「ん……ぅ……」
清彦がうっすらと目を開いた。
もそもそと身体を動かし、ベッドの上で起き上がる。
「ふぁ……ねむ……」
大きく欠伸をして、ぼうっと視線をさ迷わせる。
清彦が住んでいるはずのワンルームマンションの一室、ではなかった。
「ここ、どこ……え?」
自分の声に違和感を感じ、のどに手を当てる。
そこにあるべきのど仏の感触がなく、指はすんなりとのどをなぞった。
そのままの勢いで手を下ろしていくと、ふに、という感触と共に、指が何かにぶつかった。
「え……っと?」
まだ寝ぼけているのか、清彦はゆっくりした動作で自身の胸元を見た。
そこには、小ぶりなものの男にはありえない膨らみがあった。
「何、これ……あ」
ぼんやりとそれを見つめ、清彦はぼうっと考える。
女物のパジャマに包まれた膨らみと、それに添えられるように置かれた細い指、小さな手。
「そっか、僕、双葉ちゃんなんだ……」
徐々に覚醒していく意識の中、ようやく清彦は自身の状態を認識したようだった。
手を開いたり閉じたりしつつ、顔を上に上げる。
記憶にもある、双葉の部屋だった。
清彦はベッドから降りると、鏡の前に立った。
そこには眠そうな顔をし、髪の毛を緩く編んだ双葉の姿が映っている。
「うん、そうだよね」
自分の姿を再確認して、寝ぼけた頭で理解した清彦は、時計を見た。
時刻は7時前、身体が覚えているのか、双葉にとってのいつもどおりの起床時間だった。
その割りに眠すぎるような、と考えて、原因に思い至る。
「あ、ぅ……」
目を見開いて頬を瞬時に赤く染めた清彦は、言葉にならない声をあげた。
脳裏に浮かぶのは、昨日の夜のお風呂場での出来事。
双葉の仮面を通して自らに刻み込まれた、双葉の痴態。
気を張って双葉としてそれを捉えている分には何もなくとも、眠気で気が緩んで素の清彦が浮かび上がった途端に、意味が変わる。
思い浮かべては赤くなり、双葉として気を張ることで心の平穏を計ろうとして、眠気に緩んでまた思い浮かべてしまう。
そんな繰り返しで全く寝ることが出来ず、気を失うように意識が途切れたときには、もう明け方となっていた。
そのため、清彦はほとんど寝られていなかった。
「と、とりあえず着替えないと」
今もまた脳裏に浮かんだそれを、頭をふるふると振って振り払いつつ、清彦は目を閉じた。
ふっと息を吐いて、目を開く。
「作戦としては成功なんだろーけど……ねむ……」
欠伸をかみ殺して動き出した清彦は、双葉として動き出した。
箪笥から必要なものを取り出し、身に着ける。
眠気に鈍る身体を叱咤しつつ、制服を身に着け、髪の毛を梳いていく。
いつもより五分ほど余計に時間をかけつつも、なんとか清彦は身だしなみを整えた。
未だ働ききっていない頭をそのままに、鞄を取って下へと降りる。
洗面所に寄って顔を洗ったところで、少し目が覚めてきた。
タオルで水気をぬぐい、一息ついてリビングへと向かう。
そこには双葉以外がもう揃っていた。
今日は若葉もいて、双葉に気づくと声をかけてくる。
「あ、お姉ちゃん、おはよう」
「おはよ、若葉。お父さんも」
「ああ、おはよう」
読んでいた新聞を折りたたみ、和明は挨拶を返す。
そこに一葉がお皿を持ってやってきて、森下家の朝食は始まった。
朝食の時間は穏やかに過ぎ、清彦が学院へと登校する時間になった。
朝食は、清彦もちゃんと食べることが出来た。
そのことに家族はほっとしていたように見えたのが、清彦の胸をチクリと刺していた。
今考えても仕方がないとはいえ、時折刺し込んでくる痛みはどうしようもないものだった。
せめてと顔に出さないよう努めて、清彦はローファーを履いて家を出る。
清彦の認識がある状態での、初めての学院。
素に戻ったときがまた大変かもと思いつつも、面白いからいいかなと今の清彦は考えていた。
その辺り、双葉の仮面をつけているときの清彦は、素の清彦に対して優しくはないようだった。
学院についた時間は昨日より少し遅く、教室には生徒が半分くらいはいるようだった。
夕菜はまだ来ていないが、良枝たちは良枝の席に集まっておしゃべりに興じている。
清彦が入ってきたのに気づくと、挨拶を交わしてまたおしゃべりに戻る。
昨日は四日ぶりというのがあって近づいてきたが、元々はこの距離感だ。
仲は良いがいつも一緒というわけではないし、わざわざ話を切ってまで、というのはあまりない。
普段通りというのは、今の清彦にとって助かるものだった。
これなら何事もなくいけるかな、という淡い期待を浮かび上がらせる。
清彦は席に着くと、鞄を開いて中身を机の中に入れ、ぼうっと正面を見た。
正面の天井付近にある時計を見ると、あと十分で予鈴の時間だ。
思い返してみると、眠いときにはたまに予鈴の時間まで机につっぷしていることもあった。
じゃあいいかなと思い、清彦は腕を枕にして机に伏せると、目を瞑るのだった。
最低限気を張って素を出さないようにしつつ外界を遮断していた清彦は、予鈴の音に顔を上げた。
「はー、間に合ったー」
ほぼ同時に教室に走りこんで来た夕菜が、昨日と同じことを言いつつ膝に手を置いて息をついている。
夕菜は一息ついた後とてとてと席に向かい、鞄を置くと清彦の方へとやってきた。
「双葉ちゃん、おはよう。なんか眠そうだけど、どうしたの?」
「おはよう。ちょっと上手く寝られなくって。あんたはやたら元気そうね。肌もつやつやだし」
「そうかなぁ? そんな事ないと思うけど……そだ、双葉ちゃんが昨日学校にきてくれたからだよ」
小首を傾げ、夕菜は臆面もなくのたまった。
清彦はため息をついて横に立つ夕菜を見上げた。
「またそんなこと言って……ただでさえ百合っぽいだとか言われてるのに」
「えー、いいじゃない。私双葉ちゃん大好きだもん」
「だーもう、くっつくな」
座っている清彦の後ろからべたっとくっつく夕菜を肩で振りほどきつつ、清彦は立ち上がった。
「あぁん。もう、つれないんだからぁ」
「だからそうやって誤解招くような言い方をしないでって言ってるでしょう? もう……」
呆れて呟く清彦に、夕菜はにこにこと笑うばかりだった。
授業は四時間目、英語の時間となった。
前の三つの教科は昨晩勉強をした甲斐もあり、つつがなく進んだ。
今日は半ドンでこれが最後の授業。三ツ和が気になる清彦には、好都合だった。
昨日同様、三ツ和はふらつきながらも何とか授業を進めている。
元々新任のためか性格のためか、遠慮がちでおどおどした様子の目立った先生だったが、
昨日から途中チョークを取り落としたりコケかけたりと、いつも以上に頼りない。
そんな三ツ和を、清彦はじっと観察していた。
疲れてるだけ、って感じじゃないよね、クマも酷いし……。
そんなことを思いつつも、ノートをとっていく。
やっぱり本人に聞いてみないと、分からないかな。でもちょっと怖いな……。
自分の死因に関わりがあるかもしれない、と考えただけで、恐怖心は沸いてくる。
私を見ても何にも反応ないし……違うのかな。でもやっぱりおかしいのはおかしいし、時期も一緒みたいだし。
「うーん……」
小声でうなりつつ、清彦は迷っていた。
三ツ和に聞いてみるべきか、聞かないべきか。
様子だけ見ていたら、三ツ和は間違いなく怪しい。
双葉が死んだ時期と、変になった時期も一致している。
ただ、双葉の姿を見ても何にも反応がなかったのが気にかかった。
もし双葉が死んだことに関係しているなら、何かしらの反応があっていいはずだ。
