我が家は俺と妻の双葉、娘の初美とその下の息子の次郎、ごく普通の四人家族だった。
それがある嵐の夜、普通ではなくなってしまった。
一家団欒でダイニングルームで夕食を食べていたその時、それが起きた。
ピカ―――ッ!! ドオ――――――ン!!
だんだん近づいてきていた雷が、我が家のすぐ間近に落ちたのだ。
同時に停電で真っ暗になり、俺は体が痺れるようなショックを受けて、気を失った。
うう、いったい何があったんだ?
目が覚めたが、停電したままなのか、真っ暗でなにも見えなかった。
「みんな……大丈夫?」
野太い男の声で、家族を心配する声が聞こえた。
……誰の声だ?
疑問に思ったが、そこまで気にする余裕はなく、俺は答えた。
「俺は大丈夫だ」
俺の声は、なぜか女みたいに甲高い声だった。
何でだ?
「あれ、僕どうなってるの、なんか体が変?」
「あ、あたしも、なんか感じが変?」
何か起こってるのに、真っ暗で状況がわからない。
確か俺は、タバコ用のライターを持っていたはず。
俺はライターを取り出そうと、ポケットをまさぐった。
なのに、ライターがない、いや、それどころかポケットがない。
どうなってるんだ?
「たしかここのへんに懐中電灯が、あった!」
誰かが暗闇の中、非常用の懐中電灯を見つけて、それを点けた。
懐中電灯の明かりが、ぼんやりとダイニングルームを照らした。
「お、俺?」
懐中電灯を持っていたのは、俺だった。
「あ、あたし、なんであたしがあたしの目の前にいるのよ!!」
小学生の息子の次郎が、俺につかみかかってきながら、そうさけんでいた。
そして俺の体は、なぜか初美の中学のセーラー服を着た、女の体になっていた。
いったい、なにがどうなってるんだ?
我が家の家族構成
俺、清彦
妻、双葉
中学生の娘、初美
小学生の息子、次郎
俺たちは、
清彦(双葉)>>初美(清彦)>>次郎(初美)>>双葉(次郎)>>清彦
こういう具合に、体が入れ替わってしまっていた。
なんでこうなった?
いったいこれからどうすればいいんだ?
突然こんなことになって、家族みんなで途方に暮れた。
特に末っ子の次郎は、もともと泣き虫の甘えん坊で、
「僕こんなの嫌だよ」と、めそめそ泣いてばかりで、残りの家族みんなで宥めるのが大変だった。
いや、実はそのおかげで、家族みんなは助かっているのかもしれない。
みんないっぱいいっぱいなんだ。
俺だって本当は泣きたいよ。
次郎が少し落ち着いてきたところで、他のLEDランタンやライトを出してきて、部屋を明るくした。
数年前の震災の時に用意していたライトが、再び役に立った形だった。
停電しているのはうちだけではなく、この辺り一帯は停電しているようで、外は真っ暗だった。
この悪天候だし、電気の復旧はしばらく無理かもしれない。
この後どうするのか、家族会議をした。
停電しているうえに外は悪天候、今やれることはほとんどない。
みんな精神的にくたくただし、早めに寝ることになった。
一晩寝て目が覚めたら、元に戻っているかもしれない。
そういう希望的観測の現実逃避で。
いつもならそれぞれの部屋に戻って寝る所だが、今回は床の間に布団を敷いて、全員一緒に寝ることになった。
外は悪天候で、ただでさえ子供たちが不安になる環境なのに、入れ替わりなどというこの異常な状況、すぐ側にもとの自分の体がいないと不安なのだ。
川の字になって家族で寝るなんて、いつ以来だろう?
寝る前に、それぞれパジャマに着替えた。
俺は初美のピンクのパジャマに着替えた。なんだかはずかしかった。
そのうえ初美がああしろこうしろ、あたしの体で変なことしないでなどと、色々うるさく口出ししてくる。
お風呂に入りたかったのに、とか、お父さんに体を乗っ取られた、などとぼやいてもいた。
俺も言い返したかったが我慢した、初美が俺に当たるのは不安の裏返しなんだから。
次郎は双葉のネグリジェに着替えるのを嫌がり、結局俺の予備のパジャマに着替えた。
寝るときになって、まためそめそ泣きだした。そんな次郎を、双葉は慰めていた。
「お父さん、あたしたち、元の体に戻れるよね?」
さっきまで口うるさかった初美が、不安そうに聞いてきた。
「ああ、きっと戻れるさ」
元に戻れる保証なんてない。だけど今はそう言うしかなかった。
「初美?」
初美が俺に、ぎゅっとしがみついてきた。
「勘違いしないで、あたしの体が心配なだけだからね」
「ああ、そうだな」
俺はそっと抱き返してやった。
そのうちに安心したのか、初美は寝息を立てていた。
俺も疲れていたのか、いつの間にか眠りについていた。
翌日、俺は先に目を覚ました初美に起こされた。
俺の体は初美のままで、元に戻ってはいなかった。
「目が覚めたら全ては夢で、全てが元通り、というわけにはいかないか」
俺はがっかりしてため息をついた。
「もう、ため息をつきたいのは私のほうよ」
初美も、次郎の体のままだった。
そうこうしているうちに、双葉と次郎も目を覚まして起きだした。
二人も体が入れ替わったままだった。
ともかく全員が目を覚ましたので、あらためて家族会議をはじめた。
