View:三条九十九
少しだけ前のことを思い出す。
俺は死神としての仕事を行うための下見に、折田真白という老人の家へと向かっていた。
そこで出会ったクゥに教えられ、想定の外に奴が居たことを知った。
帰ってくれば六月が折田真白に憑依されていて、俺の体を狙われて。一が助力の手を差し伸べてくれたおかげで殺せはした。
肉体を、殺せはしたのだけれど。
六月の魂が喰われかけてしまい、元通りには出来ない事実が突きつけられた。俺たちはどうにも出来なかった。
『生きる』夢想を抱き続けている老爺の、背後に巡らされていた手に気付けていなかった。
抵当に取られていたのは、『三条六月』の存在。大切な家族の、魂。
六月を死なせない為に、妹を生かすために、奴の提案に乗った。
俺たちは、負けてしまった。
代償は一定期間の猶予と、その際に俺の体を使わせること。
言葉にすればこんなに短いのに、苦痛の時間はひどく長く感じてしまう。
自分の体だというのに、自分の意のままに動かせないことの苦痛は。死んでしまった時の、六月を一人にしてしまうと考えた時のそれより、重くのしかかってきた。
あれからまだ、5日。それだけしか経っていないと言うのに、折田真白は順調そうに事を運んでいった。
俺の肉体が折田真白に乗っ取られ、それだけの日にちしか経過していない。その間に奴がした行動は、一般的な生活。
けれどもこれは、ただ生きるというだけであって、必要なことをしているだけに過ぎない。
腹が減れば食べて、眠気が着たら寝て、それだけだ。学校になんて行く筈もない。
延命のための術式の再構成。
この体にかけられたリミッター解除の試み。
飽きた時に行う暇つぶしのような自慰。
そして、六月の体を貪ること。
六月は俺の姿をしている折田真白の行為をすべて受け入れ、女性の体と快楽を貪っている。
これも奴の魂が入り込んでいることと、深層部分ではやはり“奴”であることが影響しているのかもしれない。もっと詳しい相手なら解るのかもしれないけれど、行動できない今の俺には、真偽を確かめる術も無い。
そしてあれから、一の姿を見ていない。麻耶も恵那も、洋美も久美子も、そしてほのかの姿もだ。
操り人形となった俺の姿を見るのが、あいつには耐えられないのかもしれない。もしかしたら、何らかの対抗手段を考えてくれてるのかもしれない。
“俺”の舵を取る折田真白の行為に、何度も吐き気を催しそうになり、何度も心を抉られても。
まだ、俺は諦めてはいなかった。
けれど何もできないというのは、時間の流れを否応無しに長く引き伸ばされて感じてしまってて。ただただ歯痒さだけを加速させた。
人間だった頃の名残か、それとも体に未だ根付いてる本能かはわからないけど。また眠って、眼が覚めて。
司会に飛び込んできたのは、薄暗い俺の部屋。電気はついておらず、カーテンは閉まっていない。外は完全に暗くて、時計を見ると、時刻は深夜1時。まだ寝てる時間の筈なのに、夢見が悪かったのかな?
「…………あれ?」
慌てて起き上がり、体に触れる。
視界に入る赤い髪、見下ろせば二つのおっぱいと何も生えてないあそこ。触って帰ってくる感触は、確かに“自分自身”のもので。
「……体が、自由になってる?」
突然のことに頭がこんがらがってくる。感覚の上では、折田真白は確かにまだ俺の中に居る。だというのに主導権を渡して何をするというのだろう?
ただ、自分の体に何か仕掛けられてないのか気になって、探ってみるも結果はシロ。
相手の意図も読めず、ただそこにある恐怖感に脅えていると。
異常が、起こった。
「…っ!?」
それと同時にこみ上げてきたのは、吐き気。何か堪えられないものが胃の中で暴れて、食道を這いずり上がってくる。
直感的に判った。今から奴が出て来ようとしているんだ。
いつの間に完成させていたんだ、奴は。延命のための術式を。
人間としての楔から逃れ、死神の手から逃れるための術式を。
人間を辞めるための術式を。
「ぐ、げぶっ?」
体内から何かが這い出してこようとする。
じっとりとした熱と、物理的以上に怖気を催す粘性を持った、気持ち悪い柔らかさの何かが。俺の体内でずる、ずると音を立てて。
押さえなければいけないのに、押さえきれない。体の芯から力が抜けていくようで、体が言うことを利かない。おぞましさが体内を撫でつけて、体から抵抗という意図を削り取っていく。
口を押さえようとしても、手が動かない。這いずりあがって来る何かが留めてるようだ。
口を閉じようとしても、口が動かない。息を吐くために、邪魔をするなと言わんばかりに、嫌でも開いてしまう。
ずるり。ずるり。
「…っ、ぅ、ふ…っ!」
体の一部を擦り付けての、ゆっくりとした前進は止まらない。緩慢な速度と、体内であることで、判りたくないのに、嫌でも解ってしまう。
胃の中でようやく実体を得て、ずるり、ずるり。
食道を這い上がってきて、ずるり、ずるり。
喉に差し掛かって、ずるり、ずるり。
息が苦しい、呼吸もままならない。死にはしない死神の体が、こんなときだけは恨めしい。
「ぁ、が、げ、ぅ…!」
もう少しだと言わんばかりに、“それ”が口内を埋め尽くす。
唾液をまとって滑りを持って、喉から離れた途端に、べちゃりと地面へ落ちた。
目の前にあるのは、今俺が口から出してしまったのは。
ヌラついた表面。体節のようないくつもの皺。足は全くなく、細長く片一方の先端が少しだけ細い体。
動物図鑑で知っている。これによく似た存在を。
それに当てはめて言うのならば、
これは、巨大な、
蛆だ。
『かはは…。久しいのぅ、三条九十九』
「げふ…っ、こほ…っ、…お前、は…!」
存在を認識した途端に、脳内へ思念の言葉が叩き付けられる。
荒い息でグラつく頭をを整えようとしても、出てくるのは途切れた言葉と、纏まらない思考。
けれど、そうだ、判っていた。こいつが何者なのかは。
「折田…、真白…!」
『そうよ、憶えててくれたかのぅ。…いやいや、あれよりたかが数日、忘れている方がヌシの記憶力を疑ってしまう』
「なん、で、出てきやがった…」
『何故といわれても、準備が出来たからに決まっておろう』
頭を持ち上げて思念を飛ばしてくる、蛭。
準備? 準備。
…コイツの目的。何のために、来たのか。
『ん? こちらこそ憶えておるのだろう?
