Side:蒼火
今俺は、とある高級な会員制クラブに来ている
理由としてはどうということはない、朱那に誘われたからだ。あと、ここの支配人から仕事の依頼を受けたから。
資産家の娘という立ち位置を得ている朱那は、こういった場所に入り込むことにさしたる苦労を必要としていない、…のだが。
向こうの席にはお嬢様のような格好の客がいて、 色とりどりのチャイナドレスやらバニーガールやらが給仕をしていて。
その向こう側にいる人々も、これ見よがしに日本の日常生活ではとんと見かけないような姿をしていて。その誰もが、一見して誰もが目を見張るような美女揃い。
いやね、俺自身ももうちょっとオープンなら、とか、この身が鬼じゃなかったら夜を共にしている、とか、考えるのは男としてごく普通の事だ、うん、きっと間違いない。
…問題は、ここの従業員が、全員、元・男ということ。
そう。ここの名は「男娘(おとこ)倶楽部」。一見すると男の娘専用のサロンかと思えばそうではない。客も従業員も、「女になった男」のみという、秘密の組合なのだ。
しかし俺こと、蒼の鬼・蒼火は身も心も男である。何故こんな所にいるのかを詳しく話すため、三日前に遡ることにしよう。
* * *
三日前。
家の庭で連続した金属音が鳴っている。朱那の体調確認のため、簡単な手合わせをやっている最中だ。
とはいえ、俺も朱那も、日常会話の延長を交わしながら、ではあるが。
「のぅ蒼火、ちと相談したい事があるんだが、いいか?」
大太刀を振るいながら声がかけられる。今じゃ朱那の手元は、普通の人間では見えない速度になっている。
「この状態でいいならな」
かく言う俺も、高速で迫る太刀を1つずつ完全にいなしながら応える。
朱那の刀と俺の手の甲とが当たる度に、金属音。
一秒の間に5~6回。近くにいる存在は耳鳴りを感じてしまうらしい程の速度を鳴らしながら。
「構わん、そのままで良いから聞け」
「へいへい」
とは交わしつつも、剣戟と拳撃の金属音は止まらない。
「最近、私が入会した倶楽部があってな、そこで厄介な事件が起こってるというのだ」
「あんさね、不思議なことって?」
「…うむ、具体的に言うとだな。…女が襲われてしまう」
「それはまた、厄介な事件ではあるな。あにか詳しい情報とかは「らしい」、らしい? まさか話しに聞いただけか?」
「うむ、情けないことにな。私自身まだ事に対面してはいないのだ」
「ほぅ。…それを俺に話すってことは、こっちの仕事か?」
「恐らくはな」
ギン!と音が鳴り、剣と拳の交差が止まる。
俺が設立した、オカルト系も引き受ける何でも屋「忌乃心霊調査室」。そこに依頼がやって来たという事か。
立ち合いがひと段落し、俺も朱那も構えを解いた。彼女は三尺以上ある大太刀を鞘に仕舞いながら話を続けてきた。
「店長…いや、会長か。そちらには話を通すので、行ってほしいんだ」
「なるほどね…。で、そこの住所とかは?」
「あぁいや、場所を教えても構わんのだが…実はそこ、秘密の倶楽部でな…、私の口添えが無いと入店すらできないんだ」
「一見さんお断りとか?」
「いや、そうでなくて…。特定の存在しか、入れなくてな…?」
なんだかいきなり朱那がしおらしくなった。普段は勝気なくせに、言いにくい事を言わなければいけない場合、途端にもじもじしたりして少女臭くなる。
そんな様子が面白いのと可愛いのとで、あえて先を促さず、言葉を待つ。
「……そ、その、なんだ。…えぇ、とな…?」
…じー。
「あぁ、と…。その…、な? 少し、言いにくいん、だけど…」
………じー。
「怒らないで、聞いてくれるか…?」
あ、そろそろ限界っぽいな。ちゃんと話を聞くか。
「怒るかどうかは内容にもよるが、しっかりした話ならちゃんと聞くぞ?」
「あ、あぁ。…で、その倶楽部に入る為の条件なのだがな…?」
* * *
とまぁ、こんな経緯で話を聞き、最終的には依頼を承諾する事にしてここにいる。
今は紹介者の朱那と一緒に、ここの会長を待っているのだ。
表の顔として経営されてる店で、というのは…。ビジュアル的に、ただの男ならばとてつもなく嬉しいだろうが、真実を知っている俺としては居心地が悪い。
来ておいてなんだが、帰りたくなった。帰ってこの間の人間が突如人外に変生する事件の内容を纏めていたかった。アレめんどくさかったなぁ…。
しかし此処に来た手前、居心地悪いからと帰るわけにもいかない。おまけに、飲み物の注文もしておいたのだから尚の事だ。
「あぁもぉぉぉ…、なんだこの無節操なコスプレクラブ…」
頭を抑えながらこの現状にため息を吐きだしていると、横から白い腕と共に飲み物が差し出されてきた。視線を向けると、金髪でチャイナドレス姿の女性が俺の注文を持ってきてくれたようだ。
「まぁまぁお兄さん、落ち着いて? はい、ご注文のアッサムティーよ?」
「どうも…」
暴れても仕方ないのは理解しているし、話を聞かない限りは仕事を引き受けていいのかもわからない。
出された紅茶の味を調えるためにピッチャーのミルクを入れて混ぜ、砂糖は無しで一気に呷る。
ごくり。ごく、ごく、ごく…。
あぁ…、うまい。いい茶葉使ってるし淹れ方も文句ない。これなら普通に紅茶だけで店開けるんじゃね?
「すいません、おか…、…ん?」
2杯目を頼もうと思えば、周囲からなぜかクスクスと笑い声が聞こえてくる。
耳を澄ましてみると、
「あの人全部入れちゃったわよ…?」
「それじゃあきっとすぐね…」
「どんな子になるのかしら…」
とか聞こえてきやがったよ。チクショウあにか一服盛りやがったな!? ちょっと頭にきた。気で髪の毛がふわり、と宙に浮き出す。
その妙な雰囲気を察したのか、対面に座っている朱那が、ぽつりと口を開く。
「…その、なんだ。すまん、蒼火。……ここのミルクを男が飲むと、女になってしまうんだ」
「そういうことは先に言えぃっ! あぁもう全部飲んじゃったよ…、それはそうと、おかわりお願いします」
近くを通ろうとしていたバニー姿のウェイトレスに、頼み損ねていた2杯目を注文する。周辺の客や従業員のご期待に添えぬようで悪いのだが、生憎俺の身体に毒は効かないのだ。
朱那に会う前に引き受けた事件で毒を扱ったものがあり、
『ペロ…、これは青酸カリ!』
そんなこともあったのだが、死にはしなかった。死ななかっただけで死ぬほど悶えたが。鬼万歳。これなら神便鬼毒酒にも耐えられんじゃね? あ、いやダメか。あの酒呑童子も討ち取られたって言うし…。
「お待たせ。たくさん飲んで、可愛い女の子になってね?」
と言われながら出されても、まさか毒の効かない体質だとは言えないので、苦笑いだけを返すしかない。
ミルクを入れて2杯目を飲み干した。やっぱり味は変わらず美味しい為、毒が効かない事を差し引けば「どうでもいい」と思えてくる。
対面で朱那がじっと、不安そうな視線で見ている。
「あー…、これで落ち着いてしまう心って、かなり切り替えができてるもんだなぁ…」
「それで落ち着けるというのもどうかと思うが…、…平気なのか?」
「あにが?」
「その、体のことだが…、変わったりはしないか?」
「あぁ平気平気、こんなんで変調きたすほど軟な体じゃないよ」
体が変わった気もしないし、変わるような気配も見せない。…あにかあったら怖いが、まぁその時はその時。
ろくに死なない身体だからこそ、生きることさえ道楽になってきているのが恐いのだ。
「それならいいのだが…。いざという時は、私の魔羅を貸すぞ」
「想像したかないわ、ンなシチュエーション。…あ、すいません、おかわりお願いします」
しばしの間の後、3杯目が提供された。言わずもがなミルクを入れてかき混ぜる。
「ねぇ、さっきからミルクばっかりだけど、お砂糖はいらないの?」
さっきから俺に紅茶を持ってきてくれる、スカートの丈の短いチャイナドレスを着た金髪の店員が声をかけてきた。
「甘いものを飲みたい気分じゃないんでね。お気遣いどうも」
「砂糖も入れると、甘い声が出せるようになるわよ?」
「ぶ…っ」
口をつけた瞬間に耳打ちをされる。あやうく紅茶を噴き出しそうになった。
「だから良いですってばっ。それに俺は効きませんし…」
「ありゃ、そうなの? さすが那々ちゃんのお友達の蒼鬼さん♪」
「…あんですと?」
あ いきなり人の正体を囁かれた事が気になり、朱那の方に視線を向けると、
『すまん、私とお前が鬼だとか言ってしまったんだ』
とばかりに頭を下げていた。
「……朱那、後でお尻百叩き」
「か、勘弁してくれ蒼火っ、私とて言いたくて言ってしまったんじゃないんだ。入会の際に女になった理由を言ったり、お前を紹介する際に言う必要があっただけなんだ! ……許してくれると嬉しい」
お前、いつの間に上目遣いとか覚えやがった…。
ため息をついて、また紅茶を呷る。空になったカップを見て、まだ耳元に口が近い店員が囁きかけてくる。
「おかわり、もう一杯要る…?」
「あー…、お願いします」
耳にかかる息がほんの少しだけ気持ち良いのは秘密だ。
4杯目が出されて、新しく持ってこられたミルクピッチャーを傾けた。
ぐるんぐるんとかき回して…、かき回して。回して回して回して。
飲めなかった。
「ねぇ見て見て、蒼鬼さんの髪の毛すごいサラサラ!」
「うわホント! 妬ましいわー」
「ねぇ那々ちゃん、もしかして蒼鬼さんのお手入れとかしてる?」
「特別そういったことはしてなかったと思うが?」
「うっそー! それでこの髪の毛? ありえなーい」
「でも眼鏡って野暮ったいわね?」
「外しちゃう? 取ってみたら思ったよりカッコイイかもしれないし」
ミルクを入れて紅茶を飲み続けてる俺に業を煮やしたのか、客としてやってきていた他のクラブメンバーが集まり出した。しかもその半分が、俺の髪の毛に集中している。
…俺の髪の毛は長い。男としては殆どいないであろう、腰までのロングヘア。仕方ないんだ。鬼になったら急に伸びたんだ。切っても切っても同じ長さまで伸びるんだ。髪が炎になって放熱しないと俺の体が燃えるんだ。
で、残り半分といえば。
「ねぇ蒼鬼くん、さっきからミルクを使って飲んでるけど、女の子にはならないよねぇ?」
「不思議だね、もしかして男っぽいだけでさっきから女の子なのかな?」
「いやそれは無いっ、俺は正真正銘男っ」
「じゃあどーして女の子にならないの? 抱いてもいいから教えてよー」
「むっ、いかんぞ、最初に抱かれるのは私だ、2番目なら良し!」
「良い訳あるかぁ! 人の目の前でンな話すんな!」
髪の毛をいじる組が後ろにいるとすれば、俺の前にきている。
うわーいハーレムだ嬉しくねー。
いくら見た目がこうでも中身が男だと…、…え、朱那を抱いたお前が言うな? それを言われると返す言葉も無い。
出てきた溜息の代わりとばかりに、4杯目を胃に流し込む。姦しい会話に巻き込まれたため少し冷めていたが、それでもまだ美味い。
「あー…、すいません、おかわりお願いします」
それでも紅茶を頼むのは変わらないわけで。提供される頃には、結構痺れが切れそうになっていた。
「なぁ朱那、1ついいか?」
「む、何だ蒼火。手短に頼むぞ」
待つのと弄られるのとに若干の苦痛を感じてきたので、気晴らしに話そうと思えば、他の人たちと姦しく話してやがる朱那。
少し思い返せば解ることだったが、もうすっかり女として生きてるので、こうして「姦」の一部を担うような存在になってるわけで。
「や、やっぱ良いわ」
自然と先のセリフをナシにした。
「おかしな奴だな…」
おかしな運命で女になったお前に言われたくない。
「はぁ…、仕方ねぇ。あの店員さんに聞くか…」
口の中で消えてしまうような呟きを飲み込んで、賑やかな元男(現女)達の会話と店内のBGMに耳を傾けて5杯目を待つ。
程無くして、おかわりの紅茶が運ばれてきた。持ってきたのはやはり金髪のチャイナドレス姿の女性で、何度となく頼んだおかわりに辟易とした表情もせず、笑顔で提供をしてくれる。
「お待たせ。それにしてもよく飲むわねぇ」
「相方が会話に夢中で手持無沙汰なモンですからね。…あ、ちょっと良いですか?」
「何かしら、お茶菓子の追加注文とか?」
「それにも惹かれますが、今はちょっと脇に置かせてください」
「それじゃあ何? もしかして退勤後のお誘いとか? だとするともっと待つことになっちゃうけど良いかしら。
でもでも那々ちゃんが居るから悪いような気もするけど、浮気OKなら蒼鬼さんが私を抱いても何の問題も無いわよね。
それに男の人とは最近全然だったから、凄く魅力的な提案じゃない。うわーどうしましょ、受けようかしら、もう少し思いとどまろうかしら」
ンなこたぁ一言も言ってない!
しかしここでプッツンしては色々まずいので、なるべく抑えて、抑えて。小さく深呼吸。
「いや、それともまた、違います、けどっ。聞きたい事があるんです!」
「……何かしら?」
妄想中断されてちょっと不機嫌そうな顔を向けてくる。すいませんそんな目で見ないでください。
「ここの会長さんって、来てますか? 話を聞きに来てるんですけど…」
「え、私だけど?」
「アンタかよっ!」
先程の妄想とは真逆に、一言で済まされた。
「じっと待ってたり、皆に遊ばれてる様は見てて面白かったわよ?」
「解ってたんなら言ってくれ! どれだけ待ったと思ってるんだよ!」
「それでもしっかり待ってたじゃない。紅茶美味しかった?」
「はい美味しかったです!」
美味かっただけに待つのが苦痛じゃなかったのが悔しいなぁチクショウ…。
もう5杯目に口をつけると、俺はそろそろあんのためにここにいるのか解らなくなってきた。
「…それで依頼の話なのだけれど、さすがに他の皆がいる所では難しいから、閉店後で良いかしら?」
「勿論構いませんとも。ちゃんと落ち着いて話ができる状況であるなら、それ以上の文句は言わないさ」
例えば目の前で会話を楽しんでいる相方が、依頼の内容にちゃんと向き直る事ができるような状況であればな。
* * *
さて、時刻が過ぎて閉店後。クラスメンバーは既に全員が退店し、店の中に残っているとは俺と朱那、そして店長の女性のみ。テーブルを挟んで椅子に座り、ようやく話す体勢が整った所だ。
…彼女自身もここのメンバーの関係上元男なのだろうが、そこは気にしないでおく。気にしても始まらないし。
「改めて自己紹介させてもらうわ。私の名前は楼門士(ろうもんつかさ)、男娘倶楽部の会長をさせてもらっているわ」
「これはご丁寧に。忌乃蒼火と申します」
そんな挨拶から始まった依頼の内容だが、朱那から聞いた話をさらに具体的に説明された形になる。
倶楽部会員である女性が謎の暴漢に襲われてしまい、顔を見せなくなってしまったという話が何件も起こっている、そんな話だ。
ミルクで変身した人間は、当然の事ながら女性相応の力になってしまい暴漢への対応もできず。かといって警察に駆け込もうにも、被害の事を詳しく話せば根掘り葉掘り話さなければならなくなる。必然、男娘倶楽部の事も話題に上ろうというものだ。
こんなことを普通の警察に言った所で、眉唾どころか鼻で笑われて終わりだろう。それほどまでに信憑性が無いのだから。
男娘倶楽部のミルクを使って女性化させようものなら、あまりにも怪しい薬物を使っていると思われ捜査の手が入る事になる。それは士さんの望むところではないらしい。
「…楼門さん、ちょっとお聞きしますが良いですか?」
「答えられることでしたら」
「ミルクの効果が切れるのはどれくらいで?」
「飲み終えて約6時間。それが過ぎれば自然と元に戻れるようになっているわ」
「じゃあ被害に遭った人物は、元に戻れていますか?」
「……戻れては、いないわ」
ミルクで女性化する。それは知ったし、会員たちがあの姿になっているのはその薬効のせいだろう。それがどんな力を持っているのかは分からない。しかしその薬効が抜けるものだというある種の確信はあった。
だが、被害者は全員が戻れていないのだという。
「この倶楽部は色んな人の息抜きの為に作った所よ。普段の生活で窮屈な思いをしている人間が、ある種の変身願望を満たすための場所。
女の子になって楽しむための、そんな安らぎの場所として作ったのだけれど…」
「加害者にとってはそんな事はお構いなし、と…」
「…それに、特別女性として性交をしたって何が変わるわけでもないミルクなのよ? 時間さえ守ってればメンバー同士のお楽しみだって認めてるし、それで戻れない人は出なかったわ」
「なるほど…」
ふむ、と少し黙考する。
敢えてこう言うが女性同士での行為で戻れない訳ではない。だが被害者は全員戻れていない。それは何故か。
「…わからないな」
判断材料が少なすぎる。具体的な被害者の言葉が無いままに思考を重ねていった所で、答えなど出るはずもない。
すると先程まで黙っていた朱那が、身を乗り出しながら士さんの手を握った。
「会長、この件はきっと私と蒼火が解決してみせる。だから安心して待っていてくれ」
「ありがとう、那々ちゃん。こうして蒼鬼さんを連れてきてくれたこと、感謝しているわ」
喜んでくれている楼門さんを前にして、朱那はやる気に満ち溢れている。考えてみればそれも納得できるだろう。
“女になってしまった男”という、よく探したところで見つかる事が無いだろうカテゴリの存在達。それが集まる個所は、朱那にとって仲間が見つかったことに等しい。例えそれが一時的な女体化であったとしても。
メンバーの誰がどれほどの意気込みを持って女性になり切ろうとしているのか、それは解らない。それでも、一時的であったとしても、似た存在がコミュニティを作っていると知ったことによる喜びは、俺にも1つ覚えがある。
同じ鬼の集落を見つけた時、そしてそこに受け入れられた時。得も言われぬ喜びと、同時にそれを感じる自分におぞましさを覚えてしまった記憶が。
もはや鬼としてしか認識されていない事。人間とは「違う存在」という境界線を挟んだ向こう側に行ってしまったことを、まざまざと理解してしまったのだから。
…いや、この考えはやめよう。苦い記憶をわざわざ掘り起こす必要はない。今やるべきことは、この依頼の達成なのだから。
「…………」
…所で、気になったのが一つ。
男娘倶楽部では永続的に女になった朱那にも門戸が開かれた。女になりたい男だけでなく、女に“なった”男にも。
楼門さんが倶楽部を立ち上げた理由は現状不明だが、何かしら理由があっての事なのだろう。
* * *
Side:朱那
古い刑事ドラマで、操作は足で行う物だという話を小耳にはさんだ事がある。人から話を聞いていく為にも、直接顔を突き合わせる必要はあるだろう。電話という便利な代物があるにはあるが、だからといってそれに頼り切って良いものではないだろう。
顔の見えない会話というのは念話でも覚えはあるが、電話を扱うとなると途端に難度が上がっていくのは気のせいだろうか。
さておき。
既に被害者の数は7人。被害が出ているという事は聞いていたが片手で足りない人数に達しているとは思わず、そこは驚いてしまった。まさかそこまで被害者がいたのだという事にも気付けず、会長に言った手前不甲斐ないと想わんばかりだ。
その内の一人、茅ヶ崎睦己(ちがさきむつき)に話を聞きに行くことにした。彼は現在元に戻る事もできず、仕事は休職し、会長の手配したアパートに隠れるように住んでいる。
確かに男に戻れなくなってしまったならば、男として住んでいる住所に等戻れる筈も無い。かと言ってどこかに住めるかと問われれば、何者であるかという証明も出来なければ賃貸も難しかろう。
そんな彼らに手を差し伸べてくれた会長には、感謝の念に絶えん訳だが。
「さて、ここか…」
教えて貰ったアパートの一室、名札に「茅ヶ崎」と書かれている部屋の前に立ち、インターホンを鳴らす。少しばかり経って、室内から足音が鳴って扉が開かれた。
中から出てきたのは当然ながら女性。引き締まったプロポーションをした、ショートカットで活動的な美女だ。予め貰っていた写真と外見の一致する彼女は、茅ヶ崎さんその人だ。
名乗るのは人としての名前、そして事件の調査の為に作ってもらっていた名刺を差し出す。
「突然すまない。忌乃心霊調査室の七菜那々です」
「あぁ…、会長から話は聞いてるよ…。事件の話だろ…?」
「話をあまりしたくないだろうとは思うが、少しでも早く解決するために、できれば話を聞かせてほしいんだ」
「……だよ、な」
事件の話を出した瞬間、痛々しく苦い思い出があるのだろう。顔を顰めながら茅ヶ崎さんは視線を逸らしてきた。
「茅ヶ崎さんがあの事件でどれ程の苦痛を感じたのか。何も知らない私はそれさえも計り知ることはできない。
でもできれば、これ以上被害が広がってほしくないとも思ってる。…聞かせてもらえないだろうか」
「……」
生憎と言葉を飾る事は得意ではなく、思った事を言うしかない私だが、それでも茅ヶ崎さんは理解してくれたのか。扉を大きく開いてくれた。
「入ってくれ。…俺がわかる範囲で良ければ、話すから」
「すまない。ありがとう」
失礼します、と告げて室内に入り、居間に通される。
女性が住んでいるには殺風景な部屋は、なるほど確かに男が住んでいる部屋と言われても納得できる雰囲気を漂わせている。茅ヶ崎さんが着ている服も、女性が着るにはブカブカな男物の服を身に着けていた。
少し考えれば、それもその筈。彼らは着の身着のままでここに保護されているのだ。可能な限り元の部屋から服を持ってきても、全て男物であるのは仕方ないだろう。
「それで…、あの事件の事だったっけ…」
出されたお茶を前にし、茅ヶ崎さんはぽつりと話し始める。
事の起こりは一月ほど前。一番最初の犠牲者として茅ヶ崎さんが狙われてしまったようだ。
男娘倶楽部から出て行って、ミルクの効果が抜けるまであと1時間という頃合。早めに家に戻り薬が抜けるのを待とうとしていた時。事件の前触れといった特別な事は起こらず、本当に唐突に襲われた。
「襲ってきた存在は…、多分男だったんだと思う。けどそれ以外が普通じゃなくて…」
曰く、背後から襲われて姿を見た事は無いのだが、唸り声のような音しか出さず、これといった発言は無し。掴まれた腕には鋭い爪が生えており、人間ではあり得ないほどの毛むくじゃら。
抑え込まれた際に付けられたであろうその爪痕を見るに、確かに爪の長さと深さから、人間ではない気配を感じることはできた。
だが、具体的に「何者なのか」はわからない。
「成程な。他にも何か思い出した事があれば、教えてほしいんだが…」
「他にも何か…」
考えるように顎に手を当て悩む茅ヶ崎さん。次の言葉が出てくるのを待つしか無く、少しばかりもどかしい気分もするが、焦りは禁物だ。
