放課後、遊びに行こうよと誘う夕菜や良枝たちに謝りつつ、双葉はまっすぐ校舎を出た。
向かう先は、あの湖畔。
相談したいことがいくつかあった。
遊歩道を散歩する老人やジョギングする男性とすれ違いつつ、目的の場所へ。
幸いなことに、遊歩道から少し離れたそこには誰も居なかった。
とはいえ、いつ誰が来るか分からないような状況だ。
双葉は辺りを見回すと、頷いた。
「双葉、いる?」
小声で虚空に呼びかける。
すると、すうっと浮かび上がるように、少女の姿が現れた。
「良かった、居てくれて」
「動けないの知ってるでしょうに」
ほっとしたように呟いて自分を見上げる少女に、漂っていた元の双葉は苦笑した。
「定期的に連絡とろうって言いはしたけど、ちょっと早すぎない? まだ丸一日も経ってないのに」
「そうだけど、相談したいことがいくつか出来ちゃったから」
「んー、まだ明るいし、あんまり長くは危ないかな。私は大丈夫だけど、あなた一人で呟いてるの見られたら変に思われるし」
そう言いつつ地に足をつけると、双葉同士、正面から向かい合う。
「うん、だから早速だけど……」
こくりと頷いて、促した。
「清彦くん、引きこもっちゃったの」
「は?」
自縛霊な双葉は、耳を疑った。
引きこもるも何も、清彦はあなたじゃない。
言おうとして、気づく。
目の前の少女の雰囲気が、昨日とはまるで違っていた。
昨日隠しもしなかった気弱さや不安感が、今の少女にはない。
はっきりとはしないけれど、今の少女は自分に良く似ているような、そんな気がした。
「多分、見てもらったほうがはやいんだろうけど……」
躊躇いがちに一歩前に踏み出した少女の意図を察し、双葉も前に進む。
「一応、先に言っとく。清彦くんがヘタレだったの」
「そんなの分かりきってたことじゃない」
苦笑をしつつ、双葉は少女の唇を塞いだ。
「んぅっ、ちゅっ……」
「んっ……ちゅる……」
舌を絡め、記憶を受け渡す。
昨日別れてから、今までのことを。
「はぅ……」
「ほぅ……」
口をぬぐい、二人して息をつくと、双葉は目を瞑った。
今得た記憶を、思い返す。
何も聞かずにいてくれた両親に、自分を奥底に押し込んだ清彦、四日ぶりの学校に、体調不良な先生。
そうして理解できた。
目の前の少女がどういう状態なのかを。
「ホント、予想以上にヘタレね」
「でしょ? こっちは少しくらい覚悟してたのにね」
呆れる双葉に、少女はうんうんと頷く。
「うーん、これはちょっと、力づくでも起こさないとだめかなぁ」
「え? どうして?」
きょとんと、少女は返す。
起こす必要性があまり理解できないのかもしれない。
その気持ちも分かるけど、と思いつつ双葉は口を開く。
「んー、どうも私だけじゃ、解決できない気がするの。気のせいかもしれないけど……」
それに、と付け加え、双葉は続ける。
「私のために泣いてくれた、今の私にとってたった一人の人だし……
不合理かもしれないけど、起きていては欲しいかな」
「気持ちはなんとなく分かるけど……そういうものなのかなぁ」
生身と霊の差か、記憶の量の違いか。微妙なズレが、二人にはあった。
「そういうものなの。で、だけど……」
「うん」
「夜、出てこれる?」
「あー、多分無理だと思う。お父さんもお母さんも、めちゃくちゃ心配してたし……」
「そっか、やっぱりそうだよね……心配かけちゃってるもん」
「それ以上のことは、言えないよね……」
「言えないよ、言える訳ない……」
両親の話題に二人してしんみりとしてしまい、言葉が途切れる。
そのまま十数秒の時間が流れた頃、生身の双葉が無理やりに顔を上げると、なんとかといった様子で口を開く。
「時間、ないし。続き話そ」
「うん、そだね」
それに引っ張られ、幽霊な双葉も頷いた。
「じゃ、続きだけど……そうなると、どうしようかな。今って訳にはいかないし」
「何が?」
「内緒。荒療治とだけは言っておいてあげる」
「怖いなぁ、でもそれくらいしないと、ダメっぽいしね」
「でしょ? だから仕方ないの。でもタイミングが……早い方が絶対良いけど、人には見せられないし……」
「え、ちょっと、見せられないようことする気なの?」
幽霊な双葉の不穏当な言葉に、双葉は慌てた。
清彦と記憶や認識は分かれているが、身体は一つだ。
その清彦に、人に見せられないことをするということは。
「あ、しまった……内緒のつもりだったのに」
「いやそれ結果的に私が恥ずかしいことにならない? 不安なんだけど……」
「大丈夫よ、そのときは清彦に表に出てきてもらって、全部受け止めさせるから」
「むー……納得できない……けど、仕方ないのかなぁ」
はぁ、とため息をつくと、双葉は諦めたように呟いた。
「そうそう、仕方ないのよ。でも本当、どうしようかな……」
「夜家を抜け出すのは……」
「絶対ダメ」
「だよね……これ以上心配かけられないし」
「「うーん……」」
二人して首をひねり、考える。
幽霊な双葉はこの場所から離れられず、生身な双葉は夜ここには来られない。
昼間はたまに人通りがあり、やりたいことができない。
人が絶対通らないとか、見られないとか保障できたらいいんだけれど。
「あ」
幽霊な双葉が声をあげた。
自分には不思議な力がある。
清彦の姿を変えたり、記憶の受け渡しをしたりといった、普通でない力だ。
もし、それがこういったことにも使えるなら。
そう考え、自分の内を鑑みる。
打てば響くように、すぐに不思議な感覚が返ってきた。
何かあると思い、双葉は意識を深めた。
呼応するように不思議な感覚は強くなり、双葉は訳もなく確信する。
出来る。
でも疲れそう……というか、消耗しそう。
なんとなくそんなことまで分かった。。
幽霊だから疲れとかないはずなのに、と苦笑しつつ、ふと思い出すことがあった。
それは最初に清彦に会った時のこと。
双葉の声に気づいたはずなのに湖へと進む清彦を、強引に止めたあとだ。
急な脱力感を感じ、気がついたらへたりこんでいた。
力を使うことで、消耗したかのように。
そのあと色々あり、そのことは今まで気にも留めなかったが、よく考えてみれば少しおかしい。
清彦を自分に変えるときも、記憶の受け渡しをするときも、そんなに消耗は感じなかった。
それなのにあのときは、清彦の身体を止める、というだけで随分疲れていた。
なんで違うんだろう。
疑問に思いつつも、意識を切り替え浮かび上がらせる。
目を開くと、生身の双葉は棒切れで砂地に落書きをしていた。
「なにしてるの?」
「あ、戻ってきたんだ。見たら分かるでしょ、暇つぶし」
声をかけると顔を上げ、持っていた棒切れを放り出す。
「まじめに考えてよ、もう」
「だって、いきなり声をあげたかと思ったら目を瞑って動かなくなるんだもん。呼んでも返事なかったし」
で、何か思いついたの?」
パンパンと手を打ち鳴らして砂を払い、生身の双葉は幽霊な双葉に向き直る。
幽霊な双葉はコクリと頷くと、多分だけど、と枕を置いた。
「私の力、いろいろ出来るみたい。何とか出来そう」
「へー、そうなんだ。姿でも隠せるの?」
感心したように問う生身の双葉に、幽霊な双葉は答える。
「隠せるっていうか、見えなくするみたい。あと、人を寄せ付けなくするのかな、結界?みたいなの」
「そんなことまで出来るんだ、すごいね」
「すっごく疲れそうだから、あんまり使えないけどね」
「ふぅん、そうなんだ……今やってみるの?」
「うん、早いに越したことないしね」
「そっか、じゃ、お願い」
コクリと幽霊の双葉は頷くと、きゅっと目を瞑った。
自分の中に呼びかけて、浮かび上がってくる力の行く先をイメージする。
目を開き、目の前の生身の双葉を見る。
こう、かな?
