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悪夢 その1

2012/04/11 11:31:42
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第四夜

双葉がその夢を見たと感じ始めたのは、一昨日からだった。
どんな夢なのかはわからない――確かに夢を見たという確信はあるのだが、どういった夢だったのか、まるで思い出せないのだ。
ただ、とても重要な夢だったという感覚だけが、朝目覚めた双葉には残っていた。下手をすれば、自分のその後の人生を揺るがしかねないほど。
そんな馬鹿な――たかが夢ごときが、人生を変えるなど。
最初は、双葉はそう思っていた。だが、それも三日も続けば不安にもなってくる。何か、その夢に意味があるのではないか?
(もしかして、虫の知らせってやつなのかな?)
「――ちょっと、聞いてるの?双葉!」
「え、なに?どうしたの?」
深い思考の網に捕らわれていた双葉は、母に呼ばれ我に返った。
「もー、早く食べないと遅刻するわよ?」
「うそっ!?」
テレビに目を向けると、朝のニュースが写っている画面の左上に、今の時刻が記されていた。まだ遅刻というほどではないが、余裕はない。
そうだった。今は朝食の最中だった。すっかり考え事に夢中で、自分が茶碗と箸を持っていたことさえ忘れていた。
「ちょっとー、かき込まないでよ。女の子がみっともない」
「ひょーはないえひょー」
「あーみっともない、みっともない」
急ぐ双葉をしり目に、母は台所へと去っていった。
呟きを残して。
「なーんか最近がさつなのよねぇ」

「おはよー」
「おはよー、ギリギリじゃん」
「そーなのよー、変な夢見てさー」
双葉が通う学校。朝の教室。彼女がそこについたのは、まさに遅刻ぎりぎりだった。
双葉は自分の席まで来ると、机に鞄を置いて、隣に座っている友人に挨拶をした。
そのまま、友人のほうを向いた格好で椅子に腰掛け、話し続ける。
「その夢のこと考えてたら遅れちゃって。おかげで朝から全力――」
「ちょっと双葉!」
座ったとたん、慌てたように友人――由紀が声をひそめて注意してきた。
「見えてるよ!股!」
「また?」
なんのことかわからず、とりあえず友人が指差す下を向く。そこには、大股開きになった自分の足があった。
「げっ」
すぐに足を閉じ、スカートを上から抑えて取り繕う。
「あははは、失礼しました」
「もー、寝ぼけてんじゃないのー?」
「ははは、そうかも…………」
まるで意識していなかった。当然のように足を開いていた。自分自身にも、なぜそうしたのかはわからなかったが、双葉は由紀の言う通り、寝ぼけていたということで納得することにした。

授業が終わり、放課後。下校途中に、双葉は由紀ともう一人――歩<あゆむ>とファストフード店に来ていた。
しばらくは、担任の生え際が後退してきただの、体育の教師がむかつくだの、他愛のない話に花を咲かせていたが、歩が思い出したように話題を変えた。おもむろに携帯電話を取り出し――
「そういえばさー、見て!昨日笹ちゃんが言ってたレイプ魔!」
ぶっと、由紀が飲んでいるジュースを吹き出すような音を立て(実際に吹き出したわけではないが)、叫ぶ。
「あんたレイプ魔に会ったの!?」
ちなみに、笹ちゃんとは双葉らの担任――笹塚和夫(29)のことである。
「え?あ、あー違うよー。今朝、交番の前通ったら似顔絵貼ってあったから、写メってきた」
そう言って歩が携帯を差し出してきたので、受け取って見てみる。由紀はあからさまにテンション落とし、乗り出していた姿勢を元に戻した。
「なんだ」
「あれ、もしかしてゆっちゃん心配してくれた?」
その由紀の態度に対して、少し嬉しそうに聞く歩。二人は幼なじみで、端から見てるととても仲がいい。
「あんたがいきなりレイプ魔なんて言うから、驚いただけよ」
「えー」
しばらく二人はじゃれあっていたが、どうやらこちらが二人を無視して、歩から受け取った携帯の画面を凝視していることに気付いたらしい。
「どしたの?黙り込んで」
双葉の横に座っていた由紀――ちなみに歩は由紀の前だ――が、こちらの手元をのぞき込んでくる。
「へー、こいつが今この辺うろついてるんだ」
「ちょっと怖いよねー顔も怖いし」
「こういうのはわざわざ怖くしてんのよ」
「え、ほんと?それ」
「さあ」
二人は、また“じゃれあい”が始まりそうな気配だったが、流石にこちらが一切反応しないので心配になってきたらしい。眉根を寄せて、
「ねえ、どうしたの双葉。こいつに見覚えでもあんの?」
「ふたちゃん?」
実は、双葉は意図して無視していたわけではない。似顔絵の男の顔をどこかで見たことがある気がして、ずっと考え込んでいたのだ。
確かにどこかで見た覚えがあるはずだ。しかも、かなり身近な存在――
「双葉!」
「へ!?あ、ごめん。なに?」
「どうしたのよ、何か気になることでもあるの?」
「え、いや、別に……」
だが、態度があからさますぎたのだろう。由紀は諦めなかった。
「その写メだよね?気にしてるの。そいつ、見たことあるの?」
「う、うーん」
そこで唐突に閃いた。誰かに、耳元で囁かれたかのように。あまりにも唐突だったため、思わず口をついて出る。
「先週……先週の金曜日、シナノヤマ神社の前の通りで、この人に会った……かも」
「確かなの?」
聞いてきたのは由紀だ。歩は目を丸くして、こちらを見ている。
双葉は、少し悩むような仕草をしてから――
「似てる、とは思う」
「なんかされなかった?」
「ううん。その人、道端でうずくまってたから、声かけたの。そしたら、水を買ってきて欲しいって言われて――」
「それでそれで!?」
今度は歩が身を乗り出してきた。興奮しているらしく、思い出しながら話す双葉に先を促してくる。
「――水を買ってきて、それでお終い」
「えー、終わりぃ?」
あからさまに残念がる歩の頭を、由紀がはたく。それを受けて、歩は乗り出していた身体を座席に戻した。
「ちょ、いたーい」
「何を期待してんだお前は。双葉、ほんとにそれで終わり?その後何もなかったの?」
「うん、お礼言われて、水のお金貰って――あ」
「なになに!?」
目をきらめかせてまた乗り出してくる歩を、由紀が押し戻す。
「なに?」
「握手した。別れ際にありがとうって手を出されて、思わず」
「ふぅん。じゃあ怪しいところは何もなかったわけ?そいつ」
「うん、特には」
腕を組み、うなりながら考え込む由紀。対照的に、既にこの話題に飽きたのか、歩は気楽にジュースを飲んでいる。
「何もなかったんなら良かったんじゃないのー」
これは歩。それを受けて、由紀。
「そだね。でも、気になるようなら警察に言った方がいいよ」
「うん、ありがとう」
その後は、また別の話題――担任の婚期について、当人にとっては余計なお世話だろう――に移り、それもすぐ更に別の話題に変わっていく。若い女の子の興味は移ろいやすく、掴みづらい。
だが双葉は、先ほどの似顔絵を見て生じたもやもやがいつまでも胸から離れなかった。

夜寝る前、ベッドで横になってもそれは消えなかった。まるで、最近見ている夢のようだ。
(またあの夢かな)
せめて内容さえ分かれば、もやもやも少しは解消されるのに。
(にしても、あの似顔絵。やっぱりどこかで見たことある)
昼間言った、先週会った男のように、よく思い出せもしないような曖昧な相手ではない。
もっとよく知っている相手――まるで、自分のことのように。
そうして思考を巡らせている間に、いつの間にか双葉は眠りについていた。