聞いてみたら分かるのかもしれないが、相手は自分の死因に関係しているかも知れないと考えると、怖さはある。
まぁ、学校の中なら大丈夫かな。私が縛られてるの、あそこだし。
躊躇いつつもそう結論付けて、清彦は心を決めた。
授業終了のチャイムが鳴ったのは、そのすぐあとだった。
「じゃあ、今日はこれで。日直さん、お願いします」
教壇で身体を支えながら生徒に促し挨拶を終えると、三ツ和は教室から出て行こうとした。
あ、急がないと。
脳内で会話を少しシミュレーションしつつ、清彦は後ろの扉から廊下に出た。
前の扉から廊下に出てきた三ツ和を見つけると、清彦はよし、と腹を括った。
「先生」
呼び止められると、三ツ和は清彦に向き直った。
片手を壁につき、やはり辛そうにしている。
「森下さん、どうしたんですか?」
「後でお聞きしたいことがあるんですけど、構いませんか?」
「えっと……ここじゃダメなんですか?」
「はい」
コクリと頷くと、三ツ和は難しそうな顔をした。
どうしたものかと考えているのだろうか。
「あんまりお時間は取らせませんから」
「じゃあ、いいですけど……」
清彦が言葉を重ねると、三ツ和はその真剣さにほだされたのか、曖昧に頷いた。
それを追うように、清彦は続ける。
「ありがとうございます。じゃあ、三十分後に職員室に行きますから」
「ええっと……はい、分かりました。でもどうして」
「それは……そのときに話します」
「……分かりました。では、後ほど」
三ツ和は頷くと、きびすを返して立ち去っていった。
「これで、いいかな……」
清彦はほぅっと息をつくと、教室に戻ろうとした。
ところで、声をかけられた。
「双葉ちゃん、三ツ和先生が好きなの?」
「は?」
声のした方向を見ると、夕菜がじいっと清彦の方を見ていた。
寂しそうに見えるのは、清彦の気のせいだろうか。
「だって、あんなに真剣に逢瀬の約束をして」
「逢瀬って何っ、ただ聞きたいことがあっただけだって」
「本当?」
「本当よ」
何かと誤解を招きかねない言葉を使いたがるこの親友は、いつも双葉の頭痛のタネだった。
ため息混じりに否定をすると、夕菜はほっとしたように笑う。
「よかったぁ」
にへらっと幼く笑う姿に、清彦はまぁいいかと思いつつも、もう一つため息をつく。
「相変わらず、あんたは良いキャラしてるよね」
「何のこと……って、いたっ」
小首を傾げる夕菜にペシリとデコピンを浴びせて、清彦は教室へと入っていった。
「もう、双葉ちゃんの意地悪」
頬を膨らませつつ、夕菜もそれを追いすがるように教室へと入っていった。
清彦が職員室に入ると、目当ての三ツ和は席でお茶を飲んでいるところだった。
「先生」
「森下さん……」
「いいですか?」
「じゃあ、あそこで構いませんか」
三ツ和が指した一角は、仕切りで区切られた簡易な会議室のようなところだった。
外からは仕切りで見えず、声もトーンを下げれば他の音に紛れてしまうだろう。
「はい」
そんな風に考え、清彦はコクリと頷いた。
三ツ和は立ち上がり、そちらに向かう。
ふらつきながら歩く三ツ和についていくように清彦も歩いていった。
仕切りの中に入ると、清彦が思っていた以上に隔離されているような感じになっていた。
これなら大丈夫かなと思いつつ、設けられていたテーブルに向かい合わせで座る。
「何かお話があるとのことでしたけれど……どういったことで?」
「ええっと……」
少し迷うそぶりを見せ、清彦は話を切り出した。
「先生は……その、大分辛そうにされていますけど、どうしたんですか?」
「ああ、これは、ええっと、最近上手く寝られてないんですよ……。それだけです」
そんなにハキハキと話すほうじゃないのは分かっていたけれど、と思いつつ、清彦は三ツ和の様子を伺う。
相変わらず青白い顔で困惑したように眉根を寄せている。
呼び出された意図が分からないからだろうか。
記憶にあるものより歯切れの悪い口ぶりに、もう少し聞いてみようと清彦は考えた。
「そうなんですか。最近って、いつからですか? 火曜日くらいからだって聞いてますけど」
「そう、ですね。それくらいです。えっと、何の話をしたいんですか?」
「私が知りたいのは、先生がどうしてそうなっているのか、です」
「えっと、それはもうお話しましたよね?」
三ツ和は困ったように頭をかいた。調子が極端に悪そうなのを除けば、あまり不審な様子は見られない。
「ただの寝不足なんですか? それだけでそんなに?」
「え、ええ。昔から、すぐ響いちゃうんですよ」
一瞬引きつったように頬がピクリと動いたのを、三ツ和の様子をじっと見ていた清彦は見逃さなかった。
やっぱり、何かあるんだ。
そう確信して、本命に切り込むことを決めた。
「そうなんですか。今のと関係ない話なんですけれど……いいですか?」
「え? はい……なんですか?」
清彦は、じっと三ツ和の目を見て、問いかける。
「先生は月曜日の放課後、どこで何をされていたんですか?」
「っ!」
三ツ和は目を見開き、硬直した。
その様子に、清彦は確信する。
この人は関わっている、と。
そんなときだった。
「三ツ和先生、おられますか? お電話なんですが……」
職員室に響く声に、三ツ和ははっとした様に立ち上がる。
「すみません、電話がかかってきたみたいなんで、失礼します」
「あ、はい。ありがとうございました」
逃げるように去っていく三ツ和の背を、清彦はにらみつける様に見送った。
「絶対、なんかあるよね」
一人呟きつつ教室に戻ると、中にはほとんど生徒は残っていなかった。
土曜日の放課後、せっかくの半ドンの日に、わざわざ学院に残るのはよほどの物好きだけのようだった。
その物好きの一人に、清彦は背後からそうっと近づいた。
「没収」
「ひぅっ」
耳元で囁くと、携帯を触っていた少女は飛び上がらんばかりに驚いた。
恐る恐る後ろを向く。
「ふ、双葉ちゃん? 酷いよぉ、ホントにびっくりしたじゃない」
「こんなとこで携帯いじるあんたが悪い」
「うぅー……」
清彦がばっさりと切り捨てると、夕菜は恨みがましく清彦を見上げてくる。
そ知らぬ顔で、清彦は続ける。
「で、待っててくれたんだったら、一緒に帰る?」
「双葉ちゃんが同伴出勤してくれるの!?」
「だからどうしてそう変な言い方するのよ! 大体出勤って、帰るだけでしょうが」
「あぅ、痛いよ」
ごん、とこぶしを落とすと、夕菜は涙目になった。
「そんなに強くしてないでしょう?」
「だってぇ、愛しい双葉ちゃんにされちゃったら、痛みも気持ちよさも三倍だもん」
「……ちょっとは心配したってのに、この子は。気持ちよさって何よ……」
呆れたようにため息をつき力を抜く清彦を他所に、夕菜はにへらっと笑う。
「教えてほしいの?」
「いらない。で、帰るの?」
「あぅ、つれないよぉ。最初はそのつもりだったんだけど……用事があるの忘れちゃってたの」
「それじゃなんで残ってたのよ」
「双葉ちゃんとしゃべりたかったから」
「そーいうことを臆面もなく言うから、私にどつかれるんだって分かってるのかな、あんたは」
「ホントのことなのに」
「はいはい、じゃあ、私は帰るから」
「うん、ばいばい、双葉ちゃん」
手を振る夕菜を横目に、清彦は鞄を持ち教室を出た。
向かう先は、今日も同じだった。
湖畔につくと、清彦はきょろきょろと辺りを見回した。
都合のいいことに、見える範囲に人はいない。
この辺かな、という感覚に従って寄っていくと、うっすらと双葉の影が見えた。
あれ、見える?
