The sonnet No.18
Shall I compare thee to a summer's day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer's lease hath all too short a date:
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimmed,
And every fair from fair sometime declines,
By chance, or nature's changing course untrimmed:
But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow'st,
Nor shall death brag thou wand'rest in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st,
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.
By Shakespeare’s sonnet
PM 19:09 東京 某劇場 大ホール
舞台上方の照明機材が一斉に明転し、中世風の居室が浮かび上がる。わたくしの家の一室、そこにお母様と乳母がいてわたくしを探している。
「あれまあ、私としたことが―――お嬢様ったら、お嬢様ったらどこにいらっしゃいましたんでしょうねえ?」
すっと舞台そでにまた一つ明かりが灯る。円形の一際明るいスポットライトの下にわたくしはその姿を現す。ヒロインの登場だ、客席はいっそう静かに舞台への注目を深める。
開演前に楽屋で見た自分は、まさにお姫様。美しき一輪の花、可憐な乙女。品のある薄黄色のドレス、ティアラにネックレス。風に揺られる綿毛のように軽やかな足取りで無邪気に登壇するヒロイン。
「まあ、どうしたの?だれがお呼び?」
わたくしの愛らしさに漏れるため息。そう、わたくしは愛される生娘の象徴。
ここからの数時間だけは、わたくしは客席の愛を一身に集める花形なのだ。
愛し、愛される。
美しい。可憐。愛らしい。無邪気。軽やか。
それがいまのわたくし。
内海爽太の演じるジュリエット。
PM 22:24 東京 某劇場 第四楽屋
あいさつ回りを終えたぼくは、楽屋に戻っていた。本当は肌に良くないのだが舞台化粧を適当に洗い流したままで、ひとり鏡に向かっていた。
本当に、開演前に見た自分はかわいかった。なんとなくその面影をのこした今の顔と何が違うのかわからないけど、でもまるで別人のようだった。
今回ぼくがヒロインを演じることになったのは水竹さんのアイディアがきっかけだ。最初は不安だったけど素質があるのか巡業開始時には自分でも見違えたように女性らしい仕草が身についていた。熱心に指導してくれた水竹さんのおかげだ。
今回のロミオとジュリエットは今日が千秋楽。ぼくの衣装はオークション形式で後日ファンに売るそうだから、それだけは先に脱いで着替えなければ。にぎやかな楽屋の外とは相対的に静かなこの部屋の壁の衣装棚にドレスを吊って、そしてまた鏡に向かう。
ほんとうに、別人のようだった。
「おつかれさま」
「ああ、お母さん」
「今夜は、打ち上げはどうするの」
「んー、出ようかな。最後だからファンの人も来てくれるだろうし」
「そう、じゃあまた終わるころに連絡してちょうだい。おつかれさま」
お母さんが部屋を出ていく。するとまた部屋が静かになって、鏡に向かいなおる。
すると一瞬だけ、鏡の向こうにジュリエットが見えたような気がした。白い肌、長い睫。まるでこの世の愛を一身で集めるために生まれてきたような、そんな彼女。
自惚れのようだけど、ぼくは彼女に恋をしていた。
華やかで、可憐で、一途で気高くて。ぼくのなかのジュリエットは自信と尊厳をもった強い女性だ。それになにより美しい。
そして、彼もきっとそんな姿に魅了されたのかもしれない…。
やめよう、これこそ自惚れだ。失礼にもほどがある。
そんなことは自分にもわかっている。だが、思い返さずにはいられないのだ。
公演が始まるその直前のことを。
あの時、抱きしめてくれた時。
水竹さん、本当に優しかったな……。
PM 22:58 東京 車内