そうよ、ヌシの体を頂戴する準備が出来たのよ。その為の体に変われたからのぅ。
人間の体内で生まれ変わる秘術じゃが、わざわざ対外に出なければ意味が無くての。
その為にも顔を出させてもらったぞ』
目の前で蛆が、折田真白が喋る。
正確には言葉ではないのだけど、不快すぎる意志が叩きつけられてくる。
『これでようやっとお膳立てが整った。…ではいざ、本懐を遂げさせてもらおうかの』
コイツの本懐。俺の体を奪うこと。
死から逃れるために、それから最も遠い死神の体を我が物とすること。
ぐちり、と音を立てたかのように蛆が迫る。その歩みは遅く、しかし巨大相応の速度で来る。
「(…ダメだ、体が、うごかない…!)」
けれど体が反応しない。先ほどまで奴に使われていたせいか、それとも吐き出す際に根こそぎ精魂を吸われたのか。
けど、自分の体をむざむざ使われる事を俺は想像したくなかった。折田真白になった『俺』がどんな行動をするのか。
そうだ、動け、俺の体。これ以上奴の好きにさせるな。
「…っ!」
『ん? おぉ、まだ動けるのか。体外へ出るときに『弛緩』をかけて置いたが、いやはや若いと言うのは素晴らしいの。
存分に足掻くが良い、もうじきそれさえもワシの物になるのじゃからな』
おぞましい存在が近付いてくる。こちらに絶望を与えるように、先ほどより速度を上げて。
ここから逃げる為には、そうだ。《影侵転移》を使わなければいけない。
幸いにして今は夜だ、影には事欠かない。窓からは月明かりが差し込んでいる。
体を引きずり、月明かりが作った影の中へ、体を入れて。
「
いざ飛び掛ろうとしてきた蛆を背に、力を振り絞って影の中へ飛び込む。
とぷん、と水面へ飛び込んだときのような音を立てて、俺の体は影の世界へ潜り込んだ。
「…は、…っ、はぁ…、く、そ…、情けねぇ…」
這々の体で逃げ出すことしかできなかった。
どこに行くのか、どこへ行けばいいのかもわからず、影の中を走る。まるで水流に身を任せるかのように、勝手に動いていって。
今はどこでもいい、少しでも休める場所へ、折田真白の手の届かない場所へ。
逃げることしかできない自分が、とても怨めしくて。
「あ…っ、あぁぁぁぁぁぁぁっ、うぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…!」
ただ、吼えることしか、できなかった。
* * *
View:忌乃蒼火
忌乃家から程近い墓場。200基近い墓石が立ち並び、周囲は例えようも無く静かだ。
よく目を凝らしてみれば、墓を“器”にした幽霊達が飽きもせず談笑をしている。やれ久しぶりに墓参りに来ただの、自分のところはまだだの、話題の全てが他愛ない、しかし彼らにとっては日常的なもの。
談笑をしている幽霊の中の一人、顔見知りの少年霊が俺に気付いて話しかけてきた。
『あっ、忌乃さんこんにちはー。まだ日が高いけどどうしたの?』
「いやね、ちょっとやる事が出来たから“ここ”の了承を得たくってね」
『ふぅーん。ねぇみんなー、忌乃さんが瘴気使いたいんだってー。良いー?』
井戸端会議に参加している者も、墓にまだ入ったままの者も口々に許可を出してくる。何度かこの場の瘴気を使わせてもらい、代わりに彼らから厄介ごとの解決を頼まれる、というギブ&テイクなことがあったので、ありがたいことに皆俺に協力的だ。
まだ墓が立ってない、墓地内の空き地に小さな陣を書いて気を整える。同時に手首を掻き毟れば、そこから赤い血が沸いてくる。
「澱みよ、凝った気よ…。鬼の血を呼水とし、汝らに形を成す。現れ、我が意に従え…」
手首から滴り落ちる血が、土に一滴落ちる。
“ぐずり”
霊感の鋭いものなら気付く気配の変化が、墓地全体に漂った。
ぼこり、ぼこり、と、まるで地面から生えてくるように、実体を持たない半透明の、一本角を額に抱く小鬼達が現れた。その数は30に届くだろう。
鬼の使う呪術の一つ、一角鬼の召喚。
澱んだ瘴気を中核として、鬼の血で力とある程度の形を持たせた、低級も低級の鬼。
こいつらは命を持つとは言いがたい、召喚した鬼に従い、使い潰される程度の存在だが…、使わないわけには行かない。
力は弱くても人海戦術が取れ、瘴気を収束させればちょっとした手駒となる程のものなのだ。
…………ちゃんと術が使える存在が作れば、の話だが。
「よし、お前ら。目標は解ってるな?」
全ての一角鬼が頷く。
「折田真白の憑いている存在を探れ。可能ならば印をつけて、不可能ならば戻って俺に伝えろ。
よし行けっ!」
四方八方へ一角鬼が、最後の一匹まで散っていくのを見届けて軽く目を閉じた。
全ての存在に、俺の血を基にしたある種のマーカーが付けられているため、ある程度の方角と距離は解る。周辺の地図と照らし合わせれば、大体の場所までは特定はできる。
今しがた散ったばかりなので、この墓地からそう離れてはいないが、めいめいに走っていくため、まだ制御できているのに一安心。
より強い瘴気や魔力に中てられれば、コントロールを奪われかねないからな、こいつら…。
その場を離れると少年霊が気付き、こちらへ近付いてくる。
『あれ、もう良いの?』
「今の所はね。あんまり“こっち”に注力しすぎる訳にもいかないし、これ位が限度だよ」
『なるほどねー。…………で、忌乃さん?
お供え物、ちょーだい♪』
満面の笑みを浮かべながら両手を突き出してくる少年霊に、一つの確信を持った。
どうやら今現在の厄介ごとというのは無いらしい。瘴気の使用代はお供え物を寄越せと、そう言ってきてるのだ。
仕方あるまい。もしやと思って道中買ってきた(必要なければ今日のお茶請けとなっていた)饅頭の出番だ。
彼の墓の前まで移動して、献花と一緒に饅頭を供え、手を合わせる。
『うわーい夕凪亭のお饅頭だー。はむはむ、おいしー♪』
ちなみに本気で物質を食べてる訳ではない。霊は供物に添えられた、死者への畏敬の『念』を食べているのだ。
当然ながらぽいと置くだけでは『念』も無いので、食べられないらしい。さらに食べ物と同時に向けられた念には、発した人間が知る“供え物の味”というのがくっついて来るから、味も感じるのだという。
霊体はこうして生きている人間の『念』をダイレクトに受け取る性質がある。悪霊などは本人の資質もあれど、他者の負の感情に引きずられて「そうなる」ことも一度や二度ではない。むしろ数多い。
こうして墓場に居る彼らに、現状その心配は無いわけだが。
「こっちの用だけで悪いね。また次の時には沢山遊ぼうな」
『うん、約束だよ。またねー!』
少年霊に声をかけて墓場を辞した。
「まずは一角鬼を撒いた…。次はどこから手をつけるかだが…」
さて、細かい説明を省いて現状の概略だけを述べさせてもらうと、だ。
俺は折田真白が人外に変じたところを地獄で見た。そしてそこから逃亡したのも含んでる。
既にそこから現実の時間で半日。やつの行った術式がどんな物か、奴がどんな物になったのかも見ただけで詳しくは解らない。
重要なのは、奴の魂がまだどこかで誰かに憑いている可能性を捨てきれないからだ。
さらに推測するのなら、奴の行動指針が一つの方向に行っているのは間違いない。そのために『他人』を奪うことに躊躇が無いのも。
クゥに教えてもらったこともあり、蔵の中で眠る魂の無い吸血鬼という実例を持ち出してしまえば、それは明らかだ。
だからこそ、奴がすんなり、自分自身を人外に変えて満足する性質だと思えないのだ。
確かに人外は押し並べて人間より頑健だ。人間の致命傷でも、大半は軽症にしかならない。
体力に優れている者ならば、トラックに轢かれても平気な部類も大いに居る。
だが奴の変じたものは、とてもそうは見えなかった。魔術は使えれど見た目はただの蛆。体力も相応の筈。
魔術のほかに、どのような付加効果があの体にあるのか。
戦場に例えるなら、敵の姿は見えていれど伏兵だらけ。地雷がそこかしこに隠されており、うかつに踏み込めば痛い目どころか命取り。
「地味な調査から始めないとどうしようもない、…ん?」
1人呟いていると、ポケットの中で携帯が震えているのに気付く。発信者はあすなだ。
「もしもし…、どした? …ん、解った、すぐ戻ることは、あちらにも伝えておいてくれ。
…それと、雨が近付いてきてるから、洗濯物は早めに取り込むか、乾いてないならハンガーごと。
……ん、頼むな」
電話を切る。どうやら本業の方に仕事の依頼が来ているようだ。
しかも珍しく、そちらから出向いてきている。
「このタイミングでこの仕事…、……まさか、な」
とはいえ、内心の直感はその否定を許さないのがありありと感じ取れていて。
見上げた空には僅かに黒い鉛色の雲が見えて。息を吸い込んで、僅かに空気が重みを増したことに気付いた。
雨が、近い。
* * *
View:篠崎一
日本家屋のあるべき姿というのが、この場所にある。
文化が興り、建築様式に研鑽を重ね、何百年という自然の流れによるサイクルを何十世代という積み重ねにより把握しきり、この地に最も適した形を編み出し、形作る。
雨季の多い時期は湿気が溢れかえり、それの沈殿を抑えるために戸が開け放たれている。
空気は自然と家屋の中も流れ、暑いときはそれが一時の清涼を得る。寒いときはむしろ閉めてしまえば良い。
壊れやすく立て直しやすい、木造畳敷きの日本家屋。
しかし何百年とあるはずのこの家には、年代を感じさせるものはその形状にしかなく、染みや歪み、崩れといった年輪というのを不思議と感じるに至らない。
歪だ、と思う。
そして同時に、今までこの家にの異常に気付かなかったことに。
僕が着ている場所、忌乃家の中で、つとにそう思う。
「蒼火さんはもうじき帰ってくるそうです。すみませんね、お待たせしてしまいまして」
「あぁいえ、突然の訪問ですのでこちらこそ…」
座布団の上で正座して、お茶を持ってきた七菜先輩似の女性と言葉を交わす。
今しがた淹れられた緑茶は、苦味と渋みを感じさせる、日本人の好んできた飲料の、日本人の感性をくすぐる香りを放っている。
手にとって一口飲むと、とても美味しかった。沸騰したお湯じゃない、70℃くらいで淹れられた煎茶。
「…美味しい」
「そうですか。そのお茶、蒼火さんの先々代から贔屓にしてる茶屋から買ったものなんですよ」
「そこ、よければ僕にも教えてくれますか?」
「良いですよ。…でもその前に、洗濯物を取り込んできます。すみませんね、お構いできなくて」
「あ、その、アポ無しに来たのは僕ですから。お気遣いなく…」
視線を向けると、庭に干されている洗濯物。
男性物が少しと、女性物が沢山。その中には小学生くらいの子供のものもあるだろうか。
麻耶の目を通して、初めて“忌乃家という存在”に気付いたけれど。…家主以外は女性なのかな?
