやか過ぎる乳房と、
その先端にある突起が外気に触れる。
「…小学生なウチの妹に負けてるんじゃないか?」
くっ…邪魔だから無い方がいいと思って今まで気にした事はなかったが、刺さる台詞を…!
「それがいいってロリコンが偉そうに抜かすなよ」
あ、向こうにも刺さった。何やら悶え苦しんでいる。
「ふ…ふふふ…ロリコンの何が悪い!」
唐突に復活して吼えたと思ったら唇で俺の唇を塞いできた。
眼を閉じて、反射的に押し退けようとする腕をシーツを強く掴んで堪える。
少し湿り気を帯びていて、少しかさついているけど柔らかい唇。
それが、俺の唇の上を滑っていく。上唇をなぞり、下唇に吸い付く。
くすぐったい様で、痺れる様で、こそばゆい。安心感と嫌悪感を同時に感じて混乱する。
「あ…待っ…」
「待たない」
舌が入り込もうとする。咄嗟に歯を閉ざす。舌が唇の内側を這う。歯を、歯茎を舐られる。
奴の舌が熱い。這った後が熱い。力が抜ける。その隙を逃さず口腔内に舌が侵入する。
裏側から歯と歯茎、そして俺の舌を舐め回される。唾液が絡んで粘着質な音を立てる。
「ん…ふぁ…」
口の中が熱い。奴の唾液が流れ込んでくる。
自分のものとは微妙に味が違うそれを飲み下す。
まるで強い酒を飲んだ時の様に、熱が喉を滑り落ちていく。
ちなみに飲んだ事くらいはあるぞ。気持ち悪くなっただけだけど。
…本当に酔ったみたいに、頭がぼおっとして何も考えられない。
舌が吸い出され、奴の口の中に導き込まれる。
された事をそのままやり返す。無我夢中で舌を暴れさせる。
心臓がフル回転でどくどくと煩い。口や喉に発生した熱は既に全身を駆け巡っている。
「ぷはぁっ」
ビールを一気呑みした直後の親父みたいな声と共に唇が離れる。
眼を開くと、やや霞む視界に唾液がねっとりと糸を引いて、ぷつりと切れるのが見えた。
ぜいぜいと呼吸が荒い。あ、俺もか。お互い夢中で呼吸する事を忘れていたらしい。
奴の手が、俺の胸に伸びる。壊れ物を扱うようにそっと触れる。
俺の体がびくりと震える。鎌首を擡げる恐怖を熱にやられた頭で必死に捻じ伏せる。
薄い胸を乳首に掻き集めるように親指と人差し指の付け根で揉む。
ぴりっとした痛みが走り、体が勝手に暴れる。
「お、おい。大丈夫か?」
「だ、大丈夫…まだ、息、出来るから…」
「…そうか」
視界いっぱいに奴の胸板が映る。腕の中にすっぽりと抱き込まれた。
オトコの臭いを強く感じる。暴れるスペースを失った体がもがき続ける。
奴は全身を強く抱き締めながら、髪を梳る様に俺の頭を撫でる。何度も、何度も。
動かし疲れて、ぐったりと体から力が抜ける。
「も、もう…へーき、だから…」
「…いや、今日は止めておこう」
「ど…して…?」
「この段階でそれじゃ、お前の体がもたないだろ」
確かに、この二日碌に寝てない食べてないで体調からいけば最悪に近い。
この短時間で疲れ果てたのもそれが原因だろう事は想像に難くない。
けれど密着しているおかげで、固く熱く脈打つソレが腹に押し付けられている事に気付いている。
そんな状態なのに痩せ我慢して俺を気遣うこいつを、とても愛おしく思える。
まだこの空気に酔っているのか、雰囲気に流されたのか。
