俺の名は清彦。しがない高校2年生だ。正確にいうとつい半年前まで清彦「だった」。
今は「久保田 百合子」と名乗っている。成績優秀、胸は・・・、まあ人並みだけど、
それでも運動神経抜群で、今は体操部で精を出している。今度試合に出してもらえる
から、おのずと練習にも気合が入る。先生や、皆からの期待には応えないとね?
おっと、お客さんだ。
「ごめんなさい。少しお手洗いに行ってきます」
「あいよー!」
気軽な感じで他の部活の子たちとも話せるようになった。正直、ここまで来るのに
ものすごい苦労した。俺は文字通り、百合子という存在を生まれ変わらせたのだ。
で、そのお客さんというのが・・・、
「清彦君。私に何か用?」
「返せよ・・・。俺の身体返せよ!!」
元の俺の身体もすっかり変わり果ててしまった。身体は弛み、髪はボサボサ、
ここからでも口臭が漂ってくるような始末。顔はニキビだらけだし・・・。俺の時、
こんな適当じゃなかったんだけどなぁ。
「返せって・・・、貴方が飲んだ入れ替え薬が1人1回しか使えないのはよく
知ってるでしょ?」
「うるさい!黙れ!」
そうやって掴みかかろうとしてくるけど、そんな鈍足じゃ今の私は捕まえられないよ?
妹と一緒に毎朝走って、ちゃんと手入れもして、体操も真面目に取り組んでるんだから。
「なんで、何で俺が・・・!」
「何でって、貴方ちゃんと俺の身体と向き合ったの?ただ、隣の芝は青いってだけで
俺を選んだんだから、その報いは受けなよ」
「ふっざけんな!てめぇ!」
相変わらず掴みかかろうとしてくる。段々、男っぽい部分だけ俺に染まってるな。
「こら!何してる!!」
あ、先生が来た。よりによって生活指導のゴリ岡だ。きっとこってり絞られるだろう。
「清彦君が因縁付けてきて・・・」
「久保田か。お前もここ最近大変だな。こいつと何かあったか?」
「いえ、私は特に何もないんですけど・・・」
先生はそれだけで納得してくれた。自分としてはいつも通りに振舞ったが、それでも
素行はかなり気を付けてきたつもりだ。元々のお前が背負っていた評判は、もっと
もっと悪かったのだから。
「うるっせぇ!あいつが!あいつが!!」
「お前!いい加減にしろ!前はお前そんな奴じゃなかっただろ!」
そうやって清彦君は引きずられていった。これじゃその内捕まるかもしれないな。
そんな元「俺」を見ながら俺は部活に戻っていく。先生を含めてみんな心配してくれる。
実際、親身になって相談に乗ろうとしてくれる友達も多くなった。それだけ、心配して
もらえる存在になれたというのがとても嬉しかった。
俺は半年かけてこの身体と、久保田百合子という存在と真剣に向き合い、今の地位を
築き上げた。正直なところいま、この身体を返せと言われても返すつもりは
全くない。少なくとも、俺の身体を適当に扱い、あそこまでダメにしたあいつ
とは、交渉の余地さえない。
――半年前に勝手に身体を入れ替えたのはお前だろ?「百合子」
――――――――――――――――――――――――――――――――
半年前の俺は、今のような見た目じゃなかった。もっと痩せていたし、それなりに
鍛えてもいた。勉強にも真面目に取り組んでいた。それが実を結んだかはまた別の話
だが、少なくとも「普通の生徒」ではいたつもりだ。これといって特徴のない顔立ちで、
特徴のないただの男子生徒だと自分では思っていたが、人並み程度に身だしなみにも
気を使っていたし、友人関係もそれなりに築けていた。
ただ、垣根は低かったんだと思う。だから昔から誰とでも、それなりに話すことは
出来ていた。たぶん俺の人より優れている所を挙げろと言われるとこのくらいだった
と思う。それは今の身体になってからも「百合子」の美徳として根付いている。
結果的にこうなってしまったのも、この性格が原因だったのかもしれない。
他にも色々と辛いこともあったし、不満もあったけど、それでも自分の人生だからと
真っすぐ向き合い、それなりに楽しみながら生きてきたつもりだったし、これからも
そのつもりでいた。
自分の築き上げてきたもの、身体、人生、すべてが奪われたあの日までは。
* *
その運命の日は、百合子と日直を務めていた。当時の百合子は髪はボサボサで伸ばし放題、
目は半分隠れていたし、顔はニキビの跡も残っていたが手入れもせず、身体も太っていた、
それでいて性格は人を寄せ付けず、何を喋ってるのかもよくわからないような奴だった。
他の女子たちからも結構無視されていたような気がする。
そんな中、それでもある程度会話を成立させられたのが俺であった。自分に自信がない子
なんだろうと思い、なるべくあれやこれや話題を振るうちに、少しずつだけど自分のことを
話してくれるようになっていった。彼女曰く
・両親からも妹からも嫌われている。特に妹は性格が最悪。
・本当は学校だって来たくない
・どうにか「自分を変えたい」
とのことだった。俺はそんな彼女ともなるべく話すようにしていたし、親身にアドバイスを
かけていたつもりでいた。これが仇になってしまった。
「ねえ、清彦君・・・」
「ん?どうしたの?」
「私ね、今日から生まれ変わるつもりなの」
彼女なりの決意表明なのだろう。たぶん勇気を出して俺に打ち明けてくれたのだろうと
思うと、少しうれしくなった。これが完全に勘違いであった。彼女がとんでもないことを
考えているなど、誰が想像できるだろうか。
「だからね・・・、だから・・・」
そう言いながら、百合子は俺に接近してきていた。こっそり耳打ちしたいような仕草を
見せていたので、俺は迂闊にもそれに乗り、身体を近づけてしまった。
「清彦君の身体、私にちょうだい」
「え・・・?」
何を言っているのか分からなかったが、そのまま彼女は俺の顔を両手で掴むと、俺の口を
彼女の口で塞ぎ、舌を口の中に入れてきた。彼女が飛びついてきた勢いでもんどりうって
俺が下敷きになる形で倒れてしまった。何とか振り払おうとするが、その重たい身体に
眠る力を全開で使っていたのだろう、ピクリとも動かなかった。同時に、俺の呼吸と彼女の
呼吸のタイミングに合わせて次第につま先や指に力が入らなくなってきた。口からは百合子の
呼吸に合わせて何かが入り込んでくる。その何かに身体の中がぐちゃぐちゃにかき回され、
はじき出された俺の「大事なもの」が彼女の口を通して百合子の中に飲み込まれ、奥へしみ
込んでいく感覚を得た。
そして自分の身体から感触が抜け落ちると同時に、俺の意識は闇に溶けた。その時の百合子の
瞳がやたらと青く、きれいだったのは今でも覚えている。
これが俺の「清彦」としての最期になるとは、この時は予想できなかった。
* *
「ねえ、清彦君おきて?」
「ん・・・、うーん・・・」
誰かに身体をさすられ、朧げになっていた自分の意識が集束していく。聞き覚えのある声に
促されるままに目を覚ますと、そこには驚愕の光景が広がっていた。
「あっ、やっと起きた。もう30分も気を失ってたから、俺が日直の仕事済ませちゃった」
「久保田さん・・・?え・・・?俺・・・?」
そう、起こしてきたのは間違いなく「俺」であった。その姿も、その顔も、俺が16年共に
生きてきた自分自身そのもの、それが何とあろうことか俺に「起きろ」と促していたのだ。
そして、俺自身の声も甲高い。声変わりなどとうの昔に終わっているはずなのに、その声は
随分と懐かしく、そして不気味なまでにきれいに響いていた。
「嫌だなぁ。久保田さんは貴方でしょ?ほら、見てごらん」
そう言って「俺」は久保田さんのバッグから手鏡を取り出し、俺に見せつけてきた。
すると・・・、
「嘘だろ・・・?」
そこに映っていたのは、驚愕の表情を浮かべる「久保田さん」その人であった。
「嘘じゃないよ?だって、さっき身体を入れ替えたから」
俺の姿をした久保田さんは言っていた。
「私ね、ずっと私に話しかけてくれる清彦君に憧れてたの。明るくて、勉強も運動もそれなりに
出来て、誰とでも仲良くなれて・・・、私とは大違い。そんな清彦君になりたいな、って
ずっと思ってたの」
「久保田さん・・・。いったい何を言って・・・?」
「だから、私にないものを全部持ってる清彦君を、この入れ替わり薬で全部もらうことにしたんだ。
嬉しいなぁ。明日から清彦君として楽しい生涯を送れるんだから」
訳が分からなかった。男の子と女の子の身体が入れ替わる映画が流行ったこともあったが、
まさかこんな形で自分に降りかかるなんて思ってもみなかった。しかし、俺とは違う伸び
きった髪の毛やさっきまでとは違う柔らかな感触、甲高い声、あらゆる知覚、触覚が「俺」の
肉体が「久保田百合子」になっていると訴えかけてくる。
「ちなみに、一度入れ替わった人とはもう二度と入れ替わることはできないって聞いているよ。
つまり、これからは私、いや俺が清彦として生きていくから、貴方は「私」百合子として
生きてね。百合子ちゃん」
「ふ・・・、ふざけんな!どうにか「静かにっ!誰かが通るよ?」」
目の前の「俺」が俺に話を遮ってくる。どうやら廊下を生徒数名が通っていたらしく、
怪しまれないように静止してくれたらしい。その様子は自分の身体に女の意思が入り、内側から
自分の声や身体を使って操作しているようで、気持ち悪かった。
「どうせこのままでも誰も信じてくれないでしょ・・・、だろ?だから、今日はお互いが
お互いの家に帰るしかないってことだよ」
そう言って「俺」は自分のバッグを漁り、徐に生徒手帳とスマートフォンを取り出して
住所を確認していた。
「えーっと住所は・・・、へぇ、電車で3駅か。私の家より遠いなぁ。ちょっと早起きしないと。
あはっ、指紋認証でスマートフォン開けたよ!これで清彦君、いや、俺のプライベートも
いろいろ分かっちゃうね。頑張って覚えるよ!」
目の前の「俺」は今まで自分が当たり前のようにやってきたことをすごく喜んでいた。
念願の恵まれた「身体」と「人生」を手に入れて気持ちがいいのだろう。その表情は
自分でも見たことがないほど晴れやかで、喜びに満ち溢れていた。
「あっ、ごめんね!そろそろ帰らないといけないんだろ?じゃあまた明日!「私」の
スマートフォンも指紋認証だから、それで家とかわかると思うから!」
嵐のように去っていった自分自身を、俺は呆然と見送ることしかできなかった。
こうして俺の「久保田百合子」としての生涯は、絶望とともに始まったのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「身体が重い・・・。足もスースーするし、どんだけ体力無いんだよ」
俺は残された百合子の生徒手帳から何とか住所を見つけ出し、家へと向かっていた。
そこまで遠くないはずだが、既に息は上がっている。今までは軽やかについてきて
くれていた肉体も、まるで錘を付けたかのように重く、そしてスカートの足元が
スースーする感触や、長い髪の鬱陶しさが集中力を奪っていく。何より生徒手帳に
写った百合子の写真、死んだ魚のような目をした、気力というものをどこかに置き
忘れてきた写真が頭にこびりついている。
今、俺の身体はその本人たる百合子なのだから・・・
歩き続けること20分。やっとの思いで家であろう場所に到着した。頭の中では
既に1時間以上歩いているような気がしていたが、時計を見るとたったの20分、
それだけこの身体が重く、体力がないということなのだろう。普段は歩き慣れて
もいないのだろうか?
百合子の家は2階建てで、それなりに大きな一戸建てだった。門を開けて家の
玄関の前へと立つ。自分の家のはずなのに、他人の家にお邪魔するような緊張感が
襲う。その感覚が頭で何度も反射し、鍵を開けるのも忘れて玄関の前で立ち尽くし
ていた。
「・・・、何してんの?」
玄関の前にボーっと立っていると、後ろに同じ制服を着た女の子が立っていた。
丸く大きな目に整った可愛らしい顔立ち、均整の取れた身体つきに、スカートの
下から覗く引き締まった足が特徴的な子は、怪訝そうで苛立ちを隠しきれていない
顔でこちらを覗き込んでいた。よく見ると、顔だちもどこか百合子と同じ雰囲気だ。
「ねぇ、じーっと見ないでくれる?気持ち悪いんだけど!さっさと家に入りなよ!」
その顔からは想像もつかないほどに厳しい声で言葉を吐き捨てると、自分のカバンから
鍵を取り出し、まるで俺を邪魔者のように腕で払いのけてさっさと家に入ってしまった。
続いて俺も家に入ると、彼女は2階にある部屋に荒々しく入り、勢いよくドアを閉めた。
よほどイライラしていたのだろうか。彼女が百合子が言っていた「妹」なのだろうか。
「ただいまー・・・」
「あら、お帰り。珍しいわね。あなたが「ただいま」なんて言ってくれるの」
大きな音にビックリしたのか、1階のリビングから女性が出てくる。さっきの女の子や、
百合子がそのまま年を取ったような美人だった。
「え・・・、まあね?た、たまにはいいじゃない」
「そ、そうね・・・」
その女性は形だけはきちんと迎え入れてくれるが、どことなくよそよそしかった。
全く目を合わせようとしてくれない。これだけで百合子が一体どんな生活を送って
きたのか、何となく想像が出来てしまう。
「う、うん。それじゃ・・・」
ばつが悪くなってきたので、早々に切り上げて2階へと上がる。その女性も特に
声をかけてこない。年齢から考えると恐らくお母さんなのだろう。その冷え切った
関係は、一体何が原因なんだろうか・・・。
2階に上がると「YURIKO」と書かれた可愛らしいネームプレートが書かれた部屋が
あった。これが彼女の部屋で間違いないであろう。その隣を見ると、「ERIKO」と
書かれた同じデザインのプレートが飾られていた。妹はどうやら「エリコ」ちゃん
というらしい。元々の百合子から言われた印象もあり、この時はきつい性格の子だと
思っていた。それが間違いだったと知るのはまたしばらく後の事である。
「ここが・・・、百合子の部屋なのか」
身体にとっては馴染みの深い、俺の意識にとってはまさに他人の、それも女の子の
部屋へと足を踏み入れる。質素で最低限、タンスや勉強机、ベッド、鏡が置かれた
モノトーンの簡素な部屋はとても年頃の同級生とは思えないほど侘しいものであった。
それはまるで囚人のような部屋のようで、果たして彼女がどのような生涯を送ってきた
のか、むしろ気になってしまうくらいであった。
「とりあえず・・・、着替えるか」
さすがに帰ってきたのに制服では居心地の悪さを感じてきた。部屋にあるタンスの中
から適当に服を漁っていく。スカートでは全くと言っていいほど落ち着かなかったので、
緑色のズボンと、くたびれたTシャツを手に取ってみる。同じようなTシャツが複数あり、
さらにそれらもほつれたり、胸元が伸びきっている。部屋の様子や服だけでも百合子が
何事に対しても無頓着すぎるのがよく分かってしまう。
「改めてみると、やっぱりだらしない身体だよなぁ・・・」
だがやはり、俺とて一応健全な男子高校生なのだ。ちょっとした好奇心から、服を着る
前に思わず鏡の前に立ち、全身を眺めてみる。ボサボサの伸びきった黒髪、ニキビが
出来ても手入れもしなかったのだろう、その跡も残された肌、顔から腹回りまで脂肪が
だらしなく付いた身体はまさに太った幽霊のような姿であった。
「・・・、でも、声はきれいなんだよな・・・」
ただ、自分の口から紡ぎだされる声はこんな身体でも可愛らしいと思った。女の子らしく
張りがあり、透き通ったソプラノボイス、いつもはボソボソと喋るので全く気が付かなかった
が、自分で思う「普通」の発声をするだけで、十分にクリアな声を出せるのだ。
「んっと、どうかな・・・?」
さらに意図的に目を大きく見開いてみると、パッチリとした可愛らしい目をしていた。
もしこの身体がそれなりに人並み程度の生活だけでも送っていたら、それこそ「エリコ」の
ように可愛らしい子だったのではないか?と考えるほどに、ところどころに光るものを
抱えているようだった。
「・・・、あいつが勝手に身体を入れ替えたんだ・・・。このくらいはしてもいいよな」
こんなだらしがない身体とは言え、それでも同級生の女の子の全裸を見たのは初めてだ。
そう考えると、不思議と胸が高鳴ってしまう。まして、こっちは不本意ながらこんな身体に
入れられてしまったんだ。別に好き放題やったところで文句を言われる筋合いではない。
そう考えると、服を着ずに自然とベッドに向かっていた。
「確か女の子って・・・、こういうところを触るんだったよな?」
俺はいわゆるエ〇本や〇ロ動画で仕入れた知識から、百合子の女性器に手を触れてみる。
手入れをされていない毛をかき分けて、撫でながら触るとみんな勝手にいい声で・・・
「あれ・・・?あんまり気持ちよくないな・・・」
襲い来ると思っていた圧倒的な波濤はやってこず、ただただ触られた感触だけが脳に
届いていた。意を決して指を突っ込んでみる。
「ひぃっ!!こ、これが・・・、快感なのか・・・?」
指を入れるとまるで脳に電気が走るようにしびれが伝わり、一瞬意識がホワイトアウトする。
怖いのにやめられない、もっと求めてみたい、そんな好奇心と、勝手に俺の築き上げてきた
ものを奪い取り悦に浸る「百合子」への復讐心から、さらに指を突っ込み、奥をこねくり回す。
「うわぁっ!す、すごい!」
そんな圧倒的な快感に、すっかり我を忘れてさらに奥へと指を進め、秘部を蹂躙する。その度に
脳に電撃のような快楽が送られ、俺は百合子の快楽の虜になっていく。
「ひぃっ♡あぁぁっ♡ひぁっ♡きゃあぁっ♡あぁぁっ♡」
指が止まらない。そして快楽も止まらない。俺の意識が百合子の身体の手綱を握れず、暴れ馬の
ように暴走させてしまう。そしてその快楽は、俺にあるものをもたらしてくる。
「あぁぁっ!こ、これってもしかして百合子の記憶なのかっ♡」
快楽とともに流れてくる、性格のきつい最悪な妹、自分に無関心な両親、学校でのいじめ、
惨めな想い、空虚で自堕落な記憶・・・。それらが俺の心を塗りつぶし、百合子の身体へと
適合させようとしてくる。本来の持ち主に相応しい怠惰な性格、この身体を作り上げたエンジン
ともいえる考え方、楽な方へと流そうと、諦念で圧し潰そうと、快楽とともに記憶を上書きに
かかる。
(そうだ・・・。どんなに足掻いたって俺の生活は帰ってこないんだ・・・。だから・・・)
「はぁっ♡そうじゃねぇだろ俺!」
圧し潰されそうになった俺の意思を、声で吐き出して快楽の濁流から何とか自分を保つ。
負けるわけにいかないんだ。あくまで俺は俺だ!身体を取り返すにしろ何にしろ、自分を
見失ってしまっては完全に負けだ!耐えろ!俺は中身まで「百合子」じゃねぇ!
俺は快楽に負けないよう、意識を保てるありったけの考えを、言葉を頭に送り込む。
「うわああああああああああ♡♡」
止まらない快楽とともに、俺の脳は真っ白になった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
どうやら30分くらい意識を失っていたようだ。気が付いたら自分は天井を向き、布団は
愛液というやつにまみれ、つけていたブラジャーも滅茶苦茶な位置になっていた。
「ふぅ・・・、何とか耐え抜いた・・・」
圧し潰そうとしてくる記憶と快楽に耐えきり、俺は「俺」の意識を保てているようだ。
こうして自分の考えを持ち、「百合子」の生き様を間違いだと断じれる。自分自身との
戦いを制し、百合子の肉体を制圧し、本当の意味で俺の手足となった瞬間であった。
「何か中身がすっからかんで吐き気を催すけど、どうにか百合子の記憶も読めるし喋り方も
出来るようになったかな・・・。全く真似する気にはならないけど」
その滂沱のような記憶を耐えきったことにより、脳に刻み込まれていた「百合子」の事を
好きに引き出せるようになった。記憶によると、妹の名は「恵理子」。お母さんは「沙苗」。
お父さんは「勉」で、今はお父さんがアメリカに単身赴任をしていて母と妹との3人で
暮らしているらしい。それより何よりまずは・・・
「服・・・、着るか・・・」
先ほどまでと異なり、手慣れた動作でブラを直し、下着を履いて服を着込んでいく。百合子の
記憶が読めるようになったのと同時に、身体に刻まれていた経験なども無理なく使うことが
出来るようになっていた。当然ながらブラジャーをつけるのも初めてなのに、まるで何度も
練習をしてきたかのようにあっさりと取り付けた俺に少なからず驚いていた。他にも無意識の
うちに覚えていく女性としての基礎的な知識、身体の動かし方や仕組み、それこそ排泄なども
問題はなさそうだ。考えずとも「これ」という選択肢が出てくる。
「シーツは替えるしかないよなぁ・・・」
そんなこんなで悩んでいるうちに、部屋のドアが突然開いた。
「・・・、ご飯できたってさ」
ドアを開けた主、恵理子ちゃんが一言だけボソッと呟いた。夕飯が出来たから呼びに来てくれた
ようだ。
「う、うん。今行くよ。ありがとう」
取りあえず女の子らしく、百合子の記憶を使いながらも声をしっかりと出すように、俺の習性を
ブレンドして声を出す。そんな恵理子ちゃんは俺の声に驚いたのか少しこちらを向き、やがて
いつもの通り、嫌悪感のこもった厳しい表情へと戻る。
「・・・、昼から盛ってんじゃないわよ・・・。気持ち悪い・・・」
妹の本心なのだろうか。百合子がたった一人の妹と作り上げてしまった冷たい最悪の関係を、
俺は少なからず呪っていた。
* *
食卓に並ぶ料理はごくごく一般的な料理であった。今日のメインディッシュは唐揚げで、
他にもご飯やみそ汁が並ぶ。暖かで優しい匂いが食欲を誘ってくる。
「「「いただきます」」」
俺としては当たり前に言ったつもりの言葉だが、お母さんと妹がこちらを怪訝そうな顔で
見つめてくる。
「どうしたの百合子?いつもならそんなこと言わないのに・・・」
「え、いや・・・。まあ、気分だよ気分」
お母さんの問いかけに取りあえずはぐらかすが、そんなことさえ言わない百合子は何様なの
だろうか。少なくとも俺からすれば、「ご飯を作ってくれるお母さん」がいるだけでも既に
羨ましいというのに・・・。
お母さんが作ってくれた食事はとても美味しく、食が進んだ。やはりまだまだ成長期の身体も
栄養を求めていたのか、積極的に摂取していく。そしてお母さんも妹もまた、その様子を怪訝
そうに眺めていた。娘の突然の変貌に、戸惑いが隠せないといった具合なのだろう。
「ごちそうさまでした!」
結局残さず完食した俺は、その味に感謝して言葉が出た。ただ、確かに百合子の記憶では
いつもそこそこに食べたらご飯を残し、勝手に部屋に引き上げているのだ。冷え切った関係、
避ける母親から少しでも逃げ出したかったのだろうか。そして「俺」の癖で、食事の後すぐに
食器を洗おうとすると、お母さんが慌ててこっちにきた。
「百合子、大丈夫よ。私が洗うから」
「いや、でも・・・」
「大丈夫、気持ちだけ受け取っておくわ」
お母さんはそういうと、俺を除けて皿を洗い始める。それは申し訳なさというより、明らかに
邪魔な存在として来る感情なのだろう。そのことがショックだった。
本来は自分にとっての逃げ場である自宅の家族とさえこんな関係の、百合子となってしまった
俺は、呆然とした気持ちで部屋に戻っていた。
部屋に入るとメスの香りに満ちていた。とりあえずシーツを剥がし、お母さんにシーツを濡ら
してしまったことを謝りながら、新しいシーツをもらってきた。その時の露骨なまでに嫌そうで、
冷めた目線がさらに精神をえぐってきた。諦めたようなその視線は、まるで何度もあったかの
ようだ。むしろ謝ったことに戸惑われたあたり、普段はもっとひどいのだろうと容易に想像
できてしまう。
シーツを敷き直し、窓を開けて空気を入れ替えていると急に疲れが襲ってきた。今日はあまりに
色んなことがあり過ぎた。訳も分からないうちに自分の身体を入れ替えられ、生活も、性別も、
何もかもが違う生活を強いられている、それも肉体的にも、人間関係も最悪な百合子として。
その疲れがどっと襲ってきたのだろう。気が付けば勉強机の前の椅子にもたれかかっていた。
「そうだ・・・。明日も学校あるんだった・・・」
最悪なことに明日も学校に行かなければならない。全く異なった存在として果たして振舞うことが
出来るのか、俺には自身もなかった。百合子の身体が俺の魂に屈服したおかげで記憶や性格は
読み取ることは出来、経験も身体が勝手に対応してくれるようになってはいるが、正直彼女本来の
性格は使い物にならない。そして何よりも・・・
「最悪・・・、最悪だ・・・」
彼女の記憶を思い出そうとすると、ただただ悪夢と空虚な経験しか出てこない。無為に過ごす学校や
日常、汚物でも見るかのような目で見つめ、嫌悪感をむき出しにしながら最低限の言葉しかかけて
こない妹、自分を避けるように接する母、そしてそれらが繰り返され、疲れ果てた彼女自身・・・、
灰色の記憶の世界はまさに「悪夢」としか言いようがなく、思い出すのをやめたくらいだ。
記憶も人格も使い物にならず、使えるのは本能的に持ち合わせている「女」としての常識のみ、
しかも肉体的には手入れもされていない最悪の状態、文字通りの地獄だった。
「せめて、何かヒントでもないかな・・・。少しでも材料があれば」
それでも、百合子として生活しなければならない以上、情報は必要だ。とりあえず彼女の学生
カバンを漁る。女の子の私物を漁る、本来であればドキドキするであろう状況のはずが何も
感慨が沸かない。中は最低限の物しか入っておらず、教科書は新品同然だ。当然書き込みも
為されておらず、宿題も手付かずだった。確かに彼女は宿題忘れの常習犯であった。先が
思いやられるが、今探しているのは別のものだ。
「・・・、あった」
目当ての品、スマートフォンを取り出す。思い出してみると彼女は休み時間によくスマート
フォンを見ていた気がする。それだけ触れる機会も多いということは、何か大事な物でも
あるのではないか、この中に、何かヒントとなる物でもあれば・・・、と藁をもすがる思いで
認証を解除する。手元がぶれて指紋認証がうまくいかず、パスコードが必要だったが、幸い
それは彼女の記憶の中に残されていた。
中を見ると、まさに彼女の空虚さを象徴するような惨状であった。アドレス帳は自宅の
電話番号のみ、その他のアプリも最低限が入り、メールなどはスパムがいくらか残されて
いるだけで肝心の情報は何もない。いったい彼女は何を見ていたのだろう。そして俺は、
あることに気が付く。
「写真・・・?それなりに入ってるみたいだな」
フォト機能の写真だけがどうにも容量を食っていた。恐らくそれなりに画像を撮っているの
だろう。ここに何かのヒントがある。そう思った俺はフォトアルバムを開いてしまった。
―――まさかこれが、彼女の身体での最悪の経験を引き起こすことになるとは、この時の
俺は思ってもいなかった。身体を入れ替えていった当の本人は、記憶とスマートフォンに
封印していたとんでもない置き土産をトラップのように展開し、俺の精神をさらに追い込んで
いくのであった。
フォトアルバムの中はどこにでもあるような写真で占められていた。電車の写真、駅の写真、
学校の写真、修学旅行か何かで撮ったであろう神社の鳥居の写真、無造作ながら、関心の
あったものを適当に撮っていたようだ。ヒントとなる物とは程遠いが、何となく写真が好き
なのだろう、そう思っていた。
「あつっ・・・、何だ・・・?いまの」
その写真と記憶の中にある彼女の趣味や思い出と照らし合わせていると、頭の中に鋭い痛みが
走る。彼女の記憶が、俺を絶望に叩き落す鍵を俺に手渡して来る。そう、俺は気づいてしまった。
そこにあった「宝物」と書かれたフォルダに。
「なんだろこれ?」
開けようとするとパスワードを要求された。複雑な内容だったが、記憶が提供してくれた情報に
よりあっさりと正体を現した。そこに写っていたのは・・・
「・・・、俺・・・?」
この俺の元の身体、清彦の写真が大量に記録されていた。
「なんだよこれ・・・。何なんだよぉ・・・!」
その内容はまさに「不気味」であり、「偏執」とでもいうべきものであった。学校に登校した
ときの俺、友達と笑いながら話している俺、授業中に黒板に向かい、ノートを取っている俺、
体育の授業に精を出す俺、電車の中で口を開けて爆睡している俺、さらには・・・
「着替えてる姿まで・・・」
体育に向かう前の、教室で着替えているパンツ一丁の俺の写真まであった。と同時に、彼女の
記憶のパンドラの箱が開き、理由を明確に伝えてくる。
記憶にあった通り、彼女は怠惰な性格だった。当然友人関係など築くこともなく、机では物思いに
ふけっている始末であった。そんなとき、たまたま俺と日直として初めてペアを組んだ時に、
百合子は衝撃を受けていた。
―――自分と、会話しようとしている・・・
この容姿にこの性格だ。当然誰も話しかけようとして来ないだろう、そう思っていたが、
その男の子、清彦は積極的に話を聞こうとしてくれていた。そして、その顔、その姿に
「憧れ」を抱いたのであった。
それからの百合子は、俺のことをこっそりと色々調べていたようだ。成績、運動、普段の態度、
友人関係・・・、調べれば調べるほど「気になって」来ていた。そして俺はそんなことも知らず、
ただ純粋に可哀想と思っていたが故に話しかけ続けた、続けてしまっていた。そんな姿に百合子の
「憧れ」は、歪んだ形で思いを募らせていってしまう。
『清彦君の・・・、「すべて」が知りたい』
そして、彼女は写真を撮り始めた。俺についてのあらゆる姿を記録するようになった。よく見ると
日常風景と思った写真も俺に関係するものばかりであった。駅は最寄り駅、電車は最寄りの路線、
神社は修学旅行の自由行動中に俺が行った場所・・・
「うっ・・・、うえぇ・・・」
胃の中のものがこみあげてくる。思わず戻しそうになるが、ここは何とか堪えて飲み込んだ。
しかし、俺の努力を嘲笑うかのように記憶はさらに俺に先を見せてくる。百合子の記憶の終焉を・・・
『清彦君の全てが欲しい。あの身体であんなこととかしてみたい・・・』
いつしか百合子は、貯めに貯めた写真をおかずに自慰をするようになっていた。恐らくお母さんが
シーツを見て諦めた顔をしていたのは、これによりシーツを濡らしまくっていたからだろう。そして、
ある日彼女に「道具」が与えられてしまう。
『入れ替わり・・・薬?』
差出人も名前も不明だったが、確かにそれは百合子宛に送られてきていた。中に入っているのは
紫色の液体が収まった瓶と、簡単な取扱説明書。そこには「飲んでから30分以内に入れ替わり
たい人と口づけをすると、身体を入れ替えることが出来る」「入れ替えたら最後、二度と元に戻る
ことは出来ない」とだけ書かれた内容、どう見ても胡散臭いが、百合子はそれを信じてしまった。
『これを使えば・・・、清彦君の全てを手に入れられる・・・?』
清彦のことは大体調べがついていた。どこにでもいる、取り立てて特徴のない普通の男の子。
だけど、人と接するやさしさもある。そして特徴がないということは、人並みに必要な
ものはすべて持ち合わせている。友達も、勉学も、運動も・・・、どれも普通にできる。
それに明日は清彦君と日直だったはず・・・。なら・・・、いいや。
彼女の記憶に封印されていた思い出は、これが最後であった。そのあとは当日の流れとなる。
自分がやられたことを、百合子の視点で見つめるだけの記憶だった。
・・・、言葉にならなかった。俺としては普通に、そして親身に彼女に接していたつもり
だった。その結果がこれだ。彼女の内に潜む歪んだ性質を爆発させ、そして俺はまんまと
肉体も、人生も奪われてしまったのだ。決して恵まれていたとは言えなくても、それでも
自分なりに真っすぐ貫いて、大切に積み上げてきた全てをこの女は、百合子は欲望のままに
根こそぎ奪い取ったのだ。
「うううう・・・、うあああああ・・・」
気づけば俺は泣いていた。悔しくて、辛くて、訳が分からずに泣いていた。そんな俺は穢れた
記憶から「あること」に気が付いてしまう。
『清彦君の全てが欲しい。あの身体であんなこととかしてみたい・・・』
百合子の妄想も、やりたいこともすべて分かってしまった今は、その言葉に戦慄しか抱け
なかった。
―――つまり、俺の身体を手に入れた今は、俺の身体が好き放題されている・・・?
思わず立ち上がり、トイレへと駆け込んでいた。幸いだったのは、俺の意思を汲んだ身体が
自然とトイレへと誘導してくれていたようだ。家の構造を把握しきれていなかった俺にとっては、
偶然の奇跡であった。
「オロロロロ・・・」
胃の中の物が全部出て行ってしまった。せっかくお母さんが作ってくれたおいしいご飯、その
感動をまるで吐き出すかのように、すべての物が出ていく感触に襲われていた。 これ以上出ない
ほど、胃液の感覚が口を襲うほどに吐いて吐いて、やっと部屋に戻るとベッドに倒れ込んで
しまった。もう考えたくもなかった。
「ううう、うわあああああああん!」
そしてその感情に突き動かされるまま、泣きじゃくってしまった。自分が積み重ねてきた人生も、
身体も、経験も記憶も赤の他人にいいように使われ、俺はこうして突然誰かの破綻した人生を
歩まされる、身体は生きているけど、もはや死んでいると言っても過言ではない絶望であった。
(もう、何も考えたくない・・・)
溢れるように出る涙の中でやんわりとそんなことを考え、俺の意識は闇に沈んでいった。
* *
深夜2時、泣きつかれて眠ってしまった百合子の部屋に、「その子」は入ってきた。まず床に
散らばっていた道具や教科書、スマートフォンを机の上に乗せて簡単に掃除をする。「その子」は
ベッドの上にいる百合子を見つめる。ひどい有様であった。枕に突っ伏すように眠り、服も
メチャクチャになっていた。当然電気も付けっぱなしであった。まずは百合子を仰向けに戻す。
顔を見ると涙の跡と、腫れた目元が痛々しかった。目元の涙の跡を拭い、服の乱れを直し、布団を
上から被せて目覚ましをセットしておいた。さっきまでの惨状が嘘のように、きれいに眠る百合子を
見て「その子」は部屋を後にする。
その時の「その子」の顔は、哀れみに満ちた何とも言えないような、悲しい表情をしていた。
* *
そして、清彦が真実に気づき、絶望に涙していたころの事であった・・・。
「はぁっ、はあっ・・・。清彦君んん、いや、俺の身体最っ高!!」
清彦の身体を奪い去った百合子は、快楽の海に沈んでいた。清彦と入れ替わり、肉体を奪い取った
百合子はあの後真っすぐに家に帰り、部屋にある鏡を見て興奮していた。夢だった清彦の肉体が、
表情が、すべてが思い通りに動く。鏡の向こうの清彦は自分がしたかった表情を返してくれる、
声を出せば清彦の声で自分の言葉を語ってくれる。それだけで既に興奮が高まっていた。
そして制服を脱ぎ捨て、全裸になった地点で既に興奮が爆発、1発ぶっ放してしまっていた。
その快楽に百合子の脳は当然負けることもなく、脳のガードが緩くなり溢れ出てきた清彦の記憶は、
百合子にとっては興奮のスパイスにしかならなかった。
清彦は決して恵まれた家庭ではなかった。小さい頃に両親が離婚、母親に引き取られるも母親は
昔から水遊びに精を出し、いつ帰ってくるかも気まぐれで、清彦自身は質素な生活を送る羽目に
なっていた。それでも支援金を頼り、足りない分と生活費はバイトをしながらお金を稼ぎ、自分で
ご飯を作ったり洗濯をしたりといった生活を送っていた。
「清彦君の生活・・・、いい・・・!」
そんな辛い思い出でさえ百合子は満足しながら受け入れたため、清彦の肉体はあえなく陥落、
百合子に思い出も、肉体も、記憶も技術も含めたすべてを明け渡してしまっていた。
それからの百合子は清彦の全てを使い、ただただ快楽を貪っていた。裸にしてみたり、普段着を
着させてみる、自分の思い通りに清彦が動かせる、それだけで百合子の感情は昂っていた。そして、
脳に刻まれた男としての本能をも掌握していたため、簡単に射精させることが出来るようになった。
歪み切った百合子にとって、清彦の肉体はもはや麻薬も同然であった。それこそ脳を漁り、思い出に
浸るだけでさえ射精できた。彼の技術を使い料理を作ったり、洗濯をしたりするだけでも昂った。
明日はバイトが入っているが何も心配はない。清彦の技術を使ってしまえば容易にこなせてしまう、
そんな確信さえ持っていた。それに・・・
「お母さんが帰ってこないなんて、最高じゃないの・・・♡」
家族とのかかわりが大嫌いだった百合子にとって、清彦の環境はむしろプラスであった。何をやる
にも自分で出来、家族の干渉を受けない環境は、まさに彼女にとっての理想だったのだ。
「さて、今晩はもっと楽しませてもらおうかな、清彦君♡」
彼の身体を奪い取ってから1週間は、まさに彼女にとって最も幸せな1週間であったといっても
過言ではない。だからこそ、快楽に浸っていた彼女は全く気付かない。
もっと清彦の記憶をきっちりと精査し、彼を本当の意味で理解していれば
もっと清彦の肉体と向き合い、その本質をしっかりと把握していれば
もっと清彦の技術を使い、対人関係を磨き上げていれば
人間というものは、いつかは「飽きる」ということを理解してさえいれば
歴史にIFは存在しないが、それでも「百合子」という人間は破滅を迎えることもなかったのかも
しれない。「清彦」という肉体が今の位置にいられるのは、本来の持ち主の性格があったが故の
ことであったのだ。そしてそれらの記憶も経験も、清彦はすべて脳に遺していっている。これらを
使えば清彦として、むしろ本人より楽しく人生を送っていたかもしれない。
彼女の未来が暗闇に、破滅に彩られていることを、快楽に爛れた今の彼女が知ることはなかった。
そしてそれは清彦にも言えることであった。「百合子」の肉体にとっての清彦はまさに救世主で
あった。百合子は全く使用していなかったが、彼女が持って生まれてきたものに気が付き、その
真価を清彦は次第に理解し、使いこなしていく。彼の心と彼女の肉体、最高の相性を持った要素の
出会いはこうして始まったのであった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「ん・・・、あれ・・・?そうか、俺、寝ちゃってたのか」
目覚ましと窓から差し込んでくる朝日に叩き起こされた。時間を見ると既に6時45分。どうやら、
泣き腫らしたまま眠ってしまっていたらしい。そしてその現状を確認したソプラノボイスのせいで、
やっぱり身体は戻っておらず、自分が「久保田百合子」のままであること、昨日の出来事が夢で
なかったことが分かってしまう。
「ううう・・・、こんなの・・・、あんまりだ・・・」
考えるとやはり涙がこぼれてくる。とてもじゃないが、1日で受け入れ、立ち直ることは出来
なかった。しかし・・・
「でも、学校はいかなきゃな・・・」
学校に行けばあいつにも会える。百合子の記憶で戻れないと明示されていたが、それでも諦めたく
なかった。自分が積み重ねてきた16年間の結晶を、どうにかして取り返したかった。こんな理不尽
だが、それでも負けたくなかった。そう思うと、身体に自然と力が入る。百合子の肉体はそんな俺の
想いに応えようとしてくれていた。
少し落ち着くと、自然と周りが見えてきた。自分がとっ散らかした荷物も片付いていたし部屋の
電気も消えていた。よく考えたら布団を被って寝てもいたし、着衣も乱れていなかった。
もしかすると誰かが直してくれたのかもしれない。
「お風呂入りたいけど、さすがに時間がないか・・・」
本音を言えばシャワーだけでも済ませておきたかったが、刺激が強すぎた。仮にも16歳の女の子の
身体なのだ。そして、俺自身は間違いなく男だ。如何に体形が残念でも確実に意識してしまう。
残念だが、これは帰ってきてからゆっくりと処理することにして着替えることにした。とりあえず
下着だけでも取り換え、制服を着こんでいく。本当なら全く着方も分からないセーラー服だったが、
身体が慣れた手つきでその身に着けていく。彼女の身体は、俺が「こうしたい」と思ったことを
くみ取り、無意識のうちに手助けをしてくれるようだ。ちょっとしたことだったが、今の俺には
救いだった。
「・・・、起きてたの・・・?」
着替え終わったと同じくらいのタイミングで、恵理子がドアを開けてきた。白を基調とした
ジャージ姿にポニーテールがよく似合っているその可愛らしい女の子は、侮蔑するような眼差しで
俺を見ていた。中学高校と陸上部一本で貫いてきた彼女は、試合のある日以外は毎朝ランニングを
欠かさない。どうやら今日の日課を終え、帰ってきたところらしい。
「う、うん。えっと・・・」
「パン、机に置いてあるから食べてって」
お母さんは看護師をしており、今日は急遽朝早くからの仕事が入ってしまったようで既に出かけて
いる。どうやら恵理子が買ってきてくれたようだ。
「それだけ。じゃ」
「あ、あのっ!」
「何?」
部屋を後にしようとする恵理子を思わず呼び止めてしまった。想定していなかったのか、少し驚きが
混じった表情でこちらを見返してくる。
「もしかして・・・、お、私の部屋、片づけさせちゃったかな・・・?」
「はぁ!?なんで私がそんなことするのよ!バカなこと言わないで!」
ありったけの大声で否定し、勢いよくドアを閉められてしまった。ただ、少しだけ気になることが
あった。
―――あんな表情の恵理子、記憶にないな・・・。
一瞬だけ見えたドアを閉めるときの恵理子の表情は、悲しみと憂いに満ちていた。その表情は妙に、
俺の頭にこびりつき、離れることはなかった。
誰もいないリビングで一人パンを食べる。簡単な菓子パンが1個だけ置かれていたが、昨日の
今日で受け止めきれず、あまり食べる気がしなかった俺にとってはむしろちょうどいい量であった。
それに何より・・・
「クリームパンってこんなに美味しかったっけ・・・?」
妙にクリームパンがおいしく感じたのだ。このパンは自分の身体でも食べたことがあったが、
少なくともここまで感動する味わいではなかったはずである。
「そうか・・・。百合子の身体だからってことか・・・」
百合子の記憶には確かに、このパンが大好きという思い出が刻まれていた。それが俺に対しても
幸せを増幅する信号を送ってきているのだろう。身体の本能はどうやら自分の認識を上回るようだ。
俺が好きだった食べ物を食べてみた時の反応も試してみたほうがいいのかもしれない。
それにしても、
「恵理子ちゃん、これをわざわざ選んで買ってきてくれたってことか?」
自分の妹に「ちゃん」付けするのも変な話だが、冷え切った関係の百合子よりさらに遠い位置に
いる、赤の他人でしかない俺なのだ。元より一人っ子の俺にいきなり妹が出来たと言われて
接し方が分かるはずもない。むしろ本来分かっていなければいけない百合子の記憶にそんなものが
存在しない。どうしろというのだろうか。
しかし、だからこそ見えてきたものがあった。赤の他人である自分が「久保田百合子」と
言う存在を、記憶を、第三者目線で見ることが故に抱けた疑問だったと思っている。
「恵理子ちゃんって、そんなに悪い子なのかな・・・?」
百合子の記憶には「自分に冷たい、何も考えていない最低の妹」という認識しかない。彼女の
記憶にもそういうバイアスがかかり、俺もそういう目で見てしまっていたかもしれない。彼女
からの汚物を見るような眼差し、きつい言葉は正直なところ俺も軽くトラウマになりかけている。
しかし、こうして百合子の好物をわざわざ選んでくれたり、最低限の言葉ながらも声をかけて
くれていた。忌々しく思っているその記憶の中でも、彼女だけが声をかけ続けてくれている事実に
揺らぎはなさそうであった。それに・・・
――あの悲しそうな目、あれは心配してなきゃ出来ないぞ・・・
俺を起こしに来てくれた時に一瞬だけ見せた悲しそうな目は、明らかに心配している目であった。
心配と後悔、悔しさが入り混じったようなあんな眼差しを俺は時折見かけることがあった。
元々の「俺」には、俺の境遇を聞き、同情し、本気で相談に乗ってくれる、そんな心配をして
くれるお節介焼きが確かにいたのだ。しかし、それも・・・。
悲しさに包まれそうになったが、何とか振り切る。そしてこの時に思った疑念はたぶんきっかけ
だったのだろう。俺は初めて与えられた記憶、百合子が下した人物評価に疑問を持つことが出来た。
――恵理子ちゃんのことをもっとちゃんと見てみよう。百合子としてではなく、俺として。
この日以降、俺はこうして自分自身というものに疑問を持ち、色々なものに対して自分で再評価を
下すことが多くなる。彼女が感じた人の印象、そして彼女の身体自身に至るまで、ありとあらゆる
ものに対しての再検証だった。まるで自分の足元を破壊するような無謀な行為、自分自身という
ものを破壊するような諸刃の剣だったが、それをやるしか方法はなかったのかもしれない。それは
百合子の全てを破壊し、新しい生活、ひいては「久保田 百合子」という存在を作り直すための
第一歩であった。
「い、いってきます・・・」
食事を済ませ、身支度を整えた後は学校に向かっていた。ちなみに恵理子ちゃんは走った後に
軽くシャワーを浴びるようで、どうやら今朝俺が風呂に入るのは絶望的だったらしい。一応念の
ため、顔を洗っているときに先に行く旨だけは伝えてある。返事はなかったが、きっと伝わって
いるものと信じたい。
慣れない通学路を、身体が覚えているままに進んでいく。スカートの感覚には相変わらずまだまだ
違和感しか覚えられず、何よりやはり体力が辛い。学校に着くと同時に机に突っ伏すことが多かった
気がするが、本当に体力が持たないのだろう。いったいどれだけ鈍っているのかと心配にさえなって
くる。その時、前に男子生徒2名が見えた。
「おーい、佐竹ぇ、大川ぁ!」
彼らは俺のとっての友人だ。ちょっとおっちょこちょいの佐竹、温和で大人しい大川、高校1年生
以来気の置けない関係だった彼らとなら、話くらいは出来るかもしれない。それが甘かった。
「お、おう・・・。えーっと・・・」
「久保田さんだよ。おはよう」
2人とも、すごく戸惑った顔をしていた。自分の迂闊さに思わず頭が痛くなる。そう、彼らに
とってはやはり陰キャでよくわからない久保田でしかないのだ。ボソボソと何を喋っているのか
分からないような存在が、いきなり大きな声で挨拶をしてきても困るだろう。俺は自らの立ち
位置を完全に誤解していたことを知る。いきなり俺として振舞うと完全に浮いた存在にしかならず、
正体を明かしたところで信じてもらえはしないだろう。結果的にますます過ごしづらくなってしまう。
つまり俺は、「百合子」の人格をある程度使うしかない状況に追い込まれていた。無自覚ながら、
巧妙なほどに出来上がった状況であった。
「あ・・・、うん。ごめんねいきなり声かけて・・・」
「お、おう・・・」
失意と悔しさの中、俺は「百合子」としての仮面を被りながら、学校への道を急いだ。
学校へ着くと、いつもと違う席に自然と着席する。思わずかつての自分の席に向かおうとした
自分がいたが、身体が軌道修正してくれた。昨日からそうだったが、どうやら百合子の「肉体」は
俺の味方でいてくれるようだ。おかげで女性としての立ち振る舞いや百合子の日常については
何とか成立させられている。それが嬉しくもあり、悔しくもあった。肩を上下させるような、
詰まりそうな呼吸を落ち着けているうちに、あいつが現れた。
「おはよーっす」
「おう清彦おはよっ。何か眠そうだぞ大丈夫か?」
俺の肉体を奪った女、百合子が入り込んだ「俺」が、登校した。 その声に思わず振り向くと、
そこにいたのは間違いなく「俺」であった。少し眠そうにしていたが、雰囲気も何もかもが、
自分自身が鏡の中から飛び出したように歩いていた。そして俺の座る席を通ったときに、
「昨日は日直「お疲れ様」ね。ありがとう」
一声かけてきた。彼女と一緒だったとき、ひいては俺が日直の相方に必ず掛ける言葉であった。
そして彼は「いつもの通り」に自分の席に座り、「いつもの通り」談笑を始める。談笑相手の
佐竹と大川もまるで気づいていないようであった。それだけ「俺」はいつもの通りであった。
百合子の肉体を俺が屈服させたように、百合子もまた俺の身体を屈服させ、自在に使役させられる
ようになっていたようだ。本当の意味で、「俺」のことを乗っ取った存在になったと、目の前で
見せつけられる結果となってしまった。
俺は思わず机に突っ伏していた。涙があふれてきそうになっていたが、それを誰かに見せたく
なかったから思わず顔を隠してしまったのだ。しかし、そこにあったのは間違いなくいつもの
「百合子」であったからこそ誰も声をかけることもない。俺にとっての最初の学校はこうして
始まった。完全な、完敗であった。
当然授業中も百合子の肉体はその能力を遺憾なく「発揮」してくれた。授業の内容がさっぱりと
言っていいほど分からないのだ。どうやら、俺としての記憶や思い出といったものは入れ替え
られたときについてきてくれたようだが、勉強の知識などは量が多いのか、元々の身体の中に
置き去りにされてしまっているようだ。その証拠に、元々の俺自身はいつもの通り、淡々と
答えを出していた。ある授業の小テストも難なくこなしているようだったが、俺は見たことも
ないような凄惨な回答用紙を提出するのみであった。
(これはさすがにまずいな・・・)
危機感を覚えた俺は必死にノートを取り、頭に授業内容を叩きこもうと努力した。しかし、
石垣がないのにその上に天守閣を作ったところで崩壊するだけである。百合子の頭の中には
今の勉強についていくだけの「土台」が存在していなかったのだ。そんな身体を必死に操り、
どうにか授業内容を書き留めていくが、分からないものを聞くほどの苦痛はやはり存在しない。
延々と耳元でよくわからない言語の会話を続けられているような、頭が拒否してしまうような
そんな苦痛であった。ただ、不思議に思うことがあった。
(あれ?もしかして言うほど勉強自体は嫌いじゃないのかもしれないぞ)
慣れない作業に苦痛を抱いているせいか、いつもよりやはり疲れは数倍感じるが不思議なことに
身体は拒否しようとはしなかった。俺の指示に従い、必死ながらもノートに書き留めようとして
いる。まだまだ謎が多いようだ。もっと解き明かしてみたい。もっと知りたい。慣れないことに
身体が戸惑いながらも、少しばかりそれを「楽しい」と思い始めていた俺自身に、少なからず
驚いていた。
作業に没頭していればそれだけ時間の経過も早くなる。あっという間に昼休みとなっていた。
恐らくこんなに文字を書いたのは初めてなんじゃないかってくらいにノートに文字を書き込んで
いて、手には若干のしびれが残り、頭は寝起きの頭のようにぼやぼやとしていた。学校で疲れた
のは久しぶりであったが、妙な達成感も抱いていた。
(いけない。やることがあるんだった)
俺は勇気を出して、あいつに声をかけた。
「清彦・・・、君。ちょっと話があるんだけど」
「うん?どうしたの?」
その何も知らないような態度が腹が立つ。どう見ても自分自身にしか見えない、
声をかけられた「俺」はあっさりと乗ってきた。
* *
「どうしたの?それにここって、俺が昼寝してる場所じゃん。よく知ってたね?」
(やっぱり、俺の身体は・・・)
俺が「俺」を連れてきたのは体育館のそばにある隠れたスペースだった。人もあまり来ず、
バイトなどで疲れた時はここでよく昼寝をしていた、いわば俺のお気に入りの場所だ。
それをどうやらこいつは知っているらしい。試しにカマをかけてみたのだが、目論見は
あたってしまった。つまりこいつは・・・
「しかし、珍しいね久保田さんから話しかけてくるなんて。今までそういうことってなかった
じゃん」
「そりゃそうだろうよ・・・。「お前」自身は話しかけるのが怖くて、外から見ているだけ
だったもんな」
こいつ相手に本性を隠すつもりもない。俺は「百合子」の仮面をかなぐり捨てて、素の自分を表す。
そうでなければ、こいつに言いたいことも言えない気がしたからだ。
「えっ?それってどういうことかな?」
「しらを切るなよ・・・。お前、俺と入れ替わって何するつもりだよ!」
ついつい声を荒げてしまった。恐らくこの身体、こんなに大きな声を出したこともないのかも
しれない。少し喉が痛いが、そんなものは関係ない。所詮「俺」のものではないのだから、
知った事ではなかった。
「何言ってるんだい?言ってることがよくわからないけど・・・」
「知ってるぞ。お前、俺の事つけてたんだろ。こんな普通な俺のどこがいいのかなんて知らねぇ
けど、いいから俺の身体返せよ!」
ちなみに例の忌まわしい写真はすべて消し去ってある。あんなものが存在していたと考えるだけで
今でも吐き気がしそうになってくる。しかし、このことに気が付いたことを伝えたことに、多少は
意味があったようだ。俺の顔が見たこともないような、歪んだ笑みを浮かべ始めた。そしてその
「何か」は俺の声で、俺の口で、俺の身体を使って語り始めた。
「へぇ、やっぱり見ちゃったんだ。ということは、私の身体で楽しんだ、ってことだよね?」
「・・・っ!それはお前もだろ!この場所を知っているってことは・・・」
「ああ、そういうことか。ちょっと迂闊だったかもなぁ。ごめんね。昨日からちょっと嬉しすぎて、
舞い上がっちゃってるから気が付かなかったよ。」
その何かは、俺の声色を上ずらせて語り始める。頬は上気し、快楽にとろけそうな顔立ちに吐き気が
込み上げてくるとともに、俺の身体が百合子の手に堕ちた、それが確信となって襲ってくる。俺の
身体は・・・、耐えきれなかったようだ。
「でもすごいよ清彦君の身体!授業もすごく分かるようになったし、お友達もいっぱいいる!