それから少し。時間にしては5分程度だろうか。
居間の調度品を何度か見ても、あるのは一般家庭にありそうな家具ばかり。一見して異常さは垣間見えないのに、“隠されていた”事から異常さを頭の中から拭いきれない。
「(…いけない。これからここに依頼をしないといけないんだ。変に疑ってどうする…。
いや、ここに棲むのが鬼ならば、疑わなきゃいけないのか? 実際に、どんな相手なんだろう…)」
考えが飲み下せない。思考が取り止めもなく続いて、僕以外にある動きは時計の音だけという空間。
少し冷めてきたお茶を飲み込んで落ち着こうとするもできなくて。
湯飲みから中身が消えたときに、玄関から声が聞こえてきた。
ただいま。あすな、依頼人は待っててくれたか?。
えぇ大人しく。こんな胡散臭いところに来て大人しくできるなんて、豪胆な子ですよね。
胡散臭い言うな、お前もそこに住んでるんだろうが。
まぁそれはそれとして、言い争いする前に顔を見せたらどうです?
……わぁったよ。奥の間で話を聞くから、お茶はそっちに持ってってくれ。
玄関から聞こえてくる小さな会話で、帰ってきたのはここの家主、これから僕が依頼ごとを頼む存在だというのがわかる。
静かな足音が近付いてきて、襖の陰から一人の男性が姿を現した。
「お待たせしました、忌乃心霊調査事務所所長の、忌乃蒼火です」
「小野寺ほのかです。連絡も無しに参上して、申し訳ありません」
小さく挨拶をしながら、これから恃む鬼を観察する。
身長は175cm程度だろうか。近視用メガネをかけていて、その奥にはまっすぐに僕を見据える視線。
髪の毛は男性にしては不自然に長く、腰まで届いている。丈の長いデニム地の上下を着ているが、その中には恐らく鍛えられた体が押し込められている。
動きの所作には隠し切れない武術の心得が見て取れて。
直感的に思ったのは唯一つ。九十九も麻耶も、少なくとも真っ向勝負では勝てない。
勝てる気がしないと。
先ほど玄関で話していた通り、場所を居間から奥の部屋へと移動して、先ほどより静かな場所に移る。
時計が刻む音も無く、ただ外からの音が聞こえてくる程度の、静謐と言い換えられる空間。置かれていたお茶がテーブルの上で湯気を上げていた。
「…それで、君が電話口でなく、直接ここに来た理由を詳しく聞いていいかな?」
お互い座布団の上に座って、忌乃さんは正座で僕の話を聞く体制に入ってる。
眼鏡の奥の瞳は穏やかなんだけど、どこかに抜き身の、それも触れたら両断されそうな刃の気配を漂わせている。
多分、これに気付ける人間はそういないだろう。それ位にうまく隠されている。
覚悟を決めよう。
下手な隠し立てをした所で、僕が取れる手段と言うのは少ないんだ。
麻耶の知識はあるけれど、『僕』が技術で遅れているのならば、完全に使いこなせない。
現実で頑張っても、魔術の知識は一朝一夕で手に入らないんだ、というのは、魔術の難解さによって浮き彫りにされていた。
1人だけの問題じゃないのも、そうしようとした理由の1つ。
これは僕1人の問題じゃない。九十九も、六月ちゃんも関わっている。
だからこそ、手持ちのカードから何を切るのか。それを間違えるわけにはいかない。
息を吸い込んで、口を開く。
「…忌乃さんに、依頼があります」
そうして僕は語りだす。
まずは僕のことから。自分がどういう存在なのか、自分のほかに誰が居るのか。どんなことが出来るのか。
そして親友にして恋人の九十九と、その妹である六月ちゃんのことから入り、少し前の折田真白の事変。
こうして順序だてて話すに連れて、胸の奥に悔恨の念が積もっていくけれど。それでも告げていかなきゃいけない。
「…僕達の状況は、ほぼ後がありません。忌乃さんに、折田真白の撃破を、お願いしたいんです」
撃破で済ませる。部外者の忌乃さんには。
後はそこまでが終われば、あとは僕1人で何とかしないといけない。ここまでの悪化に追い込んでしまったのは、僕だ。その責任を取らないと。
「…撃破だけで良いのか? 事件そのものの解決ではなくて?」
「はい…。そうして頂いた後は、僕が終息させます」
「1人でか?」
「1人で、です」
「…………」
その質問を最後に、忌乃さんは両腕を組んで沈黙し始めた。呼吸で何度か肩が上がり、落ちていく。
何も言えずに、僕も同じく黙っていて。そのたっぷりの沈黙の後に、告げられた言葉は、
「……で、一つ聞きたい。渦中の人物であるその死神さんは、今日来てるのか?」
「…いえ、僕1人で来ました」
「よし帰れ」
「え…っ?」
「聞こえなかったか? 帰れと言ったんだよ」
もう僕を見据えず、忌乃さんはお茶を味わうように飲んでいる。これ以上興味が無いと言わんばかりにだ。
突然の棄却に驚くも、僕たちは引くに引けない状況だ。この場でなんとしてでも呑んでもらわないと…。
「何故と言いたそうだな…」
突然、理由を問いただそうとした僕を制するように、湯飲みを置いた忌乃さんが口を開いた。
ほんの少しだけ怒りを孕ませた視線が僕に向けられてくる。気の弱い人は萎縮して、立ち向かう気力も無くしそうな恐さが、ある。
「理由は簡単だ。…さっきから聞いてれば、君は1人でどうにかしようとしているんだろう?」
黙秘は認めない、と言うように聞いてくる忌乃さんに向けて、僕は小さく頷く。
「君がどういう存在になってるかは聞いたし、魔法使いがいることも聞いた。その上で1人…。
それ以外は生身の人間が4人、さらに向こうへ付け入らせる余地を大いに残してる状況で、快諾する理由がどこにある?」
「…っ」
息を呑む。忌乃さんが言ってる事も尤もだ。確かに僕はほのかを始めとする人間の体を使っている。
人間の。何も能力のない、一般人の。
麻耶という例外を差し引いても、奴はきっと六月ちゃんの記憶から、誰が『僕』なのかを知っているはずだ。
それを置いての戦闘行為が、できない。忌乃さんはそう告げている。
「それとすまないんだが、俺は折田真白が今現在どういう存在に“成った”のか知ってる。
奴は蛆と化した。体内に潜り込んだ相手の存在を喰らう、毒蟲に、だ」
「…っ、それはどこで…?」
「地獄で。……性悪死神に、その瞬間を半ば強制的に見せられてな」
忌乃さんは誰とは言わないが、きっとその性悪死神はクゥさんだ。
けれど折田真白がどういう存在に成ってしまったのか、僕としては寝耳に水だった。
アレからまだ5日、死期猶予を含めてもまだ余裕があるというのに、思った以上に折田真白の行動は早かったのか。
ただでさえ慣れない人外同士での戦いに苦労していたというのに、それ以上の問題が今この場で生えてきてしまっていた。
「……で。“だからこそ自分1人で”とでも思ってるんじゃないか?」
短いけど思考の渦に心を落していたところに、また低い声が響く。忌乃さんの言うことは、どうしてか的確に僕の考えを射抜いてくる。
クゥさんのように読心能力が無いはずなのに、思った事を読まれるのは驚きに充ちていて。
つい、声を荒げてしまった。
「そうですよ…。九十九にも六月ちゃんにも酷く迷惑をかけてしまった!僕の勝手な早計で2人を奴の好きにさせてしまったんです!