「動かないでね」
「う、うん」
手のひらから流れ出して、覆う感じで。
いきなり手をかざされた生身の双葉は、全身を撫でるようなその動きに戸惑った。
ふわりと何かがまとわりつくような不思議な感触に一瞬身構えるが、嫌な感じではなかった。
「こんなもん、かな?」
「ん……できたの?」
「うん、多分……普通の人には見えなくなった、と思う」
「確かめるわけにはいかないよね?」
「そんなことないよ、後ろを見れば分かるから」
「え?」
「影。なくなってるでしょ?」
幽霊な双葉の指摘に、生身な双葉は振り返った。
西日を斜め前からうける形になっており、長く伸びた影がそこにはあるはずだった。
しかし、そこには影の形もなく砂地が広がるだけだった。
「これ、戻せるの?」
認識した瞬間に不安になり向き直って聞くと、幽霊な双葉は大丈夫と答える。
「多分一時間も持たないと思うし……っていうか」
その言葉にほっとしていると、幽霊な双葉は急にぺたんと座り込んだ。
「これ、思ったよりしんどい……」
幽霊なのに血色の良かったはずのその顔も、少し青ざめている。
「大丈夫なの?」
「多分……ちょっと休憩したら続きやるから、ちょっと待って」
「手伝えることって……ないよね?」
「うーん、多分……あ」
心配そうに声をかけた生身な双葉に答えると、幽霊な双葉は自身の内に聞いてみた。
明らかに消耗した自分を、何とかする方法。もしくは、消耗させない方法。
答えはすぐに返ってきた。感覚というより本能で理解したそれは、自分の回復方法だった。
疲れたのは、自分の力の源となるものを放出したから。
ならそれをどこかから補えば良い。
そんな単純な理屈と同時に、補う方法まで浮かびあがる。
「やっぱり……」
呟くと、まだふらつく身体を叱咤して立ち上がった。
ところでぐらりと傾ぎ、目の前の双葉の肩に手を置いて支える。
「大丈夫じゃないよね? 座ってなよ」
心配する双葉の顔をじっと見る。
顔色もよさそうだし、少しくらいなら大丈夫だよね。
「ごめんね」
躊躇したのは一瞬、肩に置いた手を滑らせて双葉の後頭部と首をかき抱くようにして、双葉は双葉と口付けた。
「んーっ!」
「ん……はむっ」
突然のことに目を見開く双葉を逃がさないように腕で抱え込みながら、探り出す。
自分にはない瑞々しい力──生気を双葉の中に感じ、意識を伸ばした。
すると、じんわりと生気が流れ込み、胸が温かくなっていく。
これなんだ……。
体感して理解した。
流れ込んだ生気は自分のものとなり、疲労感が癒えていく。
もっと、もっと欲しい。
本能的に求め、舌を絡め吸い出す。
「ちゅ、ちゅぱっ、ちゅうぅ」
「ふぁ、ちょ、やめ……やめてって言ってるでしょ!」
ゴス、という鈍い音が響いた。
「いっ……つぅ……ひた、はんら」
生身の双葉が幽霊な双葉の頭に、拳骨を落としたのだ。
ジンジンと痛む舌を気にしつつ、幽霊な双葉はさっと距離を取る双葉を涙目でにらんだ。
「あにもぐーれなぐるこほないれしょ」
「あなたが悪いんだから。いきなり強引過ぎよ」
「らっれ……」
「だっても何もないの」
「……ごめんなさい」
「よろしい」
ようやく滑舌の戻ってきた双葉が頭を下げると、双葉はうんうんと頷いた。
「で、どうしてあんなことしたの?」
「えっと、生気が欲しくて」
「は?」
「私の力って生気使うみたいなの。でも、あんまり使いすぎるとしんどくて」
「じゃあさっきふらついてたのも……」
「うん、そのせい。だからあなたから補充しようとしちゃったの」
「え、待って。それ、大丈夫なの?」
「大丈夫、少ししか貰ってないと思うし。それでも私には十分みたいだけど」
「確かに元気になった気はするけど……そういうことなら、先に言ってほしかった」
「ごめんね、消耗してて、ついふらふらっとやっちゃったの」
頬を膨らませ不満げな表情をする双葉に謝りつつ、自身を顧みる。
危なかった。
脳天の一撃を食らわなければ、自分を止められなかったかもしれない。
それほどまでに、流れ込んでくる生気は甘美だった。
その塊が、今も目の前に居る。
「まぁ、もういいけどさ」
すねたような口ぶりの双葉が、途端に美味しそうなものに思え、幽霊の双葉は頭を振った。
何考えてるのよ、私。
浮かんできた欲求を打ち消し、苦笑する。
「ごめんね」
「いいよもう。それよりもう大丈夫なんだよね?」
「うん。おかげさまで」
「ならそれでいいし、この話は終わり、ね?」
そう言ってくれた双葉にほっとし、幽霊な双葉は話を広げる。
「ありがと。じゃあ、だけど……」
「話の続き?」
「うん、今あなたの姿は人に見えないようにしたはずだから、何しても大丈夫よね?」
「……今度強引なことしたら引っぱたくからね?」
「違うって、ああでも、ある意味では違わないかも……」
不穏当な言葉に後ずさる双葉に説明しようとして、言葉に詰まる。
それを見て、双葉は不審気に眉をひそめた。
「何する気なのよ……」
「えっと……清彦君に慣れてもらおうと思って」
「は?」
よく分からない、という感じに首を傾げた双葉に言葉を重ねる。
「女の……私の身体に。このままじゃ引っ張り出してもすぐ隠れちゃいそうだし」
「それはそうだろうけど……どうするの?」
「えっとね……」
そう枕を置くと、双葉は訳もなく声を潜め、双葉に提案するのだった。
清彦が清彦として目を覚ましたのは、双葉と最初に出会った湖畔だった。
起き上がり、座り込んできょろきょろと辺りを見回す。
「え、あれ、どうして……?」
双葉の家で、自分を押し殺したところで記憶は途切れている。
それは当然といえば当然で、清彦の記憶を自ら奥へと押し込んだからだった。
そこから先は双葉の記憶で動いていたのだから、清彦はその間意識がなかったようなものだ。
気がついたら湖畔にいて、清彦は戸惑った。
もう出るつもりはなかったのに。あれ以上、双葉ちゃんの記憶も身体も、見るわけにはいかないし……。
そう思っていると、目の前に浮かび上がるように当の双葉が現れた。
「目、覚めたんだ」
「えっと……これはどういうこと?」
「んー、まだ秘密」
「何それ……」
悪戯っぽく笑う双葉に、清彦は困惑する。
「あなた、私の家で何かしたの?」
「へ? どういうこと?」
急に口調を変え、問い詰めるように双葉は聞いた。
困惑から抜け出せない清彦は、質問に質問で返すことしか出来なかった。
「私として部屋で遊んだり、お風呂に入ったり?」
「そ、そんなことしてないよ」
「本当? こっそりしてたんじゃないの?」
「してないって、だって僕は……」
慌てて否定する清彦をジトっとした目で見つつ、双葉は嘆息する。
ホント、ヘタレ……。
「僕は? どうしたっていうの?」
「えっと……覚えてないんだ」
「どうして? あなたの身体じゃない」
「そう、だけど……なんて言ったら良いのかな。僕、途中で自分を押し殺したから……」
「……どうしてそんなことをしたの?」
「だって、君の記憶を覗き見するみたいだったし、身体だって」
「あなたの身体なのよ?」
遮るように問い詰めると、清彦は小さな声で、ポツリと呟く。
「そうだとしても……やっぱり申し訳なくて出来ないよ……」
「はぁ……申し訳ないってどういうことよ」
「だって、見ず知らずの男に全部見られちゃうんだよ? 普通耐えられな」
「それくらい、覚悟してたわよ」
言葉を被せ、双葉はまた嘆息する。
どうしてか、心がささくれ立っていた。
「そりゃ、ちょっとは恥ずかしいかなって思ったりはしたけど。
あなたなら大丈夫かなって決めたのは私なのよ?