無理矢理に思い出そうとすれば、何か別の記憶と関連付けがされて、それを真実と思い込むこともあるという話を蒼火から聞いた事がある。だから焦らせず、考えを遮るように言葉を告げる。
「あぁいや、無理に今すぐという話ではないんだ。思い出せば辛いこともあるだろうし…、私としてもそれを望んでいる訳ではない。茅ヶ崎さんの心の傷を広げたくはないのだ」
「…ありがとう。でも話せる事で解決する道が見えるなら、どうにかして話しておきたいんだ」
疲労と苦悩を綯交ぜにしたような表情は、他にも自分のような被害者を見てきた影響だろうか。背負う必要のない物を背負っていると言わんばかりの感覚がしている。
「…思い出せるのは、やっぱり恐かった事だな。何もしてないのに突然女として襲われて、…俺は男なのに、どうして、という感覚がして…」
組み敷かれて犯される。本来ならば男である彼がするべき行為をされてしまう。一方的な暴力としての性交には縁が無いだろう。ましてされる側など。
私が蒼火に抱かれた時は合意の上だったし、何より優しくされていた記憶がある。その時でさえ恐怖を感じていたのに、茅ヶ崎さんたち被害者の思いは如何程だっただろうか。
「でも、それ以上に恐かったのは、襲ってきた相手だけじゃないんだ…。犯されて、女として襲われている内に、どんどん気持ちよくなっていった事と…」
茅ヶ崎さんは青褪めた顔で、その恐怖を溜め込みたくないと言わんばかりに吐き出してくる。
「注ぎ込まれた事に喜びを感じてしまった事が、一番…、恐ろしかった…」
男娘倶楽部に通っている人間は、並べて「一時の女性を楽しんでいる男達」で、戯れに抱き合ってもそれは同好の士達だ。そもメンバー同士での絡みであっても男であることを理解した上での行為、しかも見た目は互いに女であるのだから、さほど気兼ねはする物ではないだろう。
「…すまなかった、茅ヶ崎さん。言いたくない事を言わせてしまったみたいで」
「良いんだ…。できればこれ以上の犠牲者が出ない事を願ってるよ…」
…なるほどな。女としての覚悟も出来てなければ、注ぎ込まれる事さえ恐怖か。
私の場合は既に「那々」として生きる事を決めていた為、それが喜びであったのは確かだが、そうでなければ想い感じる事も違うのだと。
まして彼らは女であることは「一時の遊び」なのだ。だからこそ突き付けられた現実に、彼らは恐れ慄いている。自分たちが何になってしまっていたのか、という現実を。
冷めてきたお茶を流し込みながら、覚悟を決める。これ以上の被害を出すわけにはいかないと。
茅ヶ崎さんに礼を言い、その脚で隣の部屋に向かう。全員から可能な限り話を聞いて、証言を集めていく。少しでも解決の糸口になる様な情報を集める為に。次の事件を起こさない為に。
だが哀しいかな。その日の夜にまた一件、会員が襲われるという事件が起きてしまった。
* * *
Side:蒼火
事件が起きた人の翌日、日の高い時間帯。男娘倶楽部に顔を出す。
問題は決まっている、新しく増えてしまった犠牲者の事だ。
それ自体は楼門さんから電話で聞いたが、詳しい話を聞くためにこうして倶楽部に足を運んだわけだ。
ノックを3回。中から反応がある事を確認して扉を開けると彼女がいて、テーブルを拭いている姿が見えた。
「失礼します。楼門さん、お話しお聞きしました」
「お待ちしてました、忌乃さん。簡単な事は電話でお話ししましたが、詳しい内容はまだお話ししてませんよね?」
「えぇ、それを訊く為にお邪魔しに来ました」
「邪魔をするんでしたら帰っていただけます?」
「帰ってよければ好き勝手調べますけどね」
「それは困るわね。今回被害に遭った子もウチのアパートで保護してるから、忌乃さんを不法侵入者にする事になっちゃいそう」
「ですので正当な手段で情報を得る為に、あなたに訊きたいんですよ、楼門さん」
お互いに顔を見合わせ、にんまりと笑い合う。勿論彼女が言った事も本心ではないだろうし、俺自身正当な手段で情報が欲しいのは確かだ。可能な限り波風は立てないに越した事はない。
掃除の終わった椅子に座り、テーブルを挟んで楼門さんが座る。出されたのは紅茶で、傍には意地でも俺の“その姿”を見るのだとばかりにミルクピッチャーと砂糖壺が1つ添えられている。勿論俺だけに出している訳ではなく、楼門さん自身の手元にはコーヒーが存在していた。
「…今回被害に遭ったのは、最近ここに入ってきた子よ」
「お名前は」
「本江永作くん。表はジムの職員をしている子で、鍛えた体に見合わない小さな女の子になってたわ」
「その情報要ります?」
「大有りよ! みんなウチに来てくれる可愛い子達なのに、彼女達が被害に遭うなんて許せないんだから…!」
傍から見て解る程、痛いくらいに手を握り込んでいる楼門さんの内心には、憤りが渦巻いているのだろう。
「…随分とお怒りの様ですけど、それでも楼門さんはこの倶楽部を開けるんですか?」
「それは勿論開けたいわ。だけど…、こんな風に襲われてしまうんだったら、事件が解決するまで閉めざるを得ないかもしれないわね」
「でしょうね…」
一つしかないミルクピッチャーを傾けて、楼門さんはコーヒーの色を明るくした。憮然とした表情のままにコーヒースプーンを動かして混ぜ込んでいる。
何故か犯人はここに通っている人間ばかりを狙っている。朱那から聞いた最初の被害者が一月前ほどで、今回の事件も含めて8人が既に襲われてしまっている。
倶楽部にはそれこそ何十人と所属しているが、「何故彼等だったのか」と考えても意味はないだろう。俺は犯人ではない、今は理由を考えるだけ無駄だからだ。
「それで、その本江君に関して詳しいお話は聞ける状態ですか?」
「流石に無理ね、昨日の今日よ? ショックも大きいし…、茫然としているわ」
「…確かに、そうなるだろうな」
「みんなそうよ。全員のケアをしてはみたけど、それでも“理解”できる人なんているかどうか。…茅ヶ崎くんだって、最近どうにか折り合いを付けらてきた、位だもの」
被害者にはなれないが、その心境に寄り添う事はできる。勿論その被害に関しては推し量る事しかできないし、男としてのアイデンティティを崩されればそうなるだろう。自殺にまで発展しないのは、彼女自身のケアのおかげだろうか。
すぐに聞きに行くのは無理そうだからこそ、彼女から色々と話を聞かなければならない。
楼門さん自身はミルクを入れたコーヒーカップを傾け、溜息を誤魔化すようにふぅと大きく息を吐いている。するとすぐに顔をあげて、彼女はこちらを見据えてきた。
「…率直に聞くわ、忌乃さん。この事件の犯人に何か心当たりとか、思い当たる所か出てきてない?」
「これまたハッキリと。でもそうですね…、少なくともいくつかの証言を朱那から聞きましたが、それから推察するに、確実に人間じゃないでしょうね」
楼門さんの質問に対して、こちらもハッキリと答える。茅ヶ崎さんから聞いた話を中心に、朱那が聞いてきた話を纏めれば見えてくるものがある。
唸り声を聞いた。
毛むくじゃら。
爪。
まず総合するが、これで人間だったら俺は人間の定義をゴッソリ書き換える必要がある。
その上でこれを人間じゃないと仮定し、何者であるかを類推する。
恐らくは獣人。獣になれる人、あるいは人になれる獣。人狼や人虎といった、人とも獣とも言いきれない存在。
「…そんな存在がいるのね。正直、忌乃さんの事も“そういう設定”だと思ってたわ」
「笑い話にできたり、家系とかに箔が付いたりする程度なら、“そういう設定”でも構わなかったんですけどね」
半信半疑といった様子の楼門さんだが、恐らく間違いはないだろう。
だからこそ考えを「こちら側」にシフトしていかなければならない。ただの人間の仕業であったのなら、鬼の身である関係上手加減をしなければいけないからだ。
鬼と人間との身体能力差は大きい。例え人間が武器を持って掛かってきても鬼は容易くあしらえるし、鬼が持つ金棒は人間の2人3人程度では持ち上げる事すら叶わない代物だ。
お互いの間にはそれほどの力量差があり、余程の事が無い限り人間は鬼に勝てる事は無いだろう。だからこそ俺は手加減をする必要があった。
(…だが)
相手が人狼、同じ土俵の人外であるならば手加減をする必要は無いだろう。
「…忌乃さん、忌乃さん?」
そう考えていると、ふと声を掛けられて、意識を楼門さん相手に引き戻された。
立ち昇り始めてきた気配を抑えながら、聞こえない位の咳払いをして彼女の方に向き直る。
「…どうかしましたか、楼門さん」
「いえ、少し目が恐かったものですから。…何を考えていたんですか?」
「…まぁ、簡単ですよ。少し本気にならないといけないかなと…、そんな事を考えてました」
実際に犯人を見るまで断定はできないが、仮に獣人が当の犯人であった場合、人間の出る幕は無い。勝てる筈の無い勝負はさせられないし、させるつもりもない。
だからこそ俺が、鬼が本気になる必要がある。
「……」
決意を一つ固めていると、視界の端で楼門さんがこちらを見ているのに気付いていた。
視線を向けると、どこか慌てたような様子で再びコーヒーカップを傾けていた。
…ミルク、ね。
* * *
Side:朱那
忌乃家。蒼火の住む家にて、忌乃心霊調査室の拠点。只人の視界から隔絶する結界の張られた日本家屋は、静けさに満ちている。そこで私達は顔を突き合わせていた。
「下手人は恐らく獣人…。やはり蒼火もその考えに辿り着いていたか」
「そりゃアレだけあからさまな証言があればな。一応、獣人に偽装している別のあにか、という考えは捨ててはいないけど…」
「だが、現状では獣人が優勢と見る訳だな」
「ん、そゆこと」
私が作り上げた被害者の名簿と証言の一覧。蒼火はその資料へ視線を落したままに頷いていた。
その表情は決して気を抜いている訳ではない、真剣な表情だ。
証言を集める中でどうしても気になった事を蒼火に問う事にし、資料を横にずらさせ蒼火の目を見やる。
「幾つか理由を問うても?」
「構わんよ」
「では一つ。動機は何だと思う?」
「わからん。正直いくつか考えてるが、これだと言うのが思い当たらないな」
少しばかり驚いた。てっきり蒼火の事だからある程度の目測は付けている者だと思っていた。
「何故だ、動機もある程度考え着いてはいるのだろう?」
「それも直接犯人に訊いてみなければ、推理するだけしか無いんだよな。…直接被害者の皆さんに会えれば、もう少しあにかわかったかもしれないが…」
「仕方あるまい。全員男の姿を見るのも嫌だと言う程に心的外傷を負っていたのだぞ?」
「だよな」
ふぅ、とため息を吐きながら蒼火は眼を閉じる。その後に少しばかり後頭部を掻きながら、聞き捨てならない事を言ってのけてきた。
「俺だって女性の姿に変化できない訳じゃないが…、だからといってそれを積極的に使うってのもな、と思うんだよ」
「む、その話詳しく」
「やだよ、絶対横道にずれるんだから」
く…っ、本当に詳しく聞きたかったのだが…。これはこの事件が終わった後に訊くしかないな。
「仕方あるまい、いずれ機会がある時に聞かせてもらうからな」
「はいはい」
あっさりと頷いているが、恐らく話す気は無いな? 絶対に後で訊かせてもらおう。
しかし今は依頼の話だ。気になる事を頭の片隅に置いて、本題に向き直る。
「…だが蒼火、それでも私は動機についての推察が聞きたい。可能性の話になるが、念頭には入れておきたいのだ」
「そか。…推察の一つとしては、繁殖だな。被害者は全員女性、例外なく襲われている。
狩りと考えるには命を取ってないのは腑に落ちないし、被害者が女性でなければいけない理由を考えると…、まぁ、そこに行き付いた訳だ」
「繁殖? まさかそれだけでか?」
少しばかり驚いてしまった。何の変哲もない営みでしかない事で、こんな事件を起こすのかという疑問が私の中に浮かび上がってきた。
もちろんその答えは、蒼火がきちんと用意してくれていた。
「現代の獣人たちから見れば、それだけじゃないんだよ。…人間が広く分布してしまった関係上、それは死活問題になってるんだ」
「何故…、いや、何故でもないのか…?」
私の頭の中に浮かんだのは、人類の版図の拡大。那々の体に入り歴史の教科書を開いてみれば、人間は思っていた以上に数を増やしていた。
途中の戦争もあったが、その欠落を埋めるように産み増えて地に満ちて、人間は数を増やしていったのだから。
「思い当たってくれるならあによりだ。現時点で地球の覇者は人間で、科学の叡智で人外の住処を狭めていけば…、隠れざるをえない人外達は、自然と出会いも限られてくる」
「各々の集落で血を繋ぐのもありではあろうが、それでも先は見えているような物か…」
「そういう事だ。必然的に血脈を外に広げるしか道はない。そして揺り篭が多ければそれだけ子供が増える」
「血脈は繋ぎ、集落に戻れば獣人の氏族は賑わうか。道理だな」
生物が繁殖していくにあたり、遺伝子が近い者同士の交配は良い結果にならないと言われている。それを踏まえて考えてみれば、血脈を繋げる為の相手を外に向けていくのは道理だ。
あるいは欠落を補い合い、あるいは長所を伸ばし合い、そうして外に向けての血脈は続いていく。
「…病院で詳しく調べてみないと分らないが、間違ってないんじゃないかと思うよ」
「成程な…。理由を並べられると、確かにと思う所がある」
「だが、まだ解らない所がある。何故倶楽部の人間だったのかという所だ」
「それは、確かにだが…」
これも頭の片隅で思っていた事だ。何故被害者は全員男娘倶楽部の人間だったのだろう。
どう考えてもこれが解らない。
「現状倶楽部は閉められてるから、ミルクを使った女性は現れない。被害者はこれ以上広まらない筈だが…」
「さすがに男を襲った所で子を孕ませることは出来んだろう」
「映画の中だけで十分だ、ンな話。…だからこそ、朱那は身の回りに気を付けてもらいたい」
「む、何故私なのだ?」
「いや考えてみろよ。お前は現状唯一、ミルクを使わなくても女の体だぞ? もし犯人が“これ以上”を望んだ場合、矛先はお前に向くだろうと思ってるんだよ」
「…確かに、そうだな」
これは言われて気付いた。確かにそうだ。
私自身が既に女である関係上、下手をすれば孕むのでないか。…蒼火とした時もその可能性は僅かに考えてはいたが。結局子は出来なかったのだが。
仕方あるまい、鬼の出生率は元来そこまで高い物ではないのだ。シたい放題という訳ではないが、それでも出来ない事の方が大半なのだから。
「だが、仮に獣人と鬼とで子は孕むのか?」
「わからない。前例がないし、聞いた事も無い。…だが、可能性は無い訳じゃ無いだろうな」
「下手をすれば孕まされるまで慰み物、か」
それこそ孕まなければ、死ぬまで。
考えてしまった現実を思うと、やおら犯人に対して憤りが増していく。女性相手に自らの暴力を誇示し、そして孕ませようとしている。
許せぬと思ってしまった。絶対に放置してはおけぬと、改めて。
同時に、獣人という大きな可能性の前に、消してはいけない可能性を鑑みて一つ、蒼火に問う。
「だが一つ聞かせろ。…仮に下手人がただの人間だった場合はどうする?」
「そこは安心しろ…、としか言いようがないな。俺は人間は殺さないし、殺すつもりもない。……人間だったならな」
静かに告げた蒼火の瞳には、決意の炎が灯っている。
蒼火は人間相手ならば殺さない。かつて那々、私の体になった少女を襲った呪術者であっても、牙を抜くだけで殺しはしなかった。
甘いと思われるかもしれない。が、こうした決意は往々にして我々の行動、そして精神に対しての大きな指針にして楔となる。
逆に人間でないのならば。
この段階で、ある種の結論は見えていたのかもしれない。
* * *
Side:蒼火
時刻は夜。朱那にあぁ言った都合上、俺が彼女の身辺警護をしない訳にはいかない。…しない訳にはいかないのだが、俺は現在別の場所に身を隠している。
場所は簡単、男娘倶楽部の所在地だ。
朱那自身の肉体は人間でも、鬼としての力が身に染みわたっている。仮に獣人が襲ってきたとしても、抗えない程ではないだろう。
それと同時に朱那が襲われたとしても、無理せず一報入れるよう伝えてはおいた。少し前の朱那なら一人でどうにかしようとしていただろうが、犯人を逃がさないようにする都合上、1人より2人の方が成功確率は高いだろう。それを理解できない訳ではなく、渋々ながら肯いてくれた。
「……」
風下。弱く吹いている風は、倶楽部の中に誰もいない事を教えてくれている。
誰もいない。会長である楼門さんと、言われてもやってくる聞き分けの無い会員。そのどちらも。
…俺がここに潜んでいる理由はそれだ。女性としての快楽を知ってしまった会員が、倶楽部休止という状態でも我慢できずにやってくる可能性が無いとも言い切れなかったからだ。
俺自身身をもって知っている女性の快楽は、男の身から思えば麻薬のような甘美に満ちている。それほどまでに強く激しく悦楽だが、それは嵌れば抜け出せない泥沼のようなものだと、彼等は気付かない。
だからこそ、女の快楽に脳を犯された男たちがやってこないか、俺はこうして見張っているのだ。
視線は携帯に落として弄るフリをしつつ、意識だけは逸らさず倶楽部の方に向けている。
何分何十分立とうと、誰も来る気配は無く、朱那からの連絡もない。無いが…。
(さて、杞憂で済んでくれれば一番だが…)
心中で願うも、そうは問屋が卸さないのは世の常だろうか。手にしていた携帯が震え、着信を知らせてきた。
表示された名前は朱那。何かあったかと思い、通話状態にする。
「どうした朱那、あにかあったか」
『いやまだだ。先程から不穏な気配を感じていてな、万一の事を考えて蒼火に連絡をした』
帰ってきた声は確かに彼女のものだが、その声は囁くような小ささだ。
「…人外の気配はするか?」
『する。人間相手なら隠せているのだろうが、私相手なのが問題だったな。勘付けたよ』
「そのまま移動して、出来るだけ人気のない場所に移れるか?」
『やってみよう。この付近だと…、稲荷が仕切る場所があったな。そこに向かうとしよう』
この世には「人外同士の厄介事を人知れず解決する為の場所」という物がある。彼女は“領域”と呼ばれるそこに向かうと言っている。
例えば人気のない神社。例えば結界の張られた空き地。例えば人目のつかない高架下。そんな場所が人目に隠れる様に点在し、いざという時の場所になっている。
頭の中で稲荷が管理する個所をいくつか思い浮かべ、朱那から現在位置を教えてもらい、場所を特定する。
『…すまん蒼火、そろそろ奴が動く気配を見せ始めている。切っても問題ないか?』
「わかった、両手は空けておけ。…それと、殺すなよ?」
『無論だ、そこを忘れる程私は愚かではないぞ』
「だったら良い。気を付けろよ」
その会話を最後に、通話は途切れた。
朱那の武器は大太刀。片手で振るう事が出来なくはないが、些か難しい代物である為に、電話をし続けているのは辛いのだろう。
襲撃者の戦法は未知数だが、朱那が戦える体制を整えておかなければ、万一が存在する。それは避けておきたい。
仕方なしに路地裏に飛び込み、人の目が無くなった所で空間に穴を開ける。
鬼の中には術式を使う者も多数存在しており、俺も数は多くないが使用できる術式はある。これはその一つの空間跳躍。平たく言えばワープだ。
…だが俺自身、こうした術式に素質が無いため、いくつもの難点が存在している。「一人でしか跳べない」のが最たる物で、人外である必要がある、知ってる場所、あるいは他者の気配を察知出来た所にしか跳べない、など。
他にもいくつかあるが、その全てを語る程の内容ではない。左手に魔力を籠めて中空を撫でると、うっすらと空間の裂け目が口を開いた。
裂け目へ飛び込み、身を出す。そこは既に稲荷の管轄だが、誰の気配もない。
それはつまり、現在この近辺で誰もトラブルを(力尽くで)解決しようとしている人外がいない事であり、問題無くここを使えるという事だ。
(これは好都合だな。が…)
朱那はまだここに来ていない。おびき寄せるように動いているなら、すぐに来ている筈は無いだろうが、それでも今彼女がどこにいて、ここからどれだけ離れているのかを知る術はない。
僅かに考えて結論を出す。…迎えに行こう。
稲荷の“領域”を飛び出して、周囲の気配を探る。街中に於いては比較的自然の多い所に存在している“領域”だからこそ人の気配は少なく、朱那たちが居ない事を察する事ができた。
脚を曲げ、跳び上がる。一番高い木の枝に脚をかけ、幹を掴む。高鼻で周囲の空気を嗅ぐと、雑多な臭いが鼻を衝く。
木々や青草、土のにおいが一番近く、そこから離れていく程に人工物の臭いが強くなり、それらをかき消すように人間の臭いが漂っている。
その中から朱那の臭いを嗅ぎ分けるというのは、正直至難の業でもあるのだが、やらない訳にはいかない。
集中し、臭いを嗅ぎ分けていくと少しずつ近づいてくる匂いを感じた。風下の方からやってくる匂いは二つ。女の臭いと、獣の臭い。片方は朱那で、もう片方が襲撃者だろう。
木から降りて“領域”内に身を隠し、待っていたい所だが…。そうはいかないだろう、という1つの予感が頭をよぎっていた。
風向きから向こうにも「何かがいる」という臭いは感じ取られている筈だ。流石に鬼の感覚も鋭敏だが、獣人のそれと比べられたら勝つのは難しい。
(…仕方ない、行くか)
走り出し、朱那の匂いがした方向へ向かう。
動くこと暫し。先ほど過った予感は間違っていなかったようで、近づいていくにつれて金属音が聞こえる。
二つの影が動いているのが視界に入り、その内の片方が朱那だというのは見て取れるようになった。そしてもう片方。
朱那より薄暗がりにいる為、詳細な外見を見るのに苦労はするが、それでも見えてくる姿。
迫っているのは灰毛を纏った狼。いや、狼というには歪な姿に見えるのは、二足歩行をしていたからだろうか。本来直立しない狼は二足で立ち、こちらに向けた爪を光らせている。
確信した、コイツは人狼だ。
「朱那!」
「遅い! 向こうが痺れを切らしたようだぞ!」
彼女に声をかけるとキレられた、解せぬ。
人狼と対峙している朱那に反論もせず跳び上がり、髪の毛を炎に変じさせる。自慢じゃないけど長い黒髪が発火し、蒼炎を灯す。
右手に纏わせ、拳大にまとめた火焔弾を人狼に向けて1つ撃ち出した。
「でぃえいっ!」
空気の爆ぜる音が熱気を伴い、人狼に迫る。だが奴は朱那から距離を攻撃をかわす。
「もういっちょ!」
逃げる人狼を追うように、今度は左拳に火焔弾を作り撃ち込む。
「…ッ!」
しかしそれも同様に避けられた。触れようとしないだけ、リスクを冒すつもりはないという事か?
