それはある日のことだった。
いつものように蒼火の家に寄り付き、留守を良い事に好き勝手していたときの事。
「これは…、アルバムか?」
蒼火の自室、当主部屋の本棚を漁ると発見したアルバム。中身はそれなりの重量があり、相当数の写真が収まってることがわかった。
タイトルは無く、そして私は中身が気になっていた。
「……まさか蒼火が自分で自分を撮ったわけではなかろうな?」
蒼火は1人暮らしだ。あすなが来てからようやく2人暮しになったが、蒼火が当主になってからそれまで誰か招いた事も送り出したことも無いらしい。
とすると、自分で自分を映し、なおかつ写真に残す趣味の無い蒼火ならば、ここに自分の写真が入っていることは無いだろう。
ならばこの中に入っているのは誰の写真だ?
そう疑問が生まれると、途端に興味が出てきた。
「…………まぁ、見たとて、元に戻せば解るはずも無いだろう」
久しぶりに開けられるであろうアルバムは、ベリベリと音を立てて中身を見せた。
その中には、肌も髪も白く、ただ目だけが赤い少女の成長記録のような写真が何枚も何枚も収められている。
一枚目のページに書かれた文から、この少女が「雪姫」という名前だと解る。
「雪姫、か…」
何故かその名前を口にしながら、耳障りな音と共に新たなページをめくる。
小さな子供のときに、人形を抱きしめて笑う写真。
卒園式に父母と共に撮られた写真や、入学式の写真。
写真好きの親だったのだろうか、順調に成長していく娘の姿が事あるごとに撮られていた。
ふと、写真と写真の間でかなりの間隔が開けられているようで。
片方は中学生時代で、次に撮られたのが、私より少し年上くらいの頃。恐らく3年程度は開いてるだろうか。
何があったか。それは写真に写る雪姫の表情だけで、誰が近くにいたかは知りえることが出来た。
「恐らくこれは…、男が出来たな?」
そう、間が開いて撮られ始めた写真は大体が「少女」ではなく「女」の顔をしていたのだ。
それと同時に、少しずつやつれていった様子も見て取れた。
そして最後のページ。そこに収められていた写真で、私は決定的なものを見た。
白いチャペルで手を繋ぎあう、ドレスを着ている雪姫とタキシードを着ている蒼火。その顔は2人とも笑みが浮かんでおり、幸せそうに見える。
「これは…、これは、どういうことだ…? 蒼火と…、雪姫が、結婚…だと…?」
瞬間、酷く裏切られたような気がした。
確かに蒼火は自分のことを話さなかった。あんまり話したくない、と言っていたので敢えて聞かなかったが、まさかこんな過去があったとは…。
『ただいまー…、ん? 朱那ー、きてるのかー?』
ふと玄関の方から蒼火の声が聞こえてきた。次の私の行動は、またしても情動に駆られたものになる。
アルバムを閉じて後ろ手に持ち、部屋に戻ってくる蒼火を迎え撃つように、廊下で仁王立ちになり待つ。
向こう側から私の名を呼びつつ、よそ行きのスーツを着た蒼火がやってきた。
「あや朱那、やっぱりいたか。……どした?」
「……貴様に3つ、聞きたいことがある」
「あんだよ改まって…。答えるからちょっと待っててくれないか? 戻ってきたばっかりだし、着替えたいんだ」
「いや、今聞かんと腹の虫が収まらんのだ」
アルバムを開いて、結婚式の写真を見えやすいように突きつける。
「……これは誰だ! この娘は貴様の何だ! 何故貴様はこの娘と結婚している! ヤったのかヤってないのかどっちだ!」
「4つじゃねぇか! どこのスペイン宗教裁判だ!」
「そんな空飛ぶモンティ・パイソンを引き合いに出すな! 私の質問に答えろ! 貴様は私を…、私を弄んだのか…っ!?」
スカートを弄って魔羅を取り出し、刀へと変形させる。当然抜き身であり、蒼火の胸元に切っ先が突きつけられている。
「待て朱那、ちょっと落ち着け。左手には花束右手には約束を、みたいな状況ですごい恐いんだが、後10cm進まれると俺の心臓が串刺しだっ!?」
「うるさい! こんなことを隠し続けていた貴様は私とお揃いの真っ赤になってしまえ!」
「それは絶対一緒になれないフラグじゃねぇか! というか進むな、刺さった! 痛い!」
ずぶり!
「ぐ…っ!?」
「は…っ!?」
詰め寄った瞬間に深々と刺さった。しかも肉体を貫通して、蒼火の背中から刃が生えている。
…ヤってしまった。
生死判定中。しばらくお待ちください。
* * *
「あー…、死ぬかと思った…」
「心臓を刺されてなお平気な貴様に、私は驚きを禁じえんよ…」
「刺した本人が言う台詞か、それは!」
「う…、……すまん…」
表情を曇らせて朱那が謝ってくる。とりあえず命があっただけめっけもんなので、この問題はここで終わりにしておく。
居間に移動して2人分の茶を用意し、気を落ち着けるようにお互い茶をひと啜り。
飲み込んで、溜息を吐き出し、ようやく本題にとりかかる。
「ま、いいか。…んで聞きたいことだっけ?」
「そうだ…。この写真を見て…、どうしても抑え切れなくてな…」
そう言われて、出された写真に視線を落とす。
「懐かしい写真を引っ張り出しやがって…。…正直に言うと、見られたくなかったんだぞ?」
「う…」
「それをお前は人の留守中に家の中をあさるわ勝手に見つけるわ…、俺は怒りより呆れが抑えられんよ」
正確には呆れしか出てきはしない。これを見ていると、怒りなんて感情は出てこなくなる。
それほどの想いがこの写真の中には詰まってる。俺の胸の中にも、しっかりと。
「それで…、その……、こいつ、は…?」
かなり控えめな態度になりながら、朱那が訊いてくる。ここで誤魔化す必要は…、無いよな。
「これは…、俺の遠縁、この家屋敷の元の持ち主で…、俺の亡妻の写真だよ。
名を忌乃雪姫(いまわの ゆき)。俺をこの家に迎え入れ、鬼として目覚めた俺に力の使い方、鬼としての生き方を教えてくれた人。
そして……俺が看取った妻だ」
「……相手がいたなんて思いもしなかったぞ…」
「あのな、歴史の無い人間なんていないの。俺だって恋をしたことが無い訳じゃないんだからな?」
「そう、なのか…。……蒼火…、貴様は…、この娘を、…好いているのか…?」
あ、こんにゃろ。あえて現在進行形で聞いてきてるな?
…けどまぁ、ここで意地悪い言い方をしても意味は無いからな。ちゃんと答えよう。
「あぁ、好きだった。彼女がいなければ今の俺はいないし、ここにいて仕事をすることも出来なかったからな。
…んで、どうして結婚したか、か……。……そこも語らなきゃダメか?」
「ダメだ、私の気が納まらん…」
「そっかー…。……思い出話なんてあんまり語りたくないんだけどなぁ?」
「思い出まで語れとは言っておらんぞ。…経緯と、お前が受け入れた訳を聞きたいのだ…」
こうして見ると、本当に“女”になったよな、朱那は。肉体に馴染んだのも、俺との関係もあるだろうが。
…こんな会話なんて、男同士じゃほぼあり得んだろうし。
ため息一つを噛み殺しながら、少しだけ遠くを見つつ、告げる。
「理由は……、俺を『忌乃』姓にする為だ。彼女はそう長くなかったからな」
「え…?」
正確に言えば、これは理由のうち1つだ。本当の理由は別にあるけど…。
「俺の来歴は話したろ? 元々蒼の鬼の血を引いていた人間の家の生まれで…、死んだ影響でこうなった、って。
……俺にはちゃんと別の姓と名があったんだよ」
そう。『忌乃』の苗字は俺の本来の姓じゃない。細々とながら鬼としての血を残していた、この家の姓だ。
目覚めてしまった俺がそれを名乗っている理由は、どうってことはない。彼女と結婚し、婿入りとしてこの家に入ったからだ。
「雪姫の色を見てみろ、真っ白だろ? ……彼女は体が弱くてな。医者は長く生きられないと言ってたよ」
「…もしや蒼火、貴様…」
「察しはついたか?」
「あ、あぁ…」
「だったら皆まで言うな。…もう怒らないから、アルバムはしまってこい」
冷めてきた茶を飲み干して、外を眺める。元々そんな気も無いが、恐がってる朱那をなだめるために、そう伝える。
…察してくれるだろうか。結婚した彼女の理由のもう1つと、俺がそれを受け入れた理由を。
* * *
蒼の鬼は変わり者の血筋だった。何を考えたのか、鬼の中で人に恋をし、人として生きることを選んだ一族だ。
それは人との交配を重ね、人の血と変わらぬほどに鬼の血を薄め、いつか人の中に消えることを望んだ一族だ。
だが、忌乃家だけは違った。薄れてきた鬼の血を自覚し、それを残そうとしたのだ。
鬼としての血を残すと考えたのは、系譜の中で誰だったかは解っていない。しかしその方法が間違っていたのは確かだ。
力と、血の濃さを取り戻すために行われた方法。近親交配。
確かに力は強くなったし、純化もされていった。大地と繋がり、天空の力を操ることさえ可能となった。
しかしそれは同時に肉体寿命を短くする弊害を伴っていたのだ。鬼としての強靭な肉体を捨てて、術式に特化してしまった。
そしてそれは彼女の時に、集大成となって出てきたのだ。
少女、忌乃雪姫は虚弱だった。
先天性色素欠乏症、そして重度の免疫不全。彼女の体は己の免疫機能だけで肉体を防護できないほどに弱りきって産まれていた。
彼女は20歳まで生きられないと宣告された。それはつまり、1人の女性として幸せを追求することが殆ど出来ないことだ。死ぬ直前までに没入できることがあるなら、また話は別だったかもしれない。
しかし彼女にはそれが無かった。免疫不全という事から、風邪でさえ命取りになりかねない彼女は、何をすることも出来なかった。
彼女の死期が近くなってきた、ある秋も近い季節の変わり目。俺と彼女は、居間で一枚の紙を間に置き顔をつき合わせていた。
「…――さん、これを」
「…雪姫、これは?」
「婚姻届です。遠い血縁というだけですと、遺産相続には聊か不都合がありますし…、配偶者になるなら、問題は無いでしょう?」
「……俺で、…いいのか…?」
「はい。――さんだからこそ、です。今の――さんならこの家を任せられるのと…、その…、私も、嫌なわけでは、ありませんから…」
白い肌が紅潮する様子が良く解る。
俺は彼女を好いていた。鬼として家族と離別した今、身よりも無い俺を受け入れてくれた彼女を。日々を共に過ごし、同じ思いを共有していった彼女を。好きにならないわけが無かった。
だからこそ俺は、彼女が何を見ていたのか知っていて…。
「…解ったよ、雪姫。謹んでこの話…、受けさせてもらう」
「はい…。不束者ですが、よろしくお願いします…」
互いに深く頭を下げあう。
婚姻届に名を書いて、噛み切った指で拇印を押す。彼女と、証明の為の名前も既に書かれていて。後はこれを役所に提出すれば終わる。
終わるのだが…。それだけで済ませたくはなかった。
「それじゃあさ…、式を挙げよう?」
「え…? 式って…、結婚式…、ですか?」
「あぁ。…実はさ、知ってたよ。君がずっとチャペルを寂しそうな目で見てたこと。自分は出来ないからって、あんな目で…」
「まさか…、え、えぇと、それって6月のあの時ですよねっ、まさかあの時のことを覚えてたんですかっ?」
過ぎ去った6月。ジューンブライドとかで幸せになりたいと焦る人たちが躍起になって式をする時期。
ニュースでも式場のチラシでもよく目にするチャペルを見て、彼女の瞳が細くなったのを俺は知っていた。
「あぁ。…たとえ短くても夫婦(めおと)になるんだ。その間だけだとしても…、君に幸せになってもらいたい。楽しい思い出をいっぱい作ってあげたい…。寂しいままで終わらせたくないんだ…。
だから雪姫。……結婚式をしよう?」
彼女の目を見据えて告げる。嘘偽りのない思いをハッキリと。
次第に彼女の目に涙が滲み、子供のように泣きじゃくりだす。
「何で…、…何で、そんなこと言うんですか…、――さんは…っ、私、覚悟して、たんですよ…っ?