今度こそ、2人に飛び火しないよう、僕が一人で…」
「ド阿呆っ! それが問題なんだろうが!」
部屋を、もしかしたらこのお屋敷全体を震えさせるかのような、大きな怒号が響いた。テーブルを叩きつけた打音と共に、僕の体内を通り抜ける。
それが、問題?
何を言ってるのだろう、この人は。一瞬だけ、理解ができなかった。
けれど忌乃さんは語る。心の中に虚ができたのを知ってか知らずか、告げてくる。
「1人で全てを解決出来ると考えてるのは自惚れ以外の言葉が出てこねぇな…。
『餅は餅屋』とか『適材適所』とか、聞いたことあるだろうし知ってる筈だ。その上で言わせてもらうぞ。
そうやって自分があんとかしようとして執った行動の結果、一人であんでも抱え込み魔術師を出し抜こうとした結果が、今のこれだ。
そこまで馬鹿じゃないだろうとは思ってたが、これほど思いつめてたとはねぇ…」
頭を掻き毟りながら、大きく呼気を吐き出した。
直後にまた吸って、再び僕のほうを見据えて、口を開いてくる。
「君に問うぞ、篠崎一君。
1度目の悪手でどん底へ落とされて、2度目の悪手で賭け金全てを奪われるのを、君は好しとするのか?
その“全て”に、自分の命が含まれていても?」
地獄の底から響くような、心中に染み渡る、忌乃さんの深く低い声。きっとこれには、怒りを隠して押し殺している。
解ってもらうために、人を諭そうとするために、怒ってくれている。
けれど。そんな事を言われなくても、答えなんて最初から出ているんだ。
ここで退いたら、それこそ負けだ。勝てる可能性がある“かもしれない”のに、逃げるなんて。
「…そんな訳、ない。僕は悔しい、折田真白に出し抜かれた事が。僕は悔しい、九十九を、六月ちゃんをあいつの好き勝手にされる事が。
けれど取れる手段が無かったんだ。忌乃さんが言うように採ってしまった悪手で奪われたものが多かったんだ。
今度賭けられるのは、僕自身しかないじゃないか。僕の身一つで勝負するしかないじゃないか!
そりゃあ忌乃さんに頼むのは卑怯かもしれない。あぁそうさ、賭け事でディーラーを抱き込むような事さ!」
「けれど、それでも?」
「それでもだよ! 今度ばっかりは負けるわけにはいかないんだ! 折田真白はきっと、今度は僕さえ飲み込んでしまう。そうなればもうどうしようもないんだ!
だから…! この近辺でオカルト関係を担当して、人間に協力的なあなたに頼むしかないんだ…!」
目の前に転がってるのは、小さな可能性だろう。もしかしたら掴めない“かもしれない”。
けれど僕たちはその“かもしれない”に賭ける。
可能性が小さいなら、完全にゼロではないのなら。
獲りにいくしかないんだ。
「お願いします、忌乃さん! 帰れなんて言わないで下さい、僕たちを助けてください…!
この通りです…!」
みっともなく頭を下げる。土下座だ、日本での最大限の誠意だ。
これでもダメなら、僕は本当に負けしか見えない戦いに行くしかない。
沈黙が、十数秒。
「あぁ、あの、ちょっと、顔を上げてくれ。
…すまん、正直なところ、君の本気を聞きたかったが、そこまでさせたい訳じゃないんだ」
言われて顔を上げてみると、忌乃さんは少し困ったような顔をしていた。
オロオロしていないのは、仕事を請けるという立場上なのだろうか、最後の砦で平静を取り繕っているような感じがする。
「…じゃあ、どうして帰れなんていうんですか?」
「いやな、一応言っておくが、俺はこの仕事を請けないとは一言も言ってない。
そりゃ言葉が足りなかったのも認めるが…、話をするなら、その死神くんも連れて来いとだけ言いたかったんだ…」
おめめパチクリ。
「折田真白は人外に“成って”、三条君の体から抜け出した。その瞬間に彼は奴の手から逃れられてるし、自由に動けるはずだ」
「…そうだったん、ですか?」
「…知らなかったのかよ」
「……はい。あの後、2人とも顔を合わせ辛くって…」
「…うん、あんとなく解るわ」
「…じゃあ、今すぐ九十九を連れてこないと。でも今はどこに…」
おっとり刀で逃げたのなら、きっと携帯も無いのだろう。どうするか悩んでいると、忌乃さんがおもむろに立ち上がった。
「どうしたんですか…?」
「いや、今から三条君を探しにいこうと思ってね。…雨も降り始めてきた、速くしないと臭いが流れそうなんだ」
「…臭い、ですか?」
忌乃さんが言うには、僕の体には僕以外、九十九の放つ『死』の臭いも微かにあるのだという。
あの時、九十九が僕の死出を導いてくれた時の残り香のようなものらしい。
「それを辿って探すんだ。…警察犬が居ないんで、完全に俺がやる訳だけど」
そう言って忌乃さんは、顔を地面に近づけるように這い蹲った。
正直、さっきの啖呵から急降下したのもあって、とても恰好悪い。
「……ん? そんなに遠くない…、のか? それとこの臭い…、屍肉に集る臭いだ。…まずいな」
「それってもしかして…」
「あぁ、折田真白の臭いも程近いところから感じる。…行きますか」
「…はい! 道案内、よろしくお願いします!」
「解った」
と言いつつ、地面の臭いを嗅いだままのポーズで動く忌乃さん。さっきまでの説教とか台無しだよ。
そしてふと、先ほどの説教で気になった分を聞いてみた。
「ところで。先ほど「賭け金」って言いましたよね」
「言ったな。…それが?」
「賭け事、お好きなんですか?」
「真剣勝負にはいつでも命を賭けてる。そういうことで」
「いやでもお金は…」
「…………金をかけた勝負だと、勝てた例が無いな」
そう言ってた忌乃さんは、とても遠い目をしていた。
おーい、僕の目を見てー。
* * *
View:三条九十九
雨の中を逃げる。
それは少ししか回復して無い体力を確実に削り、また精神的にも疲弊させていく。
「はっ、はぁ、…っ、く、…!」
後ろから飛んできたのは、風の魔術。空気を鋭利に研ぎ澄ませて放つ、極々初歩的なものだ。
背中を向けたままでも、それは決して直撃してこない。
理由はわからないけど、きっと、いたぶる為にわざと手加減しているのだろう。
「かはは、どこまで逃げ続ける意志が続くかな?」
後ろからは僅かに声が聞こえてくる。それは折田真白に乗っ取られた人物の声。
魔術が使える為、使われてるその体が、1つの意志の元に連携を組んで攻撃をしてくる。
業を使う余力もなく、脚だけで逃げていると。
「…っ、前!?」
先回りしていたのか、1つの人影が待ち伏せしていた。