体が入れ替わった原因がわからない。
まあ、昨晩の雷が怪しいが、もういちど同じ状況を再現するのは難しいだろう。
当分はこの入れ替わり生活を覚悟しなければならないだろう。
だけど、体が入れ替わったこの状態で、すぐにいつもの生活に戻るのは無理だ。
そういうわけで、今日は会社や学校を休んで、それぞれの体に合った生活をするための情報交換やレクチャーをすることになった。
「もう、女の子なんだからイスに座るときはちゃんと足を閉じてよ。私の体で恥ずかしいことされたら、私が恥ずかしいでしょう」
「違う違う、そんなわざとらしく笑わないでよ、もっと自然に」
「もう、言葉づかいに気を付けてよ、あたしは俺なんて言わないわよ」
この件では、初美はかなり厳しい先生だった。
仕草や言葉遣いなど、かなり細かい指導をされた。
それでも、俺のせいで初美に恥をかかせるわけにはいかない。
俺は辟易しながらも、初美の指導を受け入れた。
もっとも、初美からの指導だけを受けていられない。
逆に俺は、俺になった双葉に、会社での仕事や清彦の現在の立ち位置などを教えなければいけない。
幸いなことに、俺と双葉は職場結婚だった。
ブランクがあるとはいえ、双葉は俺の職場のことを知っていた。
そして双葉自身、以前は結構優秀な社員だったのだ。
少しの指導でどうにかなりそうだった。
問題は次郎だった。
昨日よりは持ち直したとはいえ、まだ落ち込んだままだった。
初美の指導をするどころではなく、初美はどうにか必要最小限の情報を聞き出して、次郎として小学校に行くことになりそうだった。
「しかたがないわ、小学校のことならある程度わかるし、私がなんとかするわ」
双葉は今は専業主婦なので、今の落ち込んだ次郎でもなんとかなるだろう。
気持ちが回復したら、少しづつでも家事でもやってもらおう。
そしてさらにその翌日から、家族みんなが、それぞれの体に合わせた新しい生活をはじめることになった。
俺も初美としての、女子中学生の生活をはじめることになったのだった。
あの嵐の夜から数日が経った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
中学校から帰ってきた俺を、先に小学校から帰ってきていた初美が出迎えた。
「今日はどうだった?」
初美は、中学校での俺の様子や友達のことを、できるだけ詳しく聞きたがった。
元の体に戻ったときに困らないように、とか言っているが、やっぱり色々と気になるのだろう。
特に、敏明とかいうやつのことを、一番気にしている。
あんな軟弱そうな男のどこがいいんだ?
父親としては、娘はお前なんかにはやらん!!
と言ってやりたい所だが、それをやったら間違いなく娘に嫌われてしまう、今は自重しよう。
だが、なんだか面白くないから、ちょっとくらい初美をからかってやろう。
「そういえば、今日は敏明ってやつと、ちょっとだけ話をしたぞ」
「敏明と話をしたって、どんな!!」
えらい勢いよく食いついてきやがった、ますます面白くない。
あと、初美は色々口うるさいが、こうして会話をする機会が増えたのはいいことだ。
入れ替わる少し前は反抗期だったのか、最近はあまり口をきいてもらえなかったからな。
それだけは、この入れ替わりに感謝だな。
初美とは逆に元気がないのは、双葉の体になった次郎だった。
俺や初美やなにより双葉が、学校や会社に行った後、一人で留守番は寂しいらしい。
「あ、お父さんお帰りなさい」
だからか、俺や初美が帰ってきたら、次郎はすごくうれしそうなんだ。
「夕食の材料を買ってきてあるから、三人で一緒に夕食の準備をしようか?」
「うん!!」
そして次郎は、何より甘えん坊で母親っ子だった。
「あ、お母さんお帰りなさい!」
俺の体になった双葉が帰ってきたら、すごく嬉しそうに双葉を出迎える。
「ねえ、今日は僕が夕食の準備をしたんだよ、食べてみてよ」
「あらあら、それは楽しみね」
僕がって、今日の夕食は、三人で一緒に手伝って作ったんだろうに。
「次郎はお母さんにいい所を見せたいんだから、今日はすきなように言わせておこう」
初美にそういわれて、それもそうだと思った。
そうすることで、次郎が元気になるのなら、今はそれでいいだろう。
そうやって、家族でお互いに思いやりながら生活しているうちに、俺たちはだんだん今の体の生活に慣れていったんだ。
家族が入れ替わったあの夜から半月ほど経った。
最近はみんな、今の体の生活に慣れてきていた。
一番落ち込んでいた次郎は、三人で夕食を作ったあの日あたりから開き直ったのか、家事を積極的にするようになった。
するとどうだろう、元々体が覚えていた感覚が使えるようになったのか、てきぱきと家事をこなせるようになった。
夕食なども、最初はレシピを見ながら作っていたが、だんだん見なくてもこなせるようになり、最近は元の双葉の味付けに近くなってきた。
それと同時に、だんだん自信をつけたのか、態度が堂々としてきた。
初美に聞いた話によれば、最近は近所の奥さんの井戸端会議に参加するようにもなったらしい。本当かよ?
