杉谷清彦が夜の湖畔に来たのは、静かな場所が欲しかったからだった。
湖岸の遊歩道から外れ、水際に近づく。
清彦が足を止めたのは、道路から大分離れた波打ち際の砂地だった。
足を放るように投げ出して腰を落とし、膝を抱え込む。
スラックスが汚れるのも構わずに、抱え込んだ膝に顔をうずめた。
「どうしてこう、僕は……」
ため息とともにくぐもった呟きが漏れる。
ぐすっと鼻をすするような音に波の音が続き、清彦は顔を上げた。
暗い湖面は、全てを飲み込むように揺らめいている。
楽に、なれるかな。
頭によぎった誘惑が、波の音を聞くたびに強くなる。
清彦は、これでもかというくらい落ち込んでいた。
まず、一ヶ月ほど前に車で人身事故を起こした。
幸い相手は軽症で一週間で退院したものの、人を傷つけたという事実は清彦に大きな衝撃を与えていた。
次に、仕事でのミスが続いた。上司に叱られ、客先にどやされ、謝り倒す日々。
衝撃を受けて弱った心に追い討ちがかかった。
最後に、今日帰り際に上司から手渡された書類の存在があった。
署名と判子を押すだけの状態に整えられた、退職届。
要は体よくクビになってくれ、ということだった。
せめて一日考えさせてくださいと言って逃げ出して、今がある。
ざ、ざざーと静かに打ちあげる波は清彦を誘うように、返っていく。
ぼうっとその様を眺めていた清彦は、突然ふらりと立ち上がった。
そのまま足を湖へと向け、歩き出す。
一歩、また一歩と湖に近づくたび、そこが救いの地であるかのような錯覚が強まっていく。
元々波打ち際まで来ていたため、すぐに湖まで数歩のところまで来た。
そのときだった。
「待って!」
そんな女性の声を聞き、清彦ははっと辺りを見渡した。
周囲は暗く、人影も見えない。
声を発するようなものは、何もなかった。
幻聴まで聞こえてきたのかなと苦笑しつつ、清彦はまた動き出す。
「だから待ってってば」
幻聴にしてははっきりしてるなぁと他人事のように流して、清彦は進み続ける。
「あーもう、待ちなさい!」
「えっ」
清彦の足が止まったのは、湖面まで後三歩というところまで来たときだった。
踏み出しかけた足が宙に浮いたまま、不自然な体勢で止まっている。
「何……これ」
きょろきょろと周りを見渡す清彦の眼前に、すうっと影が浮かび上がる。
「え、え?」
「あんまり力使わせないでよ……」
「ひっ」
脱力したような表情で突然現れた少女に驚き、清彦はバランスを崩した。
尻餅をついたまま見上げる少女の姿は、白のブラウスに紺のスカートというものだった。
お尻にかかるほど長い黒髪を揺らめかせ、膝に手をついている。
少女は宙に浮いていた。
「幽、霊……?」
「正確には地縛霊、かな」
あっけらかんと答える少女を前に、清彦は後ろへと倒れこんだ。
「う、ん……」
清彦が目を覚ましたのは、しばらく経ってのことだった。
ゆっくりと起き上がると、ぼうっと視界を巡らせる。
「うぁ……あ……」
「あ、気がついた?」
ピタリと止まった視線の先に、自称自縛霊の少女の姿があった。
清彦が起きたことに気づいたのか、近づいてくる。
「夢じゃなかったんだ……」
「わーっ、待って待って、落ち着いてって!」
倒れそうになる清彦に、少女は慌てたように駆け寄る。
なんとか後ろ手で身体を支えて倒れることは防いだものの、清彦はびくびくと震えていた。
「こ、こないで……」
「何もしないから! とりあえず話だけでも聞いてよ、ね」
後ずさる清彦に数歩の所まで近づくと、少女はお願いするように手を合わせた。
「本当に……?」
「しないしない、だから、ね?」
恐る恐るという感じで聞いてくる清彦に少女は大きく頷いた。
成人男性と幽霊とはいえ高校生くらいの少女のやり取りにしてはとてもおかしなものだったが、
それに気づく第三者はここにはいなかった。
「じゃ、じゃあ、話だけなら……」
「よかったぁ、これで断られたらどうしようって思ってたの」
清彦がビクビクと怯えつつも頷くと、少女はほっとしたように胸に手を当て、息をついた。
じゃあ、と前置きをして、少女は清彦の前に腰を下ろす。
三角座りで膝を抱え、少女は清彦の目をまっすぐ見た。
「ちょっと長くなるかもしれないけれど、とりあえず最後まで聞いてもらって良いかな?」
「う、うん……」
少女にじっと見られ気後れしたのか、清彦は目を逸らして、頷いた。
それを見た少女は話し始める。
「それじゃあ自己紹介から、かな。私は双葉。森下双葉。このご近所の若草女学院に通ってる……ううん、通ってたの。あなたは?」
「えっと、僕は杉谷清彦。見ての通り、サラリーマンだけど……」
「ふうん、杉谷さんって呼んだらいいのかな」
「で、できれば名前の方が……苗字で呼ばれてもピンとこないこともあるから」
「そうなの、じゃあ清彦さん? んー男の人にさん付けするのってなんだか変な感じだし……清彦くん、で良い? 私も名前呼びでいいから」
コクコクと清彦が頷くのを見て、双葉と名乗った少女はニコリと笑った。
「じゃあ、決まり。よろしくね、清彦くん」
「よ、よろしく……」
何がだろう、と清彦は思ったが、双葉に流されるように言葉を返していた。
タイミングを失った清彦を尻目に、双葉は話を進める。
「それじゃ、本題だけど。私ね、多分誰かに殺されたの」
「えっ」
自分の死をさらりと口にしたことに加え、殺された、という物騒な単語に清彦は驚いた。
「気がついたらここで浮かんでて、どこにもいけなくなってた。だから、自縛霊なんだと思う」
「そう、なんだ」
「うん。それでね、どうにかして、自分がこうなった原因を突き止めたいの。
悔しいじゃない。気がついたら死んでましただなんて。
でも私はこの通り、この場所から動けないから、どうしようかなって思ってたの」
「うん」
双葉の話に相槌をうちつつも、清彦は首を傾げた。
話の意図がわからなかったのだ。
清彦が頭にハテナを浮かべていると、双葉が居住まいを正して正座で座りなおし、じっと清彦の目を見た。
「それでね、お願いなんだけど」
「え? うん」
「清彦くん、あなたに調べてほしいの。私がこうなった理由」
「え……?」
一瞬何を言われたのか、清彦には分からなかった。
こうなった理由……自縛霊になった理由?