だから、普段ならまず出来ないだろう事をしていた。
「…ここは、そうは言ってないぞ」
トランクスの中に手を滑り込ませ、ソレを優しく包む。
ゴムに隙間を作る勢いで尖っていたから楽に出来た。
ちなみに俺はそこまでになった事はなかった。ある意味すげぇ。
もう片手でトランクスを下げ、ソレを解放してやる。
袋から筋に沿って中指を這わせ、人差し指と薬指で縊れた所を挟み、
親指と小指と掌で剥けた部分を刺激してやりながら、軽く前後に扱く。
元男の端くれとして、どこが気持ち良いか位は知っている。
「なっ…ちょ…待…」
焦った声を出す。まさかこんな逆襲されるとは予想していなかったのだろう。
「さっき、俺もそう言ったよな」
俺はにやりと笑って言う。手の中のソレは俺の動きに答える様にびくびくと震える。
え、と思った瞬間には掌から肘にかけて、ぴしゃりと粘り気のある液体が飛び散った。
むっとくる、雄の、強い、懐かしい臭い。頭の中の靄がピンクがかって濃くなった。
それが命じるままに、肘にかかったその白濁液をぺろりと舐める。何とも言えない味がする。
俺自身の経験から鑑みても濃く、多い。
「…溜まってたんだな」
「あぁ…けど、こんな事されたら、オレはもう止められないからな」
そう宣言して、膝に絡んだトランクスを脱ぎ俺に覆い被さってくる。
一発発射したばかりだというのに、ソレは萎えるどころかますます猛り狂っている。
今度は乱暴に、乳房を鷲掴み、捏ね回す。鋭い痛みに体が跳ねる。
「いっ…つぅ…く…あ…ひゃんっ!?」
歯を食いしばって堪えていたら、片方の乳首を親指と人差し指で摘まれ、
もう片方の乳首を咥えられる。突然の鋭い刺激に変な声が漏れる。
ぢぅ、と音を立てながら吸い付き舌で転がされ、指で柔らかく扱かれる。
限りなく苦痛に近い快感。張り詰めて尖っていくのが分かる。
それから逃れる為に腕を突っ張ろうとするが、
力が入り切らず押し退けるどころかぴくりとも動かせない。
しかしそれでも邪魔に思ったのか、
いつかの夢の様に両の手首を一まとめに掴まれ、頭上で抑え込まれてしまう。
「やっ…こ、んな…あうぅっ」
聞き慣れた普段の声とは違う、艶を帯び媚びを含んだ甘ったるい嬌声。
これが本当に俺の声なのか?自分でも信じられない。
乳首から快感が波紋の様に全身に広がった後、下腹部に収束していく。
生理の時の痛みを伴うそれとはまた違う重さを伴い、収束した先がずくんと疼く。
男が持たない器官を鷲掴みされ、強制的に移動させられているかの様な異物感。
そこから股間へとかけてじわりとした熱さが流れていく。
女になって初めて小用を行った時の制御の効かなさを何となく思い出す。
しかしそれが決して不快ではない。
「んっ…はぁ…ひぃんっ」
きゅ、と少し指に力を込められ、軽く歯を立てられる。痛くて苦しいけど、気持ち良い。
眉間でばちばちと火花が散り、意識が一瞬飛ぶ。全身の筋肉が硬直し体が突っ張る。
下腹部の違和感に腰をもぞもぞと動かす。
それに気付いたのか、乳首を弄んでいた手が腹から股間へと滑り降りていく。
ショーツ越しに割れ目をなぞられる。じわりとした快感が湧き上がる。
「ちゅ…ん…濡れてる…」
は、恥ずかしい事を呟くんじゃねぇ!