「いやー、今回の公演は大成功でしたね。最初はそうでもなかったのが、巡業が始まったとたんチケットがどんどん売れて、しまいには立ち見でも追つかない!こりゃ、爽太君と水竹さんのお手柄だねえ」
打ち上げ会場の居酒屋に向かう途中、運転席の今井さんはなんとも楽しそうに言った。それもそうだろう、あまり人気とは言えない彼らの劇団がここまで大当たりすることはめったにないのだから、快哉を叫ぶのも当然というものだ。
「そういってもらえると、ありがたいですよ。ぼくみたいな流れの役者は、いつも端役ですから主役なんてなかなかなくて。今回で外していたら若くして役者人生に終止符でしたから」
「何をいっとるんだい君は。いや実際、爽太君の年齢でここまで仕上がっている子は見たことないよ。それに流れなんて言って、君は最近引っ張りだこだって噂じゃないか」
「あはは、水竹さんのおまけですよ。この人意外とさみしがり屋で、ぼくがいないとよそに出かけられないんですよ」
「誰がさみしがり屋だ」
後部座席で水竹さんがぼそぼそと何かを言っている。
「あれ、勘違いでしたか」
「少なくとも俺の方からそんな条件を付けたことはないぞ。ただ周りのやつが組ませたがるだけだ」
水竹法屋。僕と同じプロダクションに所属する戯曲家で今回の舞台でも潤色や演出を担当している話題のアーティストだ。無精ひげに痩せ細った長身、いつもしかめっつらで不機嫌そうな、傍から見ればどうにもとっつきづらそうな人だけど親しい人には意外と素直な優しい人で、ぼくが幼いころから仲良くさせてもらっている。今回の公演もぜひセットでとプロダクションに頼み込まれてぼくが付いていくことになったのだ。だからぼくはおまけ、プロダクションがセットで売り出そうとしているだけで、実際に高く評価されているのは彼の演出の方だ。
「まあ、お二人は今プロダクションの看板ですから、やっぱり使いたいと思う人は多いでしょうな。ほんとならうちだってこのまま専属になってほしいくらいですよ」
「それは無理だな」
ハンチング帽で目元を隠したまま、そっけなく言う。
「水竹さん、もう少し言い方とかあるんじゃないですか」
ぶっきらぼうにもほどがある。もう契約期間が終わるとはいえ、ぼくらの雇い主だった人なのに、その言いぐさは失礼だろう。
「いやいや、構いませんよ。水竹さんのことはそろそろ私もわかってきましたしね。ま、そんな話はさておいて、無事千凱旋公演も終えて巡業は大成功、とにかく今夜は呑もうじゃありませんか!」
PM 23:08 東京 居酒屋「野空」 駐車場
がやがやと賑やかな店内を抜け出してぼくは外に出ていた。中にはたくさんのファンやスタッフの人がいて、褒められてばかりというのも嬉しいけど気を使うものがある。
なにとはなしにジャケットのポケットに手を突っ込んで星のない都会の夜空を見あげる。クラクションに排気ガス、街灯、高層ビル。自然の摂理をいっさい無視して輝く夜の街。
「お前のジュリエットだってそうさ」
黒いバンの窓ガラスにぼくの顔が映っている。ぼくの顔。ジュリエットの顔。
つむぐ唇も彼女のものだ。
「……もういらっしゃるの?まだ朝には間がありますわ。おびえていらっしゃるあなたの耳に、今聞こえたのは、あれはナイティンゲール、ひばりじゃありませんわよ。毎晩、あの向こうのザクロの樹でないてますのよ。ねえ、あなた、本当ですの、ナイティンゲールですのよ」
美しいセリフだ。真摯にロミオを思う気持ちが、真剣そのものなのにどこか甘い、愛らしい嘘になって語られる。まさに愛の言葉。ジュリエットのついた嘘だからこそこんなに美しくて愛おしい。
そしてそれは今、そのままぼくの思いでもあった。
夜が明ける、その寸前の哀歌―――
「何しているんだ」
「……水竹さん」
いつのまにかぼくのよこに水竹さんが立っていた。もしかしたら今のセリフも聞かれていたのかもしれないと思うと少し恥ずかしい。
きっと彼も、おなじように店を抜け出してきたのだろう、人ごみの苦手な水竹さんらしい。それではなぜ打ち上げに参加しているのかと聞くと、ぼくの子守だとかなんだとか言ってはぐらかされてしまうことが多い。でもほんとに、きっとぼくを心配してついてきてくれているんだろう。
「ずいぶんジュリエットに夢中じゃないか。ま、確かに演技を見れば、お前が惚れるのもわかるがな」
水竹さんが胸元から取り出したタバコを黙って奪って、そのままぼくのポケット押し込む。