その時点で覚悟は出来てたの。見られるのも、触られるのも」
「女の子がよく知りもしない男にそんなこと言っちゃダメだって……」
「っ!」
よく知らないって何よ、と双葉は怒鳴りたい衝動に駆られ、唇をかみ締めた。
まただ。どうしてこんなに腹立たしいの……。
自分の心が分からず、双葉は戸惑う。
ちょっと確認したかっただけのはずなのに、気がつけば責めるようになっている。
昨日の夜に感じたもやもやまで受け継いだ双葉は、清彦に腹立てているようだった。
「はぁ……いいよもう」
いつの間にか上がっていた肩から力を抜き、双葉はため息をついた。
目に見えて清彦がほっとしたのにイラッとしつつも、押し殺す。
これからやることで、解消すればいいや。
そう思い、一歩前に出る。
「さっき、どういうことって聞いてたよね」
「え? あ、うん。いきなりだったし……」
急に切り替わった話に戸惑いつつ、清彦はこくりと頷いた。
双葉はもう一歩、前に出た。
「私ね、さっきも言ったけど、覚悟してたんだ」
「えっと、話が見えないんだけど……」
困惑する清彦をよそに、また一歩。
「少しくらいは許せるって。見ても、触っても、良いんだって」
「だからそんなこと簡単に」
「簡単なわけないじゃない」
「え?」
「何がどうあれ、その覚悟を踏みにじったんだから、お仕置きが必要だと思うの」
「え? ちょ、ちょっと待って」
「だめ、待たない」
言うなり、双葉は清彦の後ろに回って、しゃがみこんだ。
「ひゃぅ」
「あなたに、刻み込んであげる」
清彦が妙な声をあげた。
双葉が清彦を後ろから抱きすくめ、耳をはんでいる。
低い声で、双葉は囁く。
「自分は双葉っていう女の子なんだって。双葉が自分なんだって」
「そん、な……ひゃっ、やめっ」
「はむ……れろ……」
耳をなめられ、清彦は震えた。ぞわぞわと背筋にくる未知の感覚に、慄いた。
「なん、で、こんなに……」
「ふふ、びっくりしてるよね。女の子って、敏感なんだよ」
耳元で囁く双葉の吐息ですら、未知な感覚が背筋を駆け巡る。
その甘さに惹かれそうになり、清彦は思う。
これは、怖い。
これ以上は、やっぱりダメだよ。
そうして、強く思う。
私は双葉、と。
「私は、双葉……」
口に出して唱える清彦に、双葉は嘆息をついた。
「また、逃げるの?」
「だって……そうしないと」
「私が良いって言ってるのに?」
「それでも、やっぱり申し訳ないよ」
「はぁ……またそう言うことを……」
呆れた口ぶりの双葉をよそに、清彦は唱える。
「私は双葉、森下双葉……」
双葉の記憶を思い出そうと、意識を深める。
しかし、一向に認識が切り替わらない。
それどころか、双葉としての記憶も、今の清彦には見えなかった。
「あれ、どうして……」
「あなたと同じこと、してもらっただけよ」
「え?」
その言葉に振り向こうとした清彦を押しとどめ、双葉は続ける。
「ちょっとだけ、工夫したけどね」
「どういう、こと?」
嫌な予感に震える声で、清彦が問う。
あっけらかんと、双葉は答える。
「私としての記憶、見えないようにしたから。いくらあなたが奥に引っ込もうとしても、無駄なの。代わりいないし」
「そんな……どうして」
「そうでもしないと、あなた逃げるでしょ?」
「それはだから」
「私が良いって言ってるのに、覚悟してるのに、それでも逃げるじゃない。そんなの、やだったの」
被せるように、矢継ぎ早に繰り出す双葉に、清彦はたじろいだ。
「やだって……」
「だから、お仕置き。あなたの心で、しっかり私を、双葉を感じてもらうから」
「え、ちょ、ちょっと待って」
「待たない。覚悟、しなさい」
慌てて身をよじろうとする清彦を強く抱きしめ、胸に手を這わせる。
同時に、耳をはんだ。
「はむっ……ちゅっ、れろ……」
「やっ、だめ……だって」
耳へのぎこちない愛撫に、清彦は震える。
もがいて離れようとしても、双葉にがっちりと腕を回されていて逃れられなかった。
「ここ、だっけ」
「ふぁ……」
双葉は確認するように呟くと、耳の後ろに口付ける。
清彦のふやけた声に満足するように、くすりと笑った。
「ふふっ、可愛い声あげちゃって……やっぱり、耳が弱いみたいね」
「はぅ……」
耳元でささやかれ、清彦はゾクリとした。
その甘い痺れに、頬が熱くなり、目が潤んでゆく。
「気持ち、いいんでしょ? これが女の子の、私の身体よ。しっかり、感じなさい」
「や、やめ……」
清彦の胸に置かれていた手がうごめき、ブラウスのボタンを外してゆく。
肘で腕ごとがっちりと挟まれて身動きの取れない清彦にはなすすべもなかった。
やがて、全てのボタンが外され、前が開かれる。
ついでのようにスカートの中に入れていたスリップごと引き出した双葉は、うん、と頷いた。
「ちゃんとスリップしてるのね……私の意識だったんだから当たり前、か」
「うぅ……」
覗き込むようにして頬を寄せて囁く双葉の視線の先には、薄布に隠された膨らみがある。
それを見ないようにぎゅっと目を瞑った清彦に内心呆れつつも、双葉は続けた。
「脱がすのは面倒だし……このままで、いいかな」
その言葉と同時に、双葉が少し清彦から離れた。
ほっとした清彦が気を緩めていると、背中からぱちりと音がした。
「え」
「これでよし、っと」
驚いた清彦が振り向こうとしたところに、また双葉が抱きついた。
「や、ちょ」
「しっかり、見てね」
スリップの下から手を入れて、指で引っ掛ける。
身体の表面をなぞるように滑らせて抜くと、双葉の手には淡い水色の布切れがあった。
「え……?」
何をされたのか分からず、清彦は戸惑った声をあげた。
双葉の手にあるものを見て、自分の胸を見た。
「っ!」
薄布越しに写る淡いピンクの部分に目が行きかけたところで、慌てて目を瞑った。
「どうして……」
「さっきホック外したし。これで準備完了、かな」
「戻してよ……」
「無理。ちゃんとスリップ脱いで、しっかり見てやらないと綺麗に出来ない。
人のなんてやったことないし、あとで自分でやって」
「そんな……」
目を瞑ったまま泣きそうな顔をする清彦に、双葉は内心嘆息する。
まったくもう……。
「そんなことより、目、開いて」
「ダメだよ、今開いたら見ちゃう」
あくまで目を瞑ろうとする清彦に、双葉は呆れる。
「見ろって言ってるのよ」
「ダメだって」
「ああもう、変なとこで頑固なんだから……。そっちがその気なら」
そう呟くなり、双葉はスリップの下から、手を入れた。
そのまま腕でずりあげるようにして、清彦の胸を露わにする。
「感覚だけでも、しっかり味わってもらうからね」
耳元で囁かれた言葉の意味に清彦が達する前に、胸から強烈な刺激があった。
「ふぁっ」
「びっくりしたみたいね。軽く触っただけなのに」
つん、つんとつつくように双葉がふたつの頂点に触れるたびに、清彦はぴくん、ぴくんと震える。
「ここばっかりじゃ、ダメだよね」
そう囁くと、双葉は清彦の胸に手を当てた。
下から膨らみの外周をなぞるように、指を動かしていく。
「形は良いと思うんだけど、どう?」
「そ、そんなの、分かんないよ」
双葉の囁きに慌てる清彦を横目に、双葉は清彦に頬を寄せ、後ろから覗き込む。
指の動きにあわせて二つの膨らみがへこんだり持ち上がったりと変化する。
ちょっと、面白いかも。
場違いにもそんなことを思いつつ、双葉は清彦を伺った。
相変わらず目を瞑ったまま眉根を寄せている清彦の様子に、どうしたものかと考える。
ふと、思いついた。
「ねぇ、ちょっと」
「な、何」
「あなた、今の状況分かってる?」
「え? どういうこと……?」
困惑する清彦に、双葉は思いついたままに、投下した。
「あなたは今、女の子の……森下双葉っていう女の子の姿になって、その女の子に胸を揉まれてるのよ」
「っ! そんなこと、言わないでよ」
瞬間的に頬を強く染めた清彦に、よし、と双葉は思った。
「どうして? 事実を言っただけなのに」
「想像、しちゃうから」
「想像なんかしなくても、目を開けば良いのに」
「だからそれはダメだって……」
「見たくないの?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ見れば良いのに」
「そういう問題じゃないって言ってるでしょ……」
「じゃあ、どういう問題って話が堂々巡りしてるね。うーん……」
結局進展しない話に双葉は苦笑した。
「もう、やめようよ……ひゃん」
「ちゅっ、だーめ、こうなったら意地でもあなたに教えてあげるんだから。女の子の身体っていうものを。
目を瞑ってたって関係ないくらい、自分の身体が女の子なんだって、思い知らせてあげる」
首筋にキスを落としつつ、双葉は囁いた。
止めていた手を動かし、こねる。
「うーん、手がちょっと邪魔ね……あ、そうだ」
何かを思いついたような双葉は一瞬目を瞑ると、自身の腕を清彦の腕に合わせた。
すると、すうっと溶けるように、双葉の腕が消えていく。
