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フィクション・モンスターの日常 (上)

2014/12/06 06:47:07
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※未発表の前日譚(いわゆる0話)があるものとし、その続きから投稿します。

※これまでのあらすじ
・男子高校生、久渡明良(くわたり あきら)、伝説の大吸血鬼に憑依される。
・肉体の主導権を争って吸血鬼と精神戦。さらに退魔師に命を狙われ、逃げ回ること二週
間。
・吸血鬼の撃退に成功。ただしそのために、封じられていた九尾妖狐のしっぽと合体した
ため、今度は妖狐(♀)になる。
・やはり退魔師に狙われる。山に住んでいるまた別の吸血鬼が助けてくれると言うが、無
害認定を得るためには、吸血鬼の使い魔にされなければならないという。
・しかも契約方法がセックス。ふんだりけったり。

※人物
・葉月(久渡明良)
元人間で元少年な妖狐(♀)。
伝説の吸血鬼に憑依されて地獄を見、やっとこれを追い出したと思ったら、今度は九尾
のしっぽと合体して妖狐になってしまった。
無害認定を得るため、月燕の使い魔にされることに。

・至郷月燕
山に住んでいる吸血鬼(♂)。明良に憑いていた伝説の吸血鬼とは別。
妖狐と化した明良を退魔師から救ってくれるという。
そのために明良を使い魔にしようとする。セックスで。

以下、本編。





普通の人間でありたいと。
そんなことをずっと、思っていた。

周りと同じことをして。
周りと同じことを思って。
周りに埋没して、どこにでもいるありふれた存在として生きる。

そんな普通こそが大事なのだと、ずっと思っていた。

我ながら、バカだったよ――。



第一章 鬼狐の主従





深夜。草木も眠る丑三つ時。
和風建築の屋敷。
畳敷きのとある一室。
布団の上。
元少年にして現少女な妖狐は、布団の上で仰向けに寝そべり、こう考えている。
何故、こうなったのかと。
何故、女の身になどなっているのか。
何故、裸なのか。
何故、男に組み敷かれているのか――

「…………」

少女は裸身を晒し、布団に寝ている。そしてその上に、同じく裸身を晒した男が、四つ
ん這いになって覆いかぶさろうとしている。
下になった少女は男を見上げ、見てくれは悪くない、と思った。俗にいうイケメン。
整った中性的な顔立ちで、身体も細身ながら筋肉質で引き締まっているし、アイドルかモ
デルと言っても通用するだろう。しかし、いくら美形だからとはいえ男に迫られる趣味は
少女にはなかった。女となったのはほんの数時間前のことで、元々は男だったのだから。
だからこそ、思わずにはいられないのだ。何故――こうなったのかと。

(性行為って……、セックスって、本当にそこまでしないといけないのか?)

説明は受けている。
房中術、或いは性魔術。本来は性行為を通じて力を賦活したり、力のやりとりを行う術
だが、この術を行う男女は霊的に合一するため、霊的強制や支配、契約にも応用できると
いう。これで男は少女を使い魔にしようというのだ。
使い魔になることで、無害認定を得る。つまりは、首輪を付けられて飼い慣らされたの
で安全ですと主張するようなものだ。その理屈はわからないでもない。
だが――と少女は思う。この方法はいかがなものかと。
その性魔術とやらでなくとも、契約の方法などいくらでもありそうなものだ。少女は
フィクションの知識しか持ち得ないが、誰かが使い魔を作ろうとするとき、いちいち性行
為を行っているはずはない。例えば、鳥や小動物を使い魔とするのに性行為をするだろう
か? 否に決まっている。
当然、少女はそう主張して抗議した。しかし男にも言い分はあった。

「君は今や九尾だ。といってもその尾の一本に過ぎないから、力のほどは本来の数分の一
だが、それでも正直に言って俺よりは数段勝る」

男の説明はこのようなものであった。

「使い魔契約の方法はいろいろあるが、通常使い魔は格下を使役するものだ。翻って君は
格上。俺から見てもダンプカー並の巨獣みたいなもので、そんなものに普通の犬猫用の首
輪を嵌めるのは無理がある」

つまり、契約書を書いて呪文を唱える程度の弱い契約では、力に勝る少女を縛るには、
強制力が足りないのだと。協力関係として契約するというだけならば、それでもいい。し
かし、無害認定を得るには、少女が仮に暴れ出そうとしても、容易に止められる状態と
なっていなければならない。つまり、少女には、この男に心身を制御され、逆らいようの
ない状態になることが求められているのである。
契約と言いつつ、その実態は支配だ。
操り人形になれと、そう言われているに等しい。
そして、巨獣たる妖狐少女が、格下たる男の操り人形になるためには、自ら望んで股を
開かなければならないという。この男に犯されて屈伏させられ、性的快楽に自我を薄めら
れながら、忘我の中で霊魂の底にまで忠誠と服従を刷り込まれなければならないという。
有体に言えば。

(セックスで洗脳されろってことだろ……)

男の下で、少女は唸った。面白いはずがなかった。
しかし、ならばどうすればよいかと考えてみても、答えは浮かばない。

「……怖いか?」
「怖いっていうか……」

口から出た声はやたらに高い。少女は顔をしかめて言葉を切る。しかしずっと黙っても
いられない。

「他に方法って、ないんだよな?」
「ないな、悪いが」

少女の確認めいた問いに対し、無情にも、男は即座に答える。何度か行った問答ではあ
る。

「そもそも、本当に支配なんてされないといけないのかよ? 俺は暴れるつもりなんて……、
ないぞ」

語尾は淀んだ。男がそこをついてくる。

「言っていて説得力がないと、わかっているだろう」
「……」

少女が強大な妖力に振り回されて暴走し、暴れまわったのはつい先ほどのことだ。記憶
はあいまいだが、爪牙で以てこの男の片腕を引きちぎったことは覚えている。これでこの
男が不死性のある吸血鬼でなければ殺していたところだ。退魔師たちにも重傷を負わせて
しまったはず。次は誰の命も奪わないとは言えない。次がないと、保証することもできな
い。

「九尾は大雑把に言えば、悪の大妖怪だ」

男は少女の尾に視線をやった。これに合体――若しくは、寄生――されたことで、少女
は人間に戻ることができなかった。

「尾の一本に過ぎないとはいえ、九尾の妖力を四半世紀も生きていない童が制御できるは
ずがない。つまり、君はいつ暴れ出すかわからない猛獣なんだ。それもすこぶる強力な。
討滅するか封じるかするのは、退魔の連中にしてみれば義務とすら言える」

その言葉に、少女は黙りこくるしかなかった。九尾妖狐とやらが、どのような存在で
あったのかは知らない。しかし、今の己が、何かあればすぐに暴発する爆弾であることは
理解できたからだ。
もしも何かのきっかけで、獰猛な獣性が巨大な妖力を振るおうとしたならば、それを抑
える術を少女は持たない。それは先の件が証明した。記憶がはっきりしないのは、それこ
そその時、理性が吹き飛んでいたからだ。
小動物とても、時に噛みつくことがある。巨獣が同じことをしたならば、人間一人くら
いは容易に噛み砕く。それどころかきっと少女は、妖力に振り回されるだけ振り回され
て、破壊という破壊をまき散らすだろう。
その危機を未然に防ぐため、自分に襲い掛かるだけの大義名分が、退魔師たちにはあ
る……と言わざるを得ない。

「それが嫌なら」

男は続けた。

「君はここで、俺に飼い慣らされるしかない。こういう方法でしか契約してやれないのは
悪いが、九尾を飼おうっていうのがそもそも無謀だからな」
「……そうなのか?」
「それはそうだ。神代の大妖怪だぞ……。言っておくが、これは俺にとっても冒険なん
だ。霊的につながった瞬間、俺が弾け飛ぶか、逆に支配されるか。普通ならそうなるだろ
うよ。さっきみたいな暴走状態だったらやろうとも思わない。まがりなりにも君がこうし
て理性を取り戻したから、提案したんだ。賭けで、君のためにな。だから、いいか?」

男の目がじっと少女を見つめた。その目に妖しい力を感じる。

「決して逆らうな。抗うな。さらに言えば、嫌がるな。それだけでもこの賭けは失敗す
る。自棄でも開き直りでも何でもいいから、受け入れろ。……できるだけ悪いようにはし
ないでおく」
「……」

この時、魅了の魔眼が、効果を及ぼしたとは言い難い。少女が意識して魔力に抗ったわ
けではない。
いや。
逆に、意識して受け入れようとしなければ、強大な妖力を秘めた身は干渉を跳ね除けて
しまうのだ。性魔術も同様だろう。嫌々儀式に臨んでも、契約はきっと成功しない。

「悪いようにしないっていうのは?」
「自由意思は奪わないと約束しよう。支配はさせてもらうが、尊厳を損なうようなことは
しない。本来、君が嫌がるだろうことは今後もしないしさせないでおく。人格や精神性は
変わるところもあるだろうが……、その辺は覚悟してくれ」
「……吸血鬼にも」
――いろいろいるんだな。

少女はそう言うと、ため息をついた。
面白くはない。何故、こうなったとも思う。
しかし、この二週間で学んだことは、逃避はするだけ無駄なのだということだ。必要な
のは行動すること。といっても、ここでとらなければならない行動は抵抗ではない。
ここで抗えばどうなるか。少女は思考した。
男を跳ね飛ばす。腕の一本、二本をもいでいく。ここから逃げ出し、退魔師が襲ってき
てもすべて返り討ちにして、人間に仇成す無頼の大妖怪として世間を闊歩する。そして悪
名を轟かせ、やがてはどこぞに封印されるのだ。実際に、この尾がこの地に封じられてい
たように。
少女は再びため息をついた。今度のそれは、より深いため息であった。観念のそれであ
る。

「わかった。わかったよ。やってくれ、受け入れるから」

胸を隠していた手をどけた。股間を隠していた尾もおろす。元凶である尾を自分の意思
で動かせることに、何とも釈然としないものを感じつつ。
願わくは、この男に支配される日々とやらが、マシなものとならんことを。



「最初に言っておく」

男は真っ先にこう言った。

「より強く縛るために、君には――いや、お前には、俺が名前を付ける。今までの名は忘
れろ。いいな」
「……わかった」

少女はその言に従う。

「わかりました、と言え」
「…………わかりました」

これまでの名を捨て、新たな名で生きる。それはこれまでの自分を捨てるに等しい。少
女は複雑な心境だった。だが、既にかつての己とは別人であると言ってよいだろう。変わ
り果てたこの姿。人間ですらない。自宅に帰って、これまでのように学校に通う――そん
な生活は、いずれにしろ望むべくもない。この二週間、ずっとそれを願っていたのにだ。

「そうだな。では、葉月だ。お前の名は葉月とする」
「……はい、わかりました」

少女――葉月が与えられた名を受け入れてみせると、男は頷く。そして、横に身を移
し、葉月と名付けた少女に斜めに被さっていく。
男の顔が近づくのは、葉月の首筋。

(早速……)

男は吸血鬼だ。それが首に顔を寄せるとなれば、することは一つしかない。葉月は首に
痛みを感じ、呻き声を漏らした。男の牙が葉月の首に突き立っていた。噛んだのだ。吸血
のために。

「ぁぐっ」

皮下に異物が侵入する感覚。それは当然痛みを伴う。だが、鋭い牙が突き立てられたと
いう割には、その痛みは小さなものであった。そして、それはすぐに幻のように薄れてい
き、代わって、別の感覚が現れる。
快感である。

「ぅ……、あ」

男に組み敷かれて抑え込まれ、首に噛みつかれ。そんなことが気持ちよい。溢れた血液
を啜られる段になると、快楽のパルスはいっそう強まり、葉月は艶めいた喘ぎ声をあげ
る。

「あ、あっ……」

まるで、首に口淫をされているような。首から射精しているかのような。その感覚を何
倍にも高めたような快楽が、首から広がる。じんと痺れるような心地の良い熱感が身体に
浸透していく。
さらにこの時、葉月の首筋からは、血液が吸い出されるばかりではない。葉月がよがる
うちに、そこから男の魔力が侵入していく。その魔力によって、快楽が引き出される。

「ぁあ、あっ、あぁ、はあ、あ、ぁ」

ちゅう、ぢゅう、ぢゅう。
音を立てて血を吸われ、葉月は少女特有の高い声で艶めかしく喘いだ。
葉月がいくら口で受け入れるとは言ってみせても、その精神は固い殻で覆われた状態で
あった。それでは魔力の通しようがない。嫌々儀式に臨んだところで、契約は成立しな
い。それ故、男はこうして牙で穴を穿って、直接魔力を注ぎ込む。
葉月自身も、内部に侵入する何かを察知してはいたが、努めてそれを受け入れようとし
た。外敵を自動的に排除しようとする妖力の働きは、言ってみれば免疫機構である。それ
を自発的に鈍らせるというのはまったく容易ではないものの、今回はある程度うまくいっ
た。吸血によって与えられる魔性の快楽に浸っていれば、それでよかったためだ。

「あ、あ、あ、ぁっ」

葉月は快楽に身悶える。身が震え、それを男に抑えつけられる。吸血されつつ、狐耳の
生えた頭部を抱えるように撫でられる。もう一方の手で腕を愛撫され、手に指を絡められ
てしまう。
その状態で、葉月はしばらく血を吸われ続けた。

「はぁ、はぁ、はあぁ、はぁ……」

気が付けば解放されているが、一体いつ終わったのかがわからない。
だらしなく口を開いて舌を出し、唾液を口角からこぼす。快楽魔力が回って全身が火照
り、皮膚感覚が鋭敏化している。股がもどかしい。
首の噛み痕を舐められ、女らしく啼く。

「ひぅ、ぅん……っ」

葉月の身体がびくりと震える。男はその頭を撫でながら、葉月の耳元でささやく。

「よかったか?」
「はあ、はぁ、ふぅ、ん、はぁ」

答えず、切なげに息を吐いていると、唇で首に吸い付かれた。

「ふ、んぃぁ」
「答えろ。よかったか?」
「はぁ、……はぃ……」

答えるうち、男の手が葉月の腕を撫で、下がっていく。
受け入れるイコール快楽という図式は、葉月にとって都合がよかった。もしもこれが苦
痛であったならば、妖力の抵抗はもっと頑迷なものとなっただろう。
葉月の内で渦巻く獰猛な獣性は、敵対者を見れば、即座に葉月を闘争へと駆り立て得
る。思考も理性も消し飛ばし、妖狐を殺戮マシンに変えてしまうのだ。そしてそんな獣性
が、葉月を支配せんとする男の行為を、敵対行為だと判断してもおかしくはない。
しかし与えられたのは快楽。快楽とはつまり、快いもの。思考を伴わぬ本能がこれを拒
絶する道理はなかった。苦痛よりも快楽に耐性がないのは、人間も妖狐も同じ。そしてそ
れをつくのが、男の狙いである。契約に性魔術を選択したのは、むしろこのほうがより受
け入れやすいと判断してのことだ。
男の手が葉月の乳房へと移動し、柔らかいその脂肪を揉む。

「ぅ、ふぅ……ん」

充血し、敏感になった乳房。それをやわやわとマッサージされると、葉月は強い性感に
たまらなくなった。ぐっと引き締めた口から、つい声が漏れてしまう。
女性は全身が性感帯になり得るという。魔力が回って快楽を引き出された葉月の肉体
は、今や開発されきった女のそれに等しい。乳房を揉まれ、ぷっくりと肥大した突起を擦
られると、これまでに経験したことのない快楽が沸き上がってくる。

(おっぱい……、女の……おっぱいで感じてる……っ)

口を開いてみると、自身も驚くほど色気のあるため息が、長々と溢れてくる。

「はぁ、っ、はああぁ……」
「葉月」
「っ、はい」
「目を見ろ」

言われるままに男と目を合わせる。
男の目が妖しい光を湛えている――再度の魅了。
今度は、通用する。視線を介し、魔力が葉月の精神に入り込む。

(あ――)

その侵入に、葉月はわずかな恐怖を覚えた。それが抵抗となったか、一瞬、互いの眉間
奥で弾ける小さな電撃。男が顔をしかめる。
しまった。葉月は失敗を悟った。だが、男は構わず、すぐに表情を繕う。魔眼の魔力は
一度途切れかけつつも、即座に力を取り戻し、再度葉月の心を侵した。
葉月は目を逸らさない。男の目をじっと見ているうちに、魔力がどんどんと内側に入り
込んできて、支配が広がっていく。

(入って、くる……)

魔力は葉月の自我防壁の内側に触手を伸ばす。先端を幾重にも枝分かれさせては菌糸の
如くに伸び、精神という目には見えないものの、あちらこちらにぺたぺたと張り付き繋
がっていく。それは接続だった。魔力で葉月の精神に接続してこれをハッキングし、
ジャックして、コントロールしようというのだ。
仮に、葉月がか弱い人間であったならば、この段階で完全に男の傀儡と化しただろう。
自我を失って目も虚ろとなり、男の如何なる命令にも従う操り人形となったはずだ。生
憎、今の葉月がこれだけで支配されきることはできないが、少なくとも、この支配を受け
入れるつもりはある。仕方なくではあれ。
従え、と。魔力を通して伝えられる命令が、葉月の精神に直接響く。葉月はその命令に
逆らわないようにしなければならない。

――従え、従え、従え、従え、従え。
(はい、……はい)

葉月は男の目を見ながら、こくこくと小刻みに頷いて、無抵抗を示す。

「従います……」
――服従しろ。
「服従します……」

男が視線を切る。それでも、一度かけられた暗示は解かれることなく、命令は与えられ
続け、葉月は受け入れ続ける。そしてその間に、男の口が再度葉月の首に近づいていく。
今度は、先とは反対側に。

――服従しろ。
「服従しま――」

す、と。葉月の言葉は最後まで声にはならない。
その代わりに、葉月は嬌声をあげ、身を金縛りにあったように強ばらせる。その首筋
に、男が牙を突き立てたからだ。

「あ、あああっ」

吸血による快楽が再度葉月を襲う。
肉体に回った快楽魔力は、悦びのパルスを何倍にも増幅し、先のそれを上回る猛烈な快
楽を発生させる。
葉月は強く目を閉じつつも、たまらずに涙をこぼす。その身の内を性感の電撃が奔って
は、神経という神経を炙る。

「ぁっ、あ、ひぁ、ひゃっ、んあ、あっ」

この時、葉月の昂ぶりはより高次へと達した。全身に性感が行き渡る。葉月の経験上、
かつてならば、こうなるよりも先に射精してしまい、昂ぶりはとっくに静まりはじめてい
る段階であったはず。今そうなっていないのは、果たして男女の差故か、はたまた人間と
妖狐という種族の差故か。
葉月は快楽に翻弄されつつあった。その悦び故に、葉月という意志の決意に遅れること
しばし、葉月の防衛本能もまた、男を受け入れはじめる。妖力の働きが一段と低下し、心
身を共に差し出す準備が進む。
そこを、男がつく。

――従え。

ぢゅうううう。
啜って、命令する。

「んぁああ……っ」

繰り返されていた命令は、ここに至って、快楽と結びつけられる。葉月は、服従と快楽
を関連付けて覚え込まされる。それはつまり、獣のしつけ。服従は気持ちいいことだと刷
り込まれていく。

――我が意に従え。服従しろ。我がしもべとなれ。

ぢゅうう、ぢゅう、ぢゅうううう。

「ぁ、あ、ふぁっ、あ、あ」

しもべになって服従する。それは心地よいこと。
そんな暗示が、葉月の深層心理と本能に刷り込まれ、刻み込まれる。
それに対し、葉月は抵抗をしない。この段になると、ごちゃごちゃと考える余裕はもう
少ない。

「はうっ、あっ、ぁ、あ……っ!」
(したが、従い、従いますっ)

ぢゅう、ぢゅうう、ちゅう…………、ちゅう……。

「ひぁ、あっ、あっ、ああ、んあぁ」
(これ、気持ちいいっ)

葉月の表情は快楽に蕩けていた。涙を流しながら開かれた目は、いくらか光を弱めてい
る。如何に強大な妖狐とはいえ、本人が抵抗しないのならば、いずれはこうなる。
だが、このままでは葉月は男に支配され得ないのだった。例え、その肉体を翻弄し、精
神を誘導しようとも、魂が手つかずである限りはいくらでも反抗の余地が残るからだ。
ただの人間には不可能。しかし、今や破格の霊格を有する葉月ならば、これしきの干渉
は容易に無効化し得る。葉月の最も内側にある魂が、やがて外部からの干渉を跳ね除けて
しまうのである。例え葉月にその気がなかったとしても、そういった余地が残っている限
りは、無害認定を得ることはできない。
だからこそ、ここで魂までをも縛ってしまう必要がある。葉月の三体を統括する魂を掌
握して、葉月という存在そのものを支配して、反抗するという機能すら完全に奪ってしま
う。
人間は飛べない。翼を持たぬが故に。
人間は水中で呼吸できない。えらを持たぬが故に。
それと同じように、こうしてしまう。葉月は男に反抗できない。そうした機能を持たぬ
が故に――。
魂への干渉がそれを可能にする。魂へ干渉する、性魔術だけが。
ここまではあくまで、そのための下準備。
その準備が、今終わる。

「葉月」

男は吸血を終えると、葉月に声をかけた。それに対し、葉月は首筋から赤の筋を垂らし
ながら、快楽の余韻に弛緩した表情で、ゆるゆると男を見上げる。
支配は未だ成らず。しかし暗示は成った。
ここから先の行為を嫌がらず、望んで受け入れられるように、男は葉月の心身を誘導す
る。
――曰く。

「発情しろ」
「ふぁ、あ……っ?」

注ぎ込んだ魔力を介して、妖狐の性本能を刺激した。性欲を励起させて性的に興奮させ
る。それと同時に、交わりたいと、セックスがしたいと葉月の精神に思い込ませる。
つまり、発情させる。言葉の通りに。

(あっ、なんだ……、これ)

一方、快楽に浸っていた葉月は、戸惑いを覚えた。変化が即座に現れたからだ。
身体の内側がいっそうの熱を持つ。目の奥が熱くなり、瞳が揺らいで、潤む。もどかし
さは全身に広がり、触れ合っていたくてたまらない。特に股が疼く。その奥、下腹部の中
で何かが切なげに啼いている。
今は今で、淫らな吸血によってよがっていたはずだが、そんなものでは足らぬと。性欲
が際限なく高まり、まるで、自慰をしたくてたまらなくなった日のような、勃起が収まら
なくなったあの日のような感覚を葉月は思い出す。
ただし、その程度が、過去の比ではなかった。
突然沸き上がった欲求は勢いも激しい業火となって、葉月の肉体と精神を焼いていた。
今すぐ股を開いて、男のものを受け入れたい。股座にペニスを挿入されて、盛んに突き入
れられたい。そんな未知の衝動が、耐えがたい焦燥感となって葉月を急かす。

(なに、なんだこれ……。交尾がしたい、したいよ……)