佐竹君と大川君戸惑ってたよ?陰キャの久保田からいきなり声かけられたとか、聞いたこともない
大きな声であいさつされたとかね!」
「あ、そうそう!今日のお弁当は私が作ったんだよ?料理するなんて初めてだったけど、あんな
簡単に作れるんだね!いつも菓子パンばっか食べてた私がばかみたい!」
今までの俺が積み上げてきたものを、俺が俺であるために必要な記憶も、経験も、すべてを
掌握したことを得意げに語り始めた。百合子にとってはさぞや快感であっただろう。友達も
話しかけてくるし、今まで出来なかったこともあっさりと出来るのだから。そしてあいつは、
いよいよ踏み込んでほしくないところに入る。
「それに、お母さん滅多に帰ってこないから家でも好き放題出来るし、何より身体が元気
なんだもん!昨日だけで10回は抜いちゃって、今日なんか寝不足だよ!ほら見て!
可愛いでしょ!」
そこにはやはり危惧していた通り、好き放題弄ばれた自分の肉体の写真が山のように存在
していた。制服姿や普段着の姿、俺のお気に入りの私服を着替えさせられた姿、ドアップ
で撮られた顔、さらにはぶっ放した跡・・・、彼女は俺の身体の全てを使って、自分の
快感に酔いしれていたようだ。その様を、得意げに語られた惨状を聞いて、俺はいつしか
涙をこぼしていた。
「お、お前・・・。お前ぇ・・・!」
「あっ、ごめんねついつい楽しくて!ほら、泣かない泣かない」
そういうと百合子は「俺」の身体で頭を包み込み、泣き止ませようと抱きしめて
きた。鼻いっぱいに広がる匂いはまさに俺が使う消臭スプレーの香りであった。
懐かしい想いに浸るとともに、全く異なった匂いが妙に鼻についた。
「へぇ・・・。私ってこんな匂いだったんだね。甘いけどいい匂い・・・。でも、
ちょっと汗臭いよ?ちゃんとお風呂入れてあげたのかい?どうしようもない記憶、
どうしようもない身体、どうしようもない人生・・・、大したものはあげられない
けど、もっと大切にはしてほしいなぁ」
まんまと他人そのものを奪っておいて、平気な顔をしてのたまう百合子。たまらなく
悔しかった。身体を入れ替えるだけでなく、それを見せつけ、自分の身体がいかに
どうしようもないのかをわざわざ語ってくる。自分が理解しているからこそ、その
言葉は絶対の重さと信憑性を持っていた。そして何より、自分自身が理解してしまって
いた。
―――本当に?
心の底で何かの声が響いた気がしたが、それを押し潰すように言葉が刺さる。
「まあこれも運命と受け入れて、「私」の身体で楽しく生きてよね?でも変な事したら
ダメだよ?君には家族があるんだから」
自分自身はこの上なく鬱陶しいと思っていた家族さえも人質に使われる。その言葉は実に
俺には効果的であった。「どんな人でも家族は最低限、大切にしたい」、そう思って、
奨学金にバイトまでして高校に進んだ自分自身の記憶を読まれてしまったから。
「親が帰ってこなくても、親の金には頼らない」俺が固めていた信念を、逆手に取られて
しまったから・・・。
自分が積み上げてきたものに押しつぶされる、まさに最悪の体験であった。
「あっ、チャイム鳴ったね!早く教室に戻ろう!怒られるよ!!」
そうして百合子はまた「清彦」として教室に戻っていく。そして俺もまた「百合子」の
仮面を被りそれに続く。しかしその心は、他ならぬ俺自身が積み上げたものに摺りつぶ
されかけていた。
午後の授業はほとんどと言っていいほど記憶がなかった。少なくとも、自分が呆然として
いたこと、果たして何をやっていたのだろうか、俺の人生って何だったんだろうか、
そもそも「俺」って誰なんだろうか。そんな言葉ばかりが延々と頭で繰り返していた記憶
だけは残っていた。朝は放課後ひっ捕らえてでも「俺」から身体を取り戻す、と決めていた
心もすでにない。「俺」によって摺りつぶされ、空虚な残骸を残すのみであった。
既に俺を乗っ取った百合子もそこにいない。確か今日はバイトの日のはずだ。それが終われば、
いや、バイトそのものも彼女にとってはもはや快楽なのだろう。そう思うと、自分という存在を
示す肉体が既に彼女の手に堕ちたことをさらに痛感させる。俺はただ、悔しかった。
* *
「ただいまー・・・」
昨日は母さんに怪訝な顔をされたが、それでも挨拶は自然と口をついて出てしまう。俺として
意識していたことはやっぱり守りたい。そうでないと、今の俺は「百合子」に塗りつぶされて
しまいそうだった。
「返事がない・・・」
恵理子は部活があるため、この時間は不在である。だが、お母さんは家にいるはずなのだ。
靴も玄関にあったので、急な呼び出しを終えて帰ってきているはずだ。だからこそ、そこまで
嫌わなくてもいいじゃないかと思ってしまう。百合子が積み上げた負の遺産だが、俺にとっては
正直なところ身に覚えがない。記憶がその情報を提供してくるが、それで納得できるかといえば
そんなことはない。見ず知らずの人間の勝手な実績に、俺がどうして納得しなければならないのか。
不機嫌な感情を抱えたまま、リビングに入ってみる。すると・・・
「・・・、すー・・・、すー・・・」
「寝ちゃってる・・・」
お母さんはソファの上で横になったままぐっすり眠っていた。朝の急な呼び出しで疲れてしまった
のだろう、無防備な姿を晒していた。
「こうしてみると、お母さんも美人だよな・・・」
確か40歳近い年齢のはずだが、30代前半に見えてもおかしくないくらいに整っている。何より
特徴はその大きな胸。眠っていてもなおその存在感を示す巨大な胸と、どちらかというと可愛い系
の顔立ちなお母さんの全盛期はどんな人だったのだろう。聞ける機会があれば・・・、そんな姿を
見て、ふと怒りが湧いてきた。
「あんたが・・・、あんたがちゃんと育てていれば・・・!」
そう、あの百合子を生み、育んだのはこのお母さん、沙苗なのだ。こいつがちゃんと、娘を育てて
いれば、娘の歪んだ思考を正していれば、そもそも、生んでさえいなければ・・・!
「・・・、こいつが・・・。こいつが・・・っ!」
そんな俺は怒りに突き動かされるままに・・・
「・・・、はぁ・・・。言っても、お母さん関係ないもんな・・・」
母親の胸を軽くわしづかみにしていた。呼吸に合わせて緩やかに上下する、その豊満な胸の具合が
正直なところ気になってしまった。そんな母は目を覚ます気配はない。相当疲れているのだろう。
「よく寝ちゃって・・・。お母さん、いつも大変なはずだからなぁ・・・」
夜勤をこなすこともあるお母さんのシフトはかなり大変なはずである。今日も何があったかは
分からないが、呼び出しを受けて急遽駆けつけたはずだ。そんな中、2人の娘を育てているのだ。
疲れないはずがない。それに、
「やっぱり、お母さんが悪いとは言えないよ・・・。百合子が悪いとしか思えんわ」
百合子の記憶では「ロクに相手もしてくれない面倒な親」という印象だが、それでもかなりの
頻度で接しようとし、正そうとしていたようである。彼女のバイアスがかかった記憶でもそれは
ありありと伺えた。恐らく、彼女もまた百合子に振り回されたのだろう。そんな気がした。
「このくらいで勘弁してあげるから許してくださいね。お母さん」
だから、ちょっとした「復讐」だけで済ませることにした。揉んだり、乳首を摘まんでみたり、
興味が赴くままにいたずらをしていた。復讐すべきは百合子である。そこは取り違えないようにと
考えると、自然と怒りも引いていた。
「それにしても、柔らかかったな・・・」
手に残るモチモチとした柔らかな感触は病みつきになりそうであったが、これ以上は確実に変態
である。百合子の印象を堕とすためならやってもよかったが、そういう意味の復讐がしたいわけ
ではない。考え直した俺は、近くにあった毛布をお母さんに掛けて、部屋へと戻ることにした。
(出来ればお母さんをもっと労わってあげないとな・・・)
自然と湧いた感情から、俺はお母さんに何かできないかを考えるようになった。この感情が
何なのかは分からなかったが、身体が芯から温まる感じがした。
「さて・・・っと、時間もあるし、やらないとな」
俺はいよいよ覚悟を決める。そう、この身体を風呂に入れなければならないのだ。昨日から風呂に
入っていないこともあり、それなりに匂いはきつくなっている。見た目と体形のわりにあまり強くは
ない印象だが、それでも一晩風呂に入らなかったせいで身体が痒かったりして、だいぶ気になって
きていた。
脱衣所で制服を脱ぎ、下着を外していく。普段の百合子が為している動きそのものであり、昨日も
やった行為のはずだが、お母さんへの「復讐」の影響か気持ちが少し安らぎ、冷静になった分
ドキドキしてきてしまう。やはり、俺自身も男子学生だなぁと遠い目を持ってしまう。もっとも、
男しての欲望も、性欲も受け止めてくれた本来あるべき身体は奪われてしまい、いまとなっては
女の子の身体である。その信号が果たしてどこにいるのかは俺にも分からなかった。分からないが
故に、鼓動が早くなる形で表れているのかもしれないが。
一糸まとわぬ姿になり、そのまま風呂へと入る。白い清潔感溢れるタイル状の壁面にグレーの床は、
俺の家の狭い風呂からするとまさに天国であった。
「これが百合子の身体・・・。うーん、落ち着いてみると、やっぱり残念だよなぁ・・・」
お腹の肉を手に乗せながら、自分の肉体の惨状を改めて感じてしまう。自堕落な生活、無気力の
権化、家族と過ごすだけで感じるストレス、歪んだ人格、それが合わさって出来上がってしまった
のがこの百合子の肉体であった。体力はなく、学力もダメ、学生生活も破綻寸前、なのに・・・
「性欲は一人前・・・、か・・・」
今日もあそこがムズムズとしてしまう。ボディソープを泡立て、全身を撫でるように洗いまわして
いた時に下半身に触れると、やはり物足りなさを覚えてしまう。そしてついつい、昨日の感触が
忘れられずに、秘部に手を入れてしまう。
「くはっ♡あ、ああ・・・、気持ち、いい・・・♡」
快感につられて俺の身体の事を思い出しそうになるが、その意識を水の中に沈めるように封印し、
女体の快楽のみを脳に刻み込む。そんなものが無くても、この身体は十分に楽しめると教育をする
ように、歪みを矯正するように対処をしていく。少なくとも本来の自分の身体に欲情し、それを
引き金に自らを絶望に叩き落す、その可能性は摘みたかった。
「ああ、でもあんまりやり過ぎても・・・、ね?」
程々のところでやめておく。正直なところ時間はある程度惜しいのだ。お風呂に入るたびに
イき狂い続け、昨日のようになる有様では復讐以前の問題になってしまう。俺自身は半ば投げ
やりになりつつも、そこまでやけくそにはなっていなかったのだ。そこまで堕ちる前に、自分で
自分を引き戻すことが偶然にもできていた。俺は彼女の記憶の通りに身体を洗い、髪を洗う。
だいぶざっくりとした洗い方だったが、果たしてこれでいいのだろうか?
「ふう・・・、お風呂気持ちいいなぁ・・・」
俺の時は烏の行水と呼ばれるほどにパパッと身体を洗っていたこともあり、のんびり湯船に
つかるのも悪くはなかった。
「この身体も何とかしないとな。まずはダイエットからだろうけど、それより何より・・・」
俺はお風呂の中でこの身体の問題点を考え、整理し、今後の行動を決めていく。正直なところ、
負けっぱなしは趣味ではない。そう思うと、自然と胸が高鳴ってくる。身体もその意識に興味
でもあるのか、不思議と力が湧いてきた。
(1日過ごして思ったけど、この身体、もしかして・・・)
それを検証するために、お風呂から上がってそそくさと自分の部屋へと戻っていった。
* *
「へぇ・・・。百合子の身体、よく頑張ってたんだな・・・」
まるで宿題をこなしてきた生徒を褒めるように、百合子の肉体が為したことを褒めたたえて
いた。昼休みの後、本来の百合子に蹂躙され、頭の中で自分の存在について自問自答している
合間も、彼女の脳は身体に命じ、板書をノートに書き写していたようだ。その内容は普段の俺が
作るノートによく似ていた。恐らく、午前中の授業でやっていた手段を無意識のうちに使って
いたのだろう。見慣れた文章に仕上がってくれているだけでも、内容を見直すときの抵抗が
いくらかマシになる。
「さて、やってみますかね」
そう、今の俺は宿題に取り組もうとしている。百合子が口を酸っぱく言われても一切取り組まず、
常にほったらかされてきた宿題を使って試したいことがあったのだ。そしてこれは、彼女への
復讐の準備でもあった。
「どんな復讐をするにしても、まずは時間を確保したいしな」
そう、あいつは宿題忘れの常連で、よく学校に残されていた。それでいて別に宿題をきちんと
出すかどうかは別であったようで、彼女の記憶には当然ながら何も残されていない。当然のように
右から入れて左から出ていっているようだ。その事実には溜息しか出なかった。だからこそ、
放課後の自由時間が宿題に追われて少なくなるのも困る。こいつへの復讐をどうするか、色々
考えていたけれどまずは自由な時間が欲しい。この身体を売り、お金を稼ぐのか、恵理子や
お母さんを観察し、何かを見直すのか、何かの奇跡が重なって俺が身体を取り返したときに、
こいつが苦痛となるであろう「普通の生活」をその身に刻んでおくべきか・・・、どれを選択
するかは決めていなかったが、余計なことに時間を割く理由もない。
それに、俺自身が壊れそうになるというのもあった。記憶にすべてを委ねてしまっては、俺が
百合子になってしまいそうな気がした。だからこそ、自分を見失わないよう、あくまで習慣は
自分自身を貫く、そう決めていた。そうして俺は、与えられた宿題へと取り掛かった。まずは
数学からだ。
「・・・、あれ?」
おかしい。手がスムーズに動く。何故かはわからないが、受けた授業の内容が、式の構成が
理解できる。百合子の身体は次々と最適な答えを導き出し、スムーズに解決していく。
その速さは元の俺の身体と比較にならないほど圧倒的だった。
「うーん、これは分からないな・・・」
順調に進んでいた矢先、手が止まる。式の構成が分からないのだ。というより、
「必要な式は分かるんだけど、その方法が頭の中に残ってない、のか?」
今までの授業がどのようなものであったかは理解できている。少なくとも俺はその地点では
真面目に授業に臨んでいたし、受けた記憶もあった。ただ、俺が持ってこれたのは「受けた」
という事実のみで、それがどのような方法だったかは恐らく俺の脳に置いてきてしまっている
のだろう。ロードするデータは分かっても、そのデータが存在していない、コンピューターの
エラーのような出来事を自らの身体で体験するとは思わなかった。ただし・・・
「確かその式はこのページを・・・」
足りない式がどこにあるのかは「俺」が理解していた。というより、まだ覚えていたという
ほうが近いのかもしれない。そのページを開き、改めてその内容を読み、百合子の脳に情報を
加えていく。その下にある練習問題を見よう見まねで解き、足りなかったであろう知識を
装備するだけで、詰まっていた部分をあっさりと突破した。
「もしかして・・・、百合子って実はメチャクチャ頭いいのか?」
一日を振り返ると、思い当たる節はあった。放心状態の時の俺が無意識のうちにノートを
書いていたが、そのやり方自体は今日知ったばかりのはずだ。それに、嫌々だったのかも
しれないが何だかんだで授業は真面目に聞き、普段の百合子のように寝たり、投げたりと
いうことは一切なかった。さらに言えば、いま彼女の肉体に入り込んでいる状況を推測
出来ているが、普段の俺だと思いつかないようなこともいくらかあった。
気が付けば宿題をあっさりと終えていた。自分でもびっくりするくらい夢中になっていた。
果たして、勉強ってこんなにも楽しかっただろうか。覚えることや使いこなすことが、
こんなにもワクワクしただろうか。
(やばい、もっと知りたい。もっと覚えたい・・・!もっと!)
その意思に呼応するかのように、百合子の身体は応えてくれる。あるいは、もしかすると
彼女の脳ももっと「知りたい」のかもしれない。幸い明日までの宿題は数学のみだった。
本当は他の課題も済ませようと思ったが、そんな気は起きずに結局数学に傾倒していた。
ひとつ前の宿題はどうか、この練習問題はどう答えればいいのか、この数式はどういう
仕組みなのか、これはいったい・・・、百合子の脳が途切れることなく教えてほしいと
乞うてくる疑問に、俺は覚えている限りのヒントを与える。そして彼女の脳とともに
問題を解き、その知識を頭の中に刻み込んでいく。
「すげぇ・・・。こんなあっさり覚えるのか?」
苦痛にさえ思えるはずの勉強の知識を百合子は次々とモノにしていく。新しい知識、脳に
辛うじて残されていた知識、それらの点を線として繋ぐ作業が、ここまで楽しいとは!
一種の快楽さえ覚える作業に、今までにない達成感を感じていた。
もしかすると、俺だけではないのかもしれない。本来の怠惰な主によって一切使われる
事のなかった優れた知性、高い能力が今やっと使われようとしている、恵まれた能力を
与えられながら、日の目を見ることもなかったであろう本来の性能が存分に発揮できる、
身体が本人と別の意思を持っていたとしたらさぞ悔しかったであろうその無念さ、使って
貰えるありがたさ、快感を、この身体もまた抱いているのかもしれない。
「――ぇ・・・」
「えーっと、次の式は・・・?」
「ねぇ!ちょっと!!」
ふと、大きな声が聞こえた。氷で貫くように凛として、鋭い聞き心地のいい声が部屋に響き
渡っていた。その方向を見ると、その可愛らしい表情を怒りで歪ませた恵理子の顔があった。
「ご飯できたって」
「えっと、ごめんごめん!つい夢中になっちゃって・・・」
その言葉にキョトンとし、また元の表情に戻ったかと思うとその場を後にする。何か意外
だったのだろうか?
っとと、いけないいけない。せっかく作ってもらったご飯を無下には出来ない。一旦勉強を
止め、リビングへと向かう。
(こんなに集中できたの、初めてかもしれない・・・)
どうやら風呂から上がり、宿題に取り組んでから今の今までずっと勉強していたようだ。
百合子の脳に新しい知識を植え付ける楽しさもそうだが、まるでチートプレイのように貪欲な
までに知識を吸収し我がものとしていく百合子の脳を育てることに、俺は夢中になっていた
のかもしれない。今の時間まで何も気が付かず、一心不乱に取り組んでいたこともまた、彼女の
高い集中力を示していた。やや頭が痛いが、恐らく普段使っていなかったものを動かしたから、
いわば筋肉痛に近いものだと推測していた。恐らくこれから毎日と言わずとも、適切に取り
組んでいけばいつか慣れるであろう。
(もっと知りたい、もっと理解してみたい。この身体、本当は凄いのかも・・・)
このとき俺は初めて、入れ替わったこの肉体で快楽を、前向きな希望を見出すことが出来た。
もしかすると、もっと知らないことが隠されているのではないか、もっと出来ることがあるの
ではないか、もっと、もっと・・・!
際限のない欲求、探求は、次第に俺を前向きに、希望を持たせてくれていた。
* *
「く、久保田・・・。お前、とうとうやってきてくれるようになったのか・・・!」
「ええ、はい・・・。まぁ」
数学の担任の先生が感動したような目を俺に向けてくる。それはそうだろう。何せあの「久保田
百合子」が宿題を提出したのだ。恐らく初めてじゃないかと思われるくらいの出来事のはずだ。
少なくとも俺自身の印象の中にも、何より彼女の記憶の中にもそんな出来事は残されていない。
たったそれだけでここまで感動されてしまうのもどうかと思ったが、自分が頑張ってやったことを
褒めてもらえたのは素直に嬉しかった。
それからと言うものの、授業を受けることが楽しくなっていた。今まででも真面目に臨んでいた
つもりだったけど、その中にはどうしても義務感のようなものがあった。当たり前に消化しなければ
ならない、勉強をしなければいけない、そう言った無意識が頭の中にどうしてもこびりついていた。
しかし、今の身体はそもそも知識がないせいか、覚えることに必死だった。そしてその事を、この
身体は少なからず喜んでいた。授業を受け、家で勉学に励んでいるうちに脳はこびりついていた
錆を落としていった。すると次第に、脳は本来の性能を取り戻していった。
「やっぱりすげぇなぁ・・・。百合子、本当はこんなに頭よかったんだ・・・」
授業に真面目に取り組むようになり、家では家で、家族に戸惑われながらも勉学に一心不乱に
取り組むようになってから早1週間、俺は小テストの結果を片手に独り言ちる。今回は1問
間違えてしまったが、今までの百合子の成績を考えると破格と言える結果であった。
「うえぇ!百合っち1問間違えただけとか!?マジありえねーんすけど師匠!」
「師匠っていうのやめてよ・・・。恥ずかしいじゃない」
「いやいやいや、師匠のお陰でアタシ至上最高の点数よマジで!」
もう一つ変化があった。なんと私に「友達」が出来たのだ。彼女の名前は「進藤 あかね」。
陽キャのトップにしてスクールカースト上位のコミュニケーションお化け、明るい茶髪に耳に
ピアス、ばっちりと決められたメイク、浅黒い肌、そして胸に宿る巨大な双丘など、バリバリの
ギャルという百合子とはまさに正反対の存在が、答えの半分くらいに丸が付いた答案用紙を自慢げに
見せながら話しかけてくる。正直なところ、元々の「俺」の頃からこの子は苦手だった。品性のない
喋り方によく通る声、まるで距離感というものを知らないその態度がどうにも合わなかったのだが、
百合子になってから、あかねのその個性に救われることになった。
きっかけは体育の授業だった。いわゆる「二人組作って」である。当然ながら、百合子と組もう
なんていうご奇特な輩はいるわけもない。元々の俺も早々に友人とペアを組んでしまっている。
その時の俺への勝ち誇った視線はたまらなく悔しかった。
当然のようにペアからあぶれ、途方に暮れていると
「あれ?百合っちペアいないのかえ?ならアタシと組もうよ!」
そう言って声をかけてくれたのがあかねだったのだ。ペアに選んでいた仲間内は残りで3人組を
組むように調整し、わざわざ私のために来てくれたのだった。その屈託のない笑顔がどれほど
眩しく、それに救われたかは今でもよく覚えている。
ただ、その体育の授業は非常に・・・、大変だった。内容が体操だったのだが、俺はそのあかねの
身体に触れまくることになってしまった。彼女もまた非常な恵体の持ち主で、その身体のいちいちが
とてつもなく柔らかいのだ。そんなあかねと密着し、ストレッチの手伝いをするときに男として
非常に興奮してしまった。鼻につく香水の匂い、柔らかな身体、中身が男と知るはずもなく、
その身を預けてくれるあかね・・・、とてもじゃないが、記憶が飛びそうになったのもまた、
忘れられない思い出だ。
それから彼女との交流が始まった。教室で話す程度の関係ではあったが、それでもあかねは積極的に
話しかけてくれるようになった。
「うっわ!百合っちのノートぱねぇw めっちゃ書いてあんじゃん!」
休み時間にノートを片付けていると、いつもの通り話しかけてきたあかねが俺のノートをみて、
感心したかのように感想を漏らしていた。
「そんな百合っちを見込んで、頼みがあるっ!アタシに勉強教えてくれ!」
このあかね、コミュニケーション能力だけで言えば恐らく満点を通り越しているが、勉強の結果は
凄惨の一言に尽きるくらい悪かったのだ。この地点での百合子の結果もどんぐりの背比べだった
はずだが、真剣な表情で申し出てくれた彼女を見ると無下には出来なかった。俺はこの申し出を
引き受けることにした。
こうして彼女との勉強会が始まった。あかね自身がだいぶ多忙であるから休み時間や放課後の
ちょっとした時間が中心だったが、適度に雑談を交えながらも、あかねは真面目に取り組んでいた。
それは同時に、俺の学力向上にもつながっていた。他人に教える以上、もっと深く、もっとしっかり
理解しておかないと説明できなかったから、自然と自分の勉強にも身が入っていた。本来の性能を
発揮し始めていた百合子の脳は、そんな頭の中の知識を器用に整理し、俺が分かりやすく説明できる
ように整えてくれていた。元々の俺とは比較にさえならないほどに速く、鮮やかであった。
「いやー、百合っちってもっと取っつきづらいと思ってたんだけど、話してみると面白いね!」
勉強しながらいろいろな事を話してくれたあかねからこんなことを言われたが、それは俺のセリフ
だった。 例え百合子のような存在であったとしても一切の偏見を抱かず、当然のように自然体で
接することのできる彼女の人となりは、早々出来るものではない。天性のものであると言えるだろう。
「そんなことないよ・・・。でも、ありがとう」
「そーんなお礼言われるこったないよ!アタシが世話になってるんだし!ていうかアタシら
友達っしょ?遠慮なんかいらんて!」
嬉しかった。それが当然だとでもいうように、あかねは友達と言ってくれたのだ。熱いものが込み
上げてくることに気が付いた俺は、いつしかその言葉に涙していた。
「えぇぇぇ!!?どうした百合っち!?アタシなにか変な事言ったか!?」
「ち、違うの・・・。嬉しくて・・・、ごめん。なんていえばいいか・・・」
「何かこう、大変だったんだなぁ・・・。ほれ、ほれほれ泣け泣け!アタシのでっかい胸の中で泣く
がいい!」
そんな俺の頭を、まるで大切なものを抱えるように抱き寄せ、受け入れてくれた。その彼女の誰に
対しても距離感を感じさせない、天性の明るさに救われた。裏にあるとんでもない理由なんて知る
由もないだろうが、それでも何かあったんだろうと察し、受け止めてくれた「友達」に、俺は心から
感謝していた。
・・・、その時の彼女の豊満な胸の感触もまた・・・、忘れられなかった。自分よりはるかに大きく
柔らかいそれは、興奮と同時に少しばかりの悔しさをもたらしてきた。ちくしょう。
――――――――――――――――――――――――――――――――
清彦の身体を奪い取った百合子は、周りの環境もあり及び腰に接した清彦とは異なり自分の欲求を
満たすために一晩掛けて10回もイき、彼の肉体の中で快楽の海に浸り続けたことで、百合子から
流れ込んだ彼女の根源とも呼べる存在が清彦の肉体の奥底に完全に固着していた。既に百合子に
とって清彦の肉体は以前の自分、もしかするとそれ以上に使いこなせるレベルに至っていた。
それは自動的に、本来の清彦が戻れる余地をなくしていることを意味していたのだが、清彦が知る
手段は存在していない。本人が知らぬ間に、すでに退路は断たれていたのだ。
「よしっ、今日は学校終わりにバイト、その後はまあ、また楽しもうかな」
百合子は清彦の脳に残されている彼の人格や生活習慣、記憶を用いて清彦としての仮面を被り、
完全に成りすます。喋りたいと思った事項は清彦の口癖、イントネーションを使い、挙動は彼の
運動神経や癖を用いて行われる。無意識のうちに出てしまっていた仕草や笑顔も含めて、どこから
どう見ても清彦その人であった。
(あははっ!すごいや!私が清彦君を支配してそのすべてを使ってるんだ!)
脳の中に居座る百合子は家を出ようとして、彼の一物から自然と白濁液を染み出させてしまう。
既に清彦の肉体は百合子の快楽信号を受け、簡単に射精する身体へと作り替えられてしまっていた。
鈍重な百合子の肉体と異なり、適度に鍛えられた清彦の肉体は軽く、力強い。かつての自分の家
より遠い通学路でも全く疲れる気配もないその身体か眺める世界もすべてが新鮮に見える。
(これからは私が清彦君なんだ!)
その想いと本来の彼が持ち合わせていた前向きな想いが結合し、自然と身体を学校へと向かわせる。
百合子にとってこんなにもワクワクしながら学校へと向かうのは初めてのことであった。
「おはよーっす」
挨拶とともに教室に入ると、清彦の友人たちが彼に目を向けてくれる。当然の事ながら清彦の中身が
完全に別の人間にすり替わっていることに誰かが気づくこともない。清彦が作り上げてきたものが
そっくり自分の手の中にある。そのことを確認し満足した百合子の視界に、あるものが目に入る。
(へぇ・・・、ちゃんと学校に来たんだ。えらいじゃん)
机に突っ伏し、息を整えるかつての自分が視界に入る。恐らく学校に来るまでで体力を使い切り
かけてるのだろう。その光景さえもいつも通りであった。
(清彦君、そんな私を見てもバカにはしてなかったんだね。やっぱりいい子だなぁ。私の身体に
相応しいわ)
清彦の脳をほじくり、私に対する印象を閲覧する。どうやら彼はいつも突っ伏している以外、
特に不快な印象を持ってはいなかったようだ。つくづくお人好しで、純粋な清彦の性格に満足する
と同時に、百合子の歪んだ性格が目を出し始める。
(・・・、そうだ)
歪んだ彼女のひょんな思いつきに対して、もはや芯まで支配された清彦の肉体は抗うすべを持たない。
彼女の意思を受け、その脳からかつての自分に対して「清彦」としての対応を作り出し、声をかけて
しまう。
「昨日は日直「お疲れ様」ね。ありがとう」
その時に彼女が向けた、驚きと絶望がない交ぜになった表情はまさに百合子が望んだような理想の
表情であった。
(やっぱり清彦君最高だよ・・・!私にそんな顔をさせてくれるなんて!)
百合子にとって、ターゲットとして選んだ清彦はやはり最高の逸材であった。適切かつ丁寧に管理
された肉体、彼女にとって理想的な家庭環境、それらから構成された経験と技術に彼の生活が積み
上げた知識量、さらには入れ替えた後に魅せてくれる百合子としての様々な表情・・・、どれも
これもが百合子の支配欲を充足させてくれる。そんな百合子は清彦の仮面を被り、清彦としての
いつも通りの雑談に興じる。彼の友人である佐竹と大川も気づくことはないし、百合子が雑談の
内容に困ることもない。全て清彦の知識と常識、興味の中で対応できている。そして彼らは気づ
かない。そんないつも通りの彼が雑談に興じながら、一物から精液を放出しているなど・・・。
学校を終え、バイトへの道を急ぐ清彦は快感と快楽に包まれ、最高の気分を味わっていた。授業を
受ければ清彦が残していった知識を使って内容を理解できる。宿題は彼が勝手にやってくれていた
ためそれを提出するだけで済む。そして疲れもしない。そして何より・・・
「ふふふっ、昼休みの百合子、傑作だったなぁ・・・」
既に清彦の全てを掌握している百合子にとって、百合子の身体に入れられた清彦がどんな行動を
するのかを予測するのは簡単であった。その予想通り、清彦は私に話しかけ、身体を返せと伝えて
きた。そして何より、私が百合子の身体で何をしていたのかを知ってしまったようだった。
「だから、徹底的にやっちゃったんだよね。清彦君の頭も悪い子だよねぇ。どうやれば一番
ダメージを受けるのか考えちゃうんだから」
そんな清彦に対して、百合子は自分の夜の行為や彼に成りすまして行動した事を洗いざらい伝える
ことにした。そうすればダメージを受けると分かってしまったから。百合子に染まった清彦の身体は、
そういう演算を自然とこなしてしまっていた。そして何より、自分が疎ましいと思っていた家族を
盾にして清彦の意識を百合子の身体に封じ込めることに成功してしまったのだ。彼が持っている
信念を逆手に取り、「家族に手を出せない清彦」の性質が百合子の肉体から牙を抜いてしまう、
文字通り自らの手足となった身体がたまらなく誇らしかった。
「よし、じゃあ今日もバイト頑張るかな!」
清彦になって初めてのアルバイトに、百合子の胸は躍っていた。
* *
そして1週間、百合子は清彦の生活をトレースしながらも、夜は快楽に浸り続けていた。清彦の
生活習慣は彼女にとって新鮮であった。毎日欠かさず勉学に励み、バイトも積極的に取り組む。
そして身体がなまらないようにストレッチや走り込みも欠かさない。本質が怠惰な百合子にとっては
本来続けられそうにもない習慣だったが、清彦として活動することに快感を覚えてしまう百合子は
それをこなすことが出来ていた。
「はあ・・・、はあ・・・、和美ちゃん可愛いよなぁ・・・♡」
そんな百合子が最近ハマっていることが、清彦の習慣や好意を使っての自慰行為であった。清彦とて
普通の年頃の男の子であった。当然クラスメートに好感を抱いている子、可愛いと思う子もいた。
そしてそのまま夜に妄想に耽ることもあったのだ。百合子はその記憶を再生し、「彼が普段やって
いた通りに」自慰をした。今日生贄になっているのはクラスメートの和美である。可愛らしい
顔立ちに控えめな性格から、男子生徒の人気も高い女の子、そんな彼女を頭の中で、男として
ストレートな感情を使用して自慰に耽る。百合子の快感によってさらに加速された快楽は本来の
快楽と比較して桁外れであり、彼の脳をショートさせる寸前までの絶大な快楽をもたらしていた。
当然そのあとは何も手が付かず、初めて宿題をすっぽかしたわけだが、清彦の積み重ねてきた信頼で
乗り切れた。
そんな充実した毎日を送っていた百合子だが、気に入らないことがあった。そう、何を隠そう元の
身体である。明らかに様子がおかしいのだ。勉学に取り組み、生活態度も勤勉になっていた。
見た目はそこまで変わっていないが、その身体には明らかに力が宿っていた。そして何よりも・・・
「友達・・・?わ・・・、百合子に?」
「そうみたいだな。いいことじゃないか?彼女も最近頑張ってるみたいだしな」
百合子に友達が出来ていた。それも、疎ましいとさえ思っていた「進藤 あかね」である。一体
どういう手段を使ったのか、あんな魅力もない、何もない自分の身体で何をしたというのかさっぱり
わかっていなかったが、少なくともあかねは百合子に対して自然に、そして好意を抱いて接している
のはよく理解できてしまった。そしてよく見れば百合子自身の成績も大幅に向上していた。以前の
百合子からすれば清彦の成績は手が届かないほど高いものであったが、彼女はそれが清彦が欠かさず
努力していた結果だということを理解しておらず、またしようともしなかった。勉強をするように
なったのも「勉強をする清彦を体感する」という欲求に正直であるが故の結果でしかなく、その
意味が分かっていなかったのだ。
その結果、本来の百合子の本質を理解していなかった彼女には、清彦が胡散臭い手を使って結果のみ
を向上させた、という風にしか捉えられなかった。清彦がなぜ勉強していたのか、身体と向き合う
チャンスをみすみす手放してしまったのだ。と同時に、彼女の頭の中に一種の焦りにも似た感覚が
湧いていた。
(清彦君は・・・、私の身体を使いこなしてるというの・・・?)