足元には巻き上げられた水溜りと、掌には収束された魔力があって、それが今、解き放たれた。
「
「っ、くぁぁ…っ!」
魔術によって、降ってくる雨粒の全てと、俺の体に張り付いた水分、そして水溜りの飛沫が全て、氷の刃と化した。
氷によって肉体を切り裂かれる感覚は、痛くて、熱くて、酷く冷たくて。
「あっ、く…!」
それは足を滑らせ、地面に転ぶには十分すぎる衝撃だった。
「…っ、くそ…!」
捕まるわけにはいかない。捕まったら、俺の体が今度こそ、本当に奪われる。
それをさせない為にも、体を起こそうとして、
「ようやく足を止めたのぅ」
「梃子摺らせてくれたモンじゃて」
「だが、追いかける狩りは趣味ではなくての。
1つの意志を表現する、連続した3つの声が、囲むように聞こえてきた。
三重の拘束魔術がかけられ、体が動かせなくなる。それは雨や、俺の血といった水分をも氷結させて、体から熱を奪い始めてくる。
「つ、めた…っ」
「ほぉ?そのように悠長な感想を言ってる間があるのかの?」
「あぁいや、構うまい。どうせ他に何を考えることもできんようになる」
「今より“ワシ”が、本当の意味でヌシになるからの。今のうちに精々、末期の感覚を覚えておくと良いぞ?」
体を覆う、氷の冷たさが増してくる。絶え間なく降ってくる雨が、魔術によって更に厚みを増していく要因となってきて。
足並みすら揃う、折田真白に喰われた男女3人が、近付いてくる。
(ダメ、なのかよ…。俺じゃコイツから逃げることもできないってのか…。
一…、六月…っ)
せめて。せめて、一がいるのなら。せめて、六月があいつの手の内にいないのなら。
せめて、1人でないのなら。
そう思った、刹那。
雷光が鳴った。
「ひぁうっ!?」
『うご…っ!』
本当に突然の不意討ちだった。水溜りに落ちた小さな落雷は、雨粒を通って折田真白3体と、ついでに俺の体を通っていった。
けれどこれは一体何故? 今のはどこから来たんだ…?
「これは魔術…、いや法術かっ」
「ピンポーン♪」
「っ!?」
突然、いきなり別方面から聞こえてきた声に、折田真白も俺も、そちらを見やる。
けれど、声はしても姿は見えなくて。
「どこ見てんだ、こっちこっち?」
今度は上から声がした。上を見ると、傘をさした1人の人間。
……いや、そう呼んでいいのか一瞬戸惑ったのは、理由としては2つ。
彼が空を飛んでいるのと、その背には、ほのかが負ぶさっていたからだ。
「悪いね篠崎君、“君”はこんな状況慣れてねぇだろうに」
「いえ、大丈夫です…。九十九! まだ乗っ取られてないよね!?」
見た事の無い長髪の男の背から、ほのかが声をかけてくる。
しばらくぶりのような声を耳にして、俺の体からは、一気に気が抜けてしまった。
「あ、やばっ。忌乃さん早く! 多分九十九、もう動けない!」
「あい、よっと!」
雨と同時の落下と、アスファルトを踏み潰す着地の音。
まるで巨大な鉄球でも落ちてきたかのような衝撃に、俺の体に薄く張られていた氷も弾け飛んでしまった。
「九十九…っ、九十九…! 1人にさせてごめんね、助けに来たよ…!」
「ほのか…、どうしてここ、が…?」
「忌乃さんが嗅ぎ付けてくれて…。でも、良かった…。まだ無事でよかったよぉ…」
雨と血に濡れているにも関わらず、俺の体にほのかが抱きついてきた。
濡れた服越しに触れる彼女の肌が、とても暖かくて。
「あぁ…、俺も良かったよ…。またほのかと会えて…、寂しかったんだ…」
本音と共に、その体を抱きしめる。
その隣では、ほのかを抱えていた男性と折田真白が、対峙していた。
「…………なるほどね、分割した魂の置き場所は、今の所はそこか? 折田真白さんとやら?」
「ほぉ…、確かヌシは、忌乃家の者じゃったか?」
「ご名答。それを知ってるなら名乗りは必要ないな?」
「答えんでも構わんぞ。ヌシの名前は知っておるし、どういう存在なのかも聞き及んでおる」
「そう、確か盗みと人間を殺すことはしないという、大甘な鬼だという話じゃて」
「…そこまで知ってるなら、後はどうするか解ってるんだろ?」
「あぁその通り。…ヌシでは今のワシ等が使う体に手は出せまいて」
「魔術の素養があるだけの人間の体じゃ。ヌシからすれば豆腐のように脆いぞ?」
「どうすると言うのだ? その腕を振るうつもりか?」
輪を狭めてくる奴等に対して、男の人は、ただ言った。
「うんにゃ。逃げるよ」
「え…っ?」
喉の奥から、驚きの声が漏れてきた。
「第一、体をそこまで自由に動かして同期さえ取れるような状態なら、魂だけを追い出しても植物人間の出来上がりでしかないだろ。
それに、本体が人間を辞めたのなら手加減する必要も無いんだが…。今は優先順位ってモンがあってな」
男の人とほのかが目配せをして、頷きあう。
『九十九、僕の体をしっかり掴んでて』
と、ほのかの心の声は俺に告げてきていて。何をするのかが、如実に解ってしまった。
「後で鬼が、キッチリとお前の名前を鬼籍に書き込ませてもらう。それまで怯えて待ってやがれ?」
「逃がすと思うてるかっ!」
3人が同時に、魔力の弾丸を男の人に向けて放つ。
「悪いが逃げるよ?」
けれど彼は、虫を掃うかのように、平手でそれを叩き落した。魔力の弾丸が近くのアスファルトを削る。
直後に俺たち2人の所へ駆け寄って、襟首を掴んだ。
「さて、いきなりで悪いんだが、俺の空間移動にはちょっとした問題があるんだ。そこで篠崎君、死神君」
何か、とてつもなく嫌な予感がした。今から俺たちはとんでもないことをされるんじゃないかと。
「ちょ、ちょっと待って忌乃さん、いきなり何を…!」
それはほのかの心の声で確信を得て。
「投げるぞ」
男の人が、とんでもない言葉を告げた。
「どぉぉぉぉぉぉぉっせぇぇぇぇぇええええええいっ!!!!」
「「えええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ……」」
カタパルトもどうなんだ、という勢いで投げ飛ばされる。
ほのかを庇い、背中でなんとか衝撃を受け止めてはいるものの、時速はどれだけに達してるのだろうか。
むしろ雨の方が痛いんだけど。
しかしそれは程なく終わり、突然、大きな腕に抱きとめられた。
「はい到着、っと」
「えっ!?」
気付けば、先ほど俺を投げた男の人が確かに俺たち二人を捕まえている。
一体どうやってこんな所まで? でも確かこの人、空間移動って言ってたよな。そんなことできるのか?
