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人生を替えてみる

2019/09/08 08:19:30
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「人生を替えてみませんか」
大学特有の長い春休みに入ってしばらくした頃。街を歩いていて、ふとそんな張り紙が目に留まった。
きれいとは言い難い薄汚れた紙に、今時パソコンでなく手書きで記された文字列。
普通なら無視したはずのそんなものに、なぜか視線が吸い寄せられた。
人生を変えたい。この一年、そんなことばかり考えていたからかもしれない。

小さい頃から勉強が得意で、親に逆らったこともなく、親の願い通りの一流大学に合格した。でも田舎から王都へやって来て、大学でわたしは途方に暮れた。
何を勉強すればいいのか、誰も指示してくれない。勉強したいことを勉強すればいいと言われても、わたしにはしたいことなんて何もなかった。
自分が空っぽな人間であることを思い知らされる一年間。でもどうすればいいのかもわからず、ぼんやりしたまま人生を浪費していた。

紙に書かれた矢印に従い、わたしは歩き出す。少し行った先に新たな張り紙。もう少し行くと次の張り紙。
そんな風に数分歩いていると、裏路地の小さな店らしきものに行き当たった。扉は開いているが、店内は薄暗い。いつもなら回れ右して帰るに決まっている雰囲気。
なのに……わたしは店の中へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、銀色の髪をした女の子がほがらかな声をかけてくる。小学生か、せいぜい中学生。お留守番みたいなものだろうか。
女の子は、やけに古ぼけた大きな本をカウンターの上に広げている。
「三ヶ月ぶりのお客さんですね。あ、そちらのソファにおかけください」
にこやかに笑いながら立ち上がると、わたしをソファに導いた。三ヶ月という言葉が不審すぎるが、相手は流れるように言葉を紡ぐ。
「楽にしていてください。もうすぐお相手が来ますから」
相手?
疑問を口にするよりも早く、入口から入ってきた新たな人影。
赤毛の男の子だ。店の女の子より少し背が高いくらい。こちらも中学生くらいに見える。いかにも普段着という感じのジャンパーとジーンズ。今日は日曜日だったと思い出す。
「いらっしゃいませ。それではこちらへどうぞ」
女の子に言われ、その男の子がわたしの向かいに腰を下ろす。でも、男の子も戸惑った表情をしていた。
「はい、これをお持ちください」
一度カウンターに引き返した女の子は、一本の杖を持って来た。バトントワリングに使うもののように、両端が膨らんでいる。
「お姉さんはこちらの端を、君はこちらの端を持ってください」
普通なら、ここで女の子の行動を遮って問い質すはずだろうと、後から振り返れば考えられる。
でも、わたしも男の子も事態に流されるばかりで、主導権は完全に女の子に握られていた。
文字通り『人生を替える』とは思いもせず、わたしたちは言われるままに棒の端を握り。
目眩のような感覚に包まれた。


「はい、完了です」
女の子の声に、わたしはつむっていた目を開く。
目の前に、『わたし』がいた。
金色の長い髪。運動音痴だけど、高校ぐらいからわりとスタイルのよくなってきた身体。行儀よく膝を揃えて座り、棒の端を片手で握っている。こちらを見つめて、呆気にとられたような顔をしている。
こちらを見下ろす『わたし』の視線。あちらを見上げるわたしの視線。
「うん、心と身体と人生の相性ばっちり。不都合はないみたいですね」
ほがらかな、能天気とすら呼べそうな、女の子の声。
わたしは下を向き、今の『自分』の身体を確認する。
ジャンパーとジーンズを身に着けている。少し股を広げて座っている。
コンパクトで顔を確認しようとして、自分がそんなもの持ち歩いているわけがないと『思い出した』。しかたなく手で髪を触る。男子にしては少し長い、けれど『わたし』ならありえないほど短く切られた髪。
指先に抜けた一本の髪の毛を見れば、太く硬く赤い髪の毛。
向かいのソファでは『わたし』が同じようにバタバタと自分の姿を確認している。小さなポシェットからコンパクトを出して、自分の顔をまじまじと眺めていた。
「新しい人生、きっと気に入ると思いますよ。入れ替わりはすごくうまくいきましたから、不都合は何もないはずです」
女の子は明るく語りかけてきた。
「まずは一週間、試してみてください。もし嫌でしたら、それ以降ここへ戻って来ればいつでも元に戻れますから」
すべてが済んだとばかりに女の子に声をかけられ、何となくわたしたちは立ち上がると外へ出ていく。
気がつけば、わたしの住むマンション近くの歩き慣れた大通りに、わたしと『わたし』は立ち尽くしていた。