その事が百合子にはたまらなく許せなかった。自分の中では絶望的とさえ思っていた状況を、自らの
手で切り開いていく清彦に、ある種の恐怖さえ感じていた。
「清彦・・・?どうした?」
「あっ・・・、ごめん!何でもないよ!何でも・・・」
「何か顔色が悪いぞ。ここ1週間くらいずっと疲れてるみたいだし、相談でも乗ろうか?」
「大丈夫大丈夫!ホント心配いらないよ!ありがとな」
会話の相手は清彦の幼馴染で、最も大切な存在だった存在である。清彦の記憶の中でもとりわけ
大切に扱われていることからも、いかに大事にしてきたかが窺い知れたが、百合子にとってはその
暑苦しさが鬱陶しかった。清彦の仮面がそれを表に出さないように振舞ってくれているが、その
不快感は覆い隠せそうもなかった。そしてその日の夜、清彦は一線を越えてしまうことになる。
* *
「清彦君・・・、私の身体で何をしているっていうの・・・?」
今日はバイトもない日なのでさっさと帰宅するが、いつもの通り自慰に耽ることはなかった。
百合子の奮闘を見て、自分がさじを投げた状況を少しずつ、しかし確実に改善へと向かっている
彼の行動に悶々としていたのだ。ベッドの上でイライラを募らせていると・・・
「ただいまぁぁ!清彦いるのぉ!?」
そう、彼の母親が久しぶりに自宅に帰ってきたのだ。彼女の名前は双葉、17歳で彼を生み、
その後離婚して今の状況を作り上げた母親が、べろんべろんに酔っぱらって帰ってきた。彼女は
そのままリビングに入り、突っ伏して眠ってしまった。かなり泥酔しているようである。
「ったく・・・、いつもいつも何でこうなのかな」
清彦はそんな母親に不満は抱きつつも、唯一の肉親として大切に扱ってきた。しかし、中に
入っている百合子によって、清彦が裏で抱いていた鬱屈した想いが、母親の双葉に対して
抱いていた微かな不満が掘り出されてしまっていた。そして、本来の人格が徐々に、しかし確実に
百合子によって浸食された結果、歪みがとうとう表に出てきてしまったのだ。
「アレだけ面倒見てるんだ。ちょっとくらいいいよね・・・?」
百合子は意識を失った双葉のスカートをまくり、起こさないように慎重に服をずらして秘部を
確認する。そこにはしっかりと精液が溢れた様子が確認できている。
その事を確認した清彦は、いつもの通り母に対してのご飯を作る。酔っぱらっている双葉のことを
考えて、簡単な雑炊をよく作っていた。その中にあるものを摺りつぶして混入させておく。そして
彼女を「いつもの通り」起こす。
「母さん。ご飯だけでも食べないと」
「あぁぁ、きよひこぉぉ。おみずぅぅぅ」
「ハイハイ」
苦笑しながらも彼女が欲しいものを与え、肩を貸しながら彼女を椅子へと座らせる。その間に
食事の準備を整えると、彼女は水を一気に飲み、食事を口にする。口にしてしまう。目の前に
いるのはもはや、清彦の姿をした悪魔でしかない。その事に当然気づくこともない。今の清彦に
とっては守るべき対象ではない、恵まれた身体つきをしたただの欲望のはけ口とされていることに、
双葉は気づくことはなかった。
双葉が食事を食べ終えた後、清彦はその食器を洗う。残さずきれいに食べた後の食器を見て、
百合子は清彦の顔に歪んだ笑みを浮かべさせる。その後自分が必要な最低限のこと、明日の準備や
洗濯などを済ませてリビングへと向かう。そこには・・・
「ぐごぉ・・・、すー・・・、ぐがっ・・・」
双葉が机に突っ伏していた。机の上に顔を横たえ、開かれた口からは涎が垂れていた。左腕が
力なく机からずり落ち、ゆらゆらと揺れている。酒を飲んだからというのもあるだろう、軽く
いびきをかいた様子からも眠りの深さが窺い知れる。
「母さん、こんなところで寝ると風邪引くよ?」
呼びかけつつ、頬を叩いても反応はない。念のために瞼を開いてみるが、眼球がゆっくりと
動くのみで目を覚ますことはなかった。
「まったく、子供に寝不足の時の薬まで持ってこさせるからこういうことになるんだぞ?」
百合子は聞こえていないのを承知で、片手に薬が入った袋をひらひらとさせながら双葉に
話しかける。双葉はその不安定な生活から不眠症を患っており、睡眠薬を定期的にもらって
いた。酒を飲んでいない夜に服用することが多いのだが、その管理をなし崩し的に清彦に
預けてしまっていた。その記憶の提供を受けた百合子は双葉の食事に睡眠薬を混ぜ込み、
彼女を深い眠りに誘っていたのだ。
「確か素面の時でも5時間は目を覚まさない。つまり、今晩は母さんの身体を好きに使える、
ってことだよね?」
そんな眠る母の両肩を掴み、椅子の背もたれにもたれかけさせる。意識を失った頭が後ろに
振られ、彼女の口が大きく開かれる。百合子は念には念を入れて、彼女のその口の中に睡眠薬を
さらに追加で1錠、そしてピルを投じておく。既に他人の精子で満たされているが、実の息子の
精液で孕まされたと言われるのも困る。冷徹な判断に基づく事前準備を施したのち、彼女の両脇を
掴んでズルズルと、意識のない肉体を双葉の部屋へと運んでいく。清彦の身体でも意識の抜けた
女性は重たかったが、高まってくる性欲の前にはどうでもいいことであった。
「文字通り、身体で払ってもらうね。母さん」
既に双葉の部屋のベッドはゴミ袋を切り貼りして、シーツの上にかぶせてある。これで行為に
及んでも、その袋を剥がして捨てるだけで証拠隠滅が図れるようになっていた。
「はぁっ・・・、母さんの身体重いよ。清彦君の身体じゃないと運べなかったね」
肉体の性能に満足し、興奮しつつも双葉をベッドの上に横たえる。これから実の息子に犯される
という運命が待っているというのにも関わらず、彼女はすやすやと眠り続けている。
「男を誘うために一生懸命努力したんだろうけど、その努力を俺にも振り向けて欲しかったよなぁ」
大きな乳房、きれいに染められた茶髪、口の中の整ったきれいな歯にも金がかかっているのだろう。
まだ服は脱がせていないが、手や足だけでも分かるきれいに手入れされた肌、年齢的にそろそろ
劣化し始めるところだが、そこはきちんとケアしているようだ。そんな彼女に対して清彦の心の中に
眠っていたわずかな黒い感情を口に出させる。もちろん寝姿も撮影している。男の子として、この先
の自慰ネタに使うためだ。
「じゃあ、始めようか母さん」
女性の服の着方など清彦が知るはずもないが、そこは百合子が持つ知識で事足りた。その提供を
受けた清彦の身体は手際よく彼女が着ている服を脱がせ、下着を外していく。洗濯自体は清彦が
やっていたこともあり、触れたことはあったのだ。その動作自体はまさに、手慣れたものであった。
「・・・、すごい。これが女の人の身体・・・」
百合子の際に散々見てきたはずの身体なのに、清彦の目で確認することでさらに興奮した。これが
男の本能なのだろうか、思わず彼女の豊満な胸に手を当て、揉みしだいてみる。自分の時は全然感動
もしなかったはずなのに、それだけで性的興奮を感じ、下半身が熱くなってしまう。
「じゃあ、いくよ。母さん」
意識のない双葉の手を使い、肉棒を擦らせて準備を整える。ここまでは清彦が見聞きしてきたエ〇
DVDなどの内容を再現している。年頃の少年にはたまらない妄想の世界を実現しようとしている
ことに、百合子の興奮は最高潮に高まっていた。穢れを知らない清彦の身体を、いよいよ自分の
意思で一線を越えさせる、彼にとっての初めての瞬間さえも、百合子は奪い取ろうとしていた。
「よしっ!・・・、あがっ!!頭が、痛い・・・!」
そしていよいよ膣内に挿入しようとしたところで、身体の動きが止まる。清彦の記憶が百合子に
訴えかける。これは近親相姦だ、母に手を出したくない、無意識に残されていた清彦の意思が
最後の抵抗を試みたのだ。しかし・・・
「そんなに頑張ってもだめだよ清彦君!もうこの身体は私の物。私が何をしたいかさえやって
くれればいい。だから、諦めなさい!」
その意識を強引にねじ伏せて、とうとう膣内に入れてしまい、腰を振る。今までの自慰とは異なる
何倍もの快感が脳を襲い、清彦の常識を押し流し、封印してしまう。さらには百合子は清彦の
わずかな黒い感情を暴走させ、この行為を正当化してしまう。「今までのつけを払ってもらう」
という理由を以て身体を納得させる。
――気持ちいい!気持ちいいよ清彦君!!
そこにいたのは男の身体に女の意思を宿した、暴走するケダモノであった。
* *
「んぅ・・・、朝、か・・・。頭が痛いな」
結局一晩中、双葉の身体を蹂躙し続けた清彦は意識を失っていた。清彦は彼の記憶と、百合子が
思いつくままに行為に及んでいた。膣内はもちろん、口の中や乳房など、ありとあらゆるものを
使い、その欲求を満たしていった。果たして何回出したかは覚えてさえいない。ただ、充実した
感触と体力を使い果たした事だけはありありと分かっていた。
「今日はもうだめだな・・・。学校休も」
仮病を使って学校を休む連絡を入れ、後始末にかかる。双葉の部屋の窓を開けて換気をし、眠る
彼女を無造作に避けてベッドの上のゴミ袋を捨てる。部屋を大体元に戻した後は、双葉を風呂場に
連れて全身を洗浄する。口の中も蹂躙してしまったこともあり、全身のみならず口をこじあけて
歯も磨いていた。風呂場では意識のない双葉の柔肌に反応し、人形のようになった女性を洗うと
言う行為にさえ興奮してしまったこともあり結局2回ほど暴発してしまった。
暴発した分を洗い直し、全身をきれいに拭いた後に彼女を部屋に戻し、寝間着に着替えさせ、
ベッドの上に寝かせておく。その様子から、昨晩全身を息子に蹂躙されたとは思えないほどに
整然と、きれいに整えられていた。寝ぼけて着替えたあとに寝たといえばごまかせるであろう。
泥酔したときの双葉の様子を知る清彦の記憶から大丈夫だろうという確信があった。
「これからも楽しませてもらうからね。母さん」
清彦が母に向ける笑みを浮かべ、下種なことを口にさせる。その事が百合子に清彦の身体も、
意志も完全に堕としたと実感させる。一線を越えた百合子の意識は、解放感に満ち溢れていた。
これ以降、百合子の意識は清彦という枷を完全に破壊し、彼女の意のままに、男の性欲だけを
残した存在として稼働することになる。
「きよ・・・、ひこ・・・。ごめん・・・ね・・・」
悪夢にでもうなされているのだろうか、双葉の口から寝言が漏れたが、百合子の意思に完全に
支配された清彦に届くことはない。ここにこの母子の感情は大きなすれ違いを見せたのであった。
しかし、百合子はもとより清彦も気づかなかった。この1週間が文字通りの分水嶺であったのだ。
入れ替えられ、結果的に身体を支配しながらも百合子の身体と対話し、自分がこれまで培ってきた
技術や知識、経験を提供して学習させ、その高い能力を開花させはじめた、いわば「共生」の道を
選んだ清彦と、快楽と欲望で蹂躙して文字通り完全に屈服させて、彼の積み上げてきたものを利用し、
その環境や生活さえも破壊する「支配」を選んだ百合子。
これらの違いは、清彦は百合子が抱いていた母に対しての感情を受けてもなお自我を貫き、一線を
越えることなく労わろうと思えたことと、清彦の抱いていた感情を利用し、実の母を使って一線を
越えるに至ったことにも表れている。これらのスタンスの違いは、彼らの運命を決定的に分ける
ことになるのだが、それを互いが知るのはまだ先のことである。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「うーむ・・・」
「あ、あの、あかねちゃん・・・?」
今日は珍しく、あかねが放課後に勉強会をしようと誘ってきた。いつもと違うのは、彼女に加えて
他にも友達が2人いることと、図書室じゃなくて教室でやっていることだろう。「たまには色々
喋りながらやりたいじゃーん?」とはあかねの弁だ。そんな彼女は、俺の顔を息がかかる距離で、
それはもう穴が空きそうなくらいしっかりと、ジーッと見つめてくる。親しくなってしばらく
経ったが、それでもやっぱりドキドキしてしまうのは仕方のないことであろう。そのくらいあかねは
美人なのだ。
「よしっ!だいぶニキビ跡きれいになってきたね!」
「あかねから聞いてたけど、噂よりずっときれいじゃん。つか、肌キレイすぎ何それ」
「あたいもその肌分けてほしいっすー!」
どうやらニキビ跡を見ていてくれていたようだ。勉強しているときにあかねが「百合っちって
肌キレイなのにニキビ跡だけ目立ち過ぎじゃね?勿体ない」と気にしてくれたのだ。わざわざ
自分が使っているニキビケア用の薬まで提供してくれた。申し訳なかったから断ろうと思ったが
「むしろ勉強教わってる分の恩返しさせておくれよー!」と泣きつかれてしまったので受け取り、
使わせてもらっている。
「つか、百合ってこんなに面白い子だったのね。私もちゃんと話してみるべきだったわ。
ごめんね今まで」
「ほんっと、あかね姉ぇは人発掘の天才っすわー!あたいとも仲良くしてくださいね先輩!」
ちなみにこの2人は「岩井 早希子」と「清水 亜由未」。早希子はクラスメート、亜由未は
そもそも1学年下だが、幼稚園の頃からの幼馴染にして親友らしい。コミュニケーションお化けの
あかねは清楚系からギャル仲間に至るまでとんでもない量の友達がいるのだが、特にこの3人の
関係は別格だそうだ。三者三様でギャルを貫いており、早希子は肩にかかる程度の黒髪ながら
制服を着崩し、派手じゃない程度のメイクで固めたいわゆる清楚系ギャル、亜由未はきれいな
茶髪をツインテールにして、両耳にイヤリングを付けた妹系といった様相だ。話してみると
これがまた面白い。早希子の言葉じゃないが、人はやっぱり話してみないと分からないというのは
俺も共通の見解だった。この3人の内、早希子は相当に頭がいいのだが、あかねの学力改善に
至ることは出来ずにいた。俺がどうやって教えたのか興味があり、あかねを通じて今日参加したいと
申し出てくれたそうだ。亜由未については面白そうだから、ということらしい。
ちなみに、あかねと友人関係が出来てからの周りの対応も変わり始めていた。まだまだ人数こそ
少ないが、話しかけてくれる人が増えてきた。そんな俺に対しても結構好印象を抱いてくれる子も
増えているそうだ。だからこそ、顔のニキビ跡や、おしゃれのことも気になるようになってきたが、
所詮は男の俺、よくわからない部分がいっぱいあった。
「ところであかね、みんな・・・」
「んー?どしたかね百合っち?」
「ぼ、私がオシャレするとしたら、教えてくれるかな・・・?」
だから、意を決して聞いてみることにした。すると答えは意外なものであった。
「とんでもない!アドバイスはしてあげられるかもだけど、アタシらじゃ無理よ無理!」
「そうだねぇ。たぶん教えても仕方ないし」
「残念ですけどお役に立てそうにないっすー。先輩ごめんなさいっす」
まさかの完全拒否だった。やっぱり百合子の身体は可愛くしてやれないのだろうか。実際、彼女の
身体は俺によく従ってくれている。頭も確実に冴えてきているし、俺が彼女の行動から逸脱しそうに
なれば補正してくれる。だからこそ、どこまでやれるかは分からなかったがきれいに、可愛らしく
してやりたかった。入れ替わってそれなりに経ってしまったが、だからこそ少しばかり、愛着の
ようなものが湧いてきてしまったのだ。あるいは、捨てられた者同士の傷の嘗め合いなのかも
しれないが・・・。
「や、やっぱり私なんかじゃ・・・」
「わわわ百合っち泣かないで!そういう意味じゃないから!」
「そうよ。どちらかというと、「私たちでは師匠として相応しくない」というのが実際のところだから」
「だから残念なんですよー。お力になりたいのはやまやまっすけどね!」
どうやら意味合いが違うらしい。悲しすぎて泣きそうになっていたが、何とか堪える。そして彼女たち
は説明を始めた。
「まず、この白い!白魚のようなきれいすぎる肌!ニキビを治し始めてアタシは確信している!
この素材を生かさないわけにはいかないと!」
「それに、目もキレイだしね。自分で思っている以上に大きいし、よく見たら顔のパーツもバランスも
すっごい整ってるからね?」
「あとねー!この黒い髪の毛!いまはちょっとぼさっとしてるっすけど、正直あんま念を入れて手入れ
してないっすよね!それでこのサラサラは反則っすよ!」
3人がかりで褒めたたえてくれる。そこまで魅力的だったのだろうか。しかし、それを認めてもらえる
ことは嬉しかった。
「ということで、百合っちはずばり「清楚」を地で行くべきだと思うわけよ!」
「それを教えるには、私たちではちょっと方向が違い過ぎてね。内科医じゃ外科の執刀は出来ない
みたいなもんなのよ」
「色々と味付けするにはあまりにもいい物持ちすぎなんすよ!手を入れたら確実に腐っちゃうんです!
いいなぁ。手入れさえしちゃえば間違いなく無敵っすよ先輩!」
「み、みんな・・・」
本当は3人とも教えたいのだが、方向性があまりにも違い過ぎるらしい。しかし、自分の身体の美点と
いうものは意外と分からないものだ。もしかすると、見た目も化けるのかもしれない、それが知れた
だけでも希望だった。
「とりあえずクラスメートだと・・・、和美あたり目指せばいいと思うよ!」
「あー、あれは確かに清楚の一つの答えだよね。性格含めて・・・」
「性格だけは先輩の思った通りでいいと思うっす!」
彼女たちの話から出てきた女の子は「栗原 和美」。ショートボブの鮮やかな黒髪に、可愛らしい
顔立ち、性格もその見た目通り、穏やかで引っ込み思案なクラスメートのことだ。清彦の身体にいる
間にも密かに憧れていたし、彼女のことで妄想をして、抜いてしまったことさえあった。
「何だったらアタシが声掛けとくよ!今度話してみな!」
「うーん、このコミュニケーションお化けよ・・・。百合も思わん?この見た目からどうして和美と
さえ接点があるのかと」
「えー!人類皆いい子だもん!話せばわかるんだもん!」
その能力に救われた俺としても、正直なところ憧れた。幼馴染の早希子でさえ理解できないほどに器が
広いらしい。人の心に深々と入り込んでくるが、それが不思議と心地いい。決して人を馬鹿にせず、
荒らさず、するりと入り込んでくるその能力が羨ましかった。
「まあでも、そのおかげで百合の事知れたと思えば、私も感謝しないといけないんだよね。これからも
よろしくね」
「あたいも是非よろしくしてほしいっす!先輩!」
「うん、こちらこそよろしくね。至らないところだらけだと思うけど・・・」
友達として仲良くしてほしい、その言葉にありのままの返答を返すと、3人は私を真剣なまなざしで
見つめてくる。何か、地雷でも踏んでしまっただろうか。
「はぁーっ!百合っちは分かってない!本当に分かってないよ!」
「うむ、何を勘違いしているのだろうか」
「今日が初めてっすけど、そんな感じっす!」
三人がそれぞれ自分の言葉で、同じことを返してくる。何かいけなかっただろうか。でも、自分の事を
まだよく理解できていない以上、こういう返事にもなってしまう。
「百合っちはね、もっと自分に自信を持ってほしいの!少なくとも、アタシよりずっと勉強できるし、
自分が思っている以上にきれいで、優しい女の子なんだから!」
「それに、至らないところなんて誰もが持ってるの。それをさらけ出してOK出せちゃうのが友達って
ものなんだから、遠慮なく言いなさいな」
この言葉に、少し報われた気がした。少なくとも入れ替わってからというものの、出来ることを
考えて、少しずつよくしてきたとは思っていた。それを認めてくれたのが、本当に嬉しかった。
気づいてくれる人がいることが、本当にありがたかった。
「うん・・・、ありがとう!」
「「「がはっ・・・!いい笑顔っ・・・!」」」
自分が思った心を素直に表現させてみたら、3人とも何かダメージを受けていた。
その後は4人で楽しく勉強会をした。早希子はやっぱり圧倒的にレベルが高く、俺も考え方や
分からないところを勉強させてもらった。彼女がしきりに「そうやって教えるのか・・・。
なるほど」とつぶやいていたのが気になるが、一通り終えた後、彼女たちから感想をもらった
ときに納得が出来た。
「百合ね、やっぱり教えるの上手だわ。何というか、相手の目線に立ってあげてる感じがするん
だよね」
「そーなのよ!何というか、同じところか少し高いところから手を引っ張ってくれるみたいな?」
「あたいも教えてもらえてよかったっす!分かりやすかったっす!」
そういうことか。確かに俺は、彼女たちと同じ目線なのかもしれない。早希子は確かに頭がいいが、
明らかに天才のそれである。恐らく、一を聞いて十を知れるタイプの、要領がよ過ぎて誰もついて
いけないタイプの考え方なのだろう。もし仮に百合子が真っ当な人格を持って生まれていれば、同じ
ようなタイプの人間だったかもしれない。彼女の脳はそれだけのスペックがある、今の俺なら確信を
もって断言できる。しかし、元々の俺、清彦は生憎とそんな性能を持っていなかったし、彼女の脳は
錆びついて、本来の性能を発揮できていなかった。だからこそ、俺はまず自分自身に教えることから
始まっていたのだ。そしてその次はあかねに教えるために、さらに理解を深めるように努力した。
その流れから、いつの間にか相手の目線に立って教えるということが自然とできていたのかもしれない。
あるいは、百合子の身体が俺の意思や教えを汲み取り、そういうことが出来るように進化したのかも
しれない。いずれにせよ、本来であればそういう目線に立てなかったであろう百合子の脳は、俺に
よって生まれ変わっていた。
(これで彼女への復讐も少しはうまくいくかな)
百合子にとって、恐らく諦めた身体が高い能力を持っていたというのは屈辱だろう。その身体を存分に
使いこなして、仮に戻ってきたとすれば使いこなせないようなレベルに、百合子の人格にとって最大限
居心地の悪い環境を作り上げる、自分でも回りくどいと思うが、俺なりの復讐劇は順調に進んでいた。
「うーん、今日も楽しかった!またお願いね師匠!」
「私もぜひまた一緒にやりたいわ。色々と勉強になった」
「お疲れ様っすー!またあいましょー!」
あかね達3人との勉強会を終え、家路を急ぐ。俺が百合子の身体に入って早2週間、通学に耐えうる
だけの体力は付いてきた。最初は行き帰りだけで体力を使い切ってた事を思えば、大した進歩で
あった。
「ただいまー!」
今日も返事はなかったが、実はその機会も減ってきている。起きていればお母さんは返事はして
くれるようになっていたのだ。それがないということは・・・
「やっぱり・・・。あんまり無茶しちゃだめですよ?娘2人いるんだから、少しは自分のことも
大事にしてほしいんだけどなぁ・・・」
リビングに入ると、お母さんはやっぱりぐっすり眠っていた。今日は確か朝から仕事だったはずだ。
この様子だと残業させられたのかもしれない。頑張り屋さんのお母さんに俺は苦笑しながらいつもの
通り毛布を掛け、洗濯物を取り込んでおく。恵理子は今日も部活のはずだから、そこは俺がやって
おくしかない。最初はぎこちなかったが、百合子の身体は1回だけで洗濯物の畳み方などをあっさり
マスターしてくれたので、大した時間も掛からずにその作業は終わる。案外器用な身体である。
「そう言えば、母さん元気にしてるかな・・・」
洗濯物を畳み、タンスにしまいながらふと思い出す。水遊びばかりでロクに面倒も見てくれなかった
母さんだが、それでもたった一人の身内なんだ。心配にもなる。元気にしていればいいが・・・。
今度どうにか探ってみようかな。
「っとと、いけないいけない。作戦会議だ」
望郷のような感情に浸っている暇もない。まだまだ考えることはあるんだ。作業を終えて、俺は
いつもの通り部屋に戻った。
部屋に戻って、ベッドの上で寝転がりながら今後の事を考える。宿題自体は勉強会のときに一緒に
やってしまった。頭のいい早希子もいたおかげであっという間に片付いてしまったこともあり、
今日は与えられた課題はない。好きなように時間を使うことが出来る。
「学力についてはだいぶ形になってきた。勉強する習慣さえ付けられれば、たぶん俺でも届かない
場所まで行けるかもしれない・・・。つくづくもったいないよなぁ」
百合子の頭脳がけた外れの性能を持っていることは、彼女の身体を使って勉強するようになってから
よく理解できた。本来持っていたであろう性能を発揮し始めたことで俺自身も考えが捗るようになって
きた。お母さんの負担を軽減するにはどうすればいいのか、学校での過ごし方やこの身体をどうする
のかでさえ、様々な選択肢を提示してくれる。それこそ、
「元の身体に戻るにはどうすればいいのかでさえ、真剣に考えてくれるんだよな・・・」
百合子が封印し、俺に衝撃を与えた忌まわしき記憶の中で、俺は元の身体に帰れない事は薬の効果と
して明示されてしまっている。彼女が残した記憶は意思を持つかのように、俺に「諦めろ」と訴え
かけてくる。だが、彼女の身体は俺がどうにかして戻ろうと考えると、その記憶や他の手段も何か
ないか、一緒に考えてくれるのだ。
「あぅ・・・、きちゃったか」
下半身が熱い。最初に比べると制御できるようになってきたが、時折彼女の身体が自慰を欲して
信号を送ってくるのだ。週に1回程度だが、俺はその時は諦めて衝動に応じることにしている。
百合子の記憶を頼りに、時たま自分でも探りながら、身体を暴走させないように慎重に愛撫して
欲求を満たしていく。
「あっ、あっ♡きもちいい・・・」
当然百合子のように俺の身体を妄想して自慰などしない。あくまで俺は俺だ。身体が導くままに、
特に考えもせずにその快楽に委ねることにしている。
「あっ、ふぅ・・・。とりあえず、下着だけ変えれば大丈夫かな・・・」
衝動が収まると同時に、軽くイってしまっていた。履いていた下着がぐっしょり濡れているが、幸い
シーツにまでは至っていない。次第に制御する方法が分かってきたこともあり、少なくともお母さんに
迷惑を掛けるようなことはもう起こしていない。
しばらくベッドの上でぐったりとした後、パンツを履き替えて考えに戻る。しかし、何故衝動が突然
起きるのだろうか。少なくとも百合子の記憶ではここまで突然起きることはなかったはずなのだ。
それも基本的に家で、果てても問題のない場所で起きている。真剣に考えていると、ある仮説に至った。
「もしかして、百合子の身体が俺を欲してくれてるのか?」
百合子の肉体は基本的どころか、献身的なまでに俺にすべてをさらけ出し、協力してくれている。
俺の命令を拒否することもなく、その柔軟な脳で様々な選択肢を提示し、記憶や仕草についても
一切隠し立てせず閲覧させ、使わせてくれるからこそ俺は「久保田 百合子」として過ごせている。
だが、俺の中ではやはり他人の身体でしかない。戻るべき肉体があり、取り返したいものがある。
何度心を手折られても、それでも諦めたくはない。身体もその気持ちは汲んでくれているのだろう。
だからこそ選択肢や手段を考えることを拒絶しない。
「だから、出ていってほしくないから自慰をさせるのかもな・・・」
正直なところ、軽くイくだけ襲い掛かるこの感覚は病みつきになっている。俺の身体では体感した
こともないような絶頂感は筆舌に尽くしがたく、元の身体でもここまでの快感は得られないだろう。
そんな女の子の、最も秘密にしたいであろう部分でさえさらけ出してくれているのだ。そうまでして、
俺のことを繋ぎ止めたいのだろうか。今の俺には分からなかったが、身体は少し喜んだ気がした。
「ふう、落ち着いたか。さて、この先どうしようかなぁ」
今の百合子の状況を考え、今後の選択肢を練る。まず勉学については問題ない。勉強する習慣さえ
身に着けてくれれば、恐らくこの身体は俺がたどり着けないところでさえ簡単に届いてしまうだろう。
この2週間で知識の密度も繋がりも段違いになっている。正直な話、問題が解けるのもあまりに
早すぎて俺が戸惑ってしまうこともあるくらいだ。今度のテストが楽しみに思えるほど、彼女の
知識は充実した内容へと至っていた。だからこそ・・・
「次はやっぱり、身体だよなぁ・・・」
寝転がりながら、お腹の贅肉をフルフルと触ってその結論に至る。あかね達に相談した結果、
見た目にもこの身体には光るものがあるらしい。だが、それに至るにはあまりにも太り過ぎていた。
たるんだお腹、脂肪の付いた顔、確かにぽっちゃりでも美人はいるが、今の状態はそれを通り越して
いた。体重計に乗って眩暈さえしたのだ。最初に課題とするべきと理解はしていたが、勉強に夢中に
なりすぎて後回しにしていた。そちらの問題が先が見えてきた以上、身体の問題は次に改善すべき
事項だと確信できる。それに並行してもう一つ進めることにした。
「あとはまあやっぱり、家族との溝を何とか埋めるしかないだろう」
百合子への最大の意趣返し、それはやっぱり家族との良好な関係の構築だろう。冷え切った仲とは言え、
自宅でぎこちないというのは居心地が悪いのだ。それに「清彦」として許せない事でもあった。
(対話できる家族がいるのに話もしないなんて、そんなのダメに決まってる)
俺の母さんは自らの快楽を優先し、気が向いたら帰ってくるような人だ。腰を据えて話す機会さえ
もらえないのとは話が違う。いくらだって恩返しも罪滅ぼしも出来るはず。実際、少しずつ効果は
上がっているのだ。以前は洗濯物さえ畳ませてくれなかったのだから。今度は買い物や、それこそ
今日みたいにお母さんが疲れ果てているときは夜ご飯だって作ってみせようと思っている。百合子
はそんなことを一切したことなどないが、家庭科の調理実習で料理自体はできると試してあったり
する。そこに不安はない。
「あとは・・・、やっぱりきっかけだよなぁ・・・」
料理をしようにも、今の百合子がやるのは危険行為としか取られないだろう。何せ実績がなさすぎる。
そこは機会を伺って申し出ようと思う。そうした行動を積み重ねて、どこかで腹を割って話せば
少しは変わるかもしれない。
あと問題は恵理子だ。この2週間、彼女の事を今までとは違う、一切の色眼鏡抜きで見直してみたが、
あの子は明らかに憎しみだけで動いているのとは違っていた。ご飯が出来たりすればいつも呼びに
来るのは彼女だし、たまに見せる悲しそうな顔、あれは明らかに何か別の感情を抱いている。
こちらもやっぱりきっかけが必要だろう。それを待つか、どこかで作り出すかは様子を見ながらに
するしかない。大体やるべきことを頭でまとめた後で、ふと気が付いてしまう。
「復讐のはずなんだがなぁ・・・。俺なんで、こんな真剣に考えているんだ?」
百合子にとって居心地の悪い環境を作り上げる、あくまでこれは復讐のはずだ。だからこそ真剣に、
彼女にとってダメージの大きいやり方を考えているはずなんだ。なのに、明らかにやっていることが
俺が「久保田百合子」として居心地よく、楽しく生活する地盤の再構築だと今更気が付いた。こんな
具合に、最近時たま分からなくなることがある。
「俺って・・・、誰なんだろう」
俺の名前は清彦。母さんの名前は双葉。男として生まれてきた、どこにでもいる高校2年生・・・。
簡単に思い出せる自分のプロフィール、人間として生まれた以上、揺らがないはずの事実にヒビが
入っていることに驚きを抱く。徐々に作られていく新たな友人関係も、一生懸命に育てた頭脳も
百合子として作ったもの、そして俺は人前、それこそ家の中でさえ百合子として、女の子として
振舞い続けている。その事が俺が誰なのかを分からなくし始めているのかもしれない、もしかすると
俺はこのまま「私」になってしまうのかもしれない、そんな不安が胸を襲う。
「・・・、いかんいかん。とりあえずはまずダイエットから始めよう」
取りあえず一回忘れることにした。自分自身を貫き、仮の身体を完全に作り変える、心を強く持てば
大丈夫、そう言い聞かせて。しかし、そのしこりはやっぱり頭の片隅に残り続ける。俺はいったい、
どうすればいいのだろうか。
(こんな時、あいつに相談できればいいんだがな・・・)
そんな時にふと思い出すのは、俺の自慢の幼馴染のことだった。
その幼馴染の名前は「関原 豊」といい、幼稚園以来の付き合いだ。あいつはとにかくお節介焼きで、俺が悩んで
いると何故かすぐに気が付いてくれた。豊が言うには
(清彦が悩んでるときは何となくわかるんだよな。他の人はさっぱりなんだけど、なんでだろうな?)
とあっけらかんに笑っていた。両親が帰ってこなくて寂しい時は家に招いてくれたり、中学、高校と
進んでからは気晴らしにカラオケや買い物に誘ってくれたりするなど、果たしてこんなに世話を
焼いて疲れないのだろうかと疑問に思ったこともあったが、あいつのお陰で心が安らぐ自分がいた
のは間違いない。そんな豊でも、俺がまさか百合子と身体を入れ替えられたなんておとぎ話のような
出来事を打ち明けても信じてくれるだろうか、いま自分の目の前でいつもの通り振舞っている「清彦」が全く別の人間に支配されているなんて話を、受け入れてくれるだろうか・・・。
「やっぱり・・・、無理だよなぁ・・・」
何度考えても、何度悩んでも同じ結論に至ってしまう。百合子の身体も諦めてはいけないと様々な
選択肢を考え、それをシミュレートしてくれたが、どうやってもバッドエンド一直線しか思い
つかない。それがたまらなく無念だった。
その無念さが脳の片隅に残されたしこりに伝わり、ネガティブな感情を大きくする。奪われたものの
中でも、何とかして取り返したい大切な幼馴染、親友の存在が心に重くのしかかる。
―――あいつのおせっかいが恋しい
―――あいつのぬくもりが欲しい
―――あいつとまた2人でバカやりたい。
「うぅ・・・、会いたい、また遊びたいよ・・・」
そしてその想いは自然と言葉を作り出し、百合子の声で紡ぎださせる。澄んだ鈴の音のように、
思わず聞き惚れてしまう魅惑の声のはずが、今の俺が百合子だと確信させ、さらに追い込んでくる。
柔らかでぶよぶよとした身体つき、俺と比較して冴えわたる頭脳、最初に見いだせた美徳である
きれいな声、どれもこれもが他人の身体であると実感させる。ひび割れた自我に水を注がれて、
自分の中の何かが壊れそうになる。
(ああ、俺ってやっぱり、百合子として生きるしかないのかなぁ・・・)
振り切ろうとして振り切れなかった黒い感情に押しつぶされそうになる。俺が百合子として実績を
重ねていくたびに、俺はどんどん百合子になっていってしまう。吐き出せる相手が欲しい、悩みを
打ち明ける相手が欲しい、俺が「清彦」だと、認めてほしい・・・。
(諦めてんじゃねぇよ!清彦が誰より頑張ってるなんて俺が一番分かってんだよ!)
・・・、忘れるところだった。俺にとって一番うれしかった言葉だ。辛かった時、苦しかった時、
どんな時でも声をかけてくれた幼馴染、俺が全部投げ出しそうになったときに、この言葉で止めて
くれたんだったな・・・。今回もまた助けられた。その言葉を引き金に、また別の言葉が俺を叱咤
激励してくれる。
(百合っちはね、もっと自分に自信を持ってほしいの!)
俺が百合子になって、元々あった壁など関係ないとばかりに声をかけてくれた百合子として初めての
友達、あかね。彼女が認めてくれたものは、決して本来の持ち主が作ったものじゃない、見出して
くれたのは「俺」だ。見つけてくれたのは、育ててくれたのは「清彦」だ。だからその言葉は、
本来の「百合子」が貰った言葉ではなく、あなたに向けられたもの、この身体はまるでそう訴えかけるように、彼女からかけてもらった言葉を思い出させてくれた。
「・・・、分かったよ。俺として、清彦としてやるだけやってみる。ダメだったらまたそん時
考えるよ。ありがとな、豊、あかね・・・」
声に出したことで、自然と身体が奮い立つ。また2本足で立って、前に進めそうだ。清彦としての
心は失わず、百合子であり続けよう。元に戻れるチャンスを逃さないよう、決して諦めずに頑張ろう。
俺はたぶんこの時、本当の意味で前を向けたんだと思った。
* *
「んぅ・・・。朝、か・・・」
アラームの音で目が覚めた。今の時間は朝の5時30分、百合子としては起きたこともないような
早い時間だ。お弁当の準備や、洗濯物の処理、朝の筋トレなんかで起きることもあった俺としては
慣れた感覚だが、身体が付いていかない。血圧も上がらないようだ。
「ねむい・・・、でも、起きないとなっ・・・!」
両頬にパチンと手を当て、まだ夢うつつの身体を無理やり覚醒させる。次第に全身に血が巡り、
少しずつ目が覚めていくのが分かる。これも慣れていくしかないのだろう。そんな彼女の身体を
操り、パジャマを脱いでスポーツブラとジャージを着込んでいく。何かいいトレーニングウェア
でもあればと思ったが持ち合わせていないようで、学校のジャージを着ることにした。サイズが
ぴったりと合うのは、恐らく入学したころにはこの肉付きになっていた証拠だろう。
「まずは歩いてみるか」
まずはダイエットの初歩、ウォーキングから始めていく。まだまだ成長期なこの身体、食事制限は
課さないつもりでいる。というより、お母さんが作ってくれる料理はバランスもよく、残すのが
申し訳ない。だからこそ積極的に動かして脂肪を消費する。
計画では朝はウォーキング、夜は簡単なストレッチを取り入れて身体を慣らしていくつもりでいる。
それらの行動も習慣として身体に植え付け、規則正しい生活を送らせて体質改善を図っていく。
「あとは部活でもやってみようかなぁ・・・。お母さん許してくれるといいけど」
身体が少し整ってきたら部活にも挑んでみようと思っている。人間関係を拡げるうえでも部活は
やはり効果的だ。本来接点のない上級生や下級生とも親しくなれるかもしれない。それに、ずっと
バイトや家事に追われていた俺としても、正直なところ部活はやってみたかった。俺の身体に
戻ったとしたら、恐らく続けるのは難しくなってしまうだろうから、今のうちに楽しみたいという
素直な願望も持っていた。どうせ百合子がほっぽりだしていった身体だから、俺がどう使って
いようが文句はないはずだ。むしろ身体を売りに出したり、家族に手をかけないだけでも優しいと
思ってほしいくらいだ。
「それじゃ、行ってきます」
家を出ようとしたときに上から物音が聞こえた。恐らく恵理子が起きたのだろう。本当は一緒に
やりたいが、陸上部でずっと鍛え上げ続けた彼女に敵うはずもない。邪魔になっては申し訳ない
しね。俺はそのまま外に出ていった。今日は初めてだし、学校もあるから程々な距離で済ませる
つもりでいた。何よりこの身体の体力の底が分かっていない。登下校だけで疲れ果ててた時期も
考えるとかなり貧弱だろうと想像しているが、実際はどうなのだろう。スマートフォンに万歩計と
距離測定アプリを入れて、どの程度でどうなったかを確認することにしながら歩き続けた。
「きっつ・・・。やっぱり体力無いんだなぁ・・・」
歩き始めて30分、早くも息が上がり、肩を上下させて呼吸しなければ間に合わなくなってしまって
いた。やっぱり想定通り、身体の方はかなり弱いようだ。これでは運動など夢のまた夢であろう。
俺は近くのコンビニに立ち寄り、スポーツドリンクを買って呼吸を落ち着ける。途中から違和感を
覚えて引き返すルートに切り替えてあった事もあったおかげで、家までの距離はそう遠くはない。
そんな休憩中の俺の前を、颯爽と見覚えのある影が通過する。
「恵理子か・・・。はっや。あんだけ走って学校にも普通に行けるのか」
ポニーテールに白のジャージ、見間違えるはずもない妹、恵理子がものすごい勢いで通過していった。
百合子にとってはやっとの思いでこれっぽっちしか出来ないこと、いや、普通の女子でもあそこまで
の速さで継続して走ることは出来ないだろう。しかしそれは彼女にとってはあくまでルーチンワーク、日常の一コマでしかないのだろう。それだけの体力を、実力を長年研鑽して身に着けた妹に、俺は
素直に敬意を抱いた。
「負けてられないな・・・。俺もやるだけやらないと」
俺には分かっていた。勉強と一緒で、身体づくりも地道な努力によるものなのだと。才能の有無は
あるだろうが、それでも地道な努力は決して裏切らない。まずはそこで諦めないこと、見切りを
つけない事、体力が欲しいのであれば、ただひたすらに続けるしかないことは、元々の俺の身体で
嫌というほど分かっている。だからこそこの身体にも理解してもらう。しばらく辛い生活になる
だろうが、それでも無理やり付き合ってもらう。
「・・・、不思議と嫌がらないんだよなぁ・・・。何でなんだろう」
そんな意思を持つと、身体は拒絶反応どころかむしろ高揚としてくる。空っぽの体力で危険信号を
伝えてくるが、それでも全身が力を帯びてくるのが何となく伝わってくる。勉強に引き続き、
ダイエットや体力づくりにも前向きでいてくれるようだ。その事がとてもありがたかった。
その意味がどういうものか、この時は理解していなかった。俺はこの身体の隠された才能を、
眠ったまま腐っていくはずだった本来の性能を発揮させてしまうことになるのは、もう少し先の話
である。
* *
「おはよー百合っち~。ってあれ?顔色悪くね?なんか変な物でも食った?」
「いやぁ・・・、朝からちょっとダイエットのために走ってみたらこれなの・・・」
朝のウォーキングの余波で登校してすぐに机に突っ伏していると、登校したあかねから声を
かけられる。実際、体力を割と使い切ってるので結構しんどかったが、声をかけてくれる友達を
無下にするわけにもいかない。後から登校してきた早希子も交えていつもの通り雑談に興じ
始めると、次に現れた人物に目を奪われた。
「おはよっす~」
「清彦!?どうしたその頭!」
そこに現れた俺は、見慣れた俺ではなかった。髪は鮮やかな金色に染まり、左耳にはピアスが
ついていた。俺の身体は着実に百合子の好みに従って、とうとう見た目の部分まで改造され
始めていた。髪を染めたり、ピアスを開けるという行為にかなりの抵抗があった俺は手を
出さなかったが、百合子はその一線を越えてしまったらしい。いったい俺を、清彦という存在を
どうしようというのだろうか。
「おはよう久保田さん」
「あ、うん・・・。おはよう」
そんな彼は俺に声をかけてきた。わざとらしいくらいいつもの俺のまま、その見た目を誇示するかの
ように堂々とした様子からは、ただの自分にしか見えなかった。しかし、その見た目が、否が応でも
目につくピアスが全く別のポリシーによって身体を支配され、改造されていることを象徴していた。
そんな彼女に対して、俺は返事をするのが精いっぱいだった。
「百合っち・・・。顔怖いよ」
「え・・・?ごめん・・・」
「百合と清彦君の間で何かあったの?」
「え?い、いやそんな、何でもないよ。何でも・・・」
あかねと早希子が心配してくれるほど、俺はどうやらひどい顔をしていたらしい。ただ、俺はそれ
以上に戸惑っていた。
―――いま、俺一瞬「どうでもいい」って思ったよな・・・?
帰るべき身体、元に戻りたいはずの自分の姿、その身体がいいように改造されているのにも
かかわらず、心の中で不思議と冷めていた自分がいた。それはほんのわずかで、一瞬でかき消えて
しまうほどのちっぽけな存在だったが、その違和感が妙に頭の中にこびりついていた。
「え、まさか百合っちってきよぴーに気がある系??」
「おや、それは想定外かも」
「えっ!?なっ!!ちょ、そ、そんなことないってぇ!」
そんな俺を見て、あかねがあるはずもない事実でからかってくる。手をバタバタさせて拒否する俺の
様子に、周りの雰囲気も和やかなものへと変化していくのが分かる。どうやらまた俺は、あかねに
救われたらしい。
「うむ、それでよいそれで。やっぱり百合っちは笑うのが一番だよっ」
満面の笑みで告げるあかね、その横でクスクスと笑っている早希子を見ている間に、自然と怒りも
収まってくる。彼女たちと仲良くなれたことは本当に幸運だった。おかげでこうして、自分を
見失わずに済んでいるのだから。それと同時に、冷静に考える余裕が生まれてくる。
(百合子のやつ、昨日何をやったんだ・・・?)