そうして距離を取った人狼と朱那の間に着地し、人狼の視界から朱那を遮るように立ち塞がった。
「朱那、下がれ」
「何故だ、私も戦えるぞ?」
「あちらさんは基本的に朱那狙いだ。俺が盾になるから、少し距離を取ってろ。応戦は奴が俺を飛び越えた時だけでいい」
正直な事を言えば、朱那はあまり強くない。肉体は徐々に人間を辞めているものの未だ人間の範疇で、人外との戦闘を考えれば脆弱な代物だ。
おまけに彼女の体を奪うにあたり、大事にしろとも言われている。
「…わかった、少し下がる」
そこに負い目があるのか、朱那は5mほど下がり、更に人狼との距離を開けた。
(正直人狼が一歩で合間を詰められそうな距離ではあるが…)
それでも距離が無いよりはマシだ。
両の拳に火焔を纏わせ、放つための準備をする。
「…ッ!!」
やはり狙いは朱那であるのか、人狼は声も上げずに距離を詰め始めた。俺の火焔弾は避ければいいと考えているのだろう。
「だが!」
両手の爪に焔を纏わせ、手を軽く広げ交差する様に薙ぎ払う。
細く伸びた蒼焔が網のように広がり、突っ込んでくる人狼に直撃した。
「ガ…、ッ!」
それでも突撃は止まらず、邪魔をするなとばかりに突き出された左爪が俺へと迫っていた。
瞬時に構えを取り直し、右手の甲で爪をはじく。
止められた事に気付いたが止まらぬ突撃を前に、右爪を再び振り上げてる。
爪を揃えて突き出された手を、白刃取りの要領で掴み、止めた。
「グゥ…ッ」
「悪いねぇ…、朱那に手を出させるわけにはいかなくってな…!」
力を込め突撃を阻み、間近に迫り、先程の炎で僅かに焦げた人狼の顔を見る。
確かに人の姿を辞めているバケモノの姿で、ちょっとやそっとで止まる事は無いだろう、というある種の決意に満ちた瞳をしている。
だからこそ止めねばならない、というのは俺の中には存在している。
両拳で人狼の腕を握り、右腕を折ろうとする。
「グァルッ!!」
しかしそれを阻むように、開いていた人狼の左爪が俺を狙う。人外用の簡単な防御を施していた服ごと右肩に爪が刺さり、痛みが走る。
同時に左爪が捩じられ、痛みがさらに強くなると同時に、
「げ、はッ!」
人狼が両後脚で俺の腹を蹴り飛ばしてきた。流石に後脚の分だけ力は強く、はき出す息と共に力が抜けて、掴んでいた人狼の右手を放してしまった。
「…ッ!」
距離を取られ、視線は俺を見据えたままの人狼だが、先程みたいに軽んじている物は無い。俺をひとかどの脅威と見たようで、遠くの朱那に向ける以上の意識の偏りが見て取れた。
俺も両手を腰だめに、左手で攻撃すると言わんばかりに右半身を前に突き出すような半身に構えを取る。正直右肩が痛くて腕が上げられないが、ハッタリ含めての姿勢だ。
「……」
「……」
互いに見据えて、時は5秒を刻む。
「でぃえいっ!」
「グルァッ!!」
飛び出したのは全く同時で、俺は人狼の身体めがけて、人狼は俺の左肩をめがけて…、ではなかった。
打ち込もうとして身を低く屈めたその隙を見逃さず、人狼は俺右肩に左足を乗せ、足場にしたのだ。
「…ッ!」
痛みが走る。同時に後頭部めがけて、人狼の右足による蹴りが叩き込まれた。押し出されるようにつんのめり、体制を崩してしまう。奴の狙いは、
「朱那っ!!」
最初から彼女の方だった。
俺から離れていた朱那の方に人狼が迫り、爪を突き出している。抵抗されていたならば最早手加減の必要無しとばかりに、爪と牙をむき出しにして襲い掛かって。
「む…!」
八相の構えから人狼の突撃に合わせるように踏み込み、思い切り大太刀を振り下ろした。
中空で身をよじり、人狼はそれを避ける。回転によって軸がずれてしまい、人狼は朱那の横を通り過ぎて彼女の後ろに着地した。
同時に蹴りが来る。無防備になってしまった朱那の背中に蹴りが見舞われた事で、朱那は俺と同じように前へとつんのめった。刀を放さない事だけは僅かにひやっとしつつも、しかしそれ以上に人狼の追撃は無かった。
跳び上がり、俺達の事を一瞥もせずに夜の闇の中に消えていったのだ。
気配が消えてしばし。朱那がもう脅威は無いと感じたのか、大太刀を鞘に仕舞いこちらに向かってきた。
「…蒼火、奴は逃げたのか?」
「多分だけどな」
「奴を追えるか?」
「問題は無い。さっきの攻撃でマーキングは出来た」
火焔の網で少しばかり焦げた体毛。その焔は俺自身が出した者であるがゆえに、その焦痕を辿る事は難しくなく、それ以上の物理的な繋がりも作る事はできた。。
だがそれ以上に思う事があり、俺は朱那の方を見て告げる。
「…それと、朱那は来るな」
「何だと? また私をのけ者にするつもりか?」
朱那が“朱那”として生きるに至った事件の時、鬼としても今以上に未熟だった彼女を置いていこうとした時もある。それを見越して“また”なのだろうが、今回は明確に理由がある。
「そうじゃない。お前が目標になってる関係上、ついていけば下手しなくても狙われるんだぞ?」
「だが1人で行ってどうするというのだ、先程のように逃げられればイタチごっこを繰り返すぞ?」
「そうだな、言葉が足りなかった、すまん。…一緒には来るな」
「一緒には…?」
「あぁそうだ。俺は先に行って奴が逃げた場所を突き止める。その後連絡をするから、今度は朱那が追いかけて来い」
「逃がさぬ為に、という事でいいんだな? 私を危険な目に遭わせぬように、と言う訳では無かろうな?」
コイツ、疑い深くなってるな…。だがまぁ、半分近く事実なだけにあまり強くも言えない訳で。
「…それもある。傷付くのは俺だけで良いと思ってるのもある。…あんまり朱那に見せたくないってのも、な」
「ぬ、それは…。…ただの貴様の見栄っ張りではないか」
「結局俺の我侭だって話だよ」
我を通している事に違いは無い。…朱那の体が女だからこそ、下手に残る怪我をしてほしくないと思ってるし、俺なら傷も少しすれば治る程に、体が「鬼」になっている。
痛みの引いてきた右肩を軽く抑えながら、俺はその場を後にする為に動き出す。
「んじゃ、行ってくる。朱那は帰っても良いからな?」
「誰が帰るものか」
ふんす、とばかりに鼻息を荒げる朱那。
…さすがにここからは、見せられる物じゃないからな。
* * *
焦げた臭いを追い、10分ほど駆けて向かった先。そこは先ほどまで張っていた場所、男娘倶楽部の入っている建物。
人狼がそこに逃げ込んだと分る位に臭いが残っていた。
先ほどとの違いとすれば、倶楽部の室内から電灯の明かりが漏れている。中に誰かがいるという事がハッキリと見て取れた。
「…」
約束通りに朱那に一報を入れ、場所を伝える。電話越しに『わかった』とだけ伝えて、通話は切れた。
事実がどうなのかはわからないが、朱那も焦るだろう。倶楽部に人狼が潜んでいるというのだから。
携帯を仕舞い、倶楽部の戸を叩く。返事を待たずに戸を開けると鍵はかかっていないようで、楼門さんが室内の掃除をしていた。
「こんばんは、お邪魔しますよ」
「忌乃さん? こんな夜更けにどうしたんですか? それにその肩の傷…」
「これは大丈夫ですよ。…まぁ、来た理由ですが、退勤後のお誘いってのをしようと思いましてね」
「え? あら本当? でも那々ちゃんに悪いわよ。じゃなくって、せめて肩の傷だけでも見せて? 簡単だけど救急箱はあるから、治療してあげる」
そういいながら彼女は奥に引っ込み、少しした後、手に救急箱を持って戻ってきた。
「忌乃さん、見せて?」
「…はい」
椅子に座り、仕方なしにジャケットを脱ぎ、シャツの袖を捲って傷を露出させる。楼門さんはぬるま湯で濡らしたタオルで俺の傷口を拭っている。
「酷い傷。何があったの?」
「簡単に言えば、事件の犯人に会いました」
「…本当? その話、詳しく聞いても良いの?」
「でもその前に」
楼門さんの追及を止めるように、僅かばかりに強く出した言葉の後に続ける。
「いくつか気になる事があるんですよね」
「…何かしら?」
「どうして楼門さんも、ミルクを使ってるんです?」
「…え?」
「使えば男が女になるミルク。あの時楼門さんも使ってましたよね?」
「私、ブラックコーヒーって苦手なのよ…」
「女が使っても問題無い代物、ですよね? 楼門さんも実は男ではなく?」
「…勿論よ?」
なるほどね…。
「…じゃあ次に。楼門さん、どれくらい前から倶楽部の掃除をしてました?」
「…大体1時間位前かしら。あの、忌乃さん、どうしたの?」
「率直に言えば、俺はあなたを疑ってます。楼門士さん」
10分ほど走って着いた場所に、1時間ほど前からいた? それは絶対にあり得ない。
俺がここを張っていた時間から“領域”に跳んで人狼とやりあっても、10分経っていない。ここに来るまで20分位しか経過していないのに。
「…冗談は好きじゃないし、嫌いよ? 何を言ってるのかわからないけど…」
「でしたら、これはどういう事でしょうね?」
そう言いながら俺は自分の髪を引っ張る。
炎に変じた髪は、逆を言えば必要が無ければただの髪の毛に戻る。そしてそれを受けた存在は、
「…? 何か引っ張られてる感覚が…、ッ!」
「さっき事件の犯人に会ったと言いましたよね。その時に付けた目印なんですよ、それ」
気付くだろう。自分の腰に巻きついている一本の細い髪の毛に。
そしてそれが、楼門士の腰に続いている事に。
「しらばっくれるなら言ってやる。楼門士、アンタが襲撃犯の人狼だ」
「……」
彼女は黙り込んでしまった。顔を俯かせ、目を見せずに、じっと黙り込んで。
「…そう? そうだとしたら……、どうだって言うのさッ!!」
瞬間、彼女の腕が毛に覆われ、鋭く伸びた爪がこちらに振るわれた。身を屈めて爪をかわし、今度はこちらが跳んで距離を取る。
離れた視界で捉えた楼門さんの姿は既に人間を辞めており、先程見た灰毛の人狼に変じている。
「しくじっちゃったよなぁ…、鬼だなんて冗談だと思ってたら本当で、しかも人の姿のまま戦って? ホント失敗したよ…!」
本当は男だったのだろう。口から漏れてくる声音は男の物で、胴体部に乳房は無い。むしろ股間のイチモツが興奮か激昂かでいきり立っている。やはり奴もミルクで女性化していたようだ。
突き出された口で歯をむき出しにし、唸りながら、人狼はこちらを殺気を湛えた視線で見つめてきた。
「そこはこっちを見縊ってくれたって事だろ? それが敗因だって素直に認められれば、まだお仕置きだけで済ませてやるぞ?」
「だからってハイそうですかって認められるモンじゃないんだよ…!」
人狼が飛び掛かり、こちらに襲い掛かってきた。
こちらも両の拳を握り、構える。右肩の怪我は既に問題無い程度に治癒し、迎撃に向かう。
左爪を右拳で受け流す。
振り回される右脚を左腕で止める。
止められた右脚を軸にして繰り出された左脚は、受け流した右の肘で止める。
がら空きになった俺の顔に向かい、楼門が大口を開けて噛みつこうとしていた所、こちらも炎を吐き出して口内を焼こうとする。
それはたまらないと感じたのか、俺の体を蹴って後方宙返りをし、楼門は四足で着地する。
一瞬での四撃。ただの人間であるならばまず一撃で絶命しているだろうが、俺相手ではそれでは足りない。
構えを取り直し、楼門から目を放さずに、最後の疑問を投げかけた。
「もう1つ聞きたい。アンタは何故彼らを襲った!」
「簡単だよ、ヤったら何ができると思う?」
「…子供、だな」
「そういうこった!」
男女の性交、それを行った果てにできるもの。それは単純だ。男だけでも女だけでも、“それ”の創造には物足りない。
やはり考えは間違っていなかった。奴は繁殖の為に人を襲っていたのだ。
戻れないのは恐らく着床していたからだろう。その身に既に子供がいる為、変じた体が“戻るに戻れなくなっている”。またはミルク自体にそんな術式が組まれているかだ。
楼門は四足から二足になって立ち上がり、こちらを仕留めようと身を屈めながら、聞き捨てならない事を言ってのけてきた。
「那々ちゃんも良いと思ってたんだよ。鬼の生命力を宿した娘なら、さぞ強い子が出来るだろうってな! アンタのツバが付いてたのは残念だったけど、それでも構わないさ。オレのモンにしてやるから、さくっとくたばれ!!」
その言葉と共に飛び掛かり、俺の喉笛目掛けて楼門の爪が迫ってくる。鋭利な爪を首筋に受ければ、頸動脈を掻き切られるだろう。
頭の中で一つ、ぷちんと音がしたような気がした。
あぁ、コイツは己の目的のために他のあらゆるモノを投げ捨てている。そしてその果てに己の欲望を満たそうとしている。
…欲望を満たす。それだけなら別に構いはしない。三大欲求を満たすことに異議を申し立てる事はしないし、するつもりもない。けれどその為に他者を踏みにじり笑う事を良しとするならば、その瞬間からソイツは俺の敵になる。
何よりこいつは何を言った? 朱那を襲う?
「…そっかよ」
ざわりと髪の毛が浮かび上がる。俺もいい加減、人間の姿という枷を解く必要があるようだ。
俺の気配に構わず楼門の爪が俺の喉元目掛けて迫ってくる。
命を刈り取る爪の接近に慌てることなく眼鏡を外して瞼を閉じ、一拍後に開眼する。風が渦巻き鳴いた瞬間、日本人としての色彩で染まっていた俺の瞳と髪は変わっていた。
髪は夜だというのになお煌めく空の蒼に。
瞳は闇だというのになお輝く血の赤に。
そして額には3本の雄々しき金の角が生えた。
獣の前に鬼が立つ。しかし攻撃を避けることは無い。
ぞり、と。首筋に爪が刺さる。爪先が頸動脈に触れる直前、あと数ミリ進めば触れ切れる。そんな距離に迫った所で、
「……っ!?」
楼門の動きは止まっていた。理由は簡単だ、俺の左腕が楼門の右腕を掴み、止めていたから。
力を込めると、楼門の右腕と口から音が鳴る。二つの悲鳴は余さず俺の耳に届き、苦痛だと伝えているからだ。
「ってめ、放せぇっ!」
暴れようとするも、右腕は固定されて動かせない。出来る事と言えば爪を動かして俺の喉を掻きむしること。
爪が触れ、肉が裂かれる。傷口から血が溢れ出して俺の口の中を満たしていく。それでも俺は腕を掴む力を弱める事などせず、じぃと楼門を見据えていた。
狼顔のままに楼門の口の端が歪む。決して喜悦のそれではなく、声と同時に漏れてきたのは、
「ひ…っ」
恐怖の声だ。
瞬間、楼門の顔面に拳が落ちる。近くに存在しているが故に、腕が固定されているが故に、避けられない距離から放たれた俺の拳が、狙い過たず一撃をたたき込んだからだ。
打音と共に吹き飛ぶ楼門の体は、散乱していた室内の調度品をさらに砕き飛び散らし、轟音と共に壁に叩きつけられた。破片と木屑を舞わせながら、まだ生きていると言わんばかりに呼気を鳴らしている。
「ゲッ、ゲハ…ッ! て、めぇ…、マジになりやがったか…?」
「…………」
答える事は何もない。喉から溢れる血液が口に溜まり、喋るのも億劫だからだ。ある程度溜まった血液を床に叩きつけるよう吐き出し、僅かに確保された気道に空気を通す為、鼻から息を吸う。
その合間に楼門も体勢を整え、こちらに再び跳び掛かる姿勢を取った。
「スカしやがって…、死ねやァッ!!」
咆吼と共に間合いを詰めに来る。腰溜めにされ、今にも突き出されんとしている爪の狙い。殺気の向く個所に対し敏感になっている今なら事細かにわかる。しかし防御の構えは取らず、しかしカウンターの姿勢も見せない。
狙いは、心臓。
ぞぶり。
爪が胸板に突き刺さり、しかし止まる。
来る箇所が解っているならば、構えれば止められる。盛り上がってきた筋肉により爪は心臓に小さく突き刺さった程度で止まり、被害は最小限で済む。
だがそれだけではなかった。楼門は勢いのままに口を大きく開き、俺の喉笛目掛けて噛みつきを仕掛けてきた。
ぐちゃりと肉を食まれる音が、内側から響いてきた。
「グルルルルル…ッ!!」
喋ることができない状態の楼門が出せるのは唸り声のみで、力を緩めるつもりは無いのが見て取れる。
人狼の強さは肉体の強さだ。野生そのものの結晶とも言うべき原初の力を行使し、獲物を刈り取る強さ。それは爪だけでなく牙にもあるが。コイツは決定的な悪手を犯した。
逃げればよかったのに。
改めて口に溢れる血で喋れない俺は、内心でひとつ思っている。ここまで近づいてしまえば楼門にとって有利なのは確かだろう。だが考えつかなかったのだろうか。
その距離は俺の間合いでもあるという事に。
「ゲボァ…ッ!?」
途端、楼門の口から息と血が吐きだされる。
特別な何かをした訳じゃない。行ったのはただの寸勁。密着した状態で放たれた掌底を、楼門の鳩尾に捩じり込んだ。
突き抜けた衝撃をそのまま吐きだしたように楼門がたたらを踏んで一歩二歩と離れていく。
「……」
それを見下ろす俺の視線は、恐らくはどこまでも冷たい物だったろう。容赦をするつもりはない。今目の前にいるのは、俺が最も嫌う化生だから。
離れた距離を詰めて身を屈め、再び楼門の鳩尾に左拳を叩き込む。
「ガハ、ァ…ッ!!」
突き上げるように放った左拳は楼門の体を宙に浮かばせ、のけ反らせる。丸見えになった胴体に叩き込むため、利き手の右を握り込む。
放つは自ら鍛え備えた格闘武術。鬼の身で扱う武の技、鬼神拳。
(鬼神拳…)
狙いは一か所、心の臓。狙いを定めて捩じり込むように右の拳を突き出し、狙い過たず楼門の其処へと打ち込まれる。
ただの右ストレート。ただそれだけの技だが、打撃と同時に走る衝撃が楼門の全身を叩きつけた。
(撃震(げきしん)!!)