風景に溶け込むように透き通ってはいるが、清彦の目には双葉の姿が捉えられていた。
双葉はぼうっとうつろな表情で空を見上げている。
「双葉ちゃん?」
「え? あ、清彦君。あれ、なんで? なんで見えてるの?」
声をかけると、双葉はきょろきょろと辺りを見回し、清彦を見つけた。
目をしぱたかせ、小首を傾げながらも向かい合う。
「わかんない。なんとなくここかなって思って近づいたら、見えたんだ」
「ふぅん、変なの。なんか繋がりでも出来ちゃってるのかな」
「そうかも」
「ま、理屈はどうでもいっか。それより、素なんだ」
「え? あー……一日ずっと『双葉』を続けるの、結構しんどいんだ。だから、ね。
『双葉』でいても気を緩めすぎると素が出ちゃうから怖いんだけど……」
「ふぅん、そういうこと」
「何……? 目が怖いんだけど……」
双葉はにやっと笑って清彦を面白そうに見た。
それを見て、清彦は一歩後ずさる。
「ううん、なんでもないよ。ただ、それだったらベッドの中で大変だったんだろうなーって思っただけ」
「なっ!?」
「あはは、赤くなった。分かりやすいよね、清彦君は」
「ひどいよ、全然寝られなかったんだからね、君のせいで……」
「私のせいって、どういうこと?」
「君が昨日あんなことするから……」
「あんなことって、どんなこと?」
面白がるように聞く双葉に、清彦はため息をつく。
「またそうやっていぢめるし……」
「だって、あなた面白いんだもん」
「ひどいよ……」
「ごめんごめん。もうしないから、ね?」
頬を膨らませてプイと横を向く清彦をとりなすように双葉が近づく。
「とりあえず、今までのこと、教えて?」
「……うん」
渋々、という感じで清彦が頷き、双葉が距離を詰める。
清彦が目を瞑りあごを上げたのにあわせ、双葉も目を瞑って唇を重ねる。
最初はついばむように、徐々に口を広げ角度を変え、舌を差し入れて深く。
絡み合う舌と唾液に乗せた記憶を双葉は受け入れ、刻んでいく。
三十秒ほどでどちらからともなく離れ、清彦は目を開いた。
双葉は未だ目を閉じ、自身に刻まれた記憶を思い返しているようだった。
「ふぅ、ん……」
それから十五秒ほどでぱちっと目を開き、双葉は清彦を見る。
「ヘタレ」
「いきなりそれっ!?」
開口一番に双葉の突きつけた言葉に、清彦は動揺する。
「だって……お風呂のこと、ヘタレ以外の何だって言うのよ」
「そんなこと言われたって、あれ以上はダメだって」
「何がダメなのよ……何度も言ったと思うんだけど。私は構わないって」
「僕が構うよ……」
清彦の相変わらずな様子に、双葉は深くため息をついた。
半眼で清彦を見据え、言葉をぶつける。
「据え膳前にして敵前逃亡された女の子の気持ち、分かってないでしょ」
「う……」
「自分でお膳立てして、さぁどうぞ召し上がれって覚悟まで決めたのに、相手が逃げるなんて」
「だ、だって……」
「だってじゃない。それって、私が惨めになるんだからね」
「うう……」
「だからあの後、私は思いっきりやっちゃったんだと思うし。あれは清彦君のせい」
「そんな……だってあれは」
「言い訳しないで」
「うぅ……ごめんなさい」
ぴしゃりと言い放つ双葉に、清彦は謝るしかできなかった。
「もういいけど……ね。他のことも考えないといけないし」
「う、うん……」
もうひとつため息をつき、双葉は思考を巡らせた。
終わったあとのことと、三ツ和の様子。
とりあえずはその二つが、双葉の気になったところだった。
「終わったあとのことなんて私も考えたことなかったし、いまいちピンとこないのはあるけど」
「でも、考えないといけない、よね」
「そうなのよね、どうしよう……私としては、あなたがずっと私として生きてくれても良いって思っちゃうんだけど」
「ええっ、でもそれは」
「うん、お母さんたちを騙すようなことになりかねないのは分かってる」
清彦の言葉を遮るように、双葉は言葉を重ねた。
その口の端が、苦く歪む。
「でも、そうするしかないよ。お母さんたちの前から『双葉』を消さないためには。
私はもう、死んじゃってるんだから」
「双葉ちゃん……」
「私だってそんなことはしたくないけど、他に方法思いつかないよ……」
「そう、だね……」
「だから、ね。あなたが良いって言ってくれるなら、お願い、出来ないかな?
一方的に巻き込んでおきながら、勝手なこと言ってるのは分かってるけど、他に方法が……」
双葉の懇願に、清彦は眉根をよせ、困ったような顔をした。
自分というより、双葉とその家族のことを考えて。
「……僕は自分を捨てようとしてたんだ。だからそこに未練はないと思うけど……。
やっぱり、騙すのは辛いよ。他に方法ないか、もっと考えたいよ……」
「そっか……うん、そうだね」
清彦の言葉に、双葉は頷いた。
それが出来たら、という思いは変わらないが、双葉はそれを諦めてしまっていた。
これ以上求めてどうにもならなくなるよりは、せめて家族だけでも傷つけないようにしたい。
既に死んだ身からの願いとしてはそれすら贅沢で、上を目指す、という風には考えられなかった。
一方の清彦は、双葉の家族と暮らす幸せとそれを騙す辛さに、苛まれていた。
見知らぬ男が娘の代理として娘として生きる。
こんな歪んだ状態が正しいわけがなく、どうにかして双葉を双葉として存在させられたら、という思いがあった。
だから、こんな発想が生まれたのかもしれない。
「ねぇ、ちょっと思いついたことがあるんだけど、試していいかな」
「え?」
清彦に声をかけられたとき、双葉は思考に沈んでいた。
「試したいこと。多分すぐ済むと思うから」
思考を浮かび上がらせる言葉に、双葉は顔を上げる。
「何……?」
「ちょっと、目を瞑ってくれると嬉しいかも」
「えっ……と?」
困惑する双葉の肩に、清彦は軽く触れる。
昨日、自分が引っ込んでいる間に行われたことを思い出し、自身に置き換える。
清彦の顔が近づくにつれ、双葉の顔がこわばる。
それでも、避けたり押し返したりすることはせず、言われたとおりに目を瞑る。
本日二度目のキスは、清彦からのものだった。
軽くついばみ、すぐに双葉へと舌が差し入れられる。
「んんっ」
思わぬ積極性に、双葉がうなる。
それを眺めつつ、清彦は思う。
こうかな、と。
自分の中にあるものを集めて、文字通りの口移しで双葉に送り出すようなイメージ。
すうっと血の気が引いていくのを感じながらも、自身の一点に集めた力の塊を舌に乗せる。
唾液と共に双葉へと送り出すと、引っ込んでいた双葉の舌が恐る恐るという感じで清彦のそれに絡んできた。
双葉の喉が、コクリと動く。飲み込んだようだった。
その瞬間、双葉がぱちりと目を見開いた。
慌てたように清彦の肩を突き飛ばし、口をぬぐう。
「なにしてるのよ!」
尻餅をついて自身を見上げる清彦に、双葉は怒鳴った。
清彦はどこか淡々と、双葉に答える。
「何って、ちょっとした実験……だよ」
「そうじゃない! あなた今、私に……」
「昨日やってたのを応用できるかなって思って。上手く出来るかわからなかったけど、その様子なら出来たんだね」
実験の成功を喜ぶ子供みたいに笑う清彦。
その姿に、双葉はかっとなった。
「ふざけないで! こんなに生気渡したら、あなたがどうなっちゃうかわからないでしょうが」
「ふざけてなんか、いないよ……」
双葉が怒る分、清彦は静かに答える。
「双葉ちゃんが『双葉』として戻れるのが、一番なんだから。
生気があれば、もしかしたら出来るかもしれないでしょ?