清彦が言葉の意味に思い至りかけたとき、双葉が言葉を重ねた。
「だから、調べてほしいんだって。私の死因を」
清彦は、ようやく頭で双葉の言葉の意味を理解した。
「ええっ、無理だよ、そんなの」
その瞬間に、清彦は反射的に返していた。
膝の上で握られていた双葉のこぶしが、ずるりとすべる。
「そんな即答しないでよ……」
力が抜けたように苦笑を浮かべる双葉に、清彦は言い訳するように口を開く。
「だ、だって……警察だっているんじゃ?」
「私はここから動けないのよ? 万一警察が犯人を捕まえたとしても、私にはそれを知る方法がないの」
「あ……そっか。そうだよね……」
「そうよ、だからお願いしてるの」
「でもやっぱり無理だよ、女の子の周りを調べるだなんて、僕には……」
「どうして?」
「だって、僕みたいな男が君みたいな女の子の事を調べてたら、それだけで捕まっちゃいそうだし……」
「考えすぎだと思うけど……死のうとしてた割にそんなこと気にするんだ」
「それは……」
俯いて黙ってしまった清彦を、双葉はじぃっと見る。
三十秒ほどそんな状態が続き、双葉はふっと力を抜いた。
「冗談よ。それにそこは大丈夫。ちゃんと方法考えてあるから」
「方法?」
顔を上げ、瞬きをする清彦に双葉は頷き返す。
「うん、本当は全部話してからって思ってたけど、それじゃあんまりにも話が進まない気がしてきたから、もうやっちゃうね」
「え?」
「よけないでね」
「え? え?」
何を、という間もなく清彦の視界は双葉に埋められた。
急にすくっと立ち上がった双葉が、清彦に向かって飛びついてきたのだ。
避ける間もなく、清彦は身を硬くして目を瞑った。
「……うん?」
しかし、いくら待っても衝撃はこない。
恐る恐る目をあけると、誰も居なかった。
「あれ……」
何か違和感を感じつつも、辺りを見渡す。
すると首筋に何かが触れた。
「何……?」
手を後ろにやると、さらさらとしたものが甲を流れていく。
「いっ」
指でそれをつまんで目の前にもってこようとしたら後頭部が引っ張られた。
『こら、乱暴に扱うなっ。お手入れ大変なんだからね、それ』
頭の中に響くのは、さきほどまで清彦が話していた、双葉の声。
「まさか……」
恐る恐る身体を見下ろしてみると、自分のものでは決してあり得ない華奢な身体そこにはあった。
そして、その胸には大きいとはいえないものの、男にはないふくらみが二つ、備わっていた。
「女の子……?」
『正確には、私の身体を映したんだけどね。思ったよりうまくいってよかったわ』
ほっとするような楽しそうな双葉の声を尻目に、清彦はぐらりと身体を傾がせ、そのまま砂地に倒れこんだ。
「う……ん」
「あ、やっと起きた」
気がつくと同時に降ってきた声に、清彦はうっすらと目を開けた。
双葉が自分を覗き込んでおり、その後ろに月が透けて見えている。
「もう、いちいち驚きすぎよね。気が弱いというか、ヘタレというか……」
自分から離れ呆れ顔でぼやく少女をぼんやり眺めながら、清彦は起き上がった。
長い髪が肩をすべり、背中に流れ落ちる。
「夢じゃ、なかったんだ……」
呟いた声も涼やかなソプラノで、どこか聞いたことのあるような声だった。
呆然とした様子の清彦に双葉は近づき、目の前にしゃがみこむ。
「もう大丈夫?」
「え、あ、うん、多分」
反射的に頷いた清彦に、大丈夫かなぁと漏らしつつも双葉は話を進めるようだった。
清彦に向き合うように、女の子座りでぺたんと座り込み、人差し指を立てた。
「じゃあ、もっかい一から説明するから、とりあえず最後まで聞いてね」
「う、うん。わかった」
「はー、そんなにおどおどしなくたって……まぁいいや。
まずだけど、私が幽霊で、自縛霊とか言われてる存在だってことはいい?」
清彦がコクリと頷くのを見て、双葉は話を進める。
「じゃあ次、私は自分の死因……とか言いたくないけど、その原因を調べたくて、あなたにそれを手伝って欲しいの」
「それは無理だって言ったと思うんだけど……」
「いいから最後まで聞いて。さっきはここまでしか伝えてなかったと思うし」
「う、うん……」
「でね、私が見も知りもしないはずの男の人が私のことを調べたら、あなたも言ってたように絶対怪しいって思われると思うの。
だから変えちゃった」
「え? ちょ、ちょっと待って。じゃあ」
「うん、あなたには私として生活してもらって、その間に調べてもらおうかなって」
「それこそ無理だって。女の子のフリなんて出来ないよ……」
「大丈夫だって、気づいてないんでしょうけど、あなた今自然に女の子座りしてるのよ」
「あっ……どうして……」
指摘されて初めて、清彦は自分が目の前の少女と同じような座り方をしていることに、気がついた。
驚く清彦の様子に満足げに双葉は笑みを浮かべる。
「身体に染み付いたクセみたいなものかな。そういうのまでちゃんと写せていて、良かった。それに」
「それに?」
「フリじゃなくて、女の子そのものだしね。普通にしてたらバレないはずよ」
「でも……」
「ああもう、私の顔でそんなにうじうじしないでよ。さっきからびくびくしすぎだし。何がそんなに不安なの?」
「えっと……君のこと何も知らないのに君のフリしろっていうのは無理だと思うんだ……」
「あ……そっか。それもそうね」
そのことに今気づいたように、双葉は頷いた。
「はぁ、あんまりやりたくなかったけど、仕方ないか……」
そう言うと、双葉は膝立ちでにじり寄ってくる。清彦の肩に手を乗せ、至近距離で向き合った。
どういう仕組みか、双葉は幽霊であるのに清彦に触れるようだった。
きれいな顔立ちの少女に至近距離で見つめられ、清彦は目を逸らした。
「えっと……?」
「避けないでね?」
「え、んっ……」
「んっ……ふぁっ」
「はぅ……」
呆然と息をつく清彦を尻目に、双葉は軽く唇をぬぐう仕草をした。目の周りが赤くなっている。
「これで大丈夫のはずよ。はずかしいんだからあんまり見ないで欲しいけどね」
「どうして……? え? あれ? 僕……わた、し?」
清彦の脳裏には、見知らぬはずの人やもの、想いなどが、怒涛のように流れていた。
そして。
「ちょっとだけだけど、私の記憶を渡したの。これで大丈夫でしょ?」
「ちょっと待って……君の、私の、記憶?」
最後に残った、悔しさや苦しさ。悲しさ。
「そ、私の──森下双葉の、記憶」
それは清彦には感じたことのない、強い想いで。
「ごめん、ちょっと、待って……」
かろうじてそう漏らすと、清彦は膝を抱え、ぎゅっと目を瞑った。
「いいけど、あんまりじっくり思い返さないで。恥ずかしいんだからね?」
そんな双葉の言葉を尻目に、清彦は記憶の海に沈んでいった。
優しい両親に、生意気な妹。定期テストのたびの憂鬱な気持ちや、友人である少女たちとの他愛ない会話の楽しさ。
そういった自分のものではないはずの記憶や想いが渦巻く中の、ひときわ強い想い。
三日前、気がついたときには死んでいて、この場所に縛られていた。
それを理解したときに感じた悲しさやどうにもならない悔しさがない交ぜになった、
胸が軋むような想いが清彦を苛む。
膝を抱え込んで隠した目から、自然と涙が溢れ、頬を伝う。
辛い、悔しい、なんで?
清彦はぎゅっと膝を抱え込み、感情の奔流に押し流されないよう、唇を噛み締めた。
少しでも落ち着こうと、ただそれだけを考えて息を吸い、ゆっくり吐く。
なんとか止まった涙を腕でふき取って顔を起こすと、
感情の源泉である少女は自分の前にペタンと座ったまま、何かを考えているようだった。
「どうして……」
「え?」
思わず口をついた言葉だった。
少女──双葉は急にかけられた声に、少し驚いたようだった。
その顔に、なんら悲壮感はない。それが、清彦には信じられなかった。
「どうしてあなたはそんな顔で居られるの? こんな……こんな辛い想いを抱えてるのに!」
「あー……だからあんまり見ないでって言ったのに……」
決まり悪げに頬をかきつつ目を逸らす双葉に、言葉を重ねる。
「私、こんなの耐えられない。訳が分からないよ、気がついたら死んでて、動けないなんて……」
「口調まで揺さぶられてるし……引きずられすぎだよね」
ため息をつきつつ膝立ちになった双葉は、膝を抱えたままの清彦を見下ろすと、その頬を両手で挟んだ。
「私の顔でそんな情けない顔しないで。ほら、跡になってるじゃない」
「ふぇ?」
「涙。肌に悪いんだからね? 塩水みたいなもんだし、むくんじゃうし」
指で涙跡をなぞる双葉に、清彦は戸惑っていた。
肌? むくみ? そんなことより、と口を開こうとしたところも指で止められ、固まってしまう。
「よし、こんなもんかな」
数十秒間、清彦は成すがままとなっていたが、そう呟いて双葉が立ち上がったところで、口を開いた。
「そん……」
「いいの」
何かを言いかけた清彦の機先を制するように、双葉は端的に応えた。
「私は、自分の気持ちにはある程度もう整理をつけたつもり。だからいいの」
「でも……」
重ねる双葉に、清彦は食い下がる。
双葉は清彦のそんな様子に苦笑いのような表情を浮かべつつ、続けた。
「でもも何もないの。私が良いっていってるんだから、ね?