普段の俺は風邪でも引かなければ学校など休んだことがない。そんな俺が学校を休んだどころか、
髪まで染めてきたのだ。しかもあのケロッとした様子、明らかに仮病の類だろう。それに気になる
のがあの表情、何かに決着をつけたようなすっきりとした表情は、彼女の中で何かが決まったような
そんな予感がした。
(やっぱり、あいつと接触してみるしかないか・・・)
俺は俺で今後の方針を練っていく。直接聞いたところでどうせロクでもない話しかしないだろう。
心がへし折れるあの感覚はもうごめんだ。だからこそ、周りから着実に情報を固めていく。
そのためには・・・
―――キーンコーンカーンコーン
っとと、気づけば時間だ。俺は意識を授業へと切り替える。場合によっては今度あかねにも相談
してみよう。真実は明かせなくとも、力になってくれるだろう。
(豊とどこかで腹を割って話してみよう。あいつなら・・・)
あいつなら、この頓狂な話でさえ信じてくれるかもしれない。少なくとも、俺とその周りについては
あいつが一番知っているはずだ。一縷の望みをかけて、その隙を窺うのであった。
* *
「ふあぁ・・・。やっぱり男に割って入るの難しいわ・・・」
そんな俺は自宅で、今日の乏しい戦果に嘆きの声を上げていた。あかねレベルの異能ともいえる
コミュニケーション能力などあるはずもない俺は、結局今日は何も出来ずに一日を終えていた。
違うことと言えば全身を筋肉痛が襲い始めたことくらいだろうか。おかげで授業中も結構気が
散ってしまったが、それでもやっぱり頭に入ってくる情報量は段違いだった。意識が前向きなのも
大きいだろうが、そこはやはり性能差なのだろう。わずかでも重要そうな情報は逃がさずに書き
止め、記憶する、完全に覚醒した彼女の頭脳は授業中においてもはや心配はなさそうであった。
「となると、やっぱり後は身体の方だよなぁ・・・」
そんな俺は洗面所に向かい、身体を体重計に預けてみる。女の子としては男である俺に知られるのは
屈辱もいい所だろうが、ダイエットのために記録は大事である。数字を常に意識することで状況を
把握し、何が必要かを考える。
―と尤もらしく理由をつけてみたが、百合子も同い年の女の子である。また一つ彼女の秘密、
それもかなりデリケートな部分を知ることに、内心ドキドキはしていた。ましてそれを記録に
しようとしている。それは彼女の体重が、身体がどう変化していたのかが目に見えてわかるように
残されていく。ある種の人体実験のようなワクワクさは、必然的に俺を前向きにしていく。
これでも髪を染めたりするよりは甘いと思っているが、そこはどうなのだろう。少なくとも、
彼女の肉体にメスを入れたりはしていないのだが、実際どうなのかは俺も分からなかった。
なお、体重計の数値をみて目玉が飛び出そうになったのは公然の秘密である。何度見てもおぞましい
その数値は俺にダイエットへのモチベーションを強制的に高めさせてくる。確実に痩せないと、
本当の意味で寿命が縮みそうであった。
* *
ウォーキングを始めて3日後、身体を襲う筋肉痛に耐えながらも学校生活を続けていた俺に、とある
契機が訪れた。
きっかけは体育の授業であった。女子の授業はバレーボールだったが、その前にまた「2人組を
作って」の時間がやってきた。どうにかあかねや早希子たちに声をかけようとしたが、彼女たちは
早々にペアを作ってしまったらしい。そんなペアの相手にあぶれ掛けていた俺だったが・・・
「あ、あの・・・。もしよかったら、私とペア組みませんか・・・?」
消え入りそうな声で、恥ずかしそうな顔で声をかけてきた子がいた。かの清楚な美少女、「栗原
和美」である。その清楚で愛らしい顔を赤らめた姿は思わず変な声が出そうになるほどの破壊力を
持っていた。
「う、うん・・・。よろしく」
「こちらこそ・・・」
思わず鼓動が高鳴る。まさかあの和美ちゃんとペアを組む日が来るなんて思わなかった。そんな
出会いが、俺の、正確には百合子の中でかなり思い切った決断をする引き金となるのだが、この時は
まだ分からなかった。
(や、やばい・・・。和美ちゃんが俺に身体を預けてくれている・・・)
この先生は準備運動は2人でペアを組ませて、それぞれの手伝いをさせることが多い。怪我を
させないために入念に行ってもらうのを意識しているそうだ。そんな俺は和美ちゃんのストレッチを
手伝っていた。元々の俺では触れることもなかっただろう彼女の背中を当たり前のように押し、
彼女はそれを受け入れてくれている。そのすべすべで、少しあどけなさを残した可愛らしい
ボディライン、それらが間近で見られてしまうその事実に思わず胸がドキドキしてしまう。
(和美ちゃんの背中あったけぇ・・・!すごいいい匂いするし・・・。やばい。おかしくなりそう)
彼女から漂う甘く爽やかな匂い、背中の体操服越しでも伝わる柔らかな感触、そんな彼女にそもそも
触り、接近したこともないような近さで眺められるという実感のせいで、我を失いそうになるが
何とか自分を保つ。百合子自身は「おどおどした鬱陶しい女」程度にしか考えていなかったようだ。
この人格の歪みっぷりに頭が痛くなってしまう。自分のことは考えないのだろうか。
「久保田さん・・・」
「あっ!ご、ごめん!痛かった!?」
そんな和美ちゃんから思わず声がかかる。押しすぎてしまったのだろうか。しかし、彼女の要求は
正反対の物であった。
「あ、ううん。全然大丈夫。もうちょっと押してもらっていい、かな?」
「え、でも・・・」
「お願い・・・」
その顔は反則だろう・・・。恐らく自覚もなく、本能的にこういう表情が出来てしまうのだろう。
あるいは身体や顔立ちがそういう構造なのかもしれない。早希子が彼女が「清楚の答えの一つ」
と言っていた意味を実感を持って体感する。天然素材とも呼べる彼女の無垢な魅力にクラクラして
しまう。しかし、彼女が望むのならば仕方がない。声をかけながら、彼女の具合を確認しながら
慎重に背中を押すと、何と彼女の胸元は床についてしまった。その事を彼女自身は苦にもして
いないようだ。
「ありがとう。やっぱりここまでしておかないと調子でなくて・・・」
「栗原さん・・・、身体すごい柔らかいんだね」
「小さい頃から体操やってるの。ごめんね。付き合わせちゃって・・・」
確か和美ちゃんは体操部だった。その片鱗をまざまざと見せつけられ、むしろ感心してしまう。
その見た目に反し、彼女は比較的運動のほうが得意だったはずだ。その見た目と、まさに外見に
違わぬ控えめな性格、それに反して高い運動能力、彼女の魅力をたっぷりと楽しめて、すでに
お腹いっぱいであった。そんな俺に、今度は和美ちゃんから声がかかる。
「じゃあ、今度は交代・・・」
すっかり忘れていたが、そう言えば俺の準備運動がまだだった。ここ数日、夜はストレッチに
取り組んできたこともあり、何をすればいいのかは分かっていたし、身体も慣れ始めていた。
ウォーキングの影響を受けた筋肉痛が延ばされていく感覚が実に気持ちよく、快感なのだ。
サポートしてくれる和美ちゃんも手慣れたもので、初めての相方のはずなのだが的確に、
上手に導いてくれる。普段一人でやるより何倍も効率がよかった。
「あ、あの・・・」
「え?どうしたの?」
「久保田さんって、何か運動とかってやってるの・・・?」
「いや、まったくやってないよ?」
和美ちゃんの問いかけに、百合子の記憶の中を検索するがそんな情報はない。幼いころに少し
習い事をしていたことはあったようだが、結局辞めてしまっている。だからこそこんな苦労を
しているのだが、それで彼女を責めるのは酷だろう。ある意味本人以上にこの身体の全てが
分かってしまうからこそ答えられたのでもあるのだから。
「すごい・・・。それでここまで」
「何かあったかな?」
「あ、あの・・・、久保田さん。もしよかったら「全員集合-!バレーを始めるぞー!」」
先生の声にかき消され、和美ちゃんの問いかけが途中でかき消されてしまう。彼女は何を聞きた
かったのかは分からずじまいであった。俺にとってもあの和美ちゃんと話し、彼女の手伝いを
する形でその可愛らしい彼女に触れることさえできた。その満足感からすっかり質問について
抜け落ちてしまっていた。そんな和美ちゃんは俺に熱い視線を向けていたのだが、この時の俺は
気づいていなかった。
そのままバレーボールの授業に入る。試合形式で行われたその授業では、みんなが和気あいあいと
楽しむ中、俺は付いていくので精一杯であった。まず、やっぱり身体が動かない。長年怠惰な生活を
し、体育も適当な理由をつけて見学したり、サボったりしていた百合子の肉体は全然動いてくれない。
体力もまだ身についていないし、何より鈍重だ。ボールを拾うのも満足にできないし、サーブは
ネットに引っかかってしまう。元々の自分の身体ではある程度の対応は出来ただけに、それがとても
歯痒かった。それにまして大変だったことが・・・
(本当に視線のやり場に困るなぁ・・・)
バレーと言えばジャンプを多用するスポーツだ。その結果どうしても・・・、胸元を意識してしまう
のだ。大小あれど女性に備わっているその豊かな部分が揺れる様が見えてしまう。クラスメートの
中にはその部分が発達した子(特にあかねとかあかねとかあかねとか)もいる。そのたわわ部分の
揺れは正直に言って刺激が強すぎた。百合子本来の意識や思考を使えばかき消すことも可能かも
しれないが、その分黒い感情が頭を回り、不快な思いに支配されてしまう予感がした。色々限界は
あるとはいえ、協力的かつ前向きなこの身体に、今更本人の意識を持ち出して汚すような真似を
したくもない。仮初のパートナーかもしれないが、そういう意味では大事にしてあげたいとも思って
いるし、自分なりに丁寧に扱っているつもりだ。当然、彼女の意識を使って欲求を抑えるという
選択肢は排除される。となれば必然的に矢面に立つのは男である俺「清彦」としての意識となり、
その感情が百合子の身体を興奮させてしまう。男としての下半身がないので、行き場に困った
性的欲求は身体の呼吸や思考をかき乱してくる。それが本当に大変だった。ただ、身体を動かす
うちに気づいたこともあった。
(実は百合子の身体、運動のセンス自体はあるのかもしれないな)
必死に食い下がる形で授業に臨んでいた時に、俺は不思議な感覚に襲われていた。勉強をしている
うちに色々なことが分かってきた感覚と同様、ボールの打ち方や相手がどこを狙ってくるのか、
そう言ったことが何となく「分かる」のだ。分かっていても身体が付いてこないので何もできないし、
身体が付いてこないので結果に影響はなかったが、それでも相手が打ったスパイクの着弾点に反応
だけでもできたのは俺だけ、ということも実はそれなりにあった。その感覚は、自分の身体で同じ
ようにバレーをやっているときにはない、新鮮なものだった。
(まさかとは思うけど、鍛えれば運動もできるのかな・・・?)
もしかすると頭脳と同様、肉体についてもとんでもない物が隠されているのかもしれない。可能性と
しては未知数だが、少なくとも本来の俺より高いセンスは持ち合わせていそうな感覚はあった。
やってみる価値はある。そう考えると、日々のダイエットにも気合が入り、さらに前向きに取り組め
そうだった。身体も何か嬉しそうに高揚してくれる。まるで宝物を探すような、ただ単にその先を
見てみたいという子供じみた冒険心は、俺を更なるダイエットへと駆り立てるきっかけとなるの
だった。
* *
「どうだい百合っち!和ちゃんと少しは仲良くなれた?」
「おかげ様でね。いや、全く気付かなかった」
昼休みに昼食を一緒に食べた後に開かれた勉強会で、あかねは俺にカミングアウトしてきた。
以前に約束した和美ちゃんと話す機会をどうにか設けようとあれこれ考えた結果、今回の作戦を
思いついたらしい。どちらかというと人付き合いは控えめな和美ちゃんに対しては、事前に俺の事を
それとなく説明して好印象を抱いてもらい、彼女の友達や早希子とも口裏を合わせて和美ちゃんと
俺がペアを組めるように上手く誘導してくれたようだ。
「いやー、しかし和ちゃん可愛かったなぁ・・・。たぶん和ちゃんなりに結構頑張ったと思うよ?」
どうやら和美ちゃんから声をかけに行ったのはあかねとしても想定外だったらしい。勇気を振り絞って
こんな自分に声をかけてくれた彼女、そしてそんな状況を作り出してくれたあかねや友人たちには感謝
しかない。俺としても憧れた和美ちゃんと話せる機会を持てたこと、何より自分と接しようと努めて
くれたことが嬉しかった。俺も少しずつ変われてきているのだろうか。
「ははぁん、百合っちだらしない顔してるよぉ?そんなに嬉しかったかな?」
ちょっぴり意地悪な顔で指摘するあかね。友達付き合いを始めてそれなりに経ったが、彼女の笑顔や
所作が大好きになっていた。そんな自慢の友人に、俺も思わずサプライズを仕掛けたくなった。
――それっ!
「いつもありがとう・・・。あかねちゃん」
「ふわぁぁ!いきなり抱き着くのは反則だよ百合っちぃ!」
思い切って抱きついてみた。元の身体じゃ難しいだろうけど、百合子の、まして心を許してくれている
友達なら許してもらえるだろうと思ってやってみたのだが、慌てたあかねの反応がすごくかわいい。
髪から漂うちょっぴりきつめな香水の匂い、暖かで柔らかい身体、そんな彼女がとても愛しく可愛らしい。
百合に目覚めるわけではなかったが、それでも彼女には感謝してもしきれない。いきなり抱きしめられた
彼女は慌てていたが次第に落ち着き、そしてこんなことを言ってきた。
「百合っちさ・・・、何か分からないけど本当に変わったよね」
「え?そ、そうかな・・・」
「うん、何というかさ、あの時声かけたじゃん?あの時の百合っち、本当に壊れちゃいそうなひどい顔
してたんだよ?」
「びっくりしたんだからね。最初に声をかけた時は何というか、鬱陶しそうな感じで追い払われちゃった
ようなそんな子がさ、まるで迷子になった子供みたいに泣きそうで、辛そうな顔してたんだから」
恐らく入れ替えられてすぐの時の俺だろう。そしてその前のは本来の百合子がやってしまった、この身体が
背負っている罪だ。彼女の記憶の中にもその様子が鮮明に残されている。
「ごめんね・・・。あの時の私、きっとどうかしてたんだと思う」
「いいよ。どんな人にだって、背負ってるものや言えないことだってあるのは分かってるから」
本来は俺が謝ることでもないんだろうけど、それでも自然と謝っていた。そうしたかったから。本当は別の
人間が身体に入り込み、全くの別人になり果てている、そんな真実は言えなくても、それでも真摯に接して
くれる友達には正直でいたかった。この身体にも、少なくとも俺のものでいてくれる間だけでもそんな罪を
背負わせたくなかった。そんな俺の謝罪を、彼女はあっさりと受け入れてくれた。
「そんな子と仲良くなれて、勉強も教えてもらうようになってから、どんどん明るくなっていく百合子を
見てるのが本当に嬉しくて楽しいんだ。だからアタシもお節介焼いちゃってるんだけど、迷惑じゃない・・・、
よね?」
「迷惑なわけ・・・、ないよ。私が知らなかった世界をいつも見せてくれてむしろこっちがお礼言いたいよ」
「よかったぁ・・・!」
彼女なりに接し方を工夫してくれているんだろう。本来はこんなに歪んでいた百合子なのだ。どうしても慎重に、
気にしながらになってしまうのだろう。普段の彼女からはそんな様子は全く見えなかったが、それでも不安を
抱かせてしまっていたことが悔しかった。
「だからさ、百合っちも辛くなったらいつでも言ってくれていいからね?アタシで力になれるんだったらいくら
でも手を貸すし、アタシだけじゃない。早希子だって亜由未だって、百合っちのこと大好きなんだから」
「本当・・・?」
「うん!早希子も亜由未も、あんなにリラックスした表情って滅多に見せないんだよ?」
心にあった重しがなくなり、いつも以上に明るく、輝いた彼女はその顔に笑みを残しながらも真剣に、真っすぐに
俺の方を見つめてくる。俺の両頬にその柔らかですべすべした手を当てて、真っすぐに伝えてきた。
「大丈夫だよ。百合っちは一人なんかじゃない。怖いことがあっても、嫌なことがあってもアタシたちは味方で
いるから・・・。ね?」
まるで年下の子をあやすように優しい表情で告げるあかね。いったい彼女のどこに、こんな性質が隠れているの
だろう。どうやったらこんなにも立派に育つのだろう。どうして彼女は、俺が欲しいと思った言葉を、いつも
伝えてくれるのだろうか。
「本当に・・・、ありがとう。あかねちゃんが友達で、本当に嬉しいよ」
「へへっ。朝こっわい顔してたからさ、ちょっと心配だったの。その様子じゃ、一応大丈夫かな?」
どうやら朝の事を気にしてくれていたらしい。どこまでも友達思いの彼女の心に、俺の心の中の靄が晴れていく。
そうだ、俺は一人じゃないんだ・・・!
「うん。おかげですっきりしたよ」
「よしよし、あ。そうだ。アタシからも一つお願いがあるんだった」
コロコロと表情を変え、少し頬を膨らませたあかねは俺に一つのお願いをしてきた。
「アタシのこと、呼び捨てでいいからね?遠慮なんかいらないからさっ!」
「うん・・・。分かった。いつもありがとう。あかね・・・」
そんな俺の様子にあかねは「よしっ!」と満面の笑みを浮かべてくれた。彼女との関係はこの百合子の身体で、
この姿で作ったものだ。彼女との間柄は、俺が元に戻れば無くなってしまうのだろう。それでも、ずっと大切に
したい。ずっと友達でいたい。俺は改めて、友達との関係を大切に思うことが出来た。
彼女の言葉を受け入れた瞬間、頭の中の記憶が蠢くのを感じる。本来の百合子が抱いていた思い、嫌悪感、
嫉妬・・・、あかねに対しての感情によって歪められていた百合子の記憶から彼女の想いが切り離され、
あくまで「百合子はこう思っていた」という知識として脳に格納されていく。今まで借りものだった彼女の
記憶、そのあかねに対しての部分が正真正銘俺の物として最適化され、姿を変えていく。同時に、身体が少し
軽くなった気がした。物理的に痩せたわけではないが、それでも手から足の先までの感覚が鋭くなり、まるで
鉛をつけていたかのような息苦しさが少し消えていた。
(もしかすると、少しずつ百合子になっているのかな・・・)
自分の名前は清彦、そこは譲るつもりは全くなかったが、対照的に百合子の肉体は少しずつ、しかし確実に
俺に居心地のいい環境を作ろうとしてくれている。俺の習慣やポリシー、人との接し方、本来の百合子とは
全く異なったそれらを押し付けに近い形で行わせているのにも関わらず、従わないどころか積極的に受け入れ、
彼女の身体に眠っていた非凡な才能を開花させてくれている。時には百合子本来の思いを捨て去ってまで、
俺に付き合おうとしてくれている。だからこそ、怖さこそあったが「百合子になる」ことに対して、不思議と
嫌な思いは抱かなかった。自分でも、不思議な気分だった。
* *
あかねのお陰で午後は気分良く過ごすことが出来た。自分の身体が別物へ変貌を遂げようとしているのはすごく
気になったが、それでも彼女がもたらしてくれたものはそれを吹き飛ばしかねないほど幸せで、心地のいい
気分へと変えてくれていた。
そんな気分のまま放課後を迎え、いつもの通り帰ろうとした時のことだった。
「あの・・・、久保田さん」
「ん?どうしたの栗原さん」
頬を赤らめた和美ちゃんが声をかけてきた。相変わらず可愛い・・・。制服を纏う姿もまた清楚の塊と言わん
ばかりの美少女が、体育の時と同じように顔を赤らめて、恥ずかしそうな顔をして俺の服の袖をつかんでいる。
少し視線までそらしたその表情、その仕草、こんな事やられたら大抵の男は即落ちるだろう。
「よ、よかったら少しお話しない・・・?時間ある・・・、かな?」
「う、うん。大丈夫だよ」
特にバイトも部活もなければ、塾通いというわけでもない。放課後はそれこそビックリするくらいなまでに
自由な時間があった。断る理由もない。和美ちゃんが何か話したがっているみたいだし、それにも興味があった。
和美ちゃんが話をし始めたその時だった。
「やあ久保田さん。時間はあるかな?」
髪を金に染めた「俺」が話しかけてきた。
「な、私に何の用?」
「いやぁ、色々と『気になる』かと思ってさ。だから俺が説明しようかなと」
髪を染め、ピアスをつけている以外はいつもの「俺」だった。心なしか自信を持った声色だが基本的には俺
そのものと言っても過言ではない。ただ、その雰囲気がいつもと異なっていた。何というか、女を見る目が怖い。
何かに飢えているような、何かを欲しているような、そんな目をしていた。
「ひぅ・・・」
「ああ、栗原さんもいるのか。いつの間に仲良くなったのやら。で、どうする?」
「どうするって・・・」
思わず俺は、俺の目線に怯える和美ちゃんの手を取っていた。
「いこっ。栗原さん。何か話があるんだよね?」
「え、でも・・・」
呆気にとられる俺、そしてその事に遠慮がちな視線を送る和美ちゃん。だが話は気になるといえば気になるが、
それでも先に声をかけてきたのは和美ちゃんだ。それを聞くのが筋ってものだろう。それに・・・
「いいからっ!」
「え、えぇぇぇ・・・?」
「あっ、おい!」
そのまま手を取り、当てもなく和美ちゃんと別の場所へと向かう。俺の呼ぶ声が聞こえたが耳を塞ぐように
場所を離れた。それはほぼ本能とでもいうべきものだった。あるいは、『女の勘』とでも呼ぶべきものなのかも
しれない。
――何か致命的な事を、言われそうな気がしたんだ。
和美ちゃんの手を引っ張ってたどり着いたのは、俺がいつも昼休みに寝床にしていた、体育館のそばにある
スペースだった。どうやら本能的にここにたどり着いてしまったらしい。
「あ、ごめんね栗原さん。いきなりビックリさせちゃったよね・・・?手、痛かったよね・・・。ごめん」
「う、うん。それはいいよ。手も大丈夫。でも・・・、よかったの・・・?」
和美ちゃんはどうやら俺が「俺」の声かけを無視したことを気にしているようだった。その華奢で小さな手を
力いっぱい掴んでしまったことも気にせず、他人の事を気にかけてくれる、やっぱり優しい子のようだ。
「それは大丈夫。それより用って何かな?」
「うん・・・。あの・・・、あのね?久保田さんって部活は何かやってる?」
「ううん。何もやってないよ」
当然のことながら、部活には入っていない。念のため記憶を漁ったが、やっぱりそう言った経験は皆無であった。
「じゃ、じゃあ運動とかの経験ってある・・・?」
「それもないかなぁ・・・。最近ウォーキングするようになったけど、筋肉痛がひどいくらいだよ」
おどけた調子で微笑みかけてみる。何だかんだ、百合子がしたこともない表情をさせてみるのは結構好きだった。
あかねが異様にダメージを受けることも多いのだが、何でなんだろう?
「す、すごい・・・。それなのにあんなに・・・」
そんな和美ちゃんは驚いた様子で一人ぶつぶつと呟きながら、何かを考えているようだった。
「あ、あの・・・?どうかした?」
何かを考えこんでいた和美ちゃんに声をかけると、意を決したような真剣な表情で俺に向き合い、こう伝えてきた。
「久保田さん・・・。体操、やってみませんか・・・?」
「えっ・・・?」
その可愛らしい声で繰り出された提案は、まさかの物であった。
「えっ・・・、その、本気なの・・・?」
驚いた俺は思わず聞き返したが、和美ちゃんの真剣なまなざしは崩れず、ただ1回頷くのみで返事を表してきた。
「久保田さん・・・。ちょっと立ったまま手の平を地面につけてもらえないかな?」
「うん。分かった」
そのままの体制で前屈する。筋肉が伸びる心地よさこそあったけど、痛みもなくあっさりとくっ付けることが
出来た。お腹の肉が邪魔だったが、それも大したハンデにはならなかった。
「久保田さん。これって身体が固い人がやると、すっごく痛いんだよ?」
「あ、そう言えば・・・」
元々の俺の身体はかなり固かった。前屈やストレッチでもだいぶ苦労した覚えがあったが、言われてみると
不思議なことに、大した痛みも感じずに当たり前にこなすことが出来ていた。そう言えば日々のストレッチでは
筋肉痛の痛みがあったから、それが身体の痛みと勘違いしていたんだ。
「体育の時、一緒にストレッチしたよね?人の身体って、あんなに簡単に曲がるように出来ていないの」
それから和美ちゃんはその辺の理屈を教えてくれた。ただの前屈や柔軟であっても脳から出される信号が正しく
出ているかどうかで効果が違ったりするらしい。小さなころから体操を続けてきた和美ちゃんも、その辺はかなり
苦労したそうだ。
「たぶん久保田さんは、自分でも分からないうちにそういう適切な信号が出せる身体になってるんだと
思うの・・・。これ、一種の才能だと思う」
「え、でも・・・」
「すぐに答えが欲しいとは言えません。私も突然話しかけちゃったことは分かってるつもり。でも・・・」
言葉を切った和美ちゃんは、その清楚な顔立ちに意思を込めて、改めて伝えてきた。
「せっかく凄いものを持っているんです。思いっきり、使ってみませんか?」
俺の頭の中は軽くパニックになっていた。自分でも気が付いていなかった百合子の才能、それをまさかあの
憧れた和美ちゃんが見出してくれたのだ。頭脳だけでなく、運動も生まれ持った何かを持っていたのだろうか、
その多彩さに軽く嫉妬してしまう。でも・・・
(せっかくだから、思いっきり動かしてみるのも悪くないのかもしれないな)
俺はその提案を、前向きに受け止めていた。いつまでこの身体の中にいるのかは分からなかったが、だからこそ
思いっきり、それこそ大胆なくらいまでやってみるのも悪くはないと思った。密かに憧れていた部活動、それに
参加してみるのも悪くはない、むしろ、ぜひやってみたかった。
「ありがとう・・・。本当に嬉しいよ。でも、少しだけ時間をもらってもいい?」
「大丈夫。本当に気が向いたらで構わないから。でも・・・」
そんな和美ちゃんは、その顔に凄い可愛らしい笑顔を浮かべていた。
「前向きってことで、いいんだよね?」
・・・、これじゃ断れないな。心の中で俺はそう思っていた。だからこそ、とうとうその時が来たのかもしれない。
(お母さん、許してくれるかな・・・)
最悪ともいえる娘のわがまま、これをお母さんが認めてくれるかどうかが、最大の問題であった。
* *
「栗原さん。部活の件なんだけど、次のテストの結果が良ければやってもいいって」
「わぁ・・・!本当に!?」
次の日、俺は和美ちゃんに入部できそうな話を伝えることが出来た。彼女の緊張した顔がほぐれていく様は
今でも忘れられないくらい可愛らしかった。昨日、和美ちゃんに誘われたあと家に帰ってすぐにお母さんと
話すと、最初は驚いた顔をしていたけど、意外とあっさりと認めてもらうことが出来た。ただし、
『次のテストでいい結果が取れたらね』
という条件が付いた。百合子といえば成績は大体学年でも最下位か、それに近い底辺を水平飛行しているような
女だった。勉強については恵理子も苦手なほうと記憶にはあるが、それでも彼女なりに努力して学年の真ん中
からちょっと上くらいをキープしているらしい。俺に課せられるのも当然の条件だろう。ただ、どことなく
嬉しそうだったお母さんの顔が忘れられない。一応百合子のことではあるが、意思自体は俺自身が真剣に話した
つもりではいる。それが伝わったのだと信じたい。
「まあそんな感じだから、またテストの後にね」
「楽しみにしてるね!テスト、頑張って!」
胸の前で両の手を握りこぶしにして応援してくれる和美ちゃん。その破壊力は、登校早々倒れそうになるほどに
凄まじいものであった。
「というわけで、部活やってみようかと・・・」
「へぇ!まさかあの和ちゃんがそんな積極的に来るとはねぇ!」
その日の昼休み、いつもの通りあかねに誘われて勉強会を始めていた。今日は早希子と亜由未も一緒だ。最近は
妙に昼休みに誘ってくることが多くなった気がするが、何かあったのだろうか?あかね曰く「みんなでお昼ご飯
食べながらのんびりやるのがいいじゃん?」って事らしい。まあ、その意見には同意するところではあるが・・・。
「しかし、テストの結果かぁ。私は違う意味で今度のテスト、楽しみだけどね?」
「あれ?早希子も何かあるの?」
「目の前にライバルがいるからさ」
そんな早希子は、俺を見てそんなことを言ってくる。
「ええ・・・?いや、私は」
「謙遜しなくていいよ。今の百合だったらたぶんすごい上の方まで来れると思うから。そうだ。負けたほうが
今度昼飯奢るとかでどう?1科目でも私が負けたら百合の勝ちでいいからさ」
早希子は学年でも上位クラスの才女だ。はっきり言って勝ち目はない戦いだが、妙に心がざわつく。俺自身、
百合子がどこまで伸びたのか試してみたかったのはあった。日々勉強に励み、今となっては授業が楽しいと
感じさえする。そんな俺に、早希子は目標を提示してくれたみたいだ。
「分かったよ。後悔しても知らないからね」
「その意気よ百合。今のあなたに必要なのはそう言った闘争心よ。私自身、そういう親しいライバルって
初めてなの。本当に嬉しいわ・・・!」
ギャルながら気だるげで知的な雰囲気を併せ持つ早希子が見せる表情はいつになく妖艶で、そしていつになく
無邪気なものであった。
「百合っちと早希が燃えてるところ悪いんだけど・・・、アタシの勉強は助けておくれよぉ」
「あたいのもお願いしまっす!もう先輩たちなしではあたい達はおしまいです!」
・・・いかんいかん。自分を高めるだけじゃダメだった。悲痛な顔をしている2人のことを見て、本来の目的を
思い出す。何せあかねはそれなりに悲惨な成績なのだ。彼女の面倒を見ることも大事なこと、そしてそれは
結果的に百合子の学力向上にもつながる・・・
(ってもっともらしく考えてみたけど、あかねを見捨てられないっていうほうが大きいよな)
自分の心の中ですっかり大きな存在となった彼女を見て思わず笑みがこぼれる。そんな彼女もまた、笑みで
返してくれる。親しい友であると同時に憧れを抱く彼女たちとの時間が続くことを俺は、いつしか祈っていた。
昼休みも半ばくらいで大体教えることに満足したあかねは少し早めに勉強会を切り上げ、あかねは早希子と
話があるみたいで図書室に残っていた。何やら「ちょっとデリケートなは・な・し」らしい。それで自分の
胸を揉むのはいかがなものかと・・・、うらやまけしからん。鼻血出るかと思った。
そんな俺は亜由未ちゃんと二人で歩いていた。小柄な彼女はまさに清涼剤のように無邪気で明るい存在だ。
いつもニコニコと笑みを崩さず、こんな俺にも無邪気に話しかけてくれる。恵理子ともこんな関係を築ければ
いいのだが。
「そう言えば先輩って、恵理子ちゃんのお姉ちゃんなんですよね!」
まるで心を読んだかのように亜由未ちゃんが恵理子について話を振ってきた。
「そうなの。全然似てないでしょう?しっかりしてるし、美人だし・・・」
「いやいや、結構似てるっすよー!特に笑顔とかそっくりっす!」
苦笑する私にも無邪気に返してくれるが、本当にそうだろうか。俺がこの身体で語ると身内贔屓になって
しまうが、それでも恵理子は美人の部類と言えるだろう。百合子と違って陸上で鍛え上げられた引き締まった
身体に、百合子同様艶やかな黒髪、どちらかと言うと強気な意思が顔に出たかのように、ハッキリとした顔つき
だがその中に残るあどけなさのお陰で、かなり可愛らしいと評判だ。
その事に百合子はかなり嫉妬していたようで、思い出すと俺も黒い感情に巻き込まれそうになってしまう。
本当なら彼女にも歩み寄りたいのだが、その感情のせいでどうしても及び腰になってしまう。間違いなく百合子が
一番迷惑をかけている存在の一人であることは容易に想像がつく以上何とかしたいのだが、それが辛い。
「最近なんすけどね、恵理子ちゃん、よく笑うようになったんすよ!」
「え、そうなの・・・?」
丁寧に染められた茶色の髪によく似合うツインテールを揺らし、その顔に似合う白い歯を見せながらニコリと
笑う亜由未ちゃんも相当可愛らしい。彼女も両耳に大きなイヤリングをつけているが、全体のバランスも考えて
しっかりと整えてあるからだろう。露骨におかしい「俺」とは違ってそれが文字通りのアクセサリとして機能し、
彼女の魅力を大きく伸ばしている。
「そうっすねぇ。あたいが先輩と仲良くなってちょっとしてからくらいからっすかねぇ。あたい自身はそこまで
よく話すほうでもないっすけど、雰囲気が丸くなったというか、胸のつかえが取れたというか・・・、なんか
そんな感じっす!すみません。分かりづらかったっすよね!」
「いや、ありがとう・・・。すごく参考になった」
その後も色々話を聞くと、どうやら亜由未ちゃんは恵理子と同じクラスだそうだ。最初はどうにも近づきづらい
オーラを前面に出し続けてたみたいなんだが、ある時を境に少しだが和らいできているらしい。おかげで何人か
親しくなってきているんだとか。
「そうですか・・・。恵理子ちゃんとはまだ・・・」
「うん・・・。何とかしたいんだけどね・・・。本当にごめんね。変なこと言っちゃって」
「大丈夫っす!あたいでよければ力になるっすから!それに、恵理子ちゃんの雰囲気が和らいだのも、きっと
先輩が頑張るようになったからっす!間違いないっすよ!」
俺にとっても奇跡的な偶然だった。家族として恵理子に近い位置にいられないもどかしさはあるが、もしかすると
家と比べても鎧をまとっていない恵理子の姿を伝えてくれる子が友達になってくれていたのだ。
「厚かましいお願いだと思うんだけどさ、これからも恵理子の事、教えてくれるかな」
「お任せあれっす!ゆくゆくはあたいも友達になってみせるっすよぉ!」
嫌な顔一つせずに快く引き受けてくれる亜由未ちゃんを見て、不思議と気持ちが和らいでいく。本当に一人
じゃないんだと、心の中の何かが温まるのを感じる。少しずつ、一歩ずつだが確実に変わっていく生活を俺は
喜んで・・・
――あれ?俺なんで、「自分の事」のように喜んでいるんだろう・・・
――――――――――――――――――――――――――――――――
百合子を亜由未に任せて、あかねと早希子の2人になった彼女たちは真剣な表情で会話をしていた。
「で、昼休みに勉強会しようとするのはやっぱり清彦君のこと?」
「うん・・・。なーんかわかんないんだけど、あの2人なんかあったような気がするんだよね・・・」
清彦が髪を染め、その雰囲気を変えた様子を思い出し、あかねは懸念を口にする。あかねや早希子にとっての
清彦といえば、大人しく心優しいというのが印象であった。決して特徴的ではないが、所作の一つ一つから
優しさと穏やかさが伝わってくる、そんな暖かな雰囲気を持ったどこにでもいる感じの男の子が、ある日を境に
変わってしまっていた。
「何だろうね。清彦君であることは間違いないと思うんだけど」
「そう、きよぴーであるはずなんだけどねぇ・・・。何というか、怖いんよ」
「何か分かるかも。ロボットみたいな感じって言えばいいのかな・・・」
「そうそう。きよぴーらし過ぎてむしろ何考えてんのか分からない感じがするんよ」
彼女たちにとって、表面上は全く変わっていないはずの清彦の行為が何か違う気がしていた。例えるなら説明書を
読みながら行動しているような、「清彦」という枠から逸脱することのないように仮面を被っているような、
そんな漠然とした違和感を抱いていたのだ。
「それを言ったら百合もだいぶ変わったけどね」
「そうねー。こっちはいい意味で変わってたって感じだけどね。友達にこんなこと言うのもあれだけど、すごい
いい子じゃん?自信なさ過ぎなのがちょっと勿体ないけんどもね。百合っちはむしろ、何考えてるのか分かる
ようになったね」
そんな2人の会話はほぼ同時期に雰囲気を変えた百合子の話へと遷移していた。不気味ささえ抱いていたクラスの
陰キャ女子もまた、ある時期を境に雰囲気を変えた。最初は迷子になったかのように誰かに救いの手を求めていた
その子を見逃せず、あかねが手を差し伸べてからというものの、彼女たちはその評価を見直していた。慣れて
くれば穏やかで気遣いに溢れ、一つ一つの所作からも優しさが見えるようになっていた。と同時に、心の中に
何か重い闇のような、秘密を抱えていそうなこともまた伝わってきた。
「さすがに女の子抱いて好きなだけ泣かせたのはアタシも初めてだったわ。多少は吐き出せたみたいだから
よかったけどねぇ」
「相変わらずあんたの包容力は凄いよねぇ。ほれ、私も抱いておくれよ」
「別に早希は困ってないでしょうがぁ!」
呆れたように茶化す早希子とそれに応じるあかね。亜由未を含め、昔からの親友である彼女たちの信頼関係は
揺らぐことがない。だからこそ、こうして深い話をすることもよくあるのだ。
「そんな百合っちが、きよぴーを見ると何か怖い顔するんだよねぇ。何となくだけど、2人きりにすると大変な
ことになりそうな気がして・・・」
「あー、だから徹底的にガードしてるんだ。納得。でも分かる気がするわ」
あかねは詳細な事情を知っているわけではない。まさかその2人の身体の中身がそれぞれ入れ替わっているなど
想像もつかないだろう。だが、彼女の鋭敏な感覚は漠然とだが、その危険性を捉えていた。だからこそ、あかねは
先に手を打つことにした。声をかけたそうな素振りを見せていた清彦を確認して、敢えて百合子を誘うことで別の
場所に移動して、接触させないように動き回るようになっていた。
「そうなの、だからさ・・・」
「了解。私も極力百合のこと守るようにするよ。せっかく明るくなって、色々話せるようになれた友達が傷つく
のは見たくないしね」
「ありがとぉ!アタシもきよぴーの友達とかにそれとなく話してみるからさ!きよぴーと仲良くしてもらうように
すれば動けないと思うんよ!」
この2人、正確には亜由未も交えた3人の行動が発端で清彦は自分の身が守られていることを知るのは当面先の
事である。だが、友達たちにより清彦は自分の身の破滅から難を逃れることが出来た。そしてそれは、同時に
百合子によって奪われた「清彦」という存在を堕落へと進めていくことにもなってしまったのだが、その事を知る
ことになるのは、ずっと先の当人だけであった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
テストまでの2週間、俺はとにかく一心不乱に勉強していた。憧れていた部活、そして早希子との勝負、目標を
得たことでそこに目指そうという気持ちが自然と湧いてきたこともあってか、普段と比べてさらに集中した勉強が
出来た。その目標に応えるかのように、百合子の身体も授業中の集中力がさらに増し、頭に残る知識量が明らかに
増えていた。その分、今までの知識の蓄積が少ない部分で引っかかることが増えてきたので、家では復習を
そこそこに中学校の勉強が多くなっていた気がする。埃さえ被っていたかつての真っ白で手付かずな教科書を
見るにこの高校にどうやって合格したのか不思議だったが、その辺は彼女の脳の性能で何とか強引に補っていた
ようだ。必死に勉強してた俺からすると羨ましかった。
勉強と並行して、日々の生活習慣も確実に根付かせていった。朝は早起きしてウォーキングを欠かさず取り組み、
夕方は勉強前にストレッチに励んだ。その事もあってか、通学の時の息切れも最近はほとんど感じない。筋肉痛も
ウォーキングくらいであればほぼ起きることはなくなっていた。テストが終わったらもっと厳しくやろうと思って
いる。それと同時に、気づけば習慣化していることがあった。
「はぁ・・・。お風呂気持ちいいなぁ」
ウォーキングを始めてから筋肉痛に苛まれるようになり、それらを癒すのにお風呂に入ってストレッチをしている
うちに、いつしか「風呂に入る」ということそのものが大好きになっていた。
「百合子の数少ない趣味みたいなものでもあったんだよなぁこれ。身体に影響されちゃったのかなぁ。
まあいいや。気持ちいいし・・・」
俺自身はどちらかというと烏の行水と呼ばれるほど、あっさりと風呂から上がることも多かったこともあり最初は
戸惑う部分もあったけど、今となっては毎日の欠かせないリラックスタイムだ。筋肉のほぐれていく感覚が
たまらず、ついついゆっくり浸かってしまう。それに合わせて入浴剤を買ってみたり、シャンプーやボディソープ
でちょっぴり贅沢をするようになった。もちろんお小遣いの範囲の中でだが、自由に使えるお金があるというのも
また新鮮だった。俺自身は大学に行きたいと思っていたこともあり、生活費や学費以外で余っていた生活費は
極力貯金していた。その分、運動や勉強など、自分でお金をかけずに出来ることに時間をかけたり、パソコンで
出来る無料のゲームをやったりして時間を潰していた。こっちも落ち着いたらまた始めようかな・・・。そんな
ことを考えながら風呂からあがろうとして、ふと鏡を見た。
「あれ?肌ってこんなきれいだったっけ・・・?」
確かにあかね達にはここ最近「肌がやたらときれい」だとか、「ニキビの跡も気づけばさっぱりなくなったね!」
と言われていたが、改めて自分の肌を見直して驚いた。白く、シミ一つない肌は、シャワーを浴びればその水を
弾くほどにすっかりその張りを取り戻し。お腹に居座る贅肉はまだまだ存在感を主張しているが、心なしか少し
小さくなり始めていた。
風呂から上がり、髪を丁寧に拭いた後にドライヤーで乾かしていく。亜由未ちゃんが言ってくれた手入れをして
いないのにそれでも伝わる髪質の良さがあるのなら、それを伸ばしてみるのも悪くない。当然俺の知識にそんな
やり方なんかはあるわけもなかったが、あれやこれやと調べて実践することにした。あかね達にも聞いて
シャンプーを選び、髪の乾かし方や維持方法も勉強し続けた。その結果、
「うーん、自分・・・?の物とは言え、髪さらっさらになったよなぁ・・・」
黒く、艶やかな髪は丁寧なメンテナンスを受け続けた結果、以前よりましてサラサラに、そしてふんわりとした
髪へと変貌を遂げていた。毛先まで手入れが行き届いたその黒髪は、周りのみんながそれなりに驚きを以て見て
いるのにも何となく気が付くほどに自分にとっても自慢であった。
そして俺は次第に百合子の身体を改造することに、いつしか楽しさを覚えていた。傷を入れたり、整形する
ような真似はしない。あくまで持ち合わせたものを徹底的に伸ばし、生かしていく、それだけのポテンシャルは
確実に持ち合わせていると確信しているからこそ、その身体を、頭をいじめ抜き、鍛え上げる。そんな俺に応え
ようと、全力でついてきてくれるこの身体との対話、朽ち果てかけていた怠惰な女の子の全てが様変わりしていく、
それを感じるのがとても楽しかったし、自分の身体で出来ないこと、届かない場所にも達し始めていることに、
ある種の快感を得ていた。自分の手で文字通り人生を捻じ曲げ始めていることに、少しばかり達成感を抱いていた。
「そう言えば、百合子の奴、いま何やってんだろう」
ストレッチをしながらふと、元の「俺」の存在を思い出す。和美ちゃんといるときに話しかけられたのを断って
以来、あいつから話しかけられることはなくなっていた。そんな俺は日を追うごとに元の「俺」とは離れていって
いた。制服は着崩し、いつしか両耳にピアスをつけるようになっていた。どうも友達付き合いもだいぶ変わって
来ているらしい。あんまりいい噂を聞かない連中ともつるみ始めていると聞く。いったいあいつはどこを目指して
いるんだろうか。止めないと手遅れになりそうな予感がヒシヒシとするが、果たしてあいつはそれを聞き入れる
だろうか。
「・・・、難しいだろうな。思い込むと止まらないし」
考えれば考えるほど、説得できる絵が浮かばない。何せこの身体は百合子の物だ。脳の中には俺が持ってきた
記憶に加えて、彼女に関する記憶も、人格の情報もすべてそのまま残されている。そんな彼女が俺から説得
されたらどういう行動を取るか、どういう心理状態になるか、今の百合子の脳であれば十分に演算することが
出来た。恐らく彼女は自棄を起こすか、俺に突っかかってくるかのどちらかだろう。
「豊と何とか連絡取らないとなぁ・・・。どうするか」
そしてこちらの方は、残念ながら未だ戦果を挙げられていなかった。あいつはあいつで声をかけようとすると
不在なことが多かった。手紙を書いたりするのも変だろうし、連絡先は覚えているが、送ったら向こうが不振
がってしまうだろう。全く伝手が無くなるのも避ける必要がある。一本気でお節介焼きのあいつとは、やっぱり
真正面から行くしかありえない。長年の経験から俺はそう判断していた。
「まあ取りあえずはテストだ。頑張るぞー!」
残り3日まで迫ったテストに備え、勉強に励むのであった。正直なところ凄い楽しい。そんな俺は「俺のこと」の
優先順位を無意識に繰り下げていた事に気が付いていなかった。
* *
「ふふっ、賭けは私の勝ちね?でも頑張ったじゃない。本当にすごいわよ。これ」
「うむむむ・・・、まだまだ遠かったぁ・・・」
テスト期間を終え、答案用紙を早希子と見比べる。やはり、学年でもトップクラスの彼女にはまだまだ遠かった。
俺自身、それなりにケアレスミスをしてしまった部分もあった。こうして俺は、早希子に昼飯を奢らなければ
ならなく・・・
「あのぉ・・・、ちょっと異次元超人バトルをなさってるお二人さん?みて?ねえ、一応あかね史において最高
得点を刻んだアタシの答案用紙も見てみて、ね?」
そんな俺たちに、ジト目のあかねが声を掛けてくる。彼女の答案用紙は×が多かったが、彼女として初めて追試を
免れるという、歴史的快挙を迎えたんだそうだ。
「うっわぁ・・・。直視できん。目が歪む」
「ひどい!早希ってばちょっと頭がいいからってえ!」
「あはは・・・、でも、もうちょっと落ち着いて考えればこの辺とか伸ばせるんじゃないかな。大丈夫。もっと
できるよ」
「うわぁ!やっぱ師匠は女神や!優しさの塊やぁ!!」
歯に衣着せない早希子の言葉に対し、大仰に驚いてみせるあかね。一応フォローしてみたけど、これはあんまし
いらなかったかなぁ。
「でもこの成績なら、部活やるのも許してもらえるっしょ!頑張ったね!」
「私とあと少しで張り合えるくらいなんだから、これで成績が悪いなんて言わせないわよ」
「うん、ありがとう・・・」
そう。俺としてもそこの部分は手ごたえがあった。百合子の記憶をたどっても、どの教科もこれほど好成績を
収めたことなどなかった。むしろ俺が「清彦」として挑んだ時より成績がいい。まだまだ過去の知識が不足した
部分が補填しきれていなかったが、それを補って余りある程度に高い水準だった。
(これが本来の百合子の実力なんだろうな。でも、嬉しいや・・・)
俺は嬉しかった。百合子の力を大いに借りたとはいえ、少なくとも出来なかった壁を一つ壊せたのだ。次の
テストでは・・・
(・・・、あれ?俺いま、喜んでいたのか?)