「ぼくの隣は禁煙です。どうせ喫煙席なんですから、外に来てまで吸わないでくださいよ」
「へいへい。しかし、どうだった、女役ってのは」
なんでもないようなふりをして聞いているけど、たぶんすごく気になっているんだろうな。何度か稽古がつらくて迷惑をかけたこともあるから、きっとぼくの心配をしてくれているのだろう。ほんとに、親しい人には甘い人だ。
ぶっきらぼうな顔と、垣間見える本心のギャップがおかしくて、ぼくは少しだけほおを緩ませたまま押収したライターも反対側に押し込んだ。そして、なんとなくつらくなって、そのまま水竹さんから顔をそむけて、夜空を見上げた。
「どう、思いましたか」
「……はまり役じゃないのか。性格的にも、見た目的にも」
「そうですね。意外に女装が似合っちゃって、自分でびっくりですよ」
「どうだ、このまま歌舞伎にでも転向して本物の女形を演じてみる気はないか」
「いやだな、ぼくはシェークスピア一筋ですよ」
「そうだったな。まあ、考えとけよ」
水竹さんにしては楽しそうな顔をしていた。半分くらい本気で言っているのかもしれない。
それが少し、寂しいような、うれしいような。
「もし…」
「ん」
「もしそうなったら、ぼくのこと演出してくれますか」
「どうかな…歌舞伎は俺の専門じゃないからな」
「……あはは、そうですね」
意地の悪い質問だ。それにありえない仮定の話だし、そうなったらすごく大変だろうし。
水竹さんがこう答えたのも、きっと深い意味はないのに。
それでもぼくは、すこしだけ期待していたのかもしれない……。
「……中に戻りませんか、夏の初めとはいえ夜はだいぶ涼しくなりますから」
振り返って暖簾の前でぼくは待つ。しかし落ち着かなさげに視線をそらして、動かない水竹さん。
「……どうしましたか」
「いや……なにか、なにかお前が気にしているように見えてな」
「別に、どうということもありません。戻りましょうよ」
おもわず嘘がこぼれる。うれしいくせに素直になれなくて、水竹さんに申し訳なくなる。
普段は無愛想なくせに、こういうときの水竹さんはすごく敏感で、素直に申し訳ないという気持ちを顔に出してしまう。いい大人のくせに、ずるいと感じてしまうほど子供っぽい。
それは、ぼくだけが知っている彼のいいところだ。
「もしも、そうなったら……ちゃんと俺が演出してやる。お岩でも出雲阿国でもちゃんと演出してやるから、心配するな」
「水竹さん……」
まっすぐにぼくと向きあうのは恥ずかしいのか、顔を赤くして夜空をにらむ水竹さん。
「ふふっ、もしかしてぼく口説かれていますか。どうしよう、水竹さんのこと好きだから、考えちゃうな」
「……ばかやろう、さっさと中に戻れ」
茶化すぼく、むっとする水竹さん。
きっと、本気で言ってくれた言葉だから、軽々しく扱っちゃいけない言葉だった。
それでも、今のぼくはその気持ちに応えられない。
ジュリエットに恋するぼくでは、男として彼の前に立てないのだから。
ジュリエット。
真珠のように愛らしい乙女
もしも、もしもぼくが
本当にジュリエットだったなら―――――
AM 00:58 東京 車内
「爽太、このあとうちに来ないか」
そんな珍しい誘いに乗って、ぼくは今水竹さんと二人夜の首都高速道路を走っている。もちろん運転は彼だ。
彼は平時並みのスピードで慎重に運転して先ほどから何台もの車に抜かされている。ぼくも急いで帰らなきゃいけないわけじゃないから構わないけど、なんとなく焦りを感じてしまうのは慣れのせいかもしれない。
水竹さんの車に乗るのは、たいてい別所で個人練習をしていて稽古に遅れそうなときだ。だからいつもはかなりのスピードを出しているのに、今日はのんびりと走っている。
「急にどうしたんですか。今までおうちに誘ってくれたことなんてなかったじゃないですか」
「別に、気が向いただけだ」
「たしか、神奈川の方でしたよね。噂だと相当広いとか聞きますよ」
「あんな家、古いだけだ。なんかには何もないんだから過度な期待はするなよ」
「あはは、でもどこかにお泊りなんて初めてだから、ちょっと緊張します。そういえば着替えないんですけど大丈夫でしょうか」
「ああ、心配しなくていい」
「もしかして用意してあるんですか」
「まあな」
「なんだ、やっぱり気まぐれでも何でもないじゃないですか」
「うるさい、少しは静かにしてろ」