……そんなこと、言われたら…、思い出なんて、作ったら…、死にたく、なくなっちゃうじゃないですかぁ…っ」
彼女が心中で死の運命を受け入れてたのも知っている。けれど俺は、何をおいても言いたかった。
美しいものを持たせるのは悪いことじゃ無いはずだ。この世には沢山楽しいものがあって、またそれを見る為に生きてほしいと思うことは、悪いことじゃ無いはずだ。
そう願って、俺は言った。
その後のフォローがうまく出来ずに、彼女を泣かせ続けてしまったことは、きっと俺は誰にも語らないだろう。
急いで準備をしつつ開かれた俺と雪姫との結婚式。集まってくれた人は沢山いて。とはいっても、殆どがご近所さんだったけど、それでも俺たちは祝福されていた。
俺も雪姫も、同じ鬼の血筋で。殆ど血縁関係なんてない遠縁だったけど結ばれて。
彼女が望んだように、チャペルで死が二人を別つまで、永遠の愛を誓い合って。
互いの薬指に指輪をはめて。
一緒に住んでいただけの俺たちは、最初の口付けを交わした。
たとえ遠くない先に別離が待っていたとしても、そのときの俺たちは、紛れも無く幸せだった。
* * *
蒼火の部屋。言われたとおりにアルバムを戻しに来た私は、また開いて見ている。
何度写真を見ても、結婚式をしている2人の笑顔は本物だ。これが本物以外の何だといえるのだろう。
それほどまでに2人は輝いていて、それほどまでに2人は嬉しそうだ。
いや、実際嬉しかったのだろう。それ以外に、このような表情を作る術を今の私は知らない。
その理由を今の私がうかがい知ることはできない。できないが、たった一つだけ、私の中に生まれた思いがある。
「…羨ましいな…」
好きな人と結ばれたことを、沢山の人に見られて、大切な人と手を繋いで共に歩く。
少し前の“俺”では思い浮かばなかったことなのに。
浮かんでしまっても、きっと別の、幸せそうな惚(ほう)けた顔をして。とか思っていただろうに。
けれど今の“私”では雪姫に対してそう思ってしまって。
それがどういうことなのかを、今の私はまだ解らなかった。
解ろうとしていなかっただけなのかもしれない。
私は心の中の本当の思いに気付いていて。
しかしそれを明確にしようとしていないだけで。
言葉にするのが恐かっただけなのかもしれない。
* * *
「……未練だよなぁ」
彼女との記憶を思い返してしまった俺は、胸元に輝くペンダントを見つめている。
俺たちの結婚した証の指輪がアクセントとしてぶら下がってるネックレス。チェーンは味気ない小さな銀製で、とりあえず付けられればいい、程度のものだ。
誰にも見られないよう服の中に隠しているし、着替えの際にはどうしても見てしまうけど、彼女を思い出すとその手に取りたくなってしまう。
普段から付けてない理由は簡単だ。荒事では主に拳打を使うので、指輪を付けたままでは殴れない。というかそもそも握力の影響で、強くこぶしを握り締めれば千切れてしまうのだ。
飾り気の薄い指輪で、これが左手の薬指にない限り結婚指輪だと解らないだろう。
それくらいに味気ない、そんな指輪。今はこの指輪とあの写真、そしてこの体が、彼女との繋がりだ。
共に生きるといえば聞こえは良いが、それだけだ。俺だけが今を生きているのは変わらないし、彼女だけが死んでいるのも変わらない。
気分の落とし所と言えば良いのだろうか。それを作らなければ、延々と引きずられていきそうだから…。
まだ、これをもう一度つける気には、なれなかった。
* * *
雪姫との結婚生活はそう長くは無い。
寿命が尽きようとしているのは見て取れていて、一日一日時が経つごとに、確かに彼女は弱っていった。
結婚式を挙げて一月後には、もう床の上から動けなくなっていて。外出もできて2時間。けれどそれも、次第に短くなっていた。
それでも、冬が近づいた次期まで保っていられたのは、一つの奇跡か。
さもなくば…、死神の慈悲だったのだろうか。
「はぁ……、私は駄目な妻ですね…」
「いきなりあにさ、雪姫。変なことを言って…」
「だってそうじゃないですか。旦那さまのお相手もろくにできず、床からも出られないんですよ…?」
「…………」
少しだけおどけるように言う雪姫の表情には、小さいけれど確かに悔しさが滲んでて。
俺はそれに対し、気休めのようなことしか言えないのが歯がゆかった。
「そんな事無いよ…。雪姫が居てくれたから、俺は君に出会えた。君に沢山教えてもらったことを…こんな形だけど、少しずつ返せて、俺は嬉しいんだ」
「それでも私は不満です。甘えたいんじゃなくて、私は旦那さまに甘えてほしいんですから」
これが彼女だ。大抵の場合は甘えたいとかそう言うだろう。しかし彼女は“俺に甘えてほしい”と、そう言うのだ。
詳しい理由を聞くことはできなかったけど、それでも彼女がこの主張を曲げたことは、結婚するより前から一度も無い。
「俺は雪姫に甘えてほしいと思うんだけど、それは悪いことか?」
「甘えっぱなしでは気分が悪いんです」
少しだけ拗ねるような雪姫をなだめて、食事を彼女に食べさせる。
消化に易しいご飯を食べ終えて、食器を片付けようとしたときに、彼女はぽつりと呟いた。
「ねぇ、――さん? 今日は一緒に寝ましょう?」
「え…?」
「お願いします、布団が別々だと寂しいんですよ…」
「…あぁ、解ったよ。夜も空気が冷たくなってきたから寒いしね…」
「はい。ありがとうございます。一緒に温まりましょうね…♪」
「その前に、食器、片付けてくるね?」
「はい、待ってますね」
彼女は自分の名の通り、雪のように儚げな笑みを浮かべ、俺もそれに笑みで返す。
片づけを終えて寝間着に着替え、そのまま雪姫の布団に隣り合わせで入り込む。
同じ布団に入ってでの彼女を見るのは初めてだけど、幸せそうな顔が見える。
「こうしていると、私はとっても幸せです。抱きしめると、――さんが離れませんから」
雪姫が腕を伸ばして俺の体を掴むと、身を寄せてくる。白い服の隙間から見える白い肌が触れる。
ただその体は、確かに暖かくて、いい香りがして。そこに居るだけで気持ちよくなってきて。
「ねぇ…甘えてください、――さん。いっぱい抱いてください」
「え…?」
「優しくしてくれるのは嬉しいです。…ですけど、私は同じくらい、――さんに優しくしたいんです」
「…………」
健気で、優しくて、そして強い雪姫。俺の愛しい妻。
大切にしたかったし、傷付けたくなかった。鬼としての力ばかりが強かった俺は、彼女を抱くのが恐くて。もしかしたら腕の中で潰してしまわないかと考えて。
当事の俺は今よりまだ若くて、強大な力の使い方をようやく覚えてきたばかりのガキで。その力が強大すぎることに怯えていた。
だから、何もできなかった。
「…ごめん…、雪姫……。俺は、恐いんだ…。普段はなんでもないけど…、少し力を入れただけで鉄さえ簡単にひしゃげさせる体が…。
今だってそうだ…。君を抱きしめて…、潰してしまいやしないか、ずっと考えて…」
するりと、雪姫の腕が俺の背にまで伸び、抱きすくめられる形になる。
「恐がりさんですね、――さんは。大丈夫です、平気ですよ。…いい子、いい子」
まるで子供をあやす様に頭を撫でてきて。
「そんなに恐がらなくても大丈夫です。懼れ恐れれば心が磨り減ってしまいますよ…。
――さんの力は確かに強いです。私なんかでは到底敵わないほど。ですけどそれは確かに抑えられる、――さんの意志の元に使うことができる筈です。
今は恐くても、きっと。遠くない未来に使いこなすことができます…」
なだめるように、慰めるように、頭を撫でながら彼女は続けていく。
「今に続く私たちの血は、始祖が答えをくれています。人との間に愛を育むことの出来る優しさで生まれ、想いあって繋がってます。それを――さんも繋げていくことができるって、信じてますから…。
…ですから、大丈夫ですよ。――さんの腕は恐くないんです。
だって…、こんなにも優しいじゃないですか」
知らず知らずのうちに雪姫を抱きしめていた俺の腕を、そっと撫でてくる。
細くて、脆くて、儚くて、少し力を入れるだけで壊れてしまいそうな体なのに。ただ愛しいと思うだけで、ただ想いが籠められるだけで、包み込むような柔らかさを以って、彼女を抱きしめていた。
「はぁ…、あったかい…」
俺の腕の中から聞こえる、穏やかな声に包まれて。徐々に俺の意識は眠りの闇に向かって落ちていき…、
「これが、最期ですから…」
呟かれた彼女の言葉を、俺は聞き取ることができなかった。
* * *
「蒼火さん蒼火さん、仕事が入りましたよー」
「んぅー、どんな内容だ?」
事務の電話番もしているあすな(元・狗業)が仕事を持ってきた。スケジュールとかは開いてるので仕事が入ったところで何の問題も無い。
しかしこいつは毎度俺が厄介に思うネタを好んで入れてくるので、電話番から降ろそうか検討中。
「今回は…、女性専用車両に出てくる痴漢悪霊の退治です。殴るなり押し出すなり轢かせてマグロにするなりお好きにどうぞ?」
「おいコラ! そこに行けって俺は言われてるのか!? 男だぞ俺は…!」
とまぁご覧の通りだ。
普通無理だろ! ってな依頼を好んで受け入れ、その上で俺に通してくる。以前のように、所長の俺がちゃんと電話も取るべきか。
「何言ってるんですか、蒼火さんは女の子に変身できるんですし、楽勝楽勝」
「ったく、好き勝手に言ってくれるなお前は! 解ったよ行くよ行きますよ!」
正直なところ、こいつと舌戦を行うと確実に負けるので、早々に折れておく。
念じながら息を吐くと、肉体に変化が起こる。
身長が縮み、肩幅が狭くなる。手足が細くなって、肌から色が抜けるように白くなる。
視界に見える髪の色も黒から白へと変じ、眼鏡越しの視界がボヤけて、シャツの中で2つの山が膨らむ。
裸眼になって姿見の鏡に映すと、男のそれではなく女の、雪姫の体に変化していた。ダボついた服を延ばすも、やっぱり丈が余ってしまい、服に着られているような状態になる。
「…よしっ」
「いつ見ても自然な変身ですよね。ボクもそんな風に変身できたら良かったんですけど」
「無理言うなよ、双転証は存在を無理矢理変える術だぞ? もう少し細かく手を入れたらどうなるか、俺にも見当が付かないんだから。練身丸でもありゃなぁ…」
「ダメダメですねぇ蒼火さんは」
「俺の庇護の立場にいる存在が言えることかそれは」
「言いますよ、あなたに責任を取って貰わない限りボクはここから出て行きませんもーん」
「そうでなくても出て行きゃしねぇだろが…」
「当然です。ティンダロスの猟犬のように、狙った獲物は逃がしませんよ?」
「不安すぎる名前を出すなよ…。球体の中にいない限り逃げられないぞ、それ」
「それだけで逃げられると思わないで下さいね? わんっ♪」
相変わらずあすなの相手は疲れる。朱那との会話はもっと解りやすいキャッチボールで、こんな手ごたえの無い会話じゃない。
いつもいつも俺のほうが折れて会話を切り上げる形になり、その場から離れていく。
「あーもう、解ったから俺は行くぞ。依頼の詳細情報は?」
「それはここにあります。明日の始発から乗りますか?」
あすなが依頼の情報を纏めた資料を渡してくる。それを受け取り、上から下まで目を通し。
「……そうだな、女性専用車両が機能してる時間にしか出てないようだし、暫くはりついてみるか」
「がんばってくださいねー。ボクは何もできませんからー♪」
楽しそうだなこんにゃろう。
何も応えずに踵を返し、自室へと向かう。入ってみれば朱那が既に片づけを終えていて、部屋の中はがらんとしていた。
着替えるために服を脱ぎ、誰にでもなく裸身を晒す。
透き通るように白い肌、触れれば折れてしまいそうな細い手足、それでもなお女性としての存在を主張する控えめな乳房や臀部。
それらの全てを鏡に映し、着替えを始めていく。
この体を俺のものにして、また俺が自在に使うようになった経緯は、彼女の死後まで遡ることになる。
* * *
2人で床を共にした翌朝。
いつもは雪姫の方が早く起きるのだが、めずらしく雪姫より早く覚醒した俺は、眠い目を擦りながら枕もとの眼鏡を取り、かけた。
隣で寝ている彼女は、とても静かに寝ていて。
まるで早朝の空気のように、しんと静かで…。
「雪姫、朝だよ? 起きよ、……っ!?」
起こそうとして体を揺すって…、気付いた。
その体は冷たくなっていた。
呼吸もしておらず、動かない。
息も聞こえない。
「……………………
あ、れ……?」
その瞬間、俺の思考は完全に停止していた。考えたくなかったのもあるし、考えられなかったのもある。
現実を認めたくなかった。ただそれだけで。
「…雪姫…、雪姫…? 起きようよ…、朝だよ、今日も良い天気だよ…?」
まるで壊れた人形のように、動かない雪姫を起こそうと揺すり続けてる。
届かない声をかけ続けて、返らない言葉を言い続けて。
数分が経って、俺はようやく理解した。理解しきってしまった。
彼女はもう鼓動を刻まない。
彼女はもう温もりがない。
彼女はもう微笑まない。
彼女はもう動かない。
…死んだことに。
揺することをやめて、声をかけるのを止めて、永遠の眠りについた彼女の隣で座って。
隣の部屋にある置時計の秒針の音が響いてきて、あぁ、こんなにもこの家は静かだったのかと思い知って。
動く気力さえなくなっていた俺の後ろから、声がかけられた。
「おはようございます、死神です」
息を呑みながら振り返る。いつの間にか佇んでいるのは、年のころが10歳頃だろうか。しかし深く暗い死の気配を漂わせている、大きな鎌をもった存在。
名前だけは知っている、というか今自称した、しかし初めて見た、死神。
「あなたには選択肢が二つあります。私の話を聞くか、聞かないか。単刀直入に言いましょうか」
俺の状態を気にせず淡々と告げてくる。ここで選択肢を突きつけて、こいつは何がしたいんだ?