◆◇◆◇◆

そこは、完全なる闇に閉ざされていた。光源となるものはなにもない。
暗闇の中を見渡して、そこに居座る男は満足した。闇は自分を安堵させる。幼い頃からそうだった――彼は、厳しい父に叱られるたびに暗い物置に逃げ込んでいたものだ。
だが、暗闇の中で光るものを男は見つけた。
――鏡に写る己の目。
それはとても大きな鏡だった。男が立ち上がっても容易く全身を写すだろう。
その鏡に写る自分の光る両の眼に、男は疑問を投げかけた。
この部屋には光源となるものは一切ない。では、この目は何の光を反射しているのか?――男はその答えを既に知っていた。
視線を下に落とす――自らの身体へと。
右手のひらが、淡い緑色の光を放っていた。よく見えるように手首を返すと、そこには円の中に記号が描かれたものがあり、その線が光を放っている。
それがなにかも、男は知っている――彼自身が描いた魔法陣だ。
その魔法陣を見つめ、男はにやりとほくそ笑んだ。呟く。
「もう眠る時間か。夜はまだこれからだって言うのに」
今は時計がないのでよく分からないため、感覚に頼ることになるが、真夜中一時間前にもなってないだろう。
「まあいいさ。そんなに早く夢が見たいっていうなら見せてやるよ。これで四回目だ。そろそろ効果が目に見えて来る頃だ」
男はそのまま――座ったままで眠りについた。暗闇の中、男の右手のひらだけが光り続けていた。

◆◇◆◇◆

「――う。――どう!」
「は、はい!」
自分の身体が、自分のではない名前を呼ばれて勝手に返事をしたことに、双葉は驚いた。
しかも返事をした後に、双葉の意志とは関係なく起立までする。
見たところによれば今は授業中――黒板の内容からすれば数学の――のようだが、教卓から、こちらを厳しい目で睨みつけるように見据えてくる教師の顔には、見覚えはない。
(見覚えは……ない?本当に?)
その男性教師のことを自分は知らないはずだ――だが双葉は、その教師に恐怖と嫌悪感を感じていた。見ているだけで勝手に身体が震えだすほど。
「前に出てこの問題を解け」
「……はい」
教師が黒板を示し、足が勝手に動く。視点が変わり、自分の意志では動かせない視界から見える生徒にも、見覚えはない。教室も双葉が通うクラスどころか、学校さえ違うように思えた。
さらに彼女が違和感を覚えたのは生徒たちの服装だ――そもそも制服のデザインが双葉の学校のものと異なっているのは言うまでもないが、彼らが着ているのは夏服ではないか。今はもう、十月も半ばのはずだ。
気が付けば、身体は既に黒板の前に立っていた。
チョークを持ち、問題を見つめているが、そもそもどうやって解けばいいのか、双葉には分からなかった。
こんな問題は、後一年はしてから習うようなものではないのか。
答えが分からないのは身体も同じのようで、必死に視線を問題に巡らせているが、一向にチョークを走らせようとしない。
また、双葉のものではない、ひどい焦りを彼女は感じた。おそらく、この身体の感情だろう。
嫌な汗がどっと噴き出す。心臓の音、唾を呑み込む音、時計の秒針が動く音、背後の教師が叩く指の音――そしてなにより、クラスメイトたちのささやき声と含み笑い。全ての音が、耳を塞ぐほど大きく聞こえる。
しばらく、そうして眼球以外の『彼』の身体は固まっていたが――
「もういい、戻れ」
教師の一言で金縛りは解け、ふらつきながら『彼』は席に戻った。
双葉はそれで安堵したが、身体の震えは止まらなかった。未だに含み笑いが耳から離れない。
またも自分のものではない、激しい羞恥を双葉は感じ――同じように激しい嘔吐感を抑えきれず、『彼』はその場で感情とともに胃の中身をぶちまけた。
「うわっ!ゲロがまた吐いた!」
周囲が俄かにざわめくが、そんなのはもうどうでもよかった。
胃液によって灼かれた喉の痛みと、止まらない羞恥心――二つの痛みを抱いて、『彼』と双葉は心を溶け合わせて泣いた。

激しい息遣いが聞こえる――気が付けば、双葉はもう教室ではなく、屋外の物陰にいた。
茹だるような夏の暑さが身体にまとわりついているが、息を乱しているのはそれが原因ではないらしい。
『彼』がひどく興奮している。
目の前には、石の壁。『彼』の視線はその壁にある小さな隙間に固定されている。
(だ、だめ!)
その壁の向こうに何があるのか唐突に気づいて、双葉は制止の声を上げた――いや、上げようとしたが、声にならなかった。
視線はどんどん隙間に近づいていく。そして、とうとう顔と壁の隙間は無くなってしまった。左目の視界は閉ざされ、隙間を覗く右目だけが残される。
その中には――女子たちがいた。水着に着替えて、あられもない姿を晒している。
(やめて……やめて!)
双葉は目を逸らしたかった。こんな、こそこそと変態のようなこと、自分はしたくないのに。
だが、『彼』はやめようとはしなかった。食い入るように中を見つめている。
どんどん、興奮が高まっていくのが双葉には感じられた。
(どうして……どうして私、こんな――こんなものを見て)
その興奮が『彼』のものなのか、それとも自分のものなのか、もはや双葉には判断がつかなくなっていた――ただ股間から、双葉が今まで感じたことのない強張りが感じられた。
『彼』がその剛直を、隙間からは視線を外さずに、焦るようにズボンのチャックから取り出し、掴もうとする。
(もうやめて……)
危険を感じる。これから先のことを体験させられたら自分がどうにかなってしまう――そんな危険を。
双葉の願いが通じたわけではないだろうが、『彼』の手はそれを掴む前に止まった。
何故か。それは――隙間を覗く彼の視線と、中で着替えていた女生徒の一人の視線が絡み合い、しばし見つめ合う。少しずつ女生徒の表情が歪んでいく。
その間、『彼』は動けなかった。そして――
「きゃぁあああぁぁぁ」
彼女の悲鳴と、やっと『彼』がその場から――男性器をしまう余裕もなく――逃げ出したのはほぼ同時だった。

第五夜

目が覚めると、そこは自分の――双葉の部屋だった。
当たり前だ。自分の部屋で寝たのだから――寝ている双葉を、誰かが運び出しでもしないかぎりは。
(またあの夢……)
今日も目覚めは最悪だった。訳の分からない不快感が、胸の奥でくすぶっている。おそらくは夢の感覚なのだろうが――今日も、内容はまるで思い出せない。
ここ二、三日は、起きるとまず夢の内容を思い出そうとするのが、双葉の日課になっていた。
10分ほどベッドの上で、掴みどころのない雲を捕まえる心持ちで考え込んでから、結局、思い出せないものは思い出せないと諦める――これもここ二、三日の日課だ。
(いつまで続くんだろう……)
もう四日連続だ。夢だから実害はないとはいえ、そろそろ誰かに真剣に相談したほうがいいかもしれない。
(だって、起きてすぐこんな嫌な気持ちになるなんて、折角の朝が台無しだもの)
そこで思考を打ち切り、起き上がって鏡の前に行く。着替えなければ。
鏡の前に立った双葉に、ふと疑問が生まれた。目の前の少女を見つめ――
(私って、こんなだったっけ……?)
目の前にいるのは、紛れもなく十六年間付き合い続けてきた自分だ。
やめたくてもやめられない、変わりたくても大きく変えることなどできなかった自分。
気づいた時には、いつもショートカットにしていた髪――何度も伸ばそうかと考え、その度に勇気がもてなかった。
クラスで二番目に低い身長――童顔なのと相まって、度々中学生に間違われることがある。
平均よりも慎ましやかな胸――これはクラスで一番だ。嬉しくないが。
他にも悩みなどいくらでもある。そのどれもを諦め、受け入れてきた。鏡に写るのは、間違いなく自分自身の身体。
だが違和感をぬぐいきれず、双葉は振り返った。そもそも――
(これが……『オ……レ』の部屋?)
人生の大半をここで寝起きしてきた。置いてあるもの全てに思い出がある。思い出せる。だが――
再び鏡に向き直る。
そこには少女。戸惑いの表情を浮かべ、こちらを見つめ返している。
双葉が両手を頬にやれば、当然彼女も同じ様に。腰にやれば、腰に。そのどれにも、触れたという感覚と、触れられたという感覚が双葉にはある。
それでも――違和感は少しずつ肥大していく。
溜まらず、自らを抱きしめて納得しようとしたが、腕に当たった柔らかい感触が思考を妨げた。
腕を広げて視線を下に向ける。ささやかだが、寝間着を押し上げる確かな存在が見てとれた。
(女の子の胸……おっぱい……)
張りつめるような切なさと、湧き上がる興奮。次第に呼吸が早くなり、やけに静かな朝の空気を乱している。聞こえるのは、心臓の鼓動と吐息の音だけ。
見たい……
今、この胸を覆っているのは寝間着と肌着だけだ。起きたばかりなので、下着は付けていない。
どうせ着替えるために脱ぐのだから――
今なら、この部屋に居るのは自分だけだから――
言い訳するように――紛れもなく言い訳だが――自分に言い聞かす。
意を決して寝間着のボタンに手をかけようとして――
「なにしてんの?また遅刻するわよ。まさかまだ寝てないでしょうね?」
コンコンと扉をノックする音とともに、母の声が部屋に響いた。
「い、今着替えてるの!すぐ行くから!」
慌てる声に、相手が不信感を抱かないか不安だったが。
「もう、早くしなさいね」
母はそれだけを言って階下へと降りていった。
しばらく聞き耳を立てて、母が階段を下りきるのを確認して、双葉は胸を撫で下ろす。
ほっとため息をつき、改めて鏡を見れば――
そこには当たり前の自分、都合双葉がいる。
違和感はもうない。ない、はずだ。
それから、ばつが悪そうに手早く双葉は着替えを済ませ、母が待つ階下へと降りていった。