段々と境界線が曖昧になってきている。あくまでこれは「百合子がこの身体に戻ったときに最大限に苦しむよう」
環境を整えているだけのはずだ。今の俺は、一瞬そのことを完全に忘れていた。今の俺は間違いなく「百合子」と
しての先を考えていた。この身体とともに、友人たちをサポートし、競い合い、自分の学力を高めていく、そんな
未来を当たり前のように考えていた自分に、少なからずビックリした。だが、そんな未来を俺の身体で作ることは
不可能だった。それは俺自身が、身をもって理解している。何故なら・・・
――俺本来の身体はここまで、頭はよくないんだ。
百合子の身体を使うようになってしばらく経ったが、身体が本来持ち合わせていた性能に舌を巻いていた。
目標を持てたり、競い合ったりしたことはあったと思うがそれでも俺としては今までの自分と同じように
勉強していた。そうしなければ、俺の時は覚えられなかった。勉強が苦手だが、それを無理やりチューニング
して手入れをして、やっとこさあの位置にまでたどり着ける、それが「清彦」という人間だった。しかし、
俺と全く同じ勉強方法、ただそれだけのことで百合子は、俺の成績を軽々と飛び越してしまった。それだけ
俺と彼女の脳には明確な性能差があった。
(少なくとも、俺の身体だとここまで張り合えない。それに・・・)
俺がいつか自分の身体に戻ったとしたら、百合子もまた本来の性格に戻ってしまうのだろう。そうなったら
あかね達はどうなってしまうのだろう。
(たぶん本当の百合子だったら、彼女たちを傷つけてしまうだろうか)
俺のことでさえ無邪気に、まるで自分のことのように喜んでくれるあかね、自分を友人であるとともにライバルと
認め、お互いを高める存在になった早希子、これは恐らく俺が百合子を操作したから生じた関係だ。自分が復讐の
ためと励んで出来た関係、この暖かな関係も元に戻れば崩壊してしまうのだろう。その時彼女たちは果たして
どう思うだろうか、それを考えると心が痛む。
(いったいどうすれば、誰も傷つけずに収まるのだろう・・・)
喜ぶ彼女たちを見ながら、俺の中では確実に、明確に揺らぎが生じていた。俺は果たして、自分の身体に戻りたい
のだろうか。
* *
そんな思いを抱えたままこの日は家に帰った。それでも部活はやってみたいし、少なくともこの段階で元の
「百合子」らしく暮らせば俺の心そのものが腐ってしまいそうだ。それだけは真っ平ごめんだった。
「ただいまー」
「ああ・・・、おかえり。百合子・・・」
「あ、ごめんお母さん。起こしちゃった・・・?」
「いいのよ・・・。気にすることはないわ」
返事をしてくれたお母さんはどことなく気だるげだった。もしかすると、疲れて休んでたところを起こして
しまったのかもしれない。
「それで、そんな嬉しそうな顔してるってことは、テスト頑張ったのね?」
「あ、そ、そうなの。これで・・・、やっても大丈夫かな・・・?」
お母さんの方から話を切り出してくれたので、リビングの椅子に座りながら成績を見せてみる。
「すごい・・・。よく頑張ったのね。やればできるじゃない!」
「うん・・・。ありがとう」
お母さんは驚きながらも褒めてくれた。こんなことはいつ以来なのだろうか。自然と心が浮ついてくる。
「部活、やってみるといいわ。ただし、あんまり成績が悪くなるんだったら許さないから勉強もきちんと
すること。いいわね?」
「やった・・・!」
あっさりと許可が下りた。夢にまで見た部活だ。和美ちゃんの期待にも応えてみせたい。心が躍っていた俺だが、
ふと気になることがあった。
「あ、でもお手伝い・・・」
「大丈夫よ。せっかくの高校生活なんだから、思いっきり楽しみなさい・・・っ」
最近は勉強とかの合間に手伝えることは手伝っていた。洗濯やお風呂場の掃除なんかもすっかり俺がやっていたが、
お母さんはそれより、高校生活を楽しんでもらいたいようだ。そんな思い、お母さんの思いやりの暖かさは俺が
感じ慣れない物だった。ありがたさを感じつつも、どうにも気がかりなことがあった。
「お母さん・・・、体調悪いの・・・?」
「大丈夫よ。心配いらないわ・・・」
嘘だと思った。心なしか呼吸も荒いし、目元がフラフラしている。そんなお母さんは椅子から立ち上がろう
としてふらつき、思わずテーブルに手をついていた。
「お母さんっ!大丈夫!?」
「大丈夫・・・、大丈夫だから・・・」
そんなお母さんを慌てて支える。口から吐き出される呼吸が熱い。触ると肌もかなり熱い。相当に無理をして
いるのではないだろうか。取りあえずゆっくりと腰を下ろさせ、座らせる。
「お母さん、ゆっくり休んでて。今日の家事は私がやるから」
「疲れてるでしょう・・・?百合子こそ休んでていいから・・・」
「お母さんっ!」
俺は思わず、声を荒げてしまっていた。
「お母さん、熱あるよね?家事なら私がやっておくから!」
「でも・・・、部活もあるんじゃないの?」
百合子のお母さん、沙苗さんはウチの母さんとは違う意味で困った人だ。少しずつ手伝いをしながら、
前よりはいい関係を作れていた自信はあったが、同時に彼女の性質も分かってきていた。どうにも頑張り屋さん
すぎるのだ。こんな娘なのにも関わらず、文字通り心が入れ替わり、立ち上がろうとした俺の意思に気が付き、
応援してくれようとするのは嬉しかった。少なくとも酔っぱらって俺の方を見てくれない母さんとは違っていた。
だが熱があり、体調も怪しいのにそれでもなお無理はしてほしくなかった。だからこそ・・・
「それはそれだよ!でも、お母さんは・・・、私にとってのお母さんはお母さんしかいないの!
だからもっと・・・、自分を大事にしてよ・・・」
「百合子・・・」
思わず抱きついてしまった。この頑張り屋さんにもっと甘えてほしかった。自分自身も背負い込みがち
なのは分かっているからこそ、気持ちも理解できるが、それでも頑張りすぎだ。家族なんだから、一緒の家で
暮らしているんだからこそ、辛い時は頼って欲しかった。
「うん・・・。分かった。病院自体は来週までお休みをもらってあるから、少し・・・、甘えさせてもらうわね」
「大丈夫。任せて!」
どうやら聞き届けてもらえたようだ。恵理子は確か来週が大事な試合のはずだから、そこは俺がやるしかない。
俺の部活のほうは、包み隠さず話そう。
「でも百合子。一つだけ覚えておいてね・・・?」
「え・・・?」
そんなお母さんは、俺が抱きしめた状態で力を入れて、抱え直してきた。柔らかい身体が、その大きな胸が俺に
触れる。ドキッとしてしまうが、それより安心感を抱いていた。百合子も、それこそ俺も久しく味わっていない
感覚だが、その心地は妙に優しく、心が落ち着いた。やっぱり母子ということなんだろうか。
「最近のあなたがすごく頑張ってるのは分かってるわ。何があったのかは分からないけど、とってもいい子に
なってくれた。私のことをお母さんって言ってくれた。それは本当に嬉しいわ・・・?だけど、貴方も私の
大事な娘なのよ。だから、もっと甘えてくれていいからね・・・?どうかそれだけは、忘れないで」
「うん・・・」
お母さんの言葉に、背中に冷たい汗が流れていた。確かに百合子にとっては間違いなく実の母親だ。
彼女の言う通り冷たい関係になっていたとしても、かけがえのない親子のはずなのだ。だが、「俺」からすれば
どうだろうか。確かに身体は紛れもなく親子だが、中に入っている「俺」にとっては赤の他人でしかない。だから
こそ、どこかよそよそしく、友達のお母さんの手伝いをするようなそんな接し方をしていたのかもしれなかった。
実の娘の身体の中に、全く別の男の心が入っているなどとは思ってもいないだろうが、お母さんは「百合子」の
変化に、そんな思いを抱いていたのかもしれない。
「じゃあ、少し寝させてもらうわね・・・」
「お休みなさい。部屋まで一人で大丈夫?」
「さすがにそのくらいは大丈夫よ。あと、本当にありがとう・・・」
接し方を考え直した方がいいのかもしれない。俺自身、親に甘えたことがほとんどない以上どうやればいいのか
さっぱり分からなかったが、もっと思い切って色々話してみよう、腹を割って、話せることは話してみよう、
フラフラと頼りないお母さんの背中を見ながら、俺はそんなことを漠然と考えていた。
* *
「洗濯はこれでよし・・・、っと。次はご飯ね」
洗濯機を回している間に夕ご飯を作っておく。お母さんのあの様子だとたぶん食欲はあまりないだろう。
「久しぶりにあれ・・・、作りますかね」
どうやらお母さんは今日は魚の煮つけを作ろうとしていたようなので、それを引き継いで作っていく。
俺自身、料理についてはそれなりに色々とやってきたつもりだし、簡単なものだけ作らせてもらったくらいだが
バイト先で厨房に立ったこともある。一通りの作業は頭に入っていた。百合子の身体はその手のことをほとんど
と言っていいほどやったことはないが、彼女の記憶の中にある家庭科での工程や、俺が入り込んでから家庭科で
簡単な試運転をした時のことを思い出しながら作業する。最初はぎこちなかったが、30分もすれば普段の俺と
そこまで変わらないくらいには包丁を使ったり出来るようになっていた。
魚の準備をしつつ、その傍らで鶏肉を細かく刻んだり、シイタケなどを準備しておく。お母さん用に作るのは
雑炊だ。よく母さんが酔っぱらって帰ってきたときのために作ってたから、レシピを含めてほとんど心に刻ま
れているくらいに覚えている。百合子は初めて作るはずだが、嗅ぎなれたにおい、手順が凄く懐かしく感じる。
「そう言えば、段々と俺のことも自然に思い出せるようになってきたな・・・」
ここ最近、「清彦」としての思い出も段々と自然に思い出せるようになっていた。今までは思い出すときは
少なからず身体にノイズのようなものが走っていたが、それも今ではすっかりなくなっている。彼女の身体
も、頭も使いこんでいるうちに、俺の存在そのものが馴染んだのだろうか。しかし、不思議と悪い感じは
しなかった。
「よしっ、出来上がりっと!・・・、ちょっとしょっぱかったかなぁ」
取りあえず雑炊と魚の煮つけ、みそ汁は出来た。あとは恵理子が帰ってくるくらいのタイミングでサラダを
作ればいつでもご飯は出せる。ただ、味が少し濃すぎたかもしれない。それにこれがお母さんだったらもう
何品か作っているんだが、さすがにそこまで手は回らなかった。
「改めてお母さんってすごいんだなぁ・・・。今度教えてもらおうかな」
ほとんど同じくらいの時間のはずだが、それでさらに別の料理も作れてしまうお母さんの手際の良さに脱帽
する。元気になったら一緒に作ってみるのもありかもしれない。親子で一緒に何かをする、そんなありふれて
いて、百合子としては絶対にありえなかったであろう未来、それを作るのも悪くないし。
「とりあえず、お母さんにはこれを食べてもらうとして・・・、部屋持ってくか」
雑炊は小さな土鍋で作ってある。そのまま食べられるはずだから、これをお盆に乗せて、水と薬も併せて
準備する。とりあえず何か腹に入れてもらって薬を飲んでもらおう。市販の風邪薬だけど飲まないより
マシなはずだ。
「お母さん、入るよ」
2階のお母さんの部屋にノックをする。「はーい」と声が聞こえた。どうやら起きているようだ。そのまま
ドアを開けて雑炊を持って入っていく。大人らしい、落ち着いた雰囲気の部屋に一人用のベッドが備え付けて
ある。百合子の頭の中にはほとんど記憶になかったと言うことは、もしかすると部屋に入るのは相当久しぶり
なんだろうか。
「あんまり寝れなかった?」
「まあ、寝付いては目が覚めて・・・、って感じかしらね?それより、本当にご飯作ってくれたのね?
ありがとう・・・。ケガしなかった?」
「うん・・・、そこは大丈夫。お口に合うかは分からないけど」
ベッドの上で寝ていたお母さんは入ってきた俺に気が付き、上体を起こしてこちらを見てくれた。
パジャマに着替え、いくらか弱っているお母さんは普段の可愛らしさに少し儚さが同居し、妙にエロい
感じがして、ドキッとしてしまう。俺と同い年の頃はどんな人だったんだろう。そんなお母さんはお盆の
上に乗せてきた土鍋を見て察してくれたようだ。優しそうに目を細めながらこちらを見てくれている。
こんな暖かい視線はいつ以来なのだろう。
「きっと大丈夫よ。一生懸命作ってくれたんだから。いただきますっ」
そういってお母さんは躊躇いもなく食べ始めた。
「おいしい・・・。凄い優しい味ね。こんな上手に作れるなんて・・・」
お母さんは驚きながらも、その手を休めることなく食べ続けてくれた。どうやらお気に召してくれた
ようだ。その様子に胸をなでおろす。その時、玄関のドアが開く音が聞こえた。どうやら恵理子が
帰ってきたようだ。
「あ、恵理子のご飯の支度してくるね。後でお椀は取りに来るから、ゆっくり食べてね」
「百合子」
晩御飯の支度をしようと部屋を出ようとしたところで、お母さんに呼び止められた。百合子らしく
したら疑われかねないので、努めて俺らしく、ただし女の子らしく振舞ってみる。賢いもので、
ある程度自動で補正をかけてくれる。
「どうしたの?」
「変なこと聞いているのはわかっているんだけど、聞きたいことがあるの・・・」
お母さんは一瞬躊躇いながら、俺に確認してきた。表情が見たこともないほど真剣で、何かを
考えている。どうしたのだろう?
「いや・・・、何でもないわ。ごめんなさい。私の思い過ごしだったみたい。忘れてくれるかしら?」
「どうしたの?私・・・、何か変だった?」
「大丈夫よ。あなたは百合子、私の大切な娘なんだから・・・」
その言葉に、お母さんが聞きたかったことが何となくわかってしまった。娘の変貌に、漠然とながら
何かに気が付いてしまったようだ。これが親としての勘なのだろうか。
「ほら、お腹すいたでしょう?ご飯食べておいで」
「う、うん・・・。お母さんこそ、ゆっくり寝てね」
考えを巡らせているうちに、お母さんが声をかけてくる。恵理子を待たせてしまっているのだった。
それに、お母さんは病人なのだ。さっさと寝て、身体を治してもらわないと。微笑むお母さんを後に、
俺は部屋を後にした。
下に降りると、制服姿の恵理子がいた。何やら機嫌が悪そうに見えるが、百合子と会う時はいつも
こんな顔なのだ。それがやっぱり寂しい。
「お帰り、恵理子。お腹すいたでしょう。ご飯にする?」
「ただいま・・・、お母さんは?」
「風邪ひいちゃったみたいで、今は部屋にいるわ」
「え・・・?」
その言葉に、恵理子は目を丸くした。驚いた表情も見慣れない。もしかすると、ここまでまともに
会話をしたのも久しいのかもしれない。
「大丈夫なの?」
「とりあえず、ゆっくり寝て早く治して、って言ってある。ご飯は食べられてるから、疲れちゃった
のかなとは思うんだけど・・・」
その言葉に、恵理子は2階のお母さんの部屋に向かった。心配なようだ。やっぱりいい子じゃないか、
俺はそう感じた。百合子の思い出に浸ると、恵理子についての好意的な評価にすべてネガティブな感情を
差そうとしてくる。よほど嫌いだったのだろう。ただ、俺が見る限りでは家族思いで、ちょっと不器用な
いい子にしか見えなかった。お母さんが言う「赤の他人」としての目線が、こういう時には役に立っていた。
恵理子がいないうちに、晩御飯の準備をしておく。煮つけを温め、サラダを作っておく。レタスとかを刻み、
トマトを乗っけた簡単なサラダだ。せっかくなのでツナ缶も開けて一緒に添えておく。
「あっさりできちゃった・・・。恵理子の口にも合えばいいんだけど、大丈夫かな」
俺が持っていた料理の知識をあっさりと吸収し、それを再現して見せた。百合子として初めて作った料理、
果たして食べてもらえるだろうか、少しばかり緊張する。
テーブルに準備した晩御飯を並べていると、恵理子が下りてきた。心なしかホッとした表情に見えるのは
気のせいではないだろう。
「・・・、ご飯作ったんだ」
「うん。食べる・・・、よね?」
「・・・、うん」
最低限の会話のまま、晩御飯の支度を手伝ってくれた。冷え切った関係なのが悔やまれるが、それでも
手伝ってくれるあたり、やっぱり悪い子だとは思えないが、それでも会話がないのもやっぱり悲しいものだ。
ただ、取りあえず晩御飯を食べないというのはなさそうだ。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます・・・」
恵理子の手伝いもあり、あっさりと準備が終わったので2人で晩御飯を食べ始めた。俺の時は一人で、家族と
食卓を共にしても会話が弾まないことも多いから、この光景も慣れたものだ。
「おいしいかな?」
「・・・」
取り合えず話しかけてみるが、この通り返事も帰ってこない。だが、百合子の記憶を探ればその態度も思わず
納得できてしまうほどに、百合子は彼女に向き合っていなかった。ただし、そんな彼女は箸を止めることなく、
淡々と食べ進めてくれていた。全く口に合わない、あるいは姉が作った料理など意地でも食べないと心に決めて
いるのであれば恐らく残すだろう。
「お母さんのことは私が見るし、家事もやっておくから恵理子は部活、頑張ってね」
「・・・!」
何気なくかけた言葉に、恵理子が思わずピクリとする。視線だけをこちらに向けて、まるで睨みつけるように
俺のことを見ている。その表情は怖かった。
「今週末大事な試合なんでしょう?友達から聞いたよ」
「・・・、うん」
一言だが、返事をしてくれた。その戸惑いに溢れた表情は最近よく見かける表情だ。彼女も頭の中でパニックに
なっているのかもしれない。でも、俺としては恵理子にそのくらいしかやってあげられることがないんだ。
そこはキッチリと支えさせてもらう。ちなみに恵理子に大事な試合が控えているというのは亜由未ちゃん情報だ。
どうやらレギュラーに抜擢されたらしい。そこまで一生懸命頑張っている彼女だからこそ、少しでも何かして
あげたかった。改善関係の糸口に出来ればいいんだが・・・
そうこう考えているうちに、俺も恵理子も食べ終わっていた。
「・・・、ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
そんな恵理子は俺の物を含めて、皿を重ねて流し場へ運んでくれた。
「あぁ、大丈夫だよ。あとはやっておくから。運んでくれてありがとね」
俺としては自然に声をかけたつもりだったが、彼女はかなりビックリした顔をしていた。それもつかの間、
いつもの通り厳しい表情に戻り、流しを後にして自分の部屋へと向かっていった。俺はその後を引き継ぎ、
皿洗いを始めると、去り際のことだった。
「・・・、おいしかった。ありがとう」
彼女はただ一言、その言葉を呟いていた。思わず視線をあげると、既にそこに彼女はおらず、上の階でドアが
閉まる音が聞こえた。残念ながらそれ以上の言葉をかけることは出来なかったが、それでもその言葉は本当に
嬉しかった。
「おいしかった・・・、か。やった・・・!」
ひょんなきっかけだったが、もしかすると家族とも関係を改善できるかもしれない。話しかけることさえ
できなかったと思えば、大した進歩だった。しかし・・・
「・・・、でもダメだ。まだ近づけない・・・」
本当はもっと話したいし、もっと知りたい。だが、百合子の記憶が邪魔をする。他の部分についてはかなり
緩和できているのだが、恵理子に関して考えると、百合子が残していった黒い感情が渦巻いてしまう。
「でも、きっかけは出来た。少しずつでも・・・」
そう、今日で確信した。彼女との関係改善は「出来る」。少しずつでも、一歩ずつでも歩み寄る。
百合子と恵理子の関係がここまで冷え込んでしまったきっかけまではまだつかめてないが、それでも少しずつ
関係を改善する。近づいていく。そうすれば、いつかきっと笑いながら話が出来る。出来ないはずはない、
何せ俺は百合子の身体に入ってから、色々なものを・・・
「・・・、すっかり、自分のことのように考えるようになってきたな・・・」
そこでふと我にかえる。今の俺は間違いなく「久保田百合子」として考えていた。最近、そういう時間が
確実に伸びてきている。そしてそれを悪くないと思う俺もまた、確実に増えてきていた。
「まあでもいいか・・・。恵理子ともちゃんと話してみたいし・・・」
だが、「俺」として考えてもそれを自然に受け止められた。間違いなく彼女は傷ついている。だからこそ
話を聞いてみたかったし、吐き出させてあげたかった。少なくとも俺は、そこに関してはあかねたちに
助けてもらっている。抱え込むことが辛いのは、この身体に入ってから痛いほど理解できた。だからせめて、
俺が百合子でいるうちに、そこは何とかしてあげたかった。
「他でもない、妹のためだからな・・・」
本来俺が持つことのなかった「妹」への、身内としての情愛が、俺の心にほんのりと灯っていた。
ご飯の後は残りの家事をさっさと片づけた。お母さんの部屋から土鍋を回収しに行ったら、鍋の中は空に
なっていた。食欲がないわけじゃなさそうだったのが一安心だ。皿洗いに洗濯、アイロンかけなど一通りを
こなしているうちに結構な時間が経っていた。俺の時は、母さんが滅多に帰ってこないこともあって俺一人分
だけこなせば十分だったのだが、百合子の場合他に家族がいる。当然ながら人数も多くなるし、作業量も多い。
恵理子はたまに手伝っていたみたいだが、基本的にお母さんにすべて任せてしまっていた。改めて一人で全部
やってくれていたお母さんのすごさを実感する。と同時に、疲れが溜まっていたことも理解できてしまう。
風呂に入り、ストレッチをし、勉強する。一日の流れとして次第に定着してきているが、家事までこなすと
それなりに時間もかかっていた。気づけば夜の11時。早起きする習慣を身体に沁み込ませるようにしている
今の生活では、いつの間にかもう寝る時間になっていた。
「うん・・・っ、くあっ・・・♡」
寝る前に少しヌいておく。どっちかというと俺自身もあまりやっていなかったのもあるのかも知れないが、
俺本来の身体について考えなければ割と性欲は少なめらしい。おかげでいつも適度に、快楽に浸るくらいで
終わってくれる。ちょっとしたご褒美に近いものだ。
「ふう・・・、気持ちよかったぁ・・・。あ、そうだ」
寝る前にお母さんの部屋を確認しに行く。枕元の電気だけついてたが、よく眠っているようだ。
「うーん・・・、まだ熱上がりそうだなぁ・・・」
首元に手を当てるとまだまだかなり熱い。汗をかいている様子も見られないあたり、完治まで何日かはかかり
そうだった。
「飲み物は・・・、ちゃんと飲んでるな。足しておこう。あとは熱さまシートも貼り替えて・・・」
おでこと首元の少し剥がれかけていた冷却シートを貼り替え、スポーツドリンクを入れておいた水筒を満杯に
しておく。そんなお母さんの目元には少しクマが見えた。
「本当に・・・、頑張り過ぎなんだから・・・」
お母さんが風邪をひいたのは、恐らく疲れもあるのだろう。元々男子としては平均くらいの身長があった俺から
見ると、母さんと同様百合子のお母さんもまた小柄に見えた。そんな彼女が背負っていた負担はどんなくらい
なんだろう。育ち盛りの娘、まして一人とは冷え切っていたのだ。肉体的だけでなく、精神的にもかなり辛い
のは容易に想像が出来た。
「お休み、お母さん・・・」
眠っているお母さんの頭をそっと撫でて部屋を後にする。その姿は奇しくも、寝ている母さんとダブって見えた。
(何でこんな人を嫌うんだろう・・・。いいお母さんじゃないか)
明日の朝も早い。自分の部屋に戻り、ベッドの中で百合子の記憶を探る。少なくとも俺が百合子に入ってからの
お母さんは、最初の頃こそ冷たかったし、手伝いもさせてくれなかったような人ではあったが、最近は少しずつ
だが話も出来るようになってきた。やりたいことは応援してくれるし、何より娘を、家庭を支えるために一生懸命に
頑張っている姿はたぶん、真っ当なお母さんなんだろうと思わせてくれた。
「うーん・・・、きちんと接してると思うんだけどなぁ・・・」
記憶の中のお母さんは百合子が嫌がることはせず、助けを求めているときは力になっているようにしか思えなかった。
たぶん俺が同じことをしてもらえたなら、素直に甘えていただろう。しかし、そこにもまた彼女の黒い感情が突き
刺さってくる。一体なぜなのだろうか、百合子の記憶の海に少しばかり潜り込んでみる。
「・・・、不登校だった時期があったのか・・・」
百合子の記憶の中の、まだ見えていなかった一部が垣間見えた。どうやら中学3年生の頃のようだが、同級生から
のいじめに遭い不登校だった時期があったようだ。元々暗い性格だった彼女がさらに歪んだのは間違いないだろう。
その時のお母さんは・・・
「きちんと向き合おうとしているんだよなぁ。学校に働きかけたり、って、お母さんボロ泣きじゃん・・・。でも
百合子は向き合わなかった。自分の中に引きこもっちまったのか・・・」
様子がおかしいことにも気が付き、きちんと向き合っているように見えた。少なくとも、同じような経験をした時に
母さんはおらず豊がいなかったら立ち上がれなかっただろう俺とは違い、家族として、母として最大限努めている
ように思えた。だが、彼女はそれを拒絶した。結果的にある程度は自分で立ち直ったみたいだが、その分内面も
歪んでしまったのだろう。
「・・・、何とか、戻さないとな」
だからこそ、俺が代わりに歩み寄ろう。少なくとも百合子が戻ってくるまでに、彼女が「籠れない百合子」に改造
してやる。結果的にそれが家族にも救いになる、勝手に俺はこう結論付けた。
それに何より、他にも突き動かすものがあった。
(お母さんと何かを一緒にする、っていうのもいいよな・・・)
それは本能的な「俺」の感情だったと思う。だがそんな普通の、ありふれた家族の関係に憧れた。やりたくても
出来ない、そもそも機会さえ与えられなかった「俺」とは違う。少なくとも、お母さんは手を差し伸べてくれて
いる。だったら思いっきり掴んで、手繰り寄せてみよう、俺は自然とそう考えていた。
「まあ取りあえず、まずはお母さんに元気になってもらおう・・・。話はそれからか」
考えているうちに眠気が襲ってきた。自分が動かしている身体のはずだが、内面を探るとどうしても頭を使う
らしい。明日からやるべきことが一つ増えたが、それでも何となく嬉しかった。確実に「百合子」を構成した
ものを壊し、直し、作り替えている、その感覚がとても楽しい。ついてきてくれる、下手をするとそれ以上の
ところまでたどり着いてくれる身体との対話が面白い。変化によって変わっていくうちに、周りのみんなの
笑顔も増えてきている、その事が本当に嬉しい。いつしか俺は、無意識のうちに百合子に対する復讐以外の
目的をも見出し始めていたのだが、それを意識するのはまだ先の話だった。
翌朝、いつもの通り5時30分に目を覚ます。次第と身体が覚えてきてくれたのか、寝覚めも段々と悪いもの
ではなくなってきていた。ひどい時は朝、起き抜けで胸をいじったり、ヌいたりして無理やり起こしてたんだ
けどなぁ・・・。
いつもの通りのウォーキングだが、今日は軽めに抑えて30分くらいで戻ってきた。それでもやっぱりそれなり
に疲れは出てしまうし息も上がるが、最初の頃に比べれば遥かにマシだった。
「取りあえず作り置きしてかないとなぁ・・・」
登校前に、お母さん用のお粥を作っておく。昼ごはんにも使えるよう、少し多めに用意しておくことにした。
たぶん病院に行くとは思うが、やっぱり身体を早く治すには何か食べておいた方がいい。風邪をひいた時の
俺の経験則だ。ささっと作り終えた後に、お母さんの部屋に行く。
「お母さん、入るよ」
「はーい・・・」
返事が聞こえた。どうやら起きているようだ。中に入ると、お母さんはベッドの上で上半身を起こしていた。
呼吸がかなり辛そうに見えるが、それを感じさせまいとどうにかこうにか微笑んで迎え入れてくれる。
「おはよう。辛そうだね・・・。お粥作っておいたから、後で食べてね」
「おはよう・・・。ありがとうね色々と・・・」
いつもとは違う弱々しい様子、無防備な姿、そんなお母さんに、俺は不思議とドキッとしてしまう。
そんな俺は、とあることに気が付いた。
(そうか・・・。やっぱり俺、お母さんを赤の他人として見てたんだ)
この身体で語れば身内贔屓の話になってしまうが、お母さんは正直可愛らしい。小柄な身体、40歳に迫って
なおあどけなさを帯びた童顔な顔立ち、その身体に不釣り合いなくらいに大きな胸、これで性格は少し頑張り屋
さん過ぎるところはあるが、とても優しいのだ。こんな嫁さんを捕まえたお父さんが羨ましいと思ってしまうが、
それはあくまで俺の、「清彦」としての感想だった。それに、
(こんなにきちんと向かい合ったことさえなかったのか・・・)
不登校になったときも、どんな時も、百合子は彼女から目を背け続けてきた。だからこそ変化に気づくこともなく、
俺もお母さんの様子がおかしいことに気が付くまで時間がかかってしまった。
「百合子・・・、どうかした?」
「あ、い、いや何でもない!それよりちゃんとお医者さん行ってね?お大事にっ!」
「え・・・?ああ。うん。いってらっしゃい・・・」
結構じっと眺めてしまっていたらしい。その仕草、病気で弱った姿が妙に艶めかしい。そんな俺は心のドキドキが
抑えきれないまま部屋を飛び出していた。気づけば顔が、妙に火照っていた。
その後は俺と恵理子の朝ごはんの準備をして、俺はさっさと学校に出かけた。何故か分からなかったが妙にそう
したくなった。何というか、妙に恥ずかしかった・・・、のだと思う。
早く着いた教室は生徒もまばらだ。あかねや早希子、当然ながら元の「俺」も来ていない。グラウンドからは
朝練に出ているみんなの声が聞こえてくる。俺もその内、ああいうのに混ざれる機会があるのかなぁ・・・、
とボヤっと考えていると、
「あ、おはよう久保田さん」
「おはよう・・・、か、栗原さん」
制服を身にまとった和美ちゃんが教室に入ってきた。ああ、今日も可愛らしいなぁ・・・、近くに来た和美ちゃん
からはシトラス系の爽やかな香りが伝わってくる。
「珍しいね。この時間って全然人いないんだよ?」
「うん・・・、まあね。栗原さんは朝練?」
「和美でいいよ。私もそんな感じ。基本的に朝練はないんだけど、この時間の体育館って空いてるんだよ」
どうやら彼女は既に軽く練習しているらしい。何となく感じていたが、彼女は見た目に反してかなり熱心で、
情熱的なのかもしれない。たぶん和美ちゃんのことは俺が百合子の身体に入っていなければ、ここまで知る
機会もなかったのだろう。
「ああ、そうだ。部活なんだけど、やれることになった」
「えっ!?本当に!やったぁ!」
目を爛々と輝かせて、俺の両手を掴んでくる和美ちゃん。やばい、顔が近い・・・。本当にきれいな顔
してるよなぁ・・・。すべすべで、手触りのよさそうな白い肌が近づいてくる。ああ、でもダメだ。
ちゃんと正直に話しておこう。
「うん・・・。それはいいんだけどね・・・」
「?」
キョトンとする和美ちゃんに事情を話す。本当ならすぐにでも参加してみたかったが、こればかりはさすがに
仕方がない。お母さんは放っておくと無理するのは目に見えてしまう。今は少しでも休ませたい。
「ってわけなの・・・。ごめんね。ちょっと遅くなっちゃうかも知れないんだけど・・・」
「ううん、大丈夫だよ。落ち着いたら声かけてくれれば大丈夫なようにしてあるから、それは心配しないで?
それよりお母さんのこと大事にしてあげてね」
何か言われるかと思ったけど、あっさりと受け止めてくれた。穿った見方をしてた俺の方がむしろ申し訳なく
なってくるくらいだった。
「えへへ、でも嬉しいなぁ・・・。私、部活に誰かを誘うのって初めてだったんだ」
ちょっと恥ずかしそうな顔で、ぽつりと言葉をこぼす和美ちゃん。初めて誘うのが俺みたいな、それこそ百合子で
よかったのだろうか。他にももっと、いい子がいそうな気がするのだが・・・。
「ねえく・・・、和美ちゃん」
「えへへ・・・。どうしたの?」
あかねみたいに距離感をぐいぐいと近づけてくれるような子は別なようだ。和美ちゃんを名前で呼んでみただけで
心がざわっとする。そんな彼女は呼んでくれたことが嬉しかったのか、その可愛らしい顔に笑みを浮かべていた。
やばい、本当に可愛い。
「どうして・・・、私を誘ってくれたの?」
「え?だってあんなに身体柔らかいんだもん。どこまで行くか、見てみたくなっちゃって。それに・・・」
「それに・・・?えっと「おっはよー百合っち、和ちゃん!」」
詳しく聞こうと思ったら、後ろからよく通る元気な声が聞こえる。間違いなくあかねだ。彼女の介入で聞きた
かったことも霧散していた。つくづく色々な意味で力の強い彼女である。というか意外と朝早いんだな。
あかねの登場からはいつもの通りの雑談に興じ始める。何だかんだで当たり前になってきたこの時間だが、
俺の精神安定にはかなり寄与してくれている。最近はあかねたち以外にも少しばかりだが、話せるようになった
子も増えてきた。どうやら俺は意外と話が面白いらしい。そう言ってもらえるだけでもありがたかった。
・・・、そう言えば最近、「百合子」が話しかけてこなくなった気がするんだが、一体あいつは何をやって
いるのだろうか。ふとあいつの様子を見れば、確かに話してはいる。普通に雑談をしているようだが、その
メンバーはだいぶ変わり果てていた。
前は結構、こう言ってはあれだが傾向としては「陰キャ」寄りな交友関係だったはずだ。色んな人と話せる
つもりではいたが、それでもいわゆる「陽キャ」の相手はあんまり得意ではなかった。だからこそあかねなんか
ともあまり話す機会はなかったわけだが・・・。だけど、お互いマイペースに話せる友人のほうが気が合ったし、
俺自身気が楽だった。
そんな俺は今話しているのは「陽キャ」そのもの。というよりかなり尖った面子ばかりだった。いわゆる
「札付き」や、あかねとは違う意味でのギャルとつるんでいるようだ。いわゆる、いい噂は聞かない連中だ。
それと溶け込んでいる俺の姿はもはや、俺の知っている俺自身ではなかった。果たしてあいつは本当にどこへ
行きたいのか、もはや俺にも分からなかった。
「うぉーい百合っちぃ~。宿題のここがアタシわかんねぇ・・・」
「あ、ごめんごめん。えーっとここはね・・・」
あかねからの救援要請に、思考を打ち切りそちらに意識を集中する。最近のあかねは宿題も結構自力でやるように
なってきていた。彼女なりに頑張っているのだろう。それが嬉しかった。
ただその事は、俺が元の清彦より今の百合子であることを優先していたと気づいたのは、家に帰ってからだった。
あっという間に放課後になった。今日はそそくさと帰ることにして、駅前のスーパーで買い物を済ませて家路を
急ぐ。しかし、あかねがあんなに詳しいとは意外だったなぁ・・・。
今日の昼休みにあかねや早希子たちにも相談してみたら、あかねから看病の方法を色々と教えてもらえた。
話しただけで「あー、それだと百合っちのお母さん、相当疲れてるね・・・」とあっさり看破し、そういう時に
効く食べ物や、面倒の見方、あるいは冷却シートを貼るおすすめの位置まで、とても詳しく教えてくれたのだ。
清彦だったときに母さんの面倒を見ることはあったが、看病まではしたことがなかった俺からすれば「女の人」
の看病の仕方など頭にあるはずもない。その辺の知識不足をあかねが補填してくれたのだった。
家に帰ると、やっぱり恵理子はまだ帰ってきていない。だがそれでいい。彼女が試合に備えて部活に取り組める
よう、お母さんが元気になるまで支えるのは俺の、姉としての百合子の役目だ。その事を受け入れてくれたことに
ホッとする。恵理子とも話していく糸口はありそうだ、何となくそう思えた。
「お母さん、ただいまー」
「ああ、お帰り・・・。ゴホッゴホッ」
お母さんは自分の部屋にいた。枕元には見慣れない薬が置かれていた。どうやら医者に行ってくれたようだ。
「お母さん、風邪はどうだった?」
「ええ、お医者さんに診てもらったら、疲れから出たただの風邪だったわ。本当にごめんね・・・?」
「大丈夫だよ。気にしないでゆっくり休んでて」
努めて明るい声で問いかける。ただの風邪とは言え、お母さんがここまで体調を崩した記憶は百合子の中にも
ない。看護師ということもあり、普段からかなり気を使っていたであろうお母さんが風邪を引いてしまうと
いうこと自体が既に異常なのだ。その後はお母さんに色々と聞いた。ご飯は食べられそうかとか、何か買って
きてほしいものはあるかとか、あと、学校の話も少しした。こんなに長い時間話したのは久しぶりではない
だろうか。ちょっと辛そうだけど、コロコロと表情を変えるお母さんが可愛らしい。本当はこんな、面白い人
だったんだ・・・。
「ああ、ごめんね話し込んじゃって。またご飯できたら持ってくるからゆっくりしてて?」
「いいのよ。待ってるわ」
ついつい話し込んでしまったが、お母さんは病人だ。ゆっくりしてもらわないと。そう言って部屋を出よう
としたときだった。
「あ、待って百合子・・・」
お母さんから呼び止められる。少しバツの悪そうな顔をしていた。その様子はどことなく俺が「百合子」に
入れ替えられたときの、彼女本来の表情にも似ているのかもしれない。これも親子なのだろうか。
「その・・・、本当にありがとうね・・・?あなたが止めてくれなかったら私・・・」
「え・・・?どうかした?」
俺の問いかけに、お母さんは一瞬キョトンとしたあと、そのまま続けた。
「・・・、お医者さんに言われたの。働きすぎ、気にしすぎだって・・・。もう少し遅かったり、ここで無理を
したら最悪の場合倒れたり、死んでいたかもしれなかった。そうやって怒られちゃった・・・。これでも
看護師さんなんだけどなぁ」
まるで叱られた子供のような表情で俺に語り掛けてきた。どうやら色んな意味でギリギリのタイミングだった
らしい。もし本来の百合子だったら、と思うとぞっとする。
「仕方ないよ・・・。私自身、本当にひどい娘だと思うし・・・」
「そんなことない!百合子も恵理子も私にとっては大切な・・・ゴホッ!ゴホゴホッ!」
「お母さん!無理しちゃだめだよ。ほら、横になって・・・」
俺が「百合子」に感じていたことを素直に吐き出すと、体調が悪いだろうに必死に否定してくれる。やっぱり、
本当にいいお母さんだな・・・。大丈夫、俺が「百合子」でいる間は、辛い思いさせないから。
「・・・、百合子。風邪が治ったら、ゆっくり話したり、一緒にご飯作ったりしましょうね・・・?私も、
もう絶対に無理はしすぎないようにするから・・・」
「うん・・・。ゆっくり話そうね。いっぱい教えて?お母さんの事、家族の事、それから・・・」
お母さんの身体を支え、横たえながらその目と目が合う。百合子の記憶が拒絶反応を起こすが、その感情を
押し殺す。「百合子」にとってお母さんの目は大の苦手だったようだ。何もかもを見通す、子供のことを
真剣に見守っているその目が、向き合おうとするその心が何より辛かったらしい。だから反抗して、自分の
殻に閉じこもって、あまつさえ他人を傷つけて・・・
「百合子・・・、泣いてるの?」
「えっ・・・?あ、あれ・・・?」
お母さんが心配そうな目で見つめてくる。どうやら俺は泣いていたらしい。
「だ、大丈夫だよ。目にゴミが入っただけだから・・・」
どうにか誤魔化すが、嘘は付けなかった。百合子の記憶を読んで、その感情の流れが分かって、それでも
その答えに至ったことが許せなかった。恵理子もそうだがあまりにも可哀想だった。世の中には、自分に
向き合ってさえくれない親だっているというのに・・・。そんなことを考えていると、ふと頭が柔らかな
感覚に包まれる。
「大丈夫。一人で抱え込むことなんてないわ・・・。私は、お母さんはいつまでも、百合子の味方よ。
って、今の私が言えたことじゃないか。無理しすぎてこの有様、だもんね」
お母さんは俺を抱きかかえながら、あやす様に俺に話しかけてくる。その事が本当に嬉しかった。
まだまだぎこちなくても、お母さんと少しずつ歩み寄っていける、それが出来そうだったから。だけど・・・
(俺にとっては本当の母さんじゃないんだよな・・・)
思い出してしまう。あくまでこの身体は借り物、勝手に押し付けられた他人の人生なんだ。俺が「俺」に
戻る方法を見つけたら、この関係も空中分解してしまうのではないか、せっかく打ち解けかけた関係も、
俺が作った関係さえも、「百合子」は喜んで破壊するんじゃないか、それならいっそ・・・
「少しだけでもお母さんらしく出来たかな?」
「うん、落ち着いた。ありがとう、お母さん・・・」
少し振り払うようにお母さんに声をかけ、部屋の外に出た。温かい家庭、心配してくれる家族、改善していく
関係、例え俺の物じゃなくても、今を全力で生きてみよう。そう思ってここまで積み上げてきた。実際、
それなりに効果は出始めていると実感さえしている。それで雁字搦めにしてやれば、百合子は何もできない、
そう思っていた。けど、
(今の「百合子」を見ていると、本当にそれで大丈夫か分からなくなってくる・・・)
今の百合子が操る俺とはすっかりご無沙汰である。だけど、よくない噂だけなら耳を塞いでいても聞こえて
きてしまう。バイトはサボりがち、成績は落ち込み気味、そして何より女子ともあまりいい付き合い方はして
いないようだ。
(なあ、清彦の奴どうしたんだ?)
(うん・・・、なんかいい噂聞かないよね。それに話も最近ずれる気がするし・・・)
(何というか、あんな奴だったっけ・・・?)
(それに・・・、いや、何でもない。何でも・・・)
この前佐竹と大川が俺の席のそばで話していた事だった。聞き耳を立てるつもりはなかったのだが、聞こえて
しまったものだ。
(そんな百合子が仮に戻ってきたとして、今の生活を良しとするか・・・?)
否である。俺の身体で味を占めた彼女は、生まれ変わった「百合子」の仮面さえ被れてしまうだろう。
なまじ今までの彼女にはなかった「人付き合い」を覚えてしまったのだ。そうなればもう答えは見えている・・・。
少なくとも百合子の脳は、かつての持ち主の性格をトレースして答えを導き出してくれた。そして俺にもそれを
否定できるだけのものはなかった。あまりに「あり得すぎる」未来だった。
「・・・、嫌だよぅ・・・」
そんな言葉が自然と口から出た。そうなれば毒牙にかかるのは間違いなくお母さんであり、恵理子であり、
あかね達である。恐らく和美も餌食になってしまうだろう。自分を助けてくれた人たち、「百合子」として
向き合った存在がひどい目に遭う、仮に元の俺の身体に戻ったとして、それを阻止できるだろうか。
――俺は一体、どうすればいいんだろうか・・・。
「・・・、ただいま」
恵理子の声で我に返る。結局彼女が帰ってくるまでの間、それを真剣に悩み続けていたが結局答えは出なかった。
彼女に余計な心配をかけるわけにもいかないと、百合子としての仮面を被り極力自然体で振舞おうとする。
「ああ、お帰り恵理子。ご飯、出来てるけどどうする?」
「・・・、食べる。あとこれ・・・」
答えた恵理子が一緒に手渡してきた。ヨーグルトや洗剤など、ちょうど切らしかけていたものだった。どうやら
買い物を済ませてきてくれたようだ。
「あ、ありがとうっ!ちょうど足りてなかったの!」
「・・・、うん」
やはり必要最小限の回答しかしてくれない。でも、気を使ってくれているのはよく伝わってきた。ぶっきらぼう
だけど、それでもどうにか近づこうとしてくれている。その不器用さに苦笑するとともに、気遣いが心に染みた。
「・・・、何?笑っちゃって・・・」
「ああ、ごめんごめん。何だかちょっと嬉しくて・・・」
「・・・、変なこと言わないでよ・・・」
思わず顔に出てしまった感情に、いつもの通り帰ってくる冷たい言葉。だが、その声色は不思議とどことなく
穏やかなものだった。
* *
「お母さーん、おはよう。調子はどう?」
「おはよう百合子。おかげさまでだいぶ楽になってきたわ。本当にありがとうね」
「顔色よくなってきたね。じゃあ、熱計ろうね」
学校へ通いながらお母さんの看病をする生活も早いもので4日目だ。そんなお母さんは前に比べると明らかに
顔色がよくなってきていた。お母さん曰く「こんなによく寝れた生活は久しぶりかも」と言っていた。今思うと、
確かにお母さん夜遅くまで起きてたし、朝も早かった気がする。
「37度6分・・・。下がってきたね」
39度近くまで上がっていた体温も段々と下がってきていた。それに食欲も出てきたようだ。下手をすると風邪を
引く前より今の状態の方がいくらかましかもしれない。
「それにしても、百合子のお友達の・・・、あかねちゃんだったかしら?凄いわね。冷却シートの貼り方といい、
ご飯のレシピといい、よく勉強してるわね。私も参考にしたいものだってあったくらいだわ」
あかねは本当にあれこれと親切に教えてくれた。料理に至ってはわざわざレシピまで作ってくれて
いた。彼女らしく擬音が混じっていたり、ちょっとカラフル過ぎる独特のレシピだったが、それでも
色鉛筆を使ったり、工程が難しいところは絵をかいておいてくれたりするなどと、一生懸命作って
くれたのがひしひしと伝わるものだった。それでいて味はおいしく、栄養まで考えられているのだから
たまったものではない。お母さんもレシピを見て思わず唸っていたほどだ。
(あかねって、料理作れるんだなぁ・・・)
そんな物思いにふけっていると、お母さんから「百合子、学校遅れちゃうよ?」と指摘される。気づけば
結構いい時間だったので、私は慌てて学校へ向かった。
・・・、周りに支えられながら続けてきたお母さんの看病、それが確実に実を結んで快方へと向かっている
手ごたえはあった。しかし、その事が男子高校生である「俺」にとってある種の試練を与えることになるとは、
この時は夢にも思っていなかった。
その日の晩御飯は鍋料理にした。お母さんもだいぶ体調が戻ってきたらしく、布団から出たり、一緒に
ご飯を食べられるくらいには回復した(家事をやろうとしてたのでそれは頑張って止めた)。
「美味しいわね!百合子が作ったの?」
「うん・・・。口にあったなら何よりだよ」
一応家事全般はこなせるがこの清彦、実は鍋だけはちょっと自信があった。親が帰ってこず、バイトで忙しい
日などはどうしてもご飯を作るのが適当になってしまう。そんなときによく作っていたのが鍋だった。色々
食べられるうえに、手間も割と簡単だ。極端な話、水を入れて煮ればどうにかなってしまう。ただ、鍋ばかり
食ってると飽きてしまう。だから、暇なときは出汁にこだわってみたり、味付けにこだわったりとあれこれ
工夫することがあった。その鍋を振舞ってみることにした。
今日は生姜ベースで味をつけてある。なるべく身体が温まるように具材を揃え、味を調えている。お母さんの
食欲もよく、恵理子も喋ってはくれないが手が止まっていない。それなりに好評のようで、胸を撫でおろした。
お母さんは俺と恵理子、それぞれに話題を振ってくれる。どうにか会話を設けようとあれこれ頑張ってくれて
いるが、なかなか2人での会話とはいかないようだ。正直仕方がないだろう。百合子が恵理子に与えた傷は、
1日2日でどうにかできるものではない。こればかりは少しずつ歩み寄っていかないと・・・。
「ごちそうさま!美味しかったわ!」
「ごちそうさま・・・」
「お粗末さまでした。お口にあったなら何よりだよ」
それなりに具材を用意したつもりだったが、きれいに完食となった。お母さんはまだ熱は下がり切って
いなかったが、顔色はだいぶ良くなってきているのが見ていてわかる。食欲もだいぶ戻ってきたあたり、
そろそろ風邪も治りそうだ。
「身体が芯からポカポカしてくるわね。ふわぁ・・・。少し眠いかも・・・」
「あとやっておくから、ゆっくり寝ててよ」
風邪をひいてからのお母さんは割と早寝だ。長い間身体に貯まっていた疲労が出てきてしまっているのだろう。
温まるような具材を大量投入したこともあり、その温かさに導かれるように眠気が出てきたみたいなので、
そのまま眠っててもらう。いっぱい食べて、暖かくしていっぱい寝る、風邪を治すときの基本は変わりないらしい。
お母さんが寝た後はいつもの通りに家事を片付けた。今日は恵理子がお皿を洗っておいてくれた。恵理子なりに気を
使ってくれているのだろうか、色々と尋ねてみたいことはあったが聞くことは叶わなかった。
「ふう・・・、やっぱり結構疲れるな。休みはちょっとゆっくりしようかな」
俺の身体ではいつもやっていたことをこなしてきたつもりだが、家族全員分の家事をやる以上どうしても量が多く
なるのと、百合子の身体は当然ながら不慣れだということもあり、結構疲れが溜まっているらしい。明日は確か
恵理子はいよいよ試合だから、彼女を送りだしたら少し昼寝しようかな。お弁当作ったら食べてくれるかな・・・?