「あの……とりあえず、家に入りませんか?」
どうにか我に返ったわたしが声をかけると、『わたし』は「う、うん」と肯いた。
わたしが先導して、マンションへ。
入ろうとして、今のわたしは鍵を持っていないことに気づく。鍵は『わたし』の財布の中。
「鍵を――」
言い終えるより先に、『わたし』は財布から鍵を出していた。

一年間住み慣れたわたしの部屋。なのに身体が違っているからか、わたしは少し落ち着かない気分だった。
特に、匂い。こんなにいい匂いがしていたろうか。
「わたし、フタバと言います」
改めて名乗る。でも相手は怪訝そうな顔をした。今さらそんなことを言われても、と言いたげな。
「俺、キヨヒコです」
そしてキヨヒコくんが名乗った時、わたしも同じ気持ちになった。
そんなこともうわかってるのに……って、どうして?
わたしたち、初対面なのに。

「フタバさんは、春から大学二年生ですよね。政経学部の政治学科」
「なんで知ってるの!?」
「『フタバ』のこと、何だか思い出せるんです」
キヨヒコくんは『フタバ』の顔で、困惑したような笑みを浮かべた。
「フタバさんは『キヨヒコ』のこと、何も思い出せませんか?」
問われて、『思い出す』。
「今は中学一年生。今日はサッカー部の助っ人に誘われていたけど人数が足りてないわけじゃないから断って、河川敷へ行って川の流れをしばらくぼんやり見て、駅ビルへ行く途中で見かけた犬の種類が気になったから本屋の図鑑を立ち読みして、ピアノ教室から聞こえてきた曲が何かなって思いながら歩いていたら、『人生を替えませんか』のビラが目に留まって……」
今日のキヨヒコくんの行動を、わたしはすらすらと口にできた。
「全部合ってます。……こうやって改めて聞くと、俺ってほんとに落ち着きがないですよね」
キヨヒコくんが再び笑う。さっきよりも苦いものの増した笑み。
それが、『キヨヒコ』があのビラに気づいた理由だとわかった。
好奇心が強く、けれど飽きっぽく、何も身についていない。学校の成績が良くないことも、親を心配させ周囲に軽んじられる原因になっている。
わたしとはずいぶん違う、けれど人生を変えたいと思っている点では同じ、男の子。

「でも……身体を入れ替えればうまくいくってほど単純な話じゃないよね」
「そう、かもしれませんね」
わたしの言葉に、キヨヒコくんの反応は少し鈍かった。
その理由にはすぐに思い至る。
彼の問題は、好奇心ばかりが先に立ち、知識が断片的で蓄積がなく、体系的な思考ができないこと。
でも、『フタバ』の記憶が引き出せる、『フタバ』として一流大学に通える今は。
いや、けど。
「こ、こんな風にいきなりご家族と離れ離れにさせられるなんて……」
言いかけて、新たに『思い出す』。中学へ入ってからよく叱るようになった『母さん』。『キヨヒコ』を庇ってくれるわけでもない『父さん』。二人に対する印象はここ一年でぐんと悪くなっている。未練は、あまりない。
「フタバさんも、お母さんやお父さんのこと、そんなに好きじゃないんですね」
キヨヒコくんが『わたし』の記憶を読み取ってか、今度はさみしそうに笑った。
「だ、だけど……」
わたしは必死に取りすがる。キヨヒコくんは『フタバ』になればうまくいくかもしれない。でも、わたしは『キヨヒコ』になったって、問題が解決するわけじゃない。
「とりあえず一週間は戻れないみたいですし、やってみるしかないんじゃないですか? お互いの記憶は思い出せるから、生活に困りはしないですし」
キヨヒコくんは『フタバ』の顔でまた笑う。
こちらを気遣いつつも、喜びを隠しきれない笑顔があった。