その初美はといえば、あまり元の次郎らしく振舞うつもりはないらしい。
「だって、次郎っておとなしい子だったでしょう。せっかく男の子になったのに、それじゃつまんないじゃないの」
ということで、近所の男子と積極的に遊んでいるらしい。
初美はもともと勝気な女の子だったけど、まさかこうなるとは。
最近は、近所の子が初美を誘いに来ると、サッカーボールをかかえて積極的に外に出て、泥だらけ傷だらけになって帰ってくることも珍しくなくなった。
泥で汚れた服を見て、「お姉ちゃん僕の体で、しょうがないなあ」
とか次郎がぼやきながら、洗濯をする。不思議な光景だった。
俺はどうかといえば、中学校での生活には慣れてきた。
初美の友達の顔は覚えたし、友達との会話にもついていけるようになった。
「最近の初美はなんか様子が変だったけど、なんか調子が戻ってきたみたいね」
とか、特に初美と親しい女友達の若菜に言われて、なんだかくすぐったい気分になった。
あと、敏明とかいうあの男は、たいした用がないのに、俺に話しかけてくることが多い。
俺はなんとなくピンと来た。ははあ、こいつ初美に気があるんだな。
こういうことは本人は気づかなくても、第三者視点だと気づくことが多い。
ふん、お前になんか娘はやらん。積極的には邪魔はせんが、今は気づかないふりをしておく。
「あ、初美、大変そうだな。俺が半分もってやるよ」
俺が先生に頼まれた荷物を運んでいると、頼みもしないのに手伝うと申し出た。
ふん、気になる女の子にいい所を見せようって所か、ご苦労なことだな。
元の初美ならお前に気があったが、今は中身が俺だ、ポイント稼ぎにならなくて残念だったな。
にしても、確かに女の身では重い荷物は大変だ、ここはこいつに甘えておくか。
「ありがとう、じゃあ半分お願いね」にっこり
言ったとたん、こいつは俺の荷物を半分どころか、ほとんどの荷物を持ちやがった。
「じゃあいこうか」
にっこり笑う敏明に、俺はおもわずドキッとした。
ふ、ふん、まあいい、そんなに重い荷物を持ちたいんなら持たせてやる。
後でこのことで敏明との仲を若菜にからかわれて、俺はむきになって否定した。
俺の体になった双葉のほうは、状況はよくわからない。
最初のうちは会社での仕事の話もしたが、双葉は早い段階で俺の仕事を把握したらしい。
その後は仕事の話を家に持ち込まなくなった。
最初は双葉がうまくやっているのか気にはなったが、俺も中学での初美の生活に気をとられて、だんだん気にする余裕もなくなった。
まあいい、上手くやっているなら、双葉に任せよう。
同様のことは、俺と初美の間にも言えた。
最初は俺の中学での生活にうるさく干渉してきた初美だが、最近はあまり干渉してこなくなった。
次郎としての小学校での生活がメインになってきて、俺のことまで気が回らなくなったらしい。
「お父さんが上手くやってくれているみたいだし、変なことさえしなければいいわよ」
まあ、うるさく言われなくなったし、ある程度自由にできるようだし、俺としてはありがたい。
そんなある日、双葉が提案してきた。
「そろそろ家の中でも、お互いの呼び名を体にあわせましょう」と。
今までは、外では体にあわせて生活していたが、家の中では中身の名前で呼び合って生活していたのだ。
初美が真っ先に反対した。
「最近は私が初美だったのか、次郎なのか、だんだんあやふやになってきちゃった。
でも家の中だけは、私は初美でいられたのに、そんなことしたらよけいにあやふやになっちゃう」
俺も初美と一緒に反対した。
だけど双葉は、だからこそいつまでも中途半端はよくない、もう家の中でも体にあわせるべきだという。
意外なことに、次郎が双葉の意見の賛成に回った。
この入れ替わりで一番落ち込んでいたはずなのに、どういう心境の変化なんだろうか。
そしてこのときになってようやく気づいた。
俺たちは、肉体的には大人の二人と、子供の二人にわかれていたことに。
そういえば、落ち込んでいる次郎は、双葉が一番慰めていたし、その後も肉体的には夫婦で同室だから一緒にいることが多かった。
そして俺は、双葉とは夫婦だったはずなのに、双葉とかかわることが少なくなっていた。
逆に初美とかかわることが多くて、お互いの相談事は俺と初美の二人の間で行うことが多かった。
それはともかく、表面的には大人二人の意見に子供二人は押し切られ、俺たちは家の中でも外でも体にあわせて名前を呼び合って生活することになった。
そしてそれは、俺の立場は正式に、この家の主人から娘になったということでもあった。
あの日から次郎が、いや双葉が変わった。
俺や次郎(中身は初美)の目の前で、清彦(中身は双葉)といちゃつくようになったんだ。
そして清彦は、当然のようにそれを受け入れていた。
ちょっとまて、それはどういうことだ!!
「どういうことって、私とお父さんは夫婦なんだから、別に仲良くしていてもいいでしょう?」
と、俺の問いかけに、双葉はすねたように答えた。
夫婦って、確かに肉体的にはそうだが、中身は親子なんだぞ!
それなのに、そんなにいちゃついて、夫婦というよりもまるで恋人同士に見えるぞ!
ちょっとまて、お前たちまさか……寝たのか?
「悪い?」
頬を赤らめながら、だけど心底不思議そうに首をかしげる双葉、
そのしぐさはまるで初心な少女のようで、外見の年齢(30代半ば)よりもずっと若くてかわいく見えた。
嵐の晩の入れ替わりの後、落ち込んでいた双葉(次郎)は清彦(双葉)に慰められていた。
最初は落ち込む息子を、母親が慰める形だった。
母親だった男は、甘えん坊だった末っ子を一番かわいがっていた。
元は自分の体だとはいえ、落ち込む末っ子を放ってはおけなくて慰めた。
母親大好きの甘えん坊は、母親の心を持った男に慰められて甘えた。
だが、肉体的には夫婦で男と女、双葉は慰められているうちに女に目覚めて、女として清彦に甘えるようになった。
そして清彦は、そんな双葉に女を感じて、だんだん惹かれるようになった。
そして二人は、一線を越えた。
双葉には精神的な抵抗はなかった。
それどころか、セックスレスで最近ご無沙汰だった女の体は、激しく男を求めた。
そして男になって日がまだ浅い清彦は、男の本能や性欲が女を求めていた。
精神的には親子なのに男と女の関係になる、そのことに抵抗感はあったが男の本能に押し流された。
そして一度一線を越えた後は、もうその事への抵抗感はなかった。
むしろこの倒錯した関係に、積極的にのめりこんでいったのだった。
そういう関係になっておきながら、俺に悪いと思わないで開き直っている。
そんな二人の態度に俺は激怒した。
「俺たち夫婦にとって、これは裏切り行為だ!」
「夫婦?」
清彦はそんな俺を鼻で笑った。
「そんなことを言いながら、最近のあなたは、私に何か夫らしいことをしてくれた?」
「何かって……」
「いつも仕事仕事で、家庭を顧みない。
記念日も誕生日も忘れて、何もしてくれない、お祝いの言葉さえかけてくれない。
そのうえ最近は夜の性活もご無沙汰だったし、欲求不満ばかり溜まって、私はいつも自分で自分を慰めていた。
それでも私は子供たちのために、ずっと我慢をしてきたのよ!!」
清彦(双葉)の思わぬ不満の表明に、俺は咄嗟に返す言葉もなかった。
「最初は、そんなあなたの体に入れ替わったのが、すごく嫌だった。
でも今は、こうなってよかったと思っているわ」
こうなったおかげで、立場が逆転した。
今や清彦になった双葉のほうが、この家の主人で大黒柱なのだ。
そして今の俺は、その清彦に養われる娘の初美の立場なのだ。
清彦(双葉)が先日、外見に立場や名前を合わせよう、と提案して押し切ったのは、それをはっきりさせるためだったのだ。
「私はあなたと違って、ちゃんと妻の面倒は見るし、
それに子供たちの面倒も、ちゃんと見てあげるわよ、ねえ初美」
それは、俺のことは夫として見ない、子供として扱うと、改めての宣言だった。
だからといって、それを納得して受け入れるなんて出来なかった。
それでも、双葉に不満を抱かせたからって、体が入れ替わったからって、俺たちが夫婦だった事実は変わらないはずだ。
「ふうん、そこまで言うなら、その体で私と男と女の関係になる?」
「男と女の関係?」
そんなことを言われて、今の俺たちがそんな関係になることを想像して、
ゾクッ、とした。
元の俺の体に、初美の体の俺が犯されるなんて、冗談じゃない!!