そんなことを考えながら、寝る前にお母さんの様子を確認しに行く。最近は寝る前に冷却シートを張り替えたり、
水筒に水を補給している。とにかく水分補給はまめに、あかねから教わった事をお母さんに教えたら忠実に守って
くれているので、寝る前には意外と空っぽに近いところまでいっているのだ。
お母さんの部屋に入り、冷却シートを張り替えようとした時のことだった。
「凄い汗・・・」
そんなお母さんは、冷却シートが剥がれそうになるくらいの、大量の汗をかきながら眠っていた。
「えっ・・・、ちょっとこれ大丈夫なのか・・・?」
いつもとは違う様子に思わず慌ててしまい、お母さんの首筋に手を当てる。ただ、触ると懸念していた事とは
対照的に、熱があるという感じの熱さはなくなっていた。
「ふう・・・、熱、下がってきてるのかな」
風邪が治るタイミングでは、身体の熱を下げるためにかなり汗をかくと聞く。よく見ると汗こそかいているが
寝苦しいとか、呼吸が辛いとかそう言った様子には見えなかった。ただ汗だけが吹き出すように溢れている、
そんな様子だった。
「ちょっとごめんね、お母さん・・・」
俺はお母さんのパジャマの胸元のボタンを外し、汗をタオルで吹きながら脇の下に体温計を差し込む。湿った
感触と、胸にあたったときのマシュマロのような柔らかさにドキッとしてしまうが、頭を振りながらどうにか
我慢する。年齢の割に、若々しいお母さんの身体は年頃の俺には少し、男としては厳しいものがある。
――ピピピッ、ピピピッ
体温計の鳴動音に一瞬呆けかけてた意識を戻され、すぐに確認する。
「37度1分・・・、よかった。熱下がってきてる」
どうやら治りかけの発汗だったようだ。恐らくこのままいけば明日には熱も下がっているだろう。ただし・・・
「このままじゃ・・・、風邪ぶり返すよなぁ・・・」
夕ご飯が効いたのだろうか、それともお母さんがきちんと水分補給をしてくれているからだろうか、その
パジャマはぐっしょりと汗で濡れていた。この様子だと下着も濡れてしまっているだろう。このままの服では
せっかく引いてきた熱がまた戻ってしまうかもしれない。
「お母さん、ねえお母さん」
着替えてもらおうと身体をゆすってみたり、頬を軽く叩いてみたりして起こそうとしたが目を覚まさない。
かなり熟睡しているようだ。これではお母さんに着替えてもらう選択肢は取れない。となると残された選択肢は・・・
「俺が・・・、着替えさせるしかないのか・・・」
一応これでも男子高校生の俺にとっては、とても厳しい選択肢しか残されていなかった。
「と、取りあえず服と下着とタオル、だよな・・・」
幸いにも今日洗濯したばかりだったこともあり、お母さんのタンスを漁る必要はなかった。洗って畳んだもので
事足りたからだ。緑のチェック柄のパジャマに、白いシンプルなインナー、念のために下着を用意して持っていく。
着替えさせるのに勇気を出して覗いてみたが、どうやらブラジャーは付けず、インナーを下に着込んでいるらしい。
まあ、ずぼらな「百合子」は当然つけていなかったが、俺も胸が苦しいから結局ノーブラで寝ている。実際その方が
よく寝れるのもある。その辺は遺伝なのだろうか。ちなみに恵理子はナイトブラをつけている。家事を引き受けて
いると、どうしてもその辺の事情も理解できてしまうのだ。母に似て胸が大きく育ちつつある彼女にも、それなりに
苦労はあるのかもしれない。
「さてと・・・、やりますか」
「清彦」だったときに酔っぱらった母さんをベッドに放り投げたことはあったが、そのまま寝るか自分で着替えて
くれていたこともあり、女性を着替えさせることなんてなかった。ましてお母さん、沙苗さんは可愛い顔立ち、
小柄な身体に大きな胸といった、正直女性として魅力的な身体なのだ。ドキドキするなというほうが無理だろう。
布団を足までめくり、上半身だけピンクの可愛らしいパジャマを脱がせていく。ぐっしょりと湿った感触と
熱で普段より高いせいかしっかりとした温かさがない交ぜになった、何とも言えない感覚が手に伝わってくる。
「なるべく手早く・・・、でも・・・」
思わず生唾を飲み込んでしまう。無防備で力の入っていない手を動かすたびに、お母さんの柔らかな肌の感覚を、
年齢を考えても明らかに瑞々しい、白くて透き通る肌を味わってしまう。その肌の色は奇しくも百合子の肌の色と
そっくりな色だった。
「すっげぇ・・・、やっぱりおっぱい大きい・・・。ってだめだ。早くしないと」
力の抜けきったお母さんの身体をあの手この手でずらしながらパジャマを脱がせると、汗で濡れて、濃い灰色を
帯びているアンダーを着たのみの姿になる。シャツに対してまるで逆らうかのようにそびえたつその双丘は、
お母さんのバストの大きさを主張していた。
お母さんの腰を持って浮かせ、「バンザイ」のポーズを取らせるようにしてアンダーを剥ぎ取っていく。力の抜け
きったお母さんの身体は今の俺にとってはやはりだいぶ重たいが、起こさないように丁寧に、慎重に剥ぎ取った。
すると・・・
「きれい・・・」
露になったお母さんの上半身は、見惚れてしまうくらいに美しかった。年を経て少し垂れているが、きれいな丸い形を
した大きな乳房、身体を酷使しながらも節制しケアを続けた結果なのか、引き締まりつつも程よく肉付きのいいウェストに
大きなシミやしわもないきれいな白い肌、その小柄に不釣り合いな乳房と、可愛らしくあどけない寝顔を晒しながら
一定の呼吸を保つその姿は、まるで等身大の着せ替え人形のように整った、理想の女体であった。
「羨ましいなぁ・・・。特にこのおっぱい・・・、って違う。さっさと拭かないと」
思わず我を忘れかけるが、お母さんは病人だ。何とか意識を引き戻すが、こんな美人の身体を好き放題しているという
事実にどうしても興奮してしまう。
「と、取りあえず身体を・・・」
鼓動が昂るのをどうにか抑え、身体を拭いていく。バスタオルでお腹や腕、首の汗を拭うたびに、柔らかな感触がタオル
越しに伝わってくる。こうなると目を覚ましてくれた方がいっそ楽な気がしないでもないが、目を覚まされると説明が
難しい。もうこうなったら走り切るしかないのだ。
「やっぱり・・・、ここも拭かないとだめだよな・・・」
意識的に避けていたが、やっぱり胸も濡れてしまっている。思わず生唾を飲み込んだが、いよいよその柔らかな胸を
拭き始めた。
「やっわらか・・・。どうやったらこんな立派になるんだろう・・・」
タオル越しに伝わるマシュマロのように柔らかく、それでいてしっかりとした弾力を持った感覚はいつぞやの「復讐」
以来だが、以前よりハッキリとした感覚が伝わってくる。果たしてそれはタオル越しの下着もない感触なのだろうか。
それとも俺が百合子の身体に馴染んできた結果なのだろうか。そんなことを考え、かき分けながら胸の谷間の汗も
拭きとる。形のいい、そして大きい胸が俺の動作に合わせて歪み、離れると形を取り戻す。そしてその瑞々しい感覚が
さらに鋭敏に伝わり、百合子の身体の鼓動を早め、興奮させてしまう。すると・・・
「んぅ・・・、あっ・・・」
意識のないはずのお母さんの口から、艶めかしい喘ぎ声が聞こえてきた。
「もしかして、感じてるのか・・・?」
下を見てみると、お母さんの乳首が立ち、呼吸が早まっている。可愛らしいお母さんの妖艶な状態に思わず興奮して
しまう。自分の鼓動が高鳴り、早まるのをどうしても感じてしまう。気づけば自分の股の部分さえじんわりと濡れて
いた。どうやら百合子の身体は、俺の性的興奮をそのまま捉えてしまっているらしい。
「そうだ、背中も拭かないと・・・」
そっと背中に手を当ててみると、うっすらと湿っている。しかし、持ち上げて拭くのはどうやら難しそうだ。試して
みたが、力の抜けきったお母さんを支えるには百合子の腕が持ちそうにない。そこで・・・
「ごめんね・・・。起きないでくれよ・・・!」
布団に潜り込み、お母さんの上半身を起こす。今日は頭だけ痒かったらしく洗っており、シャンプーの濃密な匂いと、
身体を洗っていない分であろう、女性としての本来の匂いに包まれる。起きないように首をそっと支えて前に倒し、
そのまま抱きかかえる要領で身体を支え、背中を拭いていく。
(―――じょう―よ、百合子。おか――さんが、――――と守るからね―――)
そんな折、頭にしびれが走る。それは、百合子の幼い記憶の封印が解かれたものだった。
(いまのは・・・?昔の記憶か?)
恐らく本当の百合子でさえ思い出せないであろう幼い頃の話だと思う。そこにいたのはお腹を膨らませたお母さんに
抱かれた自分自身の記憶だった。恵理子が生まれる寸前くらいの話だろうか。それを引き金に今まではっきりと思い
出せなかった、幼い頃の記憶が滝のように溢れ出てくる。公園で遊んでいた記憶、思いっきり転んでお母さんに慰め
られた記憶、恵理子と2人でいたずらをして叱られた記憶・・・。
「・・・、さすがにここまで小さい頃は歪んでいなかったな・・・。もっと後で、決定的な何かがあったのか」
それらの記憶を手繰ると、どうにも問題を抱えた子には感じられなかった。素直で穏やか、家族とも仲良くしている
記憶だった。それが歪んだのは、どうやらもう少し大きくなってからのようだ。しかし、それ以上の記憶は溢れ出て
こない。元々の「百合子」が記憶を固く封印してしまったのだろう。これを紐解くにはきっかけがいる。それも
恐らく・・・、
「・・・、恵理子と、何かあったからなんだろうなぁ・・・」
お母さんの背中を拭きながら、百合子の頭から湧いた記憶を吟味し、整理する。しかし、固く閉ざされたその先の記憶が
阻害し、いつしか「仲が悪くなっていたお母さんと妹」という状態に至っている、物語の途中をごっそりと抜き取られた
記憶だけが俺には提示される。身体の方も何とか解き放とうとしているのか頭痛が続くが、どうやらまだそこまでは
許されていないようだ。
「この間何があったのかを聞けたり、分かればいいんだけど・・・、難しそうだなぁ」
お母さんとはまだまだ関係改善の途上だ。今の俺が聞いては逆効果になりそうだし、恵理子に対してはもはや賭けに近い。
今はまだ、控えたほうがいいだろう。まずはお母さんとの関係を戻して、少しずつ恵理子とも話していく。恐らくこれが
最適解と俺は結論付けることにした。
あらかた背中も拭き終わったところで、上半身の服を戻していく。片腕ずつインナーを通して着せて、さらに後ろから
服を着せていく。洗い立てのふんわりとした服の匂いが心地いい。少し時間はかかったが、どうにか上半身は着せ終わった。
「ふう・・・、思ったより疲れるな。結構体力を消費しちゃったか・・・。まだ下半身もあるんだけど、そんなに
手間かからないといいんだが」
いくらお母さんが小柄だからとはいえ、あまり体力のない百合子の肉体では疲れも段違いだ。早いところ
部活に参加し、根本から鍛え直す他ないだろうという思いはますます強まっていく。服を着せ終わり、
お母さんの後ろから抜けようとした時だった。
「あれ・・・?この匂いって・・・」
先ほどまではそれこそ興奮さえ覚えそうだった、お母さんから発される甘く、濃密な女の匂い、その匂いに俺は何故か
懐かしさを覚えてしまう。俺はどこかで、小さい頃に・・・
(大丈夫よ百合子、お母さんがこれからもずっと、ちゃんと守るからね―――)
「これって・・・、百合子の記憶か?」
気づけば頭痛も収まり、意識の抜けたお母さんから発される匂いに望郷のような思いを得たのは、どうやら百合子の身体が、
小さい頃から覚え続けていたかららしい。包まれるような優しさ、その温かさを封印したところで、身体はきちんと大切に
思いを取っておいたようだ。決していい匂いではないはずなのに、不思議と心が安らいでいく。包まれるような安心感は
全く感じたことのないものだった。
「何だよ・・・、お前も甘えたかったのか?百合子。・・・それとも、俺自身が甘えたかったのかな・・・?」
俺が清彦として自分自身の身体にあったころは、母さんをどうにか面倒は見ていたが、自分が甘えた覚えがほとんど
なかった。だからこそ、お母さん、沙苗さんに変わりを求めてしまったのだろうか。それともこれは、百合子自身が心の
奥底に封印していた思いなのだろうか?今の俺には分からなかった。
「ごめんねお母さん・・・、少しだけこうさせて・・・?」
俺はお母さんを背後から抱いた。抱きしめた身体から伝わる暖かな体温が、そこから漂う匂いに包まれ、どうにも安心
してしまう。意識のないお母さんを為すがままに使ってしまっている罪悪感もあるが、この安心感は拭い去れないもの
だった。
(落ち着く・・・。俺自身、もうちょっと甘えてみてもいいのかな・・・?)
本当は迷惑をかけるわけにもいかないし、あくまで「この身体の」お母さんである沙苗さんに甘えるのはどうかとも思う
のだが、少なくとも、今は俺が「百合子」だ。ちょっとくらい、少なくとも自分の身体に帰るその時まで、出来ないことは
やってみたい。そうやって素直に思えたのは、百合子の身体のお陰なのだろうか。それとも俺の、心の奥底に潜んでいた
渇望なのだろうか?
ふと我に返る。そうだ、まだ下の服を着替えさせていなかった。幸い時間にしてみるとそこまで経っていなかった。
抱きかかえるようにしていたお母さんの後ろから離れてそっと横たえ、足元へと移っていく。
「よいしょっと・・・。これはこれで体力使うな」
ぐったりとしたお母さんの腰を浮かせ、どうにか下着ごと脱がせて下半身を露にする。お母さんは小柄な身体に比して
お尻も大きい。いわゆる「出るところはきちんと出ている」タイプの体系だ。男の子としてこの家に生まれていたら
どうなっていただろうと、思わずそんな妄想をしてしまう。
「やっぱり足もキレイだよなぁ。きちんとするとこうなるのかなぁ」
上半身と比較すると汗の量は遥かに少ないが、それでも下着を履いていた部分を中心にかなり湿っている。肉付きがよく、
丁寧に手入れをされているであろう足を拭き終わり、少し股を開かせる。内ももはどうしても汗が貯まりやすい。そんな
濡れた部分を拭いていると、・・・、どうしても見えてしまう。百合子と恵理子、二人の存在をこの世に放った、まさに
この身体が生を受け、最初にこの世界へと出たその場所、お母さんの秘部が露になっていた。
「こ、これが・・・、お母さんの・・・」
その秘部は少しビラビラになっているが、それでも恐らくきれいな物なのだろう。ただ、俺が清彦として見てきたのは
せいぜいマンガやAVと言ったものだ。実際に他人の物を見るのは初めてだった。百合子と違い適度に処理された陰毛、
肉付きのいいお尻についたそれは不思議とまとまりを帯びたものに見えた。
「少し濡れてるよね・・・」
汗でもかいたのだろう。少し湿り気を帯びていたのでそこも拭きとっていく。あくまで刺激しないよう丁寧に、優しく
触れていく。すると・・・
「あっ・・・、ふあっ・・・」
すやすやと眠っていたお母さんの口から声が漏れる。きつく目をつむり、その表情には何かの刺激から堪えるように
力が入る。慌ててお母さんの顔を見るが、どうやら目を覚ましたわけではないらしい。手を離すと眉間のしわも
なくなり、名残惜しそうに穏やかな寝顔へと戻っていく。
「びっくりしたぁ・・・。え、でもこれって・・・」
拭いたタオルを見てみると、そこについていたのは少し粘り気を帯び、秘部から糸を引いている液体だった。
「もしかしてお母さん、感じてたの・・・?」
そこについていたのは汗ではなく、どうやらお母さんの膣から分泌された愛液だった。上半身を見るとその胸元に
2つ、小さな突起が立っているのが服越しにも見えた。顔もわずかばかり紅潮している。そして何より、せっかく
拭いた足元がまた湿り気を帯びてしまっている。無意識に感じてしまっているのだろう。
「お母さん、感度いいんだな・・・」
百合子の身体も感じないわけではない。だが、本来の「百合子」があまりに特殊な性癖だったこともあり、感度が
高いかというとそう言うわけではない。この身体に入ってから俺もそれなりに自慰はさせてしまっているが、結構
下準備がいる。押し寄せてくる快楽は男の比ではないが、それでもどちらかというと鈍いほうなのだろうとは思っている。
あかりと二人っきりになったときに際どい話を聞いてみたこともあったが、時間がかかることに結構ビックリされた
から間違いないだろう。
「もう1回、拭かないと・・・」
再度拭き取ろうと試みるが、やはりお母さんの口からは艶やかな声が漏れ、また愛液が分泌される。その様子に俺も
ドキドキしてしまう。「俺」の目線で見てしまうと、お母さんは40代とは思えないくらいに若々しく、可愛らしい人だ。
そんな人を「他人」目線で見てしまうとそこにあるのは、AVなんか比じゃない、リアルな衝撃が、出来事が展開される。
今は「久保田 百合子」と名乗っている。成績優秀、胸は・・・、まあ人並みだけど、
それでも運動神経抜群で、今は体操部で精を出している。今度試合に出してもらえる
から、おのずと練習にも気合が入る。先生や、皆からの期待には応えないとね?
おっと、お客さんだ。
「ごめんなさい。少しお手洗いに行ってきます」
「あいよー!」
気軽な感じで他の部活の子たちとも話せるようになった。正直、ここまで来るのに
ものすごい苦労した。俺は文字通り、百合子という存在を生まれ変わらせたのだ。
で、そのお客さんというのが・・・、
「清彦君。私に何か用?」
「返せよ・・・。俺の身体返せよ!!」
元の俺の身体もすっかり変わり果ててしまった。身体は弛み、髪はボサボサ、
ここからでも口臭が漂ってくるような始末。顔はニキビだらけだし・・・。俺の時、
こんな適当じゃなかったんだけどなぁ。
「返せって・・・、貴方が飲んだ入れ替え薬が1人1回しか使えないのはよく
知ってるでしょ?」
「うるさい!黙れ!」
そうやって掴みかかろうとしてくるけど、そんな鈍足じゃ今の私は捕まえられないよ?
妹と一緒に毎朝走って、ちゃんと手入れもして、体操も真面目に取り組んでるんだから。
「なんで、何で俺が・・・!」
「何でって、貴方ちゃんと俺の身体と向き合ったの?ただ、隣の芝は青いってだけで
俺を選んだんだから、その報いは受けなよ」
「ふっざけんな!てめぇ!」
相変わらず掴みかかろうとしてくる。段々、男っぽい部分だけ俺に染まってるな。
「こら!何してる!!」
あ、先生が来た。よりによって生活指導のゴリ岡だ。きっとこってり絞られるだろう。
「清彦君が因縁付けてきて・・・」
「久保田か。お前もここ最近大変だな。こいつと何かあったか?」
「いえ、私は特に何もないんですけど・・・」
先生はそれだけで納得してくれた。自分としてはいつも通りに振舞ったが、それでも
素行はかなり気を付けてきたつもりだ。元々のお前が背負っていた評判は、もっと
もっと悪かったのだから。
「うるっせぇ!あいつが!あいつが!!」
「お前!いい加減にしろ!前はお前そんな奴じゃなかっただろ!」
そうやって清彦君は引きずられていった。これじゃその内捕まるかもしれないな。
そんな元「俺」を見ながら俺は部活に戻っていく。先生を含めてみんな心配してくれる。
実際、親身になって相談に乗ろうとしてくれる友達も多くなった。それだけ、心配して
もらえる存在になれたというのがとても嬉しかった。
俺は半年かけてこの身体と、久保田百合子という存在と真剣に向き合い、今の地位を
築き上げた。正直なところいま、この身体を返せと言われても返すつもりは
全くない。少なくとも、俺の身体を適当に扱い、あそこまでダメにしたあいつ
とは、交渉の余地さえない。
――半年前に勝手に身体を入れ替えたのはお前だろ?「百合子」
――――――――――――――――――――――――――――――――
半年前の俺は、今のような見た目じゃなかった。もっと痩せていたし、それなりに
鍛えてもいた。勉強にも真面目に取り組んでいた。それが実を結んだかはまた別の話
だが、少なくとも「普通の生徒」ではいたつもりだ。これといって特徴のない顔立ちで、
特徴のないただの男子生徒だと自分では思っていたが、人並み程度に身だしなみにも
気を使っていたし、友人関係もそれなりに築けていた。
ただ、垣根は低かったんだと思う。だから昔から誰とでも、それなりに話すことは
出来ていた。たぶん俺の人より優れている所を挙げろと言われるとこのくらいだった
と思う。それは今の身体になってからも「百合子」の美徳として根付いている。
結果的にこうなってしまったのも、この性格が原因だったのかもしれない。
他にも色々と辛いこともあったし、不満もあったけど、それでも自分の人生だからと
真っすぐ向き合い、それなりに楽しみながら生きてきたつもりだったし、これからも
そのつもりでいた。
自分の築き上げてきたもの、身体、人生、すべてが奪われたあの日までは。
* *
その運命の日は、百合子と日直を務めていた。当時の百合子は髪はボサボサで伸ばし放題、
目は半分隠れていたし、顔はニキビの跡も残っていたが手入れもせず、身体も太っていた、
それでいて性格は人を寄せ付けず、何を喋ってるのかもよくわからないような奴だった。
他の女子たちからも結構無視されていたような気がする。
そんな中、それでもある程度会話を成立させられたのが俺であった。自分に自信がない子
なんだろうと思い、なるべくあれやこれや話題を振るうちに、少しずつだけど自分のことを
話してくれるようになっていった。彼女曰く
・両親からも妹からも嫌われている。特に妹は性格が最悪。
・本当は学校だって来たくない
・どうにか「自分を変えたい」
とのことだった。俺はそんな彼女ともなるべく話すようにしていたし、親身にアドバイスを
かけていたつもりでいた。これが仇になってしまった。
「ねえ、清彦君・・・」
「ん?どうしたの?」
「私ね、今日から生まれ変わるつもりなの」
彼女なりの決意表明なのだろう。たぶん勇気を出して俺に打ち明けてくれたのだろうと
思うと、少しうれしくなった。これが完全に勘違いであった。彼女がとんでもないことを
考えているなど、誰が想像できるだろうか。
「だからね・・・、だから・・・」
そう言いながら、百合子は俺に接近してきていた。こっそり耳打ちしたいような仕草を
見せていたので、俺は迂闊にもそれに乗り、身体を近づけてしまった。
「清彦君の身体、私にちょうだい」
「え・・・?」
何を言っているのか分からなかったが、そのまま彼女は俺の顔を両手で掴むと、俺の口を
彼女の口で塞ぎ、舌を口の中に入れてきた。彼女が飛びついてきた勢いでもんどりうって
俺が下敷きになる形で倒れてしまった。何とか振り払おうとするが、その重たい身体に
眠る力を全開で使っていたのだろう、ピクリとも動かなかった。同時に、俺の呼吸と彼女の
呼吸のタイミングに合わせて次第につま先や指に力が入らなくなってきた。口からは百合子の
呼吸に合わせて何かが入り込んでくる。その何かに身体の中がぐちゃぐちゃにかき回され、
はじき出された俺の「大事なもの」が彼女の口を通して百合子の中に飲み込まれ、奥へしみ
込んでいく感覚を得た。
そして自分の身体から感触が抜け落ちると同時に、俺の意識は闇に溶けた。その時の百合子の
瞳がやたらと青く、きれいだったのは今でも覚えている。
これが俺の「清彦」としての最期になるとは、この時は予想できなかった。
* *
「ねえ、清彦君おきて?」
「ん・・・、うーん・・・」
誰かに身体をさすられ、朧げになっていた自分の意識が集束していく。聞き覚えのある声に
促されるままに目を覚ますと、そこには驚愕の光景が広がっていた。
「あっ、やっと起きた。もう30分も気を失ってたから、俺が日直の仕事済ませちゃった」
「久保田さん・・・?え・・・?俺・・・?」
そう、起こしてきたのは間違いなく「俺」であった。その姿も、その顔も、俺が16年共に
生きてきた自分自身そのもの、それが何とあろうことか俺に「起きろ」と促していたのだ。
そして、俺自身の声も甲高い。声変わりなどとうの昔に終わっているはずなのに、その声は
随分と懐かしく、そして不気味なまでにきれいに響いていた。
「嫌だなぁ。久保田さんは貴方でしょ?ほら、見てごらん」
そう言って「俺」は久保田さんのバッグから手鏡を取り出し、俺に見せつけてきた。
すると・・・、
「嘘だろ・・・?」
そこに映っていたのは、驚愕の表情を浮かべる「久保田さん」その人であった。
「嘘じゃないよ?だって、さっき身体を入れ替えたから」
俺の姿をした久保田さんは言っていた。
「私ね、ずっと私に話しかけてくれる清彦君に憧れてたの。明るくて、勉強も運動もそれなりに
出来て、誰とでも仲良くなれて・・・、私とは大違い。そんな清彦君になりたいな、って
ずっと思ってたの」
「久保田さん・・・。いったい何を言って・・・?」
「だから、私にないものを全部持ってる清彦君を、この入れ替わり薬で全部もらうことにしたんだ。
嬉しいなぁ。明日から清彦君として楽しい生涯を送れるんだから」
訳が分からなかった。男の子と女の子の身体が入れ替わる映画が流行ったこともあったが、
まさかこんな形で自分に降りかかるなんて思ってもみなかった。しかし、俺とは違う伸び
きった髪の毛やさっきまでとは違う柔らかな感触、甲高い声、あらゆる知覚、触覚が「俺」の
肉体が「久保田百合子」になっていると訴えかけてくる。
「ちなみに、一度入れ替わった人とはもう二度と入れ替わることはできないって聞いているよ。
つまり、これからは私、いや俺が清彦として生きていくから、貴方は「私」百合子として
生きてね。百合子ちゃん」
「ふ・・・、ふざけんな!どうにか「静かにっ!誰かが通るよ?」」
目の前の「俺」が俺に話を遮ってくる。どうやら廊下を生徒数名が通っていたらしく、
怪しまれないように静止してくれたらしい。その様子は自分の身体に女の意思が入り、内側から
自分の声や身体を使って操作しているようで、気持ち悪かった。
「どうせこのままでも誰も信じてくれないでしょ・・・、だろ?だから、今日はお互いが
お互いの家に帰るしかないってことだよ」
そう言って「俺」は自分のバッグを漁り、徐に生徒手帳とスマートフォンを取り出して
住所を確認していた。
「えーっと住所は・・・、へぇ、電車で3駅か。私の家より遠いなぁ。ちょっと早起きしないと。
あはっ、指紋認証でスマートフォン開けたよ!これで清彦君、いや、俺のプライベートも
いろいろ分かっちゃうね。頑張って覚えるよ!」
目の前の「俺」は今まで自分が当たり前のようにやってきたことをすごく喜んでいた。
念願の恵まれた「身体」と「人生」を手に入れて気持ちがいいのだろう。その表情は
自分でも見たことがないほど晴れやかで、喜びに満ち溢れていた。
「あっ、ごめんね!そろそろ帰らないといけないんだろ?じゃあまた明日!「私」の
スマートフォンも指紋認証だから、それで家とかわかると思うから!」
嵐のように去っていった自分自身を、俺は呆然と見送ることしかできなかった。
こうして俺の「久保田百合子」としての生涯は、絶望とともに始まったのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「身体が重い・・・。足もスースーするし、どんだけ体力無いんだよ」
俺は残された百合子の生徒手帳から何とか住所を見つけ出し、家へと向かっていた。
そこまで遠くないはずだが、既に息は上がっている。今までは軽やかについてきて
くれていた肉体も、まるで錘を付けたかのように重く、そしてスカートの足元が
スースーする感触や、長い髪の鬱陶しさが集中力を奪っていく。何より生徒手帳に
写った百合子の写真、死んだ魚のような目をした、気力というものをどこかに置き
忘れてきた写真が頭にこびりついている。
今、俺の身体はその本人たる百合子なのだから・・・
歩き続けること20分。やっとの思いで家であろう場所に到着した。頭の中では
既に1時間以上歩いているような気がしていたが、時計を見るとたったの20分、
それだけこの身体が重く、体力がないということなのだろう。普段は歩き慣れて
もいないのだろうか?
百合子の家は2階建てで、それなりに大きな一戸建てだった。門を開けて家の
玄関の前へと立つ。自分の家のはずなのに、他人の家にお邪魔するような緊張感が
襲う。その感覚が頭で何度も反射し、鍵を開けるのも忘れて玄関の前で立ち尽くし
ていた。
「・・・、何してんの?」
玄関の前にボーっと立っていると、後ろに同じ制服を着た女の子が立っていた。
丸く大きな目に整った可愛らしい顔立ち、均整の取れた身体つきに、スカートの
下から覗く引き締まった足が特徴的な子は、怪訝そうで苛立ちを隠しきれていない
顔でこちらを覗き込んでいた。よく見ると、顔だちもどこか百合子と同じ雰囲気だ。
「ねぇ、じーっと見ないでくれる?気持ち悪いんだけど!さっさと家に入りなよ!」
その顔からは想像もつかないほどに厳しい声で言葉を吐き捨てると、自分のカバンから
鍵を取り出し、まるで俺を邪魔者のように腕で払いのけてさっさと家に入ってしまった。
続いて俺も家に入ると、彼女は2階にある部屋に荒々しく入り、勢いよくドアを閉めた。
よほどイライラしていたのだろうか。彼女が百合子が言っていた「妹」なのだろうか。
「ただいまー・・・」
「あら、お帰り。珍しいわね。あなたが「ただいま」なんて言ってくれるの」
大きな音にビックリしたのか、1階のリビングから女性が出てくる。さっきの女の子や、
百合子がそのまま年を取ったような美人だった。
「え・・・、まあね?た、たまにはいいじゃない」
「そ、そうね・・・」
その女性は形だけはきちんと迎え入れてくれるが、どことなくよそよそしかった。
全く目を合わせようとしてくれない。これだけで百合子が一体どんな生活を送って
きたのか、何となく想像が出来てしまう。
「う、うん。それじゃ・・・」
ばつが悪くなってきたので、早々に切り上げて2階へと上がる。その女性も特に
声をかけてこない。年齢から考えると恐らくお母さんなのだろう。その冷え切った
関係は、一体何が原因なんだろうか・・・。
2階に上がると「YURIKO」と書かれた可愛らしいネームプレートが書かれた部屋が
あった。これが彼女の部屋で間違いないであろう。その隣を見ると、「ERIKO」と
書かれた同じデザインのプレートが飾られていた。妹はどうやら「エリコ」ちゃん
というらしい。元々の百合子から言われた印象もあり、この時はきつい性格の子だと
思っていた。それが間違いだったと知るのはまたしばらく後の事である。
「ここが・・・、百合子の部屋なのか」
身体にとっては馴染みの深い、俺の意識にとってはまさに他人の、それも女の子の
部屋へと足を踏み入れる。質素で最低限、タンスや勉強机、ベッド、鏡が置かれた
モノトーンの簡素な部屋はとても年頃の同級生とは思えないほど侘しいものであった。
それはまるで囚人のような部屋のようで、果たして彼女がどのような生涯を送ってきた
のか、むしろ気になってしまうくらいであった。
「とりあえず・・・、着替えるか」
さすがに帰ってきたのに制服では居心地の悪さを感じてきた。部屋にあるタンスの中
から適当に服を漁っていく。スカートでは全くと言っていいほど落ち着かなかったので、
緑色のズボンと、くたびれたTシャツを手に取ってみる。同じようなTシャツが複数あり、
さらにそれらもほつれたり、胸元が伸びきっている。部屋の様子や服だけでも百合子が
何事に対しても無頓着すぎるのがよく分かってしまう。
「改めてみると、やっぱりだらしない身体だよなぁ・・・」
だがやはり、俺とて一応健全な男子高校生なのだ。ちょっとした好奇心から、服を着る
前に思わず鏡の前に立ち、全身を眺めてみる。ボサボサの伸びきった黒髪、ニキビが
出来ても手入れもしなかったのだろう、その跡も残された肌、顔から腹回りまで脂肪が
だらしなく付いた身体はまさに太った幽霊のような姿であった。
「・・・、でも、声はきれいなんだよな・・・」
ただ、自分の口から紡ぎだされる声はこんな身体でも可愛らしいと思った。女の子らしく
張りがあり、透き通ったソプラノボイス、いつもはボソボソと喋るので全く気が付かなかった
が、自分で思う「普通」の発声をするだけで、十分にクリアな声を出せるのだ。
「んっと、どうかな・・・?」
さらに意図的に目を大きく見開いてみると、パッチリとした可愛らしい目をしていた。
もしこの身体がそれなりに人並み程度の生活だけでも送っていたら、それこそ「エリコ」の
ように可愛らしい子だったのではないか?と考えるほどに、ところどころに光るものを
抱えているようだった。
「・・・、あいつが勝手に身体を入れ替えたんだ・・・。このくらいはしてもいいよな」
こんなだらしがない身体とは言え、それでも同級生の女の子の全裸を見たのは初めてだ。
そう考えると、不思議と胸が高鳴ってしまう。まして、こっちは不本意ながらこんな身体に
入れられてしまったんだ。別に好き放題やったところで文句を言われる筋合いではない。
そう考えると、服を着ずに自然とベッドに向かっていた。
「確か女の子って・・・、こういうところを触るんだったよな?」
俺はいわゆるエ〇本や〇ロ動画で仕入れた知識から、百合子の女性器に手を触れてみる。
手入れをされていない毛をかき分けて、撫でながら触るとみんな勝手にいい声で・・・
「あれ・・・?あんまり気持ちよくないな・・・」
襲い来ると思っていた圧倒的な波濤はやってこず、ただただ触られた感触だけが脳に
届いていた。意を決して指を突っ込んでみる。
「ひぃっ!!こ、これが・・・、快感なのか・・・?」
指を入れるとまるで脳に電気が走るようにしびれが伝わり、一瞬意識がホワイトアウトする。
怖いのにやめられない、もっと求めてみたい、そんな好奇心と、勝手に俺の築き上げてきた
ものを奪い取り悦に浸る「百合子」への復讐心から、さらに指を突っ込み、奥をこねくり回す。
「うわぁっ!す、すごい!」
そんな圧倒的な快感に、すっかり我を忘れてさらに奥へと指を進め、秘部を蹂躙する。その度に
脳に電撃のような快楽が送られ、俺は百合子の快楽の虜になっていく。
「ひぃっ♡あぁぁっ♡ひぁっ♡きゃあぁっ♡あぁぁっ♡」
指が止まらない。そして快楽も止まらない。俺の意識が百合子の身体の手綱を握れず、暴れ馬の
ように暴走させてしまう。そしてその快楽は、俺にあるものをもたらしてくる。
「あぁぁっ!こ、これってもしかして百合子の記憶なのかっ♡」
快楽とともに流れてくる、性格のきつい最悪な妹、自分に無関心な両親、学校でのいじめ、
惨めな想い、空虚で自堕落な記憶・・・。それらが俺の心を塗りつぶし、百合子の身体へと
適合させようとしてくる。本来の持ち主に相応しい怠惰な性格、この身体を作り上げたエンジン
ともいえる考え方、楽な方へと流そうと、諦念で圧し潰そうと、快楽とともに記憶を上書きに
かかる。
(そうだ・・・。どんなに足掻いたって俺の生活は帰ってこないんだ・・・。だから・・・)
「はぁっ♡そうじゃねぇだろ俺!」
圧し潰されそうになった俺の意思を、声で吐き出して快楽の濁流から何とか自分を保つ。
負けるわけにいかないんだ。あくまで俺は俺だ!身体を取り返すにしろ何にしろ、自分を
見失ってしまっては完全に負けだ!耐えろ!俺は中身まで「百合子」じゃねぇ!
俺は快楽に負けないよう、意識を保てるありったけの考えを、言葉を頭に送り込む。
「うわああああああああああ♡♡」
止まらない快楽とともに、俺の脳は真っ白になった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
どうやら30分くらい意識を失っていたようだ。気が付いたら自分は天井を向き、布団は
愛液というやつにまみれ、つけていたブラジャーも滅茶苦茶な位置になっていた。
「ふぅ・・・、何とか耐え抜いた・・・」
圧し潰そうとしてくる記憶と快楽に耐えきり、俺は「俺」の意識を保てているようだ。
こうして自分の考えを持ち、「百合子」の生き様を間違いだと断じれる。自分自身との
戦いを制し、百合子の肉体を制圧し、本当の意味で俺の手足となった瞬間であった。
「何か中身がすっからかんで吐き気を催すけど、どうにか百合子の記憶も読めるし喋り方も
出来るようになったかな・・・。全く真似する気にはならないけど」
その滂沱のような記憶を耐えきったことにより、脳に刻み込まれていた「百合子」の事を
好きに引き出せるようになった。記憶によると、妹の名は「恵理子」。お母さんは「沙苗」。
お父さんは「勉」で、今はお父さんがアメリカに単身赴任をしていて母と妹との3人で
暮らしているらしい。それより何よりまずは・・・
「服・・・、着るか・・・」
先ほどまでと異なり、手慣れた動作でブラを直し、下着を履いて服を着込んでいく。百合子の
記憶が読めるようになったのと同時に、身体に刻まれていた経験なども無理なく使うことが
出来るようになっていた。当然ながらブラジャーをつけるのも初めてなのに、まるで何度も
練習をしてきたかのようにあっさりと取り付けた俺に少なからず驚いていた。他にも無意識の
うちに覚えていく女性としての基礎的な知識、身体の動かし方や仕組み、それこそ排泄なども
問題はなさそうだ。考えずとも「これ」という選択肢が出てくる。
「シーツは替えるしかないよなぁ・・・」
そんなこんなで悩んでいるうちに、部屋のドアが突然開いた。
「・・・、ご飯できたってさ」
ドアを開けた主、恵理子ちゃんが一言だけボソッと呟いた。夕飯が出来たから呼びに来てくれた
ようだ。
「う、うん。今行くよ。ありがとう」
取りあえず女の子らしく、百合子の記憶を使いながらも声をしっかりと出すように、俺の習性を
ブレンドして声を出す。そんな恵理子ちゃんは俺の声に驚いたのか少しこちらを向き、やがて
いつもの通り、嫌悪感のこもった厳しい表情へと戻る。
「・・・、昼から盛ってんじゃないわよ・・・。気持ち悪い・・・」
妹の本心なのだろうか。百合子がたった一人の妹と作り上げてしまった冷たい最悪の関係を、
俺は少なからず呪っていた。
* *
食卓に並ぶ料理はごくごく一般的な料理であった。今日のメインディッシュは唐揚げで、
他にもご飯やみそ汁が並ぶ。暖かで優しい匂いが食欲を誘ってくる。
「「「いただきます」」」
俺としては当たり前に言ったつもりの言葉だが、お母さんと妹がこちらを怪訝そうな顔で
見つめてくる。
「どうしたの百合子?いつもならそんなこと言わないのに・・・」
「え、いや・・・。まあ、気分だよ気分」
お母さんの問いかけに取りあえずはぐらかすが、そんなことさえ言わない百合子は何様なの
だろうか。少なくとも俺からすれば、「ご飯を作ってくれるお母さん」がいるだけでも既に
羨ましいというのに・・・。
お母さんが作ってくれた食事はとても美味しく、食が進んだ。やはりまだまだ成長期の身体も
栄養を求めていたのか、積極的に摂取していく。そしてお母さんも妹もまた、その様子を怪訝
そうに眺めていた。娘の突然の変貌に、戸惑いが隠せないといった具合なのだろう。
「ごちそうさまでした!」
結局残さず完食した俺は、その味に感謝して言葉が出た。ただ、確かに百合子の記憶では
いつもそこそこに食べたらご飯を残し、勝手に部屋に引き上げているのだ。冷え切った関係、
避ける母親から少しでも逃げ出したかったのだろうか。そして「俺」の癖で、食事の後すぐに
食器を洗おうとすると、お母さんが慌ててこっちにきた。
「百合子、大丈夫よ。私が洗うから」
「いや、でも・・・」
「大丈夫、気持ちだけ受け取っておくわ」
お母さんはそういうと、俺を除けて皿を洗い始める。それは申し訳なさというより、明らかに
邪魔な存在として来る感情なのだろう。そのことがショックだった。
本来は自分にとっての逃げ場である自宅の家族とさえこんな関係の、百合子となってしまった
俺は、呆然とした気持ちで部屋に戻っていた。
部屋に入るとメスの香りに満ちていた。とりあえずシーツを剥がし、お母さんにシーツを濡ら
してしまったことを謝りながら、新しいシーツをもらってきた。その時の露骨なまでに嫌そうで、
冷めた目線がさらに精神をえぐってきた。諦めたようなその視線は、まるで何度もあったかの
ようだ。むしろ謝ったことに戸惑われたあたり、普段はもっとひどいのだろうと容易に想像
できてしまう。
シーツを敷き直し、窓を開けて空気を入れ替えていると急に疲れが襲ってきた。今日はあまりに
色んなことがあり過ぎた。訳も分からないうちに自分の身体を入れ替えられ、生活も、性別も、
何もかもが違う生活を強いられている、それも肉体的にも、人間関係も最悪な百合子として。
その疲れがどっと襲ってきたのだろう。気が付けば勉強机の前の椅子にもたれかかっていた。
「そうだ・・・。明日も学校あるんだった・・・」
最悪なことに明日も学校に行かなければならない。全く異なった存在として果たして振舞うことが
出来るのか、俺には自身もなかった。百合子の身体が俺の魂に屈服したおかげで記憶や性格は
読み取ることは出来、経験も身体が勝手に対応してくれるようになってはいるが、正直彼女本来の
性格は使い物にならない。そして何よりも・・・
「最悪・・・、最悪だ・・・」
彼女の記憶を思い出そうとすると、ただただ悪夢と空虚な経験しか出てこない。無為に過ごす学校や
日常、汚物でも見るかのような目で見つめ、嫌悪感をむき出しにしながら最低限の言葉しかかけて
こない妹、自分を避けるように接する母、そしてそれらが繰り返され、疲れ果てた彼女自身・・・、
灰色の記憶の世界はまさに「悪夢」としか言いようがなく、思い出すのをやめたくらいだ。
記憶も人格も使い物にならず、使えるのは本能的に持ち合わせている「女」としての常識のみ、
しかも肉体的には手入れもされていない最悪の状態、文字通りの地獄だった。
「せめて、何かヒントでもないかな・・・。少しでも材料があれば」
それでも、百合子として生活しなければならない以上、情報は必要だ。とりあえず彼女の学生
カバンを漁る。女の子の私物を漁る、本来であればドキドキするであろう状況のはずが何も
感慨が沸かない。中は最低限の物しか入っておらず、教科書は新品同然だ。当然書き込みも
為されておらず、宿題も手付かずだった。確かに彼女は宿題忘れの常習犯であった。先が
思いやられるが、今探しているのは別のものだ。
「・・・、あった」
目当ての品、スマートフォンを取り出す。思い出してみると彼女は休み時間によくスマート
フォンを見ていた気がする。それだけ触れる機会も多いということは、何か大事な物でも
あるのではないか、この中に、何かヒントとなる物でもあれば・・・、と藁をもすがる思いで
認証を解除する。手元がぶれて指紋認証がうまくいかず、パスコードが必要だったが、幸い
それは彼女の記憶の中に残されていた。
中を見ると、まさに彼女の空虚さを象徴するような惨状であった。アドレス帳は自宅の
電話番号のみ、その他のアプリも最低限が入り、メールなどはスパムがいくらか残されて
いるだけで肝心の情報は何もない。いったい彼女は何を見ていたのだろう。そして俺は、
あることに気が付く。
「写真・・・?それなりに入ってるみたいだな」
フォト機能の写真だけがどうにも容量を食っていた。恐らくそれなりに画像を撮っているの
だろう。ここに何かのヒントがある。そう思った俺はフォトアルバムを開いてしまった。
―――まさかこれが、彼女の身体での最悪の経験を引き起こすことになるとは、この時の
俺は思ってもいなかった。身体を入れ替えていった当の本人は、記憶とスマートフォンに
封印していたとんでもない置き土産をトラップのように展開し、俺の精神をさらに追い込んで
いくのであった。
フォトアルバムの中はどこにでもあるような写真で占められていた。電車の写真、駅の写真、
学校の写真、修学旅行か何かで撮ったであろう神社の鳥居の写真、無造作ながら、関心の
あったものを適当に撮っていたようだ。ヒントとなる物とは程遠いが、何となく写真が好き
なのだろう、そう思っていた。
「あつっ・・・、何だ・・・?いまの」
その写真と記憶の中にある彼女の趣味や思い出と照らし合わせていると、頭の中に鋭い痛みが
走る。彼女の記憶が、俺を絶望に叩き落す鍵を俺に手渡して来る。そう、俺は気づいてしまった。
そこにあった「宝物」と書かれたフォルダに。
「なんだろこれ?」
開けようとするとパスワードを要求された。複雑な内容だったが、記憶が提供してくれた情報に
よりあっさりと正体を現した。そこに写っていたのは・・・
「・・・、俺・・・?」
この俺の元の身体、清彦の写真が大量に記録されていた。
「なんだよこれ・・・。何なんだよぉ・・・!」
その内容はまさに「不気味」であり、「偏執」とでもいうべきものであった。学校に登校した
ときの俺、友達と笑いながら話している俺、授業中に黒板に向かい、ノートを取っている俺、
体育の授業に精を出す俺、電車の中で口を開けて爆睡している俺、さらには・・・
「着替えてる姿まで・・・」
体育に向かう前の、教室で着替えているパンツ一丁の俺の写真まであった。と同時に、彼女の
記憶のパンドラの箱が開き、理由を明確に伝えてくる。
記憶にあった通り、彼女は怠惰な性格だった。当然友人関係など築くこともなく、机では物思いに
ふけっている始末であった。そんなとき、たまたま俺と日直として初めてペアを組んだ時に、
百合子は衝撃を受けていた。
―――自分と、会話しようとしている・・・
この容姿にこの性格だ。当然誰も話しかけようとして来ないだろう、そう思っていたが、
その男の子、清彦は積極的に話を聞こうとしてくれていた。そして、その顔、その姿に
「憧れ」を抱いたのであった。
それからの百合子は、俺のことをこっそりと色々調べていたようだ。成績、運動、普段の態度、
友人関係・・・、調べれば調べるほど「気になって」来ていた。そして俺はそんなことも知らず、
ただ純粋に可哀想と思っていたが故に話しかけ続けた、続けてしまっていた。そんな姿に百合子の
「憧れ」は、歪んだ形で思いを募らせていってしまう。
『清彦君の・・・、「すべて」が知りたい』
そして、彼女は写真を撮り始めた。俺についてのあらゆる姿を記録するようになった。よく見ると
日常風景と思った写真も俺に関係するものばかりであった。駅は最寄り駅、電車は最寄りの路線、
神社は修学旅行の自由行動中に俺が行った場所・・・
「うっ・・・、うえぇ・・・」
胃の中のものがこみあげてくる。思わず戻しそうになるが、ここは何とか堪えて飲み込んだ。
しかし、俺の努力を嘲笑うかのように記憶はさらに俺に先を見せてくる。百合子の記憶の終焉を・・・
『清彦君の全てが欲しい。あの身体であんなこととかしてみたい・・・』
いつしか百合子は、貯めに貯めた写真をおかずに自慰をするようになっていた。恐らくお母さんが
シーツを見て諦めた顔をしていたのは、これによりシーツを濡らしまくっていたからだろう。そして、
ある日彼女に「道具」が与えられてしまう。
『入れ替わり・・・薬?』
差出人も名前も不明だったが、確かにそれは百合子宛に送られてきていた。中に入っているのは
紫色の液体が収まった瓶と、簡単な取扱説明書。そこには「飲んでから30分以内に入れ替わり
たい人と口づけをすると、身体を入れ替えることが出来る」「入れ替えたら最後、二度と元に戻る
ことは出来ない」とだけ書かれた内容、どう見ても胡散臭いが、百合子はそれを信じてしまった。
『これを使えば・・・、清彦君の全てを手に入れられる・・・?』
清彦のことは大体調べがついていた。どこにでもいる、取り立てて特徴のない普通の男の子。
だけど、人と接するやさしさもある。そして特徴がないということは、人並みに必要な
ものはすべて持ち合わせている。友達も、勉学も、運動も・・・、どれも普通にできる。
それに明日は清彦君と日直だったはず・・・。なら・・・、いいや。
彼女の記憶に封印されていた思い出は、これが最後であった。そのあとは当日の流れとなる。
自分がやられたことを、百合子の視点で見つめるだけの記憶だった。
・・・、言葉にならなかった。俺としては普通に、そして親身に彼女に接していたつもり
だった。その結果がこれだ。彼女の内に潜む歪んだ性質を爆発させ、そして俺はまんまと
肉体も、人生も奪われてしまったのだ。決して恵まれていたとは言えなくても、それでも
自分なりに真っすぐ貫いて、大切に積み上げてきた全てをこの女は、百合子は欲望のままに
根こそぎ奪い取ったのだ。
「うううう・・・、うあああああ・・・」
気づけば俺は泣いていた。悔しくて、辛くて、訳が分からずに泣いていた。そんな俺は穢れた
記憶から「あること」に気が付いてしまう。
『清彦君の全てが欲しい。あの身体であんなこととかしてみたい・・・』
百合子の妄想も、やりたいこともすべて分かってしまった今は、その言葉に戦慄しか抱け
なかった。
―――つまり、俺の身体を手に入れた今は、俺の身体が好き放題されている・・・?