葉月は未だ支配されきっていない。その分、自由の残る理性は困惑するものの、そうか
といって、逆らうわけにはいかないのであった。葉月はどうすればよいかと、光の弱まっ
た瞳を揺らして迷ってしまう。そして、迷っている間に、暗示は葉月という妖狐の中で、
生殖本能のスイッチを完全に入れてしまう。葉月は瞬く間に発情期の獣と化す。

(したい……。仕方ない……、逆らっちゃいけないし、したい……)

盛りのついた妖狐は鳴き声をあげると、もどかしげに身じろぎをした。男に新たに命じ
られずとも、本能が、葉月にとるべき行動を教えていた。
察した男が身をどけ、葉月を解放する。すると、葉月は体位を変え、布団に四つん這い
になって尻を男に向ける。
股を開いて尻を高くし、男に向かって突き出すその体勢。それはつまり――後背位の要
求である。獣らしくに。
葉月は尻と共に尾を高く持ち上げ、ゆらゆらと左右に揺らす。女唇からは雌の蜜が溢れ
て股を濡らし、雫が腿を伝っている。
ここに準備は整った。

「では、いくぞ。いいな?」

男が後ろから葉月の腰をつかみ、そう言った。それに対し、発情した葉月は声に期待の
色さえ滲ませて答える。

「はい……」
(早く……っ)

葉月は頬を朱に染めて背後を振り向き、尻を突き出して待った。張りつめ脈打つ男の怒
張ペニスが、その股に狙いを定める。傘状の先端を蜜ヴァギナに押しつける。
くにゅ。

「ひ、ゅ……」

葉月が悦びに表情を歪ませる。
ずにゅ、にゅ……。
太いペニスがヴァギナを穿つと、それは膣壁をかき分け押し広げては、奥へ奥へと侵入
していく。葉月の股間には、失われた純血の証、処女血が滴る。

「ひはぁぅ、……ふぅうぁあ」

ぶち、という音を葉月は確かに聞いていた。
だが、溢れ出た葉月の声色に、苦痛の色は混じらない。快楽魔力が、儀式を失敗させう
る余計な要素を取り除いていた。妖狐少女がこの時あげたのは、快楽に対する純粋な嬌声
である。

「う、ぁうっ、ふううううっ」

葉月は快楽に陶酔しながら、頭を落とし、布団にしがみつくようにして耐える。その尻
は持ち上げられたまま。葉月の股は男の男根と深く結合し、一体となっている。
そして、抽送が開始されると、布団にしがみついた葉月はだらしなく口を開き、よが
る。

「あ、んぁ……、あぁ、……ぁん、ふぁぁ」

ぐちゅ……、ずるる、ぐちゅぅう。
荒々しい動きではない。むしろゆっくりと、男は腰を前後させる。剛直する堅い肉の棒
が、穏やかに膣のひだを擦っては出入りし、膣奥の快楽点に先端をぐっと押しつける。
快楽を刷り込むための行為、そのものである。
雌の快楽を刷り込まれ、葉月は股と口から体液をこぼしにこぼす。

(交尾気持ちいい……)

頬も真っ赤に、快楽に溺れる葉月。

(男なのに、人間なのに、後ろからされるの、けもの交尾いい……っ)

その精神に、快楽に関連付け、再び暗示が流し込まれる。

――従え、従え、従え、従え、従え。
「はひ、はぃぃ、ぁん……」

やはり葉月は抵抗をしない。

「ぁ、ん、ん……、ぁん」

くちゅ、ぬちゅ、ぬちゅ……。
後背位で、獣の交尾のように交わる男と葉月。互いにゆっくりと腰を前後させて、淫ら
な水音を立てる。
肉体的にも葉月は抵抗しない。精神面でも抵抗しない。同じように、霊的にも抵抗しな
かった。
性魔術は、男女の霊的合一を伴う。それを利用して、男は葉月の魂に干渉して支配しよ
うとしている。これはもとよりそのための行為。

「ぁ……きもち、ぃ……あ、ぁっ」

かつて葉月には、魂というものを感じたことはなかった。だが、今ならば、目に見えな
いその存在を感じることができた。己の中に、それが収まっていることも。いやさ、まさ
にそれこそが、己の根幹なのだということも。そしてそんな己の根幹というべき魂が、
今、男の魂と繋がってしまっていることも。
ペニスがヴァギナに挿入されるように、男の魂の触手が、葉月の魂に挿入されていた。
両者は霊的にも交わっていたのだった。葉月は、そんなことさえもが気持ちいい。肉体の
性感に霊的な感覚がリンクさせられ、魂を犯されて感じてしまう。

「はぁぅ……ん」
(気持ち、いいよ……)

ここでもし、葉月が牙を剥いていたならば、莫大な妖力が霊的繋がりを通じて男の魂に
叩き込まれ、男の魂は、ひとたまりもなく弾け飛んだことだろう。しかしその懸念はもう
必要ない。再三の快楽責めが奏功し、葉月はおとなしくされるがままとなっている。
そのまましばしの間、葉月はスローセックスと霊的合一を味わっていた。しかしそのう
ちに、葉月はより大きな嬌声をあげることになる。葉月の無抵抗を確認した男が、ついに
腰を強くうちつけたからだ。
ずん、と勢いよく、ペニスを膣奥へと突き入れられ、葉月は艶めく啼き声をあげる。

――我に従え。我がものとなれ。
「はい、っ、ぁ、あ……っ、あああんっ」

ぐちゅっ、ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅっ、ぐちゅぅっ――!
それを機に、抽送が勢いと速度を増す。
ぱんぱんと肉のぶつかり合う小気味のよい音が響きはじめる。
葉月は目をぎゅっと強く閉じ、身を硬直させて喘ぐ。

「んあ、ぁああっ」

布団をつかんでしわにさせ、そこに唾液を垂らして染みを作る。

「あ、あっ、……ぁぅ、ぅ……ぅあ、はぁっ、ん、ぁひぅんっ」
――我がものとなれ。
「んな、なるっ、なりますっ、ふぁぅっ」

服従を促す暗示が注ぎ込まれる。男に従うよう、そのために生きる生き物になるよう、
命令される。そしてそれを受け入れられるよう、激しい快楽を与えられる。
先にも延べた通り、精神が操られようと、肉体が操られようと、魂が無事である限り、
強大な妖狐の魂はいかなる干渉をも無にしただろう。しかし、今や、男の触手はその魂に
まで及んでいる。
先との違いは、精神へ注がれる暗示が、同時に魂へ注がれる暗示に変化していたことで
ある。肉体へ与えられる快楽が、同時に魂へ与えられる快楽に変化していたことである。
葉月は精神と共に、魂にまで暗示をかけられていった。根源たる魂への干渉を咎めるも
のは、葉月の魂自身が逆らおうとしない以上、どこを探しても、存在し得ない。快楽に結
び付いた服従暗示が、葉月の魂に刻み込まれ、支配が進んでいく。

「なります、なりますぅ、ぅっ、ん、んぅあんっ!」

ぐじゅうっ。
肉体のペニスと魂のペニスが、葉月の肉霊を同時に突く。

――我が使い魔になると誓え。我が意に従い、決して逆らわないと誓え。

ぱんぱんぱんぱん。
ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅぐちゅ。
肉音と粘ついた水音をたてながら、儀式は最終段階へと進む。

「誓い、ますっ、……はぁ、ぁ、っ」

己は従。男が主。逆らってはいけない。そういう認識が、葉月という存在の根底に植え
付けられていく。葉月は男に従うことが行動原理となり、本能的に男に服従するように
なっていく。マウンティングに抗わない。

(めぎつねに、されるっ。にんげんやめさせられるっ)

今まさにアイデンティティに手を入れられていると、そういう自覚が葉月にはあった。
普通でありたいと思っていた。日常に帰りたいと願い、二週間を耐え抜いた。それとは真
逆の方向。守り抜いたはずのものを、今、犯されている。それが――

(きもちいいっ。ペットになっちゃう!)

難しいことは考えられない。ただ一筋の雫だけが目尻からこぼれる。

「あっ、あんぁ……っ、あなたの、つかい、まぁ、ぁっぁっ、なる、ちかいますっ」
――服従すると誓え。忠誠を誓え。
「はい、ぃっ、ちかいます、ぅんっ、ふくじゅ、しまっ、ぁ、あ、ちゅうせ、ちかいま、
すぅっ」

生まれ出た葉月の従心を表すように、ぴんと立っていた耳が、ぺたりと伏せられる。
一方、尾は所在なさげに、葉月の腰の横に下げられている。その尾を男がぎゅっとつか
むと、葉月は声を上げる。

「あぅっ」

そのまま後背位で犯される。尾を握られて交尾をする。

「し、しっぽ……んぅ、ぅ、う、ぁ、あっあっ」

ぐちゅっ、ずちゅうっ、ぐちゅっ、ぐちゅっ。
リズミカルなピストン運動に、葉月は身体を揺さぶられた。一突きのたび、妖狐少女は
身を震わせ、淫らな操り人形として嬌声を歌った。
布団に這いつくばった妖狐の目に、最早何の力も見て取ることはできない。敵を睨み威
嚇する獣の眼は、今や脱力したかのように目尻を垂れさせ、半開きに潤んだ瞳の色も虚
ろ。真珠の唇は舌を乗せては唾液に濡れ、忙しない嬌声と共に、蕩けた顔で服従の誓いを
繰り返す。
そして、そんな葉月の女唇からは、喜悦に呼応した蜜がとめどなく大量に溢れている。
肉霊への責めが、葉月を性感の絶頂に昇り詰めさせる――

「ぅぅ、んぅんんっ、……もう、イキ、そ……っ」

絶頂の予感に痙攣する葉月。それを確認した男は、痙攣する妖狐に応え、その膣奥にペ
ニスを強く押し込む。

「――――」

ぐじゅううっ――。

「はあぁっ!」

ペニスの傘状の先端が膣の奥の奥の最奥に押しつけられる。どくんとペニスが脈動す
る。先端から、ごぶりっ、と放たれる精液。その瞬間、葉月は身を痙攣させ、悲鳴にも似
た声で叫ぶ。

「ぁあっ、あっ、あぁあああ――っ!」

ごぷ、ごぷっ、ごぷぶっ、ごぶぶぷっ、どぷぷっ。
主たる男は葉月の胎内に向けて、大量の白濁液を射精する。さらに、魂のペニスもま
た、葉月の魂の中に魔力を射精。従たる葉月は甘い絶叫で以て、肉霊合わせてそれを受け
入れる。
初となる雌のエクスタシーは、恐ろしいほどに強烈だった。
全身に蓄積された快楽が一気に爆発し。
許容の限界を超えた高電圧のパルスが身体中を駆け巡り。
激しいスパークとフラッシュが脳裏に瞬き。
葉月は痙攣しながら背筋をよじらせる。
ただでさえ、男のそれより何倍も強い性的絶頂の奔流。それをさらに快楽魔力が倍増さ
せてしまう。耐えがたい官能の鉄砲水が葉月の自我を押し流す。

「――――――っっ!」

結果、狐の耳と尾を生やした妖狐少女は、白目をむく。全身を病的なまでに痙攣させな
がら、意識を一時的にホワイトアウトさせる。魂ですらも快楽に痺れ、その活動を極限ま
で停滞させる。
この瞬間、支配を阻むあらゆる障害は消失し、葉月という存在そのものが完全に無防備
となった。男の目論んだ、当初の思惑の通りに。
この機を逃す道理は、ない。
葉月の中で、男の魔力が葉月の魂全体に絡みつき、これを一気に縛り上げる。ここぞと
ばかりに。
魂の支配権を確立するのだ。葉月という存在の三体を統括する魂を得て、連鎖的に、葉
月という存在のすべてを手中に収めるのだ。その上で魂間に回路を形成し――主従の契約
を果たすのだ。
最後の仕上げはすぐに、あっけなく終わる。
しばしして、男が宣言する。

「ここに、妖狐葉月を我が使い魔とする」

葉月の反応はない。失神し、ぐったりとしている。
男がペニスを引き抜くと、びくりと身を震わせるが、それだけだ。だが、そんな葉月の
すべては、今や完全に男の支配下に置かれている。契約に成功したのだ。
男は安堵のため息を長々と吐き出した。
ようやく、と言ってよいだろう。これでようやく、恐るべき妖狐は吸血鬼の軍門に下っ
たのだった。



それからしばらくたった頃。

男――月燕(げつえん)がぼんやり物思いに耽っていると、やがて部屋のふすまがすっ
と開かれた。月燕がそちらへ目をやると、そこには、一人の和装の女の姿がある。長い黒
髪の女である。

「何だ、朔。覗き見でもしていたのか?」

月燕は、和装の女――朔(さく)にそう声をかけた。

「……覗いていません」

朔は部屋に入ると、ふすまを閉める。特有の小さな開閉音がする。
月燕はいつものように結界を張っていたのだが、この娘、わざわざそれを突破したらし
い。簡易な防音防諜の結界であって、突破はさほど難しくないが、この娘がそれを破って
までやってくるとは珍しい。
闖入者は不満気であり、かつ、どこか疲れたふうだ。

「……でも、心配したんですからね。……うまくはいったようで、何よりですけれど」

朔はそう言って、月燕の傍らに視線をやる。月燕の隣には、裸身の妖狐少女が眠ってい
る。
狐らしく耳と尾を備えた少女は、布団の上で丸くなって静かな寝息をたてている。男女
の話し声に反応したか、体毛のある尖った耳がぴくぴくと動くが、目を覚ます様子はな
い。寝顔も気配も落ち着いている。
今回の契約の儀式がどれだけ危険な行為であったか。それをこの少女が正確に理解でき
たとは、月燕は思っていない。だが、彼にとってはまさしく綱渡る行為であったのだ。爆
発寸前の爆弾解体に挑んだのだと言い換えてもよい。失敗すれば、月燕どころか、周囲ま
とめて吹き飛ぶ。朔が気を揉むのも無理はない。
ちなみに、少女が意識を取り戻さないでいるのは、月燕が操って眠らせているからだ。
今起きられるのは何となく気まずく思えたのだ、月燕には。不要な干渉はせぬとは言った
が、このくらいならば「悪くする」うちには入るまい。

「あるじ――」

と、朔が言う。

「私、あるじがいなくなったら、後を追いますからね?」
「……悪かったな」

穏やかならぬ告白だが、月燕としてはそう言っておく他ない。この娘に対しても色々と
責任のある身である。
とはいえ、戦って封印するのも結局は命懸け。ならば、できることはしておきたかった
のだ。今回くらいは。
この尾との因縁は、深い。こうして機会があったならば、苦い記憶を思い出して湿っぽ
い気分に浸ることもあるというもの。月燕も、そしておそらくは、この娘も。
朔は仕方がないとばかりに小さくため息をつく。

「……とにかく、あまり危ないことはなさらないでくださいまし。ところで……」

月燕の視線を追って、妖狐の様子を伺う。

「これが何故暴走しなかったか、わかりますか? 例の吸血鬼に憑かれても乗っ取られな
い辺りで何かあるとは思っていましたけれど……」

その疑問に、月燕は頷く。
妖狐――葉月に、巨大な妖力を自ら制御する術はない。だからこそ、一度暴走した。暴
走したのだが、すぐに我に返った。一時的にとはいえ、理性を取り戻してみせたのだ。そ
のおかげで、こうして封印以外の手をうつことができたのだが、そもそも理性を取り戻せ
てしまうことがおかしい。本来なら、理性なき大妖怪となって暴れまわっているはずなの
だ。月燕と朔は、それをよく知っている。
しかし葉月はそうならなかった。
その要因に、考え付くことがあるとするならば――

「おそらく、相性がよかったんだろう」

それしかないと、月燕には思われる。九尾の妖力と相性が良かったために、呑み込まれ
ずに済んだのだと。しかし当然、九尾に近しい人間などいるはずもない。故に人間なので
はなく。

「推測だが、九尾と混血なのかもしれん」

九尾の血を引く妖狐の半妖なのだと。

「……まさか」

驚きと訝しみを混ぜた顔をする朔。

「これが、九尾の血を引いていると? 子孫がいるなどとは聞いたことがありませんよ。
それに、都合がよすぎではないですか?」

たまたまタイミングよく尾が復活して、その尾が合体した相手が、たまたま、存在する
ともされていなかった子孫だった。そう考えるのは苦しい。だが。

「逆だな」

そんなご都合主義の偶然などではなく。

「こいつは九尾の子孫だからこそ、ここにやって来たんだろうよ。先祖の気配に引き寄せ
られてな。そして子孫だからこそ、封印下にある先祖の尾に干渉して封じを脱出させて、
自分と合体させることもできた。ちょうど身体を乗っ取られかけたり連中に狙われたり、
危機的状況下にあったからな。閉塞状況下で生存本能が力を目覚めさせるというのは、そ
う珍しい話でもない」

つまり、憑りついた吸血鬼を追い出して危機を脱するために、九尾の力を利用した。無
意識に。本能的に。

「尾の方から子孫の血に反応して、寄っていったのもあるだろう。自ら封印を破るには早
いし、といって生まれたての半妖に封印を破るだけの力があるはずがないからな……。九
尾の尾と共鳴できるなど、それこそ血の近しい子孫でなければできない……、はずだ」
「そして子孫だから、九尾の妖力であっても御せると……?」
「御せてはいない。見ての通り。だが問答無用で理性を呑まれるほどでもなかった。……
今も言ったが、推測だからな、あくまで? けど、まあ、今思えば、多少妙な気配はさせ
ていたしな。大したものだとは思わなかったんだけどな」

一方で、かの吸血鬼は、かつて明良と呼ばれた少年に何がしかの力を見出したのだ。そ
れを狙って憑依して、予想以上の妖力に焼かれることとなった、というところだろう。そ
して少年は少年で、敵を追い出すために妖狐として覚醒してしまい、日常に帰れなくなっ
た。今回の顛末はこんなところだ。

「何であれ、もうおとなしいんだからいいだろうよ。とにかく――」

言葉の途中で月燕妖狐に目をやる。妖狐少女の寝顔に、険しいものはない。しかし、そ
の頬に残る涙のあとが意味するところを、心に刻んでおく必要がある。それが責任という
ものだ。

「こうなったからにはここに置くぞ。名前は葉月だからな。覚えてやれ」

使い魔としたならば、放り出すわけにもいかなかった。これからはこの屋敷で共に生活
をしてもらわなければならない。ちなみに屋敷にはもう一人いるのだが、それはさてお
き。

「それは、あるじの決定には従いますけれどね……、でも、あるじさま?」
「うん?」

雰囲気が変わった。唐突に、朔の目が冷やかになる。

「その葉月とやら、都合よく女になったものだと私は思うのですけれど、どうでしょう
ね?」
「……都合よく?」

その目に月燕は覚えがある。呆れと不満と嫉妬が混ざった色の目である。
面白くないと目で主張して、朔が続ける。

「あるじ、これが男のままだったら助けていないでしょう?」
「……んん」
「都合よく女になったから、手を出してみたのですよね? 女の姿なら何でもよいのです
か?」
「いや、そういうわけでは……」

月燕は困ったように眉根を寄せた。朔はしばしば、月燕を女に甘いと評する。あちこち
で女にいい顔ばかりしているとも。それは必ずしも間違いではない。似たような例で、過
去に女を囲ったこともあった。しかし、今回は――今回も?――何も色気を出しているわ
けではない。
誤解である。しかしそうかといって、もし葉月が少年のままであったならば、さすがに
性魔術などできていないのも事実。
他の手も探しただろう。しかしどれもうまくいかず、結局は戦って封じる羽目になった
はず。故に結果だけ見れば、女だから助けてやったのだと言えなくもない……かもしれな
い。しかも今回は、元男だ。女の姿なら誰でも良いなどと――そんなことは決してないの
だが。

「今わかりました。あるじも男を女にするのが、お好きなのですね」
「……俺がやったみたいに言うな。こいつが自分でなったんだ」

無論、葉月が自分の意思で女になったわけではない。九尾の人間態がこうだったのだと
思われる。九尾の妖力の影響が大きすぎ、それに引きずられてこの姿に化けてしまったの
だ。葉月は暴走時に一度巨大な狐の形態となり、理性を取り戻すなり少女の姿となってい
たのである。
もっとも、妖狐は自在に化けるものだ。いずれ自ら妖力を制御できるようになれば、男
の姿にもなれるだろう……何世紀かすれば。月燕がそう説明した時には、葉月は何とも形
容しがたい表情をしていた。

「でも、元男な女って、好きですよね?」
「…………」
「好きなのですよね?」

違うなんて言いませんよね、と朔の目が言っている。ここで否定すれば、目の前の娘が
どんな顔をするか。
月燕が答えに窮するうち、朔はまたもため息をついた。

「まあ、いいですけれど。何というか、色々と久しぶりな気がします」

そう言って立ち上がる朔。

「心配し疲れましたから。もう寝ます」
「ああ……、おやすみ」
「おやすみなさい、あるじさま。可愛らしいペットができてよかったですね?」

そうして、最後にそう言い残し、朔は部屋を出ていった。
静かに閉じられるふすまを眺めながら、月燕は思った――やはり覗いていたのだなと。
最初は心配するが故に、様子を伺っていたのだろう。感じられた緊張の残滓は、何かあ
れば飛び出せるようにと、あの娘が気を張っていたからだ。しかしそのうちに月燕が自分
を放って新しい女とよろしくやっているように見えてきて、面白くなかったというところ
か。
朔のあんな顔も、思えば久しぶりで、懐かしくもある。それは朔にしても、なるほど、
「久しぶり」なのだ。

(とりあえず、仲良くやってくれるといいんだが)

傍らで迷惑気に唸りだしていた妖狐少女を再び寝かしつけ、そんなことを思う月燕で
あった。



同刻。

「こんな、馬鹿な……!?」

深夜の裏路地に、狼狽する男がいた。その周りには干からびて土気色になった死体が、
無残な体で転がっている。そして男の眼前に立つのは、ひとりの人影。
その人影は、姿形こそは人間に見える。極端に体格が異なるでもなく、異形の器官を備
えるでもない。その外見は人間と変わらぬものだった。だが、人間ではありえない。これ
ほどの鬼気と魔力を纏ったものが、まさか人間であるものか。

「まだ、これほどの力を残しているとは……っ」

その存在は、本来ならば九分九厘まで焼き尽くされて半死半生となっているはずだった
のだ。だからこそ、男たちは戦力を分散させてでも、これの発見を優先して人海戦術を
とった。それが裏目に出た。
男たちはいとも容易く結界の内に取り込まれ、同行していた二人はそのまま瞬く間に殺
されてしまった。正確に頸椎だけを砕いて絶命させるその手際。それは最早ただの作業だ
と、そう言っているようにさえ男には思えた。
無駄な破壊を嫌ったのは、失血を避けるため。血液を漏らさぬよう絶命させ、然る後
に、首に噛みついて吸血する。眼前の怪物じは同行の二人の命を奪うと、その血液を余さ
ず吸い尽くしてしまったのである。そして後に残ったのが、そこに転がるミイラだ。
この間、男にできることは何もなかった。それはそうだろう。衰えてなお、これほどに
強大な相手である。手の出しようがない。
逃げ出そうにも、結界が強固で破れない。応援を呼ぶことも不可能だ。いずれ連絡がな
いと本家は慌てるのだろうが、その時には男もまたミイラになって転がっている。
これではそう――ただの犬死。