あなたが優しい人だってことは分かったから、それなら、手伝って。それが一番だから」
「それでいいなら、いいけど……」
「いいんだって。もう、優しいというか心配性というか……ん」
しぶしぶ頷いた清彦に苦笑いを隠そうともしない双葉だったが、何かに気づいたように、清彦をじっと見始めた。
先ほどまで涙を流していたからか、目元は赤く、目も潤んでいる。
眉根をよせ、上目遣いに双葉を不安げに見上げる姿は、とても男だとは思えないような様子で。
「な、何?」
「私って、こんなに可愛かったっけ」
「へ?」
「なんか、すごく可愛いっていうか、守りたくなるっていうか」
「ちょ、ちょっと待って。いきなり、何?」
突然変わった雰囲気に戸惑いつつ、お尻から後ずさろうとする清彦に、ふらふらと双葉は近づいてゆく。
「いいんだよね、元は私の身体だし」
「そういう問題じゃ……」
言葉を交わす間にも、元々ほとんど開いていなかった距離はなくなり、清彦の肩は双葉に掴まれていた。
軽く押し、覆いかぶさるように双葉は清彦を押し倒す。
「大丈夫、痛いのは一瞬って言うみたいだし」
「や、やめ……」
ぎゅっと目を瞑り清彦は身を硬くした。
「……?」
しかし、いつまで経っても何も起きない。
そうっと目を開けてみると、双葉が笑っていた。
「ぷっ、あはは」
「え?」
「そこまで怖がらなくたって良いじゃない。何もしないって」
「だ、だって」
自分が弄ばれたことに気がついた清彦が抗議しようとしたとき、双葉の語調が変わった。
「これでわかった? 私は大丈夫だって」
「あ……」
「気持ちを共有させたのは私だし、それが半端だったからなんだろうけど……
心配、いらないからね?」
意図的なのかそうでないのかは分からないけれど、今のやり取りで清彦は自分を取り戻せていた。
双葉の記憶に押し流されそうだった、自分を。
「うん……わかった」
だからようやく、ちゃんと向き合うことが出来た。その上で双葉に目を合わせ頷く。
「よし、じゃああとはお願い。うちまでの道、分かる……ううん、思い出せるよね?」
「えっと……うん、大丈夫。『私』の家」
身体についた砂を払いつつ立ち上がる清彦に、双葉は見るからにほっとしていた。
「そ、良かった。でもちょっと心配かな、さっきのこともあるし」
「え?」
「だからもうちょっと、ね」
そしてゼロ距離に近づく双葉に、目を見開く清彦。
「んむっ……ぅぁ」
「はふっ……これでよしっとって。え、また? いい加減慣れてよー」
叫ぶ双葉の先では、清彦が本日何度目か、倒れこもうとしていた。
トコトコと革靴を軽く鳴らしながら、清彦は歩いていた。
街灯に照らされる住宅街は、双葉の──これから自分が住む家への道筋だ。
若干の不安を覚えつつ、清彦は先ほどまでの会話を思い返していた。
二度目のキスで心が振り切れたあの後、立ち直った清彦がまずしたことは、双葉へのお願いだった。
ああいうことを急にしないで、と膝を突き合わせて懇願する清彦に、双葉は笑って答える。
「やだ、それじゃ面白くない」
「面白くって……」
呆れたように呟く清彦に、双葉は続ける。
「どうせ受け渡しが必要なんだし、それなら面白いほうがいいじゃない? あなた反応が素直だしね」
「これでも一応男なんだけど……」
「今は違うでしょ? 今のあなたはどこからどう見ても森下双葉、若草女学院二年生の女の子なんだし」
「それはそうだけど……って、女学院?」
「うん。最初に言ったじゃない。それに『知って』るでしょ、若草女学院。そこに通ってるの」
言われて思い起こしてみれば、確かに清彦の──双葉から受け取った記憶の中に、それはあった。
自分が女学院に通い、授業を受けたり友人たちとじゃれあったりしているシーンが、浮かんでは消える。
そんな生活に、楽しそうだな、いいなと思ってから、はたと気づいたように清彦は不安げに眉根を寄せた。
「……あそこに通うの? 僕が?」
「うん、もちろん」
「む、無理っ。絶対無理っ。女の子しか居ないんでしょ?」
「そりゃ、女学院だしね。あ、先生には男の人居るっけ、ちょっとだけだけど」
「もしバレたりしたら……」
「大丈夫だって、記憶もちゃんと渡してあるんだし。
ちょっとくらいボロがでたって、誰も気づかないって、普通」
「そうかもしれないけど……」
あくまで不安げな清彦に、双葉は苦笑する。
「そんなに不安なら、練習する?」
「え?」
「練習。私として振舞う、ね」
「えっと……うん、お願い」
こくりと頷いた清彦を、双葉はじっと見つめた。
「じゃあ、自己紹介からやってみて。もちろん、『森下双葉』としてのね」
「えっと、僕は……」
「待った、なんで『双葉』の一人称が『僕』なの? やり直し」
「うう……」
割と容赦のない双葉のダメ出しにたじたじとなりつつ、清彦は練習を続ける。
「私、は森下双葉、です」
「硬い、硬すぎ。なんでそんなに緊張してるのよ」
「し、仕方ないじゃない。いきなりのことなんだし」
「普通はそんなにガチガチにならない。はぁ、名前の段階でこれじゃ、先が思いやられるんだけど……」
「だって……」
「……じゃあさ、『私は双葉』って思ってみて。いっそ口に出してみて、何度か」
「えっと、私は双葉、私は双葉、私は双葉……」
呟くたびに、何かがほぐれていく。双葉としての記憶に、意識が乗っていくような不思議な感覚が、清彦にあった。
「あなたは誰?」
「私は双葉、森下双葉。若草女学院の二年生で、
クラスの委員長をやってて、部活はテニス部に入ってる……って、え? あれ?」
「ほら、出来たじゃない」
得意げに頷く双葉に、清彦は戸惑っていた。
確かに今、すんなりと自分のことを双葉として紹介できた。
その理由がわからず、それが怖かった。
「なんですぐそう不安がろうとするかなぁ……いいことじゃない、出来たんだし」
「そうだけど……」
「多分なんだけど、自分の記憶と私の記憶が混ざってなくて、別々にある感じなんじゃない?