思わず立ち上がり、トイレへと駆け込んでいた。幸いだったのは、俺の意思を汲んだ身体が
自然とトイレへと誘導してくれていたようだ。家の構造を把握しきれていなかった俺にとっては、
偶然の奇跡であった。
「オロロロロ・・・」
胃の中の物が全部出て行ってしまった。せっかくお母さんが作ってくれたおいしいご飯、その
感動をまるで吐き出すかのように、すべての物が出ていく感触に襲われていた。 これ以上出ない
ほど、胃液の感覚が口を襲うほどに吐いて吐いて、やっと部屋に戻るとベッドに倒れ込んで
しまった。もう考えたくもなかった。
「ううう、うわあああああああん!」
そしてその感情に突き動かされるまま、泣きじゃくってしまった。自分が積み重ねてきた人生も、
身体も、経験も記憶も赤の他人にいいように使われ、俺はこうして突然誰かの破綻した人生を
歩まされる、身体は生きているけど、もはや死んでいると言っても過言ではない絶望であった。
(もう、何も考えたくない・・・)
溢れるように出る涙の中でやんわりとそんなことを考え、俺の意識は闇に沈んでいった。
* *
深夜2時、泣きつかれて眠ってしまった百合子の部屋に、「その子」は入ってきた。まず床に
散らばっていた道具や教科書、スマートフォンを机の上に乗せて簡単に掃除をする。「その子」は
ベッドの上にいる百合子を見つめる。ひどい有様であった。枕に突っ伏すように眠り、服も
メチャクチャになっていた。当然電気も付けっぱなしであった。まずは百合子を仰向けに戻す。
顔を見ると涙の跡と、腫れた目元が痛々しかった。目元の涙の跡を拭い、服の乱れを直し、布団を
上から被せて目覚ましをセットしておいた。さっきまでの惨状が嘘のように、きれいに眠る百合子を
見て「その子」は部屋を後にする。
その時の「その子」の顔は、哀れみに満ちた何とも言えないような、悲しい表情をしていた。
* *
そして、清彦が真実に気づき、絶望に涙していたころの事であった・・・。
「はぁっ、はあっ・・・。清彦君んん、いや、俺の身体最っ高!!」
清彦の身体を奪い去った百合子は、快楽の海に沈んでいた。清彦と入れ替わり、肉体を奪い取った
百合子はあの後真っすぐに家に帰り、部屋にある鏡を見て興奮していた。夢だった清彦の肉体が、
表情が、すべてが思い通りに動く。鏡の向こうの清彦は自分がしたかった表情を返してくれる、
声を出せば清彦の声で自分の言葉を語ってくれる。それだけで既に興奮が高まっていた。
そして制服を脱ぎ捨て、全裸になった地点で既に興奮が爆発、1発ぶっ放してしまっていた。
その快楽に百合子の脳は当然負けることもなく、脳のガードが緩くなり溢れ出てきた清彦の記憶は、
百合子にとっては興奮のスパイスにしかならなかった。
清彦は決して恵まれた家庭ではなかった。小さい頃に両親が離婚、母親に引き取られるも母親は
昔から水遊びに精を出し、いつ帰ってくるかも気まぐれで、清彦自身は質素な生活を送る羽目に
なっていた。それでも支援金を頼り、足りない分と生活費はバイトをしながらお金を稼ぎ、自分で
ご飯を作ったり洗濯をしたりといった生活を送っていた。
「清彦君の生活・・・、いい・・・!」
そんな辛い思い出でさえ百合子は満足しながら受け入れたため、清彦の肉体はあえなく陥落、
百合子に思い出も、肉体も、記憶も技術も含めたすべてを明け渡してしまっていた。
それからの百合子は清彦の全てを使い、ただただ快楽を貪っていた。裸にしてみたり、普段着を
着させてみる、自分の思い通りに清彦が動かせる、それだけで百合子の感情は昂っていた。そして、
脳に刻まれた男としての本能をも掌握していたため、簡単に射精させることが出来るようになった。
歪み切った百合子にとって、清彦の肉体はもはや麻薬も同然であった。それこそ脳を漁り、思い出に
浸るだけでさえ射精できた。彼の技術を使い料理を作ったり、洗濯をしたりするだけでも昂った。
明日はバイトが入っているが何も心配はない。清彦の技術を使ってしまえば容易にこなせてしまう、
そんな確信さえ持っていた。それに・・・
「お母さんが帰ってこないなんて、最高じゃないの・・・♡」
家族とのかかわりが大嫌いだった百合子にとって、清彦の環境はむしろプラスであった。何をやる
にも自分で出来、家族の干渉を受けない環境は、まさに彼女にとっての理想だったのだ。
「さて、今晩はもっと楽しませてもらおうかな、清彦君♡」
彼の身体を奪い取ってから1週間は、まさに彼女にとって最も幸せな1週間であったといっても
過言ではない。だからこそ、快楽に浸っていた彼女は全く気付かない。
もっと清彦の記憶をきっちりと精査し、彼を本当の意味で理解していれば
もっと清彦の肉体と向き合い、その本質をしっかりと把握していれば
もっと清彦の技術を使い、対人関係を磨き上げていれば
人間というものは、いつかは「飽きる」ということを理解してさえいれば
歴史にIFは存在しないが、それでも「百合子」という人間は破滅を迎えることもなかったのかも
しれない。「清彦」という肉体が今の位置にいられるのは、本来の持ち主の性格があったが故の
ことであったのだ。そしてそれらの記憶も経験も、清彦はすべて脳に遺していっている。これらを
使えば清彦として、むしろ本人より楽しく人生を送っていたかもしれない。
彼女の未来が暗闇に、破滅に彩られていることを、快楽に爛れた今の彼女が知ることはなかった。
そしてそれは清彦にも言えることであった。「百合子」の肉体にとっての清彦はまさに救世主で
あった。百合子は全く使用していなかったが、彼女が持って生まれてきたものに気が付き、その
真価を清彦は次第に理解し、使いこなしていく。彼の心と彼女の肉体、最高の相性を持った要素の
出会いはこうして始まったのであった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「ん・・・、あれ・・・?そうか、俺、寝ちゃってたのか」
目覚ましと窓から差し込んでくる朝日に叩き起こされた。時間を見ると既に6時45分。どうやら、
泣き腫らしたまま眠ってしまっていたらしい。そしてその現状を確認したソプラノボイスのせいで、
やっぱり身体は戻っておらず、自分が「久保田百合子」のままであること、昨日の出来事が夢で
なかったことが分かってしまう。
「ううう・・・、こんなの・・・、あんまりだ・・・」
考えるとやはり涙がこぼれてくる。とてもじゃないが、1日で受け入れ、立ち直ることは出来
なかった。しかし・・・
「でも、学校はいかなきゃな・・・」
学校に行けばあいつにも会える。百合子の記憶で戻れないと明示されていたが、それでも諦めたく
なかった。自分が積み重ねてきた16年間の結晶を、どうにかして取り返したかった。こんな理不尽
だが、それでも負けたくなかった。そう思うと、身体に自然と力が入る。百合子の肉体はそんな俺の
想いに応えようとしてくれていた。
少し落ち着くと、自然と周りが見えてきた。自分がとっ散らかした荷物も片付いていたし部屋の
電気も消えていた。よく考えたら布団を被って寝てもいたし、着衣も乱れていなかった。
もしかすると誰かが直してくれたのかもしれない。
「お風呂入りたいけど、さすがに時間がないか・・・」
本音を言えばシャワーだけでも済ませておきたかったが、刺激が強すぎた。仮にも16歳の女の子の
身体なのだ。そして、俺自身は間違いなく男だ。如何に体形が残念でも確実に意識してしまう。
残念だが、これは帰ってきてからゆっくりと処理することにして着替えることにした。とりあえず
下着だけでも取り換え、制服を着こんでいく。本当なら全く着方も分からないセーラー服だったが、
身体が慣れた手つきでその身に着けていく。彼女の身体は、俺が「こうしたい」と思ったことを
くみ取り、無意識のうちに手助けをしてくれるようだ。ちょっとしたことだったが、今の俺には
救いだった。
「・・・、起きてたの・・・?」
着替え終わったと同じくらいのタイミングで、恵理子がドアを開けてきた。白を基調とした
ジャージ姿にポニーテールがよく似合っているその可愛らしい女の子は、侮蔑するような眼差しで
俺を見ていた。中学高校と陸上部一本で貫いてきた彼女は、試合のある日以外は毎朝ランニングを
欠かさない。どうやら今日の日課を終え、帰ってきたところらしい。
「う、うん。えっと・・・」
「パン、机に置いてあるから食べてって」
お母さんは看護師をしており、今日は急遽朝早くからの仕事が入ってしまったようで既に出かけて
いる。どうやら恵理子が買ってきてくれたようだ。
「それだけ。じゃ」
「あ、あのっ!」
「何?」
部屋を後にしようとする恵理子を思わず呼び止めてしまった。想定していなかったのか、少し驚きが
混じった表情でこちらを見返してくる。
「もしかして・・・、お、私の部屋、片づけさせちゃったかな・・・?」
「はぁ!?なんで私がそんなことするのよ!バカなこと言わないで!」
ありったけの大声で否定し、勢いよくドアを閉められてしまった。ただ、少しだけ気になることが
あった。
―――あんな表情の恵理子、記憶にないな・・・。
一瞬だけ見えたドアを閉めるときの恵理子の表情は、悲しみと憂いに満ちていた。その表情は妙に、
俺の頭にこびりつき、離れることはなかった。
誰もいないリビングで一人パンを食べる。簡単な菓子パンが1個だけ置かれていたが、昨日の
今日で受け止めきれず、あまり食べる気がしなかった俺にとってはむしろちょうどいい量であった。
それに何より・・・
「クリームパンってこんなに美味しかったっけ・・・?」
妙にクリームパンがおいしく感じたのだ。このパンは自分の身体でも食べたことがあったが、
少なくともここまで感動する味わいではなかったはずである。
「そうか・・・。百合子の身体だからってことか・・・」
百合子の記憶には確かに、このパンが大好きという思い出が刻まれていた。それが俺に対しても
幸せを増幅する信号を送ってきているのだろう。身体の本能はどうやら自分の認識を上回るようだ。
俺が好きだった食べ物を食べてみた時の反応も試してみたほうがいいのかもしれない。
それにしても、
「恵理子ちゃん、これをわざわざ選んで買ってきてくれたってことか?」
自分の妹に「ちゃん」付けするのも変な話だが、冷え切った関係の百合子よりさらに遠い位置に
いる、赤の他人でしかない俺なのだ。元より一人っ子の俺にいきなり妹が出来たと言われて
接し方が分かるはずもない。むしろ本来分かっていなければいけない百合子の記憶にそんなものが
存在しない。どうしろというのだろうか。
しかし、だからこそ見えてきたものがあった。赤の他人である自分が「久保田百合子」と
言う存在を、記憶を、第三者目線で見ることが故に抱けた疑問だったと思っている。
「恵理子ちゃんって、そんなに悪い子なのかな・・・?」
百合子の記憶には「自分に冷たい、何も考えていない最低の妹」という認識しかない。彼女の
記憶にもそういうバイアスがかかり、俺もそういう目で見てしまっていたかもしれない。彼女
からの汚物を見るような眼差し、きつい言葉は正直なところ俺も軽くトラウマになりかけている。
しかし、こうして百合子の好物をわざわざ選んでくれたり、最低限の言葉ながらも声をかけて
くれていた。忌々しく思っているその記憶の中でも、彼女だけが声をかけ続けてくれている事実に
揺らぎはなさそうであった。それに・・・
――あの悲しそうな目、あれは心配してなきゃ出来ないぞ・・・
俺を起こしに来てくれた時に一瞬だけ見せた悲しそうな目は、明らかに心配している目であった。
心配と後悔、悔しさが入り混じったようなあんな眼差しを俺は時折見かけることがあった。
元々の「俺」には、俺の境遇を聞き、同情し、本気で相談に乗ってくれる、そんな心配をして
くれるお節介焼きが確かにいたのだ。しかし、それも・・・。
悲しさに包まれそうになったが、何とか振り切る。そしてこの時に思った疑念はたぶんきっかけ
だったのだろう。俺は初めて与えられた記憶、百合子が下した人物評価に疑問を持つことが出来た。
――恵理子ちゃんのことをもっとちゃんと見てみよう。百合子としてではなく、俺として。
この日以降、俺はこうして自分自身というものに疑問を持ち、色々なものに対して自分で再評価を
下すことが多くなる。彼女が感じた人の印象、そして彼女の身体自身に至るまで、ありとあらゆる
ものに対しての再検証だった。まるで自分の足元を破壊するような無謀な行為、自分自身という
ものを破壊するような諸刃の剣だったが、それをやるしか方法はなかったのかもしれない。それは
百合子の全てを破壊し、新しい生活、ひいては「久保田 百合子」という存在を作り直すための
第一歩であった。
「い、いってきます・・・」
食事を済ませ、身支度を整えた後は学校に向かっていた。ちなみに恵理子ちゃんは走った後に
軽くシャワーを浴びるようで、どうやら今朝俺が風呂に入るのは絶望的だったらしい。一応念の
ため、顔を洗っているときに先に行く旨だけは伝えてある。返事はなかったが、きっと伝わって
いるものと信じたい。
慣れない通学路を、身体が覚えているままに進んでいく。スカートの感覚には相変わらずまだまだ
違和感しか覚えられず、何よりやはり体力が辛い。学校に着くと同時に机に突っ伏すことが多かった
気がするが、本当に体力が持たないのだろう。いったいどれだけ鈍っているのかと心配にさえなって
くる。その時、前に男子生徒2名が見えた。
「おーい、佐竹ぇ、大川ぁ!」
彼らは俺のとっての友人だ。ちょっとおっちょこちょいの佐竹、温和で大人しい大川、高校1年生
以来気の置けない関係だった彼らとなら、話くらいは出来るかもしれない。それが甘かった。
「お、おう・・・。えーっと・・・」
「久保田さんだよ。おはよう」
2人とも、すごく戸惑った顔をしていた。自分の迂闊さに思わず頭が痛くなる。そう、彼らに
とってはやはり陰キャでよくわからない久保田でしかないのだ。ボソボソと何を喋っているのか
分からないような存在が、いきなり大きな声で挨拶をしてきても困るだろう。俺は自らの立ち
位置を完全に誤解していたことを知る。いきなり俺として振舞うと完全に浮いた存在にしかならず、
正体を明かしたところで信じてもらえはしないだろう。結果的にますます過ごしづらくなってしまう。
つまり俺は、「百合子」の人格をある程度使うしかない状況に追い込まれていた。無自覚ながら、
巧妙なほどに出来上がった状況であった。
「あ・・・、うん。ごめんねいきなり声かけて・・・」
「お、おう・・・」
失意と悔しさの中、俺は「百合子」としての仮面を被りながら、学校への道を急いだ。
学校へ着くと、いつもと違う席に自然と着席する。思わずかつての自分の席に向かおうとした
自分がいたが、身体が軌道修正してくれた。昨日からそうだったが、どうやら百合子の「肉体」は
俺の味方でいてくれるようだ。おかげで女性としての立ち振る舞いや百合子の日常については
何とか成立させられている。それが嬉しくもあり、悔しくもあった。肩を上下させるような、
詰まりそうな呼吸を落ち着けているうちに、あいつが現れた。
「おはよーっす」
「おう清彦おはよっ。何か眠そうだぞ大丈夫か?」
俺の肉体を奪った女、百合子が入り込んだ「俺」が、登校した。 その声に思わず振り向くと、
そこにいたのは間違いなく「俺」であった。少し眠そうにしていたが、雰囲気も何もかもが、
自分自身が鏡の中から飛び出したように歩いていた。そして俺の座る席を通ったときに、
「昨日は日直「お疲れ様」ね。ありがとう」
一声かけてきた。彼女と一緒だったとき、ひいては俺が日直の相方に必ず掛ける言葉であった。
そして彼は「いつもの通り」に自分の席に座り、「いつもの通り」談笑を始める。談笑相手の
佐竹と大川もまるで気づいていないようであった。それだけ「俺」はいつもの通りであった。
百合子の肉体を俺が屈服させたように、百合子もまた俺の身体を屈服させ、自在に使役させられる
ようになっていたようだ。本当の意味で、「俺」のことを乗っ取った存在になったと、目の前で
見せつけられる結果となってしまった。
俺は思わず机に突っ伏していた。涙があふれてきそうになっていたが、それを誰かに見せたく
なかったから思わず顔を隠してしまったのだ。しかし、そこにあったのは間違いなくいつもの
「百合子」であったからこそ誰も声をかけることもない。俺にとっての最初の学校はこうして
始まった。完全な、完敗であった。
当然授業中も百合子の肉体はその能力を遺憾なく「発揮」してくれた。授業の内容がさっぱりと
言っていいほど分からないのだ。どうやら、俺としての記憶や思い出といったものは入れ替え
られたときについてきてくれたようだが、勉強の知識などは量が多いのか、元々の身体の中に
置き去りにされてしまっているようだ。その証拠に、元々の俺自身はいつもの通り、淡々と
答えを出していた。ある授業の小テストも難なくこなしているようだったが、俺は見たことも
ないような凄惨な回答用紙を提出するのみであった。
(これはさすがにまずいな・・・)
危機感を覚えた俺は必死にノートを取り、頭に授業内容を叩きこもうと努力した。しかし、
石垣がないのにその上に天守閣を作ったところで崩壊するだけである。百合子の頭の中には
今の勉強についていくだけの「土台」が存在していなかったのだ。そんな身体を必死に操り、
どうにか授業内容を書き留めていくが、分からないものを聞くほどの苦痛はやはり存在しない。
延々と耳元でよくわからない言語の会話を続けられているような、頭が拒否してしまうような
そんな苦痛であった。ただ、不思議に思うことがあった。
(あれ?もしかして言うほど勉強自体は嫌いじゃないのかもしれないぞ)
慣れない作業に苦痛を抱いているせいか、いつもよりやはり疲れは数倍感じるが不思議なことに
身体は拒否しようとはしなかった。俺の指示に従い、必死ながらもノートに書き留めようとして
いる。まだまだ謎が多いようだ。もっと解き明かしてみたい。もっと知りたい。慣れないことに
身体が戸惑いながらも、少しばかりそれを「楽しい」と思い始めていた俺自身に、少なからず
驚いていた。
作業に没頭していればそれだけ時間の経過も早くなる。あっという間に昼休みとなっていた。
恐らくこんなに文字を書いたのは初めてなんじゃないかってくらいにノートに文字を書き込んで
いて、手には若干のしびれが残り、頭は寝起きの頭のようにぼやぼやとしていた。学校で疲れた
のは久しぶりであったが、妙な達成感も抱いていた。
(いけない。やることがあるんだった)
俺は勇気を出して、あいつに声をかけた。
「清彦・・・、君。ちょっと話があるんだけど」
「うん?どうしたの?」
その何も知らないような態度が腹が立つ。どう見ても自分自身にしか見えない、
声をかけられた「俺」はあっさりと乗ってきた。
* *
「どうしたの?それにここって、俺が昼寝してる場所じゃん。よく知ってたね?」
(やっぱり、俺の身体は・・・)
俺が「俺」を連れてきたのは体育館のそばにある隠れたスペースだった。人もあまり来ず、
バイトなどで疲れた時はここでよく昼寝をしていた、いわば俺のお気に入りの場所だ。
それをどうやらこいつは知っているらしい。試しにカマをかけてみたのだが、目論見は
あたってしまった。つまりこいつは・・・
「しかし、珍しいね久保田さんから話しかけてくるなんて。今までそういうことってなかった
じゃん」
「そりゃそうだろうよ・・・。「お前」自身は話しかけるのが怖くて、外から見ているだけ
だったもんな」
こいつ相手に本性を隠すつもりもない。俺は「百合子」の仮面をかなぐり捨てて、素の自分を表す。
そうでなければ、こいつに言いたいことも言えない気がしたからだ。
「えっ?それってどういうことかな?」
「しらを切るなよ・・・。お前、俺と入れ替わって何するつもりだよ!」
ついつい声を荒げてしまった。恐らくこの身体、こんなに大きな声を出したこともないのかも
しれない。少し喉が痛いが、そんなものは関係ない。所詮「俺」のものではないのだから、
知った事ではなかった。
「何言ってるんだい?言ってることがよくわからないけど・・・」
「知ってるぞ。お前、俺の事つけてたんだろ。こんな普通な俺のどこがいいのかなんて知らねぇ
けど、いいから俺の身体返せよ!」
ちなみに例の忌まわしい写真はすべて消し去ってある。あんなものが存在していたと考えるだけで
今でも吐き気がしそうになってくる。しかし、このことに気が付いたことを伝えたことに、多少は
意味があったようだ。俺の顔が見たこともないような、歪んだ笑みを浮かべ始めた。そしてその
「何か」は俺の声で、俺の口で、俺の身体を使って語り始めた。
「へぇ、やっぱり見ちゃったんだ。ということは、私の身体で楽しんだ、ってことだよね?」
「・・・っ!それはお前もだろ!この場所を知っているってことは・・・」
「ああ、そういうことか。ちょっと迂闊だったかもなぁ。ごめんね。昨日からちょっと嬉しすぎて、
舞い上がっちゃってるから気が付かなかったよ。」
その何かは、俺の声色を上ずらせて語り始める。頬は上気し、快楽にとろけそうな顔立ちに吐き気が
込み上げてくるとともに、俺の身体が百合子の手に堕ちた、それが確信となって襲ってくる。俺の
身体は・・・、耐えきれなかったようだ。
「でもすごいよ清彦君の身体!授業もすごく分かるようになったし、お友達もいっぱいいる!
佐竹君と大川君戸惑ってたよ?陰キャの久保田からいきなり声かけられたとか、聞いたこともない
大きな声であいさつされたとかね!」
「あ、そうそう!今日のお弁当は私が作ったんだよ?料理するなんて初めてだったけど、あんな
簡単に作れるんだね!いつも菓子パンばっか食べてた私がばかみたい!」
今までの俺が積み上げてきたものを、俺が俺であるために必要な記憶も、経験も、すべてを
掌握したことを得意げに語り始めた。百合子にとってはさぞや快感であっただろう。友達も
話しかけてくるし、今まで出来なかったこともあっさりと出来るのだから。そしてあいつは、
いよいよ踏み込んでほしくないところに入る。
「それに、お母さん滅多に帰ってこないから家でも好き放題出来るし、何より身体が元気
なんだもん!昨日だけで10回は抜いちゃって、今日なんか寝不足だよ!ほら見て!
可愛いでしょ!」
そこにはやはり危惧していた通り、好き放題弄ばれた自分の肉体の写真が山のように存在
していた。制服姿や普段着の姿、俺のお気に入りの私服を着替えさせられた姿、ドアップ
で撮られた顔、さらにはぶっ放した跡・・・、彼女は俺の身体の全てを使って、自分の
快感に酔いしれていたようだ。その様を、得意げに語られた惨状を聞いて、俺はいつしか
涙をこぼしていた。
「お、お前・・・。お前ぇ・・・!」
「あっ、ごめんねついつい楽しくて!ほら、泣かない泣かない」
そういうと百合子は「俺」の身体で頭を包み込み、泣き止ませようと抱きしめて
きた。鼻いっぱいに広がる匂いはまさに俺が使う消臭スプレーの香りであった。
懐かしい想いに浸るとともに、全く異なった匂いが妙に鼻についた。
「へぇ・・・。私ってこんな匂いだったんだね。甘いけどいい匂い・・・。でも、
ちょっと汗臭いよ?ちゃんとお風呂入れてあげたのかい?どうしようもない記憶、
どうしようもない身体、どうしようもない人生・・・、大したものはあげられない
けど、もっと大切にはしてほしいなぁ」
まんまと他人そのものを奪っておいて、平気な顔をしてのたまう百合子。たまらなく
悔しかった。身体を入れ替えるだけでなく、それを見せつけ、自分の身体がいかに
どうしようもないのかをわざわざ語ってくる。自分が理解しているからこそ、その
言葉は絶対の重さと信憑性を持っていた。そして何より、自分自身が理解してしまって
いた。
―――本当に?
心の底で何かの声が響いた気がしたが、それを押し潰すように言葉が刺さる。
「まあこれも運命と受け入れて、「私」の身体で楽しく生きてよね?でも変な事したら
ダメだよ?君には家族があるんだから」
自分自身はこの上なく鬱陶しいと思っていた家族さえも人質に使われる。その言葉は実に
俺には効果的であった。「どんな人でも家族は最低限、大切にしたい」、そう思って、
奨学金にバイトまでして高校に進んだ自分自身の記憶を読まれてしまったから。
「親が帰ってこなくても、親の金には頼らない」俺が固めていた信念を、逆手に取られて
しまったから・・・。
自分が積み上げてきたものに押しつぶされる、まさに最悪の体験であった。
「あっ、チャイム鳴ったね!早く教室に戻ろう!怒られるよ!!」
そうして百合子はまた「清彦」として教室に戻っていく。そして俺もまた「百合子」の
仮面を被りそれに続く。しかしその心は、他ならぬ俺自身が積み上げたものに摺りつぶ
されかけていた。
午後の授業はほとんどと言っていいほど記憶がなかった。少なくとも、自分が呆然として
いたこと、果たして何をやっていたのだろうか、俺の人生って何だったんだろうか、
そもそも「俺」って誰なんだろうか。そんな言葉ばかりが延々と頭で繰り返していた記憶
だけは残っていた。朝は放課後ひっ捕らえてでも「俺」から身体を取り戻す、と決めていた
心もすでにない。「俺」によって摺りつぶされ、空虚な残骸を残すのみであった。
既に俺を乗っ取った百合子もそこにいない。確か今日はバイトの日のはずだ。それが終われば、
いや、バイトそのものも彼女にとってはもはや快楽なのだろう。そう思うと、自分という存在を
示す肉体が既に彼女の手に堕ちたことをさらに痛感させる。俺はただ、悔しかった。
* *
「ただいまー・・・」
昨日は母さんに怪訝な顔をされたが、それでも挨拶は自然と口をついて出てしまう。俺として
意識していたことはやっぱり守りたい。そうでないと、今の俺は「百合子」に塗りつぶされて
しまいそうだった。
「返事がない・・・」
恵理子は部活があるため、この時間は不在である。だが、お母さんは家にいるはずなのだ。
靴も玄関にあったので、急な呼び出しを終えて帰ってきているはずだ。だからこそ、そこまで
嫌わなくてもいいじゃないかと思ってしまう。百合子が積み上げた負の遺産だが、俺にとっては
正直なところ身に覚えがない。記憶がその情報を提供してくるが、それで納得できるかといえば
そんなことはない。見ず知らずの人間の勝手な実績に、俺がどうして納得しなければならないのか。
不機嫌な感情を抱えたまま、リビングに入ってみる。すると・・・
「・・・、すー・・・、すー・・・」
「寝ちゃってる・・・」
お母さんはソファの上で横になったままぐっすり眠っていた。朝の急な呼び出しで疲れてしまった
のだろう、無防備な姿を晒していた。
「こうしてみると、お母さんも美人だよな・・・」
確か40歳近い年齢のはずだが、30代前半に見えてもおかしくないくらいに整っている。何より
特徴はその大きな胸。眠っていてもなおその存在感を示す巨大な胸と、どちらかというと可愛い系
の顔立ちなお母さんの全盛期はどんな人だったのだろう。聞ける機会があれば・・・、そんな姿を
見て、ふと怒りが湧いてきた。
「あんたが・・・、あんたがちゃんと育てていれば・・・!」
そう、あの百合子を生み、育んだのはこのお母さん、沙苗なのだ。こいつがちゃんと、娘を育てて
いれば、娘の歪んだ思考を正していれば、そもそも、生んでさえいなければ・・・!
「・・・、こいつが・・・。こいつが・・・っ!」
そんな俺は怒りに突き動かされるままに・・・
「・・・、はぁ・・・。言っても、お母さん関係ないもんな・・・」
母親の胸を軽くわしづかみにしていた。呼吸に合わせて緩やかに上下する、その豊満な胸の具合が
正直なところ気になってしまった。そんな母は目を覚ます気配はない。相当疲れているのだろう。
「よく寝ちゃって・・・。お母さん、いつも大変なはずだからなぁ・・・」
夜勤をこなすこともあるお母さんのシフトはかなり大変なはずである。今日も何があったかは
分からないが、呼び出しを受けて急遽駆けつけたはずだ。そんな中、2人の娘を育てているのだ。
疲れないはずがない。それに、
「やっぱり、お母さんが悪いとは言えないよ・・・。百合子が悪いとしか思えんわ」
百合子の記憶では「ロクに相手もしてくれない面倒な親」という印象だが、それでもかなりの
頻度で接しようとし、正そうとしていたようである。彼女のバイアスがかかった記憶でもそれは
ありありと伺えた。恐らく、彼女もまた百合子に振り回されたのだろう。そんな気がした。
「このくらいで勘弁してあげるから許してくださいね。お母さん」
だから、ちょっとした「復讐」だけで済ませることにした。揉んだり、乳首を摘まんでみたり、
興味が赴くままにいたずらをしていた。復讐すべきは百合子である。そこは取り違えないようにと
考えると、自然と怒りも引いていた。
「それにしても、柔らかかったな・・・」
手に残るモチモチとした柔らかな感触は病みつきになりそうであったが、これ以上は確実に変態
である。百合子の印象を堕とすためならやってもよかったが、そういう意味の復讐がしたいわけ
ではない。考え直した俺は、近くにあった毛布をお母さんに掛けて、部屋へと戻ることにした。
(出来ればお母さんをもっと労わってあげないとな・・・)
自然と湧いた感情から、俺はお母さんに何かできないかを考えるようになった。この感情が
何なのかは分からなかったが、身体が芯から温まる感じがした。
「さて・・・っと、時間もあるし、やらないとな」
俺はいよいよ覚悟を決める。そう、この身体を風呂に入れなければならないのだ。昨日から風呂に
入っていないこともあり、それなりに匂いはきつくなっている。見た目と体形のわりにあまり強くは
ない印象だが、それでも一晩風呂に入らなかったせいで身体が痒かったりして、だいぶ気になって
きていた。
脱衣所で制服を脱ぎ、下着を外していく。普段の百合子が為している動きそのものであり、昨日も
やった行為のはずだが、お母さんへの「復讐」の影響か気持ちが少し安らぎ、冷静になった分
ドキドキしてきてしまう。やはり、俺自身も男子学生だなぁと遠い目を持ってしまう。もっとも、
男しての欲望も、性欲も受け止めてくれた本来あるべき身体は奪われてしまい、いまとなっては
女の子の身体である。その信号が果たしてどこにいるのかは俺にも分からなかった。分からないが
故に、鼓動が早くなる形で表れているのかもしれないが。
一糸まとわぬ姿になり、そのまま風呂へと入る。白い清潔感溢れるタイル状の壁面にグレーの床は、
俺の家の狭い風呂からするとまさに天国であった。
「これが百合子の身体・・・。うーん、落ち着いてみると、やっぱり残念だよなぁ・・・」
お腹の肉を手に乗せながら、自分の肉体の惨状を改めて感じてしまう。自堕落な生活、無気力の
権化、家族と過ごすだけで感じるストレス、歪んだ人格、それが合わさって出来上がってしまった
のがこの百合子の肉体であった。体力はなく、学力もダメ、学生生活も破綻寸前、なのに・・・
「性欲は一人前・・・、か・・・」
今日もあそこがムズムズとしてしまう。ボディソープを泡立て、全身を撫でるように洗いまわして
いた時に下半身に触れると、やはり物足りなさを覚えてしまう。そしてついつい、昨日の感触が
忘れられずに、秘部に手を入れてしまう。
「くはっ♡あ、ああ・・・、気持ち、いい・・・♡」
快感につられて俺の身体の事を思い出しそうになるが、その意識を水の中に沈めるように封印し、
女体の快楽のみを脳に刻み込む。そんなものが無くても、この身体は十分に楽しめると教育をする
ように、歪みを矯正するように対処をしていく。少なくとも本来の自分の身体に欲情し、それを
引き金に自らを絶望に叩き落す、その可能性は摘みたかった。
「ああ、でもあんまりやり過ぎても・・・、ね?」
程々のところでやめておく。正直なところ時間はある程度惜しいのだ。お風呂に入るたびに
イき狂い続け、昨日のようになる有様では復讐以前の問題になってしまう。俺自身は半ば投げ
やりになりつつも、そこまでやけくそにはなっていなかったのだ。そこまで堕ちる前に、自分で
自分を引き戻すことが偶然にもできていた。俺は彼女の記憶の通りに身体を洗い、髪を洗う。
だいぶざっくりとした洗い方だったが、果たしてこれでいいのだろうか?
「ふう・・・、お風呂気持ちいいなぁ・・・」
俺の時は烏の行水と呼ばれるほどにパパッと身体を洗っていたこともあり、のんびり湯船に
つかるのも悪くはなかった。
「この身体も何とかしないとな。まずはダイエットからだろうけど、それより何より・・・」
俺はお風呂の中でこの身体の問題点を考え、整理し、今後の行動を決めていく。正直なところ、
負けっぱなしは趣味ではない。そう思うと、自然と胸が高鳴ってくる。身体もその意識に興味
でもあるのか、不思議と力が湧いてきた。
(1日過ごして思ったけど、この身体、もしかして・・・)
それを検証するために、お風呂から上がってそそくさと自分の部屋へと戻っていった。
* *
「へぇ・・・。百合子の身体、よく頑張ってたんだな・・・」
まるで宿題をこなしてきた生徒を褒めるように、百合子の肉体が為したことを褒めたたえて
いた。昼休みの後、本来の百合子に蹂躙され、頭の中で自分の存在について自問自答している
合間も、彼女の脳は身体に命じ、板書をノートに書き写していたようだ。その内容は普段の俺が
作るノートによく似ていた。恐らく、午前中の授業でやっていた手段を無意識のうちに使って
いたのだろう。見慣れた文章に仕上がってくれているだけでも、内容を見直すときの抵抗が
いくらかマシになる。
「さて、やってみますかね」
そう、今の俺は宿題に取り組もうとしている。百合子が口を酸っぱく言われても一切取り組まず、
常にほったらかされてきた宿題を使って試したいことがあったのだ。そしてこれは、彼女への
復讐の準備でもあった。
「どんな復讐をするにしても、まずは時間を確保したいしな」
そう、あいつは宿題忘れの常連で、よく学校に残されていた。それでいて別に宿題をきちんと
出すかどうかは別であったようで、彼女の記憶には当然ながら何も残されていない。当然のように
右から入れて左から出ていっているようだ。その事実には溜息しか出なかった。だからこそ、
放課後の自由時間が宿題に追われて少なくなるのも困る。こいつへの復讐をどうするか、色々
考えていたけれどまずは自由な時間が欲しい。この身体を売り、お金を稼ぐのか、恵理子や
お母さんを観察し、何かを見直すのか、何かの奇跡が重なって俺が身体を取り返したときに、
こいつが苦痛となるであろう「普通の生活」をその身に刻んでおくべきか・・・、どれを選択
するかは決めていなかったが、余計なことに時間を割く理由もない。
それに、俺自身が壊れそうになるというのもあった。記憶にすべてを委ねてしまっては、俺が
百合子になってしまいそうな気がした。だからこそ、自分を見失わないよう、あくまで習慣は
自分自身を貫く、そう決めていた。そうして俺は、与えられた宿題へと取り掛かった。まずは
数学からだ。
「・・・、あれ?」
おかしい。手がスムーズに動く。何故かはわからないが、受けた授業の内容が、式の構成が
理解できる。百合子の身体は次々と最適な答えを導き出し、スムーズに解決していく。
その速さは元の俺の身体と比較にならないほど圧倒的だった。
「うーん、これは分からないな・・・」
順調に進んでいた矢先、手が止まる。式の構成が分からないのだ。というより、
「必要な式は分かるんだけど、その方法が頭の中に残ってない、のか?」
今までの授業がどのようなものであったかは理解できている。少なくとも俺はその地点では
真面目に授業に臨んでいたし、受けた記憶もあった。ただ、俺が持ってこれたのは「受けた」
という事実のみで、それがどのような方法だったかは恐らく俺の脳に置いてきてしまっている
のだろう。ロードするデータは分かっても、そのデータが存在していない、コンピューターの
エラーのような出来事を自らの身体で体験するとは思わなかった。ただし・・・
「確かその式はこのページを・・・」
足りない式がどこにあるのかは「俺」が理解していた。というより、まだ覚えていたという
ほうが近いのかもしれない。そのページを開き、改めてその内容を読み、百合子の脳に情報を
加えていく。その下にある練習問題を見よう見まねで解き、足りなかったであろう知識を
装備するだけで、詰まっていた部分をあっさりと突破した。
「もしかして・・・、百合子って実はメチャクチャ頭いいのか?」
一日を振り返ると、思い当たる節はあった。放心状態の時の俺が無意識のうちにノートを
書いていたが、そのやり方自体は今日知ったばかりのはずだ。それに、嫌々だったのかも
しれないが何だかんだで授業は真面目に聞き、普段の百合子のように寝たり、投げたりと
いうことは一切なかった。さらに言えば、いま彼女の肉体に入り込んでいる状況を推測
出来ているが、普段の俺だと思いつかないようなこともいくらかあった。
気が付けば宿題をあっさりと終えていた。自分でもびっくりするくらい夢中になっていた。
果たして、勉強ってこんなにも楽しかっただろうか。覚えることや使いこなすことが、
こんなにもワクワクしただろうか。
(やばい、もっと知りたい。もっと覚えたい・・・!もっと!)
その意思に呼応するかのように、百合子の身体は応えてくれる。あるいは、もしかすると
彼女の脳ももっと「知りたい」のかもしれない。幸い明日までの宿題は数学のみだった。
本当は他の課題も済ませようと思ったが、そんな気は起きずに結局数学に傾倒していた。
ひとつ前の宿題はどうか、この練習問題はどう答えればいいのか、この数式はどういう
仕組みなのか、これはいったい・・・、百合子の脳が途切れることなく教えてほしいと
乞うてくる疑問に、俺は覚えている限りのヒントを与える。そして彼女の脳とともに
問題を解き、その知識を頭の中に刻み込んでいく。
「すげぇ・・・。こんなあっさり覚えるのか?」
苦痛にさえ思えるはずの勉強の知識を百合子は次々とモノにしていく。新しい知識、脳に
辛うじて残されていた知識、それらの点を線として繋ぐ作業が、ここまで楽しいとは!
一種の快楽さえ覚える作業に、今までにない達成感を感じていた。
もしかすると、俺だけではないのかもしれない。本来の怠惰な主によって一切使われる
事のなかった優れた知性、高い能力が今やっと使われようとしている、恵まれた能力を
与えられながら、日の目を見ることもなかったであろう本来の性能が存分に発揮できる、
身体が本人と別の意思を持っていたとしたらさぞ悔しかったであろうその無念さ、使って
貰えるありがたさ、快感を、この身体もまた抱いているのかもしれない。
「――ぇ・・・」
「えーっと、次の式は・・・?」
「ねぇ!ちょっと!!」
ふと、大きな声が聞こえた。氷で貫くように凛として、鋭い聞き心地のいい声が部屋に響き
渡っていた。その方向を見ると、その可愛らしい表情を怒りで歪ませた恵理子の顔があった。
「ご飯できたって」
「えっと、ごめんごめん!つい夢中になっちゃって・・・」
その言葉にキョトンとし、また元の表情に戻ったかと思うとその場を後にする。何か意外
だったのだろうか?