一階についた双葉は、まずトイレに行くことにした。
都合家のトイレは、一階と二階、それぞれに一つずつあるが、一階のトイレは階段のすぐ脇にある。
鞄をトイレの外で壁に立てかけて置き、双葉は特に意識せずにトイレに入った。
先ほどの違和感は、今はおさまっている。
便座に腰掛け、制服のスカートとショーツを下ろす。そこで、また小さな疑問が――普段ならありえない疑問が生まれた。
(あれ?私っていつも座ってしてたっけ?)
当然、立ってしたことなどない。考えたこともない。
自分は――女なのだから。
しかし、何故か脳裏に浮かぶ、立って小便をしている光景――
おかしい、と思っている間に、いつの間にか尿道が緩んだらしい。
開放感。水音。小さな疑問などどうでもよくなる。異常なことが起きていると、分かっているのに。
全てを出し切って、双葉は紙を取り、股間に持って行った。そして、自分の大切なところに触れた――
(『オレ』……女の子のあそこに、触ってる……)
突如頭に浮かんだ認識が、かっと頭に血を上らせた。顔が熱い――真っ赤になっているはずだ。
「痛っ……!」
そのせいか、手に力が入ってしまった。痛みのおかげで、頭は冷えたが……
再び湧いた違和感は残っている。手早く後始末を済まし――
(何なのよ、もう!)
双葉は胸中で、見えない誰かに毒づいた。

◆◇◆◇◆

何かがおかしい。
今朝から――トイレの後も――何度となく、違和感を感じている。全て、普段ならば思いもつかないような、無意識で行っていることについてだ。
もっとも、どれも泡のように浮かんではすぐに消えていくが。
鏡に写った自分の姿。座ってトイレをすること。スカート。膨らんだ胸。声。小さな手。きれいな足――
自分が自分であること――女であること?それに違和感を感じている?
それも、今朝から突然、である。理由がまるで分からない。
「どうしたー?今朝からずっと考え込んで。まさかまだ昨日のレイプ魔のことじゃあないでしょ?」
由紀だ。隣の席に腰掛けて、頬杖をついてこちらを伺っている。
今はもう、五時限目の後の休み時間。あと一つで今日の授業は終わる。確かに、朝からずっと悩んではいたが、そんなに態度に出ていただろうか。
「な、なんでもない。大したことじゃないから」
手を振って誤魔化そうとしたが、由紀はにやりと笑みを浮かべ。
「大したことじゃないってことは、なんでもないってことじゃないわよねぇ?」
その由紀の瞳が、きらりと悪戯っぽい光を放つのを見て、双葉は心臓がドキッと跳ね上がるのを感じた。だが、驚いたわけではない。
「ほんとに何でもないから!」
「えー、好きな人でもできたんじゃないのー?」
面白がるように聞いてくる由紀。その間も双葉の心臓は、彼女の意志とは無関係にどんどん高鳴っていった。
(な、なにこれ……なんで由紀に――)
そのときめきに双葉は覚えがあった。今までも何度か経験したことはある。とはいえ、相手が由紀――いや、女の子だったことは一度もない。
そんな馬鹿な。自分には――
(そんな趣味ないって!)
「ほんとに大丈夫だから!!」
「はいはい。ま、なんかあったらいつでも相談乗るから」
「う、うん。ありがとう」
なんとか話は終わった。ついでに、休み時間ももうすぐ終わりが近いようだ。クラスメイトが次第に席につき始める。
由紀も前に向き直った。その由紀を、横目でちらっと見て。
鼓動が一段と早くなる。それを確認してから、双葉は頭を抱えた。朝からの違和感などどうでもいいくらい、大きな問題が生まれてしまった。
(な、なんでぇ……)
そして、心臓の鼓動よりも遥かに大きな音で、双葉の胸中とは対照的にどこか間の抜けた、軽やかなチャイムの音が鳴り響いた。

六時限目は数学。教壇に立っているのは、このクラスの担任でもある笹塚和夫その人である。
もうすぐ中間考査が近いため、ほとんどの者が真面目に授業を受けていた。
が、双葉は全く授業に集中できていなかった。鼓動は少しおさまっていたが、由紀が気になって仕方がない。
隣にばかりちらちらと視線を送ってしまい、下手をすれば、黒板や教師よりも、彼女のことを見ていることのほうが多いかもしれない。
その視線というのも、漠然と彼女の姿を捉えているのではなく、スカートから伸びるすらりとした生足や、双葉よりも断然大きな胸、真面目な横顔と、その中にある今は引き締められた唇、その他彼女の女性として魅力的な部分にばかり行ってしまう。
(やばいやばいやばいやばい――)
理性は警鐘を鳴らしているが、止められない。
そして何度目か――いや、何十度目かの熱い視線を送った時だった。
由紀と目があった。
(えっ!?)
驚きか。期待か。心臓が、再び大きく跳ねた。そのまま身体が固まって、何もできなくなる。自然、双葉と由紀は見つめ合う格好となった。
心臓の音が、やけにうるさく聞こえる。それだけしか耳に入らない。
だが由紀は、こちらのことなど、まるで意に介さないようだ。口元を手で隠し、何かを必死に伝えようとしている。もう片方の手は前を指差して。
(ま・え・を・み・ろ?)
なんとか口の動きを解明できたが。前?なんのことかと思ってとりあえず前に向こうとして―――
「――う。つ・ご・おぉぉぉ!」
「は、はい!?」
自分が呼ばれていることに気が付いた。返事をしながら、反射的に立ち上がる。
「お帰り、都合。さて、先生の言いたいことは分かるな?」
気さくに笑う笹塚だが、そのこめかみがぴくぴく動いているのを、双葉は見逃さなかった。どうやらずっと呼ばれていたらしい。
「え、えーっとぉ……」
「はっはっは、とりあえずこの問題を解いてもらおうか」
引きつった笑顔で、身震いするような笑い声をあげて、黒板を示す笹塚――身震い?いつの間にか、双葉の身体は本当に震えだしていた。
「双葉……?」
「どうした?都合?」
サーッと血の気が引いていく。双葉はいつの間にか俯いていた。
止められない。震えが止められない。息が乱れるのを止められない。身体がかしいでいくのを止められない。
「都合?」
『――どう』
現実と非現実。両方から聞こえてきた声は、声質も声音も、呼ぶ名前も違うのに、まるで一つの言葉のように、妙に被さって聞こえた。
だが双葉には、脳裏に響いた声がどこから聞こえてきたものかは分からなかった。それを疑問に思う間もなく、今度はくすくすという含み笑いが耳を塞ぐ。震えは止まらない。
ついにバランスが取れないほどに傾いた身体が、重力にそって倒れていくが、目の前が真っ暗になった双葉には、近づいてくる床に気づくことはできなかった。
そのまま、倒れる衝撃を感じる前に、漆黒の闇に包まれて――双葉は気絶した。