だから思い出すのにちょっと時間がかかっちゃったりするとか。
で、自分が双葉だって意識していれば自分の記憶のように取り出せる、とかね。推測でしかないけど」
「え、うん。そっか、そういうこと……」
さっきの不思議な感覚もあり、清彦はすんなりと双葉の推測に納得していた。
その様子に、双葉はうんうんと頷くと指を立てた。
「じゃあ、続きね」
「へ?」
「自己紹介、練習、始めたばかりじゃない」
「あ、そっか。えっと……」
私は双葉、と何度か心の中で唱えつつ、清彦は口を開く。
そこからの練習は比較的スムーズで、双葉も上機嫌で、これで大丈夫ね、とか、
ホントに私みたい……そうじゃなきゃいけないんだけど、とか言いながら清彦に付き合っていた。
そうすると清彦の方も少しずつ不安感が払拭されてきたのか、表情に余裕が出てくる。
自分が双葉であることを意識して、その記憶の通りに話を広げていった。
最後には二人してくすくす笑いながら、まるで女の子同士の会話のように他愛ないことをしゃべるまでになっていた。
「よし、これでもう大丈夫よね」
「うん、ありがと。何とかなりそうな気がしてきたよ」
「なんとかなりそう、じゃなくて、なんとかしなきゃね」
「あはは、そうだね」
笑いながら、清彦は思う。
自分が別人になったような不安感はまだあるけれど、双葉らしくできるならそれでもいいかな、と。
これからは双葉でいるのが常で、清彦は出しちゃいけない。
そう考えると苦しい気がしたけれど、それも含めて、頑張っていこう、
清彦の思いを他所に、双葉は算段がついてほっとしつつも、内心不安だった。
良い人っぽいけどまだ分からないし、私の姿で変なことしないかなぁ……私だけじゃなくって、妹とか友達に。
その不安からか、双葉は釘を刺すことにした。
「そうそう」
「何?」
清彦は何の気もなく、返してくる。さっきまでとは大違いだった。
「妹とか友達に変なことしたら、呪っちゃうからね」
「え? あー……そういうこと」
唐突な双葉の言に驚いたものの、すぐに何かを察した清彦は、表情を改めた。
「大丈夫、『私』にとっても大切な人だもん。変なことなんか出来ないよ。
そりゃ、ちょっとはドキドキしたりすることはあるかもしれないけど……っていうか絶対すると思うけど。
元は男だからね」
「ならいいけど……ああもう、なんで急にこんな」
「仕方ないんじゃない? よく知りもしない相手に自分を託すんだし」
先ほどまでと立場が逆転したように双葉を諭す清彦に、双葉ははっとした。
「そっか、そうだよね……じゃあもっと知れば良いんだ」
「え?」
「見せてもらうね」
言うなり清彦に抱きつき、双葉は唇を重ねた。
「んっ、んーっ」
「はむっ、じゅるっ」
もがいて離そうとする清彦の首に腕を回し、深く、深く。
舌で奥の奥までまさぐるようなその行為に、清彦の脳はしびれた。
押し返そうとしていた腕が、くたりと落ちる。
それを見てか、双葉は身を離した。
「ぷぁっ」
「はぁ、はぁ……いきなり、何? 舌まで……」
後ろ手になんとか身体を支えつつ、清彦は息を整える。
気を抜くと、倒れこんでしまいそうだった。
「ふぅ………えっとね、あなたの記憶、見せてもらったの。もちろん全部じゃないけど」
「え……」
一呼吸置いてから双葉の言葉に、清彦は困惑した。
「不安なのは良く知らないからってあなたが言ったでしょ。だから」
「だからって……せめて断ってからにしてよ」
「さっきも言ったけど、それじゃ面白くないから」
「はぁ……仕方ない、か」
あっけらかんと言う双葉に、清彦はがっくりと肩を落とした。
「それで、どうだったの?」
仕切りなおして清彦が聞くと、双葉は苦笑いを返した。
「うーん、ちょっとは分かってたつもりだったけど……思ってた以上にヘタレね、あなた」
「あ、はは……否定できないよ」
「ヘタレ過ぎて、何も出来なさそうって思っちゃう。経験もないみたいだし」
「そんなとこまで見たのっ?」
慌てる清彦に、双葉は不満げに口を尖らせる。
「あなただって私のこと、知ってるでしょ? 不公平じゃない」
「それは君が渡してくるから……」
「仕方ないじゃない。知っておいてもらわないと不都合でるかもしれないんだし。
だから私が見るのも、仕方ないよね」
「仕方ないって……はぁ。まぁ、いっか……」
清彦は諦めたようにため息をつくと、話を切り替える。
「一応信じてもらえるってことで、いいの、かな?」
「うん、安心できたかな」
「そっか、良かった」
ほっとしたように呟く清彦に、双葉は笑いかける。
「私はいつでもここにいるから。何かあったら、すぐに来てくれていいからね」
「わかった。ありがとう」
「じゃ、これからよろしくね」
「こちらこそ」
双葉が手を差し出し、清彦が合わせる。
ぎゅっと握り合い、二人は軽く頷いた。
「それじゃ、行ってくるね」
「うん、お願い」
もう一度頷き、手を離してくるりと背を向けた清彦を、双葉はじっと見送るのだった。
いつ誰に会うか分からない、という当たり前のことに清彦が気づいたのは、双葉と別れて割とすぐのことだった。
すると、途端に視界の端に入る長い髪の毛や、太ももに当たる空気に違和感を感じだした。
自分の格好は変なんじゃないか、人に見られたらどうしよう、と急激に不安感が募ってくる。
ぐるぐると思考が空転し不安ばかり増していく中、思い出したのはさきほどまでの練習だった。
心の中で、たまに口に出して、自分が双葉だ、と意識づける。
そうすると、自分の格好が自然なもののように見え、大丈夫なんだと思い直せた。
不安の芽が出るたびにそうやって心を双葉側に傾けてやりすごしながら、清彦は歩いた。
途中人とすれ違っても変な目で見られることもなく、それも清彦をほっとさせた。
そして今に至り、清彦は記憶を頼りに、双葉の──これから自分が住むことになる家へと向かっている。
双葉の家は住宅街の山手の方にある。二階建ての、ごく一般的な一戸建てだ。
角を曲がってそれを視界に捕らえたとき、なんともいえない感情が湧き上がった。
帰ってきた、帰ってこられた、という双葉の思いと、いよいよ、と不安を膨らませる清彦。
それらがない交ぜになり、清彦の鼓動を早くする。
なんとか家の前までたどり着くと、胸は痛いほど高鳴っていた。
立ち止まり、ドクドクと脈打つ胸に手を当て、深く息を吸い、吐く。
私は双葉、と心の中で唱え、ドアホンに目を向ける。
これを押したら、もう戻れない。双葉として社会に組み込まれる。
そう思いつつ、指先を滑らせる。
私は双葉、森下双葉。
もう一度心の中で唱え、覚悟を決める。
指先に力を入れ、ボタンを押し込んだ。
ピンポーン。
電子音が響いてわずか、『はい、どちらさま?』という女性の声に、双葉の心が震える。
「私」
一呼吸置き、声が震えないように抑えても、それが限界だった。
息を呑む気配が、ドアホン越しにも伝わる。
『双葉? 双葉なの?』
「うん……ただいま」
家の中からバタバタと物音が近づいてくる。
がちゃりと扉が開いた次の瞬間には、清彦は抱きしめられていた。
突然のことに身を硬くする清彦の上から、男の声が降ってくる。
「よかった……無事でよかった」
涙声でそう漏らしながらぎゅうぎゅうと自分を──双葉を抱きしめる大柄な男性。
心配されていたことがありありとわかるその姿勢に、清彦の強張りがとれていく。
それと同時に、チクリと刺すような胸の痛みが沸いてきた。
「お、おとうさん、痛いよ」
「あ、ああ、すまん」
身じろぎして訴えかけると、男性──双葉の父親である森下和明は、ぱっと飛びのくように身を離した。
「双葉の声が聞こえて、いてもたってもいられなくなって、な」
「う、うん……」
まっすぐなその思いに耐え切れず、清彦は俯いた。チクチクと胸を刺す痛みは、どんどん強くなっていく。
「とりあえず、入ろうか。母さんも待ってる」
俯いて黙ってしまった清彦をとりなすような和明の言葉にコクリと頷くと、清彦は屋内へと足を踏み入れた。
玄関で履いていたローファーを靴箱に入れ、和明の後ろに付くように短い廊下を歩くと、すぐにリビングについた
数日前までは当たり前だった景色に、双葉の心がうずく。
中に入ると、和明が道を譲るように横に避けた。
正面には、棒立ちになった小柄な女性が一人。母親の、一葉だった。
清彦の──双葉の姿を見るなり、何も言わずにつかつかと歩み寄ってくる。
パン、と乾いた音が響く。
「何してたの! 連絡もしないで!」