ほのかの状態は? あぁダメだ気絶してる、説明も聞けない。
この人の心の声は? …ダメだ、聞こえてこない。
「…お疲れさん、三条くん。今は少しだけ休んでてくれ。それが終ったら、きちんと起こすから」
「ちょっと待って、それってどういう…っ!?」
首筋に鈍い痛みが、1つ。
まるで電気のスイッチを消すかのように、
俺の意識は落された。
* * *
View:朱那
ある高級ホテルの一室。
天気予報では昼間から雨だと言っていて、既に夜へ差し掛かった今の時分には、既に本降りと宣言して差し支えないほどに、雨脚が強くなっている。
このような天気では、蒼火も出かけることも無いのだろうな、と思うと…。あすなが何をしでかすか気にかかる。
「むぅ、今すぐ電話をして確かめてみるか…? だがなぁ…」
だが、私の手元に電話は無い。これからパーティーへ出席するというのに、電話を持つのは余程のことがない限りするべきではない、と那々の父親に窘められたのだ。
出席するものは時間を気にせず、持て成す側の趣向を存分に楽しむべきというのが最低限のマナーだといわれているが…。
「…えぇい、それにしても何度着てもドレスは締め付けられる! 何故父上は和装を許してくれんのだ!」
どうにもこうにも、体全体を締め付けてくるドレスの圧迫感に、思考を阻害される。
洋装のドレスに比べて、和装は如何に楽か。締め付けに関してはほぼ腹部だけて終るから、他の部分がまだ楽だというのに。このコルセットが、コルセットが。
まるで内臓を搾り出すかのように締め付けてきおって。圧迫感より実は痛みの方が強いのだぞ?
プロポーションをよく見せるというのはとても解るのだが、これを考え出した連中は余程己の見た目に自信がなかったのだろうな。
…うぅ、痛い。せめて誰か気を紛らわせてくれる相手でも居れば…。
と、賓客控え室の扉が叩かれる音で、少しだけ希望を見つけ出した。
小さく咳払いを一つして、自分の表面を「朱那」から「那々」へ、切り替える。
「っ…、どうぞー」
「那々さん、ちょっと良いですか…?」
「静穂さん、どうしたの?」
戸を開けて入ってきたのは、那々の生前からの友人である唱導寺静穂。大人しく控えめで、那々と似通った雰囲気だった彼女は、借金の形となった身なれど良い関係を築けていた。
今夜のパーティーにも同じく賓客として出席する手筈であり、部屋は違えど同じ場所に居るのだ。
ちなみに、唱導寺財閥前当主の孫であり、現当主である後継者と籍を入れたばっかり。
※蒼火注。
「ちなみに朱那は、静穂が自分と同様に他者に乗っ取られている、ということを知らない。静穂は知ってる」
私と同じく、パーティー用のドレスに着替えている静穂だが、どうにもコルセットは着けていない様子。おのれ。
「今日、那々さんのおじ様はどうされてるんですか?」
「どうしても外せない、別の用事ができちゃって…。今日は私がお父さんの代理で来てるんだけど…、どうしたの?」
「え、うん、そのね…」
先ほどからどうにも、静穂はそわそわしている。落ち着きが無いと言ってもいいほどで、視線が頻りに上下右左へと動いてるのだ。
と思うと急に立ち上がり、扉を開けて廊下に誰もいないか確認し、鍵をかけて戻ってきた。
「……さっきから本当にどうしたの? なんだか挙動不審だよ?」
「うぅん、えぇとね…。単刀直入に聞くけど、那々さんは心霊現象って信じる?」
「それはもちろん、信じるけど…。そうでなきゃ忌乃さんとの繋がりなんてできてないし…」
「そっか、そうだよね…」
目の前で頷いている静穂の言葉に、私の中で一つの疑問が生まれた。
この調子では、恐らく何かしらの怪異関係の事件が関わっているのやもしれん。
「…何かあったの? 力になれることがあるなら、何でも言って?」
と言った瞬間。
ぞくり。
この近辺一帯、ホテルの建物内全てに、嫌な気配が走った。
それにつられて立ち上がり、カーテンを開けて窓の外から部屋を見やれば。
「…いかん、やられた…っ」
目の前には、薄い虹彩色に光る、ただの人間には見えぬ壁が張られていた。
これは結界か。蒼火の張ることができるものより確かに精緻で、一般人には気づかれない類のものだろう。
考えを切り替える。まずは何より、静穂の身を守らねばならぬ。しかる後に蒼火へ事の次第を告げ、来てもらわねばならん。
静穂の方を見やると、何かを考え込んでいるような仕草をしている。この結界には気付いてないようで、こちらを見て、ようやく表情を変えた。
「……那々さん、どうしたんですか。そんなに険しい顔をして」
「理由はちょっと話せないけど、問題が起きたみたい。静穂さん、他に誰か来てる人はいる?」
「えぇと、あの人が来る位で…。でも少し遅れるって言ってて、後1時間はかかるらしいって」
「それなら良かった」
「何が?」
「こっちの話」
守る対象が静穂1人なら、幾分か動きやすい。
「詳しい説明は後にして。静穂さん、今はただ何も聞かないで、私と一緒に動いてください」
「えぇと…、それって、何かこっちが思ってたことと繋がるとか?」
「…む。どういうことですか?」
少しだけ、静穂の言葉が気になった。そういえば彼女は何を言いかけていたのだ?
「えぇと、先ほど私が見たものなんですけど、傍目には少し信じられなくて、那々さんに意見を聞きたかったんですけど…」
少しだけ困ったような顔をして、静穂は口を開いた。
「人の体内に入っていく蛆は、信じられますか?」
「…なん、だと?」
「ですから、人の体内に入っていく蛆です。ここに来たとき、お手洗いに入ろうとして見たんですけど…」
静穂が告げるには、女性用トイレの中で言葉にした“それ”を見たのだという。
人の口内から入っていき、まるで体内の肉を咀嚼するかのような音を鳴らして、入っていく“それ”を。
「…なんと。それをいつ見たの?」
「10分くらい前に。アレを見てすぐに、那々さんの部屋に来たものだから…」
なるほど、発見してすぐという事か。だがこの、ホテルを覆う結界は気付かれたからか?
電話は通じるのだろうか、果たして蒼火に繋がるのか?
様々なことが頭の中を通り抜け、事態の把握をしようと思考を巡らせていると、
コンコン、とノックが鳴った。
「む…、?」
それに応えようと動こうとしたところ、静穂に手で制された。
動こうとすると止められ、彼女の表情が真剣そのものなことに、こちらとして動きはせず、ただ相手方の動きだけを見ようとする。
ノックは鳴り続けている。この部屋が無人ではない、というのは少し調べれば解ることだ。中に人がいると確信しての打音は、
次第に強くなっていく。
トントン、トントン、ドンドン、ドンドン、ゴンゴン、ゴンゴンッ。
ノックをしても返事は無しのつぶてに業を煮やしたのか、扉の向こうの人物は壁を壊しかねない勢いで叩き出している。
これはマズイかもしれん。果たして施錠がどれだけの役割になるのか、疑問を持っていると。
今度はドアノブに手がかかったのか、狂ったような勢いで捻り、鍵を開けようと耳障りな金属音をがなり立たせる。
くそ、どこのホラーものだ、これは。
扉の耐久力というのは、実はそんなに高くないのかもしれないというのを、先ほどの一連の動きで私は思い知ることになった。
何度も板を叩かれ、ノブを捻っているうちに、勢いに負けたのか蝶番が軋みだしてきた。
「(いかん、このままでは鍵をかけていても外されるぞ…。篭り続けていても、意味が無いのではないか…?)」
頭に過ぎるのは、そんな意思。
このままでは少なからず扉が押し破られ、何者かが入り込んでくる。
雑多な暴漢程度なら気にするまでも無いのだが、何者かが張った結界内、という状況がその可能性を否定している。
蝶番の外れそうな音が、部屋に響く。
仕方あるまい。
静穂に軽く目配せして、前に行くという意志を告げ、静穂はそれに頷いた。果たして気付いたのか否か、それは解らないが、動くことが解れば彼女も行動しやすかろう。
ガタガタと音が鳴り続け、とうとう限界を迎えた『扉』が、ただの『板』となって、人影が室内に入り込もうとした瞬間。
私は駆け出した。
人間であった場合、という僅かながらの可能性を考慮して、多少手加減をした矢のような跳び蹴りが、ぐにりという感触を持って、人影に突き刺さる。
その衝撃を殺しきれずに、人影は後方の壁へと叩きつけられたのを確認した。
「ふん、何者かは知らんが…、…む?」
見下ろして初めて、その存在を視界内にしかと捉える。
服装からして、このホテル従業員であることだけは間違いない。事実私をこの部屋へ案内したのも、この男のはずだ。
ごく普通の人間である筈だった。
だがその男は今、私の蹴りを喰らって平然と立ち上がり、こちらを見て…、いや違う。見ていない。
ただ顔を向けているだけで、男の瞳は、両方がまったく別の方向を向いていた。
皮膚の下には何かが蠢いてるようで、常に僅かな起伏を繰り返している。体は小刻みに震え、血を吐いていておかしくない口からは、何か小さな白いものが、ぼとりぼとりと落ちている。
今現状、この男の何がおかしい?