衝撃が走る。次いで打音が鳴った。腕に返ってくる感触は、肉が潰れる音と骨の折れる音。
繰り出された拳の勢いのままに吹き飛ばされた楼門は、受け身を取る間もなく倶楽部の壁へと強かに身を打ち付けた。
楼門の背中を中心に壁全体へ放射状に広がった罅は、攻撃の勢いをまざまざと表現している。人間が喰らえば血袋が如くに弾け飛ぶだろう一撃を受けても、楼門の体はまだ原形を保っている。ただ、胸部がへこみ壁との激突によって右腕が拉げているだけだ。
「ぁ、ぅ…」
人外の生命力は高い。人間での致命傷でも人外相手にはそうならない事が多く、まして相手は人狼、肉体の強さは折り紙付きのようだ。
壁から落ち、それでもこちらを見ているが、恐怖の表情は変わっていない。
拉げた腕を抑えながら立ち上がり、逃げようとしている楼門は人狼としての姿を辞めてしまう程に消耗しているのか、人間の姿、女性の姿に戻ってしまった。
捕まえる必要がある。少しずつだが逃げだそうとしている楼門に近づこうとすると、倶楽部の外から気配が近づいてきた。
「蒼火! 今の音は何だ、貴様ここで何をした!」
駆け込んできた気配の主は、朱那だった。
どうやら先程の一撃は、当然ながら外にも音が聞こえてしまったらしい。さもありなん。気付かれないように、という配慮が抜けてしまえばそうなるか。
「…お願い、助けて那々ちゃん…! 蒼鬼さんが、いきなり私が犯人だって言って、殴りかかってきて…!」
「む…! 蒼火。貴様、それは真か?」
室内の俺、出口の朱那とに挟まれた楼門は、状況を味方につけようとしているようだ。それは確かに、何も知らない人間が見れば、バケモノが楼門を襲っている様にしか見えないだろう。いくら童話の鬼のようにならないとはいえ、人外としての姿の俺は、確かにバケモノに他ならない。
朱那は楼門の言葉を聞いて、こちらに殺気を飛ばしてくる。じわりと刺すような殺気を、こちらは敢えて受け流す。
「それが本当だとするのなら…」
移動の際に隠されていた大太刀が姿を現し、朱那が刀を抜き放った。そして切先が向かう相手は、
「……何のつもりなの、那々ちゃん?」
楼門の鼻先一寸前。楼門の行動を制するように刀が向けられていた。
「何のつもりは此方の台詞だ、会長。貴女は何故蒼火とやり合っていた?」
「そんな事…、忌乃さんの方から私が犯人だって言って攻撃を…」
「ありえんな」
「…何を根拠に?」
「簡単だ。蒼火は馬鹿だが正直者で、言った事を違える男ではない」
馬鹿とか言うな。地味に傷つくぞ?
「例えば、人間だったら殺すつもりは無い、とな」
「…!」
楼門の視線が此方に向いた。逆説的に、人外ならば殺す、という事に気づいたのかもしれない。
「必然、会長が蒼火とやり合っていた…、やり合えていたのならば、答えは限られてくるだろう。それに…」
「それに…?」
じわりと2人の間に緊張感が走ってくる。後ずさりするように楼門が一歩二歩と下がりだす。
「隠し損ねている事に気付いてないのなら、それほど弱っているのだろうよ。獣臭さが抜けきっていないぞ」
「…っ」
朱那も人外の気配を察する事はできるし、判断する事も出来る。その結果、楼門が発している気配を感じたのだろう。苦虫を噛み潰したような表情が、楼門の後ろ姿からでも見て取れた。
「…仮に、私が人外だとして、那々ちゃんはどうするつもり?」
「私の答えは一つだ。会長、貴女から詳しい話を聞きたい。事情があるのならそれもだ。…頼む、話してくれ」
刀は下げず、姿勢はそのままに朱那は楼門に縋るように話していた。彼女は倶楽部に来ていたため、俺より彼女との関係は長い。だからこそ、なのだろうが…。
喉元に再び溜まってきた血を吐きだすと、楼門は諦めたような、開き直るような声音を出す。
「そう…、那々ちゃんは蒼鬼さんの味方という事ね…?」
「という事も何もない、私は最初から蒼火の側だ」
「だったら…、邪魔だよ!」
残った力を振り絞るかのように、再び人狼態に変わった楼門は、拉げていない左腕で朱那に一撃を見舞おうとした。
その背に火焔弾を打ち込もうとしたが、それより早く、
「ガ、ぶ…ッ!?」
朱那の大太刀、その峰が楼門の顔面を叩いていた。そのまま峰は前傾姿勢になっていた楼門の背中に当たり、押し込み体を倒した。
楼門の左肩に右足を乗せた朱那はすぐに刀を返し、刃を楼門の背に押し付けていた。
けれどそこに押さえつける以上の力はなく、斬りつけるつもりもない様子でだ。
「動くな、会長。これ以上動こうというのなら、私は貴様を斬り捨てるつもりだ」
「…………」
「…斬らせないでくれ。…頼む」
「…わかったよ。…あーぁ、ここまでか…」
それに観念したのか、楼門の体から力が抜けるのが見えた。
* * *
Side:朱那
場所を変え、忌乃家に会長を連行して話を聞くことに相成った。
居間にて、緑茶が乗っている卓袱台を囲んで私達3人は座っている。怪我をしている2人の体には既に包帯が巻かれているが、放置しておけば自然と傷が治る人外の身で、それが必要な状態でいられるのはいつまでだろう。
喉に怪我をし、掠れた声になった蒼火が話を聞き始める。
「…で、詳しい話だけど、お聞かせ願えるかな?」
「アンタにはもう言っただろ。人を襲ったのは単純に…、子供を作る為だったんだよ」
「そりゃ確かに聞いた。…けど気になる所が一つある。どうしてわざわざ襲ってまで子供を作ることに執着した? 外からの血を入れる為なら、相手を人狼化させる事も出来たはずだろ?」
遠い昔、話に聞いたことがある。人狼は他者を襲い、被害者を自らと同じ人狼にする事ができる者も存在していると。
もし会長がそれを出来るのだとしたら、もっと事件は単純で、しかし秘匿されていたのではないだろうか。
被害者といった形で公になる事もないだろうし、ともすれば人狼の里で保護してしまえば憂いなく子を成せるだろう。当然ながら「元の人間」は失踪する形になってしまうが、それでも無闇に捜索するだけで見つかるものではない筈だ。
けれどその手段が取れない、取れなかったのだと会長は言う。
「それが出来るのは大人の人狼だけだよ。俺みたいな、子供の人狼じゃ“まだ早い”んだと」
「…子供だと? 会長が?」
「そう見せかけてるだけさ。…本当の年齢は、那々ちゃんとほぼ同じかそこらだからな」
ミルクの効果が切れたのか、会長の姿が変わっていく。大人の姿の女性から、まだ幼さを残した少年への姿に。
確かに外見年齢は私と同じか、もしくは少し年若い位だろう。乱暴そうにも見える、会長としての外見とはかけ離れた容姿を見て、やはり驚いてしまう。
逆に蒼火は理解していたのだろうか、驚く様子もないまま質問を続けていた。
「成程ね。だから方法がこんなに乱暴だったわけだ」
「乱暴なのは認めるけどね。けど他にどうしろって言うのさ」
無事な右手を忌乃家のちゃぶ台の上に乗せ、ドンと叩きつける。人外の膂力に打たれても罅1つ入らないその硬さは驚く他ない。
そんな私の驚きをよそに、会長は拳を握り締めながら、奥歯を噛み締めながら、鬱憤の籠った声を吐きだしていた。
「自分達じゃ人狼を増やすつもりも無いのに、子孫をどうするか集落をどうするか、長老たちはずっとそんな事ばかり言ってたよ。滅ぶのを良しとする爺さんまでいる始末だ。そのくせ村の一番年下のオレにばっかり期待をおっ被せてくる。わかるか? 周りから『応えろ』とばかりに期待を向けられる重圧と、何を言っても変わろうとしない連中が! もううんざりしたんだよ!」
「…だからって、関係ない人たちを襲って子供を産ませれば済むと、考えたのか?」
「あぁそうだよ! 子供を作れば、集落の未来とやらが出来れば奴らは喜ぶだろうさ。だから子供を作って放り投げて、オレはオサラバさせてもらうつもりだった。だったのにさ…」
その考えは蒼火に打ち砕かれた。…もっと正確に言えば、蒼火を連れてきた私に。
「…本当の鬼が出てくるだなんて、思っちゃいなかったんだけどな」
「そこは考えが足りなかったな。私が鬼の力を持っていたことを、会長は気付いていたんだろう?」
「まぁ、な。…正直、誤魔化せると思ってたし、何かあっても勝てると思ってた。けど…、ダメだったな…」
そのまま会長はうなだれてしまい、ため息を深く吐きだしていた。絶望というにはまだ遠かろうが、目的は阻止された事で、会長の頭の中には諦念が渦巻いているのだろう。
肩を落とし蹲るその姿が、どこか捨てられた子犬のように見えてしまう。それは恐らく同情になるのだろう。会長の事は倶楽部内でしか知らないが、それでも少しだけ交流はあった。その分だけ情が湧いてしまうのも仕方ない。
甘いと蒼火に言われそうだが、最初から仕事の関係で居た蒼火とは事情が違うのだ。
「…蒼火」
「わかってる。今後どうするかって話になるんだよな、つまりはさ」
「こういうのも、あまり良くないが…。すまん、会長の事も少し慮って欲しい…」
「……」
蒼火は何も応えない。頭を掻きながら瞳を閉じて、どうするのかを考えているようだ。
対する会長はうな垂れたまま、溜息と共に言葉を吐き出す。
「好きにしてくれよ。どうせオレには発言権も無いんだ、結局どこでも同じさ…」
じぃと2人を見てしまう。蒼火がどんな言葉で問うのか、会長はそれにどう応えるのか。
「…じゃあ、幾つか訊きたい事がある」
緑茶を飲み、口を湿らせた後に蒼火は問いを投げかけ始めた…。
* * *
Side:蒼火
今俺は、とある高級な会員制クラブに来ている
理由としてはどうということはない、朱那に誘われたからだ。あと、ここの支配人の監視も兼ねてではある。
…結局と言うかどう言うべきか。俺は楼門への処断を後回しにした。
朱那から言われた事もある。ここの存在を恃みにしている人間の事もある。いくつかの理由が絡み合って、この空間を破壊する事を辞めたのだ。
「相変わらず良く来るね、蒼鬼さんは」
「そっちが良からぬ事を考えてないか、気にしてるからだよ。それに…」
支配人こと楼門の提供する紅茶をストレートで飲みながら、多めに一口を呑み込む。
「紅茶の味が気に入ったってのもある。他にもいくつか理由はあるけど、聞くか?」
「是非。気になるモンでね」
楼門自身も「男」だという事は、既に倶楽部の面々には周知の事だったようで、楼門はすっかり男の口調に戻して俺と会話をしている。
提供後に厨房へ戻る事も無く、俺の座ってるテーブルの対面に座り、じぃと俺の方を見てくる。
「朱那がここを気に入ってるから。使ってるミルクの出所を探るつもりもあるから。後は被害者のアフターケアも含めて。
大きなところはこんなモンだ」
理由としては大まかにこの三つ。
朱那がここを気に入ったというのは本当だし、楼門自身への情もあるのは見て取れた。それを無視して楼門を潰すというのも、こちらとしては宜しくないと考えたからだ。
ミルクの出所に関しても、現在は追加で追っている状態だったりする。人間人外問わずに女性化させるミルクなど、一個人で用意するのには限界がある。別の組織が用立てしていると考えた方が自然だろう。
そして被害者のアフターケアに関しても、楼門がアフターケアをしている関係上、彼女が真犯人だと言ってしまえば、彼女等の精神的負担は計り知れないものになると思ったからだ。出来得る限りに彼女等には、事件は記憶の底に埋めてもらう…、もしくは気にしない所まで忘れてもらう。そのつもりだ。
この場合の問題は犯人の所在になるが、そこは俺が無能の烙印を受ければ済む話だ。ここの会員が俺を頼る事を考えたくないし、いざとなれば本気で動いて汚名返上すればいい。そう考えている。
「…色々考えてるんだな」
「考えなきゃこんな仕事やってないよ」
「はいはい、それに比べてこっちは考え無しでしたよ」
ブーたれながら自分の分のミルクティーを飲んで、楼門は女性時の姿を保とうとしている。こういうのもなんだが美人である為、不満そうな表情でも絵になってしまう。
「どうだかな。悪知恵だけは働かせてたろうに」
「それ、ちょっと酷くない?」
「やった事を考えてから言って見ろってんだ」
「確かにそうだけどさ…」
バツの悪そうな表情をして視線を逸らす楼門を横目に、別のテーブルに座って楽しそうに話している朱那を見る。
相も変わらずここの会員たちは思い思いの服を着て、それぞれが一時の「女」を楽しんでいる。
その横には写真で見た茅ヶ崎さんも居て、ある程度心の整理はつけてくれたのかと考えてしまう。
「…んで、ここに来てる時の朱那の様子は、どんな感じだ?」
「見てる限りいつもと変わらないというか…、男っぽく?振る舞ってるよ。みんなの相談にも乗ってたりするな」
「そっか」
「那々ちゃんの事、気になったりするの?」
「そりゃするさ。普段アイツは見た目通りに振る舞ってるからな。自分が出せる場所が多くあれば、下手に悩むことも無いだろうと思ってるよ」
「…見た目通りか」
普段朱那は、人間として学校に通っている都合上、「人間の少女」として振る舞う必要がある。普段と違う仮面ばかり被らせていても、精神面に負担が来るのはむべなるかな、といった所だ。
だからこそ素を曝け出せる場所をある程度作り確保しておきたい。そんな考えの元、ここを残す判断をしたのだが、それ自体は間違ってなかったのかもしれない。
「…そういや忌乃さん。こっちもいくつか聞きたい事あるんだけど、聞いていい?」
「構わないよ。あにが聞きたいんだ?」
「俺の子供はどうしたのか、ってのと…、俺は今後どうすれば良いのか、ってのと…。後、俺の集落にこの話は行ったのかどうか。…この3つかな」
楼門の問いは、どれも至極真っ当な物だ。彼自身が起こした事でもあるし、気にならない訳にはいかないだろう。
だからこそきちんと答えるべきだと思い答える順番を考える。どの方向が一番いいかだが…。
「んー…。順番に答えるが…。まずお前の子供は、全員堕胎させた。おかげで水子が産まれてしまったが…、それは別方面で死神に任せてる。きちんとした形で子供が産まれる時、転生する手筈になってるらしい」
被害者の全員には、ミルクの解毒剤と偽って堕胎薬を飲ませた。被害者たちは妊娠した子供が楔となっていた様で女性化が戻らなかったらしく、堕胎薬を飲んだ数日後に全員が元の男性に戻る事ができた。
当然ながら子供を殺した事で、「産まれなかった子供の霊」、水子が誕生してしまったが、処遇は言葉の通りだ。知り合いの死神がぶつくさ言いながら閻魔庁に水子達を連れていき、時が来るまで眠らせておくとの話になった。
これから楼門は最低でも8人の子供を作らなければいけない訳だが…、その相手が誰になるのかは彼自身に委ねるしかない。別の人狼か、はたまた人間相手か。
「次に集落に話が行ったかだが、答えは否だ。そもそもお前がどこの出なのかも知らないし、そも知られたくないだろうからな。…知ったとしても言わない事にするつもりだよ」
人狼の集落は人知れず隠された場所に存在している。それは人間だけに限定されず、大抵の場合は人外にも隠されている事の方が多い。
だからこそ容易に知ることは出来ないし、知ったとしても排外的な集落が多い為、知りたいことをすぐに知れるわけではない。
仮にどの集落の出なのかが解ったとしても言わないのは、ただのお節介だ。
「最後にどうすれば良いのか、だけど、こんなの答えようがあるか。悪いと思ってるなら少しでも償いの為に動いてみろ」
これは本当に、俺自身に判断出来る事ではない。すべては楼門士という人狼が計画し起こした行動なのだ。すべての責任は彼が追い、償いは彼がしなければならない。
俺はこれ以上彼が何かをしないか監視するだけで、その行動自体に責任を持つわけじゃない。仮にそれを持つ時が来たのなら、今度こそ楼門士という人外を滅する必要がある時だけだ。
「そう、か。そう、だよな…」
3つの問いにそれぞれ答えられ、楼門は俯きながら聞いていた。結局の所どうするのか。それは彼自身の選択に委ねるしかないだろう。
紅茶をまた一口飲み、口の中に溜ってきた唾と一緒に飲み込む。
「…オレ、この場所を残してても良いのかな。皆を騙して、自分の目的の為だけに集めたのに…」
「答えようがないな。残したくないならスッキリ畳んで消えればいい。…それさえも後ろめたさが残るなら、続けるしかないんじゃないか?」
「なんだよ、どっちを選んでも後ろめたいじゃないか…」
「そんなモンだよ、生きる上での選択ってのは」
出来る事は、悔いのないように選び続けるしかない。いつしか慚悔(ざんかい)に後ろ髪を引かれても、それに負けないように。
「冷たいなァ、蒼鬼さんは」
「これでも君より長く生きてるんでね」
苦笑いを浮かべる彼女に返すのは、冷めた笑顔。人間としての歳は20と少しだが、それだけでも辛い結果は見てきた。語る事ができれば冷たくなろう理由も解ってもらえるかもしれないが、知られたくないという思いもある。だから何も言わない。
「…さて、そろそろお暇するよ。お会計、良いかな?」
「はいはい」
席から立ち上がり、伝票を手に取りレジへと向かう。楼門もそれに着いてきて、会計をしてくれた。
「…ありがとう、蒼鬼さん」
「お礼を言われるようなことはしてないつもりだけど…?」
「大あり。殺さないでくれて、ありがとう」
「左様で。…じゃあ、またな」
如何なる選択も、生きていなければ行えない。こうして悩む事ができるだけ幸運なのかもしれないと、楼門は考えたのだろうか。
そんな感謝の意を受けながら、こちらに視線を向ける朱那に手を振って男娘倶楽部を後にした。
結論から言えば、これ以上男娘倶楽部で起きた事件と言えば、口喧嘩とかカップを落として割ったとかの、日常に起こりうる事件だけに収まったようだ。
楼門は会員たちの間を執り成し、倶楽部の運営を続けていることを朱那から聞き、安心はした。
…一先ずは、この事件はこれで終わりと相成った。
が。
手元には、レシートと一緒に渡された1枚の紙。書かれていたのは日時と場所だけ。
時刻は1週間後の夜9時、倶楽部の前。で、そこに向かうと楼門が居た。
「…これ、どういうつもりかな?」
「オレが蒼鬼さんにお返しできる事って何かなって、考えててさ。退勤後のお誘いだよ」
そういえば前に言ってたな。まさか楼門がされる側でなく、する側に回るとは思っていなかったが。
「…付き合ってくれるか?」
おずおずと聞いてくる楼門を前にして、仕方なしにため息を吐き出す。
「身体で返すってのは別に要らないからな?」
「そんなー。だったら何で返せって言うのさ!」
「暇潰しとかデートとか、そんな程度の理由で良いって。…それとも」
ずい、と一歩前に出て彼女の顔をじっと見ながら、
「本当に体を求めるとか思ってるとでも?」
「…違うの? 自慢じゃないけどスタイル良い体してるでしょ? ムラッと来たりしない?」
「するかっ。そういうつもりだったらこのお誘いはキャンセルさせてもらうぞ」
胸の辺りを強調しているつもりだが、生憎と楼門の肉体美はスレンダーに寄っている。決して無い訳ではなく、確かにスタイルは良かったりするが、そういう問題ではない。
「ま、待ってって! そういう事言わないから! だからね、ちょっと付き合ってくれて良いだろ? ねっ?」
そんな俺の手を掴んで止めようとしてくる楼門。人外だが女体化している事もあり、そこまで引っ張ってくる力は強くない。
ずるずると引きずりながら離れようとする所に、こんな言葉が投げかけられた。
「…お願いだから、“オレ”を出せる相手になってくれよ、忌乃さん。ずっと会長やってると、普通にできる相手が欲しいんだよ!」
「それくらい朱那に言えば出来るだろうがっ」
「出来ないんだって! 那々ちゃんを前にするとなんだか気恥ずかしくって…、カッコつけたくなって会長ぶっちゃってさ…」
「…ほーー?」
少し聞き捨てならない事を言いだしていたが、まぁさもありなん。朱那に色々と興味があるのだろう。理由としては今しがた言ってくれた通り、格好付けたいからなのだろうが。
「…まぁ良いさ、愚痴位なら聞いてやる」
「ホント!? やった! ありがとう蒼鬼さん!」
喜びと共に腕を絡めてくる辺り、楼門は女性としての武器を理解してるんじゃないかと思うのだが、さもありなん。会長として女として動いてれば、武器も知るか。
溜息を吐きながら仕方なしに、夜通し彼の個人的な愚痴、そして倶楽部に対しての苦労話を聞くことになるのだが、その内容は後日に回そうと思う。
こんな判断にするような後悔も、まぁ良いだろう。
普段は女として生きる人狼の少年とは、こうして出会った。朱那に対して想いがあるのは結構な事だが、報われるのか否か。それは解らない。
だが彼が、悔いのない選択をする事を祈りながら、俺達は夜の街に向かっていく。
どうやら今日の夜も長そうだ。
了
今俺は、とある高級な会員制クラブに来ている
理由としてはどうということはない、朱那に誘われたからだ。あと、ここの支配人から仕事の依頼を受けたから。
資産家の娘という立ち位置を得ている朱那は、こういった場所に入り込むことにさしたる苦労を必要としていない、…のだが。
向こうの席にはお嬢様のような格好の客がいて、 色とりどりのチャイナドレスやらバニーガールやらが給仕をしていて。
その向こう側にいる人々も、これ見よがしに日本の日常生活ではとんと見かけないような姿をしていて。その誰もが、一見して誰もが目を見張るような美女揃い。
いやね、俺自身ももうちょっとオープンなら、とか、この身が鬼じゃなかったら夜を共にしている、とか、考えるのは男としてごく普通の事だ、うん、きっと間違いない。
…問題は、ここの従業員が、全員、元・男ということ。
そう。ここの名は「男娘(おとこ)倶楽部」。一見すると男の娘専用のサロンかと思えばそうではない。客も従業員も、「女になった男」のみという、秘密の組合なのだ。
しかし俺こと、蒼の鬼・蒼火は身も心も男である。何故こんな所にいるのかを詳しく話すため、三日前に遡ることにしよう。
* * *
三日前。
家の庭で連続した金属音が鳴っている。朱那の体調確認のため、簡単な手合わせをやっている最中だ。
とはいえ、俺も朱那も、日常会話の延長を交わしながら、ではあるが。
「のぅ蒼火、ちと相談したい事があるんだが、いいか?」
大太刀を振るいながら声がかけられる。今じゃ朱那の手元は、普通の人間では見えない速度になっている。
「この状態でいいならな」
かく言う俺も、高速で迫る太刀を1つずつ完全にいなしながら応える。
朱那の刀と俺の手の甲とが当たる度に、金属音。
一秒の間に5~6回。近くにいる存在は耳鳴りを感じてしまうらしい程の速度を鳴らしながら。
「構わん、そのままで良いから聞け」
「へいへい」
とは交わしつつも、剣戟と拳撃の金属音は止まらない。
「最近、私が入会した倶楽部があってな、そこで厄介な事件が起こってるというのだ」
「あんさね、不思議なことって?」
「…うむ、具体的に言うとだな。…女が襲われてしまう」
「それはまた、厄介な事件ではあるな。あにか詳しい情報とかは「らしい」、らしい? まさか話しに聞いただけか?」
「うむ、情けないことにな。私自身まだ事に対面してはいないのだ」
「ほぅ。…それを俺に話すってことは、こっちの仕事か?」
「恐らくはな」
ギン!と音が鳴り、剣と拳の交差が止まる。
俺が設立した、オカルト系も引き受ける何でも屋「忌乃心霊調査室」。そこに依頼がやって来たという事か。
立ち合いがひと段落し、俺も朱那も構えを解いた。彼女は三尺以上ある大太刀を鞘に仕舞いながら話を続けてきた。
「店長…いや、会長か。そちらには話を通すので、行ってほしいんだ」
「なるほどね…。で、そこの住所とかは?」
「あぁいや、場所を教えても構わんのだが…実はそこ、秘密の倶楽部でな…、私の口添えが無いと入店すらできないんだ」
「一見さんお断りとか?」
「いや、そうでなくて…。特定の存在しか、入れなくてな…?」
なんだかいきなり朱那がしおらしくなった。普段は勝気なくせに、言いにくい事を言わなければいけない場合、途端にもじもじしたりして少女臭くなる。
そんな様子が面白いのと可愛いのとで、あえて先を促さず、言葉を待つ。
「……そ、その、なんだ。…えぇ、とな…?」
…じー。
「あぁ、と…。その…、な? 少し、言いにくいん、だけど…」
………じー。
「怒らないで、聞いてくれるか…?」
あ、そろそろ限界っぽいな。ちゃんと話を聞くか。
「怒るかどうかは内容にもよるが、しっかりした話ならちゃんと聞くぞ?」
「あ、あぁ。…で、その倶楽部に入る為の条件なのだがな…?」
* * *
とまぁ、こんな経緯で話を聞き、最終的には依頼を承諾する事にしてここにいる。
今は紹介者の朱那と一緒に、ここの会長を待っているのだ。
表の顔として経営されてる店で、というのは…。ビジュアル的に、ただの男ならばとてつもなく嬉しいだろうが、真実を知っている俺としては居心地が悪い。
来ておいてなんだが、帰りたくなった。帰ってこの間の人間が突如人外に変生する事件の内容を纏めていたかった。アレめんどくさかったなぁ…。
しかし此処に来た手前、居心地悪いからと帰るわけにもいかない。おまけに、飲み物の注文もしておいたのだから尚の事だ。
「あぁもぉぉぉ…、なんだこの無節操なコスプレクラブ…」
頭を抑えながらこの現状にため息を吐きだしていると、横から白い腕と共に飲み物が差し出されてきた。視線を向けると、金髪でチャイナドレス姿の女性が俺の注文を持ってきてくれたようだ。
「まぁまぁお兄さん、落ち着いて? はい、ご注文のアッサムティーよ?」
「どうも…」
暴れても仕方ないのは理解しているし、話を聞かない限りは仕事を引き受けていいのかもわからない。
出された紅茶の味を調えるためにピッチャーのミルクを入れて混ぜ、砂糖は無しで一気に呷る。
ごくり。ごく、ごく、ごく…。
あぁ…、うまい。いい茶葉使ってるし淹れ方も文句ない。これなら普通に紅茶だけで店開けるんじゃね?