頬を張られたと気づいたのは、頬にじわりとした痛みが上ってきたときだった。
いきなり何するのという反発心が湧き上がり。反射的にキッと顔を上げたが、声は出なかった。
一葉が顔をくしゃくしゃに崩して、泣きそうな顔をしていたからだ。
「心配、したんだから……」
肩を掴まれ、縋るように膝をついて自分を見上げてくる母親の姿に、清彦はいたたまれなって目を逸らした。
父親も母親も、記憶にあるより大分やつれている。
三日しか経っていないのに、一回り小さくなったようにさえ見えた。
それほどに心配していたということが痛いほどに伝わってくる。
それなのに、それを受け取る資格が、自分にはもう。
「ごめん、なさい。ごめんなさい……」
そう思った瞬間、口をついたのは謝罪の言葉だった。
決壊したように涙が溢れ、頬を伝う。
圧倒的な罪悪感に、胸がつぶれそうになる。
ただただ泣きじゃくる双葉を、一葉はやさしく抱きしめ、頭を撫でていた。
「あー、あんなに泣いちゃうなんて……」
双葉は自分の部屋に入るなり、ベッドにばったり倒れこんだ。
枕を抱え、顔をうずめる。恥ずかしくて仕方がなかった。
いくら事情が事情だからって、あんなに大泣きするつもりは、双葉にはなかった。
一葉は、双葉が泣き止むまで幼子をあやすように抱きしめ、頭をなでてくれた。
泣き止んだら、今日はもう遅いから休みなさいと言われ、事情も聞かずにいてくれた。
そのことに感謝は尽きないけれど、それなりに反抗期を終えた年代の女の子としては、
母親にあやしてもらうのは、むずがゆく恥ずかしいものだった。
ぐりぐりと枕に顔を押し付けるようにして、先ほどの光景を振り払う。
「あー、もう……」
ひとしきり恥ずかしがると、双葉はくたりと力を抜いた。
明日から、調べないと。私の死因。
ぼうっと考えつつ、あれ?と思う。
死んだのに何でここに居るんだっけ? 確か湖で男の人に自分を託して、それで……
「うぁっ」
飛び起きた。
勢い余ってベッドからずり落ちそうになり、慌てて縁を掴んで身体を支える。
「ほっ…………じゃない。何やってるんだ、僕……」
一安心したのもつかの間、双葉──清彦は、頭を抱えた。
ずるずるとベッドから滑り落ち、ペタンとお尻をつく。
今さっき自分がやったことが、信じられなかった。
まるで本当に双葉のように、考え、感じ、振舞っていた。
母親にあやされたことを恥ずかしがる女の子を、演じていたのではなく、自然とそうなっていた。
双葉のベッドに身体を放り出し、恥ずかしさにじたばたとし、枕に顔をこすりつけ……、
「っ……だ、だめ。思い出しちゃ……」
思い起こすだけでかぁっと頬が熱くなる。
その感覚を振り払おうと、清彦は頭をふるふると振った。
勢いよく振られた髪の毛が、ばさりと目の前を覆う。
「わぷっ」
いきなり閉ざされた視界に目を白黒させつつも、髪の毛を後ろに流す。
それが良い具合に緩衝材になったのか、清彦はほぅ、と一息ついた。
「完全に成りきってたよね……」
誰にともなく、ポツリと呟いた。
部屋に着くまでの記憶は、清彦にはちゃんとあった。
ただ、双葉の心が振り切れたあおりを受け、自分が清彦だということを忘れていた。
双葉として大泣きし、一葉に抱きしめられ、あとから部屋で恥ずかしがった。
清彦が慌てたのは、最後のこと。
事情はどうあれ、女の子の枕を抱きしめ、顔を擦り付けるようなことをしたのは事実で、それを後ろめたく思っていた。
「とりあえず、明日謝ろう……」
そう結論付けて、ひとまずの心の平穏を取ろうとする清彦だった。
切り替えのためか、清彦は深く息を吐き、吸った。
「うっ」
途端に感じる、女の子のにおい。
双葉に成りきっていたときには何も感じなかったはずのそれに、清彦は固まった。
身体からも、部屋からも立ち上るそれは、生臭いような、けれど甘いかおりで。
落ち着こうとしていた清彦の鼓動を、否応なく速めるのだった。
「私は、双葉。私は双葉」
おまじないのように、口ずさむ。
そうすると双葉としての認識が顔を出し、鼓動は緩やかになっていく。
双葉としては自分の部屋なのだから、これ以上落ち着ける空間はないのだろう。
ただ、男である清彦の心が感じ取ったにおいに、女の子として不安が湧き上がる。
「臭く、ないよね……?」
すんすんと自分の肩をかぎ、部屋を見渡す。
勉強机に本棚と箪笥。箪笥に引っ掛けられているのは今清彦が穿いているのと同じスカートだ。
居なかった間に一葉が掃除をしてくれたのか、部屋は綺麗に片付いていた。
「窓、開けよ」
少しでも不安を払拭するためか、清彦はベッドに膝立ちになると、窓を開け放った。
夜の涼しい空気が、部屋に入り込む。
「これでよし、と」
じゃ、お風呂入らないと。
自然とそう考え、箪笥を開く。
綺麗に畳まれた淡い色の塊が並ぶ中から、一番手前の水色のそれに手を伸ばし、取り上げる。
別の段からパジャマも取り出して部屋の扉に手をかけたところで、清彦ははっとした。
「また……」
がっくりと力を抜き、その場にペタンと座り込む。
恥ずかしさと双葉への申し訳なさがない交ぜになり、清彦は膝を抱える。
「謝って……済むかなぁ」
ポツリと呟いて、脇に置かれたかわいらしいパジャマと下着に目をやる。
家族以外の男が見ることのないそれを、堂々と見てしまう。
それ以上のことも、簡単に出来てしまう。
「これからお風呂入って、これを着て、寝て……そんなのっ」
想像するだけで、申し訳なさと緊張と多分興奮で、心がどうにかなってしまいそうだった。
「どうしよう……」
膝に顔を埋め、呟く。
双葉が居れば、聞けるのに。
ふとそう思って、気づく。
「私ならどう考えるんだろう……」
双葉の記憶に聴くように、口にする。意識を双葉に向け、考える。
双葉なら、私ならと考え、思い至る。
「私なら、呆れて笑いながら、気にしなくても良いのにとか、ヘタレすぎとか言っちゃうのかな」
その様子は、清彦にも簡単に想像できた。口の端を軽くあげ、苦笑する。
そもそも清彦に自分を託したのは双葉だ。
それなのに清彦が引け目や負い目を感じるのは、生来の気弱さに大きく起因していた。
別れ際、双葉と握手を交わしたとき、大丈夫、自分は双葉としてやっていけると清彦は思った。
それが、ちょっとしたことが重なっただけで、こうも不安になるなんて。
「やっぱり僕じゃキツイよ……」
弱音を吐き、ため息をつく。
「おまじない……効くかな」
双葉に成り切れたら、当座はやり過ごせるし、多分湖畔に居る双葉も安心できる、はず。
半端にやると、さっきみたいに我に返ってしまい、余計にきつくなってしまう。
清彦はそう思い、今まで以上に強く、自分は双葉だと心の中で唱える。
双葉の記憶を一つずつ思い返すように紐解き、自分のものとして追体験する。
ヘタレと呆れる双葉の姿が清彦の脳裏に浮かんだ。
それを黙殺し、清彦は自分を奥へと押し込め、双葉になっていく。
ぎゅっと目を瞑り、開いた。
「もう、ヘタレなんだから……」
ポツリと呟いた清彦の──双葉の言葉は、寂しそうだった。
いくら自分のキャパシティを超えるからって、アイデンティティを放り出してまで逃避するなんて。
清彦としての意識や記憶は、今の双葉にもないわけではなかった。
ただ遠く離れていて、よく見えなくなっていた。
時間をかければ思い出せるだろうけれど、それをしたところで根本解決にならない。
「明日向こうにいる私に相談しないと……」
そうしてため息をつき、双葉は隣に放っていたパジャマを手に取り、立ち上がる。
「お風呂、はいろ」
ドアに手をかけ、浴室へと向かうのだった。
髪をまとめて軽くお湯を被ってから、ゆっくり肩までつかる。
「はぅ……」
三日ぶりのお風呂。その心地良さに、双葉の口から吐息が漏れた。
ぼうっと天井を見上げ、双葉は考える。
三日前のことと、今日のこと。
いつも通り学校に行ったことは覚えていた。
その日の最後の授業が英語で、つまらなかったことも。
ただ、その後のことが思い出せない。
気がついたら夜になっていて、湖のそばで浮かんでいた。
空白の間に何かがあって、双葉が死んだのは間違いないらしい。
「絶対、探し出すんだから……」
自分の死因。それが分からないことには、成仏なんてしてやるものか。
そんな思いが双葉にはあった。
だが、湖から動くことも出来ず、時間だけが過ぎていく状況に、焦りが募っていく。
双葉は必死に考えた。
自分が見える人がいたらその人に頼み込んでやってもらう?