「頭を入れたら早いんだろうけど、そうするとあなたまた逃げちゃいそうだし」
「え?」
「ふふ、こういうこと」
言葉の意味が分からず戸惑う清彦に、双葉は行動で示す。
清彦の手が動き、自分で胸を揉み始める。
「え? やっ、どうして……」
「腕だけ、同化させちゃった。あなたの腕は今私が動かしてるの。
ああでも、ちゃんと感覚はあるはずだから、問題ないよね」
「大有りだと思うんだけど……ひゃんっ」
ピンと胸の頂点を片手ではじきつつ、もう片方の手を下ろす。
ジジ、という音を立て、スカートのファスナーが下ろされる。
座っているからか途中で止まってしまうも、出来た隙間から手を入れ、下着を潜らせる。
「そこはっ」
「わ、ちょっと湿ってる……濡れてる?」
「そんなこと、言わないでよ……」
「あなたも感じてるでしょ? 指先の湿り気とか、感触とか」
「言わないでって」
泣きそうな声をあげる清彦を無視して、双葉は清彦の手を動かしてゆく。
「こんな感じ、かな」
縦に入った溝をなぞる様に指を滑らせ、トントンとノックをする。
その一方で、胸の頂を避けつつ形を変える膨らみを揉みしだく。
「んっ、くっ、やめてって、いってる、のに……」
「あなたが悪いんだよ? 言うこと聞かないから……」
「そんっ、な、酷いよ……んんっ」
膨らみ始めた乳首をきゅっとつまむと、清彦はたまらず声を漏らした。
その反応にくすりと笑うと、双葉は囁く。
「乳首、大きくなってきたわ。張ってるのがよく分かるでしょ?」
「うぅ……」
清彦は、赤くなっていた頬をその言葉でさらに赤くした。
「次は、どうしよっかな」
「もう、やめようよ……」
「それ何度目? いい加減諦めたら良いのに」
「そんなのできないよ……」
弱弱しく否定ばかりする清彦に、双葉は嘆息した。
「一度思いっきり、イかせてあげる。そしたらそんなこと言ってられないと思うし」
「え、やめっ、やっ」
つまんでいた乳首をくにくにと指で転がしつつ、スリットの根元の丘に触れる。
「ちょっと膨らんでる気がするけど……ここを触るのは、初めてかな」
「え? やっ、何? ああんっ」
トン、とノックした瞬間、清彦が仰け反った。
倒れないように支えつつ、双葉は囁く。
「あは、良い反応。そんなにすごいんだ、ここ」
「はぅ、だめ、だよ、こんなの、だめ、やっ、あっ」
トントンとノックをするたびに、清彦の体が震える。
その素直な反応を楽しみつつも、もう片方の手は乳首を転がしている。
「もうすぐ、かな。ほら、さっさと、イッちゃいなさい」
「あっ、やっ、やだっ、くる、なんか、きちゃうっ」
切羽詰った声をあげる清彦にゾクゾクしつつ、双葉は仕上げに入った。
ひときわ強く頂をつまみ、恥丘を指で叩く。
その瞬間。
「やっ、やぁっ、あっ、ああーっ!!」
清彦は一際大きく声をあげ仰け反り、双葉にくたりと身体を預けてきた。
「あはっ、イッちゃったんだ」
「はぁ、はぁ……」
荒く息をつく清彦を支えつつ、双葉は振り返る。
これで少しは慣れてくれたら良いんだけど……。
ぼうっと待ち、頃合いを見計らう。
そろそろ大丈夫かな。
清彦の腕で後ろ手に支えつつ、自分の腕を抜く。
突然のことにバランスを崩しかけた清彦だったが、何とか持ち直して身体を支えた。
今の今まで瞑りっぱなしだった目を、ようやく開く。
双葉は清彦の正面に回ると、清彦を覗きこんだ。
「ねぇ、どうだったの?女の子の……私の身体。
目なんて瞑ってるから、余計に敏感になっちゃったんじゃない?」
大きく息をひとつついた清彦は、目に涙を浮かべて双葉を見上げる。
「ひどいよ……やめてって言ったのに、こんなの……」
無造作に膝を抱え、弱弱しく抗議する清彦に双葉は苦笑する。
「あなたが意固地になるからじゃない。良いって言ってるのにダメだダメだって」
「だって……」
「だってじゃないの、私が良いって言ってるんだからそれで良いの。分かった?」
「納得、できないよ……」
「あのねぇ……もっかいイかされたいの?」
「ひぅ……ごめんなさい」
呆れた双葉が冗談交じりに凄むと、清彦は怯えたように頭を下げた。
その様子に腑に落ちないものを感じ、双葉は問いかける。
「はぁ、なんだかなぁ……気持ちよくなかったの?」
「ええと……言わないといけない?」
「当たり前でしょ」
「うぅ……うん、多分、気持ちよかったんだと思うけど……」
「何その歯切れの悪い言い方」
「だ、だって。途中から訳分からなくなって、気持ち良いんだか怖いんだかよく分からないままに、
その、いっちゃたから……」
「ふぅん……」
「で、でも多分、気持ち良かったんだと思う。男のときより。まだジンジンしてるし」
慌てて補足する清彦に、不満げな様子を見せていた双葉はふっと息をついた。
「ならいいけど……」
その言葉にあからさまにほっとする清彦を見て、双葉は少しむっとした。
「ま、これで耐性できただろうし、もう自分を殺さないよね?」
「う……それは」
「もし今度また自分を殺すような真似をしたら」
「……したら?」
恐る恐る聞き返してくる清彦に、目を眇めて双葉は言い放つ。
「あなたの中の双葉の記憶、全部見えなくした上で放り出すから」
「えぇ、そんな酷い……」
「それが嫌なら、ちゃんと受け入れてよ。あなたがあなたとして、私の身体を」
「うぅ……わかったよ。不安だけど……」
渋々頷いた清彦に、双葉は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「がんばって。少しくらいなら羽目外してくれたっていいんだからね?」
「そんなこと言わないでよ……ヘンな気分になっちゃいそうで怖い」
「ふふっ」
案の定慌てた清彦にくすりと笑いつつ、双葉は内心ほっとしていた。
これでやっとホントのスタートライン、なのかな。
頑張ってもらって、調べなきゃ。
そういえば何かさっき伝えてもらったような……。
「あ」
つらつらとそんなことを考えていた双葉が声をあげた。
まじまじと清彦を見つめ、うーん、と首をひねる。
「えっと、何?」
「んー、ちょっとさっき貰ったもの、忘れちゃって……
よし、凍結、解除しちゃおう」
「え? はぅっ、んっ」
「んっ、んー、ちゅっ」
「いきなり何するのよ……って、あれ?」
突然のキスに目を白黒させた清彦は、反射的に発した自分の言葉に首を傾げた。
「ん、早いわね。慣れてきたのかな」
「え? 私……私? あれ、双葉の、記憶……」
ぱちぱちと目をしぱたかせる清彦に、双葉は軽く頷いた。
「うん、今ので解いちゃった。聞きたいことがあったし」
「そんな簡単に……ついさっきまでなかった記憶があるって、すごく変な感じなんだけど……」
「あー、それはそうなっちゃうのかも。まぁ、それは諦めて」
「またそんな簡単に言うし……はぁ、仕方ないか。で、聞きたいことって?」
清彦は苦笑すると、話を進めた。
記憶が戻った影響か、その口調には双葉の色が濃く現れていた。
「混じってる、わけじゃないよね?」
「んー、今も多分、分かれたままだと思う。ちょっと今、混線したみたいになってるけど」
双葉が確認するように聞くと、清彦は一瞬自身の内側を見るように目を瞑り、答えた。
「ふうん、そっか。あ、それでだけど」
それに納得したのか、双葉は話の水を向けた。
「うん」
「さっきの記憶交換っていうか同期したとき、気にしてたことがあったじゃない。あれって何だっけ」
「えっと……四つくらいあって、そのうちどれだけ清彦君が、僕がヘタレかっていう話になったんだ……」
「わ、そこで落ち込まないでよ、もう……やっぱり一度整理したら?」
話している途中で声が落ち込み俯いてしまった清彦に、双葉は慌てて提案した。
その提案に清彦は顔を上げ、コクリと頷いた。
「……そうだね、そうする」
清彦はきゅっと目を瞑り、大きく息を吸い、吐いた。
絡まった糸をほぐすイメージで記憶を辿ってより分ける。
混線とはよく言ったもので、確かにこれではややこしいことになってしまいそうだと清彦は感じた。
具体的には、清彦の中学生時代のことを思い出そうとしたら一緒に双葉の小学生時代のことまで出てきそうな感じだった。
それを慎重に解きほぐして、分けていく。
その中で、不思議な感覚が清彦に芽生えた。
あ、これ、こうするんだ……。
理屈もなく、理解した。
その感覚を見失わないようにしつつ、記憶の糸をよりわける。
やがて清彦が目を開いたときには、記憶の整理は終わっていた。
「えっと、これで大丈夫、かな」
「思ったより早かったね、ホントに大丈夫なの?」
「うん、多分。試してないけど、頭の中はすっきりしたし」
「ふうん、そっか。じゃあ、とりあえず話の続き?」
「うん、そうしようか。えっと……」
清彦はコクリと頷くと、何かを思い出そうとするように視線を虚空へと向けた。
「記憶の受け渡しをしたときに、気になったって話」
「あ、そっか。んー、確かだけど」
「うん」
「英語の先生がヘンってことと、昔のこと聞かれたら結構まずいかも、ってとこじゃなかったっけ」