◆◇◆◇◆

夢は見なかった――目が覚めた双葉が、まず意識したのがそれだった。
次に浮かんだのは、ここはどこだろうということだ――これはすぐに分かった。保健室のベッドだ。ぼんやりとした視界に、天井と、自分が寝ているベッドを囲う白いカーテンが見える。
そして、自分をのぞき込んでくる友人たちの顔。
「「双葉(ちゃん)!」」
「由紀……?歩……?」
抱きついてくる二人。その顔は少し涙目だ。
「私……」
「びっくりしたよ、双葉ちゃん急に倒れたの!」
「うう、双葉!双葉ぁ!」
歩が身体を離して説明する中、由紀は依然抱きついたままだ。本格的に泣き出している。
「おや、目が覚めた?」
カーテンが開いて、養護教諭の佐藤先生(三十代半ば、メガネをかけた、割と綺麗な女性だ)が入ってきた。彼女は体温計を差し出して、
「とりあえず熱計ってみて」
「はい」
素直に言われた通りにする。少しして、アラームが鳴った体温計を佐藤に返し、
「うん、熱はないね。見たところ異常もないけど――寝不足?」
「いえ、ただ……」
疑問符を浮かべる佐藤――チャンスかもしれない。
「最近、変な夢を見るんです。夢の内容は思い出せないんですけど……」
「それって、昨日言ってた?」
由紀が聞いてきたので、頷く。
「夢、ねぇ……眠れてはいるのよね?それだと、なんとも言えないわね。気になるなら、専門家に聞くべきかな。それより、身体の調子はどう?立てる?」
「あ、はい」
さらりと流されてしまったことに、少々落胆する――が、仕方のないことかもしれない。
双葉は、友人たちが心配そうな表情で見つめる中、しっかりと自分の足で立って見せた。
「ふらついたりしない?」
「大丈夫です」
「そう。じゃあもう帰っていいけど、何かあったらちゃんと病院に行きなさいね」
「あの、そういえば、授業は?」
寝起きだからだろうか。まるで時間の感覚がなかった。これには、友人たちが答えてくれた。
「もう放課後だよ!」
「あんた、結構長く寝込んでたんだから」
その様子を、佐藤は微笑みながら見つめていたが、
「あ、そういえば笹塚先生がお家に連絡してくれたらしいわよ。それで、お母さんが迎えに来るって言ってたから、多分もうすぐいらっしゃると思うわ。それまでここで待ってていいからね。辛かったら寝てなさい」
はい、と答えながらも寝はしない。ベッドに腰掛けるだけに留める。
「あ、そうだあなたたち。どっちでもいいから、笹塚先生に彼女が起きたって伝えてきてくれる?」
「はい」
立ち去りかけていた佐藤に言われて立ち上がったのは、意外にも歩だった。

その後しばらく由紀と話をしていると、歩が笹塚を連れて戻ってきた。
保健室に入ってきた担任は、とても済まなそうに、最近抜け毛が気になるらしい頭を下げてきたが、双葉は決して彼のせいではないと伝えた。
それからすぐに放送で笹塚が呼ばれ、来客用玄関に向かった彼は、双葉の母親を連れて戻ってきた。
母は血相を変えていたが、双葉の姿を見たら安心したらしい。分かりやすくほっとした表情に変わる。その後母は、担任と養護教諭にしきりにお礼を言い、その間に、双葉は友人二人と別れを済ませることにした。
その際に、由紀が双葉の手を握って見せた笑顔が、再び気絶する前に彼女を悩ませていたことを蘇らせたが、もはや双葉にそれをどうこうする気力は残っていなかった。

夜寝る前に、ベッドの中で双葉は、今日のことを思い返していた。
(色々、あったなあ……)
連続する違和感に始まり、謎の双葉へのときめき、そして、倒れたこと。
結局うやむやになってしまったが、何故自分が倒れたのかは分からないままだ。
(あの時、なんかおかしかった気がする……)
何がおかしかったのかはわからない。倒れる直前の記憶はあやふやで、あの時自分がなにを思っていたのかは、はっきりと思い出せない。あの夢のように。
だが、今はそんなことより――
脳裏に、由紀の姿を思い浮かべてみる。
(はぁ……やっぱり……)
急に上がる心拍数。切ない気持ち。これはやはり――
(嘘でしょ、今まで由紀のこと――ううん、女の子をそんな目で見たことないのに……)
だが、双葉は確信していた。これは――恋だ。
(どうしよ……)
伝えるべきか、秘めるべきか。突き進むべきか、黙殺すべきか。
今後のことを悩んでいる間に、双葉はいつの間にか眠りについた。

◆◇◆◇◆

母が亡くなったのは、『彼』が浪人活動をしている最中、二十歳になろうかとしている時のことだった。
死に目には会えなかった。『彼』が中学生の時に家を出て行った母は、つい最近まで――訃報を受けるまで――行方不明だったからだ。
もっとも、父のほうは母の居所を知っていたのかもしれない。母の訃報を告げてきたのは父だった。
母の死に顔は安らかだった。『彼』が見たこともないほどに。『彼』の知っている母の顔は、いつも何かを堪える顔だった。
家庭を省みない父に堪える顔。父に叱られる『彼』を庇って堪える顔。禁断の快楽に堪える顔――
『彼』が母に抱かれるようになったのは、小学五年の冬からだった。
何が契機というわけではなかった。もともと、『彼』にはマザコンの気質があったのだが、いつの間にか母とキスするようになり、それが深いものに変わり、肌を抱き合わせるようになった。
寝室での母は、普段の鬱憤を晴らすかのように乱れてはいたが、彼女はいつも受け身だった。そして、事が終わるといつも泣いていた。そのことが、『彼』をどうしようもない罪悪感に駆り立てた。
それでも、母との情事を止めることができないまま、『彼』が中学二年の夏に母は出て行った。
そのことに対する父の反応は淡白だった。いや、冷酷だった。
『ああ、そうか』
それだけだった。そのことに少し怒りも覚えたが、どうすることもできなかった。
なんにせよ、これで『彼』を庇う人間はいなくなり、その後の高校生活は最悪のものとなったが、それは今は関係ない。

机の上の小さな灯りしか灯っていない、薄暗い部屋の中。
激しい息遣いが聞こえる。それは双葉――いや、『彼』自身が放っているものだった。
もはや双葉は、自分の行動に疑問を感じることはできなくなっていた。
『彼』の意志と記憶に呑まれ、五感を圧倒する体感に溺れている。だが、双葉でなくてもそれに堪えられる人間はいないだろう。
時刻は午前二時半。今日――いや、日付的には、つい昨日、母の葬儀やらなんやらに出席して、帰ってきたばかりである。
だというのに、今『彼』は、母の若い頃の写真を見ながら、自らを擦りあげていた。

葬儀に出席して初めて知ったことなのだが、母は既に父とは離婚していたらしい。
再婚をして、『彼』にとっては異父兄妹となる娘までもうけていたそうだ。

写真の中の若い母と、『彼』にたどたどしく挨拶をする、幼く小さな“妹”の姿が重なる。妹は、母によく似ていた。

母の再婚相手はとても良い人だった。初めて会った『彼』を受け入れ、もし良ければ一緒に暮らさないかとまで言ってきた。生前母は、『彼』のことばかり気にしていたからと。
妹のほうも、若干期待するような目でこちらを見て来てはいたが――