「特別困るような内容じゃありませんよ。どちらを選択しても構わない、程度の事ですし」
口調を強めもしなければ弱めもしない、至極“いつもどおり”と言った感覚で伝えてくる。
聞いても聞かなくても構わない、か。どうするかな…。聞かなくても良い、聞いたって良い。別に俺は、どっちだって良くって。
あぁでもどんな内容だろう、何もないと言える俺が悔するような話なのか? それでも聞こうか。いいか、聞こう。
「ではそれで」
「…っ!?」
口は動かなかった。確かに言葉にしていなかった筈なのに、死神は理解したと言わんばかりに、目を瞑って小さく頷いた。
もしかしてこいつ、俺の心を読んでいるのか?
「正解です。鈍感なくせに案外察しがいいですね、あなた」
1人だけで喋る、いや一方的なコミュニケーション行為を繰り返す死神は、俺の言葉を待たずに喋りだす。
「あなたがご存知の通り私は死神です。ここにはちょっとした用事で来まして、今あなたと話をしています」
用事。死神の用事。…もしかして仕事なのか? 死者の魂を運ぶという。
言葉を咀嚼し、飲み込んで、問うた。
「お前は…、雪姫を連れて行くのか…?」
「まさか。死神の導きがなくても、彼女はあの世に行けるだけの強い魂ですから、私の手引きは不要です。
私は用事と言いました。ただの野暮用で、それ以上でもそれ以下でもありません。あなたに、問い掛けにきたんです」
問いの答えは否定。それに安堵する間も死神は与えてくれない。
服のポケットから、1つの小瓶を取り出す。中には赤黒い液体が満ちていて、ビンが揺れると共に中身も同時にゆれる。
「これは生前、忌乃雪姫が遺した血液です。ここでさらに二つの選択肢をあなたに投げかけましょう。
あなたはこれを飲むか、飲まないか。選ぶことができます」
表情すら変えずに、淡々と告げる。
それはまるで誰の側にも平等にやってくる死のように。まるで抗おうとも流れてゆく時の流れのように。
「飲むと得られる効果は、ことのほか単純。忌乃雪姫の持っていた力をあなたが取得することができ、そして多少なりとも、“忌乃の血”をその体に宿すことができます」
突きつけられたビンが揺れる。
中に収められた、誰の内にも流れている、赤く激しいものが揺れる。
彼女の力を得る? 血を遺す? 俺が、彼女の分を? 雪姫の、血を?
「聞かせてくれ…」
「何でしょう?」
「……お前は、いつから彼女を知ってたんだ…?」
「一週間ほど前からです。彼女の死期が近づいてたので様子を見てたら気付かれまして、頼まれごとまでされてしまいましたよ」
やれやれ、とばかりに肩をすくめる。ただし表情は一切動いてない。
この問いに意味はあるのか? いや、きっと無い。
きっと考えることもできていなくて、ただ頭の隅に引っかかっていたことを問うただけで。
それさえも大事なことではなくて。俺の頭の中には大事なことはなくなっていて。
あぁそうだ、今の俺はただのやけっぱち以外の何物でもないんだ。
だから俺はどうでも良くて。辛うじて上げていた頭が落ち俯いたまま、死神の姿も見ないで腕を伸ばす。
「…くれよ、それ。…飲んでやるよ」
「ダメです」
にべも無く断られた。
「…あんでだよ…、お前が聞いたんだろ、飲むか飲まないか…。いいよ、飲めば良いんだろ…?」
「だからダメです」
死神の言葉は変わらない。告げる言葉の調子もまるで変動しないまま。
「自分の足で立てそうにない惰弱坊やに渡した所で、それにすがりついて泣くのが関の山でしょう。
ほら泣いてみなさい、泣き喚いて無様でみっともない姿を見せてみなさい」
「お前…!黙ってれば言いたい放題言って…!」
「言いますよ? だってあなたがあまりにも言葉攻めしやすい状況ですからね。
しかし忌乃雪姫も案外見る目の無い娘でしたね。優しくしたいと言ってた女を抱けない、こんな甲斐性なしを好きになって結婚したんですから」
「…………ッ!」
「あ、殴ります? 殴りますか? いいですよ別に、今の腐抜けたあなたに出来るものならどぶっ!?」
頭の中で何かが切れた瞬間に、手が出ていた。多分音の速さに近づいていたか、下手をすれば越えていたか。
死神の顔面に向けて、吸い込まれるように握り拳を放っていた。
直撃を受けて吹き飛び、襖を打ち抜いて飛んでいった死神は、家の塀にぶつかってようやく止まった。
「おぉ、まさか本当に殴るとは。いい感じにプッツンしてますね、堪えかねてますか、腹に据えかねてますか」
「…あぁそうだね…、腹が立ってしょうがねぇ…」
怒りの感情がふつふつと湧き上がってきて。多くを表に出さずに、しかし内心でこの激情は収まらなくて。
動かないままでいる死神に向けて歩いていく。裸足のまま庭に出て、踏みしめる足がいつも以上に地面を抉る。
頭髪の近くで火が爆ぜるような音が聞こえてくる。怒りに応えるように、徐々に強くなっていく。
「…右ですか、左ですか? それともオラオラですか?」
「そんな選択は必要ねぇ…」
拳を振り上げて、握りしめる。雪姫から教えてもらった俺の力、炎が吹き上がってくる。
全力を込めて、振り下ろした。
拳の勢いに風が巻き取られ、局所的な突風を伴い、死神の頭へと向けて突き出され…、
バシンッ!!!
と、空気の破裂する音がした。
「…………」
「…………」
「……意外でしたよ。てっきり本気で殴るのかと思ったんですけど」
「…いい加減な事言うんじゃねぇよ。どうせ解ってたんだろうが」
「えぇ、それはもう」
死神の眼前で拳は止まり…、一度沸騰してしまった頭は、既に冴えてしまっていた。
怒りが湧き上がってくると同時に、頭の片隅がどうしても冷静な判断を下して、けれど止められなくて。拳だけを振り下ろす形で、それは止まった。
全力で殴る気は毛頭無かった。そんな事をしても意味が無い事は知ってるし、起こったことが変えられる訳じゃない。
彼女は死んだ。それは変わらない。変えられるわけが無いし、そんなつもりもない。
仮に出来たとしても、恐らく雪姫自身は蘇生を望まないだろうし、無理に行ってもその肉体に魂は恐らく、入っていないだろう。
それだけを愛しているというのならその選択肢を取るかもしれない。…が、そんな積りは毛頭ない。
俺が愛したのは“誰”なんだ? 俺が愛した人は姿だけか? 果たして本当にそれが、それだけが彼女なのか?
違う。断じて違う。
言葉にしなくても、心の中で気付いて。その思いを胸に据える。
「……で、気は済みましたか?」
「あぁ。…殴っちまって悪かった」
打撃のダメージさえ気にしない様子で死神が立ち上がる。その表情は変わらぬままで、まったく気にした様子は無くて。
「別に構いませんよ、殴られた所は部分的に《透過浸行》で通過しましたし、無駄無駄です」
「そりゃそうだよな。打音が聞こえなきゃ当たったわけじゃねぇし、手ごたえも無かったからな」
「えぇ、避けました。……で、どうです? 少しは心が起き上がりましたか?」
ふぅ、と息を吐き出して、思ったとおりのことを口に出す。隠し事なんてこの死神相手にはまったく通用しないことは、さっきから続く会話で理解しきっていた。
「…少しは、な。嫌でも起き上がったというべきか」
「そうですか。そもそも私は、自分でやり切れなかったことの引継ぎなんて乗り気じゃなかったんですよ。
だったらせめて暇つぶしができるように言葉責めをするんです」
死神がいきなり愚痴に走り出す。その為に人をこき下ろしやがったのか。
「そうですよ? 何を今更」
「……まぁ、甲斐性無しとかその辺は自覚してるよ。理由はどうあれ、俺は雪姫を抱けなかったわけだからな…」
「そうしてずっと自分を嫌いになり続けていくんですね。人として産まれた自分を呪い、鬼に成った自分を悪として、好きになった女を抱けないことを悔やんで」
「……」
そのことには何も応えられない。応える気が無いし…、取り繕ったところで意味が無いからだ。
ただ足は部屋の中を、雪姫の眠っている布団を目指していて、横に座り込んで彼女の顔を見た。
死に顔は安らかで、苦しんで死の河を渡った様子は無い。それどころか微笑んでいるような節すらある。
「でしたら、そうですね。…忌乃雪姫のことは、好きですか?」
「当たり前だ。そこだけは変わらないし、変えるつもりも無い」
「なら話は簡単です。あなたはまず“忌乃雪姫を好きな自分”を肯定しました。そこに迷いは無い。
最初から全てを受け入れる必要は無いわけで、肯定できる自分から好きになれば良いんですよ」
「…肯定できる、自分、か…」
「そこから“忌乃雪姫が好きになった自分”を肯定し、“これから出会う人から見た自分”を受け入れて行けばいいんです。
その全てが自分自身であり、過去も未来も全てひっくるめて、変えようもない“己”になります」
果たして死神が言ってくるこの言葉は真実なのか。良いように人を先導しようとしているのか、それとも別の目論見があるのか。
もしくはもっと別の、今の俺には見当もつかない考えがあるのか…?