だから、試してみるのもいいかなって」
「だからって、そんな確証もないことにあなたの命を懸けてどうするのよ!
もし意味がなかったら無駄死にじゃない! 私に人喰いになれとでも言うの?」
「そんな大げさな……」
双葉の物言いに清彦は苦笑する。
しかし、その顔色は明らかに良いとは言えないものとなっていた。
「全然大げさじゃない。現にあなた今酷い顔色してるじゃない。まるで三ツ和先生みたい……え?」
「双葉ちゃん?」
「三ツ和先生、みたいな? そういうことなの?」
何かに気づいて突然怒ることをやめた双葉は、一人呆然としていた。
何度か清彦が呼びかけても、反応がない。
「ね、双葉ちゃん?」
立ち上がって肩をゆすると、双葉はようやく清彦に気づいたように、俯いていた顔を上げた。
「今晩、ちょっと三ツ和先生をここに呼んできてほしいの。できる?」
「え? うん……やってみるけど……」
どういうこと?と困惑顔の清彦に、双葉は応えず清彦の肩を持つ。
「それと、今度さっきみたいなことやったら、絶対許さないから」
「え、あ、んっ」
言うなり唇を押し付け、清彦の唇をこじ開けて舌を差し入れる双葉。
そのままの勢いで、引っ込んでいた清彦の舌を絡めとる。
体内にある熱いものを意識し、舌に乗せる。
双葉の意図に気づいた清彦がもがいても、離してやるものかと後頭部を片手で押さえつける。
やがて清彦の喉がコクリと動いたのを確認してから、双葉は身体を離し、口をぬぐった。
「返したから」
「こんなこと、しなくたって……」
困惑する清彦に言葉を突き刺すように、双葉は口を開く。
「こういうこと、勝手にやらないで。あなた自分のこと軽く見すぎよ」
「そんなこと言われたって……」
「い・い・わ・ね?」
「……ごめんなさい」
抗弁を許さない双葉の視線に、清彦は小さくなり頷いた。
「森下さん……?」
よろよろとふらつきながら近づいてくる人影が目的の人物だと分かって、清彦はほっとした。
お願いをし、聞き入れてもらったが本当に来てくれるかは分からなかったからだ。
「先生、来てくれたんですね」
「あれだけ真剣な顔でお願いされたら、仕方ありませんよ」
苦笑を浮かべつつ、三ツ和は清彦に近づく。
三メートルほどの距離を残して二人は向き合った。
双葉はその様子を、二人から少し離れたところでじっと見ている。
三ツ和には双葉の姿が見えていないのか、清彦の方だけを見ていた。
「それで、お話とは何でしょうか?」
「ええっと……」
三ツ和が切り出し、清彦はちらりと双葉を見る。
双葉がコクリと頷いたのを見て、清彦は口を開いた。
「月曜日の放課後、先生はここに、この場所にいたんじゃないですか?」
「ど、どうしてそう思うんですか?」
目を泳がせ動揺をあらわにする三ツ和の様子に、双葉はやっぱり、と思った。
三ツ和は間違いなく、関係している。
その確信を持って清彦と目を合わせ、頷いた。
「なんとなく、です。そこで、何を見たんですか?」
「わ、私はここには……」
「いたんですよね?」
「……はい」
言葉を重ねると、三ツ和は渋々といった様子で認めた。
「じゃあ、月曜日の放課後にここで何を見たんですか?」
「……何も見ていませんよ」
目を逸らし、搾り出すような声で否定する三ツ和に、清彦と双葉は手を変えることにした。
「そうなんですか。じゃあ……どうしてそんなに生気のない顔をしてるんですか?」
「これは寝不足で」
「嘘ですよね」
「ほ、本当ですよ。さっきも言ったじゃないですか……」
「それだけでそんな風になるなんて信じられません」
「だから言ったじゃないですか、私は響きやすいんですって」
「本当にそれだけなんですか?」
「……それだけです」
「そうですか……」
追求すれば割と簡単に吐いてくれるんじゃないかと甘く考えていたが、三ツ和は思ったより頑なだった。
何かがあるのは分かりきっているのに、本丸に切り出せないようなもどかしさが双葉にはあった。
自分で直接は聞けず、清彦の口から聞いてもらわなければいけない。
仕方がないこととはいえ、どうにももどかしい。
どうしようかな、と考え始めたとき、清彦が口を開いた。
「先生、私……私は月曜日の放課後、多分ここで死に掛けてるんです」
「え? だって今君は……」
「なんとか、一命を取り留めて元気にはなれたんですけど、そのときの記憶がないんです。
だから……だからお願いします。何かご存知なら、教えてください!」
思わぬ清彦の告白に、三ツ和は大きく目を見開いた。
頭を下げる清彦をまじまじと見つめ、何かを諦めたように、ため息をつく。
「仕方ありませんね……」
「え?」
「私の知っていること、お話しします」
「ありがとうございますっ」
また頭を下げた清彦を尻目に、双葉は目をぱちくりさせていた。
ある意味嘘とは言えないことで、状況を変えた。
自分が死に掛けたから教えてほしいだなんて、既に死んだ身には思いつけないことだった。
やっぱり、『清彦君』を生かしておいて、良かった……。
心と記憶を全て押し付け、完全な分身とすることは不可能ではなかった。
その方がスムーズに進むかな、という考えもあった。
だが、もしそうしていたら、今の状況は打開できなかったかもしれない。
なんとなくで『清彦』を残したことが、生きた。
そのことに、双葉は驚きと感心を持って、清彦たちをじっと見た。
そこでは三ツ和が口を開こうとしていた。
「実は私も、よく覚えてないんですが……月曜日の放課後、私は気がついたらここに倒れていました」
「え? どういうことですか?」
「分からないんです。それどころか、その前一週間ほどの記憶も曖昧で……」
「そんな……」
「それで、倒れていたところを、うちの生徒に揺り起こされたんです」
「えっ」
「その生徒は、酷い有様でした。制服は破れ、髪はほつれていました」
「どういう、ことですか?」
「わかりません……。ですが、私は彼女に……その……」
そこで一旦言葉を区切ると、三ツ和は続けるのを逡巡したようだった。
清彦は促すように、頷いた。
「何を言われても大丈夫ですから、教えてください」
「はい……では……。彼女が言うには、私は、彼女に、その、暴行を加えたみたいなんです。それも性的な……」
「そんな……、でも先生はさっき覚えてないって……」
「はい、覚えていないんです。でも目の前に衣服が乱れた少女がいて、されたと言われたら……」
「信じるしか、ないんですか」
「はい……」
清彦は呆然としていた。
目の前の教師は、とてもそういうことをするような人間には見えない。
だが、状況が状況だけに、何も言えない。
ちらりと双葉を見ると、双葉も目を見開き、驚きを隠せずにいるようだった。
黙ってしまいそうになるのを奮い立たせ、清彦は話を進めようとした。
「そ、それで、その後……どうなったんですか」
「それは、その……」
「これ以上、何を聞いても大丈夫だと思いますから……全部話してください」
「わかりました……その、彼女は言いました。このことは黙っていてやるから、言うことを聞け、と」
「そんな、それじゃ脅迫じゃないですか」