「く、く……!」

怪物の邪悪な気配に気圧され、じりっと退がる。しかしここは袋小路。背後には壁。ど
うにもできない男に向かって、人型の怪物が無言で近づいてくる。その身から発せられる
重苦しいプレッシャーが男に強い緊張と恐怖を強いる。

「く、くそっ!」

男は苦し紛れに、呪符を放った。呪力を込めて退魔の呪術を起動する。すると、投げつ
けられた呪符を中心に赤々とした炎が爆発し、怪物に襲い掛かった。
しかし悲しいかな、男の乏しい呪力では、目の前の怪物に傷をつけることは叶わない。
怪物は呪術による炎を鬱陶しそうに手で払った。無視しないだけ、弱っているのだと言
えるかもしれない。だが、それだけだ。爆炎がはれたその時には、何事もなかったかのよ
うに、怪物が近寄ってくる。

「う、ううううう」

少しでも距離をとろうと、男は壁に背を押しつけた。まったく無意味な行為は恐怖の表
れ。表情を悲壮に歪めながら小さく首を振る。そしてその首に怪物の手が伸ばされた
時――男の生涯はあっけなく幕を閉じることとなった。ごきりという音が鳴ったのだっ
た。
首をあらぬ方向に曲げた男は一瞬痙攣すると、すぐに力を失ってくずおれる。怪物はそ
の身を抱き留めると、大口を開けて、絶命した男の首に喰らいつく。
牙を突き立て、命の素を吸い出し、喉を鳴らして嚥下していく。

「……足りないなァ」

やがて怪物は男を放り出すと、ぼそりと呟いた。
同時に、放散されていた気配が薄れていく。まるで萎びてしぼんでいく風船のよう。そ
のうちに、怪物の存在感は弱弱しく希薄になってしまい、ただの人間と変わらぬほどにま
で弱体化する。先ほどまでの圧力が嘘のように消え去る。
ふらりと立ちくらみを起こして壁に寄り掛かる怪物。その姿からするに、半死半生とい
うのもあながち間違いではないのかもしれない。ただ、そんな状態であっても並の術者な
ど歯牙にかけないだけで。

「小僧め……。この私をこうまで弱らせるとはね」

月明かりも半端な路地で、忌々しげに愚痴をこぼす。その顔がふと持ち上げられる。怪
物は、どこか遠くを見るような目をする。

「……安定したか。そのまま暴れていればいいのに」

怪物はそうひとりごちると、三体のミイラが転がる中をゆっくりと歩き、どこかへと
去っていく。

「まだ、死なない。我が大望を果たすまでは――」

まだ終わっていない。



第二章 人外たちの朝



――まだ、死なない。我が大望を果たすまでは。

「――――っ!?」

得体のしれない声を聞き、そのショックに少女は目を見開いた。
慌てて掛布団を跳ね飛ばし、飛び起きる。周囲を確認すれば、そこは畳敷きの和室。
息が荒く、冷たい汗が頬を伝っていく。

「ゆ、ゆめ……?」

少女は呟くと、未だ動悸のする胸を労わるように、ゆっくりと呼吸をしながら部屋を見
回した。
別段狭くも広くもない部屋だ。ただ、特にものが置かれていないせいで、実際よりも広
目に感じられる。あるものと言えば、今こうして畳に敷かれている布団くらいのもので、
少女はそこに寝ていたらしい。
もう朝である。陽の光が差しており、部屋は明るい。

(あ……)
――昨日、ここで……。

不吉な夢を非現実として片づけてしまうと、少女の中で、記憶がよみがえってきた。昨
晩、ここで何が行われていたか――そんな記憶が思い起こされる。

「…………」

少女は「んんっ」と咳払い。やはり可愛い声。
尖った耳をぴこぴこと動かしてみる。自由に動かせる。
身体を見下ろしてみると、裸身は白く、胸には確かなふくらみ。
腰にはふさふさの尾があってこれも動かせる。股にペニスの感覚はない。その代わり
に、何とも言い難い感覚が内部のほうにある。
ふう、とため息をつく少女――その名を葉月。

(セックスしたんだった……)

この身体で、女として、月燕と、である。散々よがった上に、色々と口走っていたよう
な覚えがある。
その時の情景や感覚が思い出されたところで、葉月は頬を染め、無意味に視線を左右に
彷徨わせるなどした。使い魔ならば伽くらいはするものとしても、あまりにはしたなくし
てしまうのは憚られる。
しかし、その後どうなったのかが記憶にない。そのまま寝たのだろうか。汗やら汁やら
で汚れたままで? 葉月が自らの肌を撫でてみると、あちこちがべたついているようで、
さすがにあまり心地よいものではなかった。シャワーを浴びたくなる。

(シャワー……、まあ、うん……)

何かを誤魔化すように、葉月は手櫛で乱暴に髪を梳いた。長い髪は、その毛こそ柔らか
かったが、絡まりがちで手櫛の通りはよくなかった。

(それにしても……、どこに行ったんだろ?)

葉月は再び辺りを確かめる。月燕の姿はない。儀式とやらはうまくいったのだろうか。
首に手をやっても、わかりやすく首輪がはめてあるなどということもない。
月燕の言葉によれば、彼の使い魔とされるにあたって、何かを弄られたはずである。何
をどう弄られたのだろうか。気になるところだが、同時に、それを知るのは怖くもある。
と――そんなことを考えている、その時だ。そこへ何者かがやってきて、声をかけてく
る。いや、何者かではない。何物かが。

「よう、お目覚めかい」
「あ――え、えっ!?」

葉月は何某かに返事をしようとして、固まった。そこにあったのは人の姿ではなかっ
た。

「か、刀?」

そう、一振りの刀であった。何と刀が宙に浮いていたのだ。見えない糸に吊るされてい
るが如くに。
立派な拵えの華やかな長刀が、鞘に収まった切っ先を下にして、宙に浮いている。その
刀が、どこからか言葉を発する。

「刀だよ? 緋月ってんだ。あるじが――月燕が、様子を見てこいって言うんでね。よろ
しく」

勘違いでも空耳でもないらしい。まさしくその刀が、声を発して話しかけてくる。女性
の声である。葉月は目を白黒させつつも、どうにか挨拶を返した。

「よ、よろしく……?」

一体どこからどうやって声を出しているのかは不明だが、刀自身の言葉によれば、銘を
緋月というらしい。その名からすると、月燕の使い魔仲間であるとか、そういう類か。

「で?」
「え?」

困惑していると、緋月が要求する。

「お前の名前は?」
「……え、あ、うん」

相手は刀なだけに、表情が伺えない。そのおかげで、葉月はやりづらい。どこを向けば
いいのだろうか。鍔だろうか。
とりあえず、

「私は……葉月」

と答える。
すると緋月が首をかしげる――ような気配を見せる。

「葉月? 何だ、葉月ってつけたのか」

その妙な納得の仕方が葉月にはよくわからない。

「……?」
「いやなに」

緋月は言う。

「昨晩は満月だっただろ? だから満月(みつき)にするだろって、思ったんだけどな。
当てが外れた」
「いや、それはどうだろ……?」
「我らがあるじのネーミングセンスなんてそんなもんだぜ。朔姉なんか完全にそうだ。朔
の日だったから朔だって話」

その言葉に、葉月は気になるところがある。先にもそれらしいことを言っていたが。

「緋月……さんも、その、ご主人さまの使い魔か何か?」

尋ねると、刀は束の間動かなくなった。
しばしして、妖刀は興味深そうな声を出す。どうも、観察しているようだ。どこに目が
ついているのかは不明だが。

「ふぅん?」
「……な、何?」
「いや別に。それより、緋月でいいよ――俺の場合、使い魔っていうか、武器だから。妖
刀の付喪神だからな、俺。あるじの武器やっててそろそろ半世紀ってところ。ちなみに
昔、緋色って女がいてね、そいつに縁があるから緋月。単純だろ」
「……」

それは知らないが。
こうしてよく見てみると、葉月はこの刀に見覚えがある。

「もしかして、ご主人さまがずっと腰に差してた?」

葉月は吸血鬼として逃げ回ったこの二週間、月燕に何度か出くわした。その時は逃げ回
るのに必死だったものだが、思い返してみれば、月燕はこんな刀を差していた記憶が葉月
にはある。

「そうそう。俺としちゃずっとお前を斬りたくて仕方なかったんだがね、あるじが許して
くれなくてね」
「え」
「俺ちゃんは刀だもの。斬るのが仕事で斬るのが本能。でかい獲物を見るのはいい女を見
つけるようなもんさ。斬りたくなるだろ?」

緋月はそんなことを言いながら、宙でカタカタと揺れる。人間でいうところの肩をゆ
すって笑う動作なのだと、葉月は見当をつける。身を強ばらせて退く。

「……」
「びびんなって。もうしねーよ。ところで、前を隠したらどうだい」
「え。あっ」
「眼福で結構だけど。俺はもうちょっと肉付きがいいほうが好み」
「っ」

緋月に裸を指摘され、葉月は慌てて前を隠した。昨晩から何も身に着けずに寝ていたよ
うだ。故に今も、裸身を晒していたのだった。そもそも裸身であることは、今確認したで
はないか。
刀に肌を見られることを、恥ずかしいと思うべきかはわからない。ただ、女になったせ
いだろうか。気にしだすと落ち着かない。

「着替え、用意してあるぜ」

緋月が刀身を傾け、器用に切っ先で布団の横を指した。葉月は畳まれ置かれた衣服を確
かめ、顔をしかめる。

「これ、スカート?」

そこにあったのは、一般に女性用とされる衣服。スカートそのものであった。幸いと言
うべきか、丈は短くない。ロングスカートである。そしてトップスはセーターにシース
ルーのプルオーバー。葉月にはそれらがどんなものであるか知識を持たなかったが、デザ
インからしてレディースであることはわかった。
さらに。
触れるべきか触れないべきか迷ったのだが、そういうわけにもいかない。下に隠れてい
たこの小さな布はもしかしなくとも――

「………………」

パンツ。でなければショーツ。

「お前さんが着てた服はぼろぼろになっちまったし。それ、朔姉が貸してくれるってさ」

その上さらに、使用済みであるらしい。いや、洗濯はしてあるのだろうが。そういう問
題ではない。
葉月はしばらく沈黙してから、一応聞いてみる。

「他にはないのかな?」
「さてね。そりゃあるだろうけど。けどどっちにしろ、そんな感じじゃないと、自慢の
しっぽが隠れないぜ」
「……あ」

妖刀の指摘を受け、葉月は背後を振り返った。自らの腰から生えた狐の尾は、決して小
さいとは言えないものだった。例えばズボンを履いたとして、なるほど、これが中に収ま
るはずもない。尾を外に出すことはできるにしても、今度は目立ってしょうがない。何の
コスプレかと思われてしまうことだろう。
一方、丈の長いスカートならば内に尾を隠すことができる。この身は女に変わってし
まったのだから、女の服装をしても奇異には見られまい……多分。あとは帽子でもかぶっ
て、耳を隠してさえしまえば。

「うん……」

葉月は唸った。これらを身に着けることがとにかく嫌だから――ではなかった。逆に、
そこまで嫌とは感じなかったためだ。さすがに初めこそは面食らったが、少ししてみる
と、案外受け入れられそうな気がしてくる。その理由は考察するまでもない。性自認が女
なのだ、もう。女が女の服を着るだけなのだから、おそらく――着られる。
昨晩、契約の儀式とやらをするまではそんなこともなかったはずなので、誰の仕業であ
るかはわかりきっている。

(なるほど。ここを弄ったのね……)

といって、憤るべきではないだろう。精神的に男のまま、男に抱かれるなんてできたは
ずがないからだ。それに、この身が女であるのに、精神だけ男のままでも苦労するだけで
ある。つまり、これも仕方がない。
もっとも、この変化を今すぐ当然と受け止めるのは難しい。しばらく戸惑うくらいは許
されて然るべきだ。男に変化できれば話は簡単なのだが。
――これも含めて受け入れろってことかな。
葉月はわずかに瞑目し、観念を表した。

「わかった。わかった着るよ」

そうするより他にないからだ。ただし。
葉月は宙に浮いた緋月に目を向ける。と見せて、いまいち真っ直ぐは見づらい。上目遣
いになる己を葉月は自覚する。

「……でも、その前に、その、シャワー借りられる? ……ある?」

着替える前に、べたつく身体を何とかしたい。

「そりゃああるよ」
「あと、その」

葉月はもじもじと内腿をすり合わせる。

「?」
「……トイレどこ?」



トイレには、妖刀が案内してくれた。この妖刀ときたら、宙をすうっと真横にスライド
移動するらしい。今は朝なので、それも不思議に見えるだけだが、真夜中にこれを見てし
まったならば、不気味に感じるに違いない。

「ここだよ。おしっこ初体験だな?」

緋月はそう言って、いかにも愉快ですとカタカタ笑った。それに葉月は多少苛立つ。月
燕も存外に気が利かない。ちゃんと面倒を見てもらいたいものである。

(あ……いや、やっぱり、いいかな……?)

複雑だった。
なお、汚れたままで服を着るのは躊躇われたが、何も裸で出歩いているわけではない。
襦袢(和風の薄い下着)を借りた。こちらもちゃんと用意してあった。女性用ではあるよ
うだが。
そうして、葉月はトイレに入る。木の扉ついた丸ノブを回して中に入ると、そこにあっ
たのは洋式トイレであった。屋敷が和風である割に。妖刀にぼやいてみると、何でもこち
らの方が便利だから変えた、だそうである。白い便器は綺麗に磨かれていて、特に変わっ
た点は見当たらない。

「やり方、わかるか?」

外から妖刀が声をかけてくる。葉月は鍵をかけつつ、それに答える。

「わ、わかる」

多分。
まず、便座を下ろしてから――ご主人さま上げっ放しじゃんと葉月は眉をひそめた――
襦袢の裾をたくしあげる。裾は足首に届くほど長いので、半端にあげても意味がない。
よって、用を足すには、これを胸元まで一気にたくし上げて、抱えなければならなかっ
た。そして便座に座る。女といったら、小さい方であっても座るだろう。さすがにその程
度のことは女初心者である葉月にもわかる。

(……ちんこ、ないけど……)

しかしここで、葉月は少し迷った。座ったはいいが、どういう体勢になればいいだろう
か?

(足は開いたほうがいいかな……?)

何せ、出る位置がよくわからない。とはいえ、まさか外まで汚すようなことは物理的に
ありえない。一応、心持前傾姿勢をとっておいて、下腹部から力を抜く。すると、どうや
ら排尿できるようである。
耳慣れない音がしはじめる。知らないところから尿が出ていくので、葉月は不思議な感
覚を覚える。

「しーしーしー」
「ちょ、やめてっ」

緋月が排尿音を実況するので、葉月は顔を赤くするのだった。


続いて。
用を足した後は、シャワーを浴びなければならなかった。おかしいことではないはず――
と葉月は己に言い聞かせる。あまり詳しいことはわからないが、世の女性達も、そうい
った行為の後には身を清めたいと思うに違いない。
というわけで、緋月に先導され、風呂場へとやってくる葉月。
途中で月燕に出くわしたらどうしようと思ったが、この間、誰の姿も見ることはなかっ
た。違う方向から物音がしているので、そちらの方にいるようである。それにしても広い
屋敷だ。
葉月は脱衣所に入る。白物家電がでん、と鎮座しており、目につく。

(洗濯機がある。使うんだ……)

しかも見たところ、意外に新しい。葉月は頬をかいた。そして先ほどの着替えをそっと
置き、襦袢を脱ごうとすると、緋月がすぐ近くにいる。

「ちょっと、出てってよ」

すぐ横の鏡に映った妖狐少女を気にしつつ、葉月は妖刀を咎めた。すると緋月はかちゃ
りと上下に揺れた。それはどういう類の仕草なのか。

「これは残念。ところで、オナニーしてきてもいいけど、あんま長くするなよ」
「おな――」

唐突な下ネタに、葉月は頬をぴくりとさせる。

「するかっ」
「そうか?」

誰がするものか。葉月はそう言い返そうとしたが、何故だか妖刀が不思議そうにしてい
る気がして、不思議と不安になった。「え、しないの?」と、まるでそんなことを言われ
ているような気がする。しないだろう、普通? 葉月は己に問いを投げかけた。

「まあいいや。さっさと洗って、着替えたら、居間に来いよな、飯だから……そうそう」

宙を移動する妖刀は、脱衣所から出て行こうとしたところで、振り返るように刀身を回
転させて、こう言う。

「忘れてたが、言っとこうか。我らが人外屋敷へようこそ、新入り。歓迎するぜ」
「……よろしく」

葉月としては、無難に答えておくしかない。


緋月がどこかへ行った後、葉月は早速シャワーを浴びることにした。裸になって風呂場
に入るが、妖刀がいうような行為に及ぶ気はさらさらない。

(そんなことしたら、絶対に聞かれるし)

変な物音やら声やらを出せば、すぐにばれてしまうことだろう。緋月にも、そして月燕
にもである。緋月のほうはともかく、月燕がわざわざ聞き耳をたてているということもな
いだろうが、そうでなくとも、吸血鬼は人間と比較にならぬほど耳がよい。それを葉月は
よく知っている。こちらが向こうの音を聞き取れるように、向こうもこちらの音を聞き
取っているはずである。

(……ていうか、この音、テレビ?)

あるんだ、と呟きながらシャワーノズルを手に取る。風呂場もごく普通だった。どうも
古い和風の風呂を、後になって改装した様子がある。ひのきの浴槽と洋風のタイルやステ
ンレスのシャワーヘッドが、もしかするとアンマッチかもしれない。あちらこちらに水滴
の拭き残しがあるのは、先に誰かが使用した後だからであろう。

(全部拭かないとカビるよ、ご主人さま)

その辺りも使い魔の仕事だろうか。後でやっておこう、と考えながら、葉月はシャワー
コックを捻って湯を出す。何となく鏡を流してみる。水流が曇りを流した後、そこに映る
のは少女の裸身である。

「……」

変わり果てた姿を、こうしてまじまじと見るのはこれが初めてだった。見下ろす己の身
体と鏡に映った身体、どちらを見ても男に見える部分は見当たらない。女の裸だ。が、や
はり欲情のしようがない。乳房を見ても丸い尻を見ても、葉月には特に思うところはな
い。ああ変わったものだと、感慨こそあれど。

「ふーん」
(ほんと女なんだ)

二重の意味で。
月燕ときたら、よくも元男など抱けるものだと葉月は思っていたが、これならば案外で
きるものかもしれない。とはいえ今となっては、推測することしか葉月にはできない。男
性的な思考など。

「まあ、女っていうか、雌っぽいけどね……」

ぼそりと呟いて、葉月は尾を振ってみる。毛は意外と柔らかく、それでいて空気を含ん
で広がり、ふさふさとしている。それが尻や腿に擦れてくすぐったかった。
立った状態では全身が映らないので、葉月はかがんで鏡を覗いてみる。少女めいた顔が
こちらを覗き込んでくる。お互い、髪が垂れてきて鬱陶しい。頭部には耳が生えている。

(全然面影ないね……まあ、いいけど、もう)

葉月は再びコックを捻ると、さっさと流してしまうことにする。髪に水滴が跳ねると、
どことなく甘い香りがするような気がした。

(耳、お湯が入らないようにしないとダメだよね)


余談だが。
葉月はこんなことも呟いていたのだった。自らの股に手を触れて。

「洗った方がいいのかな、この中も……」



シャワーを浴び、どうにか着替えを身に着けた葉月は、いくらか小さくなった足で板張
りの廊下を歩いている。
緋月は人外屋敷というが、特におどろおどろしい雰囲気であったり、妙な物が置いて
あったりはしない。ごく普通の和風家屋である。
あえて言うことがあるとすれば、板張り畳敷き木造の風情ある家屋が、現代っ子の葉月
にとっては目新しいというくらい。家屋自体はなかなかに古いもののようで、そこここに
年季が感じられる。一体築何年の物件だろうかと、葉月は考えたものだ。
住宅街に密集している家々と比べれば、規模も大きい。居間がどこにあるのかも、葉月
にはわからない。しかし、迷うことはなかった。何やら気配のする方に足を向ければよ
かったからだ。
葉月は、居間とやらに足を踏み入れる。すると、そこには予想外の光景があって、思わ
ず呆れの声を上げることとなった。

「……何してるんですか?」

畳敷きの部屋には、足の短い木製のテーブルが置かれ、それを囲むように座布団が敷か
れている。そこに男女が腰を下ろし、揃ってテレビを見ていたのだった。
もっとも、テレビを見ているらしいということは既に何となくわかっていたことであ
る。なので、予想外であったのは、彼らが見ている番組である。N○Kの連続テレビ小説。
朝の放送分は、日曜日を除いて毎朝午前8時から15分間を放送している。
葉月の声に反応して、男女が視線を向けてくる。

「ああ、おはよう。少し待ってくれ」

そんな月燕の言葉に、葉月はテレビ画面右上の時刻表示を見た。8時14分。どうやらも
うじき番組が終わるらしい。

(ってそうじゃなくて)

何だこれは、と葉月は首を捻る。月燕と、それから見覚えのある女性がN○Kの連続テレ
ビ小説を視聴している。絵面だけを見れば特におかしいこともないだろうが、この二名、
吸血鬼である。人外屋敷と言うからどんなものかと思えば、この有様。あまりに俗っぽい。
やがて番組が終わったところで、改めて月燕が葉月に挨拶の言葉をよこす。

「おはよう、葉月」

所在なく立ち尽くしていた葉月も、これに応える。

「おはようございます、ご主人さま」

自然と上目づかいになって、月燕の様子を伺う。シャツにズボンといったごくありふれ
た姿の吸血鬼の様子は、とても自然体である。一方で、葉月は、使い魔としてどのように
主人に接するべきなのか、よくわかっていない。
擦り寄っていって媚を売るべきか、それとも、指示を待つべきか。
と、自然体と思われた月燕が、片眉を上げている。何か間違えただろうか。葉月は目を
伏せた。しかし主人ならばいざ知らず、使い魔の側に、主の頭の中を覗く能力はない。
葉月はどんな言葉を口にするべきかとやや考え、まず確認をする。

「…………あの」
「ん?」
「契約、うまくいきましたか?」

とはいえ、答えはわかっている。予想通りの言葉を月燕が口にする。

「ああ。ちゃんと成功した。もう大丈夫だから、安心していい」
「……そうですか。わかりました」

葉月はもう、この男の使い魔。月燕に飼われるペットなのだ。目の前の吸血鬼が自らの
主人であると、妖狐は自然と認識していた。

「そう肩肘張らないで、気楽にな」

月燕がぽんぽんと葉月の頭を撫でる。葉月は頭を撫でられながら月燕を見上げる。

「家に帰してやれなくて悪いが。昨日も言った通り、その代わりに、うちに置いてやるか
ら」
「はい。その……いいですか?」
「遠慮するな。元よりそのつもりだ」

――つまり、居候。いや、使い魔だけど。
葉月は素直に頷いてしまっていいものか判断しかねたが、しかし今更放り出されてし
まっても行く当てがない。

「お世話になります」

せめて殊勝に見せて、頭を下げるのだった。


「しかし、何だな」

月燕は葉月を上から下まで眺めると、妖狐少女のいでたちをこう評した。

「可愛いな、随分」

葉月は用意された衣服をそのまま身に着けていた。つまり上にセーターと透けたプル
オーバー、下にロングのスカートという姿である。狐耳を頭部に生やした少女がそんな恰
好でいた。なお、尾はどうにかスカートに隠れている。
似合わないとは、葉月自身も感じなかった。自分と月燕の感性がおかしくないと仮定す
るならば、可愛らしいと、そう言ってしまってもいいのかもしれない。
ただし恥ずかしくはある。女物の服を着ることはできても、女装姿を見られるのはまた
別だった。特に月燕は、葉月が生まれついての女性でないことを知っているわけで。羞恥
の感情を反映してか、耳が伏せられるのを葉月は自覚する。

「うん、似合いますね」

そう言ったのは、月燕の隣の女だった。長い黒髪の女性で、服装はミニ丈のフレアワン
ピースにニットのカーディガンを羽織っている。そして長い脚には黒のタイツ。女のファ
ッションはやはり葉月にはわからなかったが、いわゆるオシャレなのだとはすぐにわか
る。相変わらず美人だ。
――それだけに怖い。

「でも、ブローはもう少し気を使った方がいいですね」
「ぶろー?」
「ドライヤーとブラシのことです。ブラッシング、しました?」
「え、いや……手櫛で……」
「そっか。見てあげればよかったですね。後でしましょうね。しっぽもかな」
「……はい」

葉月はこの女に、覚えがある。

「あなたが、朔さん?」

言葉にしてみてから、酢酸みたいだなと思った。どうでもいいことなのだが。

「はい。朔といいます。朔でいいですよ。あるじの――月燕の妻です」
「え、妻?」
「はい。すみませんでしたね。色々ありましたが、よろしく」

そして、手をさしだしてくる。握手をしようというのだろう。
だが、実のところこの女は、かつてこの二週間の間、葉月――明良――を狙って散々に
追い回したひとりなのであった。月燕とは違い、この女は明良がすぐにでも例の怪物に
乗っ取られるものと見なし、襲いかかって来たものである。
葉月はこの女に殺されかけたことが何度かあった。故、朔の手を握りに行く葉月の手
が、いささかならず恐る恐るといった気配を帯びたのも、無理からぬことだろう。
とはいえ、これが和解の意思表示であることは葉月にも理解ができる。釈然としないも
のはあるものの、いつまでも反目していても仕様がない。何せ、葉月の主の妻であるらし
いので。少なくとも、いきなり噛みつかれるようなことはないようだ。

「葉月です。よろし、く――……?」

葉月は朔の手を握るも、すぐに硬直した。妖刀の言葉を思い出したからである。葉月は
今、誰の服を借りているのだったか。

(て、あれ? 私この人の服着てんの?)