「あはは、せっかく誘っていただいたんですから、ぼくも機嫌を損ねないようにしないと」
「そうしてくれ」
AM 01:38 東京 水竹邸 前庭
「……ん、あれ…………ごめんなさい、寝ちゃっていましたか」
「ああ、いや、気にしなくていい」
「ごめんなさい、水竹さんだって疲れているのに」
「気にするな」
「……どうしましたか?なんか、緊張していますか」
「してない」
「いや、していますよ。初稽古の時だっていつもそんな顔して、それで毎回変に勘違いされるんじゃないですか」
「うるさい、なんでもいいから早く降りろ」
周囲はうっそうとした森に囲まれていた。半円状に木々が立ち並んでまるで壁のようになりその真ん中に一本だけ車道が通っている。そしてその反対側に大きな洋館が立っている。
まるで中世の領主館のような広大さ、それに厳格さだ。壁には様々な紋様が程ほどこされ、建物のつくりもがっしりしている。
「これ、水竹さんのおうちですか」
「そうだ。うちは代々オカルト好きらしくてな。この館もコレクションの一つだったらしい。中にも奇妙なものが溢れているが…まあ、お前は好きそうだから退屈しないだろ。お前好みの中世の鎧や銅剣なんかもいくつかあるはずだ」
「すごい……こんな家ほんとにあるんだ!しかも見学し放題なんて、ありがとう水竹さん」
「ほら、さっさと入れ」
「せっかくだからもうちょっと外観を――」
「いいから入れ。それは明日でもいいだろ」
「はーい」
PM 02:49 東京 水竹邸 居室
水竹さんのおうちには、本当にたくさんの怪しげなグッズがあった。黒魔術関連と思われるドイツ語の本や動物のはく製にフラスコやビーカーの中の奇妙な色をした液体。
その中に混ざって中世風の青銅の甲冑や剣が飾られていた。それに綺麗なドレスや宝石で飾られたたくさんのアクセサリー。
まるでゲームの世界のようで、ぼくはこういったものが好きだ。他にも実際にスイスまで古城を見に行ったり趣味で展覧会を回ったりもしているのだ。
館のめぼしいところを案内してもらった後で、ぼくはお風呂を借りた。
「いいお湯でした。お風呂まで広いんですね」
「あ、ああ」
「どうかしましたか」
「いや……まあ、すわれ」
館の入口に程違いリビングダイニングのウッドチェアに座る。用意してくれてあったパジャマは水竹さんが用意したとは思えないほどふわっとしたデザインだった。
「もしかしてこれ、ぼくの好みとか考えて選んでくれたんですか」
「……まあな」
「ずいぶんとかわいいデザインですもんね。女の子用だったりして」
「ほら」
「あ、ホットミルクですか。いただきます」
マグカップを両手に持って、ちょうどよくあたたかいミルクをゆっくりと飲んでいく。
「どうしたんですか、じっと見て」
「いや……」
水竹さんはぼくがホットミルクを飲み終わるまで、ずっとそうしてぼくを見ていた。
「なあ、爽太」
「なんですか」
「その……なんだ、うちにある衣装を着てみる気はないか」
「衣装ですか?」
「ああ、その、いつか使えるかもしれないと思って集めたものがあるんだ。それを着てみないか」
「いいですよ」
水竹さんがマグカップを流し台に持って行って、それからぼくは二回の衣裳部屋に通された。
たくさんのハンガーにかけられたたくさんの服。目を引く奇抜なものからどこにでもありそうな地味な服まで。いろんな衣装が並んでいるが、ぼくの見た部屋には女性用のものが多かった。他にも同じような衣装部屋があるのかもしれないけど……
「もしかして、ぼくの女装姿が見たいんですか」
「いや、いやそうじゃ――」
「いいですよ隠さなくても、確かに自分でもびっくりするくらいジュリエットは似合ってましたから。どうせなら写真も撮りましょう。こんな機会もうないでしょうから」
「…ああ」
なんだろう。
ぼくはもう、ジュリエットではない。
もう二度と彼女にはなれない。その事実に、不思議な切なさを感じる。
胸が、ぎゅっと締め付けられるような切なさ。
「爽太…」
「なんか、なんかね。切ないんですよ。でも、いつまでもこのままじゃいられないから。いつかはぼくだってもっと立派に男の人になって、女の子の恰好なんて似合わなくなっちゃう日が来るんだから。だから、思い出です。写真、撮ってくださいよ」
「…………」