「そう、かもしれません。ですが私には……選択肢がなかったんです」
うな垂れる三ツ和に、清彦は何も言えなかった。
三ツ和が何をしたか分からないが、その生徒のやっていることは、犯罪そのものだ。
「誰、なんですか?」
双葉が思わずといった風に問いかけたが、応えるものはいない。
その事実に、双葉は悔しげに唇を噛む。
清彦は、代弁するように口を開いた。
「誰なんですか?」
「っ!」
その言葉に、三ツ和は肩を跳ねさせた。
ついに来た、とでも思っているのだろうか。
清彦としても、双葉としても、核心に触れることに、緊張を覚えた。
「その……森下さんと同じクラスの……」
「先生、言っちゃうんだ」
「なっ」
いつの間にか、さくさくと砂地を踏んで歩いてくる少女の姿があった。
清彦と同じ若草女学院の制服を身に着け、うっすらと笑みを浮かべながら、三ツ和に向かって歩いてくる。
「夕、菜……?」
呆然とする清彦と双葉にちらりと視線を向けた後、三ツ和の正面へと、夕菜は進む。
三ツ和は怯えたように後ずさろうとしたが、ふらついて尻餅をついてしまう。
その様子にふっと笑みを浮かべながら、夕菜は三ツ和を見下ろす。
「せっかく、いい状況を作れてたのに。言っちゃダメじゃない、先生」
「ひっ」
笑みを深くしてじりっと近づく夕菜に、三ツ和は怯えた声をあげた。
「そんな先生には、お仕置きをしないとね」
言いつつしゃがみこむと、夕菜は三ツ和の顔を両手で挟み込んだ。
そうして、唇を重ねる。
「ん、んー、ちゅ、じゅるっ」
すぐさま口を広げ、何かを吸い出すように、舌を入れる。
三ツ和はじたばたと逃れようとしたが、徐々にその抵抗が弱まっていき、最後にはぱたりと手を落とした。
おおよそ一分ほどで夕菜は身を離し、ペロリと唇をなめた。
「くふっ、ごちそうさま」
酷薄な笑みを浮かべる夕菜の目の前で、三ツ和は横倒しに倒れこんだ。
「先生っ!?」
「殺してはいないよぉ。そんなことしたらめんどくさいもん」
駆け寄ろうとする清彦を制するように、夕菜は笑いながら向き直った。
「夕菜、どうして……」
「なんのこと? 双葉ちゃん」
ニコニコと笑う夕菜の姿は、いつもと同じもの。それが、強烈な違和感を伴って清彦の前に存在していた。
「あなた……誰?」
「酷いよ双葉ちゃん、親友の顔を忘れちゃったの?」
悲しげな表情を見せる夕菜に、双葉が追いすがる。
「あなたは、夕菜じゃないっ。今先生の生気、奪ったよね? 夕菜にそんなこと、出来るはずない!」
「そんなことないよ。ねぇ、双葉ちゃん。双葉ちゃんの方こそ、どうして二人いるの?」
「えっ?」
「片方は幽霊みたいだけど、もう片方は生身だよね? どういうこと?」
「あなた見えて……」
「見えてるし、聞こえてるもん。さっきから返事してるじゃない。気がつかなかったの?」
薄ら笑いを浮かべ、夕菜は清彦と双葉を交互に見るように視線をめぐらせる。
双葉が見えていることと、三ツ和の生気を奪ったこと。
双葉の親友の姿をしたそれが得体の知れないものに見えて、清彦は知らず、一歩後ろに下がった。
反面、双葉は動揺を隠し切れないものの、言葉を返す。
「そ、そんなこと、どうでもいいじゃない。それより」
「どうでもよくないよぅ。殺したと思ったら増えるなんて、プラナリアじゃないんだから……」
重ねられた言葉に、双葉は絶句した。
清彦も言葉を発せず、呆然としている。
「……どういう、こと」
絞り出すような声は、清彦のもの。
「言葉どおりだよぉ。私が双葉ちゃんを殺したんだもん」
「そん、な……どうして……」
「交互にしゃべらないでよぅ、ややこしいじゃない」
呆然とした双葉の言葉に、夕菜は苦笑いのような表情を浮かべる。
先にショックから立ち直ったのは清彦で、なんとか心を奮い立たせ、夕菜を問い詰める。
「はぐらかさないで。どういうこと?」
「えー、何で言わないといけないの? こっちの質問には答えてもくれないのに」
「それは……」
「言ったら、教えてくれるの?」
言葉に詰まった清彦の代わりに、双葉が聞き返す。
双葉もなんとか、持ち直したようだった。
「うーん……いいよぉ、教えてあげる」
夕菜は少し考え、にへらっと笑って頷いた。
見た目だけは、いつもとなんら変わらないその姿が、状況の異常さを際立たせていた。
「双葉ちゃん……」
「仕方ないでしょ。そうしないと話が進みそうにないんだから……」
「ふぅん……」
清彦の視線に、双葉は嘆息交じりに答えた。その様子を、夕菜は面白そうに見ている。
双葉は夕菜の方を向くと、口を開く。
「今のでちょっとくらい分かったと思うけど、私が本当の双葉よ。そこにいるのは、私の代理。
動けない私の代わりに、調べてもらってたの。私の死因を」
歯を食いしばりながらも、感情を排した事務的な口調で双葉は淡々と事実を伝えた。
夕菜はそれを聞きながら、じっと清彦の方を向いていた。
「そうなの?」
「え? うん、そうだよ」
「ふぅん、そんなこと出来たんだぁ……面白いなぁ」
本当に面白そうに笑う夕菜に、双葉の神経はささくれ立つ。
そのためか、矢のような催促を夕菜に向けて飛ばす。
「これでいいでしょ? さっさと答えて」
「まだだよぉ。じゃあそこの代理の人、本当は誰なの?」
「それは……」
ちら、と双葉は清彦を見ると、清彦はコクリと頷いた。
「杉谷清彦っていう、サラリーマンをやってた男だよ」
「! ふぅん、そうなんだ……」
清彦が答えると、夕菜は一瞬驚いたように目を細め、笑みを深めた。
「もういいでしょ? 答えてよ」
「えー、どうしよっかなぁ」
「あんた……」
ギリ、と奥歯がなりそうなくらいに噛み締め、双葉は夕菜を睨みつける。
夕菜は慌てたように見える仕草でわざとらしく手を振ると、苦笑いのような表情を浮かべる。
「うそうそ、ちゃんと教えるからぁ。そんな怖い顔しないでよぉ」
尚もじいっと自分を睨み続ける双葉をどこ吹く風という感じでいなし、夕菜は口を開く。
「さっきは私が殺したって言ったけど、あれ、正確には嘘なんだよぉ」
「は?」
「私は巻き込まれただけだもん。三ツ和先生が双葉ちゃんを殺す場面を見ちゃって」
「……訳が分からないんだけど」
「つまりね」
困惑する双葉たちを尻目に、夕菜は双葉に正対するように立ち、一瞬目を瞑った。
次に目を開いたとき、夕菜の表情は一変していた。
自身の胸を鷲掴みしつつ、いやらしく笑う
「あの教師に憑いてた俺がお前を殺ったのさ。その後、こいつに憑いたわけだ」
「なっ……」
双葉も清彦も、言葉を発することが出来なかった。
呆然と、目の前の夕菜のカタチをしたモノを見る。
その様子に、夕菜のカタチをした何かは哂う。
「随分驚いてるようだな、さっきから怪しいって思ってたんだろうに」
「それは……そう、だけど……」
「い、いきなり親友のカタチをした奴が男言葉で乱暴に話しだしたら、驚くに決まってるじゃない!」
清彦が俯き、トーンを落とす反面、双葉は逆切れしたように声を荒げた。
夕菜のカタチをした何かは、その様子に笑みを深める。
「なるほどな、だがこっちだって驚いたんだぜ?