思わず後ずさりながら、そんなことを口にするその前に、
「やだ、今のお父さんと夫婦なのは私なんだから、私とするの!!」
焼きもちを焼いた双葉(次郎)が、俺に見せつけるように、清彦に甘えてみせた。
体が大人でも、そういうところはまだ子供だ。
「心配しなくても、俺の妻はお前だけだよ双葉、今の現実をわかっていないばか娘に、現実をわからせただけだからね」
「うん」
そう言いながら、清彦は双葉を抱き寄せた。
今の仲のよい夫婦な二人の関係を、元は夫だった俺に見せつけるかのように。
俺は今まで清彦として生きてきて、積み重ねてきた何かが、がらがらと音を立てて崩れていくのを感じた。
「うう、うわあああっ!!!」
俺は逃げるようにその場を離れ、部屋の外へ駆け出した。
「お、お父さん、待って!」
唯一、今の俺のことを父親と認めてくれているらしい、次郎(初美)の俺を呼びとめる声が聞こえた。
だけど俺は、その声も振り切って、そして家を飛び出していた。
家を飛び出した俺は、夜の街を行く当てもなく彷徨っていた。
そんな俺に追い討ちをかけるように、強い雨が降ってきた。
濡れ鼠になりながら、だけど今更家に帰ることもできなかった。
「あはは、俺は何をやってたんだろう……」
何をどうしていいかわからなくて、とぼとぼと歩いていた。
「こんな時間に外でずぶ濡れになって、いったいどうしたんだよ初美!!」
誰かに声をかけられて、俺は顔をあげた。
「……敏明」
声の主は敏明だった。
近所のコンビニに買い物をしに、外に出ていたという事だった。
「訳は後でいい、このままじゃ風邪を引く、俺んちが近くだから寄っていけ」
「……うん」
今の俺にはどこにも行くあてはない、俺は敏明の厚意に甘える事にした。
俺は敏明に連れられて、近くのアパートに来た。
「ただいま」
「おかえりなさい。あら、その子はどうしたの、ずぶ濡れじゃないの!!」
「同級生の子なんだ、近くでずぶ濡れになっていたのを見つけたからつれてきたんだ」
「このままじゃ風邪を引くわ、とにかく早く上がりなさい」
「……お邪魔します」
敏明の母親らしい女性は、俺を家の中に引っ張り上げた。
「敏明、タオル持ってきて、それとあんたは見ちゃ駄目!!」
俺は敏明の母親に着ていた服を脱がされた。
そしてお風呂に放り込まれた。
「丁度お風呂を用意してあって良かったわ。いまは温まってちょうだい」
俺は悪いと思いながら、お言葉に甘える事にした。
実際、雨で体が冷えて、温まりたかったんだ。
体が温まり、お風呂から上がると、タオルと着替えが置いてあった。
これに着替えろってことか、今はご好意に甘えてありがたく借りておこう。
俺はタオルで体を拭き、用意してあった服に着替えた。
茶の間では、敏明とその母親が、お風呂から出て着替えた俺を待っていてくれた。
「着替え、私のお古でごめんなさいね。サイズは少し大きいけど大丈夫そうね」
「あ、いえ、ありがとうございます。ここまでしてもらって、逆に申し訳ないです」
「いい子ね、……あ、よかったらココアをどうぞ、体が温まるわよ」
「……いただきます」
すすめられたココアを飲んで、俺はホッと一息ついた。
何で俺が雨の中をずぶ濡れになりながら彷徨っていたのか、さてなんて説明しよう。
入れ替わりの事情なんて、本当のことなんて言えやしない。
かといって、ここまで世話になっておきながら、説明もなしというわけにもいかないだろう。
「言いたくないなら、無理に言わなくていいわ、年頃の女の子だも、色々あるのよね」
敏明の母は、俺に気を使ってくれていた。
年頃の女の子というのは、本当はちょっと違うんだが、でも、こうして優しくされるのはうれしかった。
だから俺は、無理のない範囲で訳を話した。
両親と言い争いになって、家を飛び出した、気まずくて帰れない、と。
嘘は言っていない、よな。
「そう、わかったわ」
それだけの事情を聞いた敏明の母は、俺の家に電話をしてくれた。
そして話をつけてくれた。
「初美ちゃんのお父さんと話をしたわ。初美ちゃんがうちにいる経緯は理解してくれたみたい」
「そう、……ですか」
俺の様子を見て、敏明の母はくすっと笑った。
「お父さんと何があったのかわからないけど、よっぽど気まずいのね、いいわ、今日はもう遅いし、うちに泊まっていきなさい」
「え、でも……」
「お父さんのほうは良いって言ってし、遠慮しなくてもいいわよ」
「……ありがとうございます」
実際に今は気まずい俺は、今日のところはお言葉に甘えて泊まっていくことにした。
「そういうことになったから、良かったわね敏明」
「か、母さん、何を言ってるんだよ!!」
「だからといって、この子に手を出しちゃ駄目だからね」
「俺はそんなことはしねえ!!」
ついさっきまでの俺は、身も心も冷たくなっていた。
もうどうなってもいいや、って感じで半ば投げやりになっていた。
だけど、お風呂に入って体が温まり、敏明とその母の温かさに触れたおかげで、心の温かさも戻ってきた。
そうして冷静さが戻ってきて、ついさっきまでのことを振り返られるようになった。
雨の中での敏明とのことを思い出して、今度は頭の中がカーッと熱くなった。
『何やっていたんだよ俺は!』
冷たい雨の中で、孤独に耐えていた俺は、つい敏明に抱きついてしまったんだ。
『うぎゃー、あんなのはノーカンだノーカン! 気の迷いのせいだ!』
「敏明、雨の中でのこと、いきなり抱きついちゃって濡らしてごめん、そしてあれは忘れて!」
「俺は濡れたことは気にしてないよ。それと忘れるのはちょっと無理かな」
「それでも忘れて!!」
「あ、はいはい……」
そんな苦笑する敏明を見ていると、なぜだか俺の心がざわついた。
何でだ?