手で覆って隠そうとするが、頭上で押さえ付けられた両手はびくともしない。
奴の唾液に濡れた乳首は熱い息がかかるだけでむず痒さを伴う快感を発生させる。
乳首も秘所も、ひくひくともの欲しそうに震える。
脚をばたつかせるが、両脚の間に入り込まれてしまい抑止にはならない。
それどころか、両脚を広げる格好にされてしまう。
布越しのまま、中指が秘所に沈み込んでいく。
「そ、こ…だ、めぇ…やめっ…うあっ…」
感触を確かめる様に、押し広げようとするかの様にゆっくりと円を描く。
指が離れ、刺激に翻弄されてままならなかった呼吸を再開させる、が。
「濡れて透けて食い込んで…すげぇエロいぜ」
また、羞恥心を煽る台詞で呼吸が止まってしまう。
「うる…さい…食い込ませたの、は…お前…だ…」
「まぁそう言わず見てみろって」
腕を拘束していた手が離れた次の瞬間、ひょい、と両の膝を持ち上げられ、
正座した形の膝を腰の下に差し込まれる。
そしてそのまま持ち上げた両膝を肩に押し付けられる。
奴の腹に支えられて腰を下げる事も出来ない。
いわゆる、まんぐり返しのポーズを取らされている。
眼の前には奴の言葉通りの状態の俺の股間が見える。確かにエロい。
「…こ、な…かっこ…させ…な…」
「んん?でも汁気が増えてきたぜ。興奮したか?」
「ばっ…か、やろ…!」
この格好から逃れようとずり上がるが、その分を詰められてしまう。
すぐに、頭がベッドの縁に当たってそれ以上逃げられなくなる。
ならばと、じたばた暴れてみるが、
腕は自分の膝に押さえられて半端にしか動かせず、脚はがっちり掴まれてしまっている。
「ほら、下着から溢れて垂れてきてる」
「み、みる、なぁ…んぁっ」
鼻を押し付けられて、また嬌声を上げてしまう。
「わかったよ…すぅ…ふぅ…」
「か、嗅ぎも…するなぁ…!」
「いい匂いだぜ?」
「こ、の…へん、たい…やろ…」
「えろ、れろ…」
「舐め…も、する、なぁ…!…ぐすっ…あぅん…」
あまりの意地が悪い行動に、涙腺が勝手に崩壊した。
それでもこの体は奴の舌で感じてしまっている。
「美味いぜ」
にかっと笑って言われる。かつて料理を振舞った時はこの言葉が嬉しかったが。
…この状況では嫌がらせとしか思えない。
両足を揃えて上に向ける形に掴まれて、濡れて透けてもう隠す役には立っていないが、
最後の砦であるショーツをかなり乱暴に剥ぎ取られ、
再びまんぐり返しの姿勢に戻される。俺はもうされるがままだ。
「うわ、つるっつる」
…またか。人の身体的特徴を論うのもいい加減にしやがれってんだ。
安易な言葉は人を傷付けるんだって事を、身を以て教えてやる!
「…だま、れ…この、早、漏、やろ…う…」
「…あ、あれは…溜まってた所に不意を打たれたってだけだ!」
「…」
「…」
「なぁ…なんで…俺達…抱き合いながら…言葉のナイフを…振るい合って…んだ…?」
「セックスは闘いだってじっちゃ…じゃなくてどこかの漫画家も言ってたろ。
それに、こんな感じの方がオレ達らしいじゃん。だからこれでいいのさ」
「…それでも、ムードってもんが…あるだろ…」
「そんな事言っても、ここはしっかりその気だぜ」
くち、と湿った音を立てながら柔らかくなった膣口を左右に寛げる。
「な、ば…ばか…広げ、ん、な…」
まるで自分が馬鹿になったみたいだ。こいつを罵る語彙が全然浮かばない。
「涙も止まったみたいだし、続けるぞ。やっぱ泣かれると鈍る」
「んぁあっ!?や、だ、めぇっ!?そこっ…いたっ…あぁんっ!?」
広げられて露になった、かつての男の象徴の成れの果てに吸い付かれる。
更にはそのまま唇で包皮を剥かれ、剥き出しにされた核心の部分を、
まるで飴玉を味わうように、舌先でちろちろと転がされる。
「ほんっ…それっ…くる…し…っ…やめぇ…ああぁっ!?」
それまでで一番強い刺激…快感を突破した苦痛で、口を閉じられない…!