キヨヒコくんは『フタバ』本人のように台所を行き来すると、手早く紅茶を淹れてお菓子とともに出してくれた。飲んでみると、いつも通りの紅茶の味。
何となく、これが済んだら出なければならない雰囲気になる。わたしは『わたし』の部屋を出て、『キヨヒコ』の家に『帰る』ことになる。
キヨヒコくんは『フタバ』として一週間(あるいはそれ以上)暮らす心の準備はできているようだ。でも、わたしはまだそれほど割りきれていない。
それがわたしの気持ちの問題にすぎないことはわかっている。一週間は元に戻れない以上、ここに居座り続けるわけにはいかない。けれどいきなり『キヨヒコ』として振る舞うのも何か怖くて、だらだら引き伸ばしたいという、それだけのこと。
キヨヒコくんは興味深げに『フタバ』の部屋のあちこちを見ている。一人になったらすぐにでも、好奇心の赴くままに見て回りたいのだろう。
キヨヒコくんにしてみれば当然の行動。でも、わたしはキヨヒコくんに『フタバ』を奪われるような感覚を覚えずにはいられなかった。
……これまでの人生になんて、大した未練があったわけでもないのに。
でもわたしはキヨヒコくんと立場が違う。キヨヒコくんが『フタバ』として得られるものの大きさと、わたしが『キヨヒコ』として得るものは違いすぎて釣り合わない。
そんなことをぐだぐだと考えながら紅茶をちびちび飲んでいると。
おしっこをしたくなった。
「あ、入れ替わる前に公園で水をたくさん飲んだから、そのせいかも。って、フタバさんも思い出せるよね」
キヨヒコくんの鷹揚な微笑みを背に、わたしはトイレに入る。
便座を『いつものように』上げようとして、便座へ伸ばした手を止めた。
おしっこをする時、『キヨヒコ』はいつも立ってする。でも、わたしは――『フタバ』だったわたしは、男性のそれを嫌っていた。
田舎の『フタバ』の家で、いつも便座を上げて、用を済ませた後に下ろしもせず、便器の周りを汚していたお父さん。うちへ来る親戚やお父さんの仕事仲間もみんなそうで、わたしはその後にトイレを使うたび、嫌な思いをしていた。
「わたしは、違う」
自分に言い聞かせるように、わたしはジーンズとブリーフを下ろすと便座に腰掛けた。
これまでの『キヨヒコ』とは違うこと。意識しないとできないことではあったけれど、わたしは『キヨヒコ』の記憶に動かされるだけの操り人形ではないらしい。
キヨヒコくんが『フタバ』の人生を与えられながらも自分らしい好奇心を失っていないように、わたしもこの身体でわたしらしく生きることができるのかもしれない。
そんな風に考えると、少しだけ不安が和らいだ。
……初めておちんちんからおしっこする感触には、『キヨヒコ』の記憶があっても慣れない気持ちになったけど。

次の日曜日まで、なるべく毎日会って情報交換したいと言うと、キヨヒコくんはあっさり承諾した。
本当はメールと電話もできるようにしたいところ。でも『キヨヒコ』はまだスマホも携帯電話も持たせてもらえていない。自宅の電話を使うのは『お母さん』に咎められそうだし、わたしがこの部屋へ来るのが最善に思えた。
「じゃあ、また明日ですね」
キヨヒコくんににこやかに送り出され、わたしは『キヨヒコ』として部屋を出た。

「どこ行ってたの!」
覚悟はしていたけど、やっぱり『お母さん』に叱られた。
どうしてわたしが叱られるんだろうとは思うけど、今はしかたない。謝って、『自室』に入る。
ジャンルのバラバラな本。描きかけの絵が多いスケッチブック。中古で集めた雑多なCD。
何か面白いことはないかと探し回って、まだ見つからない、そんな子の部屋。
少しわたしと似ているかもしれない。
でもキヨヒコくん自身は、その状態を悩むわけでなく楽しんでいたようでもある。周囲の受け止め方が次第に変わってきて、そんな暮らしが続けられないことを疎んでいたみたいだ。そこはわたしと違う。
「とにかく」
入れ替わってから続く困惑を断ち切るように、わたしは声を出してみた。
どうあがいても来週の日曜まではわたしが『キヨヒコ』なのだ。
「宿題しなくちゃ」

キヨヒコくんは器用で、両利きだ。左手でも字が書けることを不思議に思いながら、簡単な宿題をすぐに済ませる。
夕食の時に『お母さん』に問われ、宿題は終わったと答えると、最初は疑われ、次に驚かれ、そして大いに褒められた。物静かな『お父さん』も喜んでいるみたい。
宿題をしたくらいで褒められるなんて初めてのことで、わたしはかなり気分が良くなった。
「あんたはやればできるんだから」
上機嫌な『お母さん』に、ご飯をうずたかく盛られた丼を手渡される。食べられるかなと思ったのは初めだけで、育ち盛りの男の子の胃袋は貪欲にご飯とおかずを消化していく。
お風呂に入ってベッドに。他人のベッドなのにすごく落ち着き、あっさり眠気に包まれる。
いきなり身体が入れ替わって、女子大生から男子中学生になってしまったけれど。
平穏無事に『キヨヒコ』としての最初の夜は過ぎていった。