でも赤の他人にそこまでしてくれる人なんて。
じゃあ、他人じゃなくなれば。
それが出来そうなことは、双葉には感覚で分かった。
その後どうすればいいのかも。
人を、自分に変える。そんな魔法のような力。
これを使えば、何とかできるのかもしれない。
でも、自分を託すなんて……ちょっと怖い。
不安が沸いてきたところだった。
多分まだ若いであろうサラリーマンが、死にそうな顔をして湖に近づいてきたのだ。
反射的に、これだ、と双葉は思った。
呼び止めると、一瞬止まってキョロキョロと周囲を見た。
幻聴とでも思ったのか、苦笑いを浮かべてすぐさま湖へと歩みを進める。
双葉は慌てて再度声をかけ、強硬手段に出た。
やろうとした瞬間、出来ると思った。
声をぶつけるように男性に命令すると、男性はピタリと止まった。
自分が磨り減るのを感じつつも、男性に見えるよう、姿を意識する。
「あんまり力使わせないでよ……」
思わず漏れた言葉の意味は、双葉にも分からなかった。
ただ、疲れて宙に浮いたままへたり込んでいた。
男性は硬直し、驚いたように尻餅をついた。
「幽、霊……?」
震える声で自分を認識する男性に、双葉は勤めて明るく、答える。
「正確には地縛霊、かな」
肝をつぶしたように、男性は後ろに倒れこんだ。
それを見て、双葉も困惑する。
「……やりすぎちゃった?」
でも、あれ以上の方法が思いつかなかった。
まぁいっかと思い直して、男性を見る。
童顔のいかにも気弱そうな顔立ちをゆがませ、ううんと呻いていた。
男性としては小柄で華奢な体格も相まって、スーツに着られているような不釣合い感がある。
「顔は悪くないけど……」
眉根を寄せてうなされている姿を見ると、不安になる。
こんな気弱そうな人に託して大丈夫かな、と。
だが、時間がない。
「仕方、ないよね」
双葉がある種諦めて覚悟を決めるのと、清彦が目を覚ますのは、ほぼ同時のことだった。
「でも、ここまでって、思わなかったなぁ」
呟いて、双葉は湯船からあがる。
いくらなんでも、自分を押し殺すなんて。
髪を解いて下ろし、シャワーを持つ。
ぬるめの、ちょうど良い温度になったところで、頭から被る。
身体を流れる水流を感じつつ、双葉は髪を濡らしていく。
シャンプーを適量手に取り、手のひらで伸ばす。
十分に広がったところで、引っかからないように手のひらを滑らせ、髪に馴染ませてゆく。
わしゃわしゃと適当に洗っているという男の子をうらやましいと思ったことも、正直にいえば、ある。
垣間見た清彦の記憶でも、洗髪は適当そのものだった。
でも、苦労して伸ばしてきたんだから、今更ケアは欠かせない。
双葉にとって自分本来の身体じゃないとしても、それは同じだった。
シャワーを緩めて丁寧にシャンプーを洗い流し、コンディショナーを手に取る。
毛先を中心に髪に馴染ませ、緩く結んでアップにする。
次は、身体。
「別に、期待とかそんなんじゃないけど……」
ボディソープをタオルにつけ、わしゃわしゃと泡立てる。
十分に泡立ったら、泡で撫でるようにタオルを動かす。
胸は、悲しいかなそんなに大きくはないけど、形は綺麗、なはず。
余計な肉もついてないはずだし、自分でも悪くないと思ってる、のに。
言い訳めいたことを思いつつ、双葉はタオルを進めていく。
「少しくらいなら、ホント、良かったのに」
覚悟した分だけ、肩透かしを食らったような感じ。
それを不満に思うのは勝手だと分かっていても、双葉はそう思うのを止められなかった。
もやもやした気分を抱えながら、双葉は身体を洗い終え、コンディショナーを落としていく。
ネットで洗顔石鹸を泡立て、泡でやさしく顔を撫でる。
若いうちにケアをサボると大変だから、と母親に口酸っぱく言われてきたせいか、双葉のケアは丁寧だった。
「ふぅ……」
顔の泡を洗い落とすと、双葉は吐息をついた。
身体はさっぱりとしたが、心のもやもやは取れない。
それを見ない振りをして、双葉はお風呂から上がった。
洗面所で化粧水をつけ、髪の毛を乾かす。
根元から丁寧にドライヤーを当て、徐々に毛先へ。
一通り乾いたら、櫛を通していく。
そうっと毛先まで梳き、引っかかりのないことに満足する。
顔を上げると、鏡には一糸まとわぬ姿の女の子の姿があった。
顔だって悪くない、はずなのに。
浮き上がってきた思いをふるふると首を振りかき消しつつ、双葉は下着を穿き、パジャマを身に着けた。
今日はもう寝ちゃおう。
そう思って部屋に戻ると、双葉はベッドへと腰を下ろした。
髪を後ろで二つに分け、緩く編む。
それを胸元に持ってくると、手を伸ばして部屋の電気を消し、双葉は横になった。
布団を被って、目を瞑る。
明日からがんばらないと。
そう締めくくって、双葉はあっけなく眠りに落ちるのだった。
身体が覚えているのか、双葉が目を覚ましたのは登校時間の一時間前、七時のことだった。
「うん……」
ぼんやりと身体を起こして、目をこする。
なんでここにいるんだっけ……?