「あー、それそれ。三ツ和先生、どうしちゃったんだろ。
めちゃくちゃ顔色悪かったみたいじゃない。ただ強がってるってわけでもなさそうだし……」
「やっぱり、何かあるのかな……」
「うーん、怪しいのは確かだけれど……あの先生がヘンなこと出来るって思えないのよね。
清彦君に似たタイプで、ヘタレ気味だったし。最近はちょっとだけ雰囲気違ったけど」
「一言余計だよ……」
苦笑する清彦に、双葉はあっけらかんと笑って返す。
「あはは、仕方ないじゃない、ホントのことなんだから。んー、三ツ和先生かぁ……」
「何か気になるの?」
「確か事故にあって、二、三日休んでたことあったな、って思って」
「事故……それって」
「怪我はほとんどなくて、検査入院しただけだったみたいだけどね」
何かを言いかけた清彦に被せるように双葉が続け、清彦は口を閉じた。
それに気づかず、双葉は話を進める。
「まぁ、大きな事故にならなくて良かったんじゃない? すぐに学校に復帰できたんだし」
「……そっか。じゃあ、関係ないのかな」
「どうだろ、復帰してからかな、ちょっと雑って言うか、粗暴っていうか……
ちょっと、あれ?って思うことはあったの。あなたも覚えてるでしょ?」
「あー……うん、そうだね。覚えてる。でも今日の様子とは、全然違うよね」
「そうなのよね、繋がりが見えないの。でも、なんかあるかもしれないし……うん、ちょっと注意して見ていてくれる?」
「うん、分かった。僕としても気になるし……」
「お願いね。あとは、昔のこと……かぁ。どうしようかな」
清彦がコクリと頷いたのを見て、双葉はもうひとつの懸案を考え出した。
あまり記憶を渡しすぎると、染まりきってしまいそうなのが双葉には少し怖かった。
代理に仕立て上げるだけならその方が好都合なのかもしれないが、できなかった。
さすがに可哀想……というか、したくないのかな、私自身が……。
そう考え込みかけて俯き始めた双葉の肩を、清彦が優しくノックするように叩いた。
「えと、何考えてるかなんとなく分かるんだけど、多分、大丈夫だと思うんだ」
「え?」
双葉が顔を上げると清彦は苦笑を浮かべ、頷いた。
「記憶の使い方っていうのかな、気のせいかもしれないけど、なんとなく分かってきた気がするし……」
「記憶の、使い方?」
鸚鵡返しに呟いた双葉に頷きかけ、清彦は話を続ける。
「えっと、さっき記憶の整理をしたときにね、不思議な感覚があったんだ。
なんて言ったらいいのかわかんないけど……ほぐした糸の繋がり方が見えたって言うのかな……」
「よく分かんないよ、それじゃ」
要領を得ない清彦の説明に、双葉は苦笑した。
清彦はううんと首をひねると、どう説明したものかと考え出した。
「ええっと、要するに……簡単に私として振舞えるようになったってこと、かな。
暗示みたいにしなくても、自分を押し殺さなくても」
一拍置いて双葉らしく話し始めた清彦に、双葉は目をしぱたかせた。
「そんなこと出来るようになったんだ……不思議」
「ちょっと疲れるけどね。だけどこれで問題ないでしょ? 量が増えても根っこは同じなんだし」
「そう、なのかな。んー、分かんないけど、そう言うなら」
「うん、もう少しもらえたほうが安心も出来るし、いいんじゃない?」
「それもそっか。じゃあ、だけど」
「お互い、目は瞑ろうよ」
「ん」
双葉と清彦、どちら側からの提案か分からなかったが、双葉は頷き、膝立ちになって清彦に近づいた。
清彦は少しあごを上げ、目を瞑っている。
双葉の手によって乱れたブラウスをそのままに、頬を赤く染めて双葉を待つ清彦の姿は、妙に双葉の心に残った。
もうちょっと、シちゃってもいいかも……ってなに考えてるのよ私。
ふるふると軽く首を振ってやましい気持ちを振り払い、瞑られている清彦の目を見ながら、双葉も目を瞑った。
「んっ……」
「んっ……」
接触は、一瞬。
どちらからともなく軽く口を開き、舌を絡める。
「んっ、ちゅ、ちゅぅ……」
「んーっ、ん、ちゅる……」
清彦が双葉の舌を吸い、双葉は応えるように記憶を乗せて行く。
深い口付けは、清彦の腕時計の秒針が一周するまで続いた。
「ぷぁ……ふぅ……」
「はぁ、はぁ……、やだ、なんか上手くなってるし……」
「あはは……なんか、ね……」
身体を離し、抗議するように清彦を見る双葉に、清彦は苦笑で返した。
「もう、癖になっちゃいそうじゃない……」
「え?」
「なんでもないっ。それより、大丈夫なの?」
「え、あー、うん、大丈夫。私の昔の頃のこと、ちゃんと自分のこととして思い出せるから」
「そうじゃなくて……」
「ああ、そっか。うん、僕は壊れてないし、崩れてもいないよ」
「なら、いいけど……なんで私がこんな心配しなきゃいけないのよ、もう……」
「あはは……でも、これが一番だし」
「そうだけど……まぁ、いっか。あなたの悲観的すぎる考え方も、少しはマシになったみたいだし」
「あー、そうなのかな。よく分からないけど……」
「そうよ、まぁ、気づいてないなら構わないんじゃない?」
「んー、そうだね、そうしとこ」
「そうそう、それでいいの」
うんうんと頷く双葉に、清彦は軽く首を傾げながらも、笑い返したのだった。
「あ、そうだ、ちゃんと身だしなみ整えてね。今のままだったら、姿見せた瞬間に大騒ぎになるから」
「え? あー……そっか」
一瞬何を言われたのか分からなかった清彦だったが、自身を振り返って納得した。
乱れたブラウスは羽織っているだけ、砂地に落ちたスカートがそのままになっていた。
スリップ越しにうっすらと浮き上がる頂から慌てて目を逸らし、双葉のそばに落ちていたブラに手を伸ばす。
「ええっと、これ……ん、ちゃんと着けないとね」
一呼吸入れて意識を切り替えると、清彦は淡々と服装を整え始めた。
一度ブラウスとスリップを脱いで、ブラジャーをつける。
すんなりと背中でホックを留め、スリップを被った。
「んー、ちょっと馴染みすぎ……っていうか……」
何故か不満げな双葉を他所に、清彦はブラウスを羽織った。
普段とは逆なはずのボタンも難なく留め、スカートに手を伸ばしたところで、ピタリと動きを止めた。
「う……」
もぞっと足をすり合わせ、スカートと自身の足の付け根辺りを見比べる。
先ほどまでの痴態の結果が、そこにあった。
「このままじゃさすがにまずいよね……」
頬を赤らめそこから目を逸らした清彦は、どうしたものかと首を傾げた。
「あー、そんなに濡らしちゃって……」
「誰のせいだと思ってるのよ……」
人事のような双葉の台詞に呆れつつ、置いていた鞄に手をかける。
「良かったぁ、あった」
覗き込んだ鞄の中にお目当てのものがあったのかほっとしたように声をあげると、清彦はごそごそと鞄に手を入れた。
取り出したのは、少し大きめの化粧用ポーチのようなもの。
それを開くと、中から丸まっているものを取り出した。
「僕がこれを……っと、だめ。そっちで考えちゃ」
ふと我に返って漏らした言葉を振り払うと、清彦はショーツに手をかけた。
そのまま一気に足首までずり下ろす。
「ぅ……」
途端にデリケートな部分が空気に触れ、清彦はうめく。
ポーチから取り出したものを広げ、そこにあまり触れないように当てる。
両サイドで軽く留め、靴を脱いだ。
丸まったショーツが落ちるままにし、ポーチから予備のショーツを取り出すと、足を通す。
「ちょっとごわつくけど、仕方ないよね……」
最後に落ちたままのショーツをビニール袋に入れて鞄にしまうと、清彦はほっと一息ついた。
「なんかこなれ過ぎだと思うんだけど……」
様子を見ていた双葉のつまらなそうな呟きに、清彦は苦笑する。
「仕方ないでしょ、だって私として振舞ってないと、意識しすぎちゃって大変なことになっちゃうから」
「そうかもしれないけど……」
「それでもたまに素に戻っちゃうんだけどね、やっぱりずっとは疲れるし」
「ふぅん、そんなもんなんだ」
「うん」
落ちていたスカートを手にとって腰に巻きつけていた清彦が頷くと、
双葉は納得しきれないものの、ある程度は理解したらしかった。
「そんなもん、かぁ……」
双葉の呟きに苦笑しつつ、清彦はスカートのホックを留め、その下から手を突っ込んでブラウスをピンと伸ばす。
脱いでいたローファーを履きなおし、これまた解けて地面に落ちていたリボンタイを拾い上げると、首周りで緩く結ぶ。
「これでよし、かな」
ブラウスのすそを気にするように視線をめぐらせ、大丈夫そうだと判断した清彦は、ほぅ、と息をついた。
「よかった、乗り切れた……」
「え?」
途端にぺたんと座り込んだ清彦に、双葉は驚いたような声をあげた。
「たまに素に戻らないと、やっぱりしんどいかも……」
女の子座りでぼうっと双葉を見上げる清彦の顔には、確かに少し疲労の色があった。
「そんなに疲れるなら、無理して意識を切り替えなきゃいいのに」
「さすがにそれは無理だって……恥ずかしいし」
「さっきのを思い出しちゃうから?」
「言わないでよ、ホントに思い出しちゃう……」