翌日は月曜日。『キヨヒコ』の記憶に従って支度を済ませ中学校へ。友達との会話も普通に進められる。
勉強が苦手で、運動が得意で、飽きっぽく落ち着きのない男子。今のわたしは『フタバ』とは正反対の存在だ。
でも、あのトイレで気づいたように、何から何まで律儀に真似る必要はない。他愛ない雑談は無難にこなし、授業で小テストになったりしたら真面目に解き、放課後に。
キヨヒコくんに会いに行こうと帰り支度をしていたら、友達に声を掛けられた。
「キヨヒコ、野球の助っ人してくれない?」
運動が得意な『キヨヒコ』には、あらゆる運動部から声がかかる。どんなスポーツでも、日々練習している部員を押しのけてエース扱いだ。
でもキヨヒコくんはスポーツにはあまり興味が向かず、人数が足りている時は参加しないようにしていた。
「九人いないの?」
野球部は、『記憶』によると十数人はいたはず。風邪や怪我だけで足りなくなるとも思えない。
「うん。急に決まった練習試合で、月曜は塾や通い事行くって奴が多いんだ。病気で休んだ奴もいるから、八人しか集められてない」
「わかった」
わたしは野球なんて知らない。
ソフトボールだって体育の授業で数回やったくらいでルールをよく知らないし、わたしが通った高校は野球が全然強くなかったから応援しているうちに覚えるということにもならなかった。家でもお父さんやお母さんはスポーツに関心がなかった。
でもキヨヒコくんは野球のルールを一通り把握している。そして野球部は困っている。
だからわたしは、ちょっと煩わしいなと思いながらも断れずに肯いた。



ピッチャーがいるので、わたしは四番ショートということになった。『うち』の野球部は弱小なんだなと改めて思う。
こちらが先攻で、一回表、三番がヒットで出てわたしに打順が回った。
右でも左でも打てるけど、ひとまず右の打席に入った。
相手ピッチャーの甘い球を見逃さず、思いきり振り抜く。

――!?

金属バットの芯でとらえたボールが、びっくりするほど遠くへ遠くへ飛んで行った。
先制弾にチームメイトが上げる歓声。相手チームの選手が漏らす、呆れたようなため息。
それらを目にし耳にしながら、わたしはしばらくバッターボックスに立ち尽くしてしまっていた。
両手に残る手応え。
キヨヒコくんの『記憶』の中にもホームランを打った経験はある。でもそれは、彼の野球への淡泊さに染められて、単なる出来事のようになっていた。
審判に促されてベースを回り始めながら、わたしは自分の両手を見下ろす。

……自分で実際に初めて打ったホームランは、これまでの人生の中で最高の充実感をわたしに与えてくれた。



試合は乱打戦の末にこちらの勝ちとなった。
わたしの成績は、六打数五安打八打点三本塁打。守備でも、何度も打球は飛んで来たけれどエラーはなく、数回は悪くない動きでヒット性の打球をアウトにできた。
――野球って、すごく楽しい。
チームメイトと喜び合いながら、わたしは何度目かの感慨に耽る。
特に打つのが好きだ。ホームランを打った時の、あの解放感にも似た心地好さ。長打を打った時の、次のベースを目指して思いきり駆ける気持ちよさ。内野安打を打った時の、アウトになるかもというスリルもたまらない。
そして打てずにアウトになった時はものすごく悔しかった。自分がこんなに負けず嫌いだったのかと驚いた。
運動は小さい頃からずっと苦手で、体育の授業はいつだって憂鬱だった、そんなわたしが。
「お疲れさん、キヨヒコ」
わたしを誘ったクラスメートが声をかけてくる。
「なんか今日はいつもより楽しそうだったな。プレーも気合入ってたし」
「そ、そうかな」
口ではとっさにごまかしたけど、『記憶』と照らし合わせれば彼の言うことは間違いない。
「野球部へ入る気になってくれた?」
「え、と……」
彼からは何度も誘われている。『キヨヒコ』の能力なら当然の話で、他の部からも勧誘されている。
「ま、いきなりは難しいだろうけど、考えておいて」



「いらっしゃいませ」
マンションへ行くと、楽しそうな笑みを浮かべるキヨヒコくんに出迎えられた。昨日よりもさらに『フタバ』に馴染んだような。
「意外とゆっくりでしたね。何かの助っ人でもしてました?」
「ええと……野球部」
自分の行動がきれいに読まれているのがちょっと悔しくて、返答が素っ気なくなる。
言ってしまってから、大人げないと思い、「待たせてごめんなさい」と言葉を足した。
「気にしないでいいですよ。今日はずっとネットを見てましたから」
キヨヒコくんはごく自然にわたしの使っていたノートパソコンを操ってみせる。
「気になったものをどんどん調べていって、それにつながるものに興味を持ったらそれも検索して……ネットだけだと浅いことになりそうですけど、大学の図書館とかに行ったら色々深いところまでわかりそうで、わくわくしてます。外国語の勉強も、もっとしっかりしたいなって」
一週間で元に戻るつもりのなさそうな言葉。わたしが積み上げてきた学力に乗っかった言葉。
昨日のわたしなら反発したかもしれないけど。
「わかった。あの……明日からも、ここへ来れるのは今ぐらいになりそうだから、大学でゆっくりしていてもいいよ」
サッカーやバスケにも興味が出てきた。一週間、それらを全部経験してみるには時間が足りないくらい。
「わかりました」
まるで驚きもせず、キヨヒコくんは肯いた。