「本心が聞きたいですか?」
「言うな。それ以上は本気で殴るぞ」
「おぉ恐い恐い…」
こればっかりは冗談抜きだ。冷静な思考を踏み潰してでも今この場で争い、近所の人たちに正体がばれてしまったとしても構わないという程の想いがあった。
それだけ真剣に考えている事だし、邪魔されることは避けたかった。
…けれど、俺が自分を好きになれるか、なれないか。
「…今すぐ飲み込むのには、ちょっと色々ありすぎたな…。答えが出るかは今後の俺次第だよ…」
「そうですか、こちらの問題は先送りということで。…本題ですが、飲みますか飲みませんか?」
今更のようにこの死神は訊いてくる。
自分のことに関しては回答を先送りにしたが、血を飲むことをどうするかは決まった。というのに人の心を覗いて訊いてくるのだから、本当に性格が悪い。
「直接聞かないと据わりが悪いんですよ。言葉にしない想いは容易く消えるし、言葉にし過ぎた想いは嘘のように軽くなりますからね。
ですから是非、是非とも、あなたの口から直接、言ってほしいんです。さぁ、ほれ、うりゃうりゃ」
優しさで生まれ、思いで繋がりあう血に連なる者ならば。俺が誰かに受けた優しさを、想いを伝える為に生き続ける。
次に俺がすることは。そうだ、やらなければいけない事は、決まっていた。
「…飲むよ。ただし、49日が過ぎた後にな」
それが俺の決めた結論。
愛した彼女の全てをひっくるめて、受け止めて。これ以上は落ち込んでいられない、哀悼の終った“現実”に戻ってきた時に。
その時に、彼女を受け入れる。
「そうですか」
「だから、終わった後にまた持ってきてくれ。俺の手元にあると…、すぐ飲んでしまいそうだ」
鬼として生まれ、人の世で生きた、愛する妻との、現世での別れを経た後で。
「……わかりました。…それではまた後日に」
“君”を背負い歩んでいくよ、雪姫…。
「クサッ」
「はよ帰れっ!!」
* * *
始発電車の中。まだ人もまばらでそんなに乗客は多くない。
雪姫の姿で乗り込んだ俺は、扉の付近に立っている。座っていれば痴漢悪霊の攻撃対象になるかは怪しく、可能な限り立って、相手に隙を見せなければいけないのだ。
これがまた案外楽なモンじゃない。
武術をやってると、普段の所作でさえ思わぬところで兆候が見えてしまう。
相手方が仮に心得がないと言い切れず、見抜かれないとも言い切れない。だから気を抜いて、わざと隙を作って、自分は無害だと相手に誤認させる。
何度も往復して乗車していると、通勤通学時間になるにつれて人が増えてくる。当然女性専用車両なので、右も左も女性だけだ。
電車の振動に揺られている内に、早めに起きた分睡魔が襲ってきそうになるのを、何とか叩きのめして堪えて。
それに気付いた。
後ろから感じる、明らかに興奮している吐息と、俺の尻に触れる細く小さい女性の手。
まさぐっている手はどう見ても慣れた様子で、もしや生前からか、それとも死後にやりなれたのか、痴漢の常習者であることが解る。
「は…、はぁ、ん…っ」
車輪の音にかき消されそうな水音と嬌声が、後ろから俺の耳に届く。自分でも女性のそれを弄って愉しんでいるのだろう。
しかしいつの間に?
周辺には浮遊霊が居ることはいるが、そのどれもが希薄で…、おそらく霊体のまま入ってきたわけじゃない。誰かに入ったままの乗車したのだろう。
で、無防備そうに見える俺を狙って来た、って所か? うまくいったようで、内心ほくそ笑む。
さて…、狙いの相手は釣れた。向こうが気付く前に引き剥がしておこうかな。
後は会話で何とかなればよし、ならなければ…。地獄へ強制移動ってことで。
一枚の、血で紋様が描かれた符を手挟み、籠となるように魔力を込めた。
あ、でもコイツの手、やっぱり慣れてるな…、なんか、女が感じるやり方ってのを知ってるみたいだ。自分でやってるからか?
尻から湧き上がる快感を何とか押さえ込んで、そのまま痴漢の霊が動かれる前に動く。
瞬間。ぴたん、と符が後ろに居る女性の額に張り付き、
「なっ、な、ぁ…」
憑依している霊を吸い上げる。これで良し。
後ろで正気に戻った女性は、恥ずかしさから次に停車した駅でそそくさと降りていき、俺もその次の駅で降りた。
* * *
雪姫の死後、49日が経過して、50日目になった。
さすがに2ヶ月近く経過すれば、2人暮らしから1人暮らしに変わった日常生活にも慣れてきて。夕食をテレビの音すら聞こえない無音の中で、黙々と食べ続けている。
一人用に取り分けられたおかずを食べきり、ご飯を飲み込み、味噌汁を租借した具と共に胃に流し込む。
「………ふぅ」
食器同士が触れ合う以外でようやく聞こえた音は、俺の一息。
…そろそろ、か。
「こんばんは、死神です」
心中の呟きに応えるように、いきなり出現した死神が人の背後を取ってきた。
49日後に、とは自分が言ったこと故にさして驚きもしなかったが、やはりこうして突然現れると少し心地良いものじゃぁない。
「だが断る」
「あにをだよ」
「いやですね、もう。解ってるくせに」
「大方、後ろから出てくることを止めない、だろうけどな」
「はい正解です。面白いですからね」
「…ったく、この死神は…」
少し頭が痛くなる。この死神は人をおちょくらないと気が済まないんだろうか…。
ともあれ、少しでも付け入る隙を作ると向こうが調子に乗るので、手短に本題に入ることにする。
「こうして来たってことは、覚えてるんだろ? …渡してくれ、雪姫の血を」
「嫌です」
「ちょ、おま! 49日が過ぎたら飲むってあの時言っただろ!?」
「それは確かに聞きましたが、あなたは私に血を預けました。…素直に渡してくれると思ってたんですか?」
「正直それは思ってなかった」
「なかなか言いますね、この鈍感蒼鬼は…」
「お前と言い合いするなら、腹を括っておかないと精神衛生上悪いからな…」
溜息と共に下を向くと、ふと頭に硬質の物体が当たった。重力に逆らわず落下してきたそれを手に取る。
コルクで密閉された小さな小瓶。中にはほんのり赤黒い液体が、今尚入れられた直後のように波打ってる。
「お渡しします。これ以上持ってるのも何ですし、ちゃっちゃと飲んでください」
「…あぁ、解ったよ」
なんでもないように告げてくる死神の表情は、迷惑そうな感じはなさそうで、なんでもないような表情というのが感じ取れた。だから俺も、なんでもないように表情を作って、1つ頷く。多分無理してることはバレてる。
瓶の蓋を開ける。小さな瓶ゆえに中身もさして多くはないが、少しだけ鼻を突く臭いがする。
これを飲むのか。今から俺が。血を取り込むのか。正式に『蒼の鬼』になるために。
「すぅ…、ふぅ…」
深呼吸は一回。
覚悟を決めて瓶に口をつけ、一気に呷った。
「あ、ちなみにそれ、破瓜の血ですので」
「…っ…!?」
危うく噴出しかけるが、気合を入れて全てを飲み下す。
鉄の味が口中を占めるが我慢して、死神に詰め寄った。
「おいコラ…、そういう事は飲む前か飲んだ後に言え。飲む最中に言うってお前はあにがしたい!」
「そりゃぁもう、探偵物語の工藤ちゃんがごとく噴出す姿をリアルに見たくって?」
「それを今やるな! お望みならばオリジナルブレンドのコーヒー作ってやってやるよ!」
「前に殴られた分のお返しです。避けたとは言え、殴る行為を受けた結果は変わりませんからね?」
「ぐ、くっそ…」
「…ですが、破瓜の血であった必要もあるんで。そこだけは聞いてください」
「ん…?」
口の中が血でもにょもにょするのを、唾液で溶かして飲み込み、死神の方に向き直る。
「処女膜というのは、言ってしまえば魔力を高め、純化する蓋です。外気に触れてない純粋な…、腐る前のものとでも言いましょうか?
そういった魔力は特別なもので、一部の幻獣なんかはその魔力を持つ者のみに懐いたり、背に乗せたりするようですよ」
確かどこかで聞いたことがある。ユニコーンは穢れなき乙女にしかその身を委ねないと。
そういった特殊性があるからかどうかは知らないが、純潔という要素が存在するからには、そこに起因する何かがあるんだろう。
「で、あなたには一つ欠点があります」
死神は右手を持ち上げ、俺に人差し指を突きつけてくる。
「そう、術の才能がからっけつなんですっ。ドーン!」
「…いや、喪●福造のマネは良いから眉間を挿すな」
「ぐーるぐーる」
「俺はトンボじゃないんだから、回すな」
「ちっ、やりにくいですねあなたは」
「…まぁ、話の概要は理解した。俺に術を伝える為にも、雪姫の血が…、純粋な魔力を閉じ込めている破瓜の血である必要が、あったと…」
「そういう事です。果たして本当に術が使えるようになっているかは、血があなたに馴染んだか否か。それにより変化してきます。じゃあもう一回」
「え?」
死神は言葉を繋げながら、もう一度俺の眉間に人差し指に向ける。
直後、
「ドーン!!!」
先程のより強い口調と同時に、突きつけられた指から俺へと向かって、強い魔力が叩きつけられた。
相手の攻撃を意図していなかった俺は不意打ちを喰らう形になり、それをモロに受けてしまう。
ぐらり。
魂が揺さ振られる感覚がした。
まるでいきなり地面が立ち上がってくるような。いや違う。自分の立っている場所を残して、俺が沈んだ? それとも周りが持ち上がった?
違和感の正体がわからない。まるで四方を囲まれて、しかし周囲に俺1人が取り残されてしまったようで。
呼吸をする。喉が動かない。
走ろうとする。脚が動かない。
もがこうとする。腕が動かない。
取ろうとする行動の全てが阻害されるようで、何もできなくなっている。
俺はどうなった? 俺はどうなるんだ?
その恐怖だけが足元を登るかと思えば、突然頭を噛み砕かれたようで。自分の体に向けて襲ってくる感覚の全てがちぐはぐだ。
視界もブラックアウトする。周囲の物体を知覚できなくなった。
もう、何も解らない。
* * *
「て、め…っ、あに、しやが、った…!」
多分何も見えてないんでしょう。目の前で泥酔者のように倒れ伏した蒼鬼は、さっきまで前に居たと認識してる私に声をかけてきます
果たして私の言うことが伝わるか。そこは疑問になるのですが、一応言っておきましょう。
私が何をしたのか、その行為が何を意味するのか。
「攪拌ですよ。あなたの中に入り込んだ血と、あなたが元から持っていた血を1つにするための」
例えばコーヒーにミルクと角砂糖をたっぷり入れて、放っておくだけでそれが完全に混ざり切るか否か。
時間を置けばそれもありえない話ではないかもしれない。しかしてそうなるために障害となる、諸々の事情があります。
たとえば温度。それによっては溶けきらず、砂糖は顆粒状のまま沈殿する事もある。
たとえば飽和。既にこれ以上溶解しないような状態で足した所で意味はない。
たとえば許容量。表面張力が働くほどなみなみと水の注がれた器に足して、元々のバランスを崩してしまう可能性。
無数の要因を絡めてゆくと、それが本当に起こり得るのかと問われれば、疑問に思うところもあるでしょう。
だからこその撹拌行為。違うもの同士を混ぜ合わせ、1つにする。零れないよう、適度に、しっかりと。
「正確には血の中に籠められてた魔力を、ですけどね。無形ゆえに、攪拌方法も同様に魔力をぶつけての衝撃になりましたが…。ま、放っておけば治まりますよ」
幸い忌乃雪姫の血を受け入れられる許容量を持っていたので、この結果がどうなるか。それは私の知るところではありませんし、お茶でも飲んで待たせてもらいましょう。
ごそごそ。…おや、良い茶葉買ってますね。来客用のとっておきですか。これにしましょう。
ズズ…。はぁ、おいし。
* * *
「が…っ、は…っ! くぅ…!」
次第に力が戻ってくる。呼吸が荒々しく、だけど確実に行えることがそれを示していて。心臓が鳴っていくたびに肉体が調子を取り戻してくる。
床を掴む指が畳を掻き毟る。ざらりとした感触を指でなぞる。
暗転していた視界に光が戻ってくると、視界の端に流れるような白いものが見え隠れする。
体を起こそうとする。重くなった上半身を持ち上げた先に見えたのは、気絶したときと変わらない夜の色。
(えぇと、どれだけ寝てたんだ? …あ、この場合気絶か…?)
時間が気になってポケット内の携帯を開いて見れば、思ったより時間が経過していなかった。もだえ苦しんでいたのは10分経つか経たないか位で。
そういえば何か視界がボヤけてるな。眼鏡はしたままだろ? 急に度が合わなくなったみたいだ。
不思議に思って外してみたら、途端に視界が開けた。
(…おかしい。近視だったのに行き成り裸眼の方が視力が良くなっている。何があった?)
何はともあれ、服がベタつく。大量の汗をかいたみたいだし、気持ち悪い。まずは風呂に入ろう。
襟首の部分をつまみ、自分の体を見下ろしてみたその瞬間、俺の思考は止まった。
「……え?」
服と胸板の間に何かの山がある。
あまり大きくないが、確かに膨らんでいる胸板がある。いや、局地的に膨らんでいるこれは胸板じゃない。
……乳房だ。
瞬間、手が股間に伸びていた。触ってみる。
平たかった。つるっとしてぺたっとしていた。
男の象徴とも言える男性器は影も形も無くなって、ジーンズ越しにも平らになった三角地帯が解る。
(まて、ちょっと落ち着け俺、俺はどうなった? この体にあにが起こった!?)