「ありがとう、水竹さん。最初に水竹さんがこんな提案しなかったら、ぼくに女装が似合うなんてわからなかったんでしょうね。ぼく、やってみてよかったです。なかなかこんな経験できないし、それに、水竹さんにも喜んでもらえたみたいだし…………あれ、あはは。なんでぼく、泣いているんでしょう……喜んでもらえてうれしいのに、楽しかったのに…」
「…爽太、ほら」
「ごめんなさい」
受け取ったハンカチで涙をふく。どうしてだろう、不思議なほどに涙が止まらない。どんな厳しい稽古だって泣いたことなんてなかったのに……。
ぐっと、不意にぼくは強く抱きしめられた。
水竹さんだ。水竹さんが僕を抱きしめていた。
「やだな、あは、あはは…なんか、恥ずかしいですよ、水竹さん」
「うるさい、いいからお前は黙って泣け」
「なんですかそれ、酷いなあ…」
それが、彼なりの優しさなのはぼくにもわかっていた。きっと、かける言葉が見つからなくて、でもなんとか泣き止んでほしくて、感情のままに抱きしめて。
いまのぼくには、つらい優しさだった。
「そろそろ、離してくださいよ。ほら、ぼくもう泣いてないんですから」
水竹さんは答えずに、ただ腕の力を強めることでぼくに応じた。
「水竹さん……こうやって抱きしめられるのは、二回目ですね」
「……そうだったか」
「はい。巡業の一番初めの公演で、ちゃんとジュリエットをやれるのかって本番前に落ち込んでいたら、こうやって抱きしめてくれて。心配するな、お前なら客席全部惚れさせる魅力的なジュリエットになれる、とかなんとか、くさいこと言っていたじゃないですか」
「そうだったか」
「そうですよ。ぼく、すごくうれしかったんです。水竹さんが認めてくれるなら、魅力的って言ってくれるなら、頑張ろうって思えたんです。……でも、でもそれももう終わりなんですよね。ぼくはもうジュリエットじゃない。いつまでもお姫様じゃいられないんです」
「爽太」
「……なんですか」
「今夜は、もう寝たほうがいい。衣装なら明日も着られるし、今夜は疲れているみたいだしな」
「…………そうします。お部屋に案内してもらえますか」
借りたハンカチでもう一度涙を拭いて、ぼくたちはそのお部屋を出た。案内された客室の机に荷物を置いたところで水竹さんは自室に戻っていった。
天蓋付きの大きなベッドだった。中世の世界に夢見た、お姫様の使うようなそれにまた涙が溢れそうになる。
備え付きのティッシュで涙をぬぐって、ベッドに入った。
眠りはすぐに訪れた。
体の中が妙に熱かったけど、気にならなかった。
ただぼくは、ジュリエットでいられない自分が悔しかったのだ。
PM 04:52 東京 水竹邸 客室
―――――水竹さん?
寝静まってそう経たないうちに、ぼくはドアの開く音で目が覚めた。
部屋の中はまだ暗い。かろうじて窓からはいる光で顔が見分けられるくらいだ。
部屋に入ってきたのがだれなのかはすぐに分かった。そして彼がぼくに近づいてきても何も思わなかった。
だが、
「…………んぅ…」
唐突にくちびるを奪われる。そのまま擦り付けるようにかさかさした感触がぼくのくちびるを刺激し始める。
驚いて声も出せなかった。寝起きでろくに抵抗もできないまま、そもそも腕力ではかなわないぼくの腕は頭の上に押し上げられて、なすすべもなくされるがままに乱暴なキスを受けていた。
そして、荒く左右に揺れながら感触を十分に堪能したのか、くちびるからぬっと湿ったものが這い出てきてぼくのくちびるの間に割り込んだ。必死で閉じようとしても手遅れで、歯の表面や歯茎を、蜜をなめとるように動き回っているそれに、生理的な嫌悪を感じずにはいられない。
「――はっ、みずた…んむぅっ」
ようやく声が出るようになったぼくは、なんとか落ち着かせようと名前を呼ぶ。しかしその開いた歯の間から侵入してくる舌の、ぞくぞくするような生理的な嫌悪感に声が詰まった。
彼の勢いは少しも収まりそうにない。容赦なく舐めあげる口内の舌に加えて、ぼくの腕を抑えてない方の手がシャツのボタンを外しにかかる。
ゆびが胸に触れた。肌の上を滑るように撫でられて、
「……むぅっ」
くちびるをふさがれたまま、声にならない声で喘いだ。その声は自分でも驚くほど愛らしい声をしていて、しかしそれよりもおかしいことがあった。
からだが、女の子のようになっている。小さ目だけど膨らんだ胸、先端で固くなった乳首、そして――――たぶん、下半身も。見たわけじゃないからわからないけど、いつもと違うことは感じていた。
頭が真っ白になって、なにも考えられない。
なぜ?