まるで快楽という名の地獄。ただただ、そこからの刺激だけで翻弄されてしまう。
切れかけた蛍光灯みたいに、意識が点滅する。
こんなのがあと少しでも続いたら、壊れてしまう…!
すっと、遠のいていた意識が戻ってくる。クリトリスへの刺激は止んでいた様だ。
しかし、股間には切なさを伴う緩い快感が与えられ続けている。
たまにぴりっと全身に響く衝撃の様な快感が混ざる。
あの恥ずかしい態勢では無くなっているが、手も足もだらしなく広げられている。
弛緩し切っていてまるで動かせそうにない。
ひゅーひゅーと煩い音がずっと聞こえていると思ったら、自分の呼吸音だ。
視線を動かすと、奴は俺の股の間に蹲り、秘裂を指で弄んでいる。
一本の指で掻き回し、二本揃えて捻じ込み、広げ、抜き差しする。
その度に、下腹部がきゅん、と絞られる様に疼く。
時折、こりっとする感触と共に鋭い快感が走り体を跳ねさせる。
「ぅぁ…ぁ…?」
「戻って来たか…んじゃ、そろそろいくぞ」
「ぇ…ろ、お…に…?」
「ばか、お前の処女を貰うって事だ」
「…ぁ…ぅ…ん…」
正直な所、聞こえてはいるけど意味が理解出来る程、頭が働いていない。
腰を掴まれ、熱いモノが俺の股間に押し付けられる。
それはこれまでにない程、俺の秘裂を広げながら、中に押し入ってくる。
濡れて、揉まれて柔らかくなって、受け入れ準備が整っていても、
体が小さ過ぎるのか、あっという間に限界に達し、痛みを伝えてくる。
「…くっ…きつ…」
っていうか、これ、俺の手首の一番細い箇所程度の太さはあるんじゃないか?
まだ、先端部分が入り切った訳でもないのに、既にみしみしと軋んでいる。
無理やり押し広げられる苦痛と異物感に、一旦は収まっていた恐怖が甦る。
異物を拒むように、きゅっと収縮するのがわかる。
「…あ…ら…え…、あ…っえ…」
「もう、止めらんねぇって、言ったよな?」
狭すぎて辛いのか、顔を歪めながらも挿入を止めようとはしない。
「…お、あ…の、あい…あ…あ…」
「力抜けって。余計痛いらしいぞ」
「そ…んあ…こと、いわれ…ても…」
ぐいっと、体を引き起こされる。こんなに軽々と持ち上げられちまうのか、俺…
肩に顎を乗せる形で、背中から脇の下に回された腕一本で支えられている。
脚は奴の体を跨ぐ形に投げ出されていて、支えの役には立たない。
そして奴の怒張は相変わらず怒髪天を付く勢いで、俺の膣口をこじ開けている。
手を離されたら、自重で貫かれてしまう。
「まっ…やめぇ…っ…」
両腕を奴の脇の下に差し込み背中で握り、脚に力を入れて自分の力で支えようともがくと、
片膝をひょいと抱え上げられてしまう。
「往生際が悪いぞ」
腕を少し下げたのか、少しだけ俺の中に沈み込んで来る。
それだけで、体を縦に引き裂かれる様な激痛。背筋が反り返る。
「か…あ、はぁっ…」
こいつに回した俺の腕は、滑ってしまって支えにはなりそうもない。
俺を支える腕が、俺をきつく抱き寄せる。
「ひゃあぁん!?」
うなじから耳の裏にかけていきなり舐め上げられて、
ぞくぞくするような快感が駆け巡り、あられもない悲鳴を上げる。