借りているのは服と。
それから、パンツである。

「?」
「あ、あの、服、ありがとう」

葉月は誤魔化した。誤魔化したつもりである。一方で、朔には妖狐の内心を読み取った
様子はない。

「気にしないで。サイズは大丈夫ですか?」
「……うん。ところで――」

葉月には聞いておきたいことがある。

「朔、は、えーと」

本人の言によれば、月燕の妻であるらしい。葉月が素早く目線を走らせると、朔は左手
の薬指に指輪をはめている。さらに言えば、月燕もだ。
葉月は思い出した。そう言えば、昨晩も月燕の指にはこれがあったはずである。その時
は、そこまで気にする余裕がなかったが。
しかし、そうなると。

「朔はご主人さまの使い魔とは、違うのかな?」

この女、月燕のことを思いきり「あるじ」などと呼んでいるではないか。葉月は月燕と
朔に交互に視線をやった。
すると朔が少し考えて、

「んー使い魔とは少し異なりますけれど。そうですね、継子は知っていますか?」

と質問で返してくる。
かの伝説の吸血鬼に憑依されて同居状態にあった時、葉月は吸血鬼に関する情報をいく
らか得ていた。それによれば、継子とは吸血鬼の親子関係を示す言葉で、誰か吸血鬼の子
であることを指す。
吸血鬼は妊娠出産といったプロセスで子を成すのではない。親となる吸血鬼が自らの血
液を人間に与えることで、血が継承されて、その人間が吸血鬼となる。こうして吸血鬼は
増えるのだ。この際に新しく誕生した吸血鬼が、親に対して継子と呼ばれる。
ここでその言葉を持ち出すということは、つまり。

「知ってます。あいつに聞いたから。……じゃあ?」
「私はあるじの継子ですよ」

葉月の推測を朔が肯定した。葉月が月燕に確認の視線を向けると、月燕もまた頷く。

「……なるほど」

吸血鬼同士の絆の形は、葉月にはよくわからない。が、何にせよ、この男女は親子であ
り、かつ夫婦であるらしい。

(でもそうなると、昨日のあれ……)

つまり、葉月が昨晩に月燕と行った性魔術は――

(不倫じゃない?)

月燕は妻帯者。すると、葉月は妻帯者とあんなことをしてしまったことになるわけで。

(え、どうだろ? 違うよね、そういうのとは……)

葉月はやはり恐る恐ると朔の顔色を伺った。あれはあくまで、契約のための儀式であ
る。泥棒猫ならぬ、泥棒狐――そんなふうに受け取られてはたまらない。再び胴体に大穴
を開けられるような羽目になるのは御免である。
葉月は朔と握手こそしてはみたものの、なおびくびくしている。

「お、お手柔らかに、お願いします」
「そんなに怯えないでもいいですけれど……」
「だからやめろと言ったんだ」
「仕方がないではないですか。あの時はああするしかないでしょう? ――あ、もうしま
せんよ、本当ですからね」
(そっちじゃないけど、いやそっちもだけど……、まあいいや)

痛めつけられることがないのであれば、それでいい。ただ、下手に機嫌を損ねないよう
にしたほうがいいだろう。
などと葉月が考えているうち、また誰かがやってきた。

「――お、着てるな。似合うじゃん」

その声に葉月が振り向くと、そこには知らない女がいたのだった。

(まだいるの?)

と心の中でひとりごちたが、それも違う。葉月はこの声に聞き覚えがある。というよ
り、つい先ほどまで耳にしていたばかりである。具体的にはおしっこがどうとか、オナニー
がどうとか。ろくな台詞の覚えがない。

「もしかして、緋月?」

確かめてみると、やはり先ほどの妖刀の声で、女は応える。

「おうよ」
「……」
(いや、確かに女の声だったけど)

葉月は女の姿を眺めてみた。緋月という名の妖刀は、人間の女性に化けていた。
襟ぐりの広いニットソーにデニムショートパンツといういでたち。ここにニーハイブー
ツでも履かせれば、いかにも街を歩いていそうだ。こちらまで妙に美人で葉月は釈然とし
ない。

(そもそも、妖刀って化けるんだっけ?)

疑問である。
そんな葉月の視線の意味をくみ取ったか、緋月が言った。

「人化くらいするぜ。でなきゃ飯が食えないだろ」
「飯……え、食べるの?」
「食うさ! といっても代償行為ってやつだけどな。斬らせてもらえないから、その代わ
りに食って欲求不満を解消しておくんだよ」
「うーん」

葉月にはよくわからない。

「このバ刀ときたら、大食いで。もっとつつましくしろと言っているのですけれどね」

朔が緋月に目を向けるも、人化した妖刀は「やなこった」とにべもない。

「いつも言ってる通り、文句はあるじに頼むぜ。斬らせてくれないのが悪いんだからな。
――で、葉月、かわいいじゃんか」

唐突に緋月が話を向けてくる。
理由は不明だが、緋月にそう言われても、葉月は不思議と恥ずかしさを覚えなかった。

「え、うん。ありがとう……?」
「で、やったか? お約束」
「……?」

緋月が何やら質問を投げるも、葉月は首をかしげる。何のことかわからない。

「これが俺? ってやつだよ、何だやってないのか」
「……知らない。何それ」
「それもしないのかー。勿体ないやつだなぁ」
「……」

意味不明だ。黙り込む葉月をよそに、緋月は座布団に腰を下ろす。そして急かすように
他の三人を振り返る。

「そんなとこにつったってないで、飯にしよう飯。腹が減ったよ」
「――自由なやつでしょう」

朔がやれやれと呆れている。
葉月にも、緋月の奔放なひととなり――刀となり?――は何となく理解できた。しか
し。

(……まあ、これはこれで)

変に気を張って堅くなってしまうよりは、これでいいのかもしれない。もっとも、この
妖刀の振る舞いはこれが素なのだろうが。

「――緋月も言ったようだが」

月燕が言った。

「うちへようこそ。歓迎するよ。おいおい慣れていってくれ」
「……うん」
「よし」

そしてこの段を締めくくるように、葉月の肩を叩くのだった。

「さあ、自己紹介はこんなところでいいだろう? そろそろ食事にしよう」


ちなみに。
朝食として供されたのは、これまたごくありふれた和食であった。白米に味噌汁、たく
あん、鯖の塩焼きに出し巻き卵、納豆のネギ添え、ほうれんそうのひたし、etc...
人外屋敷というから何が出てくるかと思えば、やはり俗。
変わったところがあるとすれば、人数の割に品数や量が妙に多かったことだが、ひとり
だけやたらと箸の動きが忙しなかったので、大半が妖刀の胃袋――そんなものがあればだ
が――に消えて行ったようだ。
そして緋月がもくもくと食べ続ける横では、月燕と朔が思い思いのペースで食事をつつ
きながら、テレビニュースなどを見つつ他愛のない会話をしていた。
まったく以て平和な光景である。これらがすべて恐るべき人外であるなど、少しも感じ
させない有様。人外ってこんなものなの、とは葉月の内心だが、しかし一方で、これが有
り難い風景であることを葉月は知っている。
まともな食事自体が、葉月にとっては二週間ぶりなのだ。シャワーを浴びたのもそうで
ある。こうして落ち着いていられる時間など、極限状態で常に気を張り、街を右往左往と
孤独に逃げ回っていた頃にはなかった。人間のそれと変わらない団欒の風景は、かつての
日常そのままでこそなけれども、葉月の精神にようやくの安堵を与える。
――人間じゃ、ないけどさ。
新たな立場とやらに、早々に慣れるほど器用ではない。ただ。
ただ、少なくとも地獄は脱したと。
そう考えて一息つくくらいは許されるのではないかと、葉月はそう思ったのだった。
この時は。



その後。
緋月が昨晩の出来事を蒸し返して下世話な話を振って、朔が急に不機嫌になったり。
朔に髪の手入れを教えてもらっていると、朔が突然耳を触るので、葉月がおかしな声を
上げてしまったり。
そんなこんなのうち、葉月は重要な言質をとっていないことに気がついて、月燕に尋ね
る。

「あの、ご主人さま?」
「ん」
のんびりと新聞を読んでいた月燕が振り返る。何か言いたげな顔をしている。

「呼び方はそれでなくてもいいんだぞ」
「? 呼び方?」
「……わからないのならいいよ、それでも。で、何だ?」
「……?」

葉月には、月燕が何について言っているのかはわからなかったが、それはともかくとし
て。
確認する。

「ほんとにあいつら、もう追いかけてこないんですよね?」

「あいつら」とは、つまり退魔師たちのことである。せっかく月燕の使い魔になってみ
て、やはり危険なので封印させてもらいます、ではまったく何の意味もない。
安心が欲しい葉月。その妖狐少女に向けて、月燕はこんなふうに答えた。

「厳密に言うと、その辺りはこれから決まるんだが」
「え?」
「大丈夫だから、心配はしなくていい。多少つっかかってはくるだろうけどな」

するとそこで、インターホンが鳴った。月燕は顔を外へと向ける。

「そら、おいでなすったぞ」
(インターホンもあるんだ……)



来客は総勢五名の、人間の男女だった。

「――よく来た。といっても、いつもの通り、茶は出してやれないんだが。悪いな」

しばしの後、人外たちは屋敷の一室にて、来客の応対をすることとなった。葉月は月燕
の隣に座り、客人と向き合っている。客人はひとりだけが座布団に座り、残る四人は立っ
ている。
なお、月燕と葉月の前には湯のみがあるが、客人には何もない。朔が用意しなかったか
らだ。

「お構いなく。いつも言ってるけど、手は付けないから」

客人のうち、唯一の女性である少女がそう言った。女子学生の制服を身に着けた少女
だった。
だが、見ての通り、あまり友好的な雰囲気ではない。のっけから不穏な空気を感じ、葉
月ははらはらしてしまう。喉が渇くのだが、このお茶を口にしていいものかどうか、迷
う。
葉月が居心地悪く思っていると、少女がじろりと睨みつけてくる。

「長居はしたくないから、端的に聞くけど――」

穏やかな目ではまったくない。まさに敵を見る目そのもの。
少女の名は継白優依奈(つぎしろ ゆいな)。この地には継白という退魔の大家が古く
からあり、その継白の次期当主がこの少女である。齢一七と若く、未だ高校生という身分
だが、既に強力な術者として、知るところには知られている。
葉月からすると、かつて高校に通っていた頃の先輩にあたる。同じ学校の生徒だったの
だ。ただ美人な先輩とだけ認識し、退魔師などという立場であるとは知らなかったのだが。
葉月がそれを知ることとなったのは、無論のこと、この二週間の地獄のせいである。優
依奈は一帯の霊的守護を担う退魔大家の術者として、吸血鬼となっていた葉月を追い回し
てくれた。
そんな少女退魔師は葉月がとにかく憎いらしい。優依奈は妖狐を睨むように観察してい
る。

「――これ、本当に繋げたのね?」
「ああ」

その質問の意図は、葉月が月燕の使い魔となったのかの確認である。つまり、無害認定
を出すか出さないか、見極めに来たのである、この少女は。継白の代表として。
葉月としては、違う人間に来てもらいたかった。この少女にはすっかりと苦手意識が出
来上がってしまったし、こうも敵視されたのでは落ち着かない。残る四人は必要以上に視
線を向けてはこないのに。
葉月は思った。ここで駄目出しをされてはたまらない。しっかりと主張をしておかなけ
れば。

「あの、私、ちゃんとご主人さまのものになりましたよ」
「む」
「ご主人さまに調教してもらって、ご主人さまに忠実な使い魔にしてもらいました。ご主
人さまには逆らわないし、ご主人さまの言うことなら何でも聞けます」
「――……」

葉月はそう言いきってみるのだが、優依奈は眉間に縦の皺を刻んでいる。
まだ足りないだろうか。

(キスくらい、してみせたほうがいいかな……?)

しかし命令されたならばともかく、自分からそんなことをしにいくのは難しい。まして
や人前では。
優依奈の目が険しいので、葉月の不安がだんだんと増してくる。どうしよう。わからな
い。眉が曇りだす。
と、膝に乗せられていたその手を、月燕がテーブルの下で握った。

「まあ、何だ。見て理解してもらえると助かる」
「あ……」

葉月は主の顔を見上げた。

「……。一応、聞いておかないといけないんだけど、これ、何をどうやったのよ?」
「それは、黙秘させてもらう」
「隠し立てしようっての?」
「秘密は秘密だ。そちらこそ、継白の秘奥を俺に向かってぺらぺら話しはすまい」

月燕が優依奈の要求を突っぱねると、優依奈はすぐに口を結ぶ。食い下がる様子がない
のは、この返答を予想していたためか。
葉月は耳を立てて両者のやり取りを聞きつつ、顔を俯かせている。
目を伏せているうちに、今度は月燕が問い返していた。

「重要なのは結果だろう。それで、この通り妖狐は鎮めておいたが、そちらはうちの使い
魔を見逃してくれるのかな」

すると、優依奈が不機嫌そうに、ふんと鼻を鳴らす。

「うちの連中はそこの狐に何人も病院送りにされてんのよ。落とし前、つけるべきだと思
うけど?」
「正当防衛だろう。それで、今のは継白の総意かな?」
「……いいえ」

嘆息をして、しぶしぶと答える優依奈。

「あくまで、私個人の感情よ、今のは。同じ気持ちの連中もいるだろうけど、仕事に私情
は挟まない。いくらなんでも、それとまともにぶつかるのは危険すぎるし――」

少女はこう続ける。

「もしも本当にそれを制御できるというなら、リスクをとってまで封印しに行くことはな
いというのが、うちの判断よ。……継白はそれの存在を黙認する」
「それはよかった」

優依奈の宣告に対して、当然の判断だとばかりに、余裕を見せて鷹揚に頷く月燕。葉月
もまた、ほっとする心地である。優依奈が険悪な態度なので、どうなることかと思った
が、もう追い掛け回さないでいてくれるらしい。

(よかった)

そう安堵していると、月燕が優依奈に向けて、こう言う。

「――しかし、一点だけ気をつけてもらいたいことがあるな」
「なによ?」
「それ呼ばわりはやめてやってくれ。名をつけてやったんだ。葉月で頼む」
「……あっそう」

一方で、優依奈は吸血鬼と妖狐を眺め、呆れたふうであった。

「あのさ。さっきから、どうしても言いたくて仕方がなかったんだけどさ、それ男でしょ
う?」
「――――」
「ご主人さまとか、そんなふうに呼ばせて喜ぶなんて、あんた変態なの? そんな恰好ま
でさせて、なに、楽しいわけ?」

優依奈はまるで汚らわしいものでも見る目で、そんなことをのたまったのだった。さす
がに、言葉が過ぎていた。おかげでこの瞬間、危険な気配が一気に膨れ上がることとなっ
た。
といって、怒りを露わにしたのは暴言を受けた月燕でも、さりとて葉月でもない。ふた
りの背後に立っていた、朔である。

「……小娘」

呟くように吐き出されたのは、静かな声。しかし、そこには強い怒りが乗っている。
部屋の空気が一気に重たくなり、それでいて、悲鳴を上げるようにびりびりと震えはじ
めた。朔が怒りを滲ませ、剣呑で攻撃的な圧力を放散していたのだった。壁という壁がき
しみ、戸という戸ががたがたと揺れる。

――もう一度言ってみろ、その首ねじ切ってやる。

声なき言葉が聞こえるようだ。ぐつぐつと煮えたつような殺気に、葉月は思わず首を縮
こまらせた。一方、優依奈はと言えば、豪胆にも平気な顔でいるが、連れはそうでもない
ようで青い顔。そのうちひとりが、小声で優依奈をたしなめている。

「お嬢……! 挑発しないでくださいっ」

同時に、月燕が片腕を上げて朔を鎮める。

「朔」
「…………」

結局、朔はそれ以上言葉を発しないまま、殺気を霧散させていった。しかし、その目が
険しいままであろうことは、振り返らずともわかることであった。
そして、異様な空気が去ると、あからさまに安堵しているのは退魔師の男たちである。
目で申し訳なさそうにしているのが、葉月にはわかった。優依奈はふてぶてしいのだが。

「――とにかく、そこの狐を見ないふりをしてもいいけど」

と、何事もなかったかのように優依奈が口を開く。

「そのためには、その狐を完璧に御せて安全に使役できるってことを証明してもらわない
といけないわ」
「……」

葉月の耳がぴくっと動いた。

「それが果たせたら、それこそ、うちから寄合にも話を持っていってやるわよ。どこぞの
危険物が解放されたけど、調伏したから手出し無用ってね。……忌々しい」

不機嫌な退魔師少女は葉月からすると、それはそれで恐ろしいのだが、そんなことより
も。
葉月は月燕の顔を見上げる。

「何か、ご命令されますか?」
「そうだな。心配はするな。お前にとっても悪いことじゃあない」
「……? はい」

そんな主従の様子を、優依奈がうさんくさそうに眺めている。頬杖さえつきそうな雰囲
気である。

「何かな?」
「別に。それより、もしかしてそこの狐、知らないの?」
「それどころでもなかったからな。言うにしても、順番にしようと思った」
「ふぅん……」

両者は何やら話が通じている。しかし、一体何のことかわからないのが、葉月である。

「何の話ですか……?」

と尋ねる。

「実はな――」

すると、月燕は神妙に告げるのだった。

「お前に憑いていた吸血鬼――無貌だが、まだ生きている」



吸血鬼の魔力はその血に宿る。
吸血鬼は親から受け継いだ闇の血液を燃料とし、そこから魔力を得ることで、およそ限
りのない命を手にしているのだ。そして経年と共に、肉体や魂を血液に適合させていくこ
とによって、より強大な存在へと進化していく。それが吸血鬼という生物。連綿脈々と続
く超常の血脈の恩寵に縋ることで、魔人たろうとする人間を吸血鬼と呼ぶのだと、そう
言ってしまってもよい。
とはいえ、吸血鬼たちの在り方にも、様々ある。
その一例が、無貌。
千年、二千年――或いはそれ以上の時を生きたとされるこの怪物は、血液に依存した魔
人志願者などという可愛いものでは決してない。むしろ、闇の血液そのもの。己の存在そ
のものを血液に溶かし込んで、血液という生物にさえなってしまった異端である。
無貌は血液という生物であるから、その器となる自身の肉体を保有しない。その代わ
り、他者の肉体に侵入してその血液に成り変わることで、他者の肉体を乗っ取って生き長
らえてきた。
数多の人々を渡り歩いてきたが故に、時には憑依者と呼ばれ。何度肉体が朽ちても決し
て滅びぬことから、不死者とも呼ばれ。
彼か、さもなくば彼女か。誰も怪物自身の顔を知らぬからこそ、無貌と呼ばれ、畏れら
れている。
この世で最も多くの年月を重ね、最も強大であるとされる、最古の大吸血鬼の一角であ
る。

だが。
そんな大吸血鬼も、今度こそ滅んだはずなのだ。少なくとも葉月はそう認識していた。
かつて明良と呼ばれた少年を狙い、されど妖狐と化した少年――少女の妖力に焼かれて燃
え尽きたのだと。
それが――

「間違っていた、て、ことですか?」

まさか、という調子の葉月。
葉月の感覚では、憎たらしい敵を間違いなく焼き殺してやったつもりなのだ。自らの意
思でというよりは、暴走状態での行いだったが、それだけに加減など一切なかった。
巨大妖力の業火が天を衝く火柱となって立ち昇り、灼熱の大霊熱で以て己に巣食った邪
悪なる血液を一片まで消滅させきったと、そういう自負がある。葉月は今現在、自らの内
に余計なものの存在を感じてはいない。
それでも、未だにあれが存命であると?
そう考えると、葉月は気分の悪さを覚え、顔をしかめた。そんな葉月に向かって、月燕
が説明する。

「あの時、確かにやつは力の大部分を焼かれたようだ。ただ、葉月は気づかなかったかも
しれないが、完全に焼き尽くされる前に、往生際も悪く逃げ出していったみたいでね。俺
もそこの嬢ちゃんも、やつの霊魂がふらふらと逃げ出すのを確認している」
「え……」