そしてこの日はこの後、俺は敏明の家に泊まっていくことになる。
一つ屋根の下であいつと一緒、って、何でそんなこと意識するんだよ!
あいつの母親だって一緒なんだ。何もやましいことはないはずだ。
それはともかく、俺は客間に布団を敷いてもらい、そこで寝ることになった。
色々あって気疲れもしていたんだろうか、横になったらすぐに眠気に襲われて、そして俺は眠りについていた。
翌朝早く、俺は敏明の母に起こされた。
「初美ちゃんの着替えはちゃんとしておいたわよ」
「……ありがとうございます」
雨で濡れた制服も下着も、ちゃんと洗濯して乾かして、アイロンまでかけてあった。
俺は元の下着と制服に着替えた。
なぜだろう、元々は初美の制服なのに、すっかり馴染んでいた。
「もしよかったら、私があなたの家まで車で送るけど、どうする?」
気まずくないか、家に帰っても大丈夫か? 暗にそう聞かれたような気がした。
正直なところ、まだ少し気まずい。
だけどいつかは帰らなきゃいけないし、今日も学校がある。
それに一晩たって気持ちも落ち着いた。きっと大丈夫だ。
「……大丈夫です、家までお願いします」
「そう、じゃあ送ってあげるわね」
「あ、心配だから、俺も一緒に」
「何を言ってるの敏明、あなたは自分の準備をしていなさい」
「でも……」
「初美ちゃんのことが気になるのはわかるけど、この子はもう大丈夫よ、信用してあげなさい」
「あ、はい」
敏明が、俺の心配をしてくれたことは、なぜだか嬉しかった。
「……敏明、心配してくれてありがとうね」
「あ、ああ、じゃあまた後でな」
「うん、また後で、学校でね」
こうして俺は、敏明の母親に送られて、家に帰った。
敏明とはまたすぐ後に学校で会えるはずなのに、この時はなぜだか寂しく感じられた。
早朝、俺は敏明の母に連れられて、家に帰ってきた。
「泊めてもらった上に、わざわざ送ってもらって、うちの娘が迷惑をおかけして申し訳ない」
「いえいえ迷惑だなんて、初美ちゃん、礼儀正しくていい子でしたよ」
いい子だなんて、敏明の母は俺をフォローしてくれた。
「だから、あまり怒らないであげてくださいね。それじゃ私はこれで」
そう言って、敏明の母は帰って行った。
我が家の玄関では、あとに残された俺と清彦が向き合い、その後ろの廊下では、双葉と次郎が俺たちの様子をうかがっていた。
「みんな、心配をかけてすまなかった」
俺はそういって頭を下げた。
色々と思うところがあったが、今はすなおに謝ることにした。
俺がみんなに心配をかけるようなことをしたのは確かだし、今は元通りとはいかないまでも、家族の関係修復がしたかった。
だけど、返ってきたのは、
「ふん、うまく猫をかぶっていたみたいね」
「えっ?」
清彦の冷ややかな言葉だった。
「すまなかったって、あなたは謝ればいいと思っているんでしょう?」
「違う、俺は夕べから考えて、本気で悪いって思って、だから……」
「あなたはいつもそう、外面だけはいいんだから」
俺は本気で謝ったのに、俺はこいつにはそんな風に思われていたなんて。
関係修復どころか、お互いの溝がより深く拡大されて行くのを感じて、俺は失望した。
「わかった、お前が信じてくれないならそれで結構だ!!
とにかくいったん部屋に戻る。これから学校に行く準備があるからな」
「朝帰りをしておいて、学校へ行くつもりなの?」
「ああ、今の俺は中学生の初美だし、それに、……約束したからな」
俺は、俺のことを信じてくれない清彦を無視して、初美の部屋へ戻った。
「……お父さん」
「初美か?」
初美の部屋で学校へ行く準備をしていると、次郎が、いや初美が部屋に来た。
「昨日は心配をかけてすまなかった」
俺はあらためて本気で初美に謝った。
今度のことで、一番俺に怒る権利があるのは、この体の本来の持ち主の初美なんだから。
「本当だよ、昨日からずっと心配していたんだからね!!」
よく見ると、次郎は眠そうに目がはれていた。
本気で俺の心配をして、夕べはろくに眠れなかったんだろう。
「本当にすまん」
俺はもう一度深く頭を下げて謝った。
「あの人の言いぐさじゃないけど、謝ればいいってもんじゃないわよ!」
次郎(初美)は本気で怒っていた。
俺は返す言葉がなかった。
「本当に心配したんだからね!!