「すいません、おか…、…ん?」
2杯目を頼もうと思えば、周囲からなぜかクスクスと笑い声が聞こえてくる。
耳を澄ましてみると、
「あの人全部入れちゃったわよ…?」
「それじゃあきっとすぐね…」
「どんな子になるのかしら…」
とか聞こえてきやがったよ。チクショウあにか一服盛りやがったな!? ちょっと頭にきた。気で髪の毛がふわり、と宙に浮き出す。
その妙な雰囲気を察したのか、対面に座っている朱那が、ぽつりと口を開く。
「…その、なんだ。すまん、蒼火。……ここのミルクを男が飲むと、女になってしまうんだ」
「そういうことは先に言えぃっ! あぁもう全部飲んじゃったよ…、それはそうと、おかわりお願いします」
近くを通ろうとしていたバニー姿のウェイトレスに、頼み損ねていた2杯目を注文する。周辺の客や従業員のご期待に添えぬようで悪いのだが、生憎俺の身体に毒は効かないのだ。
朱那に会う前に引き受けた事件で毒を扱ったものがあり、
『ペロ…、これは青酸カリ!』
そんなこともあったのだが、死にはしなかった。死ななかっただけで死ぬほど悶えたが。鬼万歳。これなら神便鬼毒酒にも耐えられんじゃね? あ、いやダメか。あの酒呑童子も討ち取られたって言うし…。
「お待たせ。たくさん飲んで、可愛い女の子になってね?」
と言われながら出されても、まさか毒の効かない体質だとは言えないので、苦笑いだけを返すしかない。
ミルクを入れて2杯目を飲み干した。やっぱり味は変わらず美味しい為、毒が効かない事を差し引けば「どうでもいい」と思えてくる。
対面で朱那がじっと、不安そうな視線で見ている。
「あー…、これで落ち着いてしまう心って、かなり切り替えができてるもんだなぁ…」
「それで落ち着けるというのもどうかと思うが…、…平気なのか?」
「あにが?」
「その、体のことだが…、変わったりはしないか?」
「あぁ平気平気、こんなんで変調きたすほど軟な体じゃないよ」
体が変わった気もしないし、変わるような気配も見せない。…あにかあったら怖いが、まぁその時はその時。
ろくに死なない身体だからこそ、生きることさえ道楽になってきているのが恐いのだ。
「それならいいのだが…。いざという時は、私の魔羅を貸すぞ」
「想像したかないわ、ンなシチュエーション。…あ、すいません、おかわりお願いします」
しばしの間の後、3杯目が提供された。言わずもがなミルクを入れてかき混ぜる。
「ねぇ、さっきからミルクばっかりだけど、お砂糖はいらないの?」
さっきから俺に紅茶を持ってきてくれる、スカートの丈の短いチャイナドレスを着た金髪の店員が声をかけてきた。
「甘いものを飲みたい気分じゃないんでね。お気遣いどうも」
「砂糖も入れると、甘い声が出せるようになるわよ?」
「ぶ…っ」
口をつけた瞬間に耳打ちをされる。あやうく紅茶を噴き出しそうになった。
「だから良いですってばっ。それに俺は効きませんし…」
「ありゃ、そうなの? さすが那々ちゃんのお友達の蒼鬼さん♪」
「…あんですと?」
あ いきなり人の正体を囁かれた事が気になり、朱那の方に視線を向けると、
『すまん、私とお前が鬼だとか言ってしまったんだ』
とばかりに頭を下げていた。
「……朱那、後でお尻百叩き」
「か、勘弁してくれ蒼火っ、私とて言いたくて言ってしまったんじゃないんだ。入会の際に女になった理由を言ったり、お前を紹介する際に言う必要があっただけなんだ! ……許してくれると嬉しい」
お前、いつの間に上目遣いとか覚えやがった…。
ため息をついて、また紅茶を呷る。空になったカップを見て、まだ耳元に口が近い店員が囁きかけてくる。
「おかわり、もう一杯要る…?」
「あー…、お願いします」
耳にかかる息がほんの少しだけ気持ち良いのは秘密だ。
4杯目が出されて、新しく持ってこられたミルクピッチャーを傾けた。
ぐるんぐるんとかき回して…、かき回して。回して回して回して。
飲めなかった。
「ねぇ見て見て、蒼鬼さんの髪の毛すごいサラサラ!」
「うわホント! 妬ましいわー」
「ねぇ那々ちゃん、もしかして蒼鬼さんのお手入れとかしてる?」
「特別そういったことはしてなかったと思うが?」
「うっそー! それでこの髪の毛? ありえなーい」
「でも眼鏡って野暮ったいわね?」
「外しちゃう? 取ってみたら思ったよりカッコイイかもしれないし」
ミルクを入れて紅茶を飲み続けてる俺に業を煮やしたのか、客としてやってきていた他のクラブメンバーが集まり出した。しかもその半分が、俺の髪の毛に集中している。
…俺の髪の毛は長い。男としては殆どいないであろう、腰までのロングヘア。仕方ないんだ。鬼になったら急に伸びたんだ。切っても切っても同じ長さまで伸びるんだ。髪が炎になって放熱しないと俺の体が燃えるんだ。
で、残り半分といえば。
「ねぇ蒼鬼くん、さっきからミルクを使って飲んでるけど、女の子にはならないよねぇ?」
「不思議だね、もしかして男っぽいだけでさっきから女の子なのかな?」
「いやそれは無いっ、俺は正真正銘男っ」
「じゃあどーして女の子にならないの? 抱いてもいいから教えてよー」
「むっ、いかんぞ、最初に抱かれるのは私だ、2番目なら良し!」
「良い訳あるかぁ! 人の目の前でンな話すんな!」
髪の毛をいじる組が後ろにいるとすれば、俺の前にきている。
うわーいハーレムだ嬉しくねー。
いくら見た目がこうでも中身が男だと…、…え、朱那を抱いたお前が言うな? それを言われると返す言葉も無い。
出てきた溜息の代わりとばかりに、4杯目を胃に流し込む。姦しい会話に巻き込まれたため少し冷めていたが、それでもまだ美味い。
「あー…、すいません、おかわりお願いします」
それでも紅茶を頼むのは変わらないわけで。提供される頃には、結構痺れが切れそうになっていた。
「なぁ朱那、1ついいか?」
「む、何だ蒼火。手短に頼むぞ」
待つのと弄られるのとに若干の苦痛を感じてきたので、気晴らしに話そうと思えば、他の人たちと姦しく話してやがる朱那。
少し思い返せば解ることだったが、もうすっかり女として生きてるので、こうして「姦」の一部を担うような存在になってるわけで。
「や、やっぱ良いわ」
自然と先のセリフをナシにした。
「おかしな奴だな…」
おかしな運命で女になったお前に言われたくない。
「はぁ…、仕方ねぇ。あの店員さんに聞くか…」
口の中で消えてしまうような呟きを飲み込んで、賑やかな元男(現女)達の会話と店内のBGMに耳を傾けて5杯目を待つ。
程無くして、おかわりの紅茶が運ばれてきた。持ってきたのはやはり金髪のチャイナドレス姿の女性で、何度となく頼んだおかわりに辟易とした表情もせず、笑顔で提供をしてくれる。
「お待たせ。それにしてもよく飲むわねぇ」
「相方が会話に夢中で手持無沙汰なモンですからね。…あ、ちょっと良いですか?」
「何かしら、お茶菓子の追加注文とか?」
「それにも惹かれますが、今はちょっと脇に置かせてください」
「それじゃあ何? もしかして退勤後のお誘いとか? だとするともっと待つことになっちゃうけど良いかしら。
でもでも那々ちゃんが居るから悪いような気もするけど、浮気OKなら蒼鬼さんが私を抱いても何の問題も無いわよね。
それに男の人とは最近全然だったから、凄く魅力的な提案じゃない。うわーどうしましょ、受けようかしら、もう少し思いとどまろうかしら」
ンなこたぁ一言も言ってない!
しかしここでプッツンしては色々まずいので、なるべく抑えて、抑えて。小さく深呼吸。
「いや、それともまた、違います、けどっ。聞きたい事があるんです!」
「……何かしら?」
妄想中断されてちょっと不機嫌そうな顔を向けてくる。すいませんそんな目で見ないでください。
「ここの会長さんって、来てますか? 話を聞きに来てるんですけど…」
「え、私だけど?」
「アンタかよっ!」
先程の妄想とは真逆に、一言で済まされた。
「じっと待ってたり、皆に遊ばれてる様は見てて面白かったわよ?」
「解ってたんなら言ってくれ! どれだけ待ったと思ってるんだよ!」
「それでもしっかり待ってたじゃない。紅茶美味しかった?」
「はい美味しかったです!」
美味かっただけに待つのが苦痛じゃなかったのが悔しいなぁチクショウ…。
もう5杯目に口をつけると、俺はそろそろあんのためにここにいるのか解らなくなってきた。
「…それで依頼の話なのだけれど、さすがに他の皆がいる所では難しいから、閉店後で良いかしら?」
「勿論構いませんとも。ちゃんと落ち着いて話ができる状況であるなら、それ以上の文句は言わないさ」
例えば目の前で会話を楽しんでいる相方が、依頼の内容にちゃんと向き直る事ができるような状況であればな。
* * *
さて、時刻が過ぎて閉店後。クラスメンバーは既に全員が退店し、店の中に残っているとは俺と朱那、そして店長の女性のみ。テーブルを挟んで椅子に座り、ようやく話す体勢が整った所だ。
…彼女自身もここのメンバーの関係上元男なのだろうが、そこは気にしないでおく。気にしても始まらないし。
「改めて自己紹介させてもらうわ。私の名前は楼門士(ろうもんつかさ)、男娘倶楽部の会長をさせてもらっているわ」
「これはご丁寧に。忌乃蒼火と申します」
そんな挨拶から始まった依頼の内容だが、朱那から聞いた話をさらに具体的に説明された形になる。
倶楽部会員である女性が謎の暴漢に襲われてしまい、顔を見せなくなってしまったという話が何件も起こっている、そんな話だ。
ミルクで変身した人間は、当然の事ながら女性相応の力になってしまい暴漢への対応もできず。かといって警察に駆け込もうにも、被害の事を詳しく話せば根掘り葉掘り話さなければならなくなる。必然、男娘倶楽部の事も話題に上ろうというものだ。
こんなことを普通の警察に言った所で、眉唾どころか鼻で笑われて終わりだろう。それほどまでに信憑性が無いのだから。
男娘倶楽部のミルクを使って女性化させようものなら、あまりにも怪しい薬物を使っていると思われ捜査の手が入る事になる。それは士さんの望むところではないらしい。
「…楼門さん、ちょっとお聞きしますが良いですか?」
「答えられることでしたら」
「ミルクの効果が切れるのはどれくらいで?」
「飲み終えて約6時間。それが過ぎれば自然と元に戻れるようになっているわ」
「じゃあ被害に遭った人物は、元に戻れていますか?」
「……戻れては、いないわ」
ミルクで女性化する。それは知ったし、会員たちがあの姿になっているのはその薬効のせいだろう。それがどんな力を持っているのかは分からない。しかしその薬効が抜けるものだというある種の確信はあった。
だが、被害者は全員が戻れていないのだという。
「この倶楽部は色んな人の息抜きの為に作った所よ。普段の生活で窮屈な思いをしている人間が、ある種の変身願望を満たすための場所。
女の子になって楽しむための、そんな安らぎの場所として作ったのだけれど…」
「加害者にとってはそんな事はお構いなし、と…」
「…それに、特別女性として性交をしたって何が変わるわけでもないミルクなのよ? 時間さえ守ってればメンバー同士のお楽しみだって認めてるし、それで戻れない人は出なかったわ」
「なるほど…」
ふむ、と少し黙考する。
敢えてこう言うが女性同士での行為で戻れない訳ではない。だが被害者は全員戻れていない。それは何故か。
「…わからないな」
判断材料が少なすぎる。具体的な被害者の言葉が無いままに思考を重ねていった所で、答えなど出るはずもない。
すると先程まで黙っていた朱那が、身を乗り出しながら士さんの手を握った。
「会長、この件はきっと私と蒼火が解決してみせる。だから安心して待っていてくれ」
「ありがとう、那々ちゃん。こうして蒼鬼さんを連れてきてくれたこと、感謝しているわ」
喜んでくれている楼門さんを前にして、朱那はやる気に満ち溢れている。考えてみればそれも納得できるだろう。
“女になってしまった男”という、よく探したところで見つかる事が無いだろうカテゴリの存在達。それが集まる個所は、朱那にとって仲間が見つかったことに等しい。例えそれが一時的な女体化であったとしても。
メンバーの誰がどれほどの意気込みを持って女性になり切ろうとしているのか、それは解らない。それでも、一時的であったとしても、似た存在がコミュニティを作っていると知ったことによる喜びは、俺にも1つ覚えがある。
同じ鬼の集落を見つけた時、そしてそこに受け入れられた時。得も言われぬ喜びと、同時にそれを感じる自分におぞましさを覚えてしまった記憶が。
もはや鬼としてしか認識されていない事。人間とは「違う存在」という境界線を挟んだ向こう側に行ってしまったことを、まざまざと理解してしまったのだから。
…いや、この考えはやめよう。苦い記憶をわざわざ掘り起こす必要はない。今やるべきことは、この依頼の達成なのだから。
「…………」
…所で、気になったのが一つ。
男娘倶楽部では永続的に女になった朱那にも門戸が開かれた。女になりたい男だけでなく、女に“なった”男にも。
楼門さんが倶楽部を立ち上げた理由は現状不明だが、何かしら理由があっての事なのだろう。
* * *
Side:朱那
古い刑事ドラマで、操作は足で行う物だという話を小耳にはさんだ事がある。人から話を聞いていく為にも、直接顔を突き合わせる必要はあるだろう。電話という便利な代物があるにはあるが、だからといってそれに頼り切って良いものではないだろう。
顔の見えない会話というのは念話でも覚えはあるが、電話を扱うとなると途端に難度が上がっていくのは気のせいだろうか。
さておき。
既に被害者の数は7人。被害が出ているという事は聞いていたが片手で足りない人数に達しているとは思わず、そこは驚いてしまった。まさかそこまで被害者がいたのだという事にも気付けず、会長に言った手前不甲斐ないと想わんばかりだ。
その内の一人、茅ヶ崎睦己(ちがさきむつき)に話を聞きに行くことにした。彼は現在元に戻る事もできず、仕事は休職し、会長の手配したアパートに隠れるように住んでいる。
確かに男に戻れなくなってしまったならば、男として住んでいる住所に等戻れる筈も無い。かと言ってどこかに住めるかと問われれば、何者であるかという証明も出来なければ賃貸も難しかろう。
そんな彼らに手を差し伸べてくれた会長には、感謝の念に絶えん訳だが。
「さて、ここか…」
教えて貰ったアパートの一室、名札に「茅ヶ崎」と書かれている部屋の前に立ち、インターホンを鳴らす。少しばかり経って、室内から足音が鳴って扉が開かれた。
中から出てきたのは当然ながら女性。引き締まったプロポーションをした、ショートカットで活動的な美女だ。予め貰っていた写真と外見の一致する彼女は、茅ヶ崎さんその人だ。
名乗るのは人としての名前、そして事件の調査の為に作ってもらっていた名刺を差し出す。
「突然すまない。忌乃心霊調査室の七菜那々です」
「あぁ…、会長から話は聞いてるよ…。事件の話だろ…?」
「話をあまりしたくないだろうとは思うが、少しでも早く解決するために、できれば話を聞かせてほしいんだ」
「……だよ、な」
事件の話を出した瞬間、痛々しく苦い思い出があるのだろう。顔を顰めながら茅ヶ崎さんは視線を逸らしてきた。
「茅ヶ崎さんがあの事件でどれ程の苦痛を感じたのか。何も知らない私はそれさえも計り知ることはできない。
でもできれば、これ以上被害が広がってほしくないとも思ってる。…聞かせてもらえないだろうか」
「……」
生憎と言葉を飾る事は得意ではなく、思った事を言うしかない私だが、それでも茅ヶ崎さんは理解してくれたのか。扉を大きく開いてくれた。
「入ってくれ。…俺がわかる範囲で良ければ、話すから」
「すまない。ありがとう」
失礼します、と告げて室内に入り、居間に通される。
女性が住んでいるには殺風景な部屋は、なるほど確かに男が住んでいる部屋と言われても納得できる雰囲気を漂わせている。茅ヶ崎さんが着ている服も、女性が着るにはブカブカな男物の服を身に着けていた。
少し考えれば、それもその筈。彼らは着の身着のままでここに保護されているのだ。可能な限り元の部屋から服を持ってきても、全て男物であるのは仕方ないだろう。
「それで…、あの事件の事だったっけ…」
出されたお茶を前にし、茅ヶ崎さんはぽつりと話し始める。
事の起こりは一月ほど前。一番最初の犠牲者として茅ヶ崎さんが狙われてしまったようだ。
男娘倶楽部から出て行って、ミルクの効果が抜けるまであと1時間という頃合。早めに家に戻り薬が抜けるのを待とうとしていた時。事件の前触れといった特別な事は起こらず、本当に唐突に襲われた。
「襲ってきた存在は…、多分男だったんだと思う。けどそれ以外が普通じゃなくて…」
曰く、背後から襲われて姿を見た事は無いのだが、唸り声のような音しか出さず、これといった発言は無し。掴まれた腕には鋭い爪が生えており、人間ではあり得ないほどの毛むくじゃら。
抑え込まれた際に付けられたであろうその爪痕を見るに、確かに爪の長さと深さから、人間ではない気配を感じることはできた。
だが、具体的に「何者なのか」はわからない。
「成程な。他にも何か思い出した事があれば、教えてほしいんだが…」
「他にも何か…」
考えるように顎に手を当て悩む茅ヶ崎さん。次の言葉が出てくるのを待つしか無く、少しばかりもどかしい気分もするが、焦りは禁物だ。
無理矢理に思い出そうとすれば、何か別の記憶と関連付けがされて、それを真実と思い込むこともあるという話を蒼火から聞いた事がある。だから焦らせず、考えを遮るように言葉を告げる。
「あぁいや、無理に今すぐという話ではないんだ。思い出せば辛いこともあるだろうし…、私としてもそれを望んでいる訳ではない。茅ヶ崎さんの心の傷を広げたくはないのだ」
「…ありがとう。でも話せる事で解決する道が見えるなら、どうにかして話しておきたいんだ」
疲労と苦悩を綯交ぜにしたような表情は、他にも自分のような被害者を見てきた影響だろうか。背負う必要のない物を背負っていると言わんばかりの感覚がしている。
「…思い出せるのは、やっぱり恐かった事だな。何もしてないのに突然女として襲われて、…俺は男なのに、どうして、という感覚がして…」
組み敷かれて犯される。本来ならば男である彼がするべき行為をされてしまう。一方的な暴力としての性交には縁が無いだろう。ましてされる側など。
私が蒼火に抱かれた時は合意の上だったし、何より優しくされていた記憶がある。その時でさえ恐怖を感じていたのに、茅ヶ崎さんたち被害者の思いは如何程だっただろうか。
「でも、それ以上に恐かったのは、襲ってきた相手だけじゃないんだ…。犯されて、女として襲われている内に、どんどん気持ちよくなっていった事と…」
茅ヶ崎さんは青褪めた顔で、その恐怖を溜め込みたくないと言わんばかりに吐き出してくる。
「注ぎ込まれた事に喜びを感じてしまった事が、一番…、恐ろしかった…」
男娘倶楽部に通っている人間は、並べて「一時の女性を楽しんでいる男達」で、戯れに抱き合ってもそれは同好の士達だ。そもメンバー同士での絡みであっても男であることを理解した上での行為、しかも見た目は互いに女であるのだから、さほど気兼ねはする物ではないだろう。
「…すまなかった、茅ヶ崎さん。言いたくない事を言わせてしまったみたいで」
「良いんだ…。できればこれ以上の犠牲者が出ない事を願ってるよ…」
…なるほどな。女としての覚悟も出来てなければ、注ぎ込まれる事さえ恐怖か。
私の場合は既に「那々」として生きる事を決めていた為、それが喜びであったのは確かだが、そうでなければ想い感じる事も違うのだと。
まして彼らは女であることは「一時の遊び」なのだ。だからこそ突き付けられた現実に、彼らは恐れ慄いている。自分たちが何になってしまっていたのか、という現実を。
冷めてきたお茶を流し込みながら、覚悟を決める。これ以上の被害を出すわけにはいかないと。