この時、葉月は少なからず落胆した表情を見せた。

「それがわかってて、見逃したんですか?」
「そっちを追いかけられるような状況じゃなかったからな」
「――あ」

つまり、無貌を追おうにも、暴走する妖狐を鎮めるのに手一杯だったと。
ばつが悪そうにする葉月の頭を、月燕がぽんぽんと撫でる。

「別に責めているんじゃないぞ。あれは仕様がない。それに、完全に放置したわけでもな
いしな。……それで、どうだったんだ? この分では、逃がしたか」

月燕が優依奈に振る。少女は瞑目する。

「駄目だった。そこの狐にもわかるように言ってあげると、昨晩あの後、うちはうちで逃
げた無貌を追ったのよ。誰かのせいで結構な術者がおしゃかだったから、不安もあったけ
ど、無貌もだいぶ弱ったはずだから、ばらばらに広がって探しても大丈夫だろうってね。
……甘かったわ」
「ふむ。と、いうことは?」
「三人がやられた」

すっと目を細くする優依奈。

「未明になって、吸い尽くされた遺体を発見したわ。無貌のやつ、まだかなり元気みたい
よ。やられたのは分家の下っ端だけど、ろくに抵抗もできなかったみたい」
「……そうか。しぶといことだ」

甘く見過ぎたな――と反省するように、月燕は呟いている。

「隠れて吸血する気か」
「え、つ、つまり?」
「やつは、密かに吸血を重ねて復活するつもりということだ。犠牲者は死ぬ」
「ぅ……」

葉月は言葉を詰まらせた。視線を彷徨わせて言葉を探す。

「でも……、でも、そうなる前に見つけられないの? 私は何度も見つかったんだけ
ど……?」

この二週間というもの、隠れる葉月は簡単に見つけ出していたくせに、今度は見つけら
れないのか――そう問う。すると、優依奈が嫌な視線を葉月に向けてくる。

「……“わたし”ね……。ああ、はいはい、わかったから睨むなっての。――とにかく、
あんたは気配断ちしてないから、あんたを探すのに苦労なんてしないの。でも、無貌はそ
うじゃない」
「もともと隠蔽、遁走、潜伏が十八番の手合いだ。気配を隠して潜まれれば見つけるのは
難しい。古来より世界中の退魔がやつを滅ぼそうと躍起になってきたが、一度逃してしま
えば、次にやつが自分から騒動を起こしに来るのを待つしかない、というのが毎度らしい」
「今まではね」

ここで、優依奈の目がぎらりと凄みを帯びた。葉月は身を引かせる。これのどこがただ
の学生だというのだ。かつての己を疑ってしまう。

「今がチャンスよ。余力があるとはいえ、弱ってるのは事実。吸い殻を晒してるからね。
気配の隠蔽も完全じゃない。ここで滅ぼしてやるわ、絶対に」

雄々しいというべきか、鋭いナイフのような少女だ。その刃がこちらに向けられないこ
とを葉月は祈る。

「やつの首はうちがもらう」

と、優依奈が言い切った。だが、葉月は眉をひそめる。

「でも……今の話を聞くと、もう遠くへ逃げていそうなものだけど」
「いや」

否定したのは月燕だった。

「隠蔽が不完全だ。気配がする、街一帯にな。出所までは悟らせてくれないが、この街の
どこかに潜んでいるのは間違いない」
「……」

月燕はそういうものの、葉月にはなかなか納得がいかなかった。弱っているというなら
ば、無貌は何故この近くに留まっているのだろうか。追手が差し向けられていることは、
承知のはずなのに。

「さて、或いはまだ本当に、身体を奪えていないのかもしれない。この街の住人に憑りつ
いておいて、その肉体を奪えないなら、留まらざるを得ないのは道理だ。宿主が移動しな
いんだからな。そうではなくて、思惑があって留まっているのかもしれないが」
「罠じゃないですか?」
「気持ちはわかるが」

どうしても不安がる葉月に月燕が言い聞かせる。

「何であれ、やつが生きているなら放置はできない。野放しにするうちにすっかり回復さ
れて、お前あたりに復讐に来られても困る。それに」

続ける。その言葉に葉月は息を呑んだ。

「あれがのうのうと生きているなど、許せないだろう?」
「――――」
「もしくは、好き勝手をさせた場合、葉月の知人を牙にかけるかもしれない。そうなれ
ば、せっかくお前が誰の血も吸わずに二週間逃げ回っていたのも全てぱあになる。許せる
か?」
「……許せない」

そう、その可能性もある。むしろ、葉月によって苦痛を受けた腹いせに、無貌がそんな
凶行に走ってもおかしくない。

「……でも」
「何だ」
「誰かに憑りついてるんですよね? その人も殺すんですか……?」

無貌というのは、他者に憑依する吸血鬼だ。これを退治しようとすれば、憑依された者
ごと滅ぼすことになる。朔という吸血鬼や、優依奈という退魔師が、かつて明良という少
年を殺そうとしたように。

「無貌が弱っていて、宿主を乗っ取れていないか、融合の程度が弱ければ、引きはがして
やつだけを滅ぼすことができる。低級霊を祓うのと同じだ」
「……」

しかし、もしも無貌が十分な余力を残しているのなら?
優依奈の話を聞いた限りでは、そううまくいかないように葉月には思えた。自分は助か
っておいて――助かったということにしておいて――そのくせ他人ならば殺してしまって
よいと考えることは、葉月にはできない。

「どう対応するにしろ」

月燕は重ねて言った。

「放ってはおけない。せめて見つけ出さなければならない。そこで先の話に戻ってくる」
「先の?」
「証明云々のくだりだよ」

月燕のその言葉に、葉月は思い出した。無害認定を得たいならば、月燕に制御され、使
役され得ることを示さなければならない。

「……何をすればいいですか?」

葉月は問う。月燕が頷く。

「是非ともやってもらいことがある。無貌を見つけ出してくれ」
「はい。――え?」

葉月は首をかしげた。今、見つけ出すのは困難だと言ったのではなかったか。いや、や
れというならば、葉月に否はないのだが。
意図がわからないでいる葉月に向かって月燕が説明をする。

「妖狐は霊感に優れる。それに、お前はつい昨晩まで無貌と繋がっていたくちだ。今なら
ばまだ、感応できるはずだ。葉月なら、やつの存在を感知できるはずなんだ」
「……感知……?」

霊感に優れると言われても、葉月にはいまいち実感がわかない。女初心者であると同時
に、妖狐初心者でもあるからだ。そもそも霊感とはどの器官による感覚なのだろう。
だがそこで、葉月はあることを思いだしていた。

「――あ」

声を漏らす。そういうことであれば。
今朝見たあの夢。あれは、もしや無貌に関わるものであったのか。
――まだ、死なない。我が大望を果たすまでは。
夢の中で、誰かが誰かを殺し、吸血をしていた。あの凶行者が無貌であったならば、夢
の中の状況はこれまでの話に一致する。
葉月が夢の内容を言葉にして話すと、一同は納得の様子である。

「なるほどな。やはり、やれそうだ。悪いが、葉月にはやつの捜索を手伝ってもらうぞ」
「は、はい」
「……使い魔らしい仕事ではあるわね。感覚に優れる小動物を使役して、探し物をするな
んていうのはポピュラーだし。小動物なんてものじゃないけど」

優依奈の目が再び呆れるようになった。その目が葉月を見ている。

「正直、パスができてるのは見ればわかるのよね。すっかり洗脳済みみたいだし? で
も、万人を納得させるにはわかりやすい成果がいる。九尾尾を使役することで、かの無貌
の討滅に成功したと言っておけば、うるさいのを黙らせるくらいはできるでしょ。 ……
言っとくけど、見つけるところまでで結構よ」
「甘く見て失敗したばかりだと思うがね」
「だから次は失敗しない。うちの連中の仇はあいつでとらせてもらう。とにかく、その狐
をうまいこと使って無貌を見つけ出せたら、方々に口利きはしてあげるわ。そういう契約
でいいわね?」
「構わない」
「うちの連中がやられた現場には案内するから。そこからは好きにやって。見つけられる
ようなら連絡して。オーケー?」
「オーケー」
「そう。じゃあ、さっさとお暇するわ」

優依奈は早口にそこまで言うと、これで話は終わったと立ち上がった。しかし、部屋を
出ていく時にもまた、じろりと葉月を睨みつけていく。

「もうわかったと思うけど、人外は全部、私の敵なの。見逃してはあげるけど、何をどう
したって、あんたはずっと私の敵。そいつもそいつも、この家のやつら、全部だから」
「……そ、そう」

やはり物騒な少女であった。こんなのが名家の当主になって問題にならないのだろう
か。それとも人間が相手ならこんな態度でもないのだろうか。学校では人気も人望もあっ
たのだし……。と、葉月はそんなことを思うのだった。
ちなみに、他の退魔師四人は申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げつつ退出していった。



「あの、仲、悪いんですか?」

継白の退魔師たちが去ってから、葉月は月燕にそう聞いてみた。無論、継白とこの家の
仲が、である。
葉月の目にも、話は一応ついたように見えたが、もしも月燕が退魔師たちから味方と見
なされていないのであれば、いくら月燕の使い魔となったとて安寧は訪れ得ない。月燕ご
と襲われるようでは意味がないのだ。
しかし月燕は「いや」と否定する。

「あれは、なんだ、あのお嬢ちゃんが突っかかってくるだけだ。人外嫌いでね。継白の一
族とは良好だよ。もう百年も同盟を組んでいるからな」
「あるじは嬢ちゃんに特に嫌われてるけどなー」

どこにいたのか、姿を見せなかった緋月がやってきて、そう言った。

「特に?」
「そうそう。実はあるじときたら、昔、あいつにお尻ぺんぺんの刑を執行したんだよな。
いや傑作だった」
「お、お尻ぺんぺん……?」

というと、尻を出させてはたく、あれか。葉月は月燕にじと目を向ける。

「何してるんですか、ご主人さま」
「……いや、あれはあれで、妙に退魔の才があってな。おまけに昔から人外への敵視が激
しくて。調子に乗って無謀なことをするきらいがあったから、少し痛い目を見せてやった
だけなんだよ。それに、お嬢ちゃんがいくつにもならない頃の話だからな、一応」
「おかげですっかり嫌われちまって。俺たちなんかとばっちりだからな。他にはあそこま
でつんけんしないらしいぜ。あれが当主になる前に、いっそのこともう一度シメてやった
らどうだい」
「どうやって」
「お尻ぺんぺんの次だから、お尻ずんずんとか?」
「緋月……」

その時、朔が背後に嫌なオーラをゆらめかせ、人型の妖刀を小突いた。半ばパンチにも
見えたそれは、それ以上に威力があったようで、緋月が庭に向かって吹き飛んだ。数メー
トルは飛んだ。
葉月はぎょっとする。首がおかしな方向に曲がっていたが、人間なら死んでいるのでは
ないだろうか。

「へし折りますよ、この駄剣。……でも、あの小娘には、上下関係を教え込んでおく必要
があるようですね」
「ほどほどにな……。おちゃらけはともかく、葉月」

本気ですからね――と恨めしげな朔にちらと横目をやって、月燕は葉月に問う。

「は、はい?」
「悪いが、今ばかり、働いてもらわなければならん。いいか?」

そんなふうに、月燕がおかしなことを言うので、葉月はきょとんとした。いいも何も。

「あ……はい。ご命令いただければ、従います」

確かに再びかの怪物に近づくのは怖い。しかしそんなことは関係がない。繰り返しにな
るが、葉月にとって、主の要求に否を唱える選択肢は存在し得ないのだから。それに、そ
れを置いたとしても、無貌を放っておけないというのは真である。葉月であれば隠れた怪
物を見つけ出せるというのであれば、やるしかあるまい。

「ん――まあ、うん。そうだな」

月燕は髪などを撫でつけている。

「では、無貌を探せ。さっさと終わらせてしまおう」
「はい」

そうだ、終わらせなければならない、いい加減に。これ以上、怪物に苦しまされること
のないよう、今度こそケリをつけなければ。
葉月は己にそう言い聞かせるのであった。



第三章 人狼を求めて



今はあまり外には出たくない――実のところ、それが葉月の心境である。が、引きこも
っているわけにもいかない。
耳を隠すため、大きめのニット帽を被る。耳が大きいせいか、耳を折るようにして被ら
ねばならず、収まりが悪いが仕方がない。
ニット帽にはぽんぽんがついていて、可愛らしすぎるデザインであるようにも葉月には
思われたが、鏡を見る限りではこれまた妙に似合って見えた。まるで人形のような美少女
がそこにはいて、葉月はまたぞろ変な顔になったものである。その隣で、朔が顔を綻ばせ
ているのもあまり面白くないのだが、服を借りている立場でまさか文句を言うわけにもい
かない。
ただし、さすがに看過できないものもある。それは見た目がどうこうではなくて。

「あの、朔?」
「はい?」

葉月は居づらそうに身体をもぞもぞさせている。

「その、セーターって擦れるね……」

どこが、とは言いづらかった。とはいえ察してくれるだろうと葉月は思う。

「なんとかならないかな」

そう尋ねるうち、朔が葉月の胸元に目をやっている。葉月は恥ずかしくなって視線を逸
らす。

「ニプレスを置いておきましたが、見つけませんでした?」
「に、にぷれす?」
「ええ。ブラジャーはサイズが合いそうにないので。ニプレスを貼っておけば擦れません
よ」
「…………」

何故こんな話をしなければならないのだ。葉月は顔が赤くなるのを自覚した。もしも人
間の耳がついていたならば、そこまで赤くなったことだろう。あいにくと狐耳は毛に覆わ
れているし、ニット帽に収めてあるのだが。
月燕は幸いこの場にはいない。が、吸血鬼はとても耳がよい。もしこんな会話を聞かれ
ていたらと思うと、恥ずかしすぎてどうにかなってしまいそうだ。

「かわいい」

朔がぼそりと呟いている。葉月はそれを聞かなかったことにした。
結局、葉月は朔に引っ張って行かれ、何とかいう製品の説明を受けることとなった。お
せっかいなのか何なのか、朔が手ずからその何とかを着用させようとしたが、さすがにそ
れは断って、葉月は自分で自分のどこぞを保護しなければならなかったのだった。

――仕切りなおして。

都合よく、朔と足のサイズが同じだった葉月は、朔から靴を借りてそれを履き――ヒー
ルのないブーツだった―― 一家そろって外へ出る。
振り返って見てみると、立派な屋敷がそこには建っている。そして、門扉の横には、人
外一家のくせに律儀にも表札がかけられていて、苗字が彫ってある。
曰く、至郷(しごう)。
だから、傍らの男は至郷月燕で、女は至郷朔で、あちらで頭の後ろに手を組んでいる女
は至郷緋月ということになる。そして。

(私は、至郷葉月かな)

そういうことになるのだろう。

「どうした、いくぞ?」
「あ、はい」

吸血鬼の男に促されて、妖狐少女はその斜め後ろについて歩いた。スカートの感覚が慣
れないが、我慢する。
至郷の屋敷は山の上にあるが、何も街と隔絶した位置にあるわけではない。要は街のは
ずれが小高い山にいくらかのりあげただけであり、その端に至郷家の屋敷が建っていると
いうだけのこと。故に、街並みはほど近いところに広がっている。舗装されたこの道路を
下っていけば、すぐにでも街中に出るだろう。

(私の家はどの辺かな)

葉月は目を遠くし、街を眺めた。ここからでははっきりとは見えないが、きっとこのど
こかに、かつて明良と呼ばれた少年が暮らした家があるはずだった。

(もう、違うけどね)

もう一度だけ、背後を振り返る。至郷の屋敷が建っている。明良ならばいざ知らず、葉
月の住まいはこちらなのだ。これ以外の場所へはもういけない。目線を前方に戻せば、勝
手知ったる街はすぐそこにあるけれど。

「……」

二週間を逃げ回った苦闘の舞台。
海浜公園では腹を貫かれ、死に物狂いで海に飛び込んで逃げ出し。
追い回されて逃げ込んだ地上180メートルの展望台からは、歯を食いしばってノーロー
プバンジー。
そして深夜の学校に潜んでみれば、結界で閉じ込められて恐怖の校内鬼ごっこ。両足を
吹き飛ばされて、腕だけで這いずり逃げ回った。
その他にも、どこでどんな目にあってどれだけ必死に逃げ惑ったか、いちいちすべてが
思い出せる。

(思えば、きっと――)

きっとそれは、街を追い出される過程であったのだろう。
葉月は己の居場所にしがみつこうとして、しかし苦闘も虚しく、こうして山に追い出さ
れた。
見た通りに街は近い。近いが、距離は距離。人でなきものがあるのは、あくまでも山。
こうして山を下って歩く道のりが、それを葉月に意識させる。

(もういいよ、別に。ご主人さまに飼ってもらえれば、それで)

葉月は足を速めて月燕の近くに寄る。
街へ下る。そこにはどんな意味を見出すべきであろうか。
葉月は無言で山を下りていった。



ほどなくふもとへ下りた葉月たちは、そこで案内役である継白の術者と合流した。二名
の男であった。葉月にはあまり覚えのない顔であるが、優依奈でなくて安堵する。葉月は
彼女がとかく苦手だ。
そして車を用いてしばらく街中を移動し、一行は繁華街へとやってくる。やがて車を降
りてまた歩き、とある路地に差し掛かると、継白の術者は人気のないその奥を指して示し
た。

「――こちらです」

路地の奥へと入っていくと、どこか違う世界に迷い込んだような静寂を葉月は覚える。
人の姿がないという以上に、人払いの結界が張られているのだ。
葉月は人心地ついて、ため息を吐いた。

「……はぁ」

道中、あれこれと考える余裕はなかった。人目が気になっていたからだ。要するに、道
行く人々に女装を見られるのが恥ずかしかったのである。
誰かとすれ違う度、ばれやしないかと脇に冷や汗すらかいていた。緊張していたと言っ
た方が正しいか。車中ならばともかく、繁華街ともなれば人通りも多く、その中をこんな
格好で歩くというのは、なかなかに気疲れしてしまう。勿論、今は女なのだから、女装と
いう表現は正しくないのかもしれないし、ばれるも何もないのだが。
もっとも、落ち着いている場合ではない。何せここは、人が殺された現場なのだから。
それに何やら、嫌な感じがする。殺人現場という印象に付きまとう不吉なイメージが心
胆を寒からしめている――というだけではない。

(これは、もしかして?)

葉月は路地をぐるりと見回した。その隣で、月燕が同じようにしている。

「ここが?」

術者二名に確認している。路地は広い空間ではなかった。むしろ狭い。

「はい。この場所です。うちの術者が三名、ここで死亡しているのを今朝発見しました。
三名とも血を吸い尽くされておりました」
「ふむ」

退魔師の説明を受けながら、月燕は地面などを手で撫でている。
当然ながら、と言うべきか、遺体はここにはない。辺りに血痕があるということもな
く、本当にここで殺人が行われたのかと疑問を覚えてしまうところだ。だが……

「……ここだ」

葉月はゆっくりと位置を変えては路地の見え方を確認し、やがて低く呟いた。
この位置からの眺めには覚えがある。夢で見た場所が、まさにここなのだ。夢の中で、
犯人は確かに誰かを殺していた。素手で首をへし折って、然る後に犠牲者の首に噛みつ
き、吸血を――

「うっ!?」

そこまで思い出した途端、葉月は急に悪寒を覚えて、身を抱いた。驚いて辺りを見回
す。何も見えないが――確かに“ある”。

(これは……これが?)

昏い色彩を帯びた煙のようなものが、ごくうっすらとではあるが、辺りを漂っていた。
目には見えていないはずなのに、それが葉月にはわかった。
この瞬間、自らの知覚が急速に拡大するのを葉月は感じた。周囲の気配という気配を、
どこかにあるらしき新たな感覚器官によって捉える。それによれば、この場にあるのは、
葉月自身に月燕、朔に、緋月に、継白の人間ふたりに、そしてもうひとつ。
葉月は知っている。この残り香めいた煙が誰のものであるかを。何せこの嫌なものは、
これまで二週間の間、ずっと葉月の中にあったのだから。

「感じるか?」

吸い込むのはまずいのではないか。鼻と口元を覆う葉月に、月燕が声をかけてくる。

「はい……。これが……?」

葉月は片手で空気を払ってみる。しかし不可視の煙はまったく揺れも動きもしない。た
だ薄く漂っているだけだ。なるほど、この気配とやらは物質的なものではない。

「少し待て」

月燕はそう指示をすると、しゃがみこみ、両手で水をすくうように椀をつくった。無
論、水をすくっているわけではない。すくうのは、残留している気配である。
まるで風が集まるかのように、周囲に残留していた魔性の気配が月燕の両手の中に集っ
ていく。それはやがて小さな渦を巻き、小型の気配の珠を形成する。

「これは、やはり……」

継白の術者が呻いた。月燕が集めたのは、あくまで無貌が残していった気配の残滓に過
ぎない。しかしそんなひとかけらであっても、おどろおどろしい魔力の波動は並の人外の
比ではない。

「弱ってはいるようだが……」
「これは余力があるなー」

緋月が言葉を引き継ぐ。月燕が首肯する。

「まあ、これならば討てないほどではない。向こうも、それがわかっているからまず出て
こないだろうが――葉月」
「ぁ、はい」

顔をしかめていた葉月は、月燕の声に応える。

「この気配がごく薄くだが、街中に漂っている。しかし俺たちではその出所まではわから
ない。お前が無貌を探すんだ。できるか?」

葉月は正直なところ、無貌の気配などと言われても、今の今までぴんとこなかった。そ
んなものを探せるのかどうかも、不安であった。何せ、周囲の気配を察知しながら生活を
したことなどないのだから。ここまでくる間にも、何かを感じたとは思えない。
しかし、今ならばわかる。拡大した知覚域の中には、ここにある煙をさらに薄めたもの
が広くたなびいている。さらにその中に、たくさんの人々の気配も。この中から、この煙
と同じもの発している者を探し出せばよいというわけだ。

「……できます。今ならきっと」
「よし。よし。ああ、ごくろうだったな」

葉月が頷くのを見届けると、月燕はそう言って継白の術者に向き直る。

「は」
「君たちはもう帰ってくれて構わないぞ」
「……は。よろしいので……?」
「別に監視しろとは言われていないのだろう?」

葉月にちらと目線をやる月燕。

「何、こちらでうまくやるさ。それに、悪いが、君たちが一緒だと朔がずっと不機嫌で
ね。この調子でいられると俺がやりづらい」
「……」

一方で、朔は目を瞑ってそしらぬ顔をしている。だが、間違っても機嫌がいいようには
見えない。葉月はようやく悟った。ずっと黙っていると思ったら、継白の人間がいるせい
で不機嫌だったのだ。

「わ、わかりました。では我々は本家に戻って準備を整えておきます。ご武運を」

退魔師二名はややも躊躇を覚える様子であったが、そもそもここで戻るように指示をさ
れていたのだろう、それ以上に渋ることはなく通りへと去っていった。
そして人間がいなくなって人外だけとなったところで、緋月がぽつりと言い出す。