慌てて鏡のある部屋まで行く。一番近いのは、姿見のある雪姫の部屋だ。
前後のどちらにも無かった重心が前の方に寄っていたためか、こけそうになりながらも彼女の部屋へと赴き、乱暴に電気をつけ、その身を鏡に映してみる。
「な…っ!?」
そこには確かに映っていた。
俺の服を着ていて、真正面から俺を見つめてくる、雪姫がいた。鏡の中に「俺」の姿はない。
「おぉ…、まさかこんな事になるとは…」
突然鏡に死神が映った。その目が見開かれている。ただそれを視界の隅に捕らえていただけで。
「いやぁ、単純に攪拌をしただけなんですがまさかこうなるとは。
術に関しては単純に彼女の方が強かったんでしょうか、はたまた彼女への想いが強すぎた結果か、ないし同属の鬼の血が混じりあい化学反応を起こしてスパーク…!
おっと、この場合『忌乃雪姫、復活!』と声高に連呼するべきでしょうか。あ、あと料理でも作ってツンデレキャラになれと?」
聞いちゃいなかった。
鏡の向こうに彼女が居て、何より俺の頭は混乱してたわけで。聞こえるはずもない。
鏡に齧りつかんばかりの勢いで見つめる。写るのは、ただただ困惑している、俺がついぞ見たことのない表情をしている雪姫だった。
冷や汗が頬を流れると、鏡が逆さ写しにした位置に冷や汗を流す。
うめき声に近い言葉を漏らすと、広げた口と同じ形を写される。口の中に溢れてくる唾液を嚥下すれば、それさえ映し込まれて。
時間を掛けて、ようやく思考に余裕が出来、理解した。
これは…、信じがたいことだが…。
「何現実逃避しかけてるんですか。もう頭の中で結論は出てるんでしょう?
そう…、あなたは…!」
“ため”を作るな。
「…ファイナルアンサー?」
「問答の順番が妙じゃないか!」
「………………っ! 忌乃雪姫の姿になってしまったのだー!」
「聞けよ人の話しをっ!」
あぁダメだ、もう頭がごちゃごちゃしてきた。せめて1人の時にこうなってたら、もう少し感傷に浸れてたかもしれないのに、この死神のせいで突っ込まざるをえない。落ち着く間すら与えてもらえないのか。
「ま、さて置きましょう。……見届けましたので、では私はこれにて」
「ちょい待て、俺をこのまま放っておくつもりか!」
「ぇ――――――?」
「心底不服そうな顔してこっち見んな」
「だって一人にしたほうが落ち着けるのでしょう? そして一晩くらい経過したらまた見に来ますよ?
ではどうぞ? とてもゆっくり? ごゆっくり? ごしっぽり?」
そう言って死神は消えた。
あんにゃろう…。
「……はぁ…、ちくしょう、逃げられた…っ!」
雪姫の部屋に俺の呟きが消えていく。
疲れる。服がベタつく。喉が渇く。
あぁもう、1つずつ解消していくしかないのか。
まずは喉の渇きか。
何はともあれ、心を落ち着けるためにお茶を飲むことにした。居間に戻り、電気ケトルで沸かした湯で淹れた熱々の緑茶を飲もうと口をつけ、一口。
「あちっ! あれ、おかしいな?」
いつものように淹れたお茶が舌に刺さるようで、熱くてたまらない。いつもはこれを3口で飲み干してたのに。
…これってつまり…。
「舌も、雪姫のものになってるのか…」
雪姫は猫舌だった。いつも熱い物を食べるときは、息を吹きかけて冷ましてから食べてたし、辛い物は基本NG。カレーの場合も常に甘口でしか食べられなかった。
俺もやるしかないのか、それを。息を吹きかけて冷ましてから飲まなきゃいけないのか。
「ふー、ふー、ふぅーっ。……んく…」
………折角淹れたお茶を捨てるのは茶葉農家の人に申し訳が立たないので、我慢してふーふーすることにした。
それでようやく飲めたお茶は、冷めかけてたけど確かに美味しくて、波立っていた心が落ち着いてくる。しかしそれでも問題が解決したわけではない。
「はぁ…、どうしろってんだよ…」
どんな形にしろ、雪姫の姿を見れることは確かに嬉しい。しかしそれが自分自身となると、瞬時に困惑してしまう。
だって俺だぞ、自分なんだぞ? しかもこうなる経緯が経緯だし、聞かされたこともショックだ。一から十まで唐突過ぎる。男として女の体に感じる劣情なんぞ、この状態で起こりはしなかった。
「はぁ…。風呂に入ろ…」
汗をかくたびに服がベタつく。何度目になるか解らない溜息を吐きながら席を立ち、風呂場へと歩を進めようとし…
そしてこの段階になって、俺は思い至った。
「…………どうやって戻れば良いんだ…?」
考えてみれば、俺と雪姫の血を魔力攪拌をされた影響でこの状態になった訳で、どうやれば戻れるのかはハッキリ言って謎だ。
とするとどうなる?
汗を流すのにはどうしなきゃいけない? まずは服を脱がなきゃいけないよな?
まさか着衣のまま汗を流すわけにもいかないし、他の人にやってもらう訳にも行かない。そもそも家には俺以外誰もいない訳だが。
「脱がなきゃ…、いけねぇのか…!」
そりゃまぁ、体が動かなくなってきた彼女の世話を焼く過程で、肌を拭いたこともあった。しかしその時は背中とかだけだ、決して前まで行ったわけじゃない。
だが今度は否応なしに、視線を向ければ見てしまう。見なければいけない。
これは俺の体か、雪姫の体か?
止まらない考えと罪悪感に頭を抱えた。
「あぁぁぁぁ……!」
うめき声が漏れる。俺はどうしたら良いのか、本気で悩んでしまい、さらに冷や汗をかいた。
3分後、諦めた。
汗によりベタつく服から感じる生理的嫌悪感が理性に勝利した瞬間だった。
昨日から着ていた服を脱いで洗濯籠の中に突っ込み、風呂場に入る。
浴室に添えつけられている鏡に自分の体を映すと、やっぱり変わらない。“忌乃雪姫になった俺”が座ってる。
視力2.0の雪姫の目では、ぼやけて見えなくなるなんて事はなくて、俺は余さず、生前では見ることのできなかった彼女の肢体を見てしまっていた。いっそ近視のままだったら全部は見えなかったかもしれないが、今更言っても仕方ない。
色素が抜け落ちてしまったような、真っ白な髪の毛と赤い目。
透けてしまいそうな純白の肌。そこに膨らむ小さめだが形の良い胸。
乳首だけは薄い桜色で、ちょっとだけアクセントが付けられてる。
「これが雪姫の…」
“彼女”の肢体。俺が終ぞ男女の意で抱く事のできなかったもの。
因果なものだと、心の中で自嘲した。手に入れられなかったものを、今こうして別の形で手に入れて。しかもそれが自分では抱けないものときた。
考えを振り払い、体を洗いはじめる。ボディタオルにボディソープをつけて肌に当て、こすった瞬間、
「いてっ! …そうだった…」
男女の差を失念してて、男の時と同じようにやったものだから、擦った部分が赤くなってる。
「…ほんと、肌弱いよな…」
多分、健康な女性よりも肌は弱いのだろう。
呟きながら、今度はスポンジを手にとって優しく体を洗ってく。
両腕から始まって胸に…、差し掛かって…。逡巡した後にそこも優しく洗っていく。これといった意図はないが、乳首だけは泡で隠した。
腹部も背中も、脚も洗って。最後に残ったのは…まぁなんだ、いわゆる大事な部分な訳で。今からそこを洗おうと思うと、心臓が高鳴ってくる。
そっとスポンジを触れて、外周からゆっくり、ゆっくりから擦っていく。
螺旋を描くようにやっていけば、いずれ中心部分に到達するわけで、スポンジが割れ目に触れた。
「ん…っ」
声が漏れる。泡をまぶして何度も上下に擦り、汚れを落としていく。
自分のといえど、女性のそこを洗う気恥ずかしさと、触れているという現実とで、鼓動が早くなってる。
「んぅ、く…、…っ」
行為を認識することで肌が敏感になってきて。シャワーで泡を落とすと同時に鏡へ視線を向けると、そこには…、言うまでもない。文字通りに水の滴る雪姫が居て。
……正直、我慢の限界だった。
嫌悪感を催す汗が無くなって、頭が冴えてきて現状把握をし、思考状態がニュートラルになっていけば、そこにあるのは通常の思考回路。
理性で押さえつけていた男としての欲望。向けたいと思っていたその矛先が、誰しも感じるだろう異性へ求める性の欲求が確かにあって、彼女を抱きたいという欲求もあった。
それが出来なくなった今、本来の意味とは違う形でも…、彼女が欲しかった。いなくなってしまった彼女を、もう一度…感じたかった。
手を広げて胸を包む。それだけで敏感な肌が、ぴりっとした感覚を脳に送ってきた。
脳がしびれ、甘い疼きが頭の中に入り込んでくる。
ふくらみを撫でるように揉んでいくだけで、心地よくなってきて、自然と吐息が荒くなってくる。
「あ…、乳首が、たってる…」
手の隙間から見える乳房の頭頂部にあるのは、まだ触られたことのない状態を照明するかのような桜色の乳首。
けれどそれは今血色を増して、ぷっくりと平時より大きさを増している。
“触ってみたい”という情欲が、ほんの少しの理性を押し流すのに時間は要らなかった。
「んうぅっ!」
表面を触る以上に、脳内に甘い電流が流れ込み、つい喘ぎ声が口から出てしまう。
けれどそれが気持ち良くて、そこを触る手が止まらない。
指先で摘まみ、くり、くり、と回すようにしては、そのたびに声が溢れてきて。
「あっ、んぅっ! 胸、いい…っ、乳首がいい、よぉ…っ!」
胸をいじって、まるで女のように喘いでしまっている。それが正真正銘女性の胸で、今の俺も女性だから当然なのかもしれない。
けれどそれは、小さい部分に集中する感覚が大きくて、止めようとする選択肢も次第に消えうせていった。
胸をもてあそんでいると、次第に股間がじんわり熱くなってきた。男の勃起とは似ているような、けれど違う、いうなれば快楽の隆起と表現するような。
シャワーのお湯とは違った、とろりとした液がこぼれてきている。
触りたい、触って確かめたい。この先にあるものを確かめてみたい。
思考が抑えきれず、弱々しい勢いだけど、そこに触れた。
「ひうんっ!」
くちゅ、と音がして、快感が疾る。やわらかく、勃起した肉棒と同じかそれ以上の温度があり、ぬるりとした液が指を包む。
触れるだけでこんなに気持ちいいのなら…、胸みたいに弄ってみると、どうなるのか。
もう止められない。止まる気がしない。
震える手が、指先が、そこに刺激を与えようと着地して、ずりゅっ、と下方に滑り落ちた。
「ひうっ!」
指先で女性器の入り口をこする、という行為が、男のときに何度となく行った自慰よりも気持ちいい。
それが今までとは違う初めての体験だから、ということに、今の俺は考えが及ばなかった。
「は…、んっ、ひぁ…っ! ん、はぅ…、っん!」
嬌声とも言いにくい吐息と共に、女性器の入り口、膣口をこすっていく。その度に指が愛液に塗れ、液と肌とが淫靡な音を奏でる。
繰り返した結果、手が滑ったのか、それとも本来の用途を頭の中に入れていたからかは解らないが、指がずるりと、女性器の中に潜り込んだ。
「んうっ! あ、ぁ…」
…挿入してしまった。指とはいえ、女性器の中に異物を。
入り口よりも遥かに、そして確かに熱く熱を持ったそこは、異物である指を押し出すように、引き込むように、相反する蠕動運動を行ってきゅうきゅうと締め付けてくる。
指を動かさなくても、そこだけで蠢いて、そこだけで蕩けるような快感が脳に染み渡っていく。
「あぁ、女性ってのはこんなにも…」
こんなにも、淫靡で、卑猥で、いやらしくて、神秘的だった。
そこを探求したい、もっと。この先に何があるのか、知りたい。
内心に潜む男の欲求は、今俺のものとなっている女の肉体を欲していた。知っている男としての快楽とまったく別種の、何も知らない女としての快楽を。
欲求に理性が押し出される。沈めば二度と這い上がれない坩堝に落とし込まれてしまう。
それでいいのか? それが良いんだ。
どうして? それを聞くのか?