でも、無事に帰ってきてくれて良かった」
そう言いながら、次郎は俺に抱きついた。
さっきの清彦とは違う、厳しいけれど愛情の篭った次郎の言葉や態度は、素直に嬉しかった。
「学校へ行くなら、もうあまり時間がないから、
何があったのか詳しい話は帰ってから聞くけど……、
敏明の家に泊まってきたんだよね?」
「あ、ああ、昨夜はあいつの家でお世話になった」
「敏明とは、何もなかったよね?」
「や、やましいことは何もなかったぞ!!」
俺は慌てて弁解した。
敏明も敏明の母親も、こんな俺によくしてくれた。
「心配しなくても大丈夫だよ、あいつは紳士だった。それはお前がよく知ってるだろ」
そう言って、俺は敏明の顔を思い浮かべながら、フッと表情を緩めた。
そんな俺を見て、次郎はなぜか寂しそうに笑った。
「その辺の事は、帰ってから改めてちゃんと聞くからね」
そう言い残して、次郎は部屋から出て行った。
……学校から帰るまでに、言い訳の内容を考えておかないとな。
「おはよう初美」
「おはよう、若菜」
俺は何食わぬ顔をして、中学校に登校した。
若菜や他の女友達とも、いつも通り普通に朝の挨拶をして、普通に接した。
うん大丈夫、いつも通りだ。
「やあ、おはよう」
「……おはよう…敏明」
さすがに敏明の前では、昨夜の事、今朝の事、色々意識してしまった。
それでも敏明とも、何とか普段通りに接したつもりだった。
「どうしたの初美、敏明と何かあったの?」
「え? な、何でもないよ!」
「ふーん、怪しいな」
幸い、若菜はそれ以上は突っ込んでこなかった。
だけど若菜は、いったいどうして怪しいって思ったんだよ!
うう、こういう分野では、女の子は鋭いな、侮り難い。
俺と入れ替わる前の初美は、若菜をはじめ女友達が多かった。
俺はそんな初美の女友達を、ほとんどそのまま引き継いでいた。
だから中学校にいる間は、俺の側には、若菜や他の女子が一緒にいることが多い。
だけど休み時間のほんの少しの間だけ、俺の側にだれもいない状態になった。
「家に帰ってから大丈夫だった?」
敏明がそのタイミングを見計らって、他の誰かに聞かせられない、昨日からの心配事を聞いてきた。
俺は気づいていた。
敏明が授業の間、俺のことを心配そうに見つめていたことに。
そのことがなんだか嬉しかった。でも同時に敏明に心配をかけて心苦しかった。
「大丈夫だよ、お父さんとも仲直りしたよ」
本当は仲直りなんてしていない。
だけど、これ以上敏明に心配させたくないから、これくらいのうそはついてもいいよな。
「そう、それならよかった」
ほっとした顔をして、敏明はすぐその場を離れた。
入れ替わりに、この場を離れていた若菜が戻ってきた。
「今、初美の愛しの敏明がきていたよね、なにを話していたの?」
「な、なんでもないよ」
「うそ、初美、何だか嬉しそうじゃない、きりきり白状しなさい」
「そんなんじゃないんだってば!」
俺はこの後、若菜からの追求をかわすのに、四苦八苦したのだった。
若菜の追及をどうにかかわし、自分の席に戻った後、
俺はまだ昨日のことで、敏明にお礼を言っていなかったことに気がついた。
もしあの時、敏明に出会っていなかったら、俺はどうなっていたことか……。
お昼休みの時間、俺は若菜たちの誘いを振り切って、敏明と二人になれる機会を作った。
「初美、ガンバ、敏明との仲、応援してるわね!」
……だから、そんなんじゃないんだってば。
「昨日は、ありがとう」
俺は敏明と二人っきりになれた後、あらためて昨日のお礼を言った。
「別にたいしたことはしてないよ、ただ、あんな状態の初美を放ってはおけなかっただけさ」
敏明は謙遜しながら、でもなんだか照れくさそうに頭をかいていた。
そんな敏明を見ていたら、なんだかまたうれしくなってきた。
「何かお礼がしたいんだけど、何がいい?」
「別にいいよ」
「それじゃ、私の気がすまない!」
「そうか、じゃあさ、今度の日曜日、一緒に出かけないか?」
「今度の日曜日? いいよ」
そんなんでいいのか? 俺は深く考えずにあっさりOKした。
「いいのか? やりぃ!!」
思った以上に大喜びされた。何でだ?
「それじゃ、日曜日までに、どこに出かけるか考えておくから、楽しみにしていてくれな」
敏明はそんなことを言いながら、なんだかうれしそうに、この場を立ち去った。
その直後に気がついた。これってもしかして、デートの約束?
俺は頭に血が上って顔が熱くなった。
誰かが俺の顔を見たら、恥ずかしさできっと真っ赤になっているだろう。
「俺が敏明とデート? 違う違う、これは昨日のお礼なんだ。そういうのじゃないんだ!」
そんな風に自分に言い聞かせてごまかした。
この後、再び若菜たちの追及をかわすのに、四苦八苦したのだった。
「敏明とデートか、俺が男とデートするなんてな、
……でもまあ、昨日のお礼なんだから、それくらいはしょうがないよな」
帰り道、俺は自分にそう言い聞かせながら、敏明とのデートの約束を自分に納得させた。
でもまあ、そんな風に納得したらしたで、なぜだか俺は頬が緩むのを感じた。
昨日の晩とは打って変わって、なぜだか俺の足取りは軽かった。
なぜだろう、俺はなぜだか幸せな、楽しい気分になっていた。
「ただいまっ」
そういう俺の声は、なぜだか明るくて元気だった。
「おかえりなさいお父さん、帰りを待っていたわよ」
そういって俺を出迎えたのは次郎、いや違う!