その瞬間を見計らったのか、一気に支えが無くなり、俺の体はがくんと沈んだ。
傷口を火箸で貫いたような(もちろんそんな経験はないが)激痛。
ぶちぶちと音を立てて引き裂かれた後にずしん、という衝撃。
「…っ…!…っ…!!」
声にならない悲鳴。
ただ酸素不足の金魚みたいに口をぱくぱくさせる事しか出来ない。
奴が膝を抱えていた腕を降ろし、俺の頭を抱き寄せる。
癖なのか、髪を梳る様な動きで俺の頭を撫でる。
暫くそのままで時間が過ぎる。
痛みが引いたのか慣れてきたのか、耐えられない痛みではなくなってきた。
それでも、異物を咥え込んだままでずきずきと痛む。
気を逸らすように手の動きに集中する。
撫でられた箇所があったかくて気持ちいい。そのまま厚い胸板に体重を預ける。
眼を閉じて、ちょっと顔をこすり付けてみる。胸毛が頬に当たってくすぐったい。
「猫みたいだな」
「…煩い。痛いのを、我慢、してるんだ…」
奴が猫にする様に、俺の喉から顎にかけてくすぐるように撫でる。
俺は本当に猫になった気分で顎を上げる。眼を開けると俺を見下ろすこいつと眼が合う。
顔が降りてきた。唇を奪われるかと思ったら、鼻に鼻をくっつけてきた。
くにっともこりっともつかない、不思議な感触。
「猫扱い、するなってば…」
「お前みたいな猫なら飼いたいかもな」
「ばぁか…んっ」
今度は本当に唇を奪われる。
ただし舌を捻じ込まれる強引なのではなく、啄むような優しいキス。
背中に回された手が脇の下を通り、俺の乳房を撫で回し、硬く尖った乳首を摘む。
「…はぁっ…」
また、快感の波が体を貫く。熱い溜息が漏れる。
それに気を良くしたのか、デコピンをする要領で指で弾いてくる。
「…あっ…」
人の家のチャイムで遊んでいる時の様に、緩急をつけながら、ぴんぴんと弾く。
「やっ…あっ…ひっ…と、の…からだ、で…あそ、ぶ…なぁっ…」
その度に喉が震えて、甘い声を出してしまう。まるで楽器にでもなった気分だ。
何度もそうされている内に、下半身のじくじくとする痛みが、
じんじんとした痺れにすり替わっていく。
ぐいっと体を持ち上げられ、ぐぽ、と結合部から音がした。
「ふあぁっ!?」
半分以上が引き抜かれ、奥深くでその存在を主張していた亀頭が入口近くに来る。
内臓を引き摺り出されたかのような違和感。
麻痺しているのか、痛みは殆ど感じなかった。
今度は押し付けられる。再び、奴の怒張が胎内深くに撃ち込まれる。
「んあぁっ…再開…するっ…なら…ひと、こと、くらいぃっ…!」
背骨を灼熱感が駆け上がってくる。
「限界。理性が焼き切れそうなんだよ。もう止められないからな」
繋がったまま、ぼすっとベッドにもつれ合う様に倒される。
そして、言葉通りに、余裕の欠片もないという風情で抽送を開始する。
クリトリスを弄られた時の、刺激を直接捻じ込まれる様な鋭さはない。
その代わり、奴の怒張に擦り上げられた箇所から火がついて燃え広がる様に、
突き込まれる度に快感が膨れ上がっていく。
快感という名の津波にさらわれ、押し流されていく。
もう自分がどんな嬌声を上げているのかも認識出来ない。
何かが来る…それとも俺が向かって行く?