「あれは新人だなー」
「何で?」
「うん。継白がうちに仕事を振ってくることもたまにあるけど、一緒には動かないってい
うのが暗黙の了解なんだよな。何せ、どっかの誰かが不機嫌オーラ撒き散らすから」
「あー……」
「それがわかってればあそこはさっさと消えるもんさ。かわいそうに。あれ途中から葉月
じゃなくて朔姉にびびってたぜ?」

朔がふんと鼻を鳴らす。

「今のうちに教育をしておいただけです。それから、私は何もあの連中だけが嫌いなので
はなくて、退魔だの拝み屋だのそういった連中全般が嫌いなので。勘違いしないでくださ
いね」
(余計駄目なんじゃ……)

肩をすくめる緋月を横目に、葉月はそんなことを思うのだった。



そうして、人外一行は無貌の気配を追って街を行く。

これは、知識の十分でない葉月には知る由のないことだが。
実のところ葉月という妖狐の感覚は、目覚めた時より既に、無貌の気配を捉えていた。
ただ葉月という人格が、ここに至るまでそれを自覚できないでいただけである。
獣由来の妖怪である妖狐には、鋭敏な霊感覚が存在している。といっても、葉月はもと
もと人間だ。六つ目の感覚がいきなり目覚めても、それが伝えてくる情報を意味のあるも
のとして処理できるようになるには、いささか時間が足りていなかった。
例えば、パイロットでもない人間が航空機のコクピットに座ったとして、各種計器が表
す情報の意味が読み取れるだろうか。できまい。これと似たようなものである。要する
に、不慣れ故にわからなかったのだ。
しかし、その情報の意味こそわからずとも、何がしかの情報の表示が存在することは、
見逃しさえしなければ簡単に気が付くこと。後は、その情報の何たるかを知りさえすれば
いい。無貌という怪物の気配に触れることによって、霊感覚の教える知覚世界を知った妖
狐にとっては、最早気配を探る程度のことは難しくなくなっていた。

(何か、レーダーでもつんだみたい……)

葉月は新しい感覚によって周囲を知覚しながら、街を歩く。
360度全方位、それもかなり広範囲にわたって、霊なる知覚領域が広がっている。目で
見ているわけでも、耳で聞いているわけでもないのに、あちこちを動く存在の気配を感じ
取ることができるのだ。まるで空間上に光点が表示されているかのように。これはまさし
く、葉月にとっては、三次元表示をするレーダーであった。
この霊感覚には、死角も遮蔽物の有無も関係がない。上も下も後ろも同時に知覚できる
ので、混乱してしまいそうなものだが、そんなことにもならない。そしてこの感覚は、あ
る存在の気配がどの位置にあるか、そしてそれがどの程度の強度、大きさであるかを葉月
に教えてくれる。
知覚範囲は――半径数キロメートル。

(うーん……)

葉月は眉を寄せてじっと意識を集中している。
知覚域の中に、光点の数は多い。そしてこれらの光点は皆、薄い靄のようなものを纏っ
ている。

(きっとこれが、魂ってやつかな)

この中に、無貌の煙を発しているものはいるだろうか。葉月は考える。
いるかもしれないし、いないかもしれない。だが、知覚域を俯瞰してみれば、無貌の気
配たるこの煙には、場所によって濃い薄いの差がある。この濃きを追いかけて行けば、い
ずれは怪物にたどり着くはずだ。他の誰もそれができないというのであれば、葉月がやる
他ない。
葉月は難しい顔をして、一行を先導して歩いていく。

(違う、これは人間、これも違う。これも……ゆ、幽霊? とにかく違う、もっと向こう
かな……)

きょろきょろと周囲を見回しながら一行を先導し、怪物を求めて気配を追跡する。
真剣に追跡する。
――はずだったのだが。



「あ、ここ、入りますよ」

しばらく行くと、やがて唐突に、朔がそんなことを言った。葉月が真剣な目で周囲を見
回し、嫌な気配を探っている、そんな中であった。
何だと思い、意識の集中をいったん解いて朔の視線を追ってみると、その視線はすぐ隣
にある建物を見ている。何らかの店舗だろうか。どうやら、ここに入ろうというらしい。

「何、ここ?」

葉月の知らぬ店である。
入り口は淡いベージュのアーチ、そして、上品な黒の両開き扉。その周りは落ち着いた
照明に照らされ、観葉植物が飾られている。
ガラスが擦りガラスになっているため、外からは中の様子がうかがえない。店舗の名前
がアルファベットで記されているが、葉月にはこれがどんな店なのか、まったく想像もつ
かない。

「俺は外で待っていよう。あまり時間はかけないでくれよ」

何だろう、と葉月が思っていると、月燕がどこか視線をそらすようにしてそう言う。葉
月は首をかしげる。

「? ここは、何?」

朔に尋ねる。

「下着店です」

朔はあっさりと答えた。

「した、え?」
「だから下着店です」
「もしくはランジェリーショップ」

何故だか、緋月がにやついている。
え、と葉月は店舗を二度見した。その手を、朔ががしっと掴む。

「さあ、入りますよ」
「え、え。いや待って。ランジェリーって、女用の?」
「そうですよ」
「いや、いや。何でそんなところに」
「何でって、勿論下着を買うからです」
「誰の……? あ、私、待っててもいいかな、ほら、一緒にさ」

月燕を向いて、手をひこうとする朔に抗おうとする葉月。だが、朔は取り合わない。

「だめです。あなたのを買うんですよ」
「……やっぱり?」

葉月は口の端を曖昧に苦笑させるしかない。


店舗の中も、上品で落ち着いた雰囲気であった。きっと気分よく買い物ができることだ
ろう。生まれついての女性であったなら。

「さて、どんなものがいいでしょうね」
「お待ちかねのランジェリーショップだ。嬉しいだろ」
「…………」

緋月がにやにやしている隣で、葉月は明らかにびくついていた。自分は場違いではない
か。そんな思いが思考を占めている。
周囲にはやたらと色とりどりの下着たちが、これでもかとばかりにたくさん陳列されて
いた。当然、すべて女物である。赤だの青だの白だのピンクだの……。カラフルなブラ
ジャーにショーツに、ビスチェなどが並べられている。
例えば、ショッピングモールで下着店の横を通るだけで、葉月は目を逸らさなければな
らないような気になるほどである。それがあろうことか、まさかこんな店に入ってしまう
など。
葉月は傍らの上下セットを意識して、また顔を赤くした。妙に面積の少ない、黒色の下
着だった。

「まずはサイズを測らないといけませんね」
「うん。しかし葉月、化けるなら、もう少しでかくすればよかったじゃねえか。そんなん
だと、見たとこ65の――」
「そういう情報はいいからっ」

呑気におしゃべりをする人外二者の言葉を、葉月は小声でさえぎる。あまり声を張り上
げて、注目を集めてしまうことのないように気を付けなければならない。

(ど、どうしてこうなった……)

身体を小さくしながら、恐る恐る周囲を伺う。店内には数人の女性客と店員の姿があ
る。男の姿はない。己はどちらだろう。葉月は自問した。一応、今となっては女ではある
けれど。

「あいつは、ここにはいないと思うけど……? こんなことをしてる場合じゃない、よ
ね?」
「シリアスパートじゃなかったのかって顔だな」
「お前の言うことはいつもよくわかりませんけれど。ともかく、これはこれで必要なこと
です」

朔はやはり取り合わない。

「それとも葉月。まさかずっと私のをつけていたいんですか?」
「え、あ、いや」

そういうわけにもいかないことは、葉月にもわかっている。目の前の女性の下着を履い
ていることを思い出して、葉月は相当な恥ずかしさを思いだした。こんな美人を相手に、
毎日毎日、下着を貸してくださいとお願いしに行く――そんなことをしていては死んでし
まう。となれば、自分のものを買うしかない。
葉月としても、女の下着を着用すること自体は、きっと何とも感じないとわかってい
る。ただ、この格好を見られることが恥ずかしいのと同様に、さすがにこうして女の領域
へ入り込んでしまうのは、また別種の恥ずかしさがあるのだった。まして、自分でこれら
を選んで、買うなど。
男が女物を身に着けるつもりで買いに来るなんて、おかしいのではないか。そんな思考
が羞恥となって葉月に躊躇を覚えさせている。
朔がやれやれと首を振った。

「何を考えているか、大体わかりますけれど。葉月が何を買おうと、別に、私も緋月も、
あるじだって変には思いませんよ? もうこれが当たり前なんですからね」
「……」
「さっきから、歩いていてもいろいろ気になっていますね。でも今だって、周りは誰も気
にしていないでしょう?」
「ま、まあそれは」

周囲からも、多少目を向けられることはあっても、注目されたり訝しがられたりしてい
る様子はない。少女が女性用下着を買いに来ても、おかしくはない。周りからすれば、確
かにそれだけにしか見えない。まさか少女が昨日まで男であったなどとは考えないだろ
う。

「むしろそうやって緊張しているほうが、変に思われますよ。堂々としていればすぐに慣
れます」
「そうかな……」
「そうです。それはそうと――」

朔は話を変え、葉月の胸元を見やった。そこには、男にはないふくらみが幾分あるのだ
が。

「緋月ではないですが、それでいいですか?」

じっと葉月の胸を見ながら、そんなことを聞いてくる。葉月にはその意味がわからな
い。

「……はい?」
「だから胸ですよ。後で大きくしたくならないかと聞いているんです」
「この後で巨乳に化けたりすると、合わなくなって買いなおしだぜ」
「きょにゅ……っ」

葉月は言葉をつっかえさせた。

「そ、そんなんしない――っていうか、変化なんてできないんでしょ……今は」

確かに、妖狐ならば好きな姿に化けるかもしれない。乳房が大きい方が魅力的であると
思うなら、胸を大きくするくらいはするかもしれない。
しかし葉月の場合は、尾がため込んだ数百年分の妖気を自在に扱えるようになるまで、
この姿でいるしかないと聞いてい る。そんなことを考える考えないは別にしても、胸だ
け大きくしなおすなんて器用な真似は、そもそもできようはずもない……と、葉月は思う。
朔は小首をかしげてやや考えて、

「まあ、人間も成長するたびに買いなおしますからね。今は今で買えばいいでしょう」

と言った。葉月はハの字の眉で困り顔を描く。

「結局買うんだ……」
「当たり前です。では採寸をしてもらわないと――」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って」

葉月を採寸させるためか、朔は店員を探そうとしていた。そんな朔の手を葉月は慌てて
握った。

「今度はなんです」

いくらか面倒くさそうに葉月を見る朔。そうこうしていると、緋月が「ちょっと俺も見
てくる」などと言ってどこかへ行ってしまう。まさかお前も買うの、と葉月は思ったが、
そんな場合ではないとすぐに思い出す。

「……採寸たって、その、ばれちゃうじゃん」
「なにがですか。男には見えませんよ」
「いやだから、それじゃなくて、いやそれもだけど、耳とか尻尾とか……」

いまいち収まりの悪い帽子を、葉月はそっとおさえた。ここには狐の耳が隠してある。
スカートの下にも、狐の尾がある。採寸をするともなれば、当然店員はこの身に触れるこ
とになる。そうなったとき、己が人間でないことがばれてしまうのではないかと、葉月は
懸念するのだ。
だが、そんな心配を朔はやはり気にかけない。

「大丈夫ですよ。いらないところまで触りませんから。仮にばれたとしても、暗示を使っ
て忘れさせます」
「……」
「呼びますよ?」
「…………はい」

というわけで。
この後結局、葉月は丁寧にバストサイズを測られてしまったのだった。見ず知らずの女
性店員に。服装がセーターで測りにくかったか、女性店員に服の中に手を入れられてしま
ったので、それはもう顔から火が出る思いだった。
そしてさらに――当然なのだが、採寸の後は、あれやこれやと女物の下着を朔や緋月に
薦められることになった。それもまた恥ずかしかった。
しかも、狭い試着室で朔と二人きりになり、つけ方のレクチャーだのフィットしている
かの確認だのと言って、色々と確かめられてしまう。

「ほら、前にかがんで、肉を寄せて。ちょっと、自分でやってくださいよ」
「――ううう」
「もう。だから、脇から引っ張ってきてブラに詰めるんだって言っているでしょう。こう
です、こう」
「っ」

葉月は、試着室で朔と二人きり。やたらと密着され、ブラジャーの着用などを手伝われ
てしまっている。

「難しかったらホックは前で止めてもいいですけれど、後ろも慣れておかないと駄目です
からね。フィットは、大丈夫かな。アンダーがきつかったりしませんか?」
「た、たぶん……?」
「何ですか多分って。まあ、これなら――」
「ひぅっ」
「大丈夫でしょう。ちょっと、反応が過敏すぎますよ」

葉月は朔に、乳房を包むブラジャーのカップを触られたり持ち上げられたり、胸部を一
周するベルト部分に指を入れられてしまったりして、その都度びくびくと身を固くする。
もしや、本来はこんなことを店員にされてしまうのだろうか。葉月はぐるぐるとしだし
た思考でそんなことを考えていた。それよりは、朔にされている方がまだマシではある。
あくまで幾分、マシなだけだが。
そうして葉月は試着室で、ブラジャーも丸見えな上半身裸の姿で、身を縮めているの
だった。スカートは脱がないので、尾は隠れているものの、ニット帽は脱いでいるため、
狐の耳が恥ずかしがっているのがよくわかる。人化した妖狐少女が、晒した白い肌をピン
クにしていた。

「いいですね。じゃあこれはこれで。次は……、あれ、緋月?」

一通り妖狐を弄って満足していた朔が、試着室のすぐ外に疑問の声をなげる。試着室の
仕切りがそっと開かれて、妖刀が次なる下着を差し入れてきていた。

「次はこれも合わせてやれよ」
「これですか」

後ろ手にブラジャーのホックを外そうと苦闘していた葉月は、新たにやって来た下着を
目にするや否や、頬を引きつらせる。

「むっ、むり、むり、それはむり」

緋月が持ってきたのは、どうみてもセクシーランジェリー。いわゆるベビードールで
あった。黒のレースに、ピンクフリル、ドットリボンが添えられている。そして同じく黒
のTバックに、透け感の強いストッキング、ガーターベルト。
葉月はいやいやと首を横に振る。

「ふ、普通のでいいからっ。だいたいそんなの使わないでしょ、普通っ」
「使わないこともないぞー。いつとは言わないけど、あえて?」

葉月の抗議に対して、外から緋月の反論が聞こえてくる。葉月は忙しなく瞬きをしなが
ら、目をセクシーな下着から逸らそうとしてできずに、ちらちらと盗み見るなどしてい
た。

(いつって。や、それは、伽くらいしないといけないのはわかってるけど……っ。そんな
のつけないとダメなの?)

想像するほどに、葉月の思考は無駄に加速し、ショートへと向かっていく。
そして、妖狐がそんな様である一方で、朔は考えるふうである。

「うん……」

それが如何なる意味での「うん」なのかは、葉月にはわからない。しかし、この場の
決定権はきっとこの女吸血鬼にある。葉月は何とか朔を思いとどまらせようとした。

「さ、さく、これはやめておこう。それにこんなの買ったら、朔も面白くないでしょ、
きっと?」
「うん? ん、まあ、そうですね……、うーん」

朔の視線が下着と葉月を行ったり来たりする。しかしすぐに、何でもないことのよう
に、宣告する。

「でも、これはこれで可愛いので。とりあえず試着だけしてみましょうか、試着だけ」

その目は、楽しんでいる目だった。葉月は電撃的に悟った。こいつ、私を着せ替え人形
にする気か――!?
葉月は狼狽え、後ずさろうとした。無論、試着室は一畳程度の広さでしかないので、退
がるスペースなど存在しないのだった。



一行が下着店を出たのは、それからほどなくしてのことであった。
時間をロスした分、早く無貌を見つけ出すべしと気の逸る葉月だったが、しかしそうす
ぐには怪物は見つからない。
街を行くこと、一時間、二時間――。
人外の強靭な肉体はともかく、そこに宿る葉月の精神は疲れ知らずではない。


太陽が南天を通り過ぎる頃になって。

「休憩にしよう」

そう言って一行が訪れたのは、とあるファミリーレストランである。

(ファミレスに来ちゃうんだ……)

葉月はぼやきを口にしようとして、されどそれを声に乗せるわけにもいかず、口元をも
ごもごとさせた。今は忙しいはずなのだが。
下着店を出た後は無貌の捜索に戻ったが、またぞろどこかのアパレルショップの傍を通
りかかると、「服は買わないのか」などと妖刀が言い出したものである。さすがにそれは
後日に回そうということにはなったものの、怪物が見つからないままに時間ばかりが過
ぎ、今度はこんなところにやってきてしまった。
葉月は月燕たちについてレストラン店内へ入り、席についている。向かいが月燕と朔
で、隣には緋月。
葉月はもぞもぞと腰の位置を直して、座りなおす。何とも尾が邪魔くさい。その他に
も、スカートの下で足が開かないように注意しなければならない。

「腹が減っては戦はできぬってね。どれにするかな……、これと、これと、それからこれ
と、あとこれと、これと――」
「ちょっと緋月、ほどほどにしてくださいよ?」
「今日はこの、チーズのハンバーグとやらにしよう。ああ、葉月も好きに選べよ。遠慮は
しなくていいからな」
(……前にも来たことあるんだ)

そろそろこんなことも考えるまい、と葉月は思いつつあるのだが、この分ではまだまだ
いちいち考えてしまいそうだ。
葉月が店内の時計を見ると、短針は頂上を越えている。いい時間だった。平日ではある
が、時間が時間であるせいか、店内にはそれなりに客足もある。そろそろ昼食――と誰か
が言い出したとしても、おかしくはないのだろう。実際、葉月の腹もまた、空腹を訴えて
いる。
無貌の気配たる煙は変わらず漂っており、それが気になるところではあるものの、食欲
が削がれるほどではなかった。というよりむしろ、妖狐の肉体の方が食欲旺盛であるらし
い。店内はレストランだけあって食欲をそそる香りに満ちており、葉月の腹は勝手にくる
ると可愛らしく鳴いている。葉月の食欲が、エネルギーの接種を要求している。

「どれにするんだ?」

コンビニのおにぎり程度では足りないと主張したのは緋月だが、「腹が減っては戦はで
きぬ」というのも道理ではある。
月燕に促され、葉月が手元のメニュー表に目を落とした。こうなったらもう、手早く食
べて、すぐに捜索に戻ればいい。

「といっても、緋月みたいに腹いっぱいまで食べようとはしないようにな。いざという時
に満腹で動けませんでは困る」
「それは……はい。じゃあ、この、チーズインハンバーグのセットで」
「そうか」

そうして月燕が注文をまとめると、オーダーをした。緋月があれこれと大量に頼もうと
して、朔に怒られていた。
葉月はそれを尻目に、ぼんやりと店内を眺めながら、考え事をする。

「……」

客たちはすべて人間だ。皆、穏やかに談笑しながら食事をしている。この風景はきっ
と、彼らにとっては何ということもない、いつも通りの毎日の延長であることだろう。
遠い。
こんなに近くにいるというのに。
見えない壁一枚を透かして人間たちを見ているような、そんな気にさえなる――

「はぁ」

葉月はため息をひとつ。無意味な思索はよそへ除ける。
そんなことよりも、今は無貌だ。

(見つけられるかな……)

ここまでくる間、何もしていないわけではない。一行はこれで、真面目に無貌を追って
いる。ただ、何も記すことがないくらい、目に見える成果はなかった。だからこそ、ただ
買って食べ遊んでいるだけに思えてしまう、葉月には。
無貌に近づけているかどうかも、葉月には自信がない。この先、煙がいくらか濃くなっ
ていることは察知している。理屈で考えれば、これを辿りさえすれば無貌にたどり着くは
ずではある。しかし……

(これ、本当に……?)

この先に何かはいるかもしれない。だが、己が追っているこの気配は、本当に無貌のも
のだろうか? わからない。そもそも不慣れなこの霊感覚を全面的に信用できるものでは
ないし、それに何か違和感がある。
考え込む葉月を、月燕が観察していた。葉月はやや迷ってから、尋ねてみることにす
る。

「あの、闇雲に歩いても、見つからないかもしれないんですけど……。何かあいつの行き
そうなところとか、わからないんですか?」
「それなら」

月燕は答えた。

「継白が網を張ってる」
「え、そうなんですか? ど、どこに?」
「久渡明良の行動範囲だ」

その言葉に、元明良である葉月は驚く。

「私の?」
「……無貌の行方にあてはないよ。だからせめて、お前の知り合いやらに手を出して余計
な復讐なんぞをさせないように、そこだけは見張ってある。やつもわざわざそういう目立
つ場所に来るとは思えないから、保険に過ぎないけどな」
「――あ」

ここで、葉月の顔に不安と焦燥が浮かんだ。“知り合いやらに手を出して”?
しかし声を大きくしてしまうより先に、月燕がそれを制する。

「落ち着け。お前の妹と父親のふたりなら無事だそうだ。見張りもついている」
「そ、そうですか……」

安堵のため息を葉月はついた。
葉月には――明良には妹と父親がいたのだ。もしも無貌が復讐を考えるのであれば、
真っ先に狙われるのはこのふたりであるに違いなかった。
だが、彼らには何事もないらしい。せめて家族が無事であってくれて、よかったと葉月
は思う。妖狐になって、家族が“元”家族となったところで、彼らに対する情がなくなっ
たりはしない。
胸にちくりとしたものを覚えつつ、葉月は礼を言った。

「ありがとうございます」
「ああ。だが、それは嬢ちゃんに言ってやるんだな」
「う、そうですね……」

葉月は躊躇がちに苦笑した。そしてすぐに顔を引き締める。
葉月の家族が無事であるとしても、これからはどこで誰が犠牲になってしまうかわから
ない。これまで、無貌という怪物は葉月の中にいたのだから、それを自由にさせず、怪物
に操られないようにしてさえいれば、誰かが犠牲になることはなかった。しかし今はもう
違うのだ。
怪物は今や自由だ。どこで何をするかわからない。

「話を戻すが、網なら連中が張っているし、専門的な探査なら向こうは向こうでやってい
る。俺たちのやることはこうやって足で探すくらいだ。といっても、こちらが本命のつも
りだけどな」

月燕が葉月を見ている。
葉月は頷く。そう、葉月こそが、怪物を見つけ出して凶行を止めなければならない。し
かしそうなると、また話は戻ってくる。

「でも、あの、ご主人さま。私、何か違和感があるんですけど……」

この先を行って、果たして無貌が見つかるだろうか。葉月が違和感を説明をすると、月
燕は「そうだな――」と考えるふうである。

「直感というのは、馬鹿にしたものじゃない。つまり霊感だからな。それに――」
「え。そ、それに?」
「いや……、すぐにわかるだろう。とにかく、あまり焦らないようにな。それに、気負う
な。お前はもう、ひとりじゃないんだから」
「あ……」
「そうだろう?」