断った本当の理由を、『彼』は自分自身理解していた。
母と、つい先日知ったばかりの妹の名を叫びながら『彼』は達した――自分のことを抑えられる自信が、『彼』にはなかったのだ。
絶頂の後の、軽い喪失感と虚脱感に襲われながら、『彼』は泣いた。
母の死に顔を見ても、焼かれる姿を見ても泣かなかったというのに。
そして、双葉も泣いていた。既に何度も男の快楽を刻み込まれ、自分の心が変貌していることに、本当の意味で気づかないまま。

第六夜

頬を伝う、温かい感触で双葉は目が覚めた。
触れてみると、それは液体だった。寝ている間に、涙を流していたらしい。
なぜ泣いたのか――それは分からない。夢が原因だということは間違いないが、今日も、内容は思い出せない。
もしかしたら。
もしかしたら、毎日夢の内容は違うのかもしれない。
もしかしたら、実は夢など見ていないのかもしれない。
だが結局、いくら可能性を考えようとも、思い出せなければ意味がない。
昨日よりも早く、双葉はベッドから起き上がった。意味がないのなら、しないほうがいい。
時計を見ると、かなり早く起きてしまったことに気づいた。一時間は余裕がある。
さて何をすべきか――決まっていた。事態は切迫している。
トイレだ。

二階のトイレに入り、鍵をかける。
双葉はいつものように便器の前に立つと、そのままパジャマのズボンとパンツの縁に手をかけ、前を開いた。小便を出すために力を加減しつつ、己の男性器を掴もうと――おかしい。掴めないどころか、常にあるはずの股間の存在感を感じない。
「えっ?」
掴めないまま――力を抜きすぎた――尿が溢れ出す。
「やっ――待って――」
意味のない言葉を発しても、止まらない。
ズボンと言わず、パンツと言わず、股間全体がびしょ濡れになっていく。排尿による快感と、股が濡れたことによる不快感が合わさり、おかしな倒錯感がある。
やっと小便が止まると、足下には水溜まりができていた。下半身は言うまでもなくびしょびしょで、あまりのことに双葉は呆然となった。
何故。頭は今、その言葉で埋め尽くされている。
何故。
何故――
(ちんこが……ない……?)
疑問の正体を意識した瞬間、はっとする。当たり前のことだ。
当たり前だ。男性器なんてあるわけがない。あったためしもない。
がくがくと、身体が震えだしていた。頭を両腕で抱え、得体の知れない恐怖に戦慄する。
何故。いったい、自分は、どうなってしまったのか。

しばらくそうしていたが、下半身の不快感にいい加減我慢ができなくなった。
シャワーを浴びたい――でもその前に、このトイレの惨状をなんとかしなくてはならない。
トイレットペーパーである程度の水分を拭き取り、最後はトイレに常備されている雑巾で念入りにこする。
その作業をしながら、鍵をかけた個室の中で、双葉は涙が溢れ出すのを止められなかった。かといって、汚れた両手で顔に触るのははばかれた。
ぽたぽたと、下を向いているため、床に落ちるがままになる涙も、尿と一緒に拭く。
それは、いくら拭き取っても、いっこうに終わる気配がなかった。

家の中を、既に起きているであろう母親に出会わずにバスルームに向かうのは、細心の注意を必要とした。
既に濡れた服は脱ぎ去り、着替えて見た目からは分からないとしても、見つかりたくはなかった。
なんとかその任務をやり遂げ、風呂場についた双葉は、しっかりと扉をしめた後、手早く服を脱いだ。
そして、今着ていたものとさっき脱いたものを洗濯機に入れてスイッチを押す。これで全ての証拠は隠滅できた。
ひとまず安心する――この年で小便を漏らしたことが親に知られたら、正気を疑われかねない。
ほっとして顔をあげると、今まで意識の外にあったものが、視界に入ってきた。
現在の自分の状況――風呂場にいる。一糸まとわずに。
これだけならば問題はない。風呂に入るのなら、服は脱ぐべきだ。問題は――風呂場には、人の上半身が写るくらいの大きさをした鏡があった。そこに写った自分の裸体。
昨日は倒れたため、風呂に入らずに寝たので、自分の全裸を見たのは二日ぶりだ――昨日見ていたら違和感を感じたかもしれない。
だが、今感じているのは違和感を通り越していた。まるで――
(他人の裸を見てるみたいだ……)
目の前に少女が裸で立っている。
ごくっと、唾を呑み込む音がやけに大きく聞こえた。後、意識したのは心臓の音。ゆっくりと、しっかりと刻む音も大きく聞こえる。
少女の裸はきれいだった。シミ一つなく、真っ白な肌が輝いている。全体的に幼いが、それが逆に倒錯感を演出していた。
(この子に……触れてみたい)
双葉は、おずおずと右手をあげると、目の前に伸ばしていった。彼女も、それに応えるかのように左手をあげてくる。
二人の手が合わさり、指を――絡め合わせることはできなかった。透明な壁が二人を分かち、手には冷たい感触しかない。
その切なさを埋めるように。絆を確かめるように。二人は手を合わせたまま、今度はお互いに顔を近づけ合い、目をつむり、唇を合わせようとして――
「双葉ー、お風呂入るのー?」
びくっと身体を震わし、鏡から遠のく。ノックの音はしたが、扉は開いていない。
「う、うん!シャワー浴びようと思って!」
「そう?なら早くしなさい」
とんとんと軽い足取り。母はすぐにどこかへ行ってしまった。
ため息をつく。気分がそがれてしまった。だが、再び鏡を見ると、そこには顔を少し上気させた裸の少女がいる。
彼女をしばし眺めていると、胸の奥、身体の底からなにかがむくむくともたげてきた。
同じようにこちらを見つめていた少女は、にやりと不釣り合いな笑みを浮かべた。
(そう、お風呂に入らなきゃ。ゆっくりと、ね?)
心の中で少女に話しかけ、彼女と全く同じタイミングで後ろに振り向くと、双葉は浴室の扉を開けた。