茅ヶ崎さんに礼を言い、その脚で隣の部屋に向かう。全員から可能な限り話を聞いて、証言を集めていく。少しでも解決の糸口になる様な情報を集める為に。次の事件を起こさない為に。
だが哀しいかな。その日の夜にまた一件、会員が襲われるという事件が起きてしまった。
* * *
Side:蒼火
事件が起きた人の翌日、日の高い時間帯。男娘倶楽部に顔を出す。
問題は決まっている、新しく増えてしまった犠牲者の事だ。
それ自体は楼門さんから電話で聞いたが、詳しい話を聞くためにこうして倶楽部に足を運んだわけだ。
ノックを3回。中から反応がある事を確認して扉を開けると彼女がいて、テーブルを拭いている姿が見えた。
「失礼します。楼門さん、お話しお聞きしました」
「お待ちしてました、忌乃さん。簡単な事は電話でお話ししましたが、詳しい内容はまだお話ししてませんよね?」
「えぇ、それを訊く為にお邪魔しに来ました」
「邪魔をするんでしたら帰っていただけます?」
「帰ってよければ好き勝手調べますけどね」
「それは困るわね。今回被害に遭った子もウチのアパートで保護してるから、忌乃さんを不法侵入者にする事になっちゃいそう」
「ですので正当な手段で情報を得る為に、あなたに訊きたいんですよ、楼門さん」
お互いに顔を見合わせ、にんまりと笑い合う。勿論彼女が言った事も本心ではないだろうし、俺自身正当な手段で情報が欲しいのは確かだ。可能な限り波風は立てないに越した事はない。
掃除の終わった椅子に座り、テーブルを挟んで楼門さんが座る。出されたのは紅茶で、傍には意地でも俺の“その姿”を見るのだとばかりにミルクピッチャーと砂糖壺が1つ添えられている。勿論俺だけに出している訳ではなく、楼門さん自身の手元にはコーヒーが存在していた。
「…今回被害に遭ったのは、最近ここに入ってきた子よ」
「お名前は」
「本江永作くん。表はジムの職員をしている子で、鍛えた体に見合わない小さな女の子になってたわ」
「その情報要ります?」
「大有りよ! みんなウチに来てくれる可愛い子達なのに、彼女達が被害に遭うなんて許せないんだから…!」
傍から見て解る程、痛いくらいに手を握り込んでいる楼門さんの内心には、憤りが渦巻いているのだろう。
「…随分とお怒りの様ですけど、それでも楼門さんはこの倶楽部を開けるんですか?」
「それは勿論開けたいわ。だけど…、こんな風に襲われてしまうんだったら、事件が解決するまで閉めざるを得ないかもしれないわね」
「でしょうね…」
一つしかないミルクピッチャーを傾けて、楼門さんはコーヒーの色を明るくした。憮然とした表情のままにコーヒースプーンを動かして混ぜ込んでいる。
何故か犯人はここに通っている人間ばかりを狙っている。朱那から聞いた最初の被害者が一月前ほどで、今回の事件も含めて8人が既に襲われてしまっている。
倶楽部にはそれこそ何十人と所属しているが、「何故彼等だったのか」と考えても意味はないだろう。俺は犯人ではない、今は理由を考えるだけ無駄だからだ。
「それで、その本江君に関して詳しいお話は聞ける状態ですか?」
「流石に無理ね、昨日の今日よ? ショックも大きいし…、茫然としているわ」
「…確かに、そうなるだろうな」
「みんなそうよ。全員のケアをしてはみたけど、それでも“理解”できる人なんているかどうか。…茅ヶ崎くんだって、最近どうにか折り合いを付けらてきた、位だもの」
被害者にはなれないが、その心境に寄り添う事はできる。勿論その被害に関しては推し量る事しかできないし、男としてのアイデンティティを崩されればそうなるだろう。自殺にまで発展しないのは、彼女自身のケアのおかげだろうか。
すぐに聞きに行くのは無理そうだからこそ、彼女から色々と話を聞かなければならない。
楼門さん自身はミルクを入れたコーヒーカップを傾け、溜息を誤魔化すようにふぅと大きく息を吐いている。するとすぐに顔をあげて、彼女はこちらを見据えてきた。
「…率直に聞くわ、忌乃さん。この事件の犯人に何か心当たりとか、思い当たる所か出てきてない?」
「これまたハッキリと。でもそうですね…、少なくともいくつかの証言を朱那から聞きましたが、それから推察するに、確実に人間じゃないでしょうね」
楼門さんの質問に対して、こちらもハッキリと答える。茅ヶ崎さんから聞いた話を中心に、朱那が聞いてきた話を纏めれば見えてくるものがある。
唸り声を聞いた。
毛むくじゃら。
爪。
まず総合するが、これで人間だったら俺は人間の定義をゴッソリ書き換える必要がある。
その上でこれを人間じゃないと仮定し、何者であるかを類推する。
恐らくは獣人。獣になれる人、あるいは人になれる獣。人狼や人虎といった、人とも獣とも言いきれない存在。
「…そんな存在がいるのね。正直、忌乃さんの事も“そういう設定”だと思ってたわ」
「笑い話にできたり、家系とかに箔が付いたりする程度なら、“そういう設定”でも構わなかったんですけどね」
半信半疑といった様子の楼門さんだが、恐らく間違いはないだろう。
だからこそ考えを「こちら側」にシフトしていかなければならない。ただの人間の仕業であったのなら、鬼の身である関係上手加減をしなければいけないからだ。
鬼と人間との身体能力差は大きい。例え人間が武器を持って掛かってきても鬼は容易くあしらえるし、鬼が持つ金棒は人間の2人3人程度では持ち上げる事すら叶わない代物だ。
お互いの間にはそれほどの力量差があり、余程の事が無い限り人間は鬼に勝てる事は無いだろう。だからこそ俺は手加減をする必要があった。
(…だが)
相手が人狼、同じ土俵の人外であるならば手加減をする必要は無いだろう。
「…忌乃さん、忌乃さん?」
そう考えていると、ふと声を掛けられて、意識を楼門さん相手に引き戻された。
立ち昇り始めてきた気配を抑えながら、聞こえない位の咳払いをして彼女の方に向き直る。
「…どうかしましたか、楼門さん」
「いえ、少し目が恐かったものですから。…何を考えていたんですか?」
「…まぁ、簡単ですよ。少し本気にならないといけないかなと…、そんな事を考えてました」
実際に犯人を見るまで断定はできないが、仮に獣人が当の犯人であった場合、人間の出る幕は無い。勝てる筈の無い勝負はさせられないし、させるつもりもない。
だからこそ俺が、鬼が本気になる必要がある。
「……」
決意を一つ固めていると、視界の端で楼門さんがこちらを見ているのに気付いていた。
視線を向けると、どこか慌てたような様子で再びコーヒーカップを傾けていた。
…ミルク、ね。
* * *
Side:朱那
忌乃家。蒼火の住む家にて、忌乃心霊調査室の拠点。只人の視界から隔絶する結界の張られた日本家屋は、静けさに満ちている。そこで私達は顔を突き合わせていた。
「下手人は恐らく獣人…。やはり蒼火もその考えに辿り着いていたか」
「そりゃアレだけあからさまな証言があればな。一応、獣人に偽装している別のあにか、という考えは捨ててはいないけど…」
「だが、現状では獣人が優勢と見る訳だな」
「ん、そゆこと」
私が作り上げた被害者の名簿と証言の一覧。蒼火はその資料へ視線を落したままに頷いていた。
その表情は決して気を抜いている訳ではない、真剣な表情だ。
証言を集める中でどうしても気になった事を蒼火に問う事にし、資料を横にずらさせ蒼火の目を見やる。
「幾つか理由を問うても?」
「構わんよ」
「では一つ。動機は何だと思う?」
「わからん。正直いくつか考えてるが、これだと言うのが思い当たらないな」
少しばかり驚いた。てっきり蒼火の事だからある程度の目測は付けている者だと思っていた。
「何故だ、動機もある程度考え着いてはいるのだろう?」
「それも直接犯人に訊いてみなければ、推理するだけしか無いんだよな。…直接被害者の皆さんに会えれば、もう少しあにかわかったかもしれないが…」
「仕方あるまい。全員男の姿を見るのも嫌だと言う程に心的外傷を負っていたのだぞ?」
「だよな」
ふぅ、とため息を吐きながら蒼火は眼を閉じる。その後に少しばかり後頭部を掻きながら、聞き捨てならない事を言ってのけてきた。
「俺だって女性の姿に変化できない訳じゃないが…、だからといってそれを積極的に使うってのもな、と思うんだよ」
「む、その話詳しく」
「やだよ、絶対横道にずれるんだから」
く…っ、本当に詳しく聞きたかったのだが…。これはこの事件が終わった後に訊くしかないな。
「仕方あるまい、いずれ機会がある時に聞かせてもらうからな」
「はいはい」
あっさりと頷いているが、恐らく話す気は無いな? 絶対に後で訊かせてもらおう。
しかし今は依頼の話だ。気になる事を頭の片隅に置いて、本題に向き直る。
「…だが蒼火、それでも私は動機についての推察が聞きたい。可能性の話になるが、念頭には入れておきたいのだ」
「そか。…推察の一つとしては、繁殖だな。被害者は全員女性、例外なく襲われている。
狩りと考えるには命を取ってないのは腑に落ちないし、被害者が女性でなければいけない理由を考えると…、まぁ、そこに行き付いた訳だ」
「繁殖? まさかそれだけでか?」
少しばかり驚いてしまった。何の変哲もない営みでしかない事で、こんな事件を起こすのかという疑問が私の中に浮かび上がってきた。
もちろんその答えは、蒼火がきちんと用意してくれていた。
「現代の獣人たちから見れば、それだけじゃないんだよ。…人間が広く分布してしまった関係上、それは死活問題になってるんだ」
「何故…、いや、何故でもないのか…?」
私の頭の中に浮かんだのは、人類の版図の拡大。那々の体に入り歴史の教科書を開いてみれば、人間は思っていた以上に数を増やしていた。
途中の戦争もあったが、その欠落を埋めるように産み増えて地に満ちて、人間は数を増やしていったのだから。
「思い当たってくれるならあによりだ。現時点で地球の覇者は人間で、科学の叡智で人外の住処を狭めていけば…、隠れざるをえない人外達は、自然と出会いも限られてくる」
「各々の集落で血を繋ぐのもありではあろうが、それでも先は見えているような物か…」
「そういう事だ。必然的に血脈を外に広げるしか道はない。そして揺り篭が多ければそれだけ子供が増える」
「血脈は繋ぎ、集落に戻れば獣人の氏族は賑わうか。道理だな」
生物が繁殖していくにあたり、遺伝子が近い者同士の交配は良い結果にならないと言われている。それを踏まえて考えてみれば、血脈を繋げる為の相手を外に向けていくのは道理だ。
あるいは欠落を補い合い、あるいは長所を伸ばし合い、そうして外に向けての血脈は続いていく。
「…病院で詳しく調べてみないと分らないが、間違ってないんじゃないかと思うよ」
「成程な…。理由を並べられると、確かにと思う所がある」
「だが、まだ解らない所がある。何故倶楽部の人間だったのかという所だ」
「それは、確かにだが…」
これも頭の片隅で思っていた事だ。何故被害者は全員男娘倶楽部の人間だったのだろう。
どう考えてもこれが解らない。
「現状倶楽部は閉められてるから、ミルクを使った女性は現れない。被害者はこれ以上広まらない筈だが…」
「さすがに男を襲った所で子を孕ませることは出来んだろう」
「映画の中だけで十分だ、ンな話。…だからこそ、朱那は身の回りに気を付けてもらいたい」
「む、何故私なのだ?」
「いや考えてみろよ。お前は現状唯一、ミルクを使わなくても女の体だぞ? もし犯人が“これ以上”を望んだ場合、矛先はお前に向くだろうと思ってるんだよ」
「…確かに、そうだな」
これは言われて気付いた。確かにそうだ。
私自身が既に女である関係上、下手をすれば孕むのでないか。…蒼火とした時もその可能性は僅かに考えてはいたが。結局子は出来なかったのだが。
仕方あるまい、鬼の出生率は元来そこまで高い物ではないのだ。シたい放題という訳ではないが、それでも出来ない事の方が大半なのだから。
「だが、仮に獣人と鬼とで子は孕むのか?」
「わからない。前例がないし、聞いた事も無い。…だが、可能性は無い訳じゃ無いだろうな」
「下手をすれば孕まされるまで慰み物、か」
それこそ孕まなければ、死ぬまで。
考えてしまった現実を思うと、やおら犯人に対して憤りが増していく。女性相手に自らの暴力を誇示し、そして孕ませようとしている。
許せぬと思ってしまった。絶対に放置してはおけぬと、改めて。
同時に、獣人という大きな可能性の前に、消してはいけない可能性を鑑みて一つ、蒼火に問う。
「だが一つ聞かせろ。…仮に下手人がただの人間だった場合はどうする?」
「そこは安心しろ…、としか言いようがないな。俺は人間は殺さないし、殺すつもりもない。……人間だったならな」
静かに告げた蒼火の瞳には、決意の炎が灯っている。
蒼火は人間相手ならば殺さない。かつて那々、私の体になった少女を襲った呪術者であっても、牙を抜くだけで殺しはしなかった。
甘いと思われるかもしれない。が、こうした決意は往々にして我々の行動、そして精神に対しての大きな指針にして楔となる。
逆に人間でないのならば。
この段階で、ある種の結論は見えていたのかもしれない。
* * *
Side:蒼火
時刻は夜。朱那にあぁ言った都合上、俺が彼女の身辺警護をしない訳にはいかない。…しない訳にはいかないのだが、俺は現在別の場所に身を隠している。
場所は簡単、男娘倶楽部の所在地だ。
朱那自身の肉体は人間でも、鬼としての力が身に染みわたっている。仮に獣人が襲ってきたとしても、抗えない程ではないだろう。
それと同時に朱那が襲われたとしても、無理せず一報入れるよう伝えてはおいた。少し前の朱那なら一人でどうにかしようとしていただろうが、犯人を逃がさないようにする都合上、1人より2人の方が成功確率は高いだろう。それを理解できない訳ではなく、渋々ながら肯いてくれた。
「……」
風下。弱く吹いている風は、倶楽部の中に誰もいない事を教えてくれている。
誰もいない。会長である楼門さんと、言われてもやってくる聞き分けの無い会員。そのどちらも。
…俺がここに潜んでいる理由はそれだ。女性としての快楽を知ってしまった会員が、倶楽部休止という状態でも我慢できずにやってくる可能性が無いとも言い切れなかったからだ。
俺自身身をもって知っている女性の快楽は、男の身から思えば麻薬のような甘美に満ちている。それほどまでに強く激しく悦楽だが、それは嵌れば抜け出せない泥沼のようなものだと、彼等は気付かない。
だからこそ、女の快楽に脳を犯された男たちがやってこないか、俺はこうして見張っているのだ。
視線は携帯に落として弄るフリをしつつ、意識だけは逸らさず倶楽部の方に向けている。
何分何十分立とうと、誰も来る気配は無く、朱那からの連絡もない。無いが…。
(さて、杞憂で済んでくれれば一番だが…)
心中で願うも、そうは問屋が卸さないのは世の常だろうか。手にしていた携帯が震え、着信を知らせてきた。
表示された名前は朱那。何かあったかと思い、通話状態にする。
「どうした朱那、あにかあったか」
『いやまだだ。先程から不穏な気配を感じていてな、万一の事を考えて蒼火に連絡をした』
帰ってきた声は確かに彼女のものだが、その声は囁くような小ささだ。
「…人外の気配はするか?」
『する。人間相手なら隠せているのだろうが、私相手なのが問題だったな。勘付けたよ』
「そのまま移動して、出来るだけ人気のない場所に移れるか?」
『やってみよう。この付近だと…、稲荷が仕切る場所があったな。そこに向かうとしよう』
この世には「人外同士の厄介事を人知れず解決する為の場所」という物がある。彼女は“領域”と呼ばれるそこに向かうと言っている。
例えば人気のない神社。例えば結界の張られた空き地。例えば人目のつかない高架下。そんな場所が人目に隠れる様に点在し、いざという時の場所になっている。
頭の中で稲荷が管理する個所をいくつか思い浮かべ、朱那から現在位置を教えてもらい、場所を特定する。
『…すまん蒼火、そろそろ奴が動く気配を見せ始めている。切っても問題ないか?』
「わかった、両手は空けておけ。…それと、殺すなよ?」
『無論だ、そこを忘れる程私は愚かではないぞ』
「だったら良い。気を付けろよ」
その会話を最後に、通話は途切れた。
朱那の武器は大太刀。片手で振るう事が出来なくはないが、些か難しい代物である為に、電話をし続けているのは辛いのだろう。
襲撃者の戦法は未知数だが、朱那が戦える体制を整えておかなければ、万一が存在する。それは避けておきたい。
仕方なしに路地裏に飛び込み、人の目が無くなった所で空間に穴を開ける。
鬼の中には術式を使う者も多数存在しており、俺も数は多くないが使用できる術式はある。これはその一つの空間跳躍。平たく言えばワープだ。
…だが俺自身、こうした術式に素質が無いため、いくつもの難点が存在している。「一人でしか跳べない」のが最たる物で、人外である必要がある、知ってる場所、あるいは他者の気配を察知出来た所にしか跳べない、など。
他にもいくつかあるが、その全てを語る程の内容ではない。左手に魔力を籠めて中空を撫でると、うっすらと空間の裂け目が口を開いた。
裂け目へ飛び込み、身を出す。そこは既に稲荷の管轄だが、誰の気配もない。
それはつまり、現在この近辺で誰もトラブルを(力尽くで)解決しようとしている人外がいない事であり、問題無くここを使えるという事だ。
(これは好都合だな。が…)
朱那はまだここに来ていない。おびき寄せるように動いているなら、すぐに来ている筈は無いだろうが、それでも今彼女がどこにいて、ここからどれだけ離れているのかを知る術はない。
僅かに考えて結論を出す。…迎えに行こう。
稲荷の“領域”を飛び出して、周囲の気配を探る。街中に於いては比較的自然の多い所に存在している“領域”だからこそ人の気配は少なく、朱那たちが居ない事を察する事ができた。
脚を曲げ、跳び上がる。一番高い木の枝に脚をかけ、幹を掴む。高鼻で周囲の空気を嗅ぐと、雑多な臭いが鼻を衝く。
木々や青草、土のにおいが一番近く、そこから離れていく程に人工物の臭いが強くなり、それらをかき消すように人間の臭いが漂っている。
その中から朱那の臭いを嗅ぎ分けるというのは、正直至難の業でもあるのだが、やらない訳にはいかない。
集中し、臭いを嗅ぎ分けていくと少しずつ近づいてくる匂いを感じた。風下の方からやってくる匂いは二つ。女の臭いと、獣の臭い。片方は朱那で、もう片方が襲撃者だろう。
木から降りて“領域”内に身を隠し、待っていたい所だが…。そうはいかないだろう、という1つの予感が頭をよぎっていた。
風向きから向こうにも「何かがいる」という臭いは感じ取られている筈だ。流石に鬼の感覚も鋭敏だが、獣人のそれと比べられたら勝つのは難しい。
(…仕方ない、行くか)
走り出し、朱那の匂いがした方向へ向かう。
動くこと暫し。先ほど過った予感は間違っていなかったようで、近づいていくにつれて金属音が聞こえる。
二つの影が動いているのが視界に入り、その内の片方が朱那だというのは見て取れるようになった。そしてもう片方。
朱那より薄暗がりにいる為、詳細な外見を見るのに苦労はするが、それでも見えてくる姿。
迫っているのは灰毛を纏った狼。いや、狼というには歪な姿に見えるのは、二足歩行をしていたからだろうか。本来直立しない狼は二足で立ち、こちらに向けた爪を光らせている。
確信した、コイツは人狼だ。
「朱那!」
「遅い! 向こうが痺れを切らしたようだぞ!」
彼女に声をかけるとキレられた、解せぬ。
人狼と対峙している朱那に反論もせず跳び上がり、髪の毛を炎に変じさせる。自慢じゃないけど長い黒髪が発火し、蒼炎を灯す。
右手に纏わせ、拳大にまとめた火焔弾を人狼に向けて1つ撃ち出した。
「でぃえいっ!」
空気の爆ぜる音が熱気を伴い、人狼に迫る。だが奴は朱那から距離を攻撃をかわす。
「もういっちょ!」
逃げる人狼を追うように、今度は左拳に火焔弾を作り撃ち込む。
「…ッ!」
しかしそれも同様に避けられた。触れようとしないだけ、リスクを冒すつもりはないという事か?