事故とはいえ、確実に殺ったと思った奴が、ひょっこり学校に出てきたんだからな」
「……事故って、どういうことよ」
搾り出すような双葉の言葉に、片眉を上げて口を歪めると鼻を鳴らす。
「ふん、その分じゃ覚えてないみたいだな……いいだろ、教えてやるよ」
「偉そうにして……」
「お前の親友の身体を支配してるのは俺だからな。その意味が分からない訳はないだろう?」
「くっ……」
「酷い……」
「何とでもいえ。まぁいい。教えてやる」
奥歯を砕かんばかりに噛み締め、双葉は目の前の親友のカタチをした何かを悔しげに睨み付ける。
清彦は眉をひそめ、俯く。
夕菜に憑いた何かはそんな二人の様子を気にすることなく、言葉を続ける。
「俺はひょんなことからそこにぶっ倒れてる奴に憑いてな。
正直ラッキーと思ったぜ。それまで訳も分からず場所に縛られてたからな」
「じゃああんた元は……」
「ああ、自縛霊って奴だな。あいつに憑いてからは、生気を少しずつ集めて、力を付けていったんだ。
苦労したんだぜ? あいつ中々生気が貯まるようなことしやがらねぇし。
全く、とんだヘタレだったぜ」
吐き捨てるその表情は、少女の顔に不釣合いなほど、忌々しげだった。
その表情に思わず目を逸らし、清彦は続きを促す。
「……それで?」
「力をつけていくにつれて、自由に身体が動かせるようになってな。
そっからは簡単だ。幸いあいつの職業は教師で、目の前にお前らのような若い生気の塊がいた。
後は、分かるだろう?」
にやりといやらしく笑う、夕菜のカタチをした元自縛霊。
その様子に吐き気を覚えるほど不快なものを感じつつ、双葉は口を開く。
「じゃあ、私は……」
「月曜の放課後、呼び出して襲おうとしたらお前がやたら抵抗してな。
最後はここら辺で勢いあまって殺しちまったんだ。
ったく、面倒かけさせてくれたもんだぜ」
「くっ……」
口の端から血がもれ出ないことが不思議なくらいに、双葉は歯を食いしばる。
今すぐ、こいつを殺してしまいたい。
そんな衝動を、双葉は必死に抑えていた。
「……じゃあ何で、あんたは夕菜になってるのよ」
努めて抑えた口調で、双葉は言葉を搾り出した。
その様子を横目に、元自縛霊は話を展開する。
「さっきも言っただろう? 見られちまったんだよ、お前を殺すところを。
そのまま帰すなんてありえないし、殺すと後が面倒。それなら、選択肢はひとつってわけさ。
犯して、憑いて、魂まで喰らってやった。おかげで記憶も仕草も思いのまま。
『八代夕菜』として何不自由なく生きていけるようになったさ。
美味かったぜ? お前の親友の、味」
ペロリと舌なめずりをして哂う姿に、双葉の理性が飛んだ。
「双葉ちゃん、待って!」
「殺してやる!」
清彦の制止を振り切って自身に飛び掛ろうとする双葉を、双葉の親友の姿をした元自縛霊は、平然と眺めていた。
その首に、双葉の手がかかる。
「また私を殺すの? 双葉ちゃん」
「なっ」
突如、怯えた表情を見せ自身を見上げる夕菜の姿に、双葉の手が止まる。
そこに、言葉が重ねられる。
「私が死んだの、双葉ちゃんのせいなんだよ?」
「な、あ……」
言葉にならない声を漏らし、双葉は硬直した。
代わりに清彦が声をあげる。
「違う! そんなわけ、ないじゃないか!」
「清彦くん、だっけ。違わないよ。私が憑かれたのは、双葉ちゃんが殺されるのを見ちゃったからだもん。
双葉ちゃんが抵抗なんてしなければ、私はそんな場面見なかっただろうし、殺されることもなかったんだよ」
清彦に向け、平坦な口調で吐いた言葉は、しかし、双葉を確実に刺し貫いていた。
双葉は呆然と、言葉にならない声を漏らす。
「あ、あ……私、が……」
「そう、双葉ちゃんが、私を殺したんだよ」
「う……っく」
耳元で囁かれた言葉に、双葉はだらりと手を下ろして膝をつく。
その目には、さっきまでの殺意は欠片もなかった。
代わりに、怯えと罪悪感が双葉を支配していた。
その様子を見下ろし、少女はにやっと笑う。
かがみこみ、双葉に甘く囁く。
「許してほしい?」
「う、ぁ……」
ピクリと双葉の肩が跳ね、縋るような目を少女に向ける。
少女は続けて、双葉に囁く。
「双葉ちゃんが、私と一緒になってくれるなら、許してあげても良いよ?」
「聞いちゃダメだ!」
「あんっ」
清彦が囁く少女を突き飛ばし、双葉の横に膝をついた。
少女は尻餅をつき、清彦をにらむ。
「もう、何するのよ」
「あんたは、夕菜じゃない。夕菜の真似なんて、しないで」
双葉として吐き捨てると、清彦は双葉を揺り動かした。
怯えきった表情を見せる双葉に胸の痛みを感じつつ、その身体をぎゅっと抱きしめる。
「落ち着いて……大丈夫だから、ね?」
言い聞かせるように、あやすように頭を撫でつつ、囁く。
「死のうとした僕を、生かしてくれた。前を向く機会をくれたんだ。だから……」
双葉の両肩を持ち、視線を合わせる。
「自信を持って。折れないで」
願うように、唇を重ねる。
唇同士を重ねるだけの、幼いとすら言える口付け。
血の気が失せて真っ青になっていた双葉の頬に、朱が射しこむ。
怯えにくらんで見えていなかった目が、光を捉える。
「あ……」
清彦が身を離そうとするのを追いすがるように、双葉は求めた。
お願い、もう少しだけ。
その想いが唇を通して伝わったかのように、清彦は双葉を受け入れた。
「はぅ……」
長い、重ねただけの口付けは、双葉の吐息と共に終わりを告げた。
ぼうっと潤んだ目で、双葉は清彦を見つめる。
清彦は双葉の頭を一撫ですると、双葉の脇を支え、一緒に立ち上がって身体の向きを変えた。
「ちぇ、もう少しだったのに……。見せ付けてくれちゃって」
呆れたような顔でそこに立つ少女に、言い放つ。
「君を、あんたを、殺す」
「へぇ……どうやって?」
目を細め、少女は哂う。
「『わたし』を殺したって、無駄だよぉ。
身体がなくなったって誰かを乗っ取っちゃえばいいんだから」
「そんなの、分かってる」
「じゃあ、どうするの? 手なんてないでしょう?」
「……そうかもね、今はまだ、思いつかないし」
「あはっ、大層なことを言っておきながら結局ダメなんじゃない」
見下したように嘲笑う少女に答えず、清彦は自分の背に縋るようにしている双葉に視線を向ける。
背丈は変わらないはずなのに、双葉の姿は一回り小さくなったようにすら見えた。
清彦の肩越しに少女を見る目には、未だ怯えと罪悪感が色濃く残っていた。
その様子をくすりと笑い、少女は双葉に、問いかける。
「ねぇ、双葉ちゃん。その人に縋るってことは、私たちの友情なんてそんなものだったってことなの?