いつ?
どうやって?
なぜ?
ただ、水竹さんが関わっていることはわかった。
そうして力の抜けたままで抵抗せずにいると、彼は顔を下へとずらして、胸の先端に舌を這わせた。
快感が電流のように走った。動き自体は小さくて控えめな愛撫なのに、その衝撃で意識が飛びそうになる。ゆっくりと、でも何度も焦らすように舌が這いずり回って、ぼくは声を出したくなくて目をきつく閉じていた。
涙がこぼれた。
レイプ。これはレイプだ。
寝ているところを無理やり襲われて、よくわからないまま女の子になって、
でもそれより、そんな事より、どうして――――
「――――どうして、そんなつらそうな顔してるんですか」
彼の動きが止まった。
そして、顔をうつむけたまま、眼を閉じて、そして彼は言った。
「すまない――――俺はお前を愛している」
静かな言葉だった。ぶっきらぼうでも誠実で、優しくて、そんな彼にここまでさせた想いの言葉だった。
いつもセリフを書くときのような壮麗な言葉じゃない。彼をそのままむき出しにしたような、傷つきやすい心そのままの言葉だ。
その告白は、ぼくにとって衝撃の言葉だった。思わず呆けて、声もなく彼の顔を見てしまう。
照れくさそうな顔をしていた。しかし目はいたって真剣で、不安そうだった。
そのまま、二人とも動かないままで数秒。さきに口を開いたのはぼくだった。
「あやまらないでください」
きっと、彼は答えを待っている。そう思ったぼくも、本心からの言葉をつむぐ。
そうそれは、ジュリエットではない、男でも女でもない、内海爽太の言葉だ。
「ぼく、ずっとこうしたかったのかもしれない。ジュリエットになって、水竹さんに抱きしめられて、愛されて。ずっと、そうなればいいなって、思ってて……でも、ぼくは男だったから、そんなこと言えなくて、考えちゃいけないから誤魔化して、でも、いま、だからすごく嬉しくって……ごめんなさい、うれしいのに泣いてちゃダメですよね……」
そう、きっとそうだ。
ぼくはジュリエットに恋をしていたんじゃない。
ジュリエットになりたかったのだ。
可愛い女の子になって、そして、水竹さんに愛してほしかった。
だって、ずっとずっと前から、ぼくは彼を愛していたのだから。
「大好きです。愛してます、水竹さん」
「……爽太」
しがみつくように、ぎゅっと首に手をまわして抱きつく。
ワイシャツ越しに感じる、かたい胸板や意外と広い肩幅。肉体の境界線すらもどかしくなって、つよくつよく抱きしめる。
知らぬ間にぼくの瞳からは涙があふれているようだった。それに嗚咽の声も。
でもそれはさっきまでの涙とはちがう。あたたかくて、優しい涙だった。
「……キスしてください」
涙で頬を濡らしたまま、ぼくらはそっと口づけを交わす。
心からあふれた愛しさがそのまま流れているように、涙はいつまでも止まらなかった。
PM 11:02 東京 水川邸 居室
横でぐったりと眠る水竹さんを起こさないように気を付けながら、一足先に目を覚ましたぼくは膨らんだ胸を隠すようにシーツをまとったまま体を起こした。
やはり女の子になったままの姿だった。小ぶりながらも胸はあるし、下の方もそのままだ。
ああ、そうだ、昨日ぼくは……
昨夜の、いや明朝の情事をぼんやりと思い出したぼくは、ようやく自分の体に疑問を持った。
ほんとに、なんで女の子になっちゃったんだろう。
もしかしたら水竹一族のオカルトマニアなところが関係しているのかもしれない。そう本気で考えられてしまうくらい、不思議だった。
でも、それは素敵なことだった。ぼくは女の子になりたかったわけじゃないけど、でもそのおかげで水竹さんに愛してもらえた。それがすごく嬉しいのだ。
ほんとならかなわぬはずの恋だった。いや、ぼく自身でさえ気づかないふりをして、その芽を刈り取っていたのだろう。でもその想いがいまこうして実って、ぼくは水竹さんの隣にいる。
すごく、幸せなことだ。
水竹さんが目を覚ますまで、ぼくは静かに泣いていた。
それも、女の子になったからかもしれない。
弱くて、はかなくて、大事な人に愛される。そんな女の子になってしまったのだから――――
ちゃんと伏線もあるし、フラグもある。
だけど、これと云った直接的な表現をしていないのに何処か切ない。
良い話です。