「あ、……初美」
次郎の体の初美だった。
……初美のことを忘れていた。昨日の言い訳を全然考えていなかった。
俺は幸せな楽しい気分が、たった今吹き飛んだのを感じた。
「じゃあ、ゆうべの敏明の家でのこと、聞かせてくれる?」
「あ、ああ……」
下手なうそはつけないし、ゆうべの出来事を、できるだけ客観的に話した。
……つもりだったのだが、話の細部を初美に容赦なく突込まれて、口を滑らせて、雨の中で濡れ鼠になったことや敏明に抱きついたことなど、色々とばれてしまった。
さらに話の流れで、今日の学校での敏明との事も聞かれて、敏明とデートの約束をしたことまでばれてしまった。
「ふーん、お父さんは、敏明とデートの約束までしてきたんだ」
「あ、いや、つい話の流れでそうなっただけで、そんなつもりじゃなかったんだ」
「そんなつもりじゃなかった? じゃあ、お父さんは、敏明のことをどう思っているの?」
「どう思っているって……」
そう問われて、俺は返事に困った。
だってそれは、俺ができるだけ考えないように、意識しないようにしてきたことなのだから。
俺は敏明のことを考えていると、なぜだか胸がドキドキしていた。
そして俺は、この感覚を覚えていた。
俺が高校生だった頃、初恋の女の子のことを想っているときがこんな感じだったんだって。
「私の知っているお父さんなら、敏明に『お前に娘はやらん!』って言う所でしょうね」
「あっ、そ、そうだな」
そうだった、ちょっと前の俺だったら、間違いなくそういっていただろう。
初美は意外に俺のことをわかっていたんだな、そのことは嬉しかった。
だけどなぜだろう? ちょっと前の俺なら言っていたその台詞を聞いて、今の俺はなぜだか反発を感じていた。
「だけど今のお父さんは違うみたいね、……そんな顔をして、お父さん、そんなに敏明のことが好きになっちゃったの?」
「と、敏明が好きって! 俺は元々男だぞ!! そんなことあるわけが……」
「ないっていうの?」
……否定できなかった。
「くやしい、くやしいよ! 最初に敏明のことが好きになったのは私なのに!!
いつか敏明と恋人同士になって、敏明とデートもして、本当なら私がそうなっていたはずなのに!!」
「それは、……すまん」
そうだった、本当なら、敏明とそうなるのは初美だったんだ。
入れ替わった直後は、しきりに敏明のことを気にしていたっけ。
敏明と初美は、お互いを意識していた。
家族で体が入れ替わるなんて、こんな異常事態がなければ、いつかそうなっていただろう。
結果的に、俺が初美の可能性を、横取りしてしまったんだ。
「だけど、何が一番悔しいかって、私、敏明のことがあんなに好きだったはずなのに、今は全然胸がときめかないの!!」
「えっ?」
それはどういうことだ?
そう聞く間もなく、初美はなにかを取り出した。
フォトスタンド?
「それは?」
「これはあの時、私の部屋から持ち出した写真なの」
「あ、ひょっとしてそれ、あの時机の上においてあった……」
「そうよ、よく覚えていたわね」
俺たちの体が入れ替わった翌日、俺たちは体にあわせて生活するために、
俺は初美の部屋に、次郎になった初美は次郎の部屋に移動することになった。
あと、俺の体の双葉はそのままで、双葉になった次郎は、俺たち夫婦の部屋に移動した。
その時初美は、自分の部屋から荷物の一部を次郎の部屋に持っていった。
読みかけのマンガや小説、よく聞く音楽CDなどのほかに、机の上に置いてあったそれを、俺の目から隠すように慌てて持って行ってたっけ。
だから妙に印象に残っていたし、それがどんな写真なのか、今まで見たことはなかった。
今、それを見せてくれた。
運動会か何かの時の写真だろうか、体操服姿で真剣な表情の敏明がアップで写っていた。
いつもは軽いノリの敏明が、こんな真剣な表情も出来るんだ。
その写真の敏明を見てそう感じながら、俺の胸の奥が、なぜだかきゅっと締め付けられた。
写真を見せながら、初美は俺に独白した。
最初は早く元の初美の体に戻りたい。
いつか元の初美に戻れる事を信じて、
写真の敏明を側に置いて彼の事を想いながら、それをはげみに頑張ってきたのだという。
ああ、そういわれてみればそうだったな。
今思えば、一番元の体に戻りたがっていたのは、初美なのかもしれない。
初美になった俺の生活にうるさく口出ししながら、敏明のことも聞きたがってたっけ。
「だけど、次郎の生活に慣れて、この体に馴染んでいけばいくほど、
敏明への私の気持ちが醒めていっちゃったんだ」
敏明が好きだったことは覚えているのに、気持ちが醒めていくことに嫌でも気がついた。
そのうちに写真を見つめながら、必死に『私はこの人が好きなんだ』と思い込もうとした。
「だけど駄目だった。そのうちに、なんで私はこの人が好きだったんだろう? って思うようになっちゃったんだ」
そう言って、初美は寂しそうに笑った。
そんな初美の寂しそうな笑みに、俺は胸が痛んだ。
つい思わず口走っていた。
「そ、そんなの、元の体に戻りさえすれば、きっと敏明が好きだって気持ちも戻ってくるよ!」
「お父さんは、元の体に戻れると思っているの?」
「そ、それは……」
そう問われて返事に困った。
元の体に戻れるなら、とっくの昔に戻っているし、少なくとも今すぐに戻れる当てはない。
そしてこの場面では、戻れる当てもないのに、無責任に『戻れる』、なんて言えるわけない。
返事が返せない俺に、初美はさらに問いかけてきた。
「ううん、それ以上に、お父さんはまだ元の体に戻りたいと思っているの?」
またしても返事に困った。
昨日までなら、『戻りたい』と答えていただろう。
俺は、家族のために一生懸命働いてきたんだ、という思いがあった。
だけど、この家族の入れ替わりのせいで、夫婦の歪な関係が表に出た。