言い聞かせるようにする月燕に、葉月は上目遣いになって頷くのだった。

「……はい」



日ノ本を守護する退魔十二大家。
その一角、継白一族。
彼らの豪壮な邸宅は、古い街並の中に鎮座している。

「――報告は以上です。なお、これまでの被害は、軽傷者が四名、重傷者が二十三名、死
者三名。重傷者二十三名はいずれも命に別状ありません」

屋敷のとある一室に、数名の人間が集っていた。
両膝をそろえて正座し、背筋を伸ばして、報告を締めくくるは優依奈である。どのよう
な場であっても、彼女は堂々泰然とした居住まいを崩さない。
そして、そんな優依奈の報告を受けるは、継白の長老衆。現役を引退して、一族の運営
や術者の管理を担う者たち――つまりは、一族における優依奈の上役である。
さらに、それに加えて、もうひとり。

「かの吸血鬼が解き放たれるや否や、死者が三名――」

口を開いたのは、偉丈夫。褐色の肌に厳つい顔、筋骨たくましい大柄の男性。顔に刻ま
れた皺や、白髪が混じりつつある頭髪からするに、若いとは言えない年齢であると見える
が、しかしどっしりとした巌の如き存在感に、老いの気配は微塵も感じられない。
継白一族、現当主――継白清治郎(つぎしろ せいじろう)。何を隠そう、優依奈の実
父である。高校生の優依奈とは多少歳が離れているのだが、それは若き頃より退魔業に没
頭し、妻を娶るのが遅れたためである。
清治郎が、重苦しい声音で唸った。

「手をこまねくわけにはいかんな。ここからはそれこそ、一般人に犠牲が出かねん」
「はい」
「だが、いい報せもある。妖狐が静まったのは幸いだ。優依奈よ、至郷殿は九尾尾を調伏
されたと、確かにそう言われたのだな?」

座布団に座した清治郎の姿に隙らしい隙はないものの、唯一三角巾で吊った右の腕が、
今ばかりは弱みを感じさせる。今となっては現場に出向くことも少なくなったが、昨晩は
無貌討伐と出陣し、その結果、妖狐と化した葉月によって腕を折られたのだった。
優依奈は肯定する。

「はい。申し上げました通り、現在は妖狐を使役し、無貌を追っておられます。行方をく
らませた無貌の発見を以て、調伏の証とすると」

優依奈の回答に、清治郎は念を押した。

「今も暴走の様子はないのだな?」
「落ち着いた様子だと、報告を受けております」
「うむ……。げに恐ろしきは至郷殿の技だが。一体何をどうされたのやら……。まさか大
妖怪を従えてしまわれるとは」

そんな清治郎のぼやきだが、優依奈も同じことを思わないでもない。同様に、長老衆の
中にも、優依奈の報告を平気の平左で聞けた者はないようであった。
むべなるかな。月燕という名の吸血鬼も大概常識外れな存在ではあるが、一方で九尾が
一尾ともなれば、常識を鼻で笑うどころか、これを鼻息で吹き飛ばして更地に変えてしま
うほどの化け物である。事実、百年前に封印から蘇った際には、一帯を灰塵に帰したと記
録にある。
その割に、今朝見てきた妖狐は単なる小娘染みていたが……、その身に秘めた巨大妖力
を見逃す優依奈ではない。その規模たるや、まるで山のようであった。
昨晩、ひと時暴れてみせた妖狐。その大霊威に膝が震えたことも、記憶に新しい。皆も
そうだろう。それを鎖に繋いでみせる吸血鬼と、どちらがより恐ろしいのかは判断に迷う
ところだが。

「ところで――件の妖狐になってしまった少年だが、我らを恨んでいような」

清治郎がそんなことを言った。優依奈は多少、返答に迷う。あれは少年というより、も
う少女のようだったが――

「……すべきことをしたまでと、考えます」
「うむ。しかしそもそも、無貌が彼に憑く隙を与えたのも我らの責任だ。いずれ会って、
頭を下げよう。時間ができたならな」

清治郎はそう言って議題を締める。

「報告御苦労。九尾尾の件はわかった。現状の通り、そちらは後に回し、無貌に注力する
――それでよろしいですな、各々方?」

長老衆に視線を向けている。ただ、それは認可を求めているというものではない。決定
権は当主たる清治郎にある。
強力な術者として長く現場で戦い、継白の退魔業を文字通り最前線で率いてきた清治郎
は、その政治力、影響力も一族一。明確な意図気概なく彼に逆らおうとする者は、継白に
は存在しない。
月燕の提案を受け、葉月を見逃してもよいと決めたのもまた、清治郎である。もっと
も、妖狐と事を構える危険は誰もが承知であるのだから、明確な反対があるはずもなかっ
た。
長老衆から反論が上がらぬことを確かめると、清治郎は優依奈に向き直る。

「問題は無貌だ」
「はい」
「まずはそうだな。余力があるとのことだが、実際どうなのだ、討てるか?」
「討てます」

優依奈は即答した。その顔色に変化も見せず、言葉を続ける。

「よしんば無貌が私の手に負えぬとしても、次は至郷殿も、これの討滅を躊躇われないで
しょう。となれば、私に加え、百年級の吸血鬼が二人。妖狐はできれば動かしたくはあり
ませんが、いざとなれば、これも戦力に計上できるはず。いくらなんでも、これを凌駕す
るだけの力はあり得ません。でなければ、無貌も、逃げ出していませんから」
「……うむ。協力する気があるのなら、よいのだが。甘く見るなよ」
「はい――ご心配なく、父上」

優依奈は落ち着いて気負いのない様子だ。その調子で、こんなことを言う。

「万一、私の身が狙われることがあっても、みすみすこの身や力を明け渡すことはござい
ません。そうなる前に、自ら命を絶ってみせます」
「――――」

一方、清治郎の表情には、一瞬だけ、かすかに苦いものが混じった。しかしそれもすぐ
に消えてなくなり、優依奈には悟らせない。

「ならばよし。だが、まずは無貌を見つけ出さないことにははじまらん。……少年のご家
族だが、どちらも白だな?」
「はい。確認いたしましたが、白です。久渡敏明氏は事情もご存知ですので、これより保
護を受け入れてもらう予定です。妹の方は……、父親から説得していただこうかと」
「うむ……。わかった、そちらは任せよう。それから、報告にあった巡回班の配置に関し
てだが、この場合は――む?」
「失礼します! 急ぎの報告がございます」

清治郎が指示を出そうとする、ちょうどその時であった。ふすまの向こうからそんなふ
うに声がかけられたのだった。
事態が事態である。清治郎がすぐに入室を許可すると、ひとりの術者が部屋に入ってく
る。そして術者は畳に膝をつくと、声を張り上げるようにして報告を告げた。すると案の
定、それは火急の報であり、その内容に優依奈は驚きの声を上げることとなる。

「申し上げます。探査班が無貌のものと思しき気配を捉えました」
「――! 尻尾を出したの!?」

この瞬間、場は大きくざわめいた。清治郎もまた、目を見開いている。難航すると思わ
れた無貌の探査がこうも早々と済むとは、優依奈にとってもいささか予想外だが、敵の居
所が判明したとなれば、迅速に対応せねばらない。

「焦って下手でもうった? ……いえ、場所は?」
「は。ショッピングモール・ビヤンコ内部です。いかがいたしましょう」

術者の男が、優依奈に指示を仰いでくる。無貌への対応はすべて優依奈が指揮を執って
いるのだ。優依奈がちらと清治郎を見ると、任せると頷くので、優依奈は高速で頭を回転
させる。

「また厄介な場所に。いいわ、戦力を集中して包囲よ。私も出るから、探査班からもひと
りついてきてもらうわ」

そう言って、傍らの男を振り返る優依奈。指で指して、指示を出そうとする。

「残りは並列探査術式で探査続行。また逃げるかもしれないから、絶対に気配を見失わな
いようにと伝え、て――……?」

――のだが、その途中、優依奈の目が不意に怪訝なものとなる。優依奈は急に、何かお
かしなことに気が付いたふうに、眉を寄せたのだった。眉間にしわを作りながら、眼光も
鋭く、じろりと傍らの男を睨む。

「……おまえ……?」

優依奈は低い声で恐ろしげに呟きながら、男を睨んで、眺める。観察する、上から下ま
で。

「な、なにか?」
「どうした、何か――まさかっ?」

戸惑うのは術者の男である。優依奈の不意の変化に、清治郎もまた怪訝な様子であった
が、こちらも何かに気がついたようで、慌ただしく腰を上げた。
そして、その瞬間だった。突然、男が逃げ出したのは。

「っ」

男は弾かれるように背を向け、脱兎の如き逃走を開始した。ばたばたと駆け、乱暴にふ
すまを開いて逃れようとする。
その背に向かって、優依奈が怒りさえこめて叫んだ。懐から素早く呪符を取り出し、呪
力を込めて投げつける。

「待てっ! この、“無貌”! 邪魂覆滅――急急如律令!」



吹きさらしの屋上に、冷たい風が吹きつけた。
昼食中にぼんやりとしていた久渡瑞葉(くわたり みずは)は、思わず身を縮こまら
せ、ぶるりと震えた。そろそろ秋も深い。わざわざこんなところで風にあたって昼食をと
りたいなどと思う者は、周囲には見当たらない。

「はあ」

ため息がこぼれた。教室や学生食堂で昼食をとる気にはなれなかった。別段、友人がい
ないわけでもないのだが、ひとりになりたかったのだ。
しかしどこであろうと、食欲があまり沸かないのは同じことである。いつものように弁
当をつくってきて、その半分しか食べられない――そんなことがもう二週間も続いてい
る。体重も落ちてしまった。
瑞葉は、県立宇賀丘高校の一年生である。そして彼女の兄、明良は二年生である。しか
し、瑞葉と違って、明良は学校に登校してきてはいなかった。今日も、先週も、先々週も
である。それどころか、自宅に帰ってきてさえいない。瑞葉の兄である明良はもう二週間
も行方不明なのだ。
瑞葉は制服から携帯電話を取り出すと、端末を操作し、受信メールを確認する。明良か
らの最後のメールは、彼の姿がなくなってから二日後の日付で、短いメッセージだけが送
られてきている。

――絶対に戻る。心配するな。

それ以後、メールもその他の連絡も、何もない。こちらから送ったメールに返信はな
く、電話をかけてみても、電波が届かないの一点張り。心配するな? 馬鹿を言うもので
はない。そんな文面では、何かあったと言っているようなものではないか。
瑞葉は再度のため息をついた。

「はあ……」

瑞葉は、何故だか警察もまじめに捜査してくれていないような気がしていた。失踪事件
だというのに、ニュースにだってなっていない。勿論、瑞葉とて不要に騒ぎたててほしい
わけではないが、兄がいなくなったことがどうでもいいと扱われているような気がしてし
まう。一方で、友人たちには変に気を使われたり、腫れもの扱いをされて鬱陶しかったり
するのだ。
教師たちは露骨に兄に関する話題を避けようとするし、瑞葉の父は父で、何やら妙な人
間と会っているようでもある。父は瑞葉以上に憔悴した様子であって、瑞葉としてはそち
らも心配になるのだが――とにかく、いつも頭がごちゃごちゃとしていて、瑞葉はまった
く落ち着いた心地になることがなかった。

「どこでどうしてるの、お兄ちゃん」

何らかの事態に巻き込まれていることは確実である。だが、瑞葉にできることは多くな
い。
放課後、夜遅くまで街を歩いて探し回るも、ここまでまったく成果はなかった。もし、
もっと遠くへ行ってしまっているのだとしたら、それこそ瑞葉にできることはなくなって
しまう。
瑞葉はのろのろと携帯電話をしまうと、箸で卵焼きをつかみ、口に運んだ。やはり味は
しない。

「――よう瑞葉、やっぱりここか」

と、そんな時、不意に声をかけられて、瑞葉は顔を上げた。そこにいたのはひとりの男
子生徒だった。
瑞葉はその男子生徒を睨む。彼女にしてみれば、目つきが悪くなるのはこの際、仕方が
ない。

「……今日はきてたんですね、加賀先輩」
「おう、厄介な風邪がやっと治ってな。……その目は何だよ?」
「白々しいなと」

瑞葉は探る目つきで男子生徒を睨んでいる。この男子生徒、二週間とは言わずとも、こ
こ数日学校へ登校していなかったのである。風邪とは言っているが、この男がそう簡単に
体調など崩さぬということを、瑞葉は知っていた。この男がこんな時に学校を何日も休む
など、怪しいことこの上ない。

「お兄ちゃんをどこにやったんですか?」

瑞葉がそう問い詰めると、さすがに唐突であったか、男子生徒は心外そうにした。

「おいおい、何だそりゃ。何で俺が犯人扱いなんだよ」
「……前科があるじゃないですか」

明良が何らかの事件に巻き込まれているのは間違いがない……はず。であるならば、怪
しいのはこの男ではないか、と瑞葉は思う。
これが他の生徒であったなら、ただ学校を休んだというだけで、疑うことなどなかった
だろう。しかしこの男、普通平凡が大嫌いときていて、「刺激が欲しい」などといってあ
ちこちで問題ばかり起こしている、札付きのワルなのだ。瑞葉にしてみれば、精神的に幼
いただの子供にしか思えないが、やたらに行動力がある上に、後先考えない向う見ずな悪
童であるため、始末に負えない。
事件を起こすのも。
兄を事件に巻き込むのも。
これまですべてこの男の仕業だった。
今度はよからぬ輩同士の抗争に兄を巻き込んだのか。
もっと直接に、拉致監禁でもしているのか。
曲がりなりにも、こうして学校に通える身分ではあるのだから、あからさまに大きな事
件を起こすようなことはなかったはずだが……。

「……」

そこまで考えてみたところで、瑞葉は俯いた。この男子生徒が犯人だと、そう思い込ん
でしまいたいが、さすがに無理があった。この男がろくでなしなのは確かだが、所詮はた
だの高校生に過ぎない。同級生ひとりが姿を消してしまうような事件をそう簡単に起こせ
るものか。

「そんなに過大評価してもらってもな。ドラマの見過ぎじゃね」
「……だって、メール、見せたでしょ? こんなの絶対に何かあったに決まってる……」
「ふん」

男は肩をすくめた。

「ま、風邪ってのは嘘さ。俺なりに探してみた。明良ひとりだけ遊ばせておくのは面白く
ないからな」
「……学校、休んでまで?」
「そういう気分じゃねー。面白そうな空気だからな。乗っかりたくて仕方がねえ」

その言葉に、瑞葉は男子生徒を睨みあげる。

「何か知ってるの?」

今のそれは、何らかの事情を知っていなければ、出てこないはずの台詞だった。しかし
瑞葉が問い詰めても、男子生徒はおどけてみせるばかり。

「――いや、何も? ただの勘」

瑞葉の頬が苛立ちに痙攣した。

「ただし、俺の勘は外れない。特に、面白いことセンサーは優れもんだ。明良のやつ、面
白いことになってるぜ」
「……何ですか、それ」

意味不明だ。うさんくさい。
確かに、厄介事を見つけてくる嗅覚は優れているのかもしれないが。

「で、じゃあ何で今日は学校に来たんですか。気分じゃないんでしょ。そもそも何の用で
すか」

瑞葉は男子生徒に問う。
この男、瑞葉に向かって言っていた。ここにいたのかと。用事があって瑞葉を探してい
たのでなければ出てこない台詞だ。
しかし男子生徒は同じように答える。

「それも勘? 何となく、お前を探したら面白そうな気がしただけ」
「はぁ? ……落ち込んでる私が面白いとか、そういうのだったら怒りますよ」
「ちげー。ま、休んでばっかだと進級やべーし」
「そんなことを気にする人じゃないですよね?」
「そうだけど? つっても明良に学年で先越されんのも業腹だ」

瑞葉は三度目のため息をつく。
この男、いつもいつもわけのわからないことばっかり言って。

「ほんとにもう、何の用ですか。何もないならどっか行ってくださいよ。私、そういう気
分じゃないので」
「まあま、そう言うなって。心配すんな。明良はちゃんと戻ってくるよ」
「……何も知らないんでしょ?」
「しらねー。だから勘だ」

もしかして、これで慰めているつもりなのか?
まさか。

「もういいですから。あっち行って」
「おう、おーけ、おーけ。とにかく、そろそろ明良も顔見せに来るはずだから。んじゃな」

瑞葉が追い払うと、男子生徒はやって来たばかりの屋上から去っていった。瑞葉はその
背を黙って見送る。あの男、何をしに来たのだろう。まさか本当に、心配ないとでも言い
に来たのだろうか。
大体、あの物言い。
勘だ、勘だ、と言いながら、ああも断言するとは、何かを知っているのだとしか思えな
い。この数日、姿を見ない間に何かを見つけたのだろうか。それとも、ただの勘という言
葉に嘘はない?
いや、でなければ、やはりあの男子生徒が兄の失踪に関与しているのか。そういうこと
であれば、もっと問い詰めなければならないが。

「あーもう」

わけがわからない。これだからあの男は嫌いなのだ。
瑞葉は再び携帯電話を取り出して時刻を確認する。そろそろ片づけて戻らなければ、昼
休みが終わってしまいそうだった。

「学校なんて来てる場合じゃないのかな……、私も」

もっと本気で探さないから、兄が見つからないのだろうか。
しかし闇雲に歩き回るだけで見つかるのなら苦労はない。
どうすればいいのだろう?



一方、屋上を後にした男子生徒も、彼は彼で苦笑いを浮かべていた。

(勘は当たっても――)

ポケットに手をつっこみ、悠然と廊下を行く。すれ違った生徒が関わりを避けるように
そそくさと端を行く。
そんな中、男子生徒は特に人目を気にするでもなく、独り言をつぶやいていた。

「――運はねーなぁ」

ままならねえ。
そうひとりごちていた。



「ううう」

葉月は早足に歩きながら、小声で唸っていた。
葉月は妖狐だ。人間ではないとしても、しかし生物ではある。故に彼女の肉体には、生
理現象というものが発生する。
――生理現象。それは生物が生きているうえで自然と起こる、肉体の現象である。例え
ば、時間の経過に従って空腹を覚えるというのもそうだ。そして栄養、または水分を摂取
したならば、それに付随してやがて起こる現象がある。
排泄である。

(うう……)

人間であろうが妖狐であろうが関係なく、それはやってくる。つまり、葉月は尿意を催
したのである。有体に言えば――

(おしっこ……!)

おしっこがしたい。
というわけで、葉月がやって来たのはトイレであった。加えるならば、女子トイレであ
る。

(何回目だよぉ……。もう、何でこんなときに……早くしないと)

如何に妖狐とはいえ、排尿が一日一回で済むほど便利な身体をしていない。
葉月はみっともなくならない程度にそそくさと早足に歩き、トイレの個室に入る。男子
トイレが隣にあったのだが、さすがにそちらへ突入していく気にはなれなかった。女子ト
イレであれば気軽に入れるのかと問われれば、そうでもないのが面倒なところだ。

「またスカートだよ……」

個室に入ったところで、葉月は自分の服装を見下ろした。ロングスカートである。当然
ながら、このままではできない。よって。

(また上げないと。あーもう)

これをたくし上げる必要がある。汚すのはまずい。

(ていうか出そう。女っておしっこ我慢できないの? とりあえず、たくし上げて……)

スカートを持ってたくしあげていく葉月。このやり方で本当にいいのかと疑問を覚えつ
つも、スカートをウエストまでまくり上げてしまった。すると、尾が露わになる。下着を
履いた股間も。
自分で自分のスカートをまくり上げる。誰ぞの物言いではないが、葉月は変態になった
気分だった。実際のところ、ロングスカートの女性はこうするしかないのだが、さすがに
葉月はそんなことは知らない。

(ううぅ……、パ、パンツ下ろさないと……)

葉月は表情筋に不要な力を入れつつも、どうにかこうにか準備を終え、便座に座る。力
を抜いてみると、水音と共に排尿がはじまる。
まったく慣れたとは言えない。女としての排尿である。

(うーやっぱ変な感じ……)

しー、やら、ちょろちょろ、やらといつもとは違う音。意識せざるを得ない。勿論、わ
ざわざ覗いたりはしないものの。ところで便座が温かいが――

(て、あれ? これ、誰か女の人座った後じゃ――いやいやそういうのは考えない)

その他にも。

(隣誰かきたし。大丈夫かな、これ)
(やっぱり垂れるよ……)
(どれくらい拭けばいいか、わかんないよね……。パンツはいていいの? 汚れないか
な)
(手を洗おう、ちょっとついたし……。あ、メイクしてる、スカート短いな……、何でみ
んな口が開くんだろ? うわ目が合った)

と、そんなこんなでびくびくと排泄を済ませ、葉月はようやく女子トイレを後にしたの
だった。時間にしていくらもたっていないが、この間にまた疲れてしまった葉月である。

「はぁ」

なお、この時やってきていたのはゲームセンターである。といって、さすがに遊びに来
たわけではない。無貌の気配を追っているうちに催してしまったので、トイレを借りに来
たのだ。
そして、今回はそればかりでもない。この一帯、無貌の気配が――濃い。葉月はため息
を噛み締めると、煙の様子を確かめる。

「大丈夫ですか、できました?」

トイレの傍で、至郷一同が待っていた。朔が声をかけてくる。葉月はうなずく。

「だ、大丈夫。聞かないで。それより……、いるよ」

このゲームセンター、平日の昼間という割に客が多く、ごちゃごちゃとしている。この
中に無貌が紛れていることを葉月の感覚が伝えてきていた。霊感覚のレーダーで見る人々
の光点は、どれも薄靄を纏っているが、その中にひとつ、まさに無貌の煙を吐き出してい
るものがある。
今のところ動きはない。二階の奥でじっとしている。

「そんなとこで小便するなって話だけどなー」
「…………」

緋月の言に、葉月は言い返せない。まさにその通りだった。
言い訳をするのであれば、まだもう少し我慢できるつもりだったのだが。下手に我慢し
ないで、途中で済ませておけばよかった。或いはコンビニの男女共用トイレであったなら
ば、あからさまな女子トイレなどに入らなくてもよかったのに。
ただ、幸いなことがあるとすれば、この間、無貌が何のアクションも見せないでいるこ
とである。向こうもこちらの接近に気づいていて然るべきなのだが。それとも本当に、憑
りついた誰だかの身体を奪えないでいて、動くに動けないのか。
大丈夫だから、(トイレを)済ませて来い――とは月燕の言であったが……。
葉月は顔を伏せた。その横で、月燕が親指でくいと向こうを指す。

「まあ、それはもういいよ。それよりこっちだ。これだけ寄れば俺にもわかる」

いよいよ無貌と対峙するのか。葉月は緊張を覚えた。しかし……

「……継白、呼ばなくていいんですか?」

見つけたら呼べと、そう言われていたのを葉月は覚えている。だが、月燕は次のように
言ったのだった。

「まだいい。先に確かめることがある」
「……?」



その青年は、近くにある大学に籍を置く学生であった。が、さほどまじめな学生という
ほどでもない。こうして講義をすっぽかして、ゲームセンターなどに遊びに来ているのだ
から。
もっとも、講義には期末試験前の二、三回だけ出ておけば十分に単位は取得できるのだ
から、馬鹿真面目に毎度講義に出席するなど要領の悪いやつのすることだと、彼は思って
いる。
彼はいわゆるさぼりの常習者であった。そして、このゲームセンターの常連客でもあっ
た。今日もこうして、いつものように筐体の前に座り、格闘ゲームに興じる。コンソール
もよいが、アーケードにはアーケードの楽しみがあるのだ。それに、新バージョンはアー
ケードのみで、まだ家庭用は出ていない。
新しい仕様環境に早く慣れなければならない。できるならば、あまり弱い相手ではなく
ある程度は実力のある相手と対戦したいものである。
などと、考えていた時だった。不意に声をかけられて、青年は背後を振り返った。

「失礼、少しいいかな」
「――あ? あ、俺?」

振り返ると、見知らぬ男が青年を見ていた。年の頃は、大体同じ程度だろう。青年より
もふたつみっつくらいは年上かもしれない。三人の女を連れているようだ。こちらも知ら
ない女――いや、ひとり知った顔がある。彼の友人だった。

「何だ、緋月か。何か用? ってか、こっちはどちらさん?」

その友人とは、たまたまこの場で知り合った仲だ。以前、ナンパしたのだ。といって、
彼女というわけでもなく、あくまで遊び友達の範疇である。もう多少“親密な”遊び友達
ではあるだろうが。
この女、このゲームセンターではしばしば出くわすが、誰か他の人間を連れてくるのは
初めてのことだった。

「……知り合いですか?」

女のひとりが、彼の友人にそう尋ねていた。向こうも事情がわかっていないらしい。一
体何の用なのか。

「まあな。いわゆるセ――いやなんでもない。そりゃともかく、俺ちゃんっていうか、俺
たちでお前さんに用があってね。ちと付き合えよ」
「だからそっちは誰だよ?」

如何に顔見知りとはいえ、ろくに説明もないまま、顔を貸せと言う友人。青年は流石に
怪訝な顔をした。そしてそこで、三人目の女に目がとまる。
女というより、少女である。何やら警戒した様子で、男の背後に隠れ、こちらの様子を
伺っている。外人だろうか。雰囲気からして、人見知りか何かだろうか、少なくとも、あ
まり彼の友人とつるむようなタイプには見えない。
青年の目には、少女は少々、警戒のし過ぎであるように映った。少女に乱暴を働いたわ
けでもなし、彼は威圧的な風体でもない。なのにどうしたことか、不自然に思えるほど怯
えられている様子で、いささか面白くない。これでは己が悪漢に見られているようではな
いか。

(何だよ。感じ悪い、な――……?)
「!」

しかしそこで。

(な、なに……!?)