そうして距離を取った人狼と朱那の間に着地し、人狼の視界から朱那を遮るように立ち塞がった。
「朱那、下がれ」
「何故だ、私も戦えるぞ?」
「あちらさんは基本的に朱那狙いだ。俺が盾になるから、少し距離を取ってろ。応戦は奴が俺を飛び越えた時だけでいい」
正直な事を言えば、朱那はあまり強くない。肉体は徐々に人間を辞めているものの未だ人間の範疇で、人外との戦闘を考えれば脆弱な代物だ。
おまけに彼女の体を奪うにあたり、大事にしろとも言われている。
「…わかった、少し下がる」
そこに負い目があるのか、朱那は5mほど下がり、更に人狼との距離を開けた。
(正直人狼が一歩で合間を詰められそうな距離ではあるが…)
それでも距離が無いよりはマシだ。
両の拳に火焔を纏わせ、放つための準備をする。
「…ッ!!」
やはり狙いは朱那であるのか、人狼は声も上げずに距離を詰め始めた。俺の火焔弾は避ければいいと考えているのだろう。
「だが!」
両手の爪に焔を纏わせ、手を軽く広げ交差する様に薙ぎ払う。
細く伸びた蒼焔が網のように広がり、突っ込んでくる人狼に直撃した。
「ガ…、ッ!」
それでも突撃は止まらず、邪魔をするなとばかりに突き出された左爪が俺へと迫っていた。
瞬時に構えを取り直し、右手の甲で爪をはじく。
止められた事に気付いたが止まらぬ突撃を前に、右爪を再び振り上げてる。
爪を揃えて突き出された手を、白刃取りの要領で掴み、止めた。
「グゥ…ッ」
「悪いねぇ…、朱那に手を出させるわけにはいかなくってな…!」
力を込め突撃を阻み、間近に迫り、先程の炎で僅かに焦げた人狼の顔を見る。
確かに人の姿を辞めているバケモノの姿で、ちょっとやそっとで止まる事は無いだろう、というある種の決意に満ちた瞳をしている。
だからこそ止めねばならない、というのは俺の中には存在している。
両拳で人狼の腕を握り、右腕を折ろうとする。
「グァルッ!!」
しかしそれを阻むように、開いていた人狼の左爪が俺を狙う。人外用の簡単な防御を施していた服ごと右肩に爪が刺さり、痛みが走る。
同時に左爪が捩じられ、痛みがさらに強くなると同時に、
「げ、はッ!」
人狼が両後脚で俺の腹を蹴り飛ばしてきた。流石に後脚の分だけ力は強く、はき出す息と共に力が抜けて、掴んでいた人狼の右手を放してしまった。
「…ッ!」
距離を取られ、視線は俺を見据えたままの人狼だが、先程みたいに軽んじている物は無い。俺をひとかどの脅威と見たようで、遠くの朱那に向ける以上の意識の偏りが見て取れた。
俺も両手を腰だめに、左手で攻撃すると言わんばかりに右半身を前に突き出すような半身に構えを取る。正直右肩が痛くて腕が上げられないが、ハッタリ含めての姿勢だ。
「……」
「……」
互いに見据えて、時は5秒を刻む。
「でぃえいっ!」
「グルァッ!!」
飛び出したのは全く同時で、俺は人狼の身体めがけて、人狼は俺の左肩をめがけて…、ではなかった。
打ち込もうとして身を低く屈めたその隙を見逃さず、人狼は俺右肩に左足を乗せ、足場にしたのだ。
「…ッ!」
痛みが走る。同時に後頭部めがけて、人狼の右足による蹴りが叩き込まれた。押し出されるようにつんのめり、体制を崩してしまう。奴の狙いは、
「朱那っ!!」
最初から彼女の方だった。
俺から離れていた朱那の方に人狼が迫り、爪を突き出している。抵抗されていたならば最早手加減の必要無しとばかりに、爪と牙をむき出しにして襲い掛かって。
「む…!」
八相の構えから人狼の突撃に合わせるように踏み込み、思い切り大太刀を振り下ろした。
中空で身をよじり、人狼はそれを避ける。回転によって軸がずれてしまい、人狼は朱那の横を通り過ぎて彼女の後ろに着地した。
同時に蹴りが来る。無防備になってしまった朱那の背中に蹴りが見舞われた事で、朱那は俺と同じように前へとつんのめった。刀を放さない事だけは僅かにひやっとしつつも、しかしそれ以上に人狼の追撃は無かった。
跳び上がり、俺達の事を一瞥もせずに夜の闇の中に消えていったのだ。
気配が消えてしばし。朱那がもう脅威は無いと感じたのか、大太刀を鞘に仕舞いこちらに向かってきた。
「…蒼火、奴は逃げたのか?」
「多分だけどな」
「奴を追えるか?」
「問題は無い。さっきの攻撃でマーキングは出来た」
火焔の網で少しばかり焦げた体毛。その焔は俺自身が出した者であるがゆえに、その焦痕を辿る事は難しくなく、それ以上の物理的な繋がりも作る事はできた。。
だがそれ以上に思う事があり、俺は朱那の方を見て告げる。
「…それと、朱那は来るな」
「何だと? また私をのけ者にするつもりか?」
朱那が“朱那”として生きるに至った事件の時、鬼としても今以上に未熟だった彼女を置いていこうとした時もある。それを見越して“また”なのだろうが、今回は明確に理由がある。
「そうじゃない。お前が目標になってる関係上、ついていけば下手しなくても狙われるんだぞ?」
「だが1人で行ってどうするというのだ、先程のように逃げられればイタチごっこを繰り返すぞ?」
「そうだな、言葉が足りなかった、すまん。…一緒には来るな」
「一緒には…?」
「あぁそうだ。俺は先に行って奴が逃げた場所を突き止める。その後連絡をするから、今度は朱那が追いかけて来い」
「逃がさぬ為に、という事でいいんだな? 私を危険な目に遭わせぬように、と言う訳では無かろうな?」
コイツ、疑い深くなってるな…。だがまぁ、半分近く事実なだけにあまり強くも言えない訳で。
「…それもある。傷付くのは俺だけで良いと思ってるのもある。…あんまり朱那に見せたくないってのも、な」
「ぬ、それは…。…ただの貴様の見栄っ張りではないか」
「結局俺の我侭だって話だよ」
我を通している事に違いは無い。…朱那の体が女だからこそ、下手に残る怪我をしてほしくないと思ってるし、俺なら傷も少しすれば治る程に、体が「鬼」になっている。
痛みの引いてきた右肩を軽く抑えながら、俺はその場を後にする為に動き出す。
「んじゃ、行ってくる。朱那は帰っても良いからな?」
「誰が帰るものか」
ふんす、とばかりに鼻息を荒げる朱那。
…さすがにここからは、見せられる物じゃないからな。
* * *
焦げた臭いを追い、10分ほど駆けて向かった先。そこは先ほどまで張っていた場所、男娘倶楽部の入っている建物。
人狼がそこに逃げ込んだと分る位に臭いが残っていた。
先ほどとの違いとすれば、倶楽部の室内から電灯の明かりが漏れている。中に誰かがいるという事がハッキリと見て取れた。
「…」
約束通りに朱那に一報を入れ、場所を伝える。電話越しに『わかった』とだけ伝えて、通話は切れた。
事実がどうなのかはわからないが、朱那も焦るだろう。倶楽部に人狼が潜んでいるというのだから。
携帯を仕舞い、倶楽部の戸を叩く。返事を待たずに戸を開けると鍵はかかっていないようで、楼門さんが室内の掃除をしていた。
「こんばんは、お邪魔しますよ」
「忌乃さん? こんな夜更けにどうしたんですか? それにその肩の傷…」
「これは大丈夫ですよ。…まぁ、来た理由ですが、退勤後のお誘いってのをしようと思いましてね」
「え? あら本当? でも那々ちゃんに悪いわよ。じゃなくって、せめて肩の傷だけでも見せて? 簡単だけど救急箱はあるから、治療してあげる」
そういいながら彼女は奥に引っ込み、少しした後、手に救急箱を持って戻ってきた。
「忌乃さん、見せて?」
「…はい」
椅子に座り、仕方なしにジャケットを脱ぎ、シャツの袖を捲って傷を露出させる。楼門さんはぬるま湯で濡らしたタオルで俺の傷口を拭っている。
「酷い傷。何があったの?」
「簡単に言えば、事件の犯人に会いました」
「…本当? その話、詳しく聞いても良いの?」
「でもその前に」
楼門さんの追及を止めるように、僅かばかりに強く出した言葉の後に続ける。
「いくつか気になる事があるんですよね」
「…何かしら?」
「どうして楼門さんも、ミルクを使ってるんです?」
「…え?」
「使えば男が女になるミルク。あの時楼門さんも使ってましたよね?」
「私、ブラックコーヒーって苦手なのよ…」
「女が使っても問題無い代物、ですよね? 楼門さんも実は男ではなく?」
「…勿論よ?」
なるほどね…。
「…じゃあ次に。楼門さん、どれくらい前から倶楽部の掃除をしてました?」
「…大体1時間位前かしら。あの、忌乃さん、どうしたの?」
「率直に言えば、俺はあなたを疑ってます。楼門士さん」
10分ほど走って着いた場所に、1時間ほど前からいた? それは絶対にあり得ない。
俺がここを張っていた時間から“領域”に跳んで人狼とやりあっても、10分経っていない。ここに来るまで20分位しか経過していないのに。
「…冗談は好きじゃないし、嫌いよ? 何を言ってるのかわからないけど…」
「でしたら、これはどういう事でしょうね?」
そう言いながら俺は自分の髪を引っ張る。
炎に変じた髪は、逆を言えば必要が無ければただの髪の毛に戻る。そしてそれを受けた存在は、
「…? 何か引っ張られてる感覚が…、ッ!」
「さっき事件の犯人に会ったと言いましたよね。その時に付けた目印なんですよ、それ」
気付くだろう。自分の腰に巻きついている一本の細い髪の毛に。
そしてそれが、楼門士の腰に続いている事に。
「しらばっくれるなら言ってやる。楼門士、アンタが襲撃犯の人狼だ」
「……」
彼女は黙り込んでしまった。顔を俯かせ、目を見せずに、じっと黙り込んで。
「…そう? そうだとしたら……、どうだって言うのさッ!!」
瞬間、彼女の腕が毛に覆われ、鋭く伸びた爪がこちらに振るわれた。身を屈めて爪をかわし、今度はこちらが跳んで距離を取る。
離れた視界で捉えた楼門さんの姿は既に人間を辞めており、先程見た灰毛の人狼に変じている。
「しくじっちゃったよなぁ…、鬼だなんて冗談だと思ってたら本当で、しかも人の姿のまま戦って? ホント失敗したよ…!」
本当は男だったのだろう。口から漏れてくる声音は男の物で、胴体部に乳房は無い。むしろ股間のイチモツが興奮か激昂かでいきり立っている。やはり奴もミルクで女性化していたようだ。
突き出された口で歯をむき出しにし、唸りながら、人狼はこちらを殺気を湛えた視線で見つめてきた。
「そこはこっちを見縊ってくれたって事だろ? それが敗因だって素直に認められれば、まだお仕置きだけで済ませてやるぞ?」
「だからってハイそうですかって認められるモンじゃないんだよ…!」
人狼が飛び掛かり、こちらに襲い掛かってきた。
こちらも両の拳を握り、構える。右肩の怪我は既に問題無い程度に治癒し、迎撃に向かう。
左爪を右拳で受け流す。
振り回される右脚を左腕で止める。
止められた右脚を軸にして繰り出された左脚は、受け流した右の肘で止める。
がら空きになった俺の顔に向かい、楼門が大口を開けて噛みつこうとしていた所、こちらも炎を吐き出して口内を焼こうとする。
それはたまらないと感じたのか、俺の体を蹴って後方宙返りをし、楼門は四足で着地する。
一瞬での四撃。ただの人間であるならばまず一撃で絶命しているだろうが、俺相手ではそれでは足りない。
構えを取り直し、楼門から目を放さずに、最後の疑問を投げかけた。
「もう1つ聞きたい。アンタは何故彼らを襲った!」
「簡単だよ、ヤったら何ができると思う?」
「…子供、だな」
「そういうこった!」
男女の性交、それを行った果てにできるもの。それは単純だ。男だけでも女だけでも、“それ”の創造には物足りない。
やはり考えは間違っていなかった。奴は繁殖の為に人を襲っていたのだ。
戻れないのは恐らく着床していたからだろう。その身に既に子供がいる為、変じた体が“戻るに戻れなくなっている”。またはミルク自体にそんな術式が組まれているかだ。
楼門は四足から二足になって立ち上がり、こちらを仕留めようと身を屈めながら、聞き捨てならない事を言ってのけてきた。
「那々ちゃんも良いと思ってたんだよ。鬼の生命力を宿した娘なら、さぞ強い子が出来るだろうってな! アンタのツバが付いてたのは残念だったけど、それでも構わないさ。オレのモンにしてやるから、さくっとくたばれ!!」
その言葉と共に飛び掛かり、俺の喉笛目掛けて楼門の爪が迫ってくる。鋭利な爪を首筋に受ければ、頸動脈を掻き切られるだろう。
頭の中で一つ、ぷちんと音がしたような気がした。
あぁ、コイツは己の目的のために他のあらゆるモノを投げ捨てている。そしてその果てに己の欲望を満たそうとしている。
…欲望を満たす。それだけなら別に構いはしない。三大欲求を満たすことに異議を申し立てる事はしないし、するつもりもない。けれどその為に他者を踏みにじり笑う事を良しとするならば、その瞬間からソイツは俺の敵になる。
何よりこいつは何を言った? 朱那を襲う?
「…そっかよ」
ざわりと髪の毛が浮かび上がる。俺もいい加減、人間の姿という枷を解く必要があるようだ。
俺の気配に構わず楼門の爪が俺の喉元目掛けて迫ってくる。
命を刈り取る爪の接近に慌てることなく眼鏡を外して瞼を閉じ、一拍後に開眼する。風が渦巻き鳴いた瞬間、日本人としての色彩で染まっていた俺の瞳と髪は変わっていた。
髪は夜だというのになお煌めく空の蒼に。
瞳は闇だというのになお輝く血の赤に。
そして額には3本の雄々しき金の角が生えた。
獣の前に鬼が立つ。しかし攻撃を避けることは無い。
ぞり、と。首筋に爪が刺さる。爪先が頸動脈に触れる直前、あと数ミリ進めば触れ切れる。そんな距離に迫った所で、
「……っ!?」
楼門の動きは止まっていた。理由は簡単だ、俺の左腕が楼門の右腕を掴み、止めていたから。
力を込めると、楼門の右腕と口から音が鳴る。二つの悲鳴は余さず俺の耳に届き、苦痛だと伝えているからだ。
「ってめ、放せぇっ!」
暴れようとするも、右腕は固定されて動かせない。出来る事と言えば爪を動かして俺の喉を掻きむしること。
爪が触れ、肉が裂かれる。傷口から血が溢れ出して俺の口の中を満たしていく。それでも俺は腕を掴む力を弱める事などせず、じぃと楼門を見据えていた。
狼顔のままに楼門の口の端が歪む。決して喜悦のそれではなく、声と同時に漏れてきたのは、
「ひ…っ」
恐怖の声だ。
瞬間、楼門の顔面に拳が落ちる。近くに存在しているが故に、腕が固定されているが故に、避けられない距離から放たれた俺の拳が、狙い過たず一撃をたたき込んだからだ。
打音と共に吹き飛ぶ楼門の体は、散乱していた室内の調度品をさらに砕き飛び散らし、轟音と共に壁に叩きつけられた。破片と木屑を舞わせながら、まだ生きていると言わんばかりに呼気を鳴らしている。
「ゲッ、ゲハ…ッ! て、めぇ…、マジになりやがったか…?」
「…………」
答える事は何もない。喉から溢れる血液が口に溜まり、喋るのも億劫だからだ。ある程度溜まった血液を床に叩きつけるよう吐き出し、僅かに確保された気道に空気を通す為、鼻から息を吸う。
その合間に楼門も体勢を整え、こちらに再び跳び掛かる姿勢を取った。
「スカしやがって…、死ねやァッ!!」
咆吼と共に間合いを詰めに来る。腰溜めにされ、今にも突き出されんとしている爪の狙い。殺気の向く個所に対し敏感になっている今なら事細かにわかる。しかし防御の構えは取らず、しかしカウンターの姿勢も見せない。
狙いは、心臓。
ぞぶり。
爪が胸板に突き刺さり、しかし止まる。
来る箇所が解っているならば、構えれば止められる。盛り上がってきた筋肉により爪は心臓に小さく突き刺さった程度で止まり、被害は最小限で済む。
だがそれだけではなかった。楼門は勢いのままに口を大きく開き、俺の喉笛目掛けて噛みつきを仕掛けてきた。
ぐちゃりと肉を食まれる音が、内側から響いてきた。
「グルルルルル…ッ!!」
喋ることができない状態の楼門が出せるのは唸り声のみで、力を緩めるつもりは無いのが見て取れる。
人狼の強さは肉体の強さだ。野生そのものの結晶とも言うべき原初の力を行使し、獲物を刈り取る強さ。それは爪だけでなく牙にもあるが。コイツは決定的な悪手を犯した。
逃げればよかったのに。
改めて口に溢れる血で喋れない俺は、内心でひとつ思っている。ここまで近づいてしまえば楼門にとって有利なのは確かだろう。だが考えつかなかったのだろうか。
その距離は俺の間合いでもあるという事に。
「ゲボァ…ッ!?」
途端、楼門の口から息と血が吐きだされる。
特別な何かをした訳じゃない。行ったのはただの寸勁。密着した状態で放たれた掌底を、楼門の鳩尾に捩じり込んだ。
突き抜けた衝撃をそのまま吐きだしたように楼門がたたらを踏んで一歩二歩と離れていく。
「……」
それを見下ろす俺の視線は、恐らくはどこまでも冷たい物だったろう。容赦をするつもりはない。今目の前にいるのは、俺が最も嫌う化生だから。
離れた距離を詰めて身を屈め、再び楼門の鳩尾に左拳を叩き込む。
「ガハ、ァ…ッ!!」
突き上げるように放った左拳は楼門の体を宙に浮かばせ、のけ反らせる。丸見えになった胴体に叩き込むため、利き手の右を握り込む。
放つは自ら鍛え備えた格闘武術。鬼の身で扱う武の技、鬼神拳。
(鬼神拳…)
狙いは一か所、心の臓。狙いを定めて捩じり込むように右の拳を突き出し、狙い過たず楼門の其処へと打ち込まれる。
ただの右ストレート。ただそれだけの技だが、打撃と同時に走る衝撃が楼門の全身を叩きつけた。
(撃震(げきしん)!!)