「あの……」
土曜日、わたしはキヨヒコくんに切り出した。
「明日は、ちょっとここに来られそうになくて」
「じゃあ外で合流してあのお店へ行きます?」
「そうじゃなくて、その……忙しくて」
サッカー部やバスケ部やバレー部に参加してみた。それらも楽しかったけど、やっぱり一番楽しかったのは野球だった。
そして昨日、友達からまた誘われた。日曜日の練習試合。強豪チームも招いての、三チームによる三試合。

「じゃ、元に戻るのはもうしばらく先でいいですか?」
落ち着き払った態度のキヨヒコくん。どう説明しようか、今日になっていきなり予定を変更されても困ると言われないか、そんな風に悩んでいたこちらとしては拍子抜けだ。
「う、うん。もうしばらく」
もう少し野球を続けたい。『フタバ』の春休みはまだ続くし、元に戻るのはそれが終わるくらいでいい。
「まるで、こうなるのがわかってたみたいね」
帰り際、靴を履きながら訊ねると、『フタバ』の長身でわたしを見下ろしていたキヨヒコくんは柔らかく微笑んだ。
「片方だけ得するような話じゃないんじゃないかなって最初から思ってましたから。わたしが『フタバ』になって楽しいように、フタバさんも『キヨヒコ』になって楽しい何かが見つかるんじゃないかなって」
キヨヒコくんの「わたし」という一人称は、すごく自然に響いた。



気がつけば、自分で何となくタイムリミットにしていた『フタバ』の春休みは、もうすぐ終わりが近づいていた。
そんな中、今日も『フタバ』の部屋に行く。
キヨヒコくんからは、元に戻る話を切り出さない。その代わりに、大学や周辺の古本屋などを回って見つけた本とか、ネットで見かけたニュースとか、街で出会った人や物や出来事について、すごく面白そうに語ってくれる。
今の生活を満喫しているのが伝わってきて、でもこちらとしてはそれを素直に喜ぶこともできなくて、最近ではさらに複雑な要因もあって……話はあまり弾まない。
そんなキヨヒコくんが、不意に言った。
「とりあえず、来年の三月までこのままにしませんか?」
「え……」
「野球部、入りたいんですよね?」
わたしは『キヨヒコ』として中学二年生になり、もう普通に学校に通っている。
中学の春休みから野球部の練習には連日参加していて、でも、まだ入部はしていない。
キヨヒコくんが『キヨヒコ』に戻った時に熱の入らない野球をさせるのも退部させるのも気が引けて、入部まではできずにいた。
「いいの?」
訊くまでもないことだ。キヨヒコくんは入れ替わりを受け入れている。
そしてわたしも、今の『キヨヒコ』としての暮らしを楽しんでいるのは事実だった。



夏の大会が終わった、その数日後。
わたしは『フタバ』の部屋に久しぶりに来ていた。
「惜しかったね」
すでにネットででも調べていたのか、顔を合わせるなりキヨヒコくんにねぎらわれた。
「でも全国大会でベスト8って、すごいよね。しかも相手は優勝したチームで、最後までもつれた大接戦だったんだし」
慰められて、けれどわたしは少しだけ失望する。
「みんなそう言う」
「え?」
「素晴らしい、快挙だ、よくやった……でも、あそこで勝てれば優勝だって見えていたのに」
わたしはつくづく負けず嫌いだ。何日も経ったのに、思い返すと悔しくて泣いてしまいそうになる。
こう言ってもキヨヒコくんには納得してもらえないんだろうなと寂しい気持ちになる。でも、ここで共感できるなら、最初からキヨヒコくんはわたしと入れ替わる必要もなかったはず。
「もう一度……トシアキと対決したい」
優勝チームのピッチャー。今大会、彼からホームランを打ったのはわたしだけ。でも試合には勝てなかった。
「今度こそ、あいつに勝ちたい。自分が打つだけじゃなくて、チームとしても」
そのためには、チームメイトにもがんばってもらいたい。幸い、全国大会を経験して、勝つために努力しようという気運は高まっている。
「なら、思う存分がんばって」
キヨヒコくんは、まるでやんちゃな弟を見守る姉のように言った。