答えは単純、何もかもだ。
掴み掛かってこようとする男に、もう一度蹴りを見舞う。先ほどと同じく、ぐにりとした感触が脚に返ってくる。
そうだ、これもおかしい。筋肉の硬さではない何かを、私は蹴った。
「コイツは人間ではない…、何者だというのだ…?」
再び立ち上がろうとしてくる男を前に、私の中に一つの思考が過ぎる。
斬るか?
いやダメだ、後ろには静穂がいるのだ。この程度では押さえねばならん。
ダメージなど無いように、ゆっくりと起き上がってくる男をもう一度蹴倒すと、後ろへ向けて叫んだ。
「静穂さん、逃げましょう! 何かおかしいです!」
丈の長いドレスの裾を予め引きちぎり、動きやすい状態にした上で。静穂と共にホテル内を駆ける。
周囲は悲鳴が幾重にも折り重なっていた。
止まっていられない状態では、それだけを推測の材料にするしかなかった。ただの叫び声の他には、“何か”が来るということ。そして時折聞こえてくる、掠れたような笑い声。
「くそ…っ、蒼火の奴は何をしておるのだ! これ程までに異変が起きているというのに…!」
「忌乃さんが、どうかしたんですか…っ?」
走りながらも、私に手を引かれた状態で静穂が問うてきた。
「あの阿呆なら、この事態が起きたら矢のように飛んでくるはずだ。だというのに、まだその気配すらない。奴はどこで油を売っているのだ…!」
「那々さん、携帯電話は…?」
「持っておらん! ここへ来る前、父上に没収された! 静穂は?」
「私もです…」
「えぇい、連絡できんことがこれほどもどかしいとは、…!?」
逃げようと、下へ下へ向かっていると。そこで私は、先ほどの男が口から出していた“何か”がなんであるかを、知った。
吹き抜けのロビーの、1階部分。扉に張り付いて逃げようとしている人間たちを浚うような、白い水溜りが足元にある。
いや、実際それは水溜りではないのだと、直後に気付いた。
それはまるで意志を持つかのように、うねり、持ち上がり、
人間の口に入り込んでいったからだ。
「…静穂、お前が見たというのはアレか?」
「あれほど大きくはなかったけど、やってることは殆ど同じです。…あの時見た蛆も、あぁして入っていきました」
「蛆?…まさか、あの全てが蛆だと?」
目を凝らして、もう一度白い何かを見ている。
なるほど、確かにアレは蛆だ。アレほどまでに大量に存在したのは見た事が無いし、統制が取れた行動をするのも初めてだ。
「那々さん、アレはいったい何なんでしょう…」
「私も解らん。…だが、自分ひとりでは手に負えんということだけはハッキリとしている…」
私自身、特殊な力というのはあまり持ち合わせていない。
蒼火のように、天然自然の力をある程度扱えるというのなら別だが、私の力は基本的に魔羅の刀だけ。あまりに、多勢に無勢すぎる。
それに、それでさえ静歩の手前であるのだ、出す訳にもいかん。
「那々さん、あれ!」
「む?」
静穂が何かに気付いたように、ある1人の人間へ指をさし、私もそれを見る。
それは先ほど、蛆に入り込まれた人間で。先ほどまで立っていたはずだが、いきなり痙攣をし始めた。
がくがくと振るえ、その穴という穴から、続々と蛆が生み出される。
蛆を吐き出しきった体は、中身を失ったのか平たくなり倒れ、蛆の海へ体を横たえる。
まるで。そうまるで、人体を苗床にして数を増やしているかのようだ。
「全く虫唾が走る…。これを仕掛けたのはどこの阿呆だ…っ」
吹き抜けの階下で起きる惨状に悪態を吐く。これほどまでに大仰に、しかし結界で隠した行動を取る者を、現状私の中に思い当たる存在はいない。
これ程のことができる術者が在野にいたのかと思うと、今の世は過去以上に脅威に満ちているのやもしれん。
「……那々さん」
「どうした静穂、…む?」
静穂の声に思考を区切り、彼女の示す先を見てみれば。数十人が今なお溺れ沈み、その一部と成り果てている蛆の海から、歩き出してくる存在がいる。
着衣や男女の差は多々あれど、そのどれもが若々しいもので。
そのうちの1人、礼装姿の女性が、1つの意志を持った目でこちらを見た。
「…っ」
それは過去の私がしていただろう物と同じ目。それは確かに、獲物を見つけたという目だった。
「いかん、目をつけられた…。逃げるぞ、静穂!」
「それはもしかし、ひゃっ」
それを自覚するや否や、静穂の手を掴んでまた走り出す。私一人なら風の如く走るも不可能ではないが、今は静穂が一緒だ。人間の限界を超えて走ることはできん。
(蒼火がこの場の異変に気付くまで、静穂を守らねばならん…)
私の中にあるのは、ただそれのみ。この場にこれ以上の変動がなければ、最悪は魔羅を取り出すしかない。
今の内に括らねばならんな、腹を…。
「あの那々さん、これからどこに行くんですか…っ?」
「エントランスがアレでは逃げ場なぞ作れん。まずは非常階段が使えるか見る!」
ホテルの廊下には、私と静穂の足音、無数の人間の悲鳴。
そして、追ってくる何人かの足音も、同時に聞こえてくる。
蛆に寄生された奴等が追いかけてくる事に、この状況を作り出した存在への敵意が沸々と湧き上がってくるのだが、今はそれ所ではない。
今は逃げるのが先であり、静穂を守ることが先だ。最悪結界の外へ出せれば、後は私一人でどうにかする。
走り続けた静穂の呼吸が乱れるも、あまり構っていられない。エントランスとは反対側に位置する、非常口へ行ければ…。
「…っ!?」
「は、はっ…、どう、したんですか…?」
角を曲がり、非常口を捕らえたところで見てしまった。
非常口の前に1人の女が立って、こちらを見ている。その視線は先ほど、蛆の海から出てきた者たちと全く同一のもの。
「ほぉう? きちんと逃げようとする意志を持つ女子がおったか。感心感心」
その女がまるで嘲るように、老爺のような口調で笑いかけてくる。
まるで何もかも解っているかのような語気は、警戒心を大きく上げるのに然したる間を必要としなかった。
静穂を自分の背に隠し、眼前の不気味な女に向き合う。
「…貴様、この事態を引き起こした主犯か?」
「ほぅ? その口ぶりから察するに、入り口のアレを見たのか?」
「あぁ、存分に拝見させてもらった。随分と趣味の悪い方法もあったものだな…」
「かはは、趣味が悪いとは言ってくれる。が生憎と、今の儂はあのようにするのが最も楽でのぅ」
「なるほど、楽でアレほどの事を引き起こすか。貴様は随分と性根が腐ってるようだ」
「それすらも今は褒め言葉となろう。人間の殻を破り捨てることがこれ程までに素晴らしい事だと、齢98にして新たに知ったよ。
いやいや全く、人外の世界は広く深いのぅ」
こ奴、随分と口を滑らせてくれる。事が思うように運んで気分がいいのか、それとも単純に自己陶酔型か。
だがアレほどの事をして、先の言葉。
……人間で無いというのなら、加減する必要もあるまい。
「静穂、少しだけ目をつぶって、私の服を掴んでいろ」
「な、なんですか、那々さん…?」
「いいからっ」
「は、はいっ」
静穂を黙らせ、しがみ付かせる。女は何かに気付いたようだが、構うまい。
人一人抱えたままで前方へ跳び、スカートの中へ手を差し入れる。魔羅を握り、刀に変じさせ、即時抜刀。
女が後ろに背負う非常口の扉ごと横薙ぎに斬り払い、首元を寸断する。
口の端に笑みを浮かべたまま、女の首は胴と別れ、血飛沫が舞った。
「……む?」
「ど、どうしたの那々さん…? 今の音は…?あ、血だ、いただきます」
おかしい。
目の前には首と泣き別れになった、女の胴体が倒れている。首筋からは血が勢いよく吹き出て、床や壁を汚している。少し離れた所に転がっている首も同様だ。
…だが、それだけ。それは最早ピクリとも動く気配が無い。
コイツは人外ではなかったか?