くすりと笑う双葉に、清彦は頬を赤くした。
「清彦君の方にしかないもんね、あの時の記憶」
「それは君が……あなたが私を隠しちゃったからじゃない」
「じゃあ、双葉としての記憶に残るように、もっかいやっとく?」
「勘弁して。せっかく下着換えたのにまた汚しちゃったら大変だし」
「ちぇ、あっさりして……面白くないなぁ」
「私はあなたを面白がらせるためにいるわけじゃないからね。そんなことより」
不満げな様子で頬を膨らませている双葉をかわすと、清彦は立ち上がった。
スカートについた砂を払い、鞄を持つ。
「そろそろ行かないと。また心配かけちゃうの、やだし」
「……ちょっと納得いかないけど、仕方ない、か。心配させたくないのは一緒だし」
「納得してくれると嬉しいんだけど」
「難しいかも。もうちょっと動揺してくれたっていいじゃない」
「素に戻る度に内心恥ずかしくて死にそうになってるから、それで勘弁して」
双葉に向き直ると、清彦は苦笑いを浮かべた。
「……知ってたけど、やっぱりエスだよね」
「あなたが、清彦君が被虐体質すぎるのよ」
「そんなことないと思うけど……まぁ、いっか」
軽口を叩きつつ、清彦は気持ちを整える。
「じゃあ、明日は三ツ和先生をちょっと注意してみてみるよ」
「うん、お願い」
「行ってきます、かな」
「行ってらっしゃい、無理に頑張らなくてもいいけど、そこそこ頑張って」
「あはは、よくわかんないよ、それ」
双葉が頷いたのを見て、清彦はくるりと身体を翻して足を進めた。
その姿を、双葉はじっと見送るのだった。
「ただいまー」
清彦が双葉の家に帰ると、二階からバタバタと慌てるような音がした。
首を傾げつつ、靴を脱いで揃え、リビングに入る。
リビングでは一葉が洗濯物を畳んでいた。
「あ、双葉、お帰りなさい」
「おかあさん、ただいま。上、若葉? 慌ててるみたいだったけど」
手を止めた一葉に聞くと、一葉は少し考えて、答えた。
「そうみたいね、着替えてからでいいから、ちょっと見てきてくれる?」
「うん」
清彦はコクリと頷き、そのままリビングから出ていこうとした。
その背に、一葉は思い出したように声をかける。
「今朝も言ったけど、若葉はあなたのことで悩んでたみたいだから、ちゃんと向き合ってあげてね」
「……うん、分かった」
首だけ振り返って頷くと、清彦はリビングを出て、扉を閉めた。
階段へと向かう途中、トイレに入り、スカートのまま腰を下ろす。
「緊張、したぁ……」
くてっと力を抜き、息をつく。
昨日は双葉の気持ちに呑まれていて感じる余裕のなかった緊張や不安が、今になってやってきていた。
双葉としての記憶があり、そう振舞えたとしても、それは仮面をつけているようなもの。
双葉を演じている間は何ともなくとも、素の清彦にとっては緊張の連続だった。
気を抜くとすぐに浮かび上がってくる素の自分を抑えつつ、双葉として振舞わないといけない。
「これ、思ったより大変かも……」
今更のように呟いた弱音は、狭い室内に溶けていった。
一息ついて落ち着くと、清彦は立ち上がった。
清彦にとっては幸いなことにか、まだトイレに行きたいような状態にはなっていなかった。
「でも、いつかしなきゃいけないんだよね……そのときは、ごめんね」
誰にともなく謝ると、持ち込んでいた鞄を拾い上げ、扉に手をかける。
頭の中を切り替えるように、一瞬目を瞑ると、扉を開いた。
トイレから出て、階段を上がる。
二階に三つある部屋のうち、一番手前の部屋に、入る。
清彦にとってはほぼ一日ぶりの、双葉の部屋。
昨日清彦が慌てたりいじけたりして、自分を殺した部屋だ。
自分に不安を感じつつも、ひとまず机に鞄を置く。
着替えを取ろうと箪笥に手をかけたところで、ため息をついた。
「やっぱり私でやらないとダメみたいね……もう」
今素に戻ると、また慌てて大変なことになりそうな予感が清彦にはあった。
「ちゃっちゃと着替えちゃわないと……ヘンに意識しちゃうとまずいし」
その言葉とともに、部屋着を取り上げると脇に落とし、リボンタイを解く。
スカートのホックを外してジッパーを下ろし、重力に任せるままに落とす。
ブラウスのボタンを外して脱ぐと、箪笥の脇に立てかけられていた鏡には下着姿の双葉が映っていた。
「気にしちゃ、ダメ」
言い聞かせるようにして目を逸らすと、先ほど落としたスウェットの上下を手に取った。
普段遣いであるそれを着ようとして、ふと思いつく。
「もうちょっと可愛い方が良いかな、さすがにこれじゃ色気なさすぎだし」
手に取ったスウェットを畳みなおして仕舞い込むと、箪笥を覗き込む。
なんとなくこれかな、という感覚を受けて手に取ったものは、モスグリーンのワンピースに淡い黄色のサマーカーディガンだった。
「ちょっと気合入りすぎな気もするけど……ま、いっか」
ワンピースを被って手を通しカーディガンを羽織ると、清彦は鏡の前に立った。
そこにはお嬢様然とした少女が笑みを浮かべている。
「うん、可愛いかも……って、これじゃ昨日と変わらないじゃないか……」
自分の姿に納得して一人頷いたところで、清彦ははっとした。
ため息と共にがっくりと力を抜き、身体が前のめりになるのを鏡の縁を持って支えた。
「色気なんて気にしないのに……」
清彦としてはスウェットの上下で十分だったが、双葉の感覚ではダメだったらしい。
双葉として振舞っていると、たまにある感覚のズレ。
鏡に映る自分の姿に頬を赤らめつつ体勢を立て直すと、清彦はふっと息をついた。
「仕方ない、か……」
双葉の感覚に任せる以上、多少のズレは許容するしかなかった。
「僕としてやるともっと大変なことになっちゃいそうだし……」
清彦として双葉の服を選び、自分に着せる。
想像するだけで清彦の胸は高まり、頬が熱くなった。
ふるふると首を振って頭から想像を追い出すと、鏡から離れる。
部屋の真ん中で一度深呼吸をして、目を閉じた。
落ち着くのと、さっき母親に言われたことを思い出すために。
「若葉と話さないと、ね」
目を開いてそう呟くと、清彦は部屋を出る。
若葉の部屋は、すぐ隣だ。
「若葉ー、居るんでしょ?」
ノックと共に呼びかけると、中からガタッと音がした。
「あぅ、痛い……」
かすかに聞こえるうめき声にため息をつくと、清彦はドアノブに手をかけた。
「……入るからね」
「ちょ、ちょっと待ってっ、まだ心の準備が」
「家族相手に何言ってるのよ」
言うなり扉を開くと、部屋にはすっぽりとタオルケットを被ったお化けが居た。
「……何やってるのよ」
「うぅ、待ってって言ったのに……」
清彦が呆れたような視線を向けると、お化けはベッドの上で恨めしそうにもぞもぞと動いた。
ベッドに近づき、タオルケットの端に手をかける。
「だめ、待って」
「待たない」
慌てて後ずさろうとするお化けを捕まえ、少々強引にタオルケットを剥ぐ。
中から現れたのは、双葉を2,3歳若くして髪をサイドテールにまとめたような少女だった。
「うぅ、さっきから強引すぎだよ……」
恨めしげに自分を見上げる少女──若葉に清彦の思考は一瞬止まった。
今の若葉の姿は、淡いピンクのスリップに下着だけというある意味危ういものだった。
成長途上なのか起伏には乏しいが、乱暴に触れると壊れそうな華奢な肩のラインがあらわとなっていて、
清彦は知らずにコクリと喉を鳴らしていた。
「お姉ちゃん?」
いぶかしげに自分をみる若葉にはっとして、清彦は慌てて双葉として口を開く。
「……っ、あんたまたそんな格好をして」
「だって、暑いんだもん」
「部屋だからって気を抜きすぎたらダメでしょ?」
「そういうお姉ちゃんだっていつも……あれ? どうしてそんな服着てるの?」
「え?」
「いつもスウェットかジャージなのに……」
「いいでしょ、たまには。気分よ、気分。そんなことより、ね、若葉」
思わぬ若葉の反撃に目を逸らしつつ、清彦は本題に入ろうとする。
「どうして今朝いなかったのよ」
「えと、それは……」
清彦が若葉の目を見て聞くと、今度は若葉が目を逸らした。
「朝錬が」
「あんた部活に入ってないでしょ」
「さ、最近入ったんだよ」
「そんなので騙されてあげられるほど、私は純粋でも優しくもないんだけど」
「うぅ……」
「何でそんなすぐばれる嘘を付こうとするかなぁ」
清彦が苦笑いを浮かべると、若葉は口を尖らせた。
「だって……」
「そんなに私と顔をあわせづらかったの?」
「そんなこと……うぅ……うん」
清彦がじぃっと目をみて聞くと、若葉は慌てて否定しかけ、視線に圧されたように頷いた。
「お母さんから聞いてないの? 若葉のせいじゃないって」
「聞いたの、ついさっきだもん」
「そっか。じゃあ改めて言うけど、ホントに若葉のせいじゃないの」
「本当?」
「本当よ」
「本当に本当?」
若葉のしつこさにやや辟易としつつ、清彦は呆れたように口を開く。
「どうしてそんなに疑うのよ」
「怖かったんだもん!」
「えっ」
「お姉ちゃん、喧嘩した次の日に居なくなったんだよ?