大切に思っていた…、いや、愛していた女の肉体を、愛せるのならば。
堕ちてしまうのは、想いの証なのではないか。
思い返せば破綻している思考だ。前後のつながりがあるかどうかも怪しい。
けれど、それでもいいと思ってしまった。出来なかった事をやろうと、そんな思いが頭の中を占めてしまった。
そこからはもう止まらなかった。
指を女性器に突き立て、性行為に見立てて抽送していく。それだけで下の口がだらしなく涎をこぼし、“もっと、もっと”と啼いている。
「あ…、んっ、足りない…、もっと、もっと大きくて、太いの…っ」
呼応するかのように、俺の口からも喘ぎ声がこぼれた。欲しがるような切ない女の声。
一本だけだった指では足りなくなり、女性器は己を満たす存在を求めた。その欲求に応えるかのように、人差し指だけでなく、中指も一緒に挿入する。
「んうっ! あ、あぅっ、ふぅ…っ」
充たされた。ほんの少しだけだと理解しても、その思考が頭の中に満ちた。
欲求はさらにその先を求め、快楽から生まれる充足、それへの埋没をも求めた。
止まる理由はなく、止める理由もない。
ぐちゅぐちゅと殊更に淫靡な音を鳴らし、自分のものとなった女体を貪る。
右手で抽送を繰り返していると、いつの間にか左手が胸へと添えられていた。乳首をつねるのと、中を抉るような挿入。その2つを共に行い、また嬌声が喉を通る。
「ひゃんっ! やぁ…、これ、いい…、女が気持ちいい…っ」
麻薬のような、下手すればそれより重篤な中毒性を引き起こす快楽の渦に放り込まれる。いや、自分から飛び込む。
女性器を貪り、大きくないが形の良い胸を弄び、その行動一つ一つによって「女」を知り、覚えていく。
「はあぁっ! あっ、んあぁ! 気持ち、い…、いきそ、だ…っ」
行為は止まらず、むしろ加速していく内に、終点は不意に訪れる。男のときに何度も味わった絶頂の記憶が、脳内に蘇る。
それと同種の、それより大きな波が、体全体を通して、脳へと届く。
絶頂が近いことを体のほうも認識していて、耐えられないことを伝えるように、体は小刻みに痙攣していた。
そして不意に、終わりが訪れた。
「ぁっ、ふぁあぁ…、んあぁぁぁっ!!」
弾けてしまうような快感の本流が、脳どころか全身さえも叩きつけてくる。女性器から放たれた花火が、脳内に来て爆発したように、大きく、激しく。
愛液を大量に噴出し、膣内の蠕動を指でつぶさに察知しながら。生まれて初めて、女としてイった。
「あぁ…、はぁ、は、ふ…。…最低だ、俺…」
いまだ続き、たゆたう快感の波の中。かろうじて呟けたのは、それだけだった。
その後、疼く体と欲望を抑え、何とか正気に戻って風呂を済ませた。
風呂から上がって感じたのは、とんでもない大きさの疲労感。きっとこの状態になった為の反動と…、多分、さっきの自慰行為のせいだろう。
温まった体を布団の中に横たえて、そこから先は情欲を忘れるかのように惰眠を貪った。
* * *
翌日。
日差しが夜を切り裂ききった状態。目が覚めて見たものは、ぼやけた視界の中の死神だった。
「おはようございます、死神です。…よく寝てましたね」
「あぁ…、まぁな。…ゆっくりさせてもらったよ」
寝て起きて、万一戻ったときのため、視界を確保するために枕元に置いてあった眼鏡を取り、かける。
近眼の世界はレンズ越しに鮮明さを取り戻した。うん、これが俺の本来の視界だ。
手の大きさは戻ったし、髪の色も黒い。体を見下ろせば男のそれで、すっかり戻っていた。
「結構あっさり馴染みましたね。もう少し時間がかかるものかと思ってたんですが」
「そっかよ。戻れない事態でも起きて欲しかったのか?」
「いえいえそんな、戻れるからこそ突付ける部分もあるんですよ?」
突付ける部分か。…あぁいや考えるな、そういえばこいつ死神だぞ、人の考え読むんだぞ?
「そうですよ、何を今更」
ほーらやっぱり読んできた。よし今から無心になる、情景描写も忘れ…
「そういえば先日ですが…」
「っ!?」
いきなり言われた先日のことで、記憶がフラッシュバックしてしまう。
Question、何をやったのか? 簡単だ。
Answer、オナニー。女の体で、女として乱れた風呂場の出来事を、思い出してしまったー!
「へっ」
こんにゃろう、鼻で笑いやがったな。
そりゃ確かに自分でやったことだし、引け目は感じるが…。それでも腹立つ。覗かれない方法を探してみるかな。
「あると思いますか?」
「無心になることくらいなら、できないこともな」
「女体の神秘は探りましたよね」
「だあぁぁぁっ!!?」
「ほーら、もう出来てないじゃないですか。考えが読みやすいし行動も読みやすいんで、無心になるのは余程のことがない限り無理でしょう」
そりゃ俺自身認めてる。というか、19になるかならないかのこの年齢で無心になる、っていうのは無理だと思ってた。
頭を掻きながら、死神に二の句を告げさせないように、先にこっちが口を開く。
「あぁもう! こっちゃ寝間着のままなんだから着替えさせてくれ! というか出てけ!」
「はーいはい、じゃあ出ていきますよ。また何かあったら来ますので。……しっかり想いを背負って生きてくださいね、蒼いあなた?」
空間を裂くように異界への穴を作り、死神はそこへ消えていく。多分、地獄に戻っていったんだろう。
ため息を一つ吐いて、寝間着を脱ぎ、自分の服を着ていく。
顔を洗い、髪を整え、厨房にたって朝食を作り、一人で食べ、食器を洗い、歯を磨く。
いつも通りに行う、いつも通りの一日の始まり。
けれど、俺の中では確かに“それ”が変化していた。
第1に感じるのは風の、正確には空気中に漂う魔力の流れ。混乱していた昨日までと違って、肌だけで敏感に察知できる。
触覚だけじゃない。嗅覚、聴覚、味覚も研ぎ澄まされていて、僅かな差を感じ取れている。近視なのは変わらないので、視覚だけはダメだったみたいだが。
きっとこれが、雪姫も感じていた感覚の一部だと思う。雪姫を、正確にはその力を取り込んで、自分のものとして、初めて感じることが出来た。
深呼吸をし、体内の魔力を巡らせて肉体の操作を行う。
鬼の姿に変化するために行う反復行為。人外として本来の姿になる、まだ慣れていない行為のため、ゆっくりと時間をかけて。俺の肉体は鬼の姿になり、雪姫のそれへと変化し…、そうして元の姿に戻っていく。
人間としての自分と、鬼としての姿。そして雪姫としての容(かたち)を、順々に変化させていく。
心中は複雑だ。
雪姫がいなくなったせいで、感覚も肉体も彼女に近づいてしまい、雪姫を昨日より近くに感じてしまう。
皮肉なものだよな。
(ゴメンね…、最期に焼かせた世話がこんなので…。
ゴメンね…、君に甘えられなくて…。
ゴメンね…、ありがとう…)
心の中で何度も謝罪し、心の中で何度も感謝する。
男のまま泣くのが恥ずかしくて、俺も知らない間に雪姫の姿になって泣いていた。
それから、彼女の持つ血の力を習得するのに躍起になった。
先祖が編み出した技術、それを記した書物を読み漁って、沢山の術を知った。どれもこれも難しくて、血を得るまでは無理だと言えるものが多かった。
というか術の殆ど大半が習得するに至っていない。雪姫の血を得てもなお余りあるほどに、死神の言うように俺の術の才能はからっけつだった。
それでも、取得できる術はあった。
血を媒介に使う符術。
限定範囲を囲う結界術。
小さな吉凶を感知する占術。
凝った気を用いて行う召喚術。
無意識下で他者を呼び込む誘引術。
魔力を用いて行う肉体操作・変容術。
風を起こし雷を発する鬼の天候操作術。
これでもまだ、ほんの少しにしかならない。自分一人では到底出来なかったことを、雪姫の力で出来るようになっていった。
皮肉だと思った反面、情けないと思って。術の習得と同時に体も鍛え始めた。
祖先が遺した格闘術、「鬼神拳」を身に着けて…、ほんの少しでも、技術と共にこの力の暴走を抑える為に。壊してしまう勢いを知り、壊してしまわないために。
想いを繋ぎあうために。その誰かを壊してしまわないよう、壊されないように。
ほんの少しでも、誰かの役に立てるように。
術も、拳も、その全てを習得したとは言い切れないけれど。僅かなれども早く習得するため何度も地獄に赴いて、常人より長く引き伸ばされた時間を生きた。
いくつもの地獄を巡って、多少だろうがあの世で知り合いもできた。あの死神と再開した時は、また弄られて。
体を鍛え、心を鍛え、術を磨き、技を磨き。
時には地獄で悠々自適にしている祖先たちに扱かれて。
気がつけば、今の『俺』になっていた。
そして、地上において雪姫の死去から1年後の、彼女の命日。受け継いだ忌乃家の名を冠した、忌乃心霊調査事務所を開業した。
当時は(人間としては)まだ20歳だというのに、このような仕事を始めることで周囲の人たちに心配がられたりしたが…、現実には地獄で鬼として何十年も生きていたわけで、気がつけば人間として生きた年齢より、鬼として生きていた時間の方が長くなっていた。
だから、大丈夫だと答えて。一人で頑張った。
…けれどやはり、地獄で騒がしく数十年を生きるより、たった一人で数ヶ月を生きることの方が辛いのだと気付き始めた頃。
飛び込んできた依頼で、朱星…今の朱那と出会ったのだ。
その時の安堵感は、大きかったと感じる。誰かと一緒に居ることが、あんなにも心を安らかにしてくれて。
作り笑いを浮かべてた時より、朱星と同棲していた時の方が、楽しかったのだと実感した。
……やっぱり、俺はまだ『人間』なんだろうか。群れの中で行き、孤独を恐れる、人間で在れているのだろうか。
疑問は、尽きない。
* * *
さて、ちょっと回想が長くなったので、現代に視点を戻そう。
降車駅ホームの片隅に結界を張り他者を寄り付けないようにして、符の内部に閉じ込めた霊の生前の姿がわかるよう、ちょっとだけ魔力を注いでからようやく符より解き放つ。
視界の中で作られた姿は、スーツ姿のサラリーマン。20代半ばから30代くらいの、まだまだ働き盛りの男のように見える。
…あれ、でもこの男の顔、どこかで見たような…?
「待たせて悪かったな。ちょっとお話しよっか?」
『…なんだよ、お前…。いきなりあんな事しやがって…』
「いやね、君がどうしてあんな事してるのか気になってさ。電車の中じゃ落ち着いて話せないだろ?