昨夜の元の双葉、今の清彦との口喧嘩で、その本音を知ってしまった。
仮にもとの体に戻れたとしても、もう俺は家族のために、なんて気持ちに戻れそうになかった。
それどころか、俺と双葉の夫婦の関係修復も困難だと思う。
普通に考えたら離婚の危機だろう。
だけど皮肉な事に、家族で体が入れ替わったままだから、現状の関係が維持できているんだ。
元の体に戻る方法はわからないから戻れないし、今は戻れないほうがいいのかもしれない。
俺は言葉を選びながら、慎重にそう答えた。
「……そう、『お父さん』はそう思っているんだ」
「あ、いや、すまん、この体だけでも、初美に返せればよかったんだが」
「いいよ、私も最近は、もうその体に戻れないんじゃないかって、半分以上諦めていたから」
「そ、そうなのか」
「うん、でもね、それでも……」
それでも初美は、心のどこかで、いつか元の体に、そして元の家族に戻れなかって思っていたらしい。
だけど昨日の夫婦喧嘩(?)で、仮に元の体に戻れても、もう元の家族には戻れない、そう悟ったという。
「私ね、ずっと前から、お母さんの本音は知っていたんだ」
「ずっと前からって、どうして?」
「どうしてって、だって私は、いつもお母さんからお父さんへの愚痴を聞かされていたんだもの」
初美は女同士で、母親の愚痴の聞き手だった。
よく母の愚痴を聞いて、母に同情していた。
同時に反抗期だったせいもあったのか、そのせいで父親への反発もそれで感じていたのだという。
「そう、だったのか」
初美の今の告白に、さすがに少しショックを受けた。
今の俺に、唯一味方してくれていると思っていたけど、どうやら違うらしい。
「ううん、初美だったときはそうだったけど、今はそうじゃないよ」
少なくとも、今のあの人には同感できない。
それどころか、昨夜や今朝の対応や、調子に乗ってるあの人への反感を感じている。
少なくともお父さんは、あんなに強引じゃなかった、という。
「私、今のあの人をお母さんとは呼べないし、かといってお父さんとは呼びたくない」
「……そうか」
皮肉な事に、この入れ替わりで、家族内の人間関係も変わってしまった。
理由はどうあれ、初美は初美の体になった俺と接する機会が多くなった。
俺はといえば、そういえばそれまでは、子供達の事は妻に任せっきりで、年頃になった娘と正面から接することはほとんどなかった。
こんな事態になってしまって、俺は初美に気を使いながら、ぎこちなくコミュニケーションを取ろうと四苦八苦していたっけ。
だけどそうやって、意思疎通の努力をしているうちに、お互いの気心が知れてきて、理解や連帯感も生まれてきた気がする。
最初は俺にきつく当たっていた初美の態度も、だんだん柔らかくなっていったっけ。
逆に、初美は俺の体になった双葉とは、接する機会が減ってしまった。
以前の俺がそうだったように、仕事帰りの双葉は、子供達(今の場合は俺と初美)と接する機会が減ったんだ。
体が変わって、お互いの考え方や感じ方が変化したのに、接する機会が減ったせいで、認識のずれが大きくなっていったんだろう。
双葉の体になった次郎とは、俺とは逆に夫婦として接する時間が増えているようだが、……今はそのことは考えない事にしよう。
「その話はもういいわ、話を戻すけど、もう一度聞くわ、私はお父さんの本音が聞きたい」
「本音って?」
「お父さんは、ううん、今の初美は、敏明のことをどう思っているの?」
そう問われて、俺は敏明のことを思い浮かべて、また胸がドキドキしてきた。
俺は敏明のことをどう思っているのか?
さっきは答えないで誤魔化せたけど、あらためて本音を聞きたいとまで言われて、もう誤魔化せそうにない。
「あいつのことを考えたら、なんだか胸がドキドキして、俺、多分敏明のことが好きだ」
そう答えて、俺は今の自分の気持ちをはっきりと理解した。
好き? 俺は敏明のことが好き?
俺は、胸の奥のドキドキが、大きくなっていることを自覚した。
「ごめん初美、俺、敏明のことが好きになってしまった」
「……やっぱりそうなんだ、でも謝る事なんてないよ」
「だけど俺、初美の体だけでなく、好きな人まで取っちゃって」
「だから、謝る事なんてないって!
私は今はもう敏明のことはなんとも思っていないし、それに……」
そう言いながら、初美はあの日から大切に持っていたフォトスタンドを、俺に押し付けた。
「今はあなたが初美なんだからね!!」
「あっ!」
「だから、敏明も返す」
俺に初美というバトンを手渡すかのように。
俺は、初美に初美として認められたみたいに感じて、何だか嬉しかった。
そしてこれも同時に気づいた。
さっき、「元の体に戻りたいか?」と問われた時、言葉を濁したけれど、俺は戻りたくないと思った。
今更元に戻っても、明るい未来は見えなかったからだった。
だけど今は、明確にこう思っている。
このままでいたい、このまま初美になりたいんだ、って。
初美は俺の娘なんだぞ、なのに俺はなんて浅ましいことを考えてたんだよ!!
そんな自分の本音に気づいて、俺は罪悪感を感じた。
「初デートで、初美が恥ずかしくないように、ちゃんとレクチャーしてあげるからね」
だけど、そんな俺の罪の意識を知ってか知らずか、初美は、ううん次郎は、
俺の言葉遣いや仕草など、入れ替わった直後以来、改めて女の子としての指導をはじめた。
次郎の指導は厳しかった。
初美の体に入れ替わってそろそろ一ヵ月、女としての生活に慣れたつもりだったけど、まだまだ知らないことも多かった。
だけど、その指導のおかげで、俺の女としてのスキルは上がったと思う。
なによりも、初美に感じていた罪悪感が少しだけ薄れてくれた。
その日からデートの週末まで、次郎から俺への指導は続いたのだった。