私のせいだって、このまま帰ってこないんじゃって考えただけで、怖くて仕方がなかったもん」
「若葉……」
その記憶は清彦にもあった。日曜日の夜に些細なことから口論になり、双葉が若葉の部屋から出て行った。
月曜日の朝は顔も合わせず、その日双葉は居なくなった。
若葉にしてみれば、喧嘩が原因と思うのは無理もないことなのかもしれなかった。
「そうだけど……そのせいじゃないの」
「じゃあ、どうして? どうして三日も居なくなっちゃったの? 電話も繋がらなかったし」
「それは……」
「私のせいじゃないっていうなら、教えてほしいの。お願い」
若葉の追求に、清彦は奥歯をかみ締めた。
言える訳が、なかった。
双葉はもう死んでいて、自分はその代理をやっているだけだなんて。
「……ごめん、言えない」
目を伏せ唇を噛み締めて、謝るのが精一杯だった。
下から覗き込むようにする若葉から、目を逸らす。
「どうしても?」
「どうしても。でも信じて、若葉のせいじゃないってことだけは」
なおもじっと双葉を見上げていた若葉が、ふと視線を外した。
「……お姉ちゃんがそんな顔するの、初めて見るね」
「え?」
「気づいてないの? 血が出るくらい唇噛んでるし、すごく辛そうなのに……」
「え、あ……」
若葉の言葉を受けて唇に指で触れると、ぬるっとした感触があった。
手を離すと、指先は赤く濡れていた。
「はい、これで拭きなよ」
「ん、ありがと」
若葉が差し出したティッシュを手に取ると、口に当てる。
気づくと同時に痛み始めた唇を優しく覆うようにしていると、若葉はため息をついた。
「はぁ、仕方ないなぁ……理由、聞かないでいてあげる」
「……ごめんね」
清彦が口を手で覆ったままもごもごと謝ると、若葉はいいよもう、と苦笑した。
「ちゃんと帰ってきてくれたし。もう、家を出て行ったりしないよね?」
その問いかけに、清彦は詰まる。
嘘はつきたくない。でも、これ以上傷つけたくない。心配させたくない。
「……うん」
結果として、清彦はあいまいに頷くことしか出来なかった。
その反応に思うところがあったのか、若葉は口を開きかけて、閉じた。
代わりに膝立ちになると、清彦に身体を寄せた。
「若葉?」
「ちょっとだけ、こうさせて」
「……うん」
清彦は戸惑ったものの、若葉の切実な声に、力を抜いた。
若葉は清彦の背中に手を回すと、ぎゅっと抱きついた。
「ホントに、怖かったんだから……」
「若葉……」
「もうやだよ、出て行っちゃ……」
肩口に顔を寄せて囁いた若葉の声は、震えていた。
清彦は少し躊躇し、挟まっていた手を抜くと、若葉の背に回した。
仕方、ないよね……。
ある種の諦めと共に、清彦は腹を括った。
「……大丈夫、もう勝手に出て行ったりしないから」
「本当?」
「本当よ」
優しく撫でながら囁くと、若葉が不安げに返してくる。
チクリと痛む胸を押し殺しつつ、清彦は淀みなく答えた。
「良かった……」
ほっとしたように腕を緩め、若葉が身体を離す。
「約束、だからね」
「うん、約束」
清彦はなんとか笑みを浮かべると、頷いた。
「じゃあ、ちょっとご飯まで勉強するから」
「うん、じゃあ」
心にもないことを言い、貼り付けた笑みはそのままに、若葉の部屋を出る。
早足で自室に戻ると、バタンと後ろ手に扉を閉め、鍵をかける。
「やっちゃった……」
清彦は扉に背を預けてすべるように、座り込んだ。
膝を抱え、顔を埋める。
果せないことが分かりきっている、約束。
傷つけるのを先延ばしにしただけでなんら解決になっていないことは、清彦にも分かっていた。
それでも、若葉の悲しそうな、辛そうな顔は、あれ以上見ていられなかった。
「私、死んじゃってるのに……」
解決したら、清彦を元に戻して消えるつもりだった。
生き返れるわけがないのだから、いずれはちゃんと知ってもらわないといけない。
それまでの繋ぎくらいの意識はあったのかもしれないが、あくまで、一時的なもののはずだった。
「どうしよう……」
それなのに、ますます打ち明けづらい状況になっていき、清彦は双葉として悩む羽目に陥っていた。
膝を抱えて蹲ったまま、清彦は考える。
死因が分かって、それに双葉が納得したらどうなるか。
今まで考えてもみなかった、「その後」のこと。
清彦に戻るのか、双葉の代理として生き続けるのか。
代理として生き続けるということは、この優しい家族を騙し続けることになる。
騙すのが嫌だからと打ち明けたとしても、受け入れてもらえるかは分からない。
いくら記憶があってそれらしく振舞えるとはいっても、紛い物には違いないのだから。
自分を紛い物だなんて認識するのは楽しいことじゃないけれど、と思いつつ、清彦は嘆息する。
双葉でいようとすると、どうしても、無理が出てしまいそうだった。
「でも、僕は僕に戻っても……死にたがってた人間だし……」
清彦の立場から考えても、わざわざ自分に戻るのは、という思いがあった。
そもそもが、死のうとして双葉に拾われ使われているようなものだった。
清彦に戻っても、また勝手に死のうとするかもしれない。
少しくらい前向きになったとはいえ、その可能性を否定できるほど清彦は自分を楽観視できなかった。
「結局、出口がないよね……」
続けるにしても、終えるにしても。
清彦の悩みは解決の兆しすら見えないままに、一葉が晩ご飯を呼ぶまで堂々巡りをしていた。
晩ご飯は、家族4人が食卓を囲んでのものだった。
和明は仕事が終わってすぐに職場を出たらしく、7時には家に帰ってきた。
「お母さん、張り切りすぎじゃ……」
「だよね……」
清彦と若葉が若干呆れるほど、大量の料理が食卓に並んでいる。
「食べきれるかな」
「お姉ちゃんのせいなんだから、いっぱい食べてよね」
「えー、太っちゃうじゃない」
「お姉ちゃん、細いんだから少しくらい大丈夫でしょ?」
さっき話が出来たせいか、若葉は普段どおりの様子に戻っていた。
その様子にチクリと刺すものを感じつつも、清彦は他愛ない会話を続ける。
「そんなこと言うなら、若葉だって成長期なんだからちゃんと食べないとダメじゃない」
「えー、これじゃ量多すぎだもん」
「そんなことないわよ? 私が若葉くらいの頃、これくらいは食べてたし」
「お母さんは運動部だったんでしょ? 私はそうじゃないもん」
一葉が更に料理を持ってきて加わると、若葉は不満げに頬を膨らませた。
「食べ切れないと思ったらこっちに置いてくれたらいいから、さ」
「あなたは食べ過ぎないでね。太っちゃうと色々大変だし」
「う、ごめんなさい」
救いの手を差し伸べたつもりの和明だったが、一葉に釘を刺されてすんなりと引っ込んだ。
その様子にくすりと笑いつつ、清彦は椅子に背を預けた。
これが、数日前まで当たり前だった、森下家の晩ご飯の様子。
「……いいな」
「え?」
「ううん、なんでもない」
清彦は、一家団欒の体現のような様子に、素の清彦として羨ましさを感じていた。
双葉として偽ったまま生きるなら、これが自分にも当たり前のものとなる。
惹かれる部分は間違いなくあるものの、この両親や妹を騙すのは忍びないものだった。
「お姉ちゃん?」
「え?」
「どうしたの、ぼうっとして」
「ちょっと、考え事。気にしないで」
「ふぅん……」
若葉は納得していない様子だったが、一葉が席につくと、料理に向き直った。
「「「「いただきます」」」」
声をそろえて、箸を持つ。
おいしいはずの料理が総じて少し苦く感じるのは、清彦の内心によるものか。
他愛ない話をしつつも、清彦の心は悩みの方へと向きがちだった。
今は考えない、と割り切ろうとしても、そのタネが周りに居ては難しい。
「……ごめんなさい、ちょっと食欲がないみたい」
箸を置き、清彦は謝った。
目の前の料理は半分以上残っているものの、もうのどを通る気がしなかった。
「そう、なら無理しなくていいから。お父さんと若葉に食べてもらいなさい」
「仕方ないなぁ、太ったらお姉ちゃんのせいだからね」
「ごめんね」
申し訳なさそうにする清彦を気遣うように和明と若葉が箸を進め、晩ご飯はそれでお開きとなった。
食事の後、せめてと洗い物を手伝おうとする清彦を一葉は止めた。
「今日はいいから、お風呂入ってきなさいな」
「でも……」
「そんな調子じゃ、お皿を割っちゃいそうだもの。しっかり休んで、明日から手伝ってね」
「……うん、分かった。ごめんね」
むずがるように食い下がった清彦だったが、重ねられた言葉に仕方なくという風に頷くと、リビングを出た。
階段を上がり、部屋に入る。
「はぁぁ……」
大きく息を吐き、清彦は座り込んだ。
ちゃんと考えれば考えるほど、どうすればいいか分からなくなっていた。
自分が家族を騙しているという事実は、どうあっても消えるものではない。
それならせめてその間くらい、心穏やかに過ごしてほしい。
そんな思いも、清彦にはあった。
それに、自身を打ち明けることでそれが崩れるんじゃないかと思うと、怖くもあった。
打ち明けずにずっと双葉でいるなら、苦しむのは自分だけで済むかもしれない。
それなら黙って双葉を演じ続けるほうがまだ、との考えも、清彦には浮かんでいた。