「…っ、那々さん、後ろから足音が!」
「近付かれたか…。静穂、一刻も早くここを出る…、っ!?」
眼前の、体と同時に断った非常口のドアを見据えなおすと。
「バカな…っ」
「う、わ…っ」
先ほど斬った女の、首の無い死体が、立ち上がっていた。それと同時に胴体から聞こえてきたのは、発せられるはずの無い老爺の声。
『かははは、お嬢ちゃんは思い切りが良いのぅ。繋ぎに丁度良い体かと思っておったが、こんなに速く駄目になるとは』
切断面から、何かが這い出てこようとしている。
ずるり、ずるりと、血と体液を纏わりつかせ。
『じゃがえぇよ、構うことは無い。予備の体はホテルの人間から適当に見繕わせてもらったし、どうとでもなる』
まるで失った首を補填しようと這い出てきたそれは。
『それに、主等の体を使うというのも面白そうじゃのぉ』
エントランスで見たものよりはるかに巨大な、蛆だった。
「…それが貴様の体ということか」
『ほぉ、今のを見ても気絶せんとは豪胆なことよ』
目の前で蛆が喋っている。いや、これは思念波の類か。頭の中に直接声が響いてくる中で、耳がいくつかの足音を捉えた。
明確にこちらへと向かってくる、整然とした足音。恐らくあの蛆の海から出てきた者たちのだろう。そしてそれらは、先の奴の言からして…。
「今後ろから来る奴等も、貴様の分体と見て間違いなかろうな…」
『かはは、よくぞそこまで頭が回りよる。退魔師の部類か…、いや、主は鬼か?』
言い当てられた。体が少しだけ震える。
…そういえば先ほどからずっと、静穂が傍にいるというのに隠しもしていなんだ。
あぁまたか。私はまた感情だけが先走り行動して、色々なものを壊すのか!
「那々」としてであった友人でさえ、この場で失うのかと…、そう思っていた矢先。
『懊悩するのは構わんが、儂の前で隙を見せるというのはなぁ?』
眼前に迫ってきていたのは、目の前の蛆が唱えた魔術。念の力で動かした女の死体が、勢いを持って突撃をしてきていた。
「な、っくぅ!」
慌てて刀身を心細い盾にし、それを受け止め、払った。
しかしその後詰とばかりに蛆が、こちらへ向けて飛んできていた。
切り返しを考えるも、この速度と距離では…、間に合わん!?
「那々さん、ゴメン!」
「ぬぅおっ!?」
しかし、突如体を思い切り後ろへ引っ張られた。突然のことで対処もできず、されるがままに後ろへ倒れ込んでしまう。
私の顔目掛けて跳んでいた蛆は、目標を外され後方へとんでいく。
誰が引っ張ったというのだ、この状況で。
……まさか?
「…静穂?」
「あいたたた…、間一髪でしたね…。無事ですか?」
「あ、あぁ…、無事、だが…」
蛆の言葉で、自身の行動を再認識してしまう。右手には刃、飛沫で血塗れたドレス。どう見ても、到底お目にかかれるものではない。
けれど彼女はただ笑って、
「それなら良かった。早く起きて逃げましょう!」
「……あぁっ」
確かに、そうだ。まずはこの場を逃げねば始まらん。幸い目の前には非常口、しかもその扉は先ほど斬って捨てた。
左手で静穂の手を握りなおし、勢いよくそこへと走り、非常階段へと躍り出る。
「…っ!」
するとそこにも、階下には既に蛆が蠢いていた。実際に蝿が生み出すサイズの蛆でしかないが、存在するだけでコンクリートの下地を埋め尽くしている。
いや、それだけではない。それは今にも数を増やし、じわり、じわりと嵩を増している。
「これでは降りられん…っ、袋小路以外の何物でもないではないか…!」
「那々さん、上に行きましょう! 確か上には…」
上には…、確かヘリポートがあったが。
「いや、待てよ…?」
この結界、上は完全に閉じられているか? 部屋の中からでは、周囲が覆われている様子しか見ていない。
もし上があるのなら、そこから抜けられるかもしれんが…。
だが、細かいことを考えるより、先に動いて行かねば呑まれてしまう。
その事実が、何よりも先に足を動かす手筈となっていた。
「静穂、何か上に当てでもあるのか?」
走りながら、手を引く静穂に語りかける。5階を駆け上がり、少しだけ息を切らせながらも、ハッキリとした声で答えてくる。
「あの人はこちらに来る時、ヘリで向かう手筈になってました。多分…、それを使えれば」
「逃げられるやもしれん、か…。果たしてどこまでいけるものか!」
目の前にある別階の非常扉から、再び屋内へ入り込む。
エレベーターが動き続けているかは怪しく、確実に階段を用いて上へと昇り続ける他に無い。
左手には静穂だけを連れ、この場を逃げ切らねばならん。
彼女の夫が来るか、それとも蒼火が気付き飛んでくる。そのどちらかの時が訪れるまで。
目の前に、蛆に体内を食われたと思しき者達が現れる。その姿は一様に不気味で、吐き気がする程。
だが、止まれん。
如何に喰われたといえ、人間を斬ろうとも。この場で我等が生き延びるためには斬り捨てなければいけないのだ。
かつて私が、魔羅を残して体を捨てたように。
追いかけてくる者どもと私が行っている事。2つの事象で嘔吐感さえ催すような状況で、こみ上げてくる物を必死に堪え、刃を振るう。
せめて希望の兆しが見えてくるまで、この場は敢えて、鬼となる!
作者の事情はわかりました、また続きが来るのを気長にお待ちしています。
続きは急がなくてもいいですよ。
>1様
感想ありがとうございます。その一言だけで書き手として1つの安堵と、早く続きを書かなければという意志に満ちてきます。
死神3自体が自身の中で小骨のように引っ掛かってるので、なるべく長く待たせないよう頑張ります。
>bishop様
GJありがとうございます。やはり私は好評を頂くことで喜べてしまう安い生き物です…w
話の筋自体は出来てるので、あとは本人の時間と気力次第です。もう少しだけお待ちください。