さっきまでの不安感が嘘のようだ――鼻歌を口ずさみたくなるほど、そして実際に歌ってしまうほど、双葉は気分が高揚していた。
乾かすのが面倒なので、できるだけ髪は濡らさないようにして、身体だけ洗う。十六歳の乙女の肌は、素晴らしい弾力を返してきた。
胸や、女の子の大事なところはあえて軽めにすませ、他は丁寧にタオルでこすった――ほんとは自分の手で直接洗いたかったのだが、それもあえて我慢する。
尿がかかった太もも辺りの不快感――かゆみを感じてきていた――も洗い落とし、全身を泡まみれにすると、今度は流さなければならない。
シャワーを手に取り、髪にかからないように身体にあてる。ふと下を見ると、そこにはなんともエロチシズムな光景が広がっていた。
身体を覆っていた泡が、お湯により身体の表面にそって、滑り落ちていく。胸のあたりを、わずかな膨らみにそって流れていくのは、殊更扇情的だった。それを真上から見下ろすこの光景は、本来男には絶対に見られないはずだ。
男?いや、自分は女だから、この素晴らしい光景が見られるのだ――なぜ、自分のことを男だと思ったのかという疑問は、今の双葉には浮かばなかった。
胸を通過したお湯は、きれいな腹とへそを伝い、何もない股間へと集まっていく。
股間。意識すると、そこが気になって仕方がない。椅子に座った双葉は、身体をお湯で流しつつ、少しずつ足を広げていった。
身を屈めないとよく見えないため、少し俯く。淡い陰りは濡れてはりつき、露わになったそこを形にそってお湯が流れていく。
(ああ……なんてエロいんだ)
心拍数が上がっているのは、シャワーを浴びているせいだけではないだろう。
顔を上げると、ちょうど目の前に小さな鏡がある。今は湯気で曇っているそれをお湯で流すと、そこには先ほど脱衣所で見かけた少女が、朱に染まった顔で機嫌良さそうに微笑んでいた。
(君の身体、触らせてもらうよ)
もちろん、拒絶の言葉などない。むしろ、彼女はさらにニコッと微笑んで――
「気持ち良くしてね」
この顔が――未だ幼さを残した愛らしいこの顔が、いったいどんな風に快楽にもだえるのか。少女の顔は再び口の端を歪め、彼女には似合わない、いやらしい笑みを浮かべた。だがそれはむしろ、今の双葉の興奮を煽るだけであった。
シャワーのノズルを壁にかけて、座っている自分にあたるように調節をすれば、自然と両手が空く。
自由になった両手で、まずは自分の顔に触れてみる。顔のパーツと、輪郭を確かめるように。
満遍なく顔と、あと髪にも触れたあと、そのまま、肌に触れたままで、手を下に滑らしていく。手は首を通り――喉仏がないことが新鮮に感じた。思わず声を出してみると、聞き慣れた声も完全に他人のものとしか聞こえない――、交差するようにして、あまりにも細い肩を抱き締め、鎖骨を撫でるようにして、ついに胸へと到達した。
両手でそれぞれ両方の膨らみを覆う。とくん、とくんと心臓の音を意識する。
(柔らかい……)
僅かな、小さい胸。それでも柔らかさは十分だった。
少し力を込めてみると、容易く歪む。それを真上から見ると、もはや残り少なかった双葉の理性は溶けて消えた。
ゆっくりと胸を揉みはじめ、次第に早くなっていく。それにあわせるように、最初は触っていることに感じていた悦びが、触れられ揉まれていることに対するものへと、変わっていった。
「んっ……」
思わず漏れたその吐息も、色気を感じる。
最高だ!この身体は最高だ!そう叫びたかった。しかし、口から出た音は全て嬌声に化けた。
「はぁ……いぃ!いいよぉ!すっごいっ……この……から……だ、いいぃ!」
あまり大声を出せば、母に気づかれるかもしれない。そういった考えは全く浮かばないばかりか、もっと声が聞きたくて、むしろ次第に大きくしていった。それに、声を出すことも気持ちが良かった。
しばらく胸を揉み続けていると、手のひらに少し固い物が当たることに気づいた――乳首だ。見ないでも分かる。
今や双葉は、胸を揉むことに夢中で、手を止めて確認する時間すら惜しかった。
その乳首を、つまみ上げる。
「やっ!ひゃんっ!」
鋭い快楽が身を灼くが、止まらない。そのまま乳首をいじり続け、そして――
「いっひゃあああああ――」
胸だけで絶頂を迎えた。
イく瞬間背筋を伸ばしたため、上を向いている顔にざーっとシャワーがかかるのを気にもせず、双葉は余韻を味わった。
今まで生きてきた中で、かつてない衝撃だった。何度か自慰をしたことはあるが、ここまで感じたのは初めてだ。
風呂で自分を慰めたのも初めてだったし、あんなに大声をあげて乱れたのも初めてだ。いつもは声を抑えて、隠れるようにしていた。いけないことをしている気がして。
「……すごい。女の子って」
初めて尽くしの自慰だったが、そもそも女性の悦楽を初めて味わったかのような新鮮さがあった。
(胸だけでこんなんじゃあ……ここなんて……)
気怠げに下を向いて女陰に触る。指先にぬるっとした感触があった。粘液のような。
それを人差し指と中指ですくい取って、目の前に手を上げてしげしげと眺める。親指をつけて離すと細い糸が伸びて途切れた。
(これが……オレの愛液)
また、むらむらと欲望が湧いてくる。それは女性器で熱さに変わり、全身を燃え上がらせた。
ぴんとアイディアが浮かんだ双葉は、かかりっぱなしなっていたシャワーを掴むと、温度と勢いを調節して股間にあてがった。
「くっ……うっ!」
(水が……膣内(なか)に入ってくる!)
一定の強さで当たる水流は、イったばかりの身体に心地よい快楽をもたらし、どんどん盛り上がっていった。
しばらくして、物足りなくなったのでノズルを回し、少し強くしようとして――好奇心に負けて強くしすぎてしまった。
「ひゃああああ――」
一気に軽い絶頂を迎えたが、強張った腕が思わずシャワーをさらに押し付けた。
「あああああああっ――」
そのまま、とめどない快楽に溺れ、意識は押し流されていった。

◆◇◆◇◆

なんであんなことをしたのだろう……。
あの後――風呂場で盛大に絶頂を迎え気絶した後、様子を見に来た母に発見され、双葉は事なきを得た。
母は、昨日のこともあるから休んだほうがいいと言っていたが、それを振り切って家を出た。倒れた理由が理由だけに、恥ずかしくてその場から逃げ出したかったからだ。おかげで遅刻してしまったが、そんなことはどうでもいい。
小便を立ってしようとしたことといい、風呂場でのことといい、普段の自分なら考えられないことだ。
そういえば、昨日も違和感は感じていた。だが、感じるだけで、変なことをして暴走するまでにはいたらなかった。
朝のことを思い出すと、身震いがする。あの時の自分は自分ではなかった。
確かに自分の身体が行ったことだし、意識もはっきりとあった。しかし、感じ方、考え方が明らかに普段とかけ離れていた。まるで――そんなことがあるのなら――なにかにとり憑かれたかのような……。
「今日も考え込んでるの?」
突然聞こえたその声に、心臓が跳ねる。
「ん、ううん。なんでもない」
不自然になっていないだろうか?彼女に向けた自分の笑顔が、どんな風に見えるのか。考えてもしょうがないことだが。
「ほんと?相談しなさいよ。また倒れられたらかなわないし」
冗談混じりににやっと笑う由紀にドキドキしながら、双葉は昨日も感じた疑問をぶつけた。
「あのさ……なんで分かるの?悩んでるって」
それは素朴な疑問だった。普段よりぼんやりしていたとでも言われれば、素直に納得しただろう。が、
「だって、爪噛んでるから。悩んでるとするんでしょ?そういう癖って。だから昨日も――」
「……え?爪?」
聞き返すこちらに頷く由紀。こちらがあまりにも愕然としたからか、取り繕うように由紀は言ってきた。
「あ、あれ?気づいてなかった?まあ、そういう癖って自分じゃあわかんないかも――」
「違う!」
思わず語気が強くなるが、構っていられない。
(違う!私にそんな癖――)
「双葉……?」
「ご、ごめん!なんでもない……」
気遣うような友人の視線に気づき、謝って会話を終わらせる。
その後もしばらく由紀はこちらを気にしていたが、また意識が思考に沈んでいった双葉には、彼女を気遣う余裕はなかった。
爪を噛む癖なんて、賭けてもいいが自分には、ない。
じゃあ、誰の癖だ?肌が粟立つ。先ほどの考えがまた浮かんできた。
――まるで、なにかにとり憑かれたかのような――
身体が震えだした。そこでふと気が付く。視線を口元にやると――親指を立てた自分の左手。その親指の爪を……。
ばっと左手を下ろす。その手を見つめたまま、得体のしれない恐怖が双葉を襲い続けた。