この結界内でなら気付かれることも少ないし、遠慮なく話してくれないか?」
『遠慮も何もないだろ! いきなりあんな事しやがって!』
「それに関してはすまないと謝らせてもらう、もらうが…。
あんな事というが、そっちが最初に痴漢をしてきたんじゃないか?」
警戒心を抱かせないようにしてはいるが、やっぱり最初が最初だ。警戒心は抱かれるだろうが…、むしろこっちがそれを抱く要因を作ったのは向こうな訳で。
『…っ、うるさいな! そっちだってまんざらでもない様に太ももを擦ってたくせに。善がってたんじゃないのか?』
つつけば案の定言葉に詰まったが、反撃してくる。確かに言われたようにしていたし、ほんのり気持ちよかったりもした。
だがそれ以上に、肌より霊力で察知した感覚が強かったために、心中で小さく快哉を叫んだくらいでそう大きな快感は無かった。
だから、笑顔で言ってやった。
「下手くそっ♪」 キラッ☆
後光でも差しそうな笑顔で言ってやった。
向こうは少し打ちひしがれた様子になったので、宥めすかして話を聞いていく。
ことの起こりは数ヶ月前。出勤の為に満員電車に揺られていた彼は、女子高生からいきなり痴漢呼ばわりされた。本人は何も知らない、覚えがないと言うのにだ。
最寄の駅で鉄道警備隊に連れて行かれ、無実の罪で詰問されて。当然会社にも連絡が行き、翌日のうちに解雇通知がされ、無職になったという、物理的、社会的、精神的に追い込まれた。
その全ての理由は、彼自身身に覚えが無いことだというのに。
しかし不幸だったのは、それだけでは終らなかったこと。
子供のいうことを鵜呑みにし、裁判にまで事を発展させたモンスターペアレントの存在が、状況に拍車をかけた。
となると、さぁいざ喜ぶのは誰だ。マスコミだ。他人のスキャンダルを材料に自分の飯を精製する連中だ。
疑問を呈しコメンテーターに語らせつつも、詳細は国家権力任せ。本人だけでなく周囲さえ荒らすだけ荒らして後は何も残さない連中のおかげで、彼は住む家さえ半ば追い出される形で出て行った。
…と、そこまで聞いてようやくこの人の顔を思い出した。朱那がまだ朱星だった時にニュースで流れてた痴漢容疑者の顔だ。
被害を訴えていた女子高生が方々に口を出して大事にし、名前どころか顔写真さえ晒されてしまった人だ。
というか顔を出されたのは死後の方が圧倒的に多く、それを見たのは既に死亡していた後だった。
『俺は本当はやってないってのに、あいつ等は…! 忘れるもんか、被害者ぶったツラしてたが、こっちを見て笑ってたのを!』
話を聞いて、確かに同情はしてしまう。痴漢は基本言ったモン勝ちだ。証拠なんて提出を求められてできるようなものでもないし、よしんば出来たとしても社会的に保護される傾向にある女性には、なぁなぁで済ませてしまう事もあるだろう。
頷いて内容を飲み込んで、しかしその中で別のことを俺は考えている。
『あいつ等はこの路線を使ってるはずなんだ。まだ姿が見えないけど…、きっとそうだ!』
「…だから、今度こそ本当に痴漢をして…、彼女達に不快感を与えてやると…」
言葉を選びながら説得をしつつ、俺の中には一つの懸念が大きくなってきた。
死者の霊、器を持たない存在は時間が経つと同時に希薄になっていく。意識も、意思も、尽くに。
意思が曖昧になった先には何があるのかと問われれば、一概には答えられないだろう。けれど一つだけ言えるのは…、大きな感情は希薄になっても残るものだということ。
恐いのは、復讐の感情が大きいが故に、曖昧になった状態で起こしてしまう行為。決して痴漢行為だけにとどまらず…、最終的には崇り殺すことになる。
そうなれば…。
「止めた方がいい。そこまですると…、濡れ衣じゃなくなってしまう」
『けど、このままじゃ俺の腹の虫が収まらねぇんだよ!』
「本当に痴漢をしたとしても、その為に体を使われた人はどうなる? また君と同じ冤罪を別の人間にも被せるつもりか?」
『いいじゃねぇか、どうせ被害者になるのは男だ。女同士なら言いたくても言えねぇだろうしな』
…マズいな。それなりに時間が経過してるせいか、思考がズレかけている。もうちょい言うと、前後が微妙に繋がっていない。
痴漢に対しての法律はあまり詳しくないが、何かしらの行為で罰せられるのは確か変わらないはずだぞ?
「それでも他者を引きずりこむのは、止めた方がいい。
今ならまだ冤罪のまま…、実際に復讐を起こすより軽い罪であの世に行けるぜ?」
『……っ! アレは…!』
俺の話を聞き流しているのか、幽霊の男が何かに気付いたように、怨み辛みのこもった表情で一方向を見据えて動かない。
「あにか見えたのか?」
『あいつだ…、アイツが俺に冤罪を被せたヤツだ…!』
視界をそちらに向けてみる。眼鏡越しの視界でもボヤけてしまう位のところで、女子高生とスーツ姿の、初老の男性が言い争いをしている。いや、正確には女子高生だけが男性を糾弾しようとしているのだろう。
視覚は届いてないが、聴覚はその会話を聞き取っていた。
つまるところは、男性が痴漢をしたと声高に、雑言混じりに責め立てているのだ。というのに声はどこか嬉しそうな…、獲物を逃がしてたまるか、というような印象が届く。
「…なるほどね、ありゃ性格悪そうだ。君もあぁやって濡れ衣を着せられたのか」
『信じてくれるのか? アイツが悪いって、俺は無実だって?』
「信じるというか、実物を見ると信じざるを得ないというか…。…ん?」
…あれ、今視界の端に見えたのは、あの死神がいる?
その姿は人間にはまるで認識されず、幽霊の標的である女子高生に向けて鎌を振り上げて…、降ろす。
スローモーションで風景が動いていく。
電光掲示板を留めているネジが外れて、落ちた。
真下に居るのは件の女子高生。多分気付いてない。
落下に気付いた人が声を上げた瞬間にはもう遅く。
めごり。
そんな音が聞こえたような気がして、電光掲示板が女子高生の頭部に直撃。
…あ、死んだ。
死神が死者の魂を回収した、という所でこっちに気付いて手を振ってきた。
どうせ向こうには俺の思考が読まれてるんだろうし、男の魂を掴んで、結界ごとホーム屋根の上に移動すると、案の定死神もついてきた。
「おはようございます、死神です」
「知ってるよ。今日はここで仕事だったんだな」
「はい、予定でしたから。……おや蒼い人、その魂は…なるほど、そういうことですか」
相変わらず勝手に読んでくる辺り、こいつは仕事が早いというかプライベートを無視するというか。
「そこのあなたっ」
『え…、お、俺?』
話に置いてけぼりにされた男の霊が、うろたえながらも答える。
「そう、Youですとも。…あなた、今しがた死んだあの女子高生が憎いですか? 結果的に殺した私も憎いですね? でもやっぱりあなたはあいつ憎い、OK?」
『え、あ? あ、ぁ…』
「でしたらいい手段をお教えしましょう。ちょっとお耳を拝借」
相変わらず周囲を勝手に巻き込むやつだ、と少しため息を吐きながら、耳を澄ませヒソヒソ話の内容を聞き取る。
……あー。そういうことする。
『……そんなこと、できんのか?』
「できますよ。あなたの人生を滅茶苦茶にした彼女の人生を、あなたが奪って自分のものにすればいいんですよ」
『でも、そこまでは…』
まだ精神的にタガがあるのか、殺すとか奪うとか、そういう方面には思考が行ってないみたいだな。だからこそ痴漢で済ませてたのだろうか。
出来てた人物だったんだな、とこの会話から思う。
「ですね。基本的にはイエスマンだったからこそ、精神的な攻撃に耐え切れなかったのかもしれませんが。
で、どうですか、あなた?」
『え、えぇと…』
「悩んでるよな、そりゃ。乗り移って女になれって言ってるんだしさ」
「別にこのアダルトTSF支援所ではさして珍しいことでもありませんし。あなただってまだ女の姿じゃないですか。
えぇこら、その容姿でどれだけ儚げな美少女好きの男を惑わしましたか? 正直に言ってみなさい。ほれほれ」
「女の姿ってのはそうだが、惑わしはしてない! …と思うぞ?
……ともあれ、決定権は完全に君にある。復讐の相手もいなくなった世界で漂っているのか、それとも復讐の相手に憑依してその全てを引き継ぐか。どうする?」
またため息を吐いて、男の霊に向き直る。まだ考えてるようで、頭を掻き毟りながら唸っている。
「選択肢はもう一つ。このまま私と一緒に閻魔庁に行くか、ですね。あなたがどこで回収し損ねられたのかは謎ですが…、本来はこのように、死神に牽引されてあの世に行くものですし」
決めあぐねている様子の男を尻目に、状況は刻一刻と変化していった。遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。あと数分の後に、彼女の遺体は搬送されていってしまうだろう。
何かを言いたそうな様子の死神を、心中だけの言葉で何とか押さえ込んで。男の霊の答えを待った。
『………解った。そう言うのなら、あいつの全て、奪ってやろうじゃないか』
「そうですか。ではその為に必要な技術を教えますので、その間に蒼い人、肉体の蘇生をお願いします」
「あーぁへいへい」
今更横槍を入れるのも無駄だろう。そんな思いと共に指先を噛み千切り、先端から血を滴らせる。傷口から押し出すように少量を搾って投げ飛ばすと、雫が落ちていく。
もちろんこのままでは、ホームにいる女子高生には届かないので、少しだけ風を起こして雫を誘導。危な気なく彼女の口に届き、その体に染み渡る。
直後に、弱くではあるが心音が耳に届いたのを認識し、死神と男の霊の方を向くと既に終っていたようで、に告げる。
「準備できたよ。これで肉体に入り込めば、以後は自由に出来る筈だ」
『……』
「…ん、どしたよ? 入るつもりなんだろ?」
『それは、そうだが…。……えぇと、礼を、言うのは…、どうしたら…?』
「今この場で言えば済む話だと思いますけど?」
『違う、そうじゃない。生き返った後だよ』
生き返った後、か…。ウチへの連絡先を教えればいいのかもしれないけど、そうするとなぁ…。まずはあすなに遭遇するし、連鎖的に朱那にも伝わる。
なんだか最近やきもち焼きになってきた朱那のことだ、またプッツンするのかもしれないし、物理的に俺に被害が行きそう…。
しかし…、考えてることがことだしな。…伝えた方が良いか?
「じゃあ、そこの蒼い人の連絡先をお教えしますので覚えておいてくださいね」
『あぁ、解った』
げ、先に教えられた! そうだったよ、コイツはそういう奴だったよ。
心なしか口の端が楽しそうに歪んでやがる、チクショウめ。
「では手早く憑依をどうぞ。略式の《骸体憑繰》ですから不備がでるかもしれませんが、その辺はまぁ、蒼い人に任せたということで」
「投げるなよそこで! 最後まで面倒見ろよ!」
「えー?」
「不満そうにこっち見んなっ!」
『…お、おーい? 行って良いのか…?』
言い争いをしている俺たちを見て、不安そうに男の霊が喋ってくる。…そりゃそうだよな、不安にもなるよな。
「あ、はいはい。どうぞ行ってください。……死にそうになった時も、こっちの蒼い人に連絡をください。死神が行きますんで」
『……解った。そんじゃぁ…、何かあったら連絡するよ』
「…ん、またな」
軽く手を振って、男の霊の門出を見送る。…名前を聞きそびれていたが、後で良いだろう。
これで「痴漢悪霊の退治」という依頼は達成できた(筈)。
一息つけると思っていた矢先に、死神も送る言葉を…、
「親身にしてくれたこの女性、本当は男ですからねー」
あぁぁぁっ!? 侵入時に爆弾落としていきやがった!
うわ、入りそうになってるのに落胆した表情が透けて見えたよ!