「野球で特待生!? すごいじゃない!」
中学三年の夏。全国大会でトシアキのチームを破って優勝。そしてわたしには、新しい道が示される。
王国北西地方の有力校からの誘い。学費その他一切無料。
トシアキもそこに誘われていてわたしと同じチームでやりたいと彼から決勝戦後に聞かされたこと、打ってはいても背が低いままのわたしに近所の有力校からは声がかからなかったことなどが決め手となった。
我がことのように喜んでいるキヨヒコくんは何も言おうとしないので、わたしから話を切り出す。
「あの……それで、元に戻るのは、もう、なしってことで……」
すでに入れ替わって一年五ヶ月。高校三年の全国大会までで三年追加。それだけ『キヨヒコ』の立場で好きなようにやっておいて、楽しかったよ後はよろしくと放り出すのは無責任すぎる。
それに、こんなに好きになった野球をたった三年でプレイできなくなる(『フタバ』の身体を鍛えても、『キヨヒコ』の領域にはまず届かない)なんて、我慢できなかった。
これからずっと『キヨヒコ』として生きる。それは『フタバ』に戻るより、よほど自然で楽しいことに思えた。
「そうよね。元々わたしはそのつもりだったけど、あなたもその気になってくれて良かったわ」
キヨヒコくんが――かつて『わたし』だった身体が――わたしを抱きしめる。
いい匂いがして、薄いTシャツ越しの柔らかい感触がたまらなくて。
わたしは股間を硬くした。

入れ替わってから最近まで、わたしは男の子になったことについては、あまり実感していなかった。
生理がないことや、ブラジャーをしたり長い髪を手入れしたりする必要がないことなど、女子でないことを満喫していた。
チームメイトや同級生が猥談しているのを疎ましく思っていた。そんなことにかまけてないで野球なり勉強なりにもっと打ち込めばいいのになんて考えていた。
けど、わたしは単にみんなより少し遅れていただけだったんだなと、ちんちんが頻繁に勃起するようになってから痛感させられた。
去年の春までわたしは女子だったのに、気がつくと女子を目で追っている。四番打者として女子の声援を受けると心地よい。
自分の部屋やお風呂やトイレで、わたしは時々ちんちんを弄ってみるようになった。硬く大きくなったそれを撫でさすっていると、気持ちいい。
ただ、周りの男子が言う「抜く」ことはまだやったことがない。

そんなわたしだから、今ここで股間が反応してしまったことにうろたえた。
こんな風になっているところ、女の人に見られたくない。
羞恥心から全身を強張らせてしまう。それを意識されてしまったみたい。
「フタバさん」
わたしを抱きしめたまま、キヨヒコくんが探るように訊ねてきた。
「もうセックスとかしたことあるの?」
「な、ないよ。わたしまだ中学生なんだから、そんなことするわけないじゃない」
否定する声がなぜか上ずってしまう。
「キヨヒコくんこそ、も、もう、経験しちゃったとか?」
口にしたら、自分の質問にショックを受けた。
わたしは『フタバ』だった時、処女だった。『フタバ』の生活にあまり未練はないけれど、キヨヒコくんがわたしの代わりに初体験を済ませていると想像すると、それはどこか口惜しい。
でもそれ以上に。
この『フタバ』が知らない男に抱かれたと想像することが、何か無闇と腹立たしかった。
「いいえ。わたし、性欲ってまだよくわからないところがあって。好奇心だけで踏み込むことでもないと思うし」
それは、そうかもしれない。わたしが『フタバ』だった時も異性に強い興味を抱いたことはなかったし、『キヨヒコ』の身体が性欲に囚われ始めたのは最近のこと。
「それにしても」
「?!」
言いながら、『フタバ』は片手をわたしの硬く勃起したちんちんへと滑らせた。変な声が出てしまう。
「こんな簡単に大きくなっちゃったら、大変じゃない?」
「う……い、いつもはここまで反応しないから」
「射精とか毎日してるの?」
「ううん、まだ、したことない」
「あら」

どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
わたしはキヨヒコくんの前でブリーフまで脱いで下半身丸出しになっていた。
「元の自分の身体だもの。気になっちゃう」
そう言われてしまうと、断りきれない。
だけど……。
女子大生の前で勃起したちんちんを見せている男子中学生なんて、どっちの立場からしてもありえない。
しかも。
「男の子ってこんな風になっちゃうのね。お、面白いわね」
本来萎えるような状況のはずなのに、わたしのちんちんは一向に治まる気配もなく、キヨヒコくんの眼前でびくんびくんと脈打ちながら天を目指すようにそそり立っているのだった。
恥ずかしい。本当だったら逃げ出したいくらい恥ずかしい。
なのにわたしは……心の片隅で、気持ち良さも確かに感じていた。
わたしの前にぺたんと座り込んで、わたしのちんちんを観察しているキヨヒコくん。好奇心に満ちたその目は、けれど同時に若干の怯えも含んでいるように見える。
――この子を屈服させてみたい。
入れ替わってからずっと、状況をすんなりと受け入れて、わたしの迷ったりためらったりした末の行動と思考をいつも先取りするように動いていたキヨヒコくん。
そんな子をわたしのちんちんでひれ伏せさせて、組み敷くことができたら、それはさぞ愉快なことだろうと思えた。