水曜日。三、四時限目の授業は体育だ。双葉の通う高校の体育の授業は、二クラス合同で二時限分、男女別れて行う。
体育の授業を受ける場合は、もちろん制服から体操服に着替えるわけだが、双葉の高校には明確な更衣室というのは、プールに設置されているものしかない(各部活動はそれぞれ部室で着替えることになっている)。
当然、いちいちプールにまで着替えに行くわけにはいかない。
授業は二クラス合同で行われるわけだから、片方のクラスで男子、もう片方で女子が着替えることになっている。ちなみに奇数クラスは男子、偶数クラスが女子だ。
双葉は偶数クラスなので、男子が出ていくのを待ちながらまだ悩んでいた。
(たとえば、二重人格とかどうかな?)
二重人格なんて、テレビや漫画の中でしか見たことはないが、自分がそうではないとは言い切れない。今、自分の身に起きていることを考えれば。
そうなると、病院に行かなくてはならないだろうか?それは避けたい。
他人からの奇異の目を想像すると怖かった。肉親や友人からもそう見られるかもしれない。そして、もっと知らない他人はその彼らをも、自分のことを見るような目で見るかもしれない。
『専門家に聞いたほうがいい――』
昨日、夢のことを聞いた時に言われたことを、双葉は思い出した。
(そんな気軽にどうこうできる問題じゃない……)
だが――夢。そのことが引っかかった。
(もしかして、これの原因って――)
爪を噛まないように組んだ腕を見ていたため、落ちていた顔をはっとあげる。
そういえば、違和感を感じだしたのは昨日からだが、あの夢を見だしてから、小さいがおかしなことが多々起きていた。
自然と股を開いて座ったり、自分のことを『俺』と呼んだり……
(でも、どうしたら――)
「今日休むの?双葉」
「へ?」
呼ばれてみると、そこには上半身下着だけになった由紀がいた。それを見て、双葉は若干吹き出した。
「なっ、ななな、な!?」
挙動不審なこちらの様子を見て、疑問符を浮かべる由紀。隣には――こちらはもう体操服を着終わっているが――歩までいる。
(見ちゃダメだ!)
だが、見たいという気持ちもかなりの部分存在していた。それに従ったら、自分が自分でなくなるような気がして、双葉は明後日の方向に身体を回した。しかし――
(うっわ……)
そちらにも、色とりどりの下着が舞っている。彼女らは、双葉の視線をいっさい気にすることなく着替えている。
――昔覗いた時は、悲鳴をあげられ、逃げたが結局バレて、酷い目にあったってのに。
眉根を寄せる――今考えたことはなんだ?
だが、思考は続かなかった。続けられなかった。目の前の光景に気を取られて。
右手が、自然と股間に添えられていた。なにもない、股間に。
「双葉ぁ?」
「双葉ちゃん?」
振り向く。ちょうど、体操服を着込んだ時にちらっと見えた由紀のへそを、双葉は見逃さなかった。
こちらを見ている二人に愛想笑いを浮かべ、
「うん、今日は休む。昨日の今日だし……それで、ちょっと保健室で寝てくるから、先生に言っといてくれない?」
「いいけど……」
「だいじょーぶ?」
ちらっと、教室を見渡してから、
「うん、ごめんね」
それだけ伝えて、双葉は教室を後にした。向かうは保健室――ではなく、トイレだ。

扉を開けて中に入ると、思った通りそこは無人だった。誰もいないトイレは、ひんやりとした冷気で双葉を迎え入れ、火照った身体には気持ち良い。
ここは二階の端にある女子トイレだ。校舎を正面から見て一番左に位置する階段横のこのトイレは、近くにある教室が理科実験室等のため、昼間は移動教室でもなければ使用する生徒は少ない。トイレに入る前に確認したが、付近の教室を使っているクラスはなかった。
ちょうどこの真下、一階に保健室があり、その目の前にもトイレはあるのだが、養護教諭に悟られる危険がある。
鏡の前に立つと、そこにはギラギラとした光を瞳にたたえた、幼い顔をした少女が映っていた。乗り出すようにこちらをのぞき込んできているため、胸元が見える。彼女は色っぽく目を細めて微笑を浮かべ、唇を舐めた。
その顔が、唐突に苦痛にうめくように歪む――苛むような頭痛を感じて、双葉は鏡から顔を背けた。
「ダメ……早く……保健室に……」
トイレまで来るのに、はやる気持ちを抑えきれず早足になってしまった――予鈴が鳴る廊下を、人気のないほうに進んできたのに呼び止められなかったのは、ちょっとした奇跡だったのかもしれない――ため、もともと息は乱れていたのだが、今、肩を大きく上下させているのは別の理由だ。
双葉はあまりの痛みに、反射的に目を閉じた――だがこれがいけなかった。
真っ暗なまぶたの裏に、焼き付くように写っていたのは先ほど見た光景だった――級友たちの着替える姿。
口元が先ほどとは反対の方向に歪むのが感じられた。今鏡を見れば、少女は笑っているだろう。
低く短い、空気が漏れる音が響いた。双葉の口から。笑い声だった。
「はっ、ははは……」
むくりと身体を起こす。頭痛はすっかり消えていた。むしろ、はっきりとしていた。自分が今、何をしたいのか。
それはこのまま鏡の前でしたいところだったが、滅多に人は来ないうえにさきほど予鈴がなったため人が来る確率は絶無とはいえ、ここでは万が一がある。
双葉はため息をつくと、仕方なく一番奥の個室に入り、鍵をかけた。
胸はこれ以上ないほど高鳴っていた。鼻息も荒い。
双葉はそれには構わず、おもむろに制服を脱ぎだした――理性はもう限界に近い。それでも、自分を焦らすように手を動かした。
脱いだブレザーは扉の上部に設置してある上着掛けに、リボンはそのブレザーのポケットに入れる。ブラウスのボタンをゆっくりと外し、前をはだけさせた。
見えたのは、肌色の中できらめく青色。淡いブルーの下着が、目にまぶしい。
少し見とれて間が過ぎたが、気を取り直して胸に手をやる。ブラウスは完全に脱げていないし、スカートははいたままだが、流石に校内で全裸になるのは気が引けるか。
便座に腰掛けてから、ブラジャーをずり上げ、右手でスカートをまくり、ショーツ越しに割れ目を上下にこする。丹念に。丹念に。
「んふ……」
次第に強くなる快感に、音を立てて吐息が漏れた。
できれば声はあげたくなかった。そのくらいの羞恥心はまだ残っている――だがそもそも、授業中の校舎内でこのような行為をしようとしていることに対して、ずっと鳴り響いている理性からの警鐘は無視する。いやむしろ、それがますます双葉を興奮させていた。
「んっ……!」
起立した乳首を弾く感覚を脳が受けて、反射が目を閉じさせ、声を上げさせる。
我知らず天を仰いだまぶたの裏に、また鮮明に級友たちの姿が浮かぶ。中でも、親友と呼べる相手の姿が双葉の心を奮わせた。
(がまん……できない……!)
双葉は立ち上がり、ショーツを膝下まで下ろして――ある考えが閃いた。顔がいやらしく歪むのがわかる。
立ち上がってショーツを脱ぎ去り、目の前に掲げてしげしげと眺める。ブラジャーと同じ色。本来双葉にとって、なんの珍しくないものだ。その下着を――くんくんと少し臭いを嗅いでから、双葉は頬張った。
特に味は感じない。布の塊だ。ただ、少し鼻につく臭いがした気がした。これで声は抑えられるだろう。
ショーツ越しにひと息ついてから、右手の指を股間に這わせる。そこはすでに十分湿っていた。
そのまま勢いに任せて、人差し指を体内に押し進めた。これは初めての経験だ。
「ふっ……ぅんん……」
せまい膣を押し入ってくる指先。全身がそれを感じ、それだけに集中している。
上半身が倒れ、身体が真ん中から折れた。
やっと根元まで入り込み、深く息を吐き、また吸い込んで肺を満タンにする。
「んっ……!」
今度は、少しずつ抜いていく。その出入を少しずつ早くしながら繰り返しつつも、動きには若干変化を与える。最初は苦しさのほうが強かったが、だんだん身体も慣れてきたようだ。だが、まだ膣ではいけないだろう。ならば。
親指の腹をクリトリスに当てる。指を抜き差しするために手が動いているので、自然と親指はこすれ、くぐもった声を双葉は漏らした。
「――――んうっ!」
心も身体もいっぱいいっぱい。それでもなんとか双葉身を起こし、止まっていた左手の動きを再開させ、胸も刺激する。
膨れ上がる。股間の奥、自分の最も中心にあるであろうなにか。後はもう、昇りつめるだけだ。身体とともに、心も。
脳裏に浮かぶ映像は、もう先ほどの光景ではなかった。似たようなものだが。
一瞬だけ見えたへそどころではなく。これまで何度も見た、女子たちの着替える姿。その中にいる由紀たち。中学の時の修学旅行で、由紀たちと一緒に入った温泉。寝間着姿と、朝乱れていた寝姿。果ては、自分自身の風呂に入る記憶や、トイレの記憶にまで至る。そのすべてが頭の中で次々とはじけていく。その中でも、由紀の記憶が一番そそられた。
そして、ふざけて由紀の胸を触った時の記憶が蘇るとともに、双葉の身体は頂点に達した。
「んっああ゙ぁああああ――」
その中で、左手に実際に触れている感触と、記憶の中の感触を双葉は比べていた。