ただ、騙すことそれ自体と、双葉から『森下双葉』を奪ってしまうことに、清彦は躊躇していた。
双葉のことが解決した後、双葉自身がどうなるか、どうしたいかは清彦には分からない。
「私だったら、どう思うのかな……」
双葉として考えてみても、あまりに特殊な状態に、自分の心の動きがピンとこない。
一度清彦に全てを託しているのだから、気にしないような気もするし、自分に執着してしまいそうな気もした。
「うーん……考えてもピンとこないし……やっぱり今考えても分からないのかなぁ」
呟き、首をひねる。
先ほどから何度かそう考え、悩むのをやめようとするときもあったが、すぐにまた戻ってしまっていた。
「……とりあえず、お風呂入ろう」
一葉から言われていたことを清彦が思い出したのは、部屋に戻ってから十分ほども経ってからのことだった。
お風呂の準備をして洗面所に行く途中、清彦はトイレに入った。
スカートをまくり上げ、下着も一気にずり下ろす。
装着していたナプキンを取り払い、丸めて隅に置いてあるゴミ箱に入れる。
押し当てていた部分の湿り気がなくなっていることを指で確認し、清彦は少しほっとした。
そうして下着とスカートをはき直すと、清彦はトイレを出て洗面所に向かった。
髪をまとめて軽くお湯を浴びると、ゆっくり肩までつかる。
「はぅ……」
暖かいお湯に包まれて、心も身体も緩んでいく。
「お風呂って、こんなに気持ち良いものだったっけ……」
ポツリと漏らし、清彦はあれ?と思った。
双葉なら、そんなことは言わない、ような気がした。
ぼうっと考え、視線が自然と下を向く。
「うぁっ」
お湯越しにピンク色の突起が見え、清彦は慌てて顔を背けた。
「緩めすぎだよ……」
清彦は、いつの間にか素に戻っていた。
双葉を演じている間はなんてことのない自らの身体も、一度清彦として意識してしまうと鼓動を早める材料にしかならない。
「うぅ……」
頬を赤らめ、天井を見上げてなるべく自分を見ないようにする。
それでも、ちょっとしたお湯の流れですら自分のカタチを意識してしまい、清彦は身動きが取れなくなっていた。
耳に響くほどに鼓動が、大きく、早くなっていく。
頭がぼうっとし、清彦は痛いほど高鳴る胸を無意識に押さえようとした。
「ひゃぅ」
ふよんと柔らかなが返って来ると同時に胸に刺激を感じ、清彦は声をあげた。
はっとして見ると、右手で左胸を押しつぶすようにして、押さえていた。
「あ……」
それを認識した瞬間、清彦は耳の奥でぷつんと糸が切れるような音がしたような気がした。
双葉の仮面を被ることも忘れ、自身の胸元をじいっと見る。
胸を押さえている手を、ゆっくりと動かす。
「や、ぁ……」
手のひらに突起がこすれ、清彦は思わず声を漏らした。
その声の艶っぽさに、自分がそんな声を出したということに、清彦は蕩けていった。
胸の高鳴りは強まるばかりで、手のひらでそれを感じ取れるほどとなっていた。
「だめ、なのに……」
清彦の手が、もぞもぞと動く。
先端を擦るように円を描き、形を変えてゆく。
その様に、清彦は目が離せなくなっていた。
「あ、あっ」
先端に刺激を感じるたびに漏れる声に高まりを感じつつ、求めるままに手を動かす。
そんなときだった。
天井からぽたりと落ちてきた雫が、俯き加減となっていた清彦の首筋に落ちてきたのは。
「ひゃんっ」
一際高い声をあげ、清彦は肩を跳ね上げた。
きょろきょろと辺りを見渡し、胸元を見て、慌てて手を下ろす。
文字通り水を差されて頭が冷えたのか、呆然と手元を見ている。
「あ、あああ……」
やってしまった。
その思いが、清彦を占めていた。
頭を抱えて小さくなろうとしたところで、視界に桃色のものが見えて、清彦は慌てて上を向く。
「はあ、嫌になりそう……。でも途中で止まれて良かった、のかな……」
自己嫌悪に苛まれつつも、最後までやりきらなかったことに清彦は妙な安心をしていた。
素の自分として自ら望んで最後までいってしまったら、双葉に会わせる顔がない、と思っていた。
双葉を演じ、双葉として双葉の身体に接すれば、そうはならない。
双葉が聞いたら呆れてものも言えなくなりそうなものだが、清彦としては真面目にそう考えていた。
だから、今更ながらも目を瞑り、双葉の仮面を被った。
「ヘタレも度が過ぎると腹立たしいんだけど……」
目を開いてポツリと呟いた言葉は、双葉としてのものだった。
双葉として考えると、清彦の振る舞いは理解が出来なかった。
「据え膳を前にして敵前逃亡って……それも自分で盛り上げておいて」
中途半端に盛り上げられた身体は、今もまだ疼いている。
どうしてくれようと考えつつも、我慢するのが少し辛いほどの状態だった。
「仕方ないなぁ……」
結局清彦は、双葉としてそれを静めるしかなかった。
せめてと当てつけがましく、呟く。
「清彦君がヘタレだから、イケないんだからね」
湯船からあがり洗い場で椅子に座る。
素に戻ったときに真っ赤になるくらい、やっちゃおうかという考えが首をもたげてくる。
そして、それを止めるものは、誰もいなかった。
身体の疼きを洗い場で解消してすっきりしたあと、清彦は髪と身体を丁寧に洗って、風呂場から出た。
バスタオルで水気を軽くぬぐいドライヤーで髪の毛を乾かして、櫛を通す。
引っかかりもなくすとんと櫛が落ちることに納得して、清彦はパジャマに腕を通し自室へと向かった。
扉を後ろ手で閉めて、なんとなく鍵をかける。
ベッドに腰を下ろしてぼうっと天井を見上げていると、先ほどまでの痴態がふと蘇ってきた。
「あー……やりすぎちゃった、かな……」
赤くなった頬をかき、頭に浮かび上がったそれから目を逸らす。
素に戻ったとき清彦の感性でどう感じるかが不安になるほどに、盛り上がってしまった。
半端な状態でバトンを渡されたことと、それ以上に清彦に対する不満をぶつけるように。
「何事もなければいいんだけど……まぁ、いっか。せいぜい恥ずかしがれば良いと思うし」
役に入りすぎるという訳ではないだろうが、今の清彦は双葉として清彦を客観的に見ていた。
そのせいか、清彦がこれからどうするか、人事のように楽しんでいる節があった。
「さてと、時間も早いし、ちょっとくらいは勉強しないと……」
時計を見ると、まだ9時半だった。
清彦は勉強机に向かうと、鞄を開ける。
丸三日分の遅れを取り戻そうと、教科書やノートを取り出す。
「意味ないのかもしれないけど……とりあえず、しないよりはいいよね」
もう死んでしまって、ここにはいないはずの双葉として勉強を積み重ねる意味は、清彦には分からなかった。
それでも今は、双葉がやってきたように自分もと思い、シャープペンシルを手に持つ。
「よし、がんばろ」
数学の教科書の練習問題のページを開くと、軽く気合を入れて清彦はシャープペンシルを走らせた。
「ふー、こんなもんかなぁ……思ったより時間かかっちゃった」
清彦が椅子に背を預けて息をついたときには、時計の針は十一時を指していた。
机に広がった教科書やノートを片付け、鞄にしまいかけて、ふと思い出す。
明日は土曜日、双葉の通う若草女学院は午前中だけの所謂半ドンだ。
時間割を思い出して、清彦はいくつかの教科書類を抜く。
「英語はあるはずだよね、うん」
何かあると踏んでいる、三ツ和の受け持ちの授業だ。
授業がないと接点を作るところから考えないといけないが、その点は大丈夫そうだった。
「まぁ、明日見て、それからなんだろうけれど……これでよしっと」
中身を整えて鞄を閉めると、清彦は立ち上がった。
髪を緩く編み、身体の前に持ってくる。
まだ少し早い時間だが、清彦は寝るつもりのようだった。
部屋の電気を消し、布団にもぐりこむ。
「じゃ、あとはよろしく」
よく分からないことを呟いて、清彦は目を閉じた。
すうっと身体の力を抜き、寝る姿勢に入る。
途端に、清彦はぱちりと目を開いた。
「う……ぁ……」
暗闇に隠れているが、その頬は真っ赤に染まっていた。
布団を深く被り、膝を抱える。
「ひぅっ」
くぐもった声をあげ、清彦は抱えた膝を離す。
どうやら膝で胸を押してしまったようだった。
寝ようとして気を緩めた瞬間に素に戻った清彦は、お風呂に入ってからの記憶に悶えていた。
双葉として振る舞い、自分とは別人であるかのような言い草で一つ一つを意識させるように刻みながら自身を弄る、自分の姿。
その様子を克明に思い出し、否応なく清彦の鼓動は高まった。
「うう……これ、キツイよ…」
真っ赤にしてやる、というそのときの清彦の、いや双葉の作戦は、大成功といって良い状態だった。
自身に刻まれている記憶からは、そう簡単には目を逸らせない。
気を張って双葉の仮面を被れば何とかなるのかもしれないが、ずっとそうするのは苦しい。
かといって素の清彦では、記憶を受けきれない。
思い出すだけでこの体たらくだ。それを消化するには、相当の時間が必要になりそうだった。
「これじゃ、寝られないよ……」
気を張っていたら、寝られない。気を緩めていると、お風呂場での出来事に心がオーバーヒートして、寝るどころではなくなる。
どちらに転んでも、清彦は今晩、ぐっすりとは寝られそうになかった。