「触ってみるね」
言うや否や、そそり立つわたしのちんちんに『フタバ』が手を伸ばしてくる。
ほっそりした、滑らかな、女子の手。かつてわたしのものだった手。
白い指。その先端がわたしの先端に触れる。柔らかく優しい触れ方。毎日弄っていて触り慣れたわたしとは違う、どこかおっかなびっくりでもある、繊細な扱い方。
それでも、自分で触るのとは全然違う刺激が、ちんちんから脳まで突き抜けるようで、わたしは思わず腰を引いていた。
「え、何かいけなかった?」
「う、ううん」
他の人に触ってもらうのって。
女の人に触ってもらうのって。
気持ちいい。
「……続けて」
わたしは腰を突き出すようにした。
「熱いね……」
指が、わたしのちんちんに浮き上がった血管をなぞる。
この人が『キヨヒコ』だった時、こんなにもちんちんが大きくなったことはなかったはず。そしてわたしも他人のちんちんを触るような経験はしたことがなくて。
性的なことには限らない。キヨヒコくんは大学で論文を書き、わたしは野球部に入って。
わたしたちの人生は入れ替わり、新しい人生で元の相手も未経験なことを積み重ねていくのだなと、キヨヒコくんにちんちんを撫でさすられながら、不意に思った。

「これ、精液?」
「たぶん違うと思う……今までもこうなることはあったし」
弄られるうちに、ちんちんの先からぬらぬらした液が滴ってきた。長く勃起するとこうなり、ブリーフがぐっしょりになることもあった。
「じゃあ、もっと触ってみるね」
「あの……どうして?」
性に興味が出てきたというだけにしては、しつこくないだろうか?
言葉足らずなわたしの問いへ、『フタバ』の身体のキヨヒコくんは、いたずらっ子みたいに笑うと、的確に答えた。
「だって、キミのそんな顔、初めて見るもの」
わたしを初めて『キミ』と呼んだ。女子大生が、男子中学生を呼ぶように。
「どんな顔?」
「エッチな顔」
言葉を失うわたしに、『わたし』は言う。
「入れ替わってからずっと、キミって真面目な顔をしてた。最初は、わたしほどすんなり入れ替わりを受け入れられずに困ってる顏。野球の楽しさを知ってからも、『キヨヒコ』になってしまうことに抵抗があるような、わたしに気兼ねしているような顏」
「それは……」
事実だけど。
「でも、今のキミは違うわ。おちんちん触られてる時の顔、男の子になって良かったって顔してる」
……どんな顔なんだろう。
「だから、もっと見てみたい」
言うと、わたしの硬く勃起したちんちんを包み込むように握った。
そしてリズミカルにしごき出す。
わたしの中で、高まっていくものがある。今までにないほど興奮している。すぐにも弾けてしまいそう。
けれどわたしの心の中で、何かがブレーキをかけていた。心理的な歯止め。一線を超えるのをためらわせる心。
しごく手が強引に事を進めていたらこんなことも考えていられなかっただろう。でもその繊手には、こちらを気遣う気持ちもあった。
「気持ちよくない?」
「気持ちいい、けど……」
わたしに『わたし』が訊ねる。ちんちんに熱い吐息を感じるほど顔を近づけ、でもその瞳はわたしを見上げている。

わたしを『わたし』が見上げている。
男のわたしを、女の『わたし』が見つめている。
いや、もう、そうは思えなくなっていた。
その瞬間、悟ってしまった。
目の前にいる女性は、フタバは、わたしじゃない。
わたしは男で、キヨヒコなんだ。

心の中でそんな風に整理ができた時、最後の箍が外れた。
中学生男子が女子大生にちんちんを弄られて、いつまでも我慢しきれるわけがないじゃないか。
「んっ……出るっ!」
「きゃっ?!」
初めて射精した。
わたしの中でいつしか作られていた精子が、外へ向かって噴き出していく。
卵子に出会えなかったそれらは、代わりにフタバの顔を汚した。
整った顔に、金色の長い髪に、好奇心旺盛な目に、白い粘液がまとわりつく。
きれいなものを汚してしまったような背徳感。しかしそれは快感でもあって。
全身を駆け抜けたような快感の後で、一旦しぼむように萎えていったものが、再び力を取り戻していく。
「これが精液なのね。ふうん」
一方のフタバは、大してうろたえもせずに顔にかかったものを指に取って舐めたりしていた。
「き、汚くない……?」
「んー、おいしいとは思えないけど、キミの出したものだから汚いとは思わないよ」
堂々と言われると、恥ずかしさや戸惑いよりもうれしさを強く感じた。
「まだまだ元気みたいだし……」
フタバはTシャツを脱ぎ捨てブラジャーも外した。大きくて形の良いおっぱいがこぼれ出る。
「もっと先まで、色々やってみましょ? ゴムは準備してあるから心配しないで」
下半身を隠していたデニムパンツもその奥の布も脱ぎ去られ、そんなことを言われ、今しがた初の射精を経験したばかりのわたしが耐えられるはずもなかった。