◆◇◆◇◆

後片付けも含め、ことを済ませた後、ふらふらになりながら保健室に双葉は向かった。佐藤先生はこちらの様子を見て、昨日のこともあったからか大変心配してくれたが、双葉は内心申し訳ない気持ちでいっぱいだった――ふらついている理由が理由のためだ。
少しベッドで寝かせてもらったが、気まずさを感じて双葉は自分から保健室を後にした。早退を勧める佐藤先生の申し出を断って。
体育の授業を見学し、昼休みを無難に過ごした後、午後の授業を聞き流す。そしてホームルームが終わるとすぐに双葉は帰宅した。
由紀たちと合わせる顔がない。
(なんであんなこと……)
それは、自問ではなく自責だった。バスに揺られながら、双葉は後悔の念に潰されていた。
自宅の前についてもその気持ちは消えず、このまま一生背負っていくのかとも思ったが、玄関に置いてあった靴を見たら吹っ飛んだ。
それは、父のものだった。
慌てて自分も靴を脱いで、廊下を早足で進む。単身赴任中の父が今日帰ってくるとは知らなかった。いや、朝言われたのかもしれないが、上の空で聞いていなかった。
重い感情は消えていた。足取りが軽い。すぐにリビングの扉の前につき、踊るような気持ちでドアノブに手をかけて、
(……何が嬉しいんだ?)
それは、他人の声が聞こえてきたかのようだったが、響いたのは双葉の頭の中だけだった。冷水をかけられたような気がした――だが、手は止まらない。
「……え?」
疑問に意味のない答えを発しても、開く扉は止まらない。
「あら」
「お、お帰り」
座って談笑していた父母が、こちらに気づいて言葉をかけてくる。
久しぶりに見た父の姿は、特に変わったところはなかった。
しかし、父の存在を意識した途端、今まで感じたことのないものがふってわいた。がたがたと身体が勝手に震え出す。
「久しぶりだなー、ん?どうした?」
「ひっ、いや!」
父が立ち上がってこちらに近づいてくるのを見て、頭を抱えてうずくまる。双葉は父に得体の知れない恐怖を感じていた。
「ふ、双葉?」
うろたえる父の声。無理もない。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
何に対する謝罪なのか。自分にも理解できないが、止まらない。
「双葉」
いつの間にか近くに来たらしい母が、双葉を立たせた。困惑する父を、母が押しとどめるのを気配で感じる。
そのまま、母に連れられて双葉は自室へと向かった。歩きながら感じた母の温もりが、場違いだと思いながらも、双葉には心地よかった。

「ほら、双葉」
部屋につき、双葉をベッドに座らせるために母が身を離そうとする。それがたまらなく嫌で、双葉は追いすがった。
「いや!母さん!」
「ふた――」
母の言葉が途切れたのは、双葉が口を塞いだからだ。自身の口で。
「ん、むー!」
さすがに暴れる母を構わず押し倒す。
「母さん、母さん!オレ――」
母の服に手を差し入れて、身体をまさぐる。母は身をよじりながら叫び声をあげた。
「やっ!双葉、やめて!」
「嫌だ!嫌だ嫌だ!母さん!母さん、オレを――ボクを見捨てないで!父さんはボクを――」
「いやっ!」
母の渾身の力で吹き飛ばされ、双葉は背中を壁にぶつけた。
ドタドタと音を立てて母が部屋から出て行くが、双葉は止めようとはしなかった。自分は、母に何をしたのだ……?
自然と涙が流れた。嗚咽が漏れる。
「うっううっ――」
壁に背中を当てたまま膝を抱え、双葉はしばらくそのままでいた。途中、ノックの音と呼び声がしたが、無視してそのまま泣き続けた。涙が涸れても。

何時間そうしたのか、双葉が顔をあげると部屋は真っ暗だった。
着替えをする気力も湧かず、制服のままベッドに潜り込む。不思議と空腹感はない。
横になっていると、階下から、父と母の言い争う声が聞こえた。
(パパ……ママ……ごめん)
面と向かって言えればいいのに。だが、今の双葉にはそれができる自信がなかった。

◆◇◆◇◆

母が死んで、間もなく。父が再婚した。
まるで、母の死を待っていたかのようなそのタイミングに、『彼』は怒りを覚えたが、父には何も言えなかった。
年々、父は老い、『彼』はその背を追い越し、力でももはや負けないだろうと思えたが、まだ父に対する恐怖は健在だった。
そもそも父は、再婚について、『彼』になんの相談もしなかった。『彼』が聞いたのは、再婚した女性がこの家で暮らすという、事後報告だった。
父が再婚をして、ついに家にも彼の居場所は無くなった。
継母は日中も家にいたし、父は早く家に帰ってくるようになった。
継母は『彼』によく話しかけてきて、食事も一緒に摂ることを希望した。つまり、父とも一緒に、ということだ。
居心地は最悪だった。
一応『彼』は浪人生という立場だったが、父の望む大学に入ることはとうに諦めていたし、父もまた、『彼』が受かるとは思ってなかったのだろう。
父と『彼』の会話は次第に無くなって、このまま自分は、所謂引きこもりになるのだろうと、思っていたのに。
継母に釣られて、父までもがよく話しかけるようになった。ついには、大学も好きなようにしろとまで言ってきた。やりたいようにしろと。
『彼』が状況の変化に混乱してる間に、決定的な出来事が起きた。異母弟が出来た。
父も継母も喜んだ。『彼』は、本当に父の子かといぶかしんだ。
そこからはまた地獄だった。父と継母は、『彼』に兄になることを望んだのだ。
冗談ではない。
『彼』は家を出ることを決意した。
適当な大学に合格し、独り暮らしをすると家を出た。
以来、家には一度も帰らなかった。連絡もしなかった。長期の休みになっても、卒業しても。
しかし、家との関わりを、完全に絶つこともできなかった。
卒業して、就職しなかった『彼』はフリーターになったが、生活には一切困らなかった。父が毎月、使いきれないほどの仕送りを寄越したからだ。
金を引き出す度に、頭に過る。これで、自分の居場所と生存を父は確認している。
こんなことで、息子に対して、親のつとめをしている気になっている。
しかし、そう憤りはしても、その金を使わないという選択はできなった。

「お兄ちゃん」
そう言ってしなだれかかってきた少女を、『彼』は抱き止め、キスをした。
少女は『彼』の妹ではないし、ましてや恋人の類いでもない。
所謂、援助交際というものだった。
父からの仕送りと、一応アルバイトもしていたため、金は余っていたし、家に帰ることはもとより、友達もろくにいなかった『彼』は、他人との関わりを――特に女性との――風俗や、携帯の出会い系サイトに求めた。そうして知り合ったのがこの少女だった。
彼女の囁く愛が、偽りだとは分かっていたが……
少女は、『彼』の母や、一度しか会ったことのない異父妹に――そういえば、この少女と同じくらいの年代だろう――似ているような気がした。
こんばんは。
このお話は、三、四年前に旧支援所のわかば板に書いたんですが、その時は図書館にあげなかったので、今さらですが図書館に保管しにきました。
お茶か牛乳
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