ゆっくりと首をめぐらせ、双葉は思った。
見間違えようもなく、自分の部屋だ。
「私、死んだはずじゃ……」
口に出してみて、心がひやりとする。
同時に、何かがカチリとはまったように、気づく。
「……あ」
今の自分の有様や目的。
そういったものを、双葉は思い出す。
「そっか、それで……」
呟いて、ベッドから降り、立ち上がる。
緩く編んだ髪をほどいて手櫛を通しつつ、洗面所へと向かう。
歯と顔を洗い、すっきりしたところで、双葉は考える。
やっぱり戻ってきてないし……っていうか、遠いし。
自ら奥に引っ込んだ清彦の記憶は、相変わらず遠くにあって双葉には良く見えなかった。
おかげで何不自由なく双葉として考え、行動できているけれど、なんか納得がいかない。
昨夜から引き続いてのもやもやに、双葉は苦笑する。
これ以上は私だけで考えたって、答えでなさそう。
そう思った双葉は、箪笥を開いてトップスとスリップを取り出すと、パジャマの上を脱いだ。
順番に身に着け、ブラウスを羽織る。
ふと、男の子なら違和感あるんだろうな、などと思いつつ、ボタンを留める。
パジャマの下を脱いでハンガーにかけられたスカートを取り、腰に巻きつける。
最後にリボンタイを結んだら、完成だ。
全身鏡にその姿を映して、確認する。
「うん、これでよし」
一つ頷いて、双葉は部屋を見渡す。
「あれ、鞄、ない……?」
勝手にあるものと思っていて、昨日は確認すらしなかった、通学鞄。
双葉が見る限りでは、部屋にはなかった。
「んー……ヒントに、なるのかな」
ポツリと呟くと、双葉は諦めたのかリビングへと降りるのだった。
「おはよー」
朝の常套句を口にしつつ、双葉はリビングに入る。
「おはよう、双葉。もう出来るから、座ってなさい」
「おはよう、お母さん。うん、分かった」
キッチンで朝食の準備をしている一葉と言葉を交わしつつ、食卓に座る。
向かいには和明が座り、新聞を読んでいた。
「おはよう、お父さん」
「ああ、双葉。おはよう」
双葉が声をかけると和明は新聞を折りたたみ、向かい合う形となった。
「学校、行くのか?」
「うん」
心配そうに聞く父親を安心させるように、双葉は笑顔で頷く。
チクリと痛みが走るが、黙殺する。
「三日も休んじゃったから。勉強、頑張らなくちゃいけないし」
「そうか……」
心にもないことを言いつつ、チクチクとトゲの刺さった心に蓋をする。
和明は尚も心配そうにしていたが、それ以上の追求はなかった。
「いつか……」
「うん?」
「ううん、なんでもない。ご飯、まだかな。私手伝ってくる」
言いかけた言葉をごまかすように慌てて立ち上がる双葉を、和明は心配そうに見つめる。
「もう出来てますよ」
「わっ」
いつの間にかお皿を三つ持って現れた一葉にぶつかりそうになり、双葉は慌てた。
「おかあさん、いるならそう言ってよ……」
「今来たところだもの。仕方ないじゃない」
「うー……」
驚かされて不満げな双葉に、一葉は皿を置きながら、爆弾を投下した。
「すぐになんて言わないから、いつか、教えてくれると嬉しいかな」
「っ……!」
「母さんっ」
何を、と言わずとも、分かった。
和明が慌てて諌めるように声をあげたが、分かってしまった。
蓋をしたはずの心が、むき出しにされる。
今すぐ吐き出したい。謝りたい。泣き叫びたい。
そんな情動に突き動かされ、自分を保つのが精一杯だった。
「うん、絶対……」
俯いてそう漏らす双葉の頭を二回ほど撫でると、一葉も食卓に座った。
「じゃ、食べましょうか。私もおなかすいちゃった」
ころっと切り替えて笑う一葉に釣られるように、双葉も顔を上げる。
「あはは、うん……いただきます」
「いただきます」
箸に手をつけたところで、あれ?と双葉は思った。
「若葉は?」
妹の若葉がいない。
今更ながらにそのことに気がついて、双葉は慌てた。
まさか若葉も……。
最悪の想像が、一瞬にして脳裏に浮かぶ。
それを打ち砕いたのは、一葉の一言だった。
「ああ、若葉ならもう学校に行っちゃったわ」
「え、こんなに早く?」
今すぐに出たとしても始業時間まで三十分ほど余裕があった。
朝練のある部活をしているならまだしも、そうでない若葉が行くには、早すぎた。
「どうも若葉は貴女が居なくなったのを自分のせいみたいに思ってた節があったから……
顔を会わせ辛いんじゃない? あの子もふさぎ込んでたし」
「そんな……確かに喧嘩はしたけど……違うよ」
双葉が死ぬ前日の夜、双葉と若葉は些細なことから喧嘩をした。
でもまさか、若葉がそれを引きずっているとは、双葉は思っていなかった。
「じゃあ、帰ってきたらちゃんとそう言ってあげないとね」
「うん、そうする」
頷く双葉を、和明と一葉は優しく見つめるのだった。
鞄がないことを言うのは、憚られた。
自分でもよく分かっていないことを人に伝えるのも難しかったし、半端に伝えると余計に心配しそうだった。
だから双葉は、朝ごはんを食べ終わると、鞄を取ってくるふりをして、そのまま出かけた。
時間はまだ少し早いが、そんなことは気にしていられなかった。
双葉の通う若草女学院は、双葉の家から徒歩で二十分ほどの高台にある。
高台にあるのだから、通学路は当然のように坂道だ。それも、行きが上りとなる。
ただ、毎朝きついと思いながら徒歩で上る生徒は少なく、送迎やスクールバスを使っているのがほとんどだった。
双葉はその数少ない徒歩通学者で、今まさに坂道を上っている。
やっぱりきつい、と思いながら足を進めていると、見えてくる洋館のような建物。
それを目にしたとき、双葉の胸に言い知れぬ不安がよぎった。
四日前、双葉の記憶が途切れた場所。
そう思うと、見慣れた建物が途端に恐ろしいようなものに見え、双葉は立ち止まった。
調べるには、行くしかない。
そう決めたのは自分なのだからと思っていても、実際に見ると足がすくんだ。
大丈夫、大丈夫だから……
高まる鼓動を手のひらで押さえつけ、大きく息を吐く。
「よしっ」
一つ呟くと、双葉は不安を振り切るように足を動かした。
建物が近づくほど緊張感が増すが、見ないふりをして足を進める。
正門まではあと少し。それをくぐればもう若草女学院の中となる。
やがて正門が見えたところで、双葉は立ち止まった。
もう一度大きく深呼吸し、覚悟を決める。
虎穴に入らずんば、というわけではないが、心境的には似たようなものだった。
「頑張らないと」
自分を叱咤するように呟くと、双葉は門をくぐった。
まだ早いためか人影はまばらな学院内を歩き、教室へと向かう。
靴を履き替え階段を上ってすぐの、23とプレートがかけられた部屋。それが双葉の教室だった。
戸を開ける前に一呼吸いれ、がらりと引き戸を開ける。
教室内には何人か生徒がおり、双葉が入るとちらりと目を向けてきた。
「あ、双葉だー。久しぶりー」
「急に三日も休むなんて、どうしたのよ。鞄も置きっぱなしだし」
「体調を崩されていたって聞いてましたけど……もう大丈夫なんですか?」
「んー、ちょっとね……あとでちゃんと話すから、待って」
双葉に気づいて寄ってくる友人たちをいなして、なんとか席につく。
友人の言うとおり、鞄は机の脇にかけられたままになっていた。
なくなったわけではなかったことにほっとするも、どうして置きっぱなしだったのかが分からなかった。
四日前の最後の授業から放課後までの間に何かあったのは、間違いない、かな。
双葉が考えをめぐらせていると、先ほど声をかけてきた友人たちが寄ってきた。
長身で髪をショートで切りそろえているのが良枝で、肩にかかるくらいの髪を緩やかにウェーブさせているのが有紀、
双葉より小柄ではかなげな印象の少女が、詩織だ。
見た目も性格もなんら共通点はないのに、双葉ともう一人、双葉の親友をを加えた五人で、いつもつるんでいた。
彼女らは双葉の机を囲むように陣取ると、双葉の方を向いた。
「ねー、どうしたのー? そんなに難しい顔して」
「え? あ、なんでもないよ。それより、なんだっけ」
良枝に間延びした調子で問われ、はっとしたように双葉は顔を上げた。
双葉からすれば、気づいたら囲まれていたようなものだったのだろう。
「なんだっけって……急に三日も休んだんだから、心配するに決まってるじゃない」
「そうですよ、ちゃんと教えてください」
有紀の言葉に、うんうんと頷きながら詩織が問いただすように訊いてくる。
「えっと……」