「キヨヒコくん」
ベッドの上で「色々やって」みた後、わたしを抱きしめながらフタバが言った。
「何?」
「好きだよ」
わたしより年上の、わたしよりまだ背の高い女性が、わたしを慈しむように抱きながらそんなことを言う。
「……ボクも」
フタバを相手にこの一人称を使うのは初めてだった。
普段、『キヨヒコ』らしく振る舞おうとして使っているのとは大きく違う意味合い。わたしが誰だったかを知っているこの人に使ってしまうと、自分が誰かが本当にわからなくなってしまいそうで。
でも。
「フタバさんのことが好き」
この人とわたしの間で交わす言葉は、これしかないと思うようになった。

「進学する高校、考え直したくなってきちゃった」
果てた後、フタバの胸にしがみついて、甘えたように言ってしまう。
「どうして?」
「だって……来年から、会えなくなっちゃう」
北西地方で過ごすわたしの第二の高校生活。フタバはきっと、卒業しても王都で働くことだろう。
「赤ちゃんみたいなこと言わないの」
「年下だもん」
乳首に吸いついて舌先で弄ぶと、可愛い嬌声。
「でも大丈夫。高校を卒業したらきっとすぐ会えるよ。ううん、少しだけなら、早ければ再来年には」
「え?」
「わたし、大学を卒業したら……」



「全国選手権開催を明日に迎え、球場は熱気に包まれています!」
久しぶりに見るフタバの姿は、かつてわたしだった時はおろか、入れ替わってからどんどんきれいになっていた時よりも、さらに段違いに美しくなっていた。周りのチームメイトもだらしなく鼻の下を伸ばしている。
メイクやスタイリストの手によるものもあるだろう。けれど一番のポイントは、彼女が水を得た魚のように生き生きと働けていることにあるのかもしれない。
「現在練習しているのは開会式直後の第一試合を戦う二校。大会二連覇を目指す――」
わたしの高校と、相手校の名前。そして様々な過去のデータや豆知識を織り込んだ聞き応えある面白い紹介が続く。
「では選手の皆さんにもお話を伺いたいと思います。まずはトップバッター、俊足好打にして長打力も併せ持ち地方大会では打率八割、強肩のショートとして内野守備の要でもある二年生、キヨヒコくんです!」
「よろしくお願いします」
わたしは、かつてわたしの身体だった、そしてかつて『キヨヒコ』だった相手に、頭を下げた。



それから数年後。ある日、新聞にけっこうなスペースを割かれた記事が載った。
二年目のシーズンを終えたプロ野球選手が、女子アナと結婚したという記事。
デビューした年に首位打者・最多安打・盗塁王・ゴールデングラブにベストナイン、当然のごとく新人王も獲得した彼は、二年目もほぼ同じタイトルを総なめにし、全国一にも貢献してMVPにまで輝いた。
一方の女性は、入社直後は当人の希望もありスポーツを中心に担当していたが、高い学識と旺盛な好奇心を存分に発揮して、バラエティから硬派な報道番組や教養番組まで縦横に活躍。入社四年目ながら局の看板アナウンサーに成長していた。
長身の金髪の女性よりほんの少し背の低い赤毛の男性。しかしそれは些細なことで、二人とも輝くような満面の笑みをカメラに向けている。
二人が六年前、してみたいことが見つからず虚ろな目をしていた女性と、してみたいことができずに空回りばかりだった少年だったと、思う者などどこにもいまい。
「うまくいったようで何よりです。これからもお幸せに」
薄暗い店の中、銀色の髪をした女の子は、その新聞記事を見て満足げに微笑んだ。
あと少しというところでストップして放置してしまっていましたが、どうにか書き終えてみました。少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
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3.100きよひこ
読みたかった話の続きが読めて嬉しいです。とてもすばらしいです。
いずれ魔法学院の生徒会長や他の話の続きも読みたいです。
21.100きよひこ
素晴らしいの一言に尽きます。久々にここまでの作品を読みました。
26.100きよひこ
茶さんの作品だと、元女性側の視点というのが結構新鮮。
題材からすると舞台が外国でなくても良さそうな気はするけど。
魔法学院の生徒会長の続きも気になるけど、こういう作品も良い。
そういえば、清水共栄女子野球部も今週久しぶりに読み返しました。
38.100きよひこ
素晴らしい!!