自分が殺したのに、償ってすらくれないの?」
「あ……」
ピクンと双葉の肩が跳ねる。
少女が一歩前に出るのに従って、清彦は双葉を背に一歩後ずさる。
「逃げないでよぉ、私たち、親友でしょう?」
「誰が親友よ、あんたは夕菜じゃない! 夕菜のフリをしないでって言ってるでしょう?」
「うぅ……酷いよ、そんなこと言わないでよ、双葉ちゃん」
双葉として放った言葉に傷ついたような表情を見せる少女に、中身が違うと分かっていても、清彦は思わず怯んだ。
その隙をついて、少女は距離を詰める。
清彦の肩に置かれた双葉の手を取ると、清彦から引き剥がした。
その勢いで、足元がおぼつかなかった双葉はふらりと腰を落とした。
少女は双葉を後ろから抱き寄せるようにして、しゃがみこむ。
「しまっ」
「動かないでね」
慌てて双葉を取り戻そうとする清彦をけん制するように、少女は言い放った。
その腕は後ろから双葉に巻きついている。
いつでも、双葉に危害を加えられるような状態だ。
「くっ……」
悔しげに奥歯を噛み締める清彦を他所に、少女はにっこりと笑う。
「これで邪魔が入らないね、双葉ちゃん」
「あ、う………」
双葉が怯えるのも構わず、少女は続ける。
「ねぇ、双葉ちゃん。許してほしい?」
「っ!」
耳元で甘く囁かれた言葉に、双葉は揺れる。
「許してほしいなら」
「聞いちゃダメだ!」
「うるさいなぁ、私は双葉ちゃんと話してるの。外野は黙っててよぉ」
口を挟んだ清彦を煩わしげに見やると、少女はふっと哂った。
「後で相手してあげるから、ね。今は、『そこで大人しく黙って待ってろ』」
突然命令するような口調で言葉をぶつけられ、清彦の動きは止まった。
なんとか腕を動かそうとするも、何かに縫いとめられたように、ガンとして動かない。
「……!」
パクパクと口を開き、更に衝撃を受けたように目を見開く。
声すら出せなかった。
最初双葉に会ったときのことを、清彦は思い出した。
あの時は身体だけだったが、今度は言葉まで奪われている。
これじゃ……。
清彦の顔に焦りの色が浮かぶ。
「これでよしっと」
それを尻目に、異常を引き起こした当人は、結果に満足したようににっこりと笑った。
少女の腕に捕らえられた双葉は、その様子を呆然と見ているしかなかった。
「ね、双葉ちゃん」
「ひ」
「そんなに怯えなくたって……はぁ、ま、いっか。
許してほしいなら、だけど」
双葉の怯えぶりにため息一つついて、少女は話を進める。
「う、ん……」
「キスしてよ」
「え?」
「私に、キスしてよ。双葉ちゃんから」
今までとあまりに違う雰囲気の要求に、双葉の思考は止まった。
夕菜とキスをすれば、許してもらえる。
何かあるのは明らかなはずなのに、双葉にはそれが甘美なもののように感じられた。
それほどまでに、双葉の心は弱っていた。
親友のカタチをしたモノに、親友を殺したのは自分だといわれた。
それは全てではないが、状況の一端として、否定しきれない事実だった。
突き刺さった言葉は毒を孕み、双葉の心を苛んでいた。
敵といえる存在に赦しを、救いを求めてしまうほどに。
その結果、静止しようと声にならない声をあげる清彦の眼前で、双葉は身体の向きを変えた。
夕菜のカタチをした少女はにへらっと夕菜のように笑う。
「優しくしてね」
そういうと少女は無垢な乙女のように目を閉じ、そのときを待つような姿勢となった。
だめ、罠だよ、分かって、お願い!
清彦が必死に声を張り上げようとしても、口がパクパクとするだけで音が出ない。
そうしているうちに、双葉は少女に唇を重ねた。
「ん……」
少女の目が、かっと開く。
片手をを双葉の後頭部に置き、自分に押し付ける。
自ら舌を出し、硬く引き結ばれた双葉の唇の隙間に、差し込む。
双葉は諦めてしまったように、それを受け入れた。
「ん、んーっ」
「ん、はむ、ちゅ、じゅるっ」
何かを吸い出すように、少女の舌は双葉の中をかき回す。
双葉の舌を捉えて吸い、その奥にある何かを得ようと、少女は喉を鳴らした。
それと同時に、ふっと双葉の姿が、明滅した。
「ちゅ、ちゅうっ、双葉ちゃん、頂戴っ」
「あ、や、やだっ、だめぇっ」
少女は貪欲に双葉を求め、全てを得ようと身体を押し付ける。
舌で舌をこねくりまわし、少女がコクリと喉を鳴らすたびに双葉の姿が明滅する。
双葉は自らの存在が薄れていくことに恐怖を覚えた。
「もっと……」
「やだ、だめ、たすけ……」
ふっと言葉が切れたとき、そこに双葉の姿は、なかった。
「くふっ、ごちそうさま」
ペロリと舌なめずりをして笑う少女を、清彦は呆然と見るしか出来なかった。
パチリと音が聞こえたとたんに、清彦はバランスを失って尻餅をついた。
「あ……」
束縛が解かれていた。
目の前の、少女によって。
腕組みをし、いやらしく顔をゆがめて笑う少女に、清彦は言い様のない怒りを感じた。
少女は清彦を見下ろしながら、口を開く。
「清彦くん、だっけ。取引しない?」
「お前なんかと誰がっ」
「そう言わないでよ。あなた、死のうとしてたんでしょ?」
「なっ、どうして、それを……」
「双葉ちゃん、美味しかったよ」
瞬間、清彦は立ち上がり、少女に殴りかかった。
殴りかかろうとした。
「『動くな』」
こぶしがぶつかる前に、清彦の身体にブレーキをかけられた。
「くっ……」
空中で止まったような清彦に視線をあわせ、少女は笑顔のまま話を進める。
「そんなに怒らないでよ。あなたにも悪い話じゃないんだし」
「ふざけ」
「ふざけてなんかいないよぉ。ね、自分に戻るくらいなら、双葉ちゃんのままでいたいよね?」
「何を」
「あなたが今日のことを忘れてくれるなら、見逃してあげる」
「どういう、こと」
「鈍いなぁ、あなたが『森下双葉』として生きるのを許してあげるって言ってるの。
私は『八代夕菜』として生きるから」
「そんなのできるわけっ」
「誰も邪魔する人はいないよぉ? 知ってるのは、私たちだけだもん。
私たちが口を閉ざせば、それだけで出来ちゃう」
「な……」
「だからね、考えてみてよ。さっきも言ったけど、悪い話じゃないでしょう?」
そういうと、少女はパチリと指を鳴らした。
清彦はたたらを踏んで、なんとか踏みとどまった。
そうして、薄笑いを浮かべた少女に、目を合わせる。
「そんなの、受け入れられない」
即答だった。
少女の提案は、清彦にだけ取ってみれば、確かに甘美で都合のいいものだろう。
だがそれは、様々なものを犠牲にして、蔑ろにして初めて出来るものだ。
自身を捨ててまで双葉が守りたかったものも、そこにある。
そんな選択は、清彦には到底許容出来る物ではなかった。
「へぇ、そうなんだ。残念だなぁ……」
少女は目を細め、とても残念そうには見えない平坦な口調で言葉を返した。
清彦は、身構えた。
「一つ思い出したことがあるんだけど」
指を一本立てて淡々と話す少女を、清彦は不審気に
「私……ううん、俺が最初にあいつに憑けたの、ひょんなことからって言ったよな?」
突然口調を変え、話を飛ばした少女を清彦は不審気に睨んだ。
少女の指差す先には、三ツ和が未だ倒れこんでいる。
清彦が返事をする気がないのをみやり、少女は仕方なさそうに話を進める。
「俺があいつに憑けたのは、事故があったからだ。自動車事故であいつが気を失ったときに入り込んだ」
「……っ!」
清彦の脳裏に、鮮明な絵が浮かぶ。
カーブを曲がりきれずに乗り上げた歩道で撥ねた人物は、そこに倒れている男性とよく似た背格好をしていた。
その苗字も、三ツ和といったはずだった。
「わかったようだな? お前がヘボい運転であいつを撥ねたから、俺があいつに憑けたんだ。これがどういうことか分かるか?」
薄笑いを浮かべながら、少女は清彦に事実を突きつけた。
「みんな、僕が悪いんだね……」
だらりと腕を下げ、俯いて清彦はポツリと呟いた。
その様子に、少女は笑みを深める。