そうか、これが…この果てが…
その時、一際深く打ち込まれた奴の怒張から、
俺の最奥、子宮に向けて液体を叩き付けられたのを感じた。
そしてそれを感じながら、俺もその果て…女の絶頂を迎えた。
この場合、絶頂に向かってイった、のかも知れないが。
エピローグ
…そんな下らない事を考えたりするのは、自我を保つ為だ。
意識を飛ばしたのはそんなに長い時間では無い筈。
隣では、やり遂げた男の顔で安らかに鼾をかいているケダモノが一匹。
ヤリ遂げたのは間違いないよな。中出しまでしやがったんだから。
余韻が抜けていくに従ってずきずきと痛み出している股間を見る。
破瓜の血と、俺自身の体液と、奴の精液でこれまたカオス。
…同じ惨状のシーツを引っぺがす。
これ、こっそり処分しないと…どう頑張っても痕跡残るよなぁ…
まぁ、捨てると決めたらとりあえず有効活用だ。
大雑把に拭いたら、惨状部分を隠すように丸めてとりあえず部屋の隅へ。
うぅ、股間に物が挟まったままみたいな異物感。
心地良い疲れに身も心も委ねて、眠りに落ちてしまいたい。
だが、俺には意識を手放す前に成さねばならない事がある。
鉛の様に重い体を引き摺って、その目的を遂行する。
そして、部屋に戻って平和に寝こけている奴の懐に潜り込み、安らかな眠りに落ちた。
…
「うおぉ、どこ行ったんだ!?」
あいつの切羽詰った声を心地良く聞きながら目覚める。
日は傾いて、部屋をオレンジ色に染めている。
そろそろ後始末を色々しないと両親が帰ってくる時間だ。
あいつの焦りは手に取る様にわかる。
眼を開くと、冬眠から目覚めたばかりの熊の様に、
うろうろと落ち着きの無いトランクス一丁のむくつけき大男。
「…鞄なら、隠したわよ?」
わざと女言葉で、笑いを堪えながら教えてやる。
「なっ…どうしてそんな事を!?裸で帰れってのか!?」
「服ならあるじゃない。そこに」
指差した先には、こいつの存在を公害へと変換させる、脱ぎ散らかされた悪夢の衣服。
理解と拒絶、絶望を内包したえもいえぬ顔で俺を見る。
「まさか、これ着て帰れって…言わない…よな…?」
「勿論、言うわよ?」
「何故!?ほわーい!?オレになんか恨みでもあるのかよべいべぇ!?」
「コトの最中、私にどんな格好をさせたか忘れたの?」
「う…あれはだな…お前があんまりにも可愛いから、つい、苛めたくなったって言うか…」
夕日に感謝だ。ここで顔を赤らめた事に感付かれたりしたら押し切れなくなってた所だ。
「そうねぇ…貴方がそこで全裸で同じ格好してみせてくれたら…」
「ぬぐっ…そ、それもヤダ…」
「…やっぱりそんなモノ見たくないから許してあげない♪」
「お、おぉう…まぢで…?」
「あら、冗談を言っている様に見えるかしら?」
顔の下半分だけ微笑ってみせる。女言葉と相俟ってうまく威圧感を出せているみたいだ。
…ちなみに、半分はポーズだ。
この情けない顔を見ただけで大分、気は済んでいる。
ただ、本当にあれは恥ずかしかったのだ。これで許すのは甘いという気もしている。
さて、許すか許さないか。それが問題だ。
…体が女になっちまった時、俺は男と女の間に境界線を引いた。
そして、どちらかを選ばなければならないと思っていた。
けれど、心まで女にはなり切れなかった。しかし男のままでい続ける事も出来なかった。
境界線を跨いだまま不安定に揺らいでいた。
そんな俺に、無理に選ばなくてもいいのだと、こいつが教えてくれた。
境界線を跨いでいる俺だからこそと、言ってくれた。
だから、俺は境界線を跨いだままだけど、もう揺るがない。
男でもある。女でもある。
都合に合わせてちょっと立ち位置をずらせばどちらにだってなれる。
それは揺れた結果ではなく、自分でその時々で選んだ結果。
このまま、境界線の上を歩いていこう。親友であり恋人でもあるこいつと一緒に。
どこまでも。
…許す許さないもきっちり分けて線引きしなくてもいいって事だよな。
時間ぎりぎりまでこうして迷うのも、きっと楽しいんだろうな。
これでカツル
良い作品でした。
神々の頂にまた一つ、新たなる神話が連なった事を感謝します。
トップバッターに戦況各々、そんな事全然ありません。
MLBの背番号『51』並みの良い仕事だと思います。
次回作とか期待しています!