唐突に、青年の鼓動が乱れる。
息が詰まる。
突然脈絡もなく沸き上がったのは、意味も理由も不明だが、危機感だった。
いきなり、少女が恐ろしい怪物に姿を変えたから――ではなく。そんなはずもなく、少
女のままなのに、何故かその姿が――

「……!?」

恐ろしい。
恐ろしい化け物であるかのように、思えてくる。少女だけではなかった。男も女も友人
でさえもが人型の猛獣に見えてくる。青年の内側で何かが叫びをあげている。

――これは敵だ。危険だ。お前を殺してしまうつもりだぞ!
「な、ん!?」
――危険だ。危険、危険。危険危険危険危険危険、今すぐ逃げなければならない!

胸が凍って脳が灼熱するような恐怖と焦燥。
今すぐ逃げなければ死んでしまう。そんな訳もわからぬ絶叫が、青年の中で甲高い警告
を発していた。何故そんなことを思う!? そんな混乱が、焦燥によって塗りつぶされて
いく。このままでは駄目だ。じっとしてなどいられない。ここにいては殺される。滅ぼさ
れてしまう。そうなったら。
そうなったら、“本体の指令を果たせない”。

「っ」

青年は、背筋の寒さに支配されきることとなった。瞬間、弾かれるようにして筐体を脱
し、逃走を開始。
なりふり構っている場合ではなかった。人を押そうが跳ね飛ばそうが、気にかけている
余裕はない。必死の形相で駆ける。逃げながら背後を振り返ると、あいつらが追ってく
る。駄目だ追いつかれれば死ぬ。
青年はほうほうの体でゲームセンターから脱出すると、背後を気にしつつ、全力で地面
を蹴る。身体はぐんぐんと加速する。猛然な加速であった。風を切って疾走するその身
が、車道を走る自動車さえ追い抜いて行くその異様に、彼は気づくことができない。



「の、乗っ取られ、たのっ!?」

驚嘆すべきスピードで遁走する青年を、“ほとんど同様のスピードで追いかけながら”、
葉月は戸惑いの叫びをあげていた。
無貌が憑いていると思しき青年は、呑気にゲームに興じていた。そこに月燕が声をかけ
ていったのである。あんなに人の多いところで軽々しく接触していいものかと葉月は思っ
たが、最初の反応からするに、やはり青年は無貌に乗っ取られていたわけではなかったら
しい。
しかし青年は、突然血相を変えると、こうして逃走をはじめた。内に潜んでいた怪物が
目を覚まし、青年の肉体を乗っ取ったのだと――そうとしか考えられないが、少々疑問を
覚える。あの無貌が、あんな顔をするだろうか。まるで化け物にでも出くわしたかのよう
な、恐怖の表情を。化け物はお前だろう?
とはいえ、するべきことは同じである。追いかけるしかない。人外の速度で逃走すると
いうのであれば、こちらも人外の速度で。葉月は一時的に自動車と並走する形となり、運
転手が唖然とした顔でこちらを見ていた。
通行人の目線も感じる。明らかに目立っている。

(全部……、全部お前のせいだっ。この寄生虫野郎!)

それでも逃がすわけにはいかない。先行する月燕たちに追いつかんと、葉月は怒りを込
めて地面を蹴るのだった。ノーヒールのブーツが地面を踏みしめ、身体がぐんと加速する。
景色を置き去りにしていく。


こうしていきなりはじまった、悪目立ちする追走劇。しかし、葉月のとっての救いは、
それが長続きすることがなかったという点である。

数分の後、月燕がタイミングを計って手を横向きに小さく振った。
合わせて月燕は、魔力を放出する。魔力の見えざる手によって物体を動かす、念動力で
ある。これが不可視の鉄槌となって、横合いから叩きつけられ、逃走する青年を真横に殴
り飛ばしたのだ。
青年が吹き飛ぶ先には、地下駐車場の入り口があった。青年の身体が勢いよくバウンド
しながら、地下へと突入していく。その後を、一行は迷わず追いかけ、いくらか広い空間
に出る。

「悪いが、鬼ごっこに興じられるほど子供ではなくてね」

青年を追いつめたところで、月燕が乱れのない声をかけた。ところは人気のない地下駐
車場である。冷たいコンクリートの上では、青年が脇腹を押さえてうずくまっていた。

「安い台詞だよな」
「茶化すなと言うに。さっさと済ませるぞ」

軽口を叩きあいながら、月燕と緋月、そして朔が青年を三方から囲む。自分も参加すべ
きだろうか。そんなふうに葉月が迷っていると、月燕が振り返ってこう言う。

「さがって、待っていろ。こいつはすぐに済む」
(こいつは……?)

その物言いに葉月が疑問を覚えた瞬間、うずくまっていた青年が勢いよく顔を上げる。
牙を剥き出しにし、見開かれた目は血走っている。尋常な形相ではない。

「あ――っ」

だが、葉月が注意を促すまでもなかった。
青年はほとんど跳びかかるようにして、月燕に殴りかかっていく。彼は人のそれを超越
した瞬発力を見せてはいたが、強化された葉月の動体視力は、一部始終を難なくと捉え
た。月燕が青年のこぶしを危なげなく捌いて、青年を投げ飛ばしていた。
合気。でなければ化勁。達人技に違いなかった。月燕の動きは最小限であったのに、投
げられた青年は猛烈な勢いで吹っ飛んでいく。葉月の横を通り過ぎ、ぽつんと一台だけ駐
車されていた自動車に背中からぶつかると、ボディを大きく凹ませ、これを押し滑らせて
いく。
カーセキュリティーの類であろう。破損した自動車が、地下空間にけたたましい警告音
を反響させる。

「おっと。騒がしくするのはまずいな」
「あ、いや……」
――これは死んでしまったのでは。

ぐにゃりとして動かない青年の様子に、葉月は言葉を詰まらせた。しかし――

「起きてくるぞ。さがれ」

月燕が寄ってきて、葉月をさがらせる。葉月が青年を見ると、月燕の言葉の通り、ふら
ふらとしながらではあるものの、彼が立ち上がろうとしているところであった。
そうか、と葉月は思いなおし、また邪魔にならぬよう後退する。
考えてみれば、かつてこの二週間、葉月はもっと凄惨な目にあってきた。それでも、今
こうして五体満足でいる。これだけでもはたから見ていると過剰攻撃だが、実際はこの程
度、大したダメージにはならないはずなのだ。無貌が憑いているというのであれば。

「……」
(憑いているのであれば、だけど)

葉月は違和感を覚えている。この青年、何かがあるのは間違いがない。ただの人間が今
の衝撃を受けて立ち上がれるはずはないし、霊感覚で見た彼の光点には、人ならざる気配
が混じっている。それが無貌の気配だと、葉月の霊感覚は確かに告げている。だが。

(これがあいつ?)

立ち上がった青年の顔を葉月は見る。
牙を剥いて唾液をこぼし、唸り声を上げながらも焦点が合っていないような目。これで
はまるで、理性を失った獣ではないか。これがあの狡猾で憎たらしい怪物と一緒だと考え
ようにも、どうにも一致しない。それに本当に無貌が相手なのであれば、こんなにも簡単
にあしらわれてくれるとも思えない。

「こいつはな、無貌であって、無貌ではない」

青年と葉月の間で、月燕が今度は振り向かずに言った。

「それはどういう……」
「つまり――む」

月燕が何かを言いかけて、口をつぐむ。葉月たちの見ている前で、青年が変化しつつあ
った。

「え……!」

彼の肉体は“変態”しつつあった。
青年の唸り声が震え、濁音を混ぜながらおどろおどろしく変質していく。声だけではな
い。そちらはむしろ、副産物。
細身であった青年の肉体が、無理矢理に骨肉を組み替えるが如き異様な音を立てて、め
きめきと変形していく。肥大していく。脚が、腕が、胴が、胸板が、肩の肉が何かの冗談
のように膨れ上がって、衣服を割いていく。青年は、そのシルエットさえをも人間のそれ
から逸脱させていく。

「へ、変身……?」

葉月が呆然と呟いた時、そこにあったのは分厚い筋肉の塊を備えた怪人であった。筋肉
が肥大しすぎてはち切れんばかりになっている身体は、変形しすぎていておぞましくさえ
ある。人間が備えているべき、自然な五体のバランスがそこにはない。人体のデザインを
悪意を持って歪ませた結果、できあがってしまったような化け物がそこにいた。
唯一、ほとんど変化のない頭だけが、膨張しきった肉体に乗っかっていて、余計に不気
味だった。その顔には、変わらず理性がない。
獣――いや、これは鬼だ。

「がぁッ」

警告音が鳴り響く中、瞬く間に姿を変えた鬼が、コンクリートを踏み砕いて突進した。
変身に伴ってだろう、人外の速度はさらに増している。ただし。
ただし、月燕のほうがもっと速い。

「とう」

気軽な掛け声とともに、掻き消える月燕の姿。
ぐどんッ。
人体を殴ったとは思えない、重々しい音。
文字通りに瞬きひとつの後、瞬間移動した月燕の突きが鬼の顔面を真正面から捉え、こ
れを真っ直ぐに撃ち抜いたのだ。

「――!」

直後。
カウンターをまともにくらった鬼の挙動は、冗談染みたものとなった。
高速で突進しながら、頭部を逆方向に撃ち抜かれたからか。鬼は頭を支点としてバク宙
のように回転しながら――膨張した肉体が霞むほどの速度で猛回転しながら――当初の
突進方向へ向かって吹き飛んだ。
そして当然、着地などできずに、後頭部をコンクリートに叩きつけられる。さらにその
反動でバウンド。床を頭で砕きつつ跳ね返って、今度は逆回転。ごろごろとまだ転がる。
月燕が放ったのは、念動の魔力を上乗せした、砲弾の如き突き。しかもその後、鬼は逆
ヘッドバッドでコンクリートを見事に粉砕している。
彼の頭部に加わった衝撃は、相当なものであったに違いない。しかし転がり行く鬼の頭
部は、未だに変形さえしていなかった。これでなお破裂してしまわない辺りが、人外たる
所以である。とはいえ。
やっと鬼の運動が停止する。すると、さすがにもう立ち上がらない。
葉月はぞっとした。

「こ、殺しちゃい、ました……?」
「いいや。生きてるよ」

一同は小走りに鬼に駆け寄った。すると、どういう理屈であるのか、今度こそ意識を失
った鬼の身体が萎んでいく。見る間に元の青年の姿へ戻っていく。
呼吸はある。外傷さえも見受けられない。衣服が半端に引っかかっているだけになって
しまっているので、まったくの元通りとは言えないかもしれないが。
ボトムは比較的原形を残しているようで、よかった――と葉月はそんなことを考えて、
すぐに思い直す。安堵の仕方がおかしい。

「ど、どうするんですか、これ――って言うか」

目の前には失神して動かない青年の姿。気配が初めより小さいのは、意識がないためだ
ろう。しかしその中には、まだ邪悪な気配がある。青年自身のものと思われる光点の内側
に、煙が染みのようにわだかまっている。無貌の気配であるように、葉月には思われるの
だが。
無貌であって無貌ではない。それが月燕の言である。ならば。

「一体、何ですか、これ……?」

そう尋ねる葉月。月燕が鼻を鳴らす。

「いや、先に移動しよう。うるさくし過ぎた。これ以上目立っても面倒だ」
「あ、はい」

それはその通りである。特に、破損した自動車の警告音がけたたましい。これを聞きつ
けた誰かがこの場にやってくるかもしれないし、それでなくとも、この車の持ち主が様子
を確認しに来るはずである。
しかし、この青年はどうしたものか。葉月が視線を青年に戻すと――

「う、うぇっ!?」

青年の身体が、音もなく床に沈み込んでいく。いや、床ではない。床の上に広がった何
か黒い平面が、青年を呑み込んでいるのだ。およそ現実とは思えぬ光景にぎょっとする葉
月だったが、そこで自身の知識を思い出した。

(あ、そっか。操影魔術か……)

これは影である。見れば、月燕の影が彼の足もとから伸び、黒い水たまりとなって青年
を取り込んでいた。
吸血鬼は影の中に潜むことができる。そして影の中に入れることができるのは、自らの
肉体だけとは限らない。半裸の青年を担いで移動するよりは、このほうがいいのだろう。

「行くぞ」

月燕が青年を“収納”すると、一行は人目を避けて場所を変える。



人目を遮る物陰にやってきたところで、月燕は自らの影から青年を吐き出す。音もな
く、地面から浮かび上がるようにして出てくるのは、意識のない、上半身が裸の青年であ
る。

「それで、こいつだが――」

月燕が口火を切った。見慣れぬ光景をまじまじと見ていた葉月は、その言葉に主に向き
直る。

「これ自身はただの人間だ。ただし、中によくないものがいる」
「……憑依?」
「の、ようなものだ。先に祓おう」

月燕はそう言うと、膝を折って青年のみぞおち付近に手のひらをかざす。その手が魔力
を帯びた。葉月がそれを認識すると、月燕がやや勢いをつけ、手でみぞおちを押し込む。
――瞬間。

「がっ」

失神したままであるはずの青年が、苦悶の声と共に目を見開いた。くの字に跳ね上がる
彼の身体。

「ががががが」

と壊れた電化製品が如き音――声とすらいえない――を喉奥でたてて、高圧の電流でも
流れているかの如くに四肢を跳ね躍らせる。月燕が押さえていなければ、のた打ち回りす
らしたかもしれない。
葉月の頬がひきつった。見ていて気持ちのいい光景ではなかった。
とはいえ、何も拷問をしているわけではない。月燕が青年の全身に魔力を流し、彼の肉
体から邪悪なるものを押し出していく。やがて月燕が、より力を込めて青年のみぞおちを
押し込むと、青年は苦しげに呼気を吐き出す。

「がはぁッ」

この時、吐き出された呼気の中に、何か黒々としたものが混じっているのを葉月は見つ
けた。しかしそれも、すぐに宙で燃え尽きる。
出るものが出たところで、青年の四肢は、糸が切れたかのように地へと落ちた。眼球が
ぐるりと上を向いて、白目をむく。まぶたがゆっくりと落ちる。そしてその後、青年は動
かなくなる。が――生きてはいるようだ。呆と開かれた口が呼吸を再開する。
どうやら、これで“除霊”は済んだらしい。
事を済ませ、月燕が立ち上がる。その横で、主と青年の間で視線を行ったり来たりさせ
るのは、葉月である。

「お、終わりですか?」
「終わった。余計な気配も消えたな?」

月燕にそう言われ、青年を霊感覚で確認する葉月。すると、妖狐のレーダーで見る青年
の光点は今や、ただの人間のそれであった。その中に見受けられた邪なるものが消えてな
くなっている。あの煙を吐き出すことも、もうない。
しかし……

(これは無貌じゃなかったってこと? まだ気配が……)

これで終わったとは、葉月には信じることができなかった。
葉月は顔を上げて周囲を見渡した。目で見るわけではないが、妖狐の霊感覚は未だに無
貌の気配を感じている。この青年が放っていたそれはなくなったようだが、街中にまだま
だ漂っているではないか。そこらじゅうにである。まるで、この青年と同じものがいくら
でも存在するかのように。

(……え、待って。いくらでも存在する……?)

と、そこで。

「あくまで、これ一体だけどな。察しの通り、まだいるぞ」
「――――」

言われて、ようやく気づく。これがいくらでも存在するかのように? 違う。存在する
のだ。本当に、いくらでも。
答えに至った葉月。一同を見ると、朔が不機嫌そうな顔をしている。

「分体ですね。面倒なことです」
「そのようだ」
「分体……」

つまり。

「これはあいつの、分身のようなものってこと、ですか……?」
「そうだ。無貌ではあるが、本体ではない。ただの傀儡だ」
――そういうことか。

尋ねながらも、葉月にも、そろそろ理解ができていた。一体何故、こうもあちらこちら
に無貌の気配が漂っているのかが。
無貌はひとりしかいない。だが、無貌は己の分体とやらを作り出して、それを街中には
なっているに違いない。だからこそ、こんなにも気配が多くあるのだ。葉月が先より感じ
ている違和感は、きっとこのせいだったのだ。
考える。
吸血鬼は自らの血を人間に与えることで、これを同族の子にすることができるという。
しかし無貌の場合、彼の血液はただ彼の力の源というだけではなく、彼自身である。であ
るならば、その血液を誰かに与えるということは、一体どのような行為に相当するのか?
力を他者に分け与えるという行為? 否。違う。自分自身を他者に侵入させる行為だ。
つまりそれは――寄生行為に他ならない。

(あいつ……)

葉月は唇を噛んだ。恐れを越え、どろどろとした怒りが沸き上がりつつあった。
こともあろうに、無貌は自分自身を小分けにして街中にばらまき、人々に寄生したの
だ。何のために? 決まっている。効率よく力を集めるためだ。
ある種の寄生虫は、宿主の行動をコントロールすることがある。同じように、無貌も彼
らを操るのだろう。今この青年を操って見せたようにだ。きっと夜になれば、街に散在す
る分体たちが目覚めて、そこらじゅうで吸血に及ぶ。犠牲者を量産してしまう。
それだけではない。分体が更なる分体を作ってしまうかもしれない。分体が分体を作
り、次々と増え続ける無貌。無貌たちが人々を吸い殺して、また増えていく。
感染爆発。バイオハザード。そんな言葉が葉月の脳裏に浮かぶ。

「説明はいるか、葉月?」
「……いえ、大丈夫です」
「そうか。だが、そこまでの心配はするな。これ以上には増えられないはずだ。小分けに
し過ぎれば個々が弱体化して、宿主を操れなくなるからな。今でもこの通り、見つけさえ
すれば元に戻してやれる」

そう言われ、葉月は青年を見やった。内なる無貌を追い払われた彼は、確かにただの人
間にしか見えない。今度こそ元に戻ったと言ってよいだろう。次に目を覚ませば、何事も
なく彼は彼の日常に帰っていけるはずだ。
そう――“彼は”。

「…………」

葉月の眉が憂愁を濃くした。
そうして黙り込む葉月に、月燕が言い聞かせる。

「こんなものは、ただの苦し紛れだ。やることは変わらない。今までと同じように気配を
辿ればいい。やつを追いつめてやれ」
「……はい」

葉月の頭に月燕の手がぽんと置かれる。葉月は被ったニット帽の位置を両手で直した。
他方で、緋月が小石を蹴り上げてぼやいている。

「俺は面白くねー。こんな小物じゃ斬る気も起きないし。野郎、もちっと根性見せろよ
なー」
「……」

その間に、月燕が携帯電話を取り出している。

「嬢ちゃんには伝えておこう――おっと」

誰かに電話をかけようとしたちょうどその時、タイミングよく着信音が鳴る。月燕が応
答すると、どうやら相手は優依奈であるらしい。

「――俺だ。嬢ちゃんか? 無貌だが――何、継白内部にも出たのか? ああ、分体のこ
となら把握している。今一体目を潰したところだ」

不穏な言葉に、ニット帽の中でぴくぴくと動く狐の耳。また帽子がずれるので、葉月は
会話の様子を聞きながら、それを直さなければならなかった。

「――ああ……、ビヤンコか。逆方向だな。……いや、いい。この程度なら個々はそちら
でも処理できるだろう? こちらはこちらで動くよ。状況は共有しよう」

そして、二、三点の取り決めをしたと思しきところで、月燕が通話を終える。その顔が
葉月を向く。

「いいか、葉月」
「はい」
「継白の連中と俺たちの二手で分体を潰していく。何、むしろ増えてくれて見つけやすい
くらいだ。各個撃破にしてやるぞ」
「……はい」
「もちろん、本体を見つけてしまっていい。分体に大した力はない。本体を叩けば自然消
滅するだろう。やつも分体に紛れたつもりだろうが、数を減らしていけば自ずと本体に行
きつく。――いいな?」

月燕が目を見てくるので、葉月は頷いた。

「はい」
「よし。では、次はどちらの方向か、探ってくれ」

はい、と応え、葉月は意識を集中する。次なる無貌の気配は、どうやら近くにはないよ
うだ。だが、知覚域が広いため、煙がどの方向からきているかは十分に判断できる。その
方向を、葉月は指差した。

「多分ですけど……、あっちです」
「そうか。走るのも何だ。バスでも使うとしよう」


こうして、一行は怪物を求めてさらに街を行く。
歩いて、走って、時にまた戦って。

己が自覚する以上に、内心に懊悩をため込んでいると――
葉月がそう気付くのは、この後のことである。
ふたば板でだらだらと書いている話です。
前日譚は「あ〇かし〇と」の「逢〇ルート」みたいな感じなので、知っている人は想像していただければ。
第四、五、六章(+α)が下編となる予定。
早く書きたいところまでたどり着きたいなぁ……。
卯月
0.4300簡易評価
8.無評価見習い剣士
結構楽しめました。面白かったです。
続編早く書いてくださるとうれしいです。続編よろしくお願いします…。