…そのまま、男の霊が入った少女の体は、肉体の損傷もある為、やってきた救急車で病院に搬送されていった。
救急車がビルの影に隠れて見えなくなり、落下した電光掲示板が撤去され、通常運行を始めるまでの間に、死神が口を開いた。
「…それにしても、少々驚きましたよ」
「あにがだ?」
「男の人の憑依を後押ししたことです。肉体側の彼女としてはやってきた事が事なので因果応報とは言いますし、肉体自身の家族構成もロクなモンじゃありません。
それでも、蒼い人は自分で決めさせた。…そのココロは?」
相変わらずコイツは、自分ではわかってて事の次第を聞いてきやがる。その辺ホント腹立たしいよな。
「前にも言ったと思うんですが、直接聞かないと据わりが悪いんです。いいから早く答えなさい」
「あーはいはい。……別にさ、大した理由はないさ。いくら家族構成がロクなモンじゃなかろうと、家族が居なくなるのは辛いだろうしな…」
「言っておきますが、彼女の親は彼女を愛してませんよ。自分の体面の為だけに、自分が正しい行為をしてると誇示するために、あの人を槍玉に挙げただけですから」
「あ…、そ…」
思えば、モンスターペアレントは大別して2種類だ。
一つは子供のことが大事に過ぎて、害をなすもの全てに噛み付く狂犬のようなもの。
もう一つは子供よりむしろ自分が大事だから、子供の行動が自分に波及するのを恐れて事前に叩き潰そうとするもの。
彼女の親は後者だろうが、その辺はいい。さしたる問題じゃない。
「それでもさ、生きるって事の辛さはあの人なりに知ってるだろうし、選択する事の重要性も知ってる。俺が出来るのは、その選択を支えるくらいだ。
それに、こうして目の前で起きた事を放っておくってのも寝覚めが悪いし…、内容が人の生き死にだ。俺たちみたいな人外と違って、それは酷く重いからな。
可能なら周囲に居る人を悲しませたくないってのもある。それにさ…、
「「助けられるものなら、助けてやりたいじゃん」」
…言葉を同時に言われた。正確には読まれた。
直後耳に届いたのは、ふぅ、という小さな死神の吐息。
「ホント、地獄で何十年も生きてるクセに人間くささが抜け切りませんね。あなたは本当はどちらなんでしょう。鬼ですか? 人ですか?」
「……どっちかな。肉体的には鬼だけど、精神的には人間だとも思っていたい。
どっちつかずの半端者だと、我ながら思ってるよ」
「男女的には?」
「男だよ」
「愛しの妻の姿をしているくせにー?」
「この段階で戻れってか! 着替えとか無いし出せないんだぞっ?」
「着物ですし大丈夫ですって。帯くらいなら何とでもなりますよ」
「ならねぇよ! 男女で使う帯は違うんだぞ?」
止めるものの居ない言い争いを少しだけやって、ようやく駅が通常運行し始めた頃に切り上げて。
俺は取りこぼしが無いかの確認、死神は閻魔庁への帰還と、それぞれの方面へ戻っていった。
* * *
視点が私、朱那の方に戻る。
私がアルバムを見てしまった日の夜。家に戻ってももやもやしっぱなしで、まるで落ち着かなかった。
どうしてここまで気分が波立つのだろう。考えても考えても、一向に答えは出てこない。
雪姫が蒼火と結婚した。それはいい。自分の中でもそれはなんとか腰を落ち着けた。
彼女の先が長くないのは、あの写真の経過していく状況から見てとれた。だから蒼火も“忌乃姓”になるため、それを受け入れたのだろう。
確かにあの2人の間にある絆が、話を聞いていた私にもハッキリと見えていたから、嫌がおうにでもわかってしまう。
だが、そこから先が今の私を悩ませている問題だ。
この心中に溜まってしまっているもやもや。
蒼火の顔を見ようと思ってもろくに見れず、蒼火の家から逃げるように帰ってきて、ずっとこのままだ。
敵わないと思ってしまった。誰にだ?
届かないと思ってしまった。誰にだ?
口惜しいと思ってしまった。何をだ?
さみしいと思ってしまった。何をだ?
これはきっと、“俺”が私になった日のあの時、蒼火に告げた言葉があるせいだ。
『お前の背中で俺を守り続けろ。俺もお前の背中を守ってやる』
まだ、共に肩を並べて戦える程ではないが。それでも蒼火の背中は確かに守れるほどの力はつけてきた。
つけてきてはいるが…、…おそらく、それまでなのだと思ってしまう。
前は確かに蒼火の眼前に位置する方向だ、蒼火自身が切り開かねばどうにもならん。
そうしてがら空きになっている背中は、俺が守っている。
では、横は?
きっと雪姫が生きていた頃、横は彼女の定位置だったのだろう。
肩を寄り添いあって生きてきて、きっと抱きしめあったのだろう。
そしてきっと、今でもその場所は雪姫のための場所だと考えているのではないか。
きっと私では、そこに行けない。
きっと私では、彼女に勝てない。
くやしさとさみしさが交じり合い、いつしか涙があふれ出てきた。
夕食さえも断って、少女のように泣きじゃくって。布団に包まっていつしか眠りに落ちていた。
* * *
♪ ♪♪
翌日が学校の創立記念日であることも手伝い、自棄になって不貞腐れて、昼前までの睡眠を断ち切ったのは、携帯から流れてるメロディだった。
蒼火とアドレスを交換した際に、着信やメール受信時に流れるように設定していたものだ。
目覚ましにも指定はしておらず、蒼火から連絡があった時にしか流れないものが、今流れてる。
少しだけ鳴って、すぐ止まって。それがメールだったのだと知った。
携帯を弄ってメールだけを見て、やっぱり蒼火の携帯から送られてきたものだと解って…、開く。
『朱那へ。
軽く仕事にひと段落着いたし、少し話せないか?
確かそっちは今日休みだったはずだし、予定が開いてるならで良いんだ。
良ければ連絡くれ』
相変わらず、あいつはデリカシーが無い。私をこの状態にしておいて、何をぬけぬけと…。
直後にまた携帯が鳴る。先ほどとは違うメロディで、今度は着信。
ディスプレイを見れば、「狗業」とだけ。あいつも蒼火に携帯を買ってもらって、折角だからと無理矢理アドレスを交換させられた。着信拒否の方法を知らずに、今までこうしてアドレスに名前が載っているが、電話をしたことも、貰ったことも無い。
その物珍しさから、メールを開いたときと同様に、いやそれ以上の緩慢さで通話状態にして、出る。
「……もしもし」
『あぁ朱那さん、こんにちは。その声は寝起きですか? ダメですよ、ちゃんと規則正しい生活してないと』
「うるさい…、休みの日にどんなすごし方しようが、私の勝手だろう…。何用だ、狗業…」
『いえね、朱那さん、蒼火さんから連絡来てませんか?』
「む…、どういう、ことだ…?」
狗業の言うことには、蒼火が仕事から帰ってきて、直後に私が来ていないかを聞いたのだという。
居ないと知れば少しさみしそうにしていて、すぐに書類仕事に行ったのだという。
『きっと蒼火さんはメールを打ってると思いまして、こうして朱那さんに聞いてみたんですよ。で、来ました?』
「……来た。話したい、打ってあった」
『でしたか。…話せます?』
「……うぅん」
『なるほど…、朱那さんは重症だ』
電話越しに類推されてしまいながらも、それを腹立たしいと思うこともできない。
ほんの数秒の思索の後に、狗業は言ってのけた。
『朱那さんって、自分のうちに溜め込む性質がありますよね。それも面白いくらい』
「む…」
『大方昨日、ボクが居ない時に蒼火さんと何かあって、でも言い出せなくて溜め込んでると見たんですけど、どうでしょう?』
「…………」
『沈黙は肯定とみなしますよ。…じゃあ朱那さん、ちゃんと蒼火さんと話してくださいね』
「何故だ…、今は無理だ…」
プッツンして、吐き出しきって、そんなことばかりを繰り返して、そうして昨日はこれほどの精神状態に陥った。
抑えようとして、抑えようとして。蒼火と話すとまた憤って全てを吐き出してしまいそうで、必死に堪えてる。
『今だからこそ良いんじゃないですか? 蒼火さん、昨日の気後れから色んな事話してくれますって』
「そんなの…、確証が無いではないか」
『ありますよ、確証くらい』
「え…?」
蒼火の行動に対する、確証?
『蒼火さんはですね…。よっぽどの事でない限り、問いかけても黙秘しないんですよ。
必要なことはちゃんと喋ってくれますし、必要ないと思ったことは話さない。知られたくない事は徹底的に隠しますし、知られても構わないことは何でも話します。
きっと探っても手の届かない場所はありますが、それ以外はきちんと受け止めてくるし、応えてくれるんですよ。
ボクより、ちょっとだけですが長く一緒に居る朱那さんには…、解るんじゃないですか?』
…………そういえば。
そも雪姫の結婚との事だって、隠していたわけではない。あいつの部屋には私も狗業も何度も出入りし、その中にあったものを何度も手に取ったりした。
部屋の中にあった物で、絶対にあけるな、と釘を刺したのは金庫程度のもので。アルバムの収められた棚は入っていなかった。
私がまだ“俺”だった頃もそう。狗業との実力差を鑑みて、今のままでは敵わないから置いていこうとした。それが必要だったから。
聞いたことには答えてくれたというのに。
好いているのか、という言葉に対して、好きだった、というように。
『ですから、朱那さんも理解してると思いますので…。ちゃんと話してあげてくださいね。
何もアプローチが無い場合、ボクが蒼火さんを頂いちゃいますからね』
ぷち、と電波が途切れる。
蒼火が話していたこと。蒼火が話したいこと。
必要だから、聞いてほしいから、告げること。
正直な話、恐い。何を言われるのか、恐くて堪らない。
けれど…、聞きたいと思ってしまう私がいる。
深呼吸をして、送信履歴から蒼火の番号を選択して、リダイヤル。
コール音が複数回なって、蒼火が出た。
「……も、しもし…」
『朱那? せっかくの休みだってのにわりぃな。メール、見てくれたのか?』
「…うん、見た。それで、話したいということは…、何だ?」
自分の声が震えている、というのが自分でも解るくらい。きっとバレているだろうが、少しでも悟られないように、少しでも早く聞きたくて、蒼火の言葉を促す。
『あぁ、そのことだけどな…。
昨日の最後の質問だったんだが…、ヤってない』
「は…?」
『だから…、ヤってないんだ。こういうことを赤裸々に語るのは恥ずかしいんで答えかねてたけど…、俺と雪姫は最後まで清い夫婦関係だった。
さらに言うと、俺の童貞喪失の相手は…、お前だよ、朱那』
…え?
『朱那を初めて抱いた日、あんだろ? …その時まで童貞だったんだ。いやマジで』
「…本当、なのか?」
『こんなとこで嘘ついてどうすんだよ…。あの時を思い出してみろよ。朱那を1回イかすまでに、俺は3回イっただろ?
正直…、ナカが気持ちよくって、我慢できなかったってのが…、大きい…』
「…え? だって蒼火、妙に手馴れてたというか…、すんなり私の中に入れただろっ? あの手際で初めてだというのか?」
『だから初めてだって…。そりゃまぁ、知り合いの奴に、簀巻きにされて目を背けられない状況で、目の前で情事を順序立てて説明させられれば嫌でも覚えるわ』
「…貴様、どんな過去を過ごしてきた…。というかそいつは誰だ?」
『あー…、ぶっちゃけた話、地獄で生活してるご先祖…』
いい趣味をしてると思うよ、そいつは…。
呆れが生まれる同時に、不思議と心の中が少しだけ、軽くなっていて。
「じゃあ…、本当なんだな? 本当に蒼火の純潔を私にくれたんだな?」
『純潔っていうと変な気もするが…、まぁ、そうだよ…』
「嘘は吐いてないな? 嘘だったら針を二千本、それも一本ずつ飲ませていくぞ?」
『あんだよその拷問っ! …どうしてそんなに念を押すんだ?』
「えっ!? え、えぇと、その…、なんだ…!」
突然投げられた疑問に、ふと慌ててしまう。
照れと、恥ずかしさと、心の片隅にある嬉しさとで、顔が確りと熱を持ち、赤くなっているのが自分でも解ってしまっている。
「…ふ、ふんっ! どうでもいいだろう、そんなことは! それより蒼火、この後は暇か?」
『あ? あぁ…、書類も纏め終わったし、暇といえば暇かな?』
「ならば今から出かけるぞ! もう昼も回ったし、私も腹が減った。何か奢って食わせろ!」
『うおっ、あんだよそれっ』
「良いではないか、男の甲斐性くらい見せろ。その代わり、新しく出来た美味いジェラートの店を教えてやるし、一つ奢ってやる」
『んー…、まだ俺の方が出費デカいような…。…まぁいいや、解ったよ。それじゃあお互い準備して、いつもの場所で待ち合わせだな』
「あぁ。今から1時間後に」
『遅れんなよ?』
「お前こそな」
その会話を最後に、電話を切る。
さっきまでの陰鬱な気持ちは小さくなりを潜めていた。
例え蒼火の横が、まだ雪姫のものだったとしても。一人分の場所しかなかったとしても。
それ以外でも、蒼火の傍にいられる場所を、蒼火のものを持っている事を認識すると、堪らなく嬉しくて。
気合を入れるように、自分の頬を両手で軽く2度はたく。
「よしっ! そうと決まれば今から支度だ! これだけの気分になった仕返しに、たらふく喰ってやる!」
バツ1でも構わない。蒼火の傍にいたい。隣という場所に雪姫がいたことを羨ましいと思って、けれどその位置に立ちたいと思って。
今はまだ届かなくても、いつかは届くように。
朱那と成った自分がたどり着けるように、蒼火の中で大きくなれるよう。
この、背中では我慢できないと感情の名前を、今の私はまだ知らない。
これが「恋」だと認識するのは、今からもっと後の話だ。
そういえば依然性別変化の夜のお店に蒼火が行くみたいなみたいな話はありませんでしたっけ?もし勘違っていたらスイマセン。
特にクロスオーバーというか、シェアワールドというか、別の作品から絡んでくると『にやにや』笑ってしまいます。
また、続編を勝手に待たして頂きます。