「そう。双葉ちゃんが襲われたのも、私が喰べられちゃったのもみんな、あなたが悪いのよ」
「そう、だね……」
少女は夕菜の口調で、清彦を責め立てた。
清彦は力なく、答える。
「わかった? じゃあ、償ってよ」
「償う……」
「一緒になってよ、双葉ちゃんみたいに」
「あ……そっか……そう、だよね」
呆然としていた清彦の目にうっすらと光が戻る。
何をどうすればいいか。
目を瞑り、少女の中にある、双葉を感じる。
それはまだ取り込まれず、そのままでまだ存在していた。
「いいよ……償うしかないよね」
一縷の望みに縋るよう、清彦は少女に近づく。
少女はそれを諦めたものと見て、にやりと笑う。
「また、怒られちゃいそうだけれど」
「? 何をいって……んっ……」
「んっ、ちゅっ、れろっ」
清彦の言葉に不審気に眉をひそめていた少女は、清彦に口をふさがれて軽く目を見開いた。
その隙を突いて、清彦は舌を差し入れる。
双葉のときと同じように貪欲に生気を吸い出そうとしていた少女は、それを歓迎するように口を開いた。
「ん、じゅるっ、ちゅ」
「はむっ、んっ、ちゅるっ」
清彦は口付けながら、想った。
届いて、と。
双葉との繋がりを、糸を手繰るようにして道筋にして送り込む。
生気も、双葉としての記憶も、身体を構成する要素も、全て。
生身の肉体すら生気に換え、全てを双葉へと。
「ん……?」
いくら生気を取り込んでも掠め取られたように消えていく状況に、少女は眉根を寄せた。
喉を鳴らして取り込めば取り込むほど、自身の中で何かが膨れ上がっていった。
それが、自分にとって決して都合の良いものではないと気づいたときには、膨らんだ『何か』は自分を飲み込もうとしていた。
「はなっ」
「んんっ」
少女が目を見開き、もがきだす。
清彦はなくなっていく力を振り絞り、少女の頭を押さえ、自身に押し付けた。
あと少しなんだ……。
直感的に判断し、最後の力を振り絞って、少女へと、双葉へと生気を送り込む。
清彦の意識がふっと途切れる直前、ほとんど見えなくなった視界の端で、誰かが悲鳴を上げるのが聞こえた。
「やめろっ、出てくるなっ」
少女は必死に双葉を抑えようとした。
肩を抱くようにしてぎゅっと押さえ、自身の内を暴れまわる力に震えていた。
それは確実に少女を喰らい、削り取っていく。
その度にそれは力を増し、より一層の勢いで暴れまわる。
少女が膝をつくのは、時間の問題だった。
肩を抱いたまま、ふらりと揺れ、横倒しに倒れこむ。
その胸から、細い腕が生える。
「あ、あ……」
ずるりと、肩が、頭が抜け出る。
少女がなす術もなく呆然と見ているなか、やがてもう片方の腕も現れた。
少女の胸から女の──双葉の上半身が生えていた。
そのまま這い出るように、腰が、足が抜け出す。
四つんばいの姿勢から立ち上がると、双葉は少女を見下ろす。
少女はうつろな目で、双葉を見上げた。
「せっかく……上手くいきそうだったのに……くそ……」
「しぶとい……」
呆れたように口にすると、双葉は少女に口付けた。
それを最後に、少女の目は、光を失った。
中身のない、空っぽの身体だけが、そこに残された。
「あの、馬鹿……」
ぽつりと双葉が呟く。
清彦が自身の全てを力に換え、双葉に送り込んだ。
それを受け、自縛霊を凌駕するほどの力を得た双葉は、その力ごと、自縛霊を飲み込んだ。
そうして実体化するほどの力を得た双葉は、生き返ったような状態になっていた。
飲み込んだ自縛霊は、消滅させた。
胸を押さえ、その奥にある、二つのかけらを意識する。
清彦と、夕菜のものだ。
倒れ込んだ、親友の身体が視界に入る。
「こうするしか、ないじゃないの……」
双葉はため息をついて、親友の身体を抱き起こし、その唇にキスをした。
清彦の目が覚めたら、全力で怒ってやろうと思いつつ。
放課後の若草女学院の教室で、双葉は夕菜と話していた。
楽しげな双葉とは対照的に、夕菜は困ったような顔をしている。
べったりと張り付く双葉にたじたじとしているようだった。
「ねぇ、夕菜」
「な、何かな。双葉ちゃん」
「プールにいこっか」
「えぇっ!? どうして」
「私たち、親友じゃない」
「答えになってないよぉ。それに、恥ずかしいもん」
「何言ってるのよ、私たち、女同士じゃない」
「……そんなこと、半分くらいしか思ってないくせに」
「何か言った?」
「ううん、なんでもない、よ?」
「そ、なら良いけど」
一瞬目を細めた双葉とその声のトーンにびくっとした夕菜は、フルフルと首を振った。
双葉は満足げに頷く。
「あの二人、変わったよね」
「なんというか、逆転したといいますか……」
「仲がいいのはわかるけど、ああも百合の花を咲かせられると目の毒だわ」
「あはは……」
友人たちに呆れたように見られていても、双葉は気にしない。
夕菜はいつも困惑顔で双葉に振り回されているような状態だが、決して双葉を拒まない。
そんな状態が続いて、もう一週間が経とうとしていた。
清彦が意識を取り戻したとき、清彦は夕菜の身体にいた。
何がなんだか分からずに呆然と座り込んでいた清彦に、双葉は拳骨を落とした。
勝手にあんなことしないでって言ったでしょうと怒鳴り、一糸纏わぬ姿のまま抱きつく双葉の目には、涙すらあった。
清彦はよく分からないままに、双葉を優しく抱きしめた。
ぽんぽんと頭を撫で、その震えが止まるのを待つ。
その内に、ようやく状況が見えてきた。
自縛霊を倒した双葉が、形を保っていなかったはずの自分をこの身体に移してくれた。
それも、自縛霊に喰われたはずの夕菜の心も一緒に。
どうやら、消化されずに残っていた部分が結晶のようになっていたようだった。
胸のうちにあるそれは、清彦を夕菜に繋ぎ止める楔のような役割をしていた。
いいの、かな。僕は……。
「何、考えてるのよ」
清彦が思いに沈みかけたところを、双葉の声に引っ張りあげられた。
はっとして焦点をあわせると、双葉は不安げに清彦を見上げていた。
「あなたが夕菜を受け入れてくれたら、あなたも、夕菜も生きていけるの。
お願い、贖罪とか償いとかどうでもいい。
夕菜を受け入れて。夕菜の心を殺さないで」
祈りにも近いそれを、清彦は拒むことが出来なかった。
自身が発端となった以上、償わないといけない。
その考えを一蹴された戸惑いはあったものの、清彦は双葉に、頷いた。
瞬間、清彦には何かがカチリとはまる音が聞こえたような気がした。
夕菜の記憶が、脳裏に広がっていく。
「双葉ちゃん、ありがとう」
夕菜として伝えると、双葉はぎゅうっと清彦に抱きついてきた。
それ以来、清彦は八代夕菜として生きることとなった。
一方の双葉は、自縛霊を廃業した。
原因を突き止め、この場所に束縛される理由もなくなった今、とる道は二つだった。
成仏するか、あがいて生きるか。
双葉が選んだのは、後者だった。
清彦が自身の存在をかけて送り込んだ生気によって実体化した双葉は、ほとんど生身の人間と同じように暮らすことが出来た。
たまに貧血のように生気がなくなりかけることがあるが、そのときは清彦が補っている。
二人はお互いを支えあっていた。
もっとも、双葉はこの状況をとても楽しんでるようだったが。
「いっそのこと水着新調しなさいよ、また大きくなったんでしょ?」
「何で知って……」
「見れば分かるわよ。ホント、恨めしいわ。元男のくせに……」
「私を私にしたの、双葉ちゃんじゃない。そんなこと言われても……」
「あはは、そうだったわね。まぁ、それはいいや。水着の新調には行くからね」
「え? ホントに?」
「当たり前じゃない。あなたの反応を見るのが、私の楽しみなんだから」
「……双葉ちゃん、やっぱりSだよ……」
ため息交じりの夕菜の、清彦の声に、双葉はそんなことないと返し、笑うのだった。
いやー ヘタレ君が主人公なのも、なかなかいいですなー
新鮮で初々しいて、好感度高いです。