いきなりの攻勢にたじろぎつつも、そういえばこういう子達だったと双葉は思い出した。
心配そうな表情に嘘はないように見え、それが罪悪感を芽吹かせる。
「ごめんね、心配かけて。ちょっと性質の悪い風邪にかかっちゃったみたいで、ずっと寝込んでたの」
申し訳なさそうに伝えると、彼女らはあからさまにほっとしたように表情を緩めた。
ずきりと痛んだ心に蓋をし、言葉を重ねる。
「鞄は前の日に持って帰るのを忘れちゃって……どこかに置き忘れたかと思って心配だったの。
ちゃんとあって、ほっとしたんだ」
「そうなんだ。それならそうと、メールくらいしてくれたらいいのに」
「あー、ごめん、携帯、ここ……」
有紀のぼやきに、双葉は申し訳なさげに鞄を取ると、中からそれを取り出した。
「あー、そっかー。いつも鞄に入れてたもんね」
「それなら、仕方ないですね」
納得したように頷く良枝と、苦笑する詩織。
それに釣られたように有紀は一つため息をつくと、笑った。
「もう、ドジなんだから……ま、何事もなくて良かったわ」
「ですね」
「うん、そうだねー」
「ありがとう、ごめんね」
机から離れていく三人を目で追いながら、双葉は心の中で謝っていた。
ごめんね、ホントのことを言えなくて。
言える訳、ないんだけど……それでも、ごめんなさい。
蓋をしていても痛む心を感じつつ、双葉は必死に平静を装っていた。
顔に出しちゃ、いけない。
優しいあの子たちを心配させるような真似は、もうしたくない。
その強い思いで、双葉は痛みを押さえつけようとした。
机に入っていた教科書やノートを確かめて、時間割を思い出す。
今日ある授業はカバーできそうだった。
ほっとして黒板の上にかけられた時計を見ると、そろそろ予鈴がなる時間だ。
クラスメートも続々と登校してきて、口々に双葉の復帰を喜ぶ。
その度に刺さる棘を無視して、双葉は無難に応対した。
お決まりの予鈴が鳴り響いて、それが終わる頃、一人の生徒が駆け込んできた。
髪を大きなリボンでまとめた、少々幼さの残る面立ちの少女だ。
少女は教室に入ったところで立ち止まると、ほっと一息ついた。
「はー、間に合ったー」
「相変わらずね、夕菜」
「ふぇっ」
双葉が席から声をかけると、少女──夕菜は驚いたような声をあげた。
そして双葉を見て、目を見開いた。
「夕菜?」
その言葉に夕菜ははっとし、次の瞬間には弾丸のようなスピードで双葉の元へとやってきた。
「双葉ちゃんだ、会いたかったよぅ」
「わぷっ、ちょっと、夕菜、落ち着いて」
座っていた双葉をいきなり抱きしめた夕菜を押し返し、双葉は息を整える。
背丈や顔立ちに反して大きく──双葉よりも随分大きく育った胸に顔を埋められ、双葉は憮然とする。
「埋めないでっていつも言ってるでしょ、もう……」
「だってぇ、もう三日もおあずけだったし」
「変な言い方しないっ!」
「相変わらずのいちゃつきっぷりね、二人とも」
「そんなんじゃないって言ってるでしょ!」
「えへへー」
呆れた様子の有紀に噛み付く双葉と、ニコニコと笑う夕菜。
いつものやりとりだった。
「ねね、双葉ちゃん」
「何?」
「久しぶりだからおはようのキス、ちょうだ……いったぁい」
ゴスッと鈍い音が響き、夕菜は頭を押さえてしゃがみこんだ。
双葉が顔を寄せてきた夕菜の頭に、拳骨を落としたのだった。
「馬鹿なこと言ってないで、座ってなさい」
「はーい……ちぇっ」
さも残念そうにとぼとぼと歩いてゆく夕菜を尻目に、双葉は内心で苦笑した。
もう死んじゃってるのに……いつもどおりってこんなに。
これじゃ、また未練できちゃいそう。
ちょっとした掛け合いをしただけなのに、双葉はそう思ってしまった。
今の自分は仮初で、死因を調べるためだけにここに居るはずなのに。
失ったはずのものに手が届くような、そんな錯覚をしていることに気がついて、苦味を覚える。
せめて顔には出さないようにと、双葉はきゅっと目を瞑ると、手のひらで顔を覆った。
ぐりぐりとマッサージをするようにこめかみを指で押し、手を下ろす。
時計を見ると、もう間もなく始業時間だった。
四日ぶりの授業は、いくつか知らない単元に入っているものがあったものの、比較的つつがなく進んだ。
双葉はきっちりとノートを取り、配られたプリントに目を通した。
途中何度か、こんなことをしても……という思いに駆られることがあったが、その度に心を押さえつけ、しのいだ。
「双葉ちゃん、ご飯食べよ」
「んー」
今はお昼休み。お昼休みに入るなり寄ってきた夕菜に生返事を返して、双葉は突っ伏した。
「大丈夫? まだ調子よくないの?」
「ううん、そうじゃないの。ただ、食欲なくて……」
心配そうな夕菜にもごもごと言葉は返したが、双葉は机に頬をくっつけたままだった。
身体じゃなくて辛いのは心、なんて、言えるはずもない。
磨り減った心を守るためか、双葉は目を閉じた。
「んー、生理は、まだだよね? 双葉ちゃん、確か二十五日くらいだったはずだし」
「なんで把握してるのよっ」
思わず目を見開いて顔を上げた双葉に、夕菜は当たり前だよと笑顔で応える。
「親友だもん」
「関係ないでしょそれ」
「そんなことないよぅ。ねね、双葉ちゃん。覚えてる?」
「んー、何を」
「私の初めてのときのこと」
「あんたはいきなり何を言いだすのよ……」
呆れて脱力する双葉を意に介さず、夕菜は続ける。
「だって、双葉ちゃんが覚えてるなら、私が覚えててもおかしくないでしょ?」
「はぁ、そういうことね、えーっと」
双葉は記憶を掘り起こす。
学校のトイレ、赤い色、泣いている少女──夕菜だ。
「いつだったかは忘れたけど」
言葉を置いて、夕菜を見やる。
夕菜は真剣な顔で、双葉を見ていた。
「何でそんなにまじめな顔しちゃってるのよ」
「え? えーっと、双葉ちゃんが覚えてくれているのか、気になっちゃって」
「あはは……」
恥ずかしげに俯く夕菜に苦笑いを返すと、双葉は続ける。
「何の前触れもなく学校で急に来て、夕菜、トイレで大泣きしてたよね。
血が出た、死んじゃうって。それを私が見つけて……」
「うん、正解。やっぱり覚えててくれたんだ」
「それからだしね、何かにつけて一緒に居るようになったのって」
「そうだねー、私がべったりだったもん」
嬉しそうな夕菜に釣られて、双葉も笑顔を浮かべる。
「今でもべったりじゃない。少し離れろってくらい」
「えー、やだよぅ。足りないくらいなのに」
「だからやめなさいっての」
夕菜が横から抱きつこうとして、押しとどめられる。
ちょっとした力比べのようになりつつも、最後は夕菜が諦めて、姿勢を戻した。
「とりあえず、私はいいから、お昼ご飯行ってきなさいよ」
「むー、そうする……何も買ってこなくて良いの?」
「一食くらい抜いたって平気よ。だから大丈夫」
「ん、わかった」
色々な意味で不満げな夕菜だったが、くるりと背を向けると教室の外へと歩き出した。
そんな夕菜を見送りつつ、双葉はほっとしていた。
双葉の記憶には、粗があった。
全部受け継いでいないのだから当然のことだが、虫食いのように欠落している。
たまたま今は大丈夫だったが、今度昔の事を聞かれたらと思うと、ひやりとする。
全部もらっちゃうと、清彦君が余計に出てこなくなりそうな気もするし……難しいなぁ。
ため息一つついて、双葉は机に頭を預け、目を瞑った。
午後の授業は古典と英語の二教科だった。
古典はつつがなくすすんだが、問題は英語だった。
といっても双葉に問題があったわけではなく、教師の方に、だ。
いつも頼りないと双葉が思っていた新米の男性教師は、今にも倒れそうなほど顔を青ざめさせていた。
途中何度もチョークを取り落とし、それを拾い上げようとするとふらつく。
誰の目で見ても調子が悪そうなのが明白だった。
「ね、三ツ和先生、どうしちゃったの?」
こっそり、隣の席の詩織に聞く。
「火曜日くらいからずっとこんな感じなんですよ。本人は大丈夫だって言い張ってますけど……」
「どう見ても大丈夫そうには見えないよね」
「ですよね……」
大丈夫かな、と呟きつつ、双葉が考えるのは別のことだった。
今日は金曜日で、双葉が死んだのは月曜日。
月曜日の英語の授業のときはこんな状態じゃなかったのは覚えていた。
ただちょっと、いつもより乱雑かな、と思った程度だ。
ちょっと、調べてみようかな。
双葉はそう思い、ふらふらと傾く教師を目で追うのだった。