衝撃が走る。次いで打音が鳴った。腕に返ってくる感触は、肉が潰れる音と骨の折れる音。
繰り出された拳の勢いのままに吹き飛ばされた楼門は、受け身を取る間もなく倶楽部の壁へと強かに身を打ち付けた。
楼門の背中を中心に壁全体へ放射状に広がった罅は、攻撃の勢いをまざまざと表現している。人間が喰らえば血袋が如くに弾け飛ぶだろう一撃を受けても、楼門の体はまだ原形を保っている。ただ、胸部がへこみ壁との激突によって右腕が拉げているだけだ。
「ぁ、ぅ…」
人外の生命力は高い。人間での致命傷でも人外相手にはそうならない事が多く、まして相手は人狼、肉体の強さは折り紙付きのようだ。
壁から落ち、それでもこちらを見ているが、恐怖の表情は変わっていない。
拉げた腕を抑えながら立ち上がり、逃げようとしている楼門は人狼としての姿を辞めてしまう程に消耗しているのか、人間の姿、女性の姿に戻ってしまった。
捕まえる必要がある。少しずつだが逃げだそうとしている楼門に近づこうとすると、倶楽部の外から気配が近づいてきた。
「蒼火! 今の音は何だ、貴様ここで何をした!」
駆け込んできた気配の主は、朱那だった。
どうやら先程の一撃は、当然ながら外にも音が聞こえてしまったらしい。さもありなん。気付かれないように、という配慮が抜けてしまえばそうなるか。
「…お願い、助けて那々ちゃん…! 蒼鬼さんが、いきなり私が犯人だって言って、殴りかかってきて…!」
「む…! 蒼火。貴様、それは真か?」
室内の俺、出口の朱那とに挟まれた楼門は、状況を味方につけようとしているようだ。それは確かに、何も知らない人間が見れば、バケモノが楼門を襲っている様にしか見えないだろう。いくら童話の鬼のようにならないとはいえ、人外としての姿の俺は、確かにバケモノに他ならない。
朱那は楼門の言葉を聞いて、こちらに殺気を飛ばしてくる。じわりと刺すような殺気を、こちらは敢えて受け流す。
「それが本当だとするのなら…」
移動の際に隠されていた大太刀が姿を現し、朱那が刀を抜き放った。そして切先が向かう相手は、
「……何のつもりなの、那々ちゃん?」
楼門の鼻先一寸前。楼門の行動を制するように刀が向けられていた。
「何のつもりは此方の台詞だ、会長。貴女は何故蒼火とやり合っていた?」
「そんな事…、忌乃さんの方から私が犯人だって言って攻撃を…」
「ありえんな」
「…何を根拠に?」
「簡単だ。蒼火は馬鹿だが正直者で、言った事を違える男ではない」
馬鹿とか言うな。地味に傷つくぞ?
「例えば、人間だったら殺すつもりは無い、とな」
「…!」
楼門の視線が此方に向いた。逆説的に、人外ならば殺す、という事に気づいたのかもしれない。
「必然、会長が蒼火とやり合っていた…、やり合えていたのならば、答えは限られてくるだろう。それに…」
「それに…?」
じわりと2人の間に緊張感が走ってくる。後ずさりするように楼門が一歩二歩と下がりだす。
「隠し損ねている事に気付いてないのなら、それほど弱っているのだろうよ。獣臭さが抜けきっていないぞ」
「…っ」
朱那も人外の気配を察する事はできるし、判断する事も出来る。その結果、楼門が発している気配を感じたのだろう。苦虫を噛み潰したような表情が、楼門の後ろ姿からでも見て取れた。
「…仮に、私が人外だとして、那々ちゃんはどうするつもり?」
「私の答えは一つだ。会長、貴女から詳しい話を聞きたい。事情があるのならそれもだ。…頼む、話してくれ」
刀は下げず、姿勢はそのままに朱那は楼門に縋るように話していた。彼女は倶楽部に来ていたため、俺より彼女との関係は長い。だからこそ、なのだろうが…。
喉元に再び溜まってきた血を吐きだすと、楼門は諦めたような、開き直るような声音を出す。
「そう…、那々ちゃんは蒼鬼さんの味方という事ね…?」
「という事も何もない、私は最初から蒼火の側だ」
「だったら…、邪魔だよ!」
残った力を振り絞るかのように、再び人狼態に変わった楼門は、拉げていない左腕で朱那に一撃を見舞おうとした。
その背に火焔弾を打ち込もうとしたが、それより早く、
「ガ、ぶ…ッ!?」
朱那の大太刀、その峰が楼門の顔面を叩いていた。そのまま峰は前傾姿勢になっていた楼門の背中に当たり、押し込み体を倒した。
楼門の左肩に右足を乗せた朱那はすぐに刀を返し、刃を楼門の背に押し付けていた。
けれどそこに押さえつける以上の力はなく、斬りつけるつもりもない様子でだ。
「動くな、会長。これ以上動こうというのなら、私は貴様を斬り捨てるつもりだ」
「…………」
「…斬らせないでくれ。…頼む」
「…わかったよ。…あーぁ、ここまでか…」
それに観念したのか、楼門の体から力が抜けるのが見えた。
* * *
Side:朱那
場所を変え、忌乃家に会長を連行して話を聞くことに相成った。
居間にて、緑茶が乗っている卓袱台を囲んで私達3人は座っている。怪我をしている2人の体には既に包帯が巻かれているが、放置しておけば自然と傷が治る人外の身で、それが必要な状態でいられるのはいつまでだろう。
喉に怪我をし、掠れた声になった蒼火が話を聞き始める。
「…で、詳しい話だけど、お聞かせ願えるかな?」
「アンタにはもう言っただろ。人を襲ったのは単純に…、子供を作る為だったんだよ」
「そりゃ確かに聞いた。…けど気になる所が一つある。どうしてわざわざ襲ってまで子供を作ることに執着した? 外からの血を入れる為なら、相手を人狼化させる事も出来たはずだろ?」
遠い昔、話に聞いたことがある。人狼は他者を襲い、被害者を自らと同じ人狼にする事ができる者も存在していると。
もし会長がそれを出来るのだとしたら、もっと事件は単純で、しかし秘匿されていたのではないだろうか。
被害者といった形で公になる事もないだろうし、ともすれば人狼の里で保護してしまえば憂いなく子を成せるだろう。当然ながら「元の人間」は失踪する形になってしまうが、それでも無闇に捜索するだけで見つかるものではない筈だ。
けれどその手段が取れない、取れなかったのだと会長は言う。
「それが出来るのは大人の人狼だけだよ。俺みたいな、子供の人狼じゃ“まだ早い”んだと」
「…子供だと? 会長が?」
「そう見せかけてるだけさ。…本当の年齢は、那々ちゃんとほぼ同じかそこらだからな」
ミルクの効果が切れたのか、会長の姿が変わっていく。大人の姿の女性から、まだ幼さを残した少年への姿に。
確かに外見年齢は私と同じか、もしくは少し年若い位だろう。乱暴そうにも見える、会長としての外見とはかけ離れた容姿を見て、やはり驚いてしまう。
逆に蒼火は理解していたのだろうか、驚く様子もないまま質問を続けていた。
「成程ね。だから方法がこんなに乱暴だったわけだ」
「乱暴なのは認めるけどね。けど他にどうしろって言うのさ」
無事な右手を忌乃家のちゃぶ台の上に乗せ、ドンと叩きつける。人外の膂力に打たれても罅1つ入らないその硬さは驚く他ない。
そんな私の驚きをよそに、会長は拳を握り締めながら、奥歯を噛み締めながら、鬱憤の籠った声を吐きだしていた。
「自分達じゃ人狼を増やすつもりも無いのに、子孫をどうするか集落をどうするか、長老たちはずっとそんな事ばかり言ってたよ。滅ぶのを良しとする爺さんまでいる始末だ。そのくせ村の一番年下のオレにばっかり期待をおっ被せてくる。わかるか? 周りから『応えろ』とばかりに期待を向けられる重圧と、何を言っても変わろうとしない連中が! もううんざりしたんだよ!」
「…だからって、関係ない人たちを襲って子供を産ませれば済むと、考えたのか?」
「あぁそうだよ! 子供を作れば、集落の未来とやらが出来れば奴らは喜ぶだろうさ。だから子供を作って放り投げて、オレはオサラバさせてもらうつもりだった。だったのにさ…」
その考えは蒼火に打ち砕かれた。…もっと正確に言えば、蒼火を連れてきた私に。
「…本当の鬼が出てくるだなんて、思っちゃいなかったんだけどな」
「そこは考えが足りなかったな。私が鬼の力を持っていたことを、会長は気付いていたんだろう?」
「まぁ、な。…正直、誤魔化せると思ってたし、何かあっても勝てると思ってた。けど…、ダメだったな…」
そのまま会長はうなだれてしまい、ため息を深く吐きだしていた。絶望というにはまだ遠かろうが、目的は阻止された事で、会長の頭の中には諦念が渦巻いているのだろう。
肩を落とし蹲るその姿が、どこか捨てられた子犬のように見えてしまう。それは恐らく同情になるのだろう。会長の事は倶楽部内でしか知らないが、それでも少しだけ交流はあった。その分だけ情が湧いてしまうのも仕方ない。
甘いと蒼火に言われそうだが、最初から仕事の関係で居た蒼火とは事情が違うのだ。
「…蒼火」
「わかってる。今後どうするかって話になるんだよな、つまりはさ」
「こういうのも、あまり良くないが…。すまん、会長の事も少し慮って欲しい…」
「……」
蒼火は何も応えない。頭を掻きながら瞳を閉じて、どうするのかを考えているようだ。
対する会長はうな垂れたまま、溜息と共に言葉を吐き出す。
「好きにしてくれよ。どうせオレには発言権も無いんだ、結局どこでも同じさ…」
じぃと2人を見てしまう。蒼火がどんな言葉で問うのか、会長はそれにどう応えるのか。
「…じゃあ、幾つか訊きたい事がある」
緑茶を飲み、口を湿らせた後に蒼火は問いを投げかけ始めた…。
* * *
Side:蒼火
今俺は、とある高級な会員制クラブに来ている
理由としてはどうということはない、朱那に誘われたからだ。あと、ここの支配人の監視も兼ねてではある。
…結局と言うかどう言うべきか。俺は楼門への処断を後回しにした。
朱那から言われた事もある。ここの存在を恃みにしている人間の事もある。いくつかの理由が絡み合って、この空間を破壊する事を辞めたのだ。
「相変わらず良く来るね、蒼鬼さんは」
「そっちが良からぬ事を考えてないか、気にしてるからだよ。それに…」
支配人こと楼門の提供する紅茶をストレートで飲みながら、多めに一口を呑み込む。
「紅茶の味が気に入ったってのもある。他にもいくつか理由はあるけど、聞くか?」
「是非。気になるモンでね」
楼門自身も「男」だという事は、既に倶楽部の面々には周知の事だったようで、楼門はすっかり男の口調に戻して俺と会話をしている。
提供後に厨房へ戻る事も無く、俺の座ってるテーブルの対面に座り、じぃと俺の方を見てくる。
「朱那がここを気に入ってるから。使ってるミルクの出所を探るつもりもあるから。後は被害者のアフターケアも含めて。
大きなところはこんなモンだ」
理由としては大まかにこの三つ。
朱那がここを気に入ったというのは本当だし、楼門自身への情もあるのは見て取れた。それを無視して楼門を潰すというのも、こちらとしては宜しくないと考えたからだ。
ミルクの出所に関しても、現在は追加で追っている状態だったりする。人間人外問わずに女性化させるミルクなど、一個人で用意するのには限界がある。別の組織が用立てしていると考えた方が自然だろう。
そして被害者のアフターケアに関しても、楼門がアフターケアをしている関係上、彼女が真犯人だと言ってしまえば、彼女等の精神的負担は計り知れないものになると思ったからだ。出来得る限りに彼女等には、事件は記憶の底に埋めてもらう…、もしくは気にしない所まで忘れてもらう。そのつもりだ。
この場合の問題は犯人の所在になるが、そこは俺が無能の烙印を受ければ済む話だ。ここの会員が俺を頼る事を考えたくないし、いざとなれば本気で動いて汚名返上すればいい。そう考えている。
「…色々考えてるんだな」
「考えなきゃこんな仕事やってないよ」
「はいはい、それに比べてこっちは考え無しでしたよ」
ブーたれながら自分の分のミルクティーを飲んで、楼門は女性時の姿を保とうとしている。こういうのもなんだが美人である為、不満そうな表情でも絵になってしまう。
「どうだかな。悪知恵だけは働かせてたろうに」
「それ、ちょっと酷くない?」
「やった事を考えてから言って見ろってんだ」
「確かにそうだけどさ…」
バツの悪そうな表情をして視線を逸らす楼門を横目に、別のテーブルに座って楽しそうに話している朱那を見る。
相も変わらずここの会員たちは思い思いの服を着て、それぞれが一時の「女」を楽しんでいる。
その横には写真で見た茅ヶ崎さんも居て、ある程度心の整理はつけてくれたのかと考えてしまう。
「…んで、ここに来てる時の朱那の様子は、どんな感じだ?」
「見てる限りいつもと変わらないというか…、男っぽく?振る舞ってるよ。みんなの相談にも乗ってたりするな」
「そっか」
「那々ちゃんの事、気になったりするの?」
「そりゃするさ。普段アイツは見た目通りに振る舞ってるからな。自分が出せる場所が多くあれば、下手に悩むことも無いだろうと思ってるよ」
「…見た目通りか」
普段朱那は、人間として学校に通っている都合上、「人間の少女」として振る舞う必要がある。普段と違う仮面ばかり被らせていても、精神面に負担が来るのはむべなるかな、といった所だ。
だからこそ素を曝け出せる場所をある程度作り確保しておきたい。そんな考えの元、ここを残す判断をしたのだが、それ自体は間違ってなかったのかもしれない。
「…そういや忌乃さん。こっちもいくつか聞きたい事あるんだけど、聞いていい?」
「構わないよ。あにが聞きたいんだ?」
「俺の子供はどうしたのか、ってのと…、俺は今後どうすれば良いのか、ってのと…。後、俺の集落にこの話は行ったのかどうか。…この3つかな」
楼門の問いは、どれも至極真っ当な物だ。彼自身が起こした事でもあるし、気にならない訳にはいかないだろう。
だからこそきちんと答えるべきだと思い答える順番を考える。どの方向が一番いいかだが…。
「んー…。順番に答えるが…。まずお前の子供は、全員堕胎させた。おかげで水子が産まれてしまったが…、それは別方面で死神に任せてる。きちんとした形で子供が産まれる時、転生する手筈になってるらしい」
被害者の全員には、ミルクの解毒剤と偽って堕胎薬を飲ませた。被害者たちは妊娠した子供が楔となっていた様で女性化が戻らなかったらしく、堕胎薬を飲んだ数日後に全員が元の男性に戻る事ができた。
当然ながら子供を殺した事で、「産まれなかった子供の霊」、水子が誕生してしまったが、処遇は言葉の通りだ。知り合いの死神がぶつくさ言いながら閻魔庁に水子達を連れていき、時が来るまで眠らせておくとの話になった。
これから楼門は最低でも8人の子供を作らなければいけない訳だが…、その相手が誰になるのかは彼自身に委ねるしかない。別の人狼か、はたまた人間相手か。
「次に集落に話が行ったかだが、答えは否だ。そもそもお前がどこの出なのかも知らないし、そも知られたくないだろうからな。…知ったとしても言わない事にするつもりだよ」
人狼の集落は人知れず隠された場所に存在している。それは人間だけに限定されず、大抵の場合は人外にも隠されている事の方が多い。
だからこそ容易に知ることは出来ないし、知ったとしても排外的な集落が多い為、知りたいことをすぐに知れるわけではない。
仮にどの集落の出なのかが解ったとしても言わないのは、ただのお節介だ。
「最後にどうすれば良いのか、だけど、こんなの答えようがあるか。悪いと思ってるなら少しでも償いの為に動いてみろ」
これは本当に、俺自身に判断出来る事ではない。すべては楼門士という人狼が計画し起こした行動なのだ。すべての責任は彼が追い、償いは彼がしなければならない。
俺はこれ以上彼が何かをしないか監視するだけで、その行動自体に責任を持つわけじゃない。仮にそれを持つ時が来たのなら、今度こそ楼門士という人外を滅する必要がある時だけだ。
「そう、か。そう、だよな…」
3つの問いにそれぞれ答えられ、楼門は俯きながら聞いていた。結局の所どうするのか。それは彼自身の選択に委ねるしかないだろう。
紅茶をまた一口飲み、口の中に溜ってきた唾と一緒に飲み込む。
「…オレ、この場所を残してても良いのかな。皆を騙して、自分の目的の為だけに集めたのに…」
「答えようがないな。残したくないならスッキリ畳んで消えればいい。…それさえも後ろめたさが残るなら、続けるしかないんじゃないか?」
「なんだよ、どっちを選んでも後ろめたいじゃないか…」
「そんなモンだよ、生きる上での選択ってのは」
出来る事は、悔いのないように選び続けるしかない。いつしか慚悔(ざんかい)に後ろ髪を引かれても、それに負けないように。
「冷たいなァ、蒼鬼さんは」
「これでも君より長く生きてるんでね」
苦笑いを浮かべる彼女に返すのは、冷めた笑顔。人間としての歳は20と少しだが、それだけでも辛い結果は見てきた。語る事ができれば冷たくなろう理由も解ってもらえるかもしれないが、知られたくないという思いもある。だから何も言わない。
「…さて、そろそろお暇するよ。お会計、良いかな?」
「はいはい」
席から立ち上がり、伝票を手に取りレジへと向かう。楼門もそれに着いてきて、会計をしてくれた。
「…ありがとう、蒼鬼さん」
「お礼を言われるようなことはしてないつもりだけど…?」
「大あり。殺さないでくれて、ありがとう」
「左様で。…じゃあ、またな」
如何なる選択も、生きていなければ行えない。こうして悩む事ができるだけ幸運なのかもしれないと、楼門は考えたのだろうか。
そんな感謝の意を受けながら、こちらに視線を向ける朱那に手を振って男娘倶楽部を後にした。
結論から言えば、これ以上男娘倶楽部で起きた事件と言えば、口喧嘩とかカップを落として割ったとかの、日常に起こりうる事件だけに収まったようだ。
楼門は会員たちの間を執り成し、倶楽部の運営を続けていることを朱那から聞き、安心はした。
…一先ずは、この事件はこれで終わりと相成った。
が。
手元には、レシートと一緒に渡された1枚の紙。書かれていたのは日時と場所だけ。
時刻は1週間後の夜9時、倶楽部の前。で、そこに向かうと楼門が居た。
「…これ、どういうつもりかな?」
「オレが蒼鬼さんにお返しできる事って何かなって、考えててさ。退勤後のお誘いだよ」
そういえば前に言ってたな。まさか楼門がされる側でなく、する側に回るとは思っていなかったが。
「…付き合ってくれるか?」
おずおずと聞いてくる楼門を前にして、仕方なしにため息を吐き出す。
「身体で返すってのは別に要らないからな?」
「そんなー。だったら何で返せって言うのさ!」
「暇潰しとかデートとか、そんな程度の理由で良いって。…それとも」
ずい、と一歩前に出て彼女の顔をじっと見ながら、
「本当に体を求めるとか思ってるとでも?」
「…違うの? 自慢じゃないけどスタイル良い体してるでしょ? ムラッと来たりしない?」
「するかっ。そういうつもりだったらこのお誘いはキャンセルさせてもらうぞ」
胸の辺りを強調しているつもりだが、生憎と楼門の肉体美はスレンダーに寄っている。決して無い訳ではなく、確かにスタイルは良かったりするが、そういう問題ではない。
「ま、待ってって! そういう事言わないから! だからね、ちょっと付き合ってくれて良いだろ? ねっ?」
そんな俺の手を掴んで止めようとしてくる楼門。人外だが女体化している事もあり、そこまで引っ張ってくる力は強くない。
ずるずると引きずりながら離れようとする所に、こんな言葉が投げかけられた。
「…お願いだから、“オレ”を出せる相手になってくれよ、忌乃さん。ずっと会長やってると、普通にできる相手が欲しいんだよ!」
「それくらい朱那に言えば出来るだろうがっ」
「出来ないんだって! 那々ちゃんを前にするとなんだか気恥ずかしくって…、カッコつけたくなって会長ぶっちゃってさ…」
「…ほーー?」
少し聞き捨てならない事を言いだしていたが、まぁさもありなん。朱那に色々と興味があるのだろう。理由としては今しがた言ってくれた通り、格好付けたいからなのだろうが。
「…まぁ良いさ、愚痴位なら聞いてやる」
「ホント!? やった! ありがとう蒼鬼さん!」
喜びと共に腕を絡めてくる辺り、楼門は女性としての武器を理解してるんじゃないかと思うのだが、さもありなん。会長として女として動いてれば、武器も知るか。
溜息を吐きながら仕方なしに、夜通し彼の個人的な愚痴、そして倶楽部に対しての苦労話を聞くことになるのだが、その内容は後日に回そうと思う。
こんな判断にするような後悔も、まぁ良いだろう。
普段は女として生きる人狼の少年とは、こうして出会った。朱那に対して想いがあるのは結構な事だが、報われるのか否か。それは解らない。
だが彼が、悔いのない選択をする事を祈りながら、俺達は夜の街に向かっていく。
どうやら今日の夜も長そうだ。
了