っとと、いけないいけない。せっかく作ってもらったご飯を無下には出来ない。一旦勉強を
止め、リビングへと向かう。
(こんなに集中できたの、初めてかもしれない・・・)
どうやら風呂から上がり、宿題に取り組んでから今の今までずっと勉強していたようだ。
百合子の脳に新しい知識を植え付ける楽しさもそうだが、まるでチートプレイのように貪欲な
までに知識を吸収し我がものとしていく百合子の脳を育てることに、俺は夢中になっていた
のかもしれない。今の時間まで何も気が付かず、一心不乱に取り組んでいたこともまた、彼女の
高い集中力を示していた。やや頭が痛いが、恐らく普段使っていなかったものを動かしたから、
いわば筋肉痛に近いものだと推測していた。恐らくこれから毎日と言わずとも、適切に取り
組んでいけばいつか慣れるであろう。
(もっと知りたい、もっと理解してみたい。この身体、本当は凄いのかも・・・)
このとき俺は初めて、入れ替わったこの肉体で快楽を、前向きな希望を見出すことが出来た。
もしかすると、もっと知らないことが隠されているのではないか、もっと出来ることがあるの
ではないか、もっと、もっと・・・!
際限のない欲求、探求は、次第に俺を前向きに、希望を持たせてくれていた。
* *
「く、久保田・・・。お前、とうとうやってきてくれるようになったのか・・・!」
「ええ、はい・・・。まぁ」
数学の担任の先生が感動したような目を俺に向けてくる。それはそうだろう。何せあの「久保田
百合子」が宿題を提出したのだ。恐らく初めてじゃないかと思われるくらいの出来事のはずだ。
少なくとも俺自身の印象の中にも、何より彼女の記憶の中にもそんな出来事は残されていない。
たったそれだけでここまで感動されてしまうのもどうかと思ったが、自分が頑張ってやったことを
褒めてもらえたのは素直に嬉しかった。
それからと言うものの、授業を受けることが楽しくなっていた。今まででも真面目に臨んでいた
つもりだったけど、その中にはどうしても義務感のようなものがあった。当たり前に消化しなければ
ならない、勉強をしなければいけない、そう言った無意識が頭の中にどうしてもこびりついていた。
しかし、今の身体はそもそも知識がないせいか、覚えることに必死だった。そしてその事を、この
身体は少なからず喜んでいた。授業を受け、家で勉学に励んでいるうちに脳はこびりついていた
錆を落としていった。すると次第に、脳は本来の性能を取り戻していった。
「やっぱりすげぇなぁ・・・。百合子、本当はこんなに頭よかったんだ・・・」
授業に真面目に取り組むようになり、家では家で、家族に戸惑われながらも勉学に一心不乱に
取り組むようになってから早1週間、俺は小テストの結果を片手に独り言ちる。今回は1問
間違えてしまったが、今までの百合子の成績を考えると破格と言える結果であった。
「うえぇ!百合っち1問間違えただけとか!?マジありえねーんすけど師匠!」
「師匠っていうのやめてよ・・・。恥ずかしいじゃない」
「いやいやいや、師匠のお陰でアタシ至上最高の点数よマジで!」
もう一つ変化があった。なんと私に「友達」が出来たのだ。彼女の名前は「進藤 あかね」。
陽キャのトップにしてスクールカースト上位のコミュニケーションお化け、明るい茶髪に耳に
ピアス、ばっちりと決められたメイク、浅黒い肌、そして胸に宿る巨大な双丘など、バリバリの
ギャルという百合子とはまさに正反対の存在が、答えの半分くらいに丸が付いた答案用紙を自慢げに
見せながら話しかけてくる。正直なところ、元々の「俺」の頃からこの子は苦手だった。品性のない
喋り方によく通る声、まるで距離感というものを知らないその態度がどうにも合わなかったのだが、
百合子になってから、あかねのその個性に救われることになった。
きっかけは体育の授業だった。いわゆる「二人組作って」である。当然ながら、百合子と組もう
なんていうご奇特な輩はいるわけもない。元々の俺も早々に友人とペアを組んでしまっている。
その時の俺への勝ち誇った視線はたまらなく悔しかった。
当然のようにペアからあぶれ、途方に暮れていると
「あれ?百合っちペアいないのかえ?ならアタシと組もうよ!」
そう言って声をかけてくれたのがあかねだったのだ。ペアに選んでいた仲間内は残りで3人組を
組むように調整し、わざわざ私のために来てくれたのだった。その屈託のない笑顔がどれほど
眩しく、それに救われたかは今でもよく覚えている。
ただ、その体育の授業は非常に・・・、大変だった。内容が体操だったのだが、俺はそのあかねの
身体に触れまくることになってしまった。彼女もまた非常な恵体の持ち主で、その身体のいちいちが
とてつもなく柔らかいのだ。そんなあかねと密着し、ストレッチの手伝いをするときに男として
非常に興奮してしまった。鼻につく香水の匂い、柔らかな身体、中身が男と知るはずもなく、
その身を預けてくれるあかね・・・、とてもじゃないが、記憶が飛びそうになったのもまた、
忘れられない思い出だ。
それから彼女との交流が始まった。教室で話す程度の関係ではあったが、それでもあかねは積極的に
話しかけてくれるようになった。
「うっわ!百合っちのノートぱねぇw めっちゃ書いてあんじゃん!」
休み時間にノートを片付けていると、いつもの通り話しかけてきたあかねが俺のノートをみて、
感心したかのように感想を漏らしていた。
「そんな百合っちを見込んで、頼みがあるっ!アタシに勉強教えてくれ!」
このあかね、コミュニケーション能力だけで言えば恐らく満点を通り越しているが、勉強の結果は
凄惨の一言に尽きるくらい悪かったのだ。この地点での百合子の結果もどんぐりの背比べだった
はずだが、真剣な表情で申し出てくれた彼女を見ると無下には出来なかった。俺はこの申し出を
引き受けることにした。
こうして彼女との勉強会が始まった。あかね自身がだいぶ多忙であるから休み時間や放課後の
ちょっとした時間が中心だったが、適度に雑談を交えながらも、あかねは真面目に取り組んでいた。
それは同時に、俺の学力向上にもつながっていた。他人に教える以上、もっと深く、もっとしっかり
理解しておかないと説明できなかったから、自然と自分の勉強にも身が入っていた。本来の性能を
発揮し始めていた百合子の脳は、そんな頭の中の知識を器用に整理し、俺が分かりやすく説明できる
ように整えてくれていた。元々の俺とは比較にさえならないほどに速く、鮮やかであった。
「いやー、百合っちってもっと取っつきづらいと思ってたんだけど、話してみると面白いね!」
勉強しながらいろいろな事を話してくれたあかねからこんなことを言われたが、それは俺のセリフ
だった。 例え百合子のような存在であったとしても一切の偏見を抱かず、当然のように自然体で
接することのできる彼女の人となりは、早々出来るものではない。天性のものであると言えるだろう。
「そんなことないよ・・・。でも、ありがとう」
「そーんなお礼言われるこったないよ!アタシが世話になってるんだし!ていうかアタシら
友達っしょ?遠慮なんかいらんて!」
嬉しかった。それが当然だとでもいうように、あかねは友達と言ってくれたのだ。熱いものが込み
上げてくることに気が付いた俺は、いつしかその言葉に涙していた。
「えぇぇぇ!!?どうした百合っち!?アタシなにか変な事言ったか!?」
「ち、違うの・・・。嬉しくて・・・、ごめん。なんていえばいいか・・・」
「何かこう、大変だったんだなぁ・・・。ほれ、ほれほれ泣け泣け!アタシのでっかい胸の中で泣く
がいい!」
そんな俺の頭を、まるで大切なものを抱えるように抱き寄せ、受け入れてくれた。その彼女の誰に
対しても距離感を感じさせない、天性の明るさに救われた。裏にあるとんでもない理由なんて知る
由もないだろうが、それでも何かあったんだろうと察し、受け止めてくれた「友達」に、俺は心から
感謝していた。
・・・、その時の彼女の豊満な胸の感触もまた・・・、忘れられなかった。自分よりはるかに大きく
柔らかいそれは、興奮と同時に少しばかりの悔しさをもたらしてきた。ちくしょう。
――――――――――――――――――――――――――――――――
清彦の身体を奪い取った百合子は、周りの環境もあり及び腰に接した清彦とは異なり自分の欲求を
満たすために一晩掛けて10回もイき、彼の肉体の中で快楽の海に浸り続けたことで、百合子から
流れ込んだ彼女の根源とも呼べる存在が清彦の肉体の奥底に完全に固着していた。既に百合子に
とって清彦の肉体は以前の自分、もしかするとそれ以上に使いこなせるレベルに至っていた。
それは自動的に、本来の清彦が戻れる余地をなくしていることを意味していたのだが、清彦が知る
手段は存在していない。本人が知らぬ間に、すでに退路は断たれていたのだ。
「よしっ、今日は学校終わりにバイト、その後はまあ、また楽しもうかな」
百合子は清彦の脳に残されている彼の人格や生活習慣、記憶を用いて清彦としての仮面を被り、
完全に成りすます。喋りたいと思った事項は清彦の口癖、イントネーションを使い、挙動は彼の
運動神経や癖を用いて行われる。無意識のうちに出てしまっていた仕草や笑顔も含めて、どこから
どう見ても清彦その人であった。
(あははっ!すごいや!私が清彦君を支配してそのすべてを使ってるんだ!)
脳の中に居座る百合子は家を出ようとして、彼の一物から自然と白濁液を染み出させてしまう。
既に清彦の肉体は百合子の快楽信号を受け、簡単に射精する身体へと作り替えられてしまっていた。
鈍重な百合子の肉体と異なり、適度に鍛えられた清彦の肉体は軽く、力強い。かつての自分の家
より遠い通学路でも全く疲れる気配もないその身体か眺める世界もすべてが新鮮に見える。
(これからは私が清彦君なんだ!)
その想いと本来の彼が持ち合わせていた前向きな想いが結合し、自然と身体を学校へと向かわせる。
百合子にとってこんなにもワクワクしながら学校へと向かうのは初めてのことであった。
「おはよーっす」
挨拶とともに教室に入ると、清彦の友人たちが彼に目を向けてくれる。当然の事ながら清彦の中身が
完全に別の人間にすり替わっていることに誰かが気づくこともない。清彦が作り上げてきたものが
そっくり自分の手の中にある。そのことを確認し満足した百合子の視界に、あるものが目に入る。
(へぇ・・・、ちゃんと学校に来たんだ。えらいじゃん)
机に突っ伏し、息を整えるかつての自分が視界に入る。恐らく学校に来るまでで体力を使い切り
かけてるのだろう。その光景さえもいつも通りであった。
(清彦君、そんな私を見てもバカにはしてなかったんだね。やっぱりいい子だなぁ。私の身体に
相応しいわ)
清彦の脳をほじくり、私に対する印象を閲覧する。どうやら彼はいつも突っ伏している以外、
特に不快な印象を持ってはいなかったようだ。つくづくお人好しで、純粋な清彦の性格に満足する
と同時に、百合子の歪んだ性格が目を出し始める。
(・・・、そうだ)
歪んだ彼女のひょんな思いつきに対して、もはや芯まで支配された清彦の肉体は抗うすべを持たない。
彼女の意思を受け、その脳からかつての自分に対して「清彦」としての対応を作り出し、声をかけて
しまう。
「昨日は日直「お疲れ様」ね。ありがとう」
その時に彼女が向けた、驚きと絶望がない交ぜになった表情はまさに百合子が望んだような理想の
表情であった。
(やっぱり清彦君最高だよ・・・!私にそんな顔をさせてくれるなんて!)
百合子にとって、ターゲットとして選んだ清彦はやはり最高の逸材であった。適切かつ丁寧に管理
された肉体、彼女にとって理想的な家庭環境、それらから構成された経験と技術に彼の生活が積み
上げた知識量、さらには入れ替えた後に魅せてくれる百合子としての様々な表情・・・、どれも
これもが百合子の支配欲を充足させてくれる。そんな百合子は清彦の仮面を被り、清彦としての
いつも通りの雑談に興じる。彼の友人である佐竹と大川も気づくことはないし、百合子が雑談の
内容に困ることもない。全て清彦の知識と常識、興味の中で対応できている。そして彼らは気づ
かない。そんないつも通りの彼が雑談に興じながら、一物から精液を放出しているなど・・・。
学校を終え、バイトへの道を急ぐ清彦は快感と快楽に包まれ、最高の気分を味わっていた。授業を
受ければ清彦が残していった知識を使って内容を理解できる。宿題は彼が勝手にやってくれていた
ためそれを提出するだけで済む。そして疲れもしない。そして何より・・・
「ふふふっ、昼休みの百合子、傑作だったなぁ・・・」
既に清彦の全てを掌握している百合子にとって、百合子の身体に入れられた清彦がどんな行動を
するのかを予測するのは簡単であった。その予想通り、清彦は私に話しかけ、身体を返せと伝えて
きた。そして何より、私が百合子の身体で何をしていたのかを知ってしまったようだった。
「だから、徹底的にやっちゃったんだよね。清彦君の頭も悪い子だよねぇ。どうやれば一番
ダメージを受けるのか考えちゃうんだから」
そんな清彦に対して、百合子は自分の夜の行為や彼に成りすまして行動した事を洗いざらい伝える
ことにした。そうすればダメージを受けると分かってしまったから。百合子に染まった清彦の身体は、
そういう演算を自然とこなしてしまっていた。そして何より、自分が疎ましいと思っていた家族を
盾にして清彦の意識を百合子の身体に封じ込めることに成功してしまったのだ。彼が持っている
信念を逆手に取り、「家族に手を出せない清彦」の性質が百合子の肉体から牙を抜いてしまう、
文字通り自らの手足となった身体がたまらなく誇らしかった。
「よし、じゃあ今日もバイト頑張るかな!」
清彦になって初めてのアルバイトに、百合子の胸は躍っていた。
* *
そして1週間、百合子は清彦の生活をトレースしながらも、夜は快楽に浸り続けていた。清彦の
生活習慣は彼女にとって新鮮であった。毎日欠かさず勉学に励み、バイトも積極的に取り組む。
そして身体がなまらないようにストレッチや走り込みも欠かさない。本質が怠惰な百合子にとっては
本来続けられそうにもない習慣だったが、清彦として活動することに快感を覚えてしまう百合子は
それをこなすことが出来ていた。
「はあ・・・、はあ・・・、和美ちゃん可愛いよなぁ・・・♡」
そんな百合子が最近ハマっていることが、清彦の習慣や好意を使っての自慰行為であった。清彦とて
普通の年頃の男の子であった。当然クラスメートに好感を抱いている子、可愛いと思う子もいた。
そしてそのまま夜に妄想に耽ることもあったのだ。百合子はその記憶を再生し、「彼が普段やって
いた通りに」自慰をした。今日生贄になっているのはクラスメートの和美である。可愛らしい
顔立ちに控えめな性格から、男子生徒の人気も高い女の子、そんな彼女を頭の中で、男として
ストレートな感情を使用して自慰に耽る。百合子の快感によってさらに加速された快楽は本来の
快楽と比較して桁外れであり、彼の脳をショートさせる寸前までの絶大な快楽をもたらしていた。
当然そのあとは何も手が付かず、初めて宿題をすっぽかしたわけだが、清彦の積み重ねてきた信頼で
乗り切れた。
そんな充実した毎日を送っていた百合子だが、気に入らないことがあった。そう、何を隠そう元の
身体である。明らかに様子がおかしいのだ。勉学に取り組み、生活態度も勤勉になっていた。
見た目はそこまで変わっていないが、その身体には明らかに力が宿っていた。そして何よりも・・・
「友達・・・?わ・・・、百合子に?」
「そうみたいだな。いいことじゃないか?彼女も最近頑張ってるみたいだしな」
百合子に友達が出来ていた。それも、疎ましいとさえ思っていた「進藤 あかね」である。一体
どういう手段を使ったのか、あんな魅力もない、何もない自分の身体で何をしたというのかさっぱり
わかっていなかったが、少なくともあかねは百合子に対して自然に、そして好意を抱いて接している
のはよく理解できてしまった。そしてよく見れば百合子自身の成績も大幅に向上していた。以前の
百合子からすれば清彦の成績は手が届かないほど高いものであったが、彼女はそれが清彦が欠かさず
努力していた結果だということを理解しておらず、またしようともしなかった。勉強をするように
なったのも「勉強をする清彦を体感する」という欲求に正直であるが故の結果でしかなく、その
意味が分かっていなかったのだ。
その結果、本来の百合子の本質を理解していなかった彼女には、清彦が胡散臭い手を使って結果のみ
を向上させた、という風にしか捉えられなかった。清彦がなぜ勉強していたのか、身体と向き合う
チャンスをみすみす手放してしまったのだ。と同時に、彼女の頭の中に一種の焦りにも似た感覚が
湧いていた。
(清彦君は・・・、私の身体を使いこなしてるというの・・・?)
その事が百合子にはたまらなく許せなかった。自分の中では絶望的とさえ思っていた状況を、自らの
手で切り開いていく清彦に、ある種の恐怖さえ感じていた。
「清彦・・・?どうした?」
「あっ・・・、ごめん!何でもないよ!何でも・・・」
「何か顔色が悪いぞ。ここ1週間くらいずっと疲れてるみたいだし、相談でも乗ろうか?」
「大丈夫大丈夫!ホント心配いらないよ!ありがとな」
会話の相手は清彦の幼馴染で、最も大切な存在だった存在である。清彦の記憶の中でもとりわけ
大切に扱われていることからも、いかに大事にしてきたかが窺い知れたが、百合子にとってはその
暑苦しさが鬱陶しかった。清彦の仮面がそれを表に出さないように振舞ってくれているが、その
不快感は覆い隠せそうもなかった。そしてその日の夜、清彦は一線を越えてしまうことになる。
* *
「清彦君・・・、私の身体で何をしているっていうの・・・?」
今日はバイトもない日なのでさっさと帰宅するが、いつもの通り自慰に耽ることはなかった。
百合子の奮闘を見て、自分がさじを投げた状況を少しずつ、しかし確実に改善へと向かっている
彼の行動に悶々としていたのだ。ベッドの上でイライラを募らせていると・・・
「ただいまぁぁ!清彦いるのぉ!?」
そう、彼の母親が久しぶりに自宅に帰ってきたのだ。彼女の名前は双葉、17歳で彼を生み、
その後離婚して今の状況を作り上げた母親が、べろんべろんに酔っぱらって帰ってきた。彼女は
そのままリビングに入り、突っ伏して眠ってしまった。かなり泥酔しているようである。
「ったく・・・、いつもいつも何でこうなのかな」
清彦はそんな母親に不満は抱きつつも、唯一の肉親として大切に扱ってきた。しかし、中に
入っている百合子によって、清彦が裏で抱いていた鬱屈した想いが、母親の双葉に対して
抱いていた微かな不満が掘り出されてしまっていた。そして、本来の人格が徐々に、しかし確実に
百合子によって浸食された結果、歪みがとうとう表に出てきてしまったのだ。
「アレだけ面倒見てるんだ。ちょっとくらいいいよね・・・?」
百合子は意識を失った双葉のスカートをまくり、起こさないように慎重に服をずらして秘部を
確認する。そこにはしっかりと精液が溢れた様子が確認できている。
その事を確認した清彦は、いつもの通り母に対してのご飯を作る。酔っぱらっている双葉のことを
考えて、簡単な雑炊をよく作っていた。その中にあるものを摺りつぶして混入させておく。そして
彼女を「いつもの通り」起こす。
「母さん。ご飯だけでも食べないと」
「あぁぁ、きよひこぉぉ。おみずぅぅぅ」
「ハイハイ」
苦笑しながらも彼女が欲しいものを与え、肩を貸しながら彼女を椅子へと座らせる。その間に
食事の準備を整えると、彼女は水を一気に飲み、食事を口にする。口にしてしまう。目の前に
いるのはもはや、清彦の姿をした悪魔でしかない。その事に当然気づくこともない。今の清彦に
とっては守るべき対象ではない、恵まれた身体つきをしたただの欲望のはけ口とされていることに、
双葉は気づくことはなかった。
双葉が食事を食べ終えた後、清彦はその食器を洗う。残さずきれいに食べた後の食器を見て、
百合子は清彦の顔に歪んだ笑みを浮かべさせる。その後自分が必要な最低限のこと、明日の準備や
洗濯などを済ませてリビングへと向かう。そこには・・・
「ぐごぉ・・・、すー・・・、ぐがっ・・・」
双葉が机に突っ伏していた。机の上に顔を横たえ、開かれた口からは涎が垂れていた。左腕が
力なく机からずり落ち、ゆらゆらと揺れている。酒を飲んだからというのもあるだろう、軽く
いびきをかいた様子からも眠りの深さが窺い知れる。
「母さん、こんなところで寝ると風邪引くよ?」
呼びかけつつ、頬を叩いても反応はない。念のために瞼を開いてみるが、眼球がゆっくりと
動くのみで目を覚ますことはなかった。
「まったく、子供に寝不足の時の薬まで持ってこさせるからこういうことになるんだぞ?」
百合子は聞こえていないのを承知で、片手に薬が入った袋をひらひらとさせながら双葉に
話しかける。双葉はその不安定な生活から不眠症を患っており、睡眠薬を定期的にもらって
いた。酒を飲んでいない夜に服用することが多いのだが、その管理をなし崩し的に清彦に
預けてしまっていた。その記憶の提供を受けた百合子は双葉の食事に睡眠薬を混ぜ込み、
彼女を深い眠りに誘っていたのだ。
「確か素面の時でも5時間は目を覚まさない。つまり、今晩は母さんの身体を好きに使える、
ってことだよね?」
そんな眠る母の両肩を掴み、椅子の背もたれにもたれかけさせる。意識を失った頭が後ろに
振られ、彼女の口が大きく開かれる。百合子は念には念を入れて、彼女のその口の中に睡眠薬を
さらに追加で1錠、そしてピルを投じておく。既に他人の精子で満たされているが、実の息子の
精液で孕まされたと言われるのも困る。冷徹な判断に基づく事前準備を施したのち、彼女の両脇を
掴んでズルズルと、意識のない肉体を双葉の部屋へと運んでいく。清彦の身体でも意識の抜けた
女性は重たかったが、高まってくる性欲の前にはどうでもいいことであった。
「文字通り、身体で払ってもらうね。母さん」
既に双葉の部屋のベッドはゴミ袋を切り貼りして、シーツの上にかぶせてある。これで行為に
及んでも、その袋を剥がして捨てるだけで証拠隠滅が図れるようになっていた。
「はぁっ・・・、母さんの身体重いよ。清彦君の身体じゃないと運べなかったね」
肉体の性能に満足し、興奮しつつも双葉をベッドの上に横たえる。これから実の息子に犯される
という運命が待っているというのにも関わらず、彼女はすやすやと眠り続けている。
「男を誘うために一生懸命努力したんだろうけど、その努力を俺にも振り向けて欲しかったよなぁ」
大きな乳房、きれいに染められた茶髪、口の中の整ったきれいな歯にも金がかかっているのだろう。
まだ服は脱がせていないが、手や足だけでも分かるきれいに手入れされた肌、年齢的にそろそろ
劣化し始めるところだが、そこはきちんとケアしているようだ。そんな彼女に対して清彦の心の中に
眠っていたわずかな黒い感情を口に出させる。もちろん寝姿も撮影している。男の子として、この先
の自慰ネタに使うためだ。
「じゃあ、始めようか母さん」
女性の服の着方など清彦が知るはずもないが、そこは百合子が持つ知識で事足りた。その提供を
受けた清彦の身体は手際よく彼女が着ている服を脱がせ、下着を外していく。洗濯自体は清彦が
やっていたこともあり、触れたことはあったのだ。その動作自体はまさに、手慣れたものであった。
「・・・、すごい。これが女の人の身体・・・」
百合子の際に散々見てきたはずの身体なのに、清彦の目で確認することでさらに興奮した。これが
男の本能なのだろうか、思わず彼女の豊満な胸に手を当て、揉みしだいてみる。自分の時は全然感動
もしなかったはずなのに、それだけで性的興奮を感じ、下半身が熱くなってしまう。
「じゃあ、いくよ。母さん」
意識のない双葉の手を使い、肉棒を擦らせて準備を整える。ここまでは清彦が見聞きしてきたエ〇
DVDなどの内容を再現している。年頃の少年にはたまらない妄想の世界を実現しようとしている
ことに、百合子の興奮は最高潮に高まっていた。穢れを知らない清彦の身体を、いよいよ自分の
意思で一線を越えさせる、彼にとっての初めての瞬間さえも、百合子は奪い取ろうとしていた。
「よしっ!・・・、あがっ!!頭が、痛い・・・!」
そしていよいよ膣内に挿入しようとしたところで、身体の動きが止まる。清彦の記憶が百合子に
訴えかける。これは近親相姦だ、母に手を出したくない、無意識に残されていた清彦の意思が
最後の抵抗を試みたのだ。しかし・・・
「そんなに頑張ってもだめだよ清彦君!もうこの身体は私の物。私が何をしたいかさえやって
くれればいい。だから、諦めなさい!」
その意識を強引にねじ伏せて、とうとう膣内に入れてしまい、腰を振る。今までの自慰とは異なる
何倍もの快感が脳を襲い、清彦の常識を押し流し、封印してしまう。さらには百合子は清彦の
わずかな黒い感情を暴走させ、この行為を正当化してしまう。「今までのつけを払ってもらう」
という理由を以て身体を納得させる。
――気持ちいい!気持ちいいよ清彦君!!
そこにいたのは男の身体に女の意思を宿した、暴走するケダモノであった。
* *
「んぅ・・・、朝、か・・・。頭が痛いな」
結局一晩中、双葉の身体を蹂躙し続けた清彦は意識を失っていた。清彦は彼の記憶と、百合子が
思いつくままに行為に及んでいた。膣内はもちろん、口の中や乳房など、ありとあらゆるものを
使い、その欲求を満たしていった。果たして何回出したかは覚えてさえいない。ただ、充実した
感触と体力を使い果たした事だけはありありと分かっていた。
「今日はもうだめだな・・・。学校休も」
仮病を使って学校を休む連絡を入れ、後始末にかかる。双葉の部屋の窓を開けて換気をし、眠る
彼女を無造作に避けてベッドの上のゴミ袋を捨てる。部屋を大体元に戻した後は、双葉を風呂場に
連れて全身を洗浄する。口の中も蹂躙してしまったこともあり、全身のみならず口をこじあけて
歯も磨いていた。風呂場では意識のない双葉の柔肌に反応し、人形のようになった女性を洗うと
言う行為にさえ興奮してしまったこともあり結局2回ほど暴発してしまった。
暴発した分を洗い直し、全身をきれいに拭いた後に彼女を部屋に戻し、寝間着に着替えさせ、
ベッドの上に寝かせておく。その様子から、昨晩全身を息子に蹂躙されたとは思えないほどに
整然と、きれいに整えられていた。寝ぼけて着替えたあとに寝たといえばごまかせるであろう。
泥酔したときの双葉の様子を知る清彦の記憶から大丈夫だろうという確信があった。
「これからも楽しませてもらうからね。母さん」
清彦が母に向ける笑みを浮かべ、下種なことを口にさせる。その事が百合子に清彦の身体も、
意志も完全に堕としたと実感させる。一線を越えた百合子の意識は、解放感に満ち溢れていた。
これ以降、百合子の意識は清彦という枷を完全に破壊し、彼女の意のままに、男の性欲だけを
残した存在として稼働することになる。
「きよ・・・、ひこ・・・。ごめん・・・ね・・・」
悪夢にでもうなされているのだろうか、双葉の口から寝言が漏れたが、百合子の意思に完全に
支配された清彦に届くことはない。ここにこの母子の感情は大きなすれ違いを見せたのであった。
しかし、百合子はもとより清彦も気づかなかった。この1週間が文字通りの分水嶺であったのだ。
入れ替えられ、結果的に身体を支配しながらも百合子の身体と対話し、自分がこれまで培ってきた
技術や知識、経験を提供して学習させ、その高い能力を開花させはじめた、いわば「共生」の道を
選んだ清彦と、快楽と欲望で蹂躙して文字通り完全に屈服させて、彼の積み上げてきたものを利用し、
その環境や生活さえも破壊する「支配」を選んだ百合子。
これらの違いは、清彦は百合子が抱いていた母に対しての感情を受けてもなお自我を貫き、一線を
越えることなく労わろうと思えたことと、清彦の抱いていた感情を利用し、実の母を使って一線を
越えるに至ったことにも表れている。これらのスタンスの違いは、彼らの運命を決定的に分ける
ことになるのだが、それを互いが知るのはまだ先のことである。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「うーむ・・・」
「あ、あの、あかねちゃん・・・?」
今日は珍しく、あかねが放課後に勉強会をしようと誘ってきた。いつもと違うのは、彼女に加えて
他にも友達が2人いることと、図書室じゃなくて教室でやっていることだろう。「たまには色々
喋りながらやりたいじゃーん?」とはあかねの弁だ。そんな彼女は、俺の顔を息がかかる距離で、
それはもう穴が空きそうなくらいしっかりと、ジーッと見つめてくる。親しくなってしばらく
経ったが、それでもやっぱりドキドキしてしまうのは仕方のないことであろう。そのくらいあかねは
美人なのだ。
「よしっ!だいぶニキビ跡きれいになってきたね!」
「あかねから聞いてたけど、噂よりずっときれいじゃん。つか、肌キレイすぎ何それ」
「あたいもその肌分けてほしいっすー!」
どうやらニキビ跡を見ていてくれていたようだ。勉強しているときにあかねが「百合っちって
肌キレイなのにニキビ跡だけ目立ち過ぎじゃね?勿体ない」と気にしてくれたのだ。わざわざ
自分が使っているニキビケア用の薬まで提供してくれた。申し訳なかったから断ろうと思ったが
「むしろ勉強教わってる分の恩返しさせておくれよー!」と泣きつかれてしまったので受け取り、
使わせてもらっている。
「つか、百合ってこんなに面白い子だったのね。私もちゃんと話してみるべきだったわ。
ごめんね今まで」
「ほんっと、あかね姉ぇは人発掘の天才っすわー!あたいとも仲良くしてくださいね先輩!」
ちなみにこの2人は「岩井 早希子」と「清水 亜由未」。早希子はクラスメート、亜由未は
そもそも1学年下だが、幼稚園の頃からの幼馴染にして親友らしい。コミュニケーションお化けの
あかねは清楚系からギャル仲間に至るまでとんでもない量の友達がいるのだが、特にこの3人の
関係は別格だそうだ。三者三様でギャルを貫いており、早希子は肩にかかる程度の黒髪ながら
制服を着崩し、派手じゃない程度のメイクで固めたいわゆる清楚系ギャル、亜由未はきれいな
茶髪をツインテールにして、両耳にイヤリングを付けた妹系といった様相だ。話してみると
これがまた面白い。早希子の言葉じゃないが、人はやっぱり話してみないと分からないというのは
俺も共通の見解だった。この3人の内、早希子は相当に頭がいいのだが、あかねの学力改善に
至ることは出来ずにいた。俺がどうやって教えたのか興味があり、あかねを通じて今日参加したいと
申し出てくれたそうだ。亜由未については面白そうだから、ということらしい。
ちなみに、あかねと友人関係が出来てからの周りの対応も変わり始めていた。まだまだ人数こそ
少ないが、話しかけてくれる人が増えてきた。そんな俺に対しても結構好印象を抱いてくれる子も
増えているそうだ。だからこそ、顔のニキビ跡や、おしゃれのことも気になるようになってきたが、
所詮は男の俺、よくわからない部分がいっぱいあった。
「ところであかね、みんな・・・」
「んー?どしたかね百合っち?」
「ぼ、私がオシャレするとしたら、教えてくれるかな・・・?」
だから、意を決して聞いてみることにした。すると答えは意外なものであった。
「とんでもない!アドバイスはしてあげられるかもだけど、アタシらじゃ無理よ無理!」
「そうだねぇ。たぶん教えても仕方ないし」
「残念ですけどお役に立てそうにないっすー。先輩ごめんなさいっす」
まさかの完全拒否だった。やっぱり百合子の身体は可愛くしてやれないのだろうか。実際、彼女の
身体は俺によく従ってくれている。頭も確実に冴えてきているし、俺が彼女の行動から逸脱しそうに
なれば補正してくれる。だからこそ、どこまでやれるかは分からなかったがきれいに、可愛らしく
してやりたかった。入れ替わってそれなりに経ってしまったが、だからこそ少しばかり、愛着の
ようなものが湧いてきてしまったのだ。あるいは、捨てられた者同士の傷の嘗め合いなのかも
しれないが・・・。
「や、やっぱり私なんかじゃ・・・」
「わわわ百合っち泣かないで!そういう意味じゃないから!」
「そうよ。どちらかというと、「私たちでは師匠として相応しくない」というのが実際のところだから」
「だから残念なんですよー。お力になりたいのはやまやまっすけどね!」
どうやら意味合いが違うらしい。悲しすぎて泣きそうになっていたが、何とか堪える。そして彼女たち
は説明を始めた。
「まず、この白い!白魚のようなきれいすぎる肌!ニキビを治し始めてアタシは確信している!
この素材を生かさないわけにはいかないと!」
「それに、目もキレイだしね。自分で思っている以上に大きいし、よく見たら顔のパーツもバランスも
すっごい整ってるからね?」
「あとねー!この黒い髪の毛!いまはちょっとぼさっとしてるっすけど、正直あんま念を入れて手入れ
してないっすよね!それでこのサラサラは反則っすよ!」
3人がかりで褒めたたえてくれる。そこまで魅力的だったのだろうか。しかし、それを認めてもらえる
ことは嬉しかった。
「ということで、百合っちはずばり「清楚」を地で行くべきだと思うわけよ!」
「それを教えるには、私たちではちょっと方向が違い過ぎてね。内科医じゃ外科の執刀は出来ない
みたいなもんなのよ」
「色々と味付けするにはあまりにもいい物持ちすぎなんすよ!手を入れたら確実に腐っちゃうんです!
いいなぁ。手入れさえしちゃえば間違いなく無敵っすよ先輩!」
「み、みんな・・・」
本当は3人とも教えたいのだが、方向性があまりにも違い過ぎるらしい。しかし、自分の身体の美点と
いうものは意外と分からないものだ。もしかすると、見た目も化けるのかもしれない、それが知れた
だけでも希望だった。
「とりあえずクラスメートだと・・・、和美あたり目指せばいいと思うよ!」
「あー、あれは確かに清楚の一つの答えだよね。性格含めて・・・」
「性格だけは先輩の思った通りでいいと思うっす!」
彼女たちの話から出てきた女の子は「栗原 和美」。ショートボブの鮮やかな黒髪に、可愛らしい
顔立ち、性格もその見た目通り、穏やかで引っ込み思案なクラスメートのことだ。清彦の身体にいる
間にも密かに憧れていたし、彼女のことで妄想をして、抜いてしまったことさえあった。
「何だったらアタシが声掛けとくよ!今度話してみな!」
「うーん、このコミュニケーションお化けよ・・・。百合も思わん?この見た目からどうして和美と
さえ接点があるのかと」
「えー!人類皆いい子だもん!話せばわかるんだもん!」
その能力に救われた俺としても、正直なところ憧れた。幼馴染の早希子でさえ理解できないほどに器が
広いらしい。人の心に深々と入り込んでくるが、それが不思議と心地いい。決して人を馬鹿にせず、
荒らさず、するりと入り込んでくるその能力が羨ましかった。
「まあでも、そのおかげで百合の事知れたと思えば、私も感謝しないといけないんだよね。これからも
よろしくね」
「あたいも是非よろしくしてほしいっす!先輩!」
「うん、こちらこそよろしくね。至らないところだらけだと思うけど・・・」
友達として仲良くしてほしい、その言葉にありのままの返答を返すと、3人は私を真剣なまなざしで
見つめてくる。何か、地雷でも踏んでしまっただろうか。
「はぁーっ!百合っちは分かってない!本当に分かってないよ!」
「うむ、何を勘違いしているのだろうか」
「今日が初めてっすけど、そんな感じっす!」
三人がそれぞれ自分の言葉で、同じことを返してくる。何かいけなかっただろうか。でも、自分の事を
まだよく理解できていない以上、こういう返事にもなってしまう。
「百合っちはね、もっと自分に自信を持ってほしいの!少なくとも、アタシよりずっと勉強できるし、
自分が思っている以上にきれいで、優しい女の子なんだから!」
「それに、至らないところなんて誰もが持ってるの。それをさらけ出してOK出せちゃうのが友達って
ものなんだから、遠慮なく言いなさいな」
この言葉に、少し報われた気がした。少なくとも入れ替わってからというものの、出来ることを
考えて、少しずつよくしてきたとは思っていた。それを認めてくれたのが、本当に嬉しかった。
気づいてくれる人がいることが、本当にありがたかった。
「うん・・・、ありがとう!」
「「「がはっ・・・!いい笑顔っ・・・!」」」
自分が思った心を素直に表現させてみたら、3人とも何かダメージを受けていた。
その後は4人で楽しく勉強会をした。早希子はやっぱり圧倒的にレベルが高く、俺も考え方や
分からないところを勉強させてもらった。彼女がしきりに「そうやって教えるのか・・・。
なるほど」とつぶやいていたのが気になるが、一通り終えた後、彼女たちから感想をもらった
ときに納得が出来た。
「百合ね、やっぱり教えるの上手だわ。何というか、相手の目線に立ってあげてる感じがするん
だよね」
「そーなのよ!何というか、同じところか少し高いところから手を引っ張ってくれるみたいな?」
「あたいも教えてもらえてよかったっす!分かりやすかったっす!」
そういうことか。確かに俺は、彼女たちと同じ目線なのかもしれない。早希子は確かに頭がいいが、
明らかに天才のそれである。恐らく、一を聞いて十を知れるタイプの、要領がよ過ぎて誰もついて
いけないタイプの考え方なのだろう。もし仮に百合子が真っ当な人格を持って生まれていれば、同じ
ようなタイプの人間だったかもしれない。彼女の脳はそれだけのスペックがある、今の俺なら確信を
もって断言できる。しかし、元々の俺、清彦は生憎とそんな性能を持っていなかったし、彼女の脳は
錆びついて、本来の性能を発揮できていなかった。だからこそ、俺はまず自分自身に教えることから
始まっていたのだ。そしてその次はあかねに教えるために、さらに理解を深めるように努力した。
その流れから、いつの間にか相手の目線に立って教えるということが自然とできていたのかもしれない。
あるいは、百合子の身体が俺の意思や教えを汲み取り、そういうことが出来るように進化したのかも
しれない。いずれにせよ、本来であればそういう目線に立てなかったであろう百合子の脳は、俺に
よって生まれ変わっていた。
(これで彼女への復讐も少しはうまくいくかな)
百合子にとって、恐らく諦めた身体が高い能力を持っていたというのは屈辱だろう。その身体を存分に
使いこなして、仮に戻ってきたとすれば使いこなせないようなレベルに、百合子の人格にとって最大限
居心地の悪い環境を作り上げる、自分でも回りくどいと思うが、俺なりの復讐劇は順調に進んでいた。
「うーん、今日も楽しかった!またお願いね師匠!」
「私もぜひまた一緒にやりたいわ。色々と勉強になった」
「お疲れ様っすー!またあいましょー!」
あかね達3人との勉強会を終え、家路を急ぐ。俺が百合子の身体に入って早2週間、通学に耐えうる
だけの体力は付いてきた。最初は行き帰りだけで体力を使い切ってた事を思えば、大した進歩で
あった。
「ただいまー!」
今日も返事はなかったが、実はその機会も減ってきている。起きていればお母さんは返事はして
くれるようになっていたのだ。それがないということは・・・
「やっぱり・・・。あんまり無茶しちゃだめですよ?娘2人いるんだから、少しは自分のことも
大事にしてほしいんだけどなぁ・・・」
リビングに入ると、お母さんはやっぱりぐっすり眠っていた。今日は確か朝から仕事だったはずだ。
この様子だと残業させられたのかもしれない。頑張り屋さんのお母さんに俺は苦笑しながらいつもの
通り毛布を掛け、洗濯物を取り込んでおく。恵理子は今日も部活のはずだから、そこは俺がやって
おくしかない。最初はぎこちなかったが、百合子の身体は1回だけで洗濯物の畳み方などをあっさり
マスターしてくれたので、大した時間も掛からずにその作業は終わる。案外器用な身体である。
「そう言えば、母さん元気にしてるかな・・・」
洗濯物を畳み、タンスにしまいながらふと思い出す。水遊びばかりでロクに面倒も見てくれなかった
母さんだが、それでもたった一人の身内なんだ。心配にもなる。元気にしていればいいが・・・。
今度どうにか探ってみようかな。
「っとと、いけないいけない。作戦会議だ」
望郷のような感情に浸っている暇もない。まだまだ考えることはあるんだ。作業を終えて、俺は
いつもの通り部屋に戻った。
部屋に戻って、ベッドの上で寝転がりながら今後の事を考える。宿題自体は勉強会のときに一緒に
やってしまった。頭のいい早希子もいたおかげであっという間に片付いてしまったこともあり、
今日は与えられた課題はない。好きなように時間を使うことが出来る。
「学力についてはだいぶ形になってきた。勉強する習慣さえ付けられれば、たぶん俺でも届かない
場所まで行けるかもしれない・・・。つくづくもったいないよなぁ」
百合子の頭脳がけた外れの性能を持っていることは、彼女の身体を使って勉強するようになってから
よく理解できた。本来持っていたであろう性能を発揮し始めたことで俺自身も考えが捗るようになって
きた。お母さんの負担を軽減するにはどうすればいいのか、学校での過ごし方やこの身体をどうする
のかでさえ、様々な選択肢を提示してくれる。それこそ、
「元の身体に戻るにはどうすればいいのかでさえ、真剣に考えてくれるんだよな・・・」
百合子が封印し、俺に衝撃を与えた忌まわしき記憶の中で、俺は元の身体に帰れない事は薬の効果と
して明示されてしまっている。彼女が残した記憶は意思を持つかのように、俺に「諦めろ」と訴え
かけてくる。だが、彼女の身体は俺がどうにかして戻ろうと考えると、その記憶や他の手段も何か
ないか、一緒に考えてくれるのだ。
「あぅ・・・、きちゃったか」
下半身が熱い。最初に比べると制御できるようになってきたが、時折彼女の身体が自慰を欲して
信号を送ってくるのだ。週に1回程度だが、俺はその時は諦めて衝動に応じることにしている。
百合子の記憶を頼りに、時たま自分でも探りながら、身体を暴走させないように慎重に愛撫して
欲求を満たしていく。
「あっ、あっ♡きもちいい・・・」
当然百合子のように俺の身体を妄想して自慰などしない。あくまで俺は俺だ。身体が導くままに、
特に考えもせずにその快楽に委ねることにしている。
「あっ、ふぅ・・・。とりあえず、下着だけ変えれば大丈夫かな・・・」
衝動が収まると同時に、軽くイってしまっていた。履いていた下着がぐっしょり濡れているが、幸い
シーツにまでは至っていない。次第に制御する方法が分かってきたこともあり、少なくともお母さんに
迷惑を掛けるようなことはもう起こしていない。
しばらくベッドの上でぐったりとした後、パンツを履き替えて考えに戻る。しかし、何故衝動が突然
起きるのだろうか。少なくとも百合子の記憶ではここまで突然起きることはなかったはずなのだ。
それも基本的に家で、果てても問題のない場所で起きている。真剣に考えていると、ある仮説に至った。
「もしかして、百合子の身体が俺を欲してくれてるのか?」
百合子の肉体は基本的どころか、献身的なまでに俺にすべてをさらけ出し、協力してくれている。
俺の命令を拒否することもなく、その柔軟な脳で様々な選択肢を提示し、記憶や仕草についても
一切隠し立てせず閲覧させ、使わせてくれるからこそ俺は「久保田 百合子」として過ごせている。
だが、俺の中ではやはり他人の身体でしかない。戻るべき肉体があり、取り返したいものがある。
何度心を手折られても、それでも諦めたくはない。身体もその気持ちは汲んでくれているのだろう。
だからこそ選択肢や手段を考えることを拒絶しない。
「だから、出ていってほしくないから自慰をさせるのかもな・・・」
正直なところ、軽くイくだけ襲い掛かるこの感覚は病みつきになっている。俺の身体では体感した
こともないような絶頂感は筆舌に尽くしがたく、元の身体でもここまでの快感は得られないだろう。
そんな女の子の、最も秘密にしたいであろう部分でさえさらけ出してくれているのだ。そうまでして、
俺のことを繋ぎ止めたいのだろうか。今の俺には分からなかったが、身体は少し喜んだ気がした。
「ふう、落ち着いたか。さて、この先どうしようかなぁ」
今の百合子の状況を考え、今後の選択肢を練る。まず勉学については問題ない。勉強する習慣さえ
身に着けてくれれば、恐らくこの身体は俺がたどり着けないところでさえ簡単に届いてしまうだろう。
この2週間で知識の密度も繋がりも段違いになっている。正直な話、問題が解けるのもあまりに
早すぎて俺が戸惑ってしまうこともあるくらいだ。今度のテストが楽しみに思えるほど、彼女の
知識は充実した内容へと至っていた。だからこそ・・・
「次はやっぱり、身体だよなぁ・・・」
寝転がりながら、お腹の贅肉をフルフルと触ってその結論に至る。あかね達に相談した結果、
見た目にもこの身体には光るものがあるらしい。だが、それに至るにはあまりにも太り過ぎていた。
たるんだお腹、脂肪の付いた顔、確かにぽっちゃりでも美人はいるが、今の状態はそれを通り越して
いた。体重計に乗って眩暈さえしたのだ。最初に課題とするべきと理解はしていたが、勉強に夢中に
なりすぎて後回しにしていた。そちらの問題が先が見えてきた以上、身体の問題は次に改善すべき
事項だと確信できる。それに並行してもう一つ進めることにした。
「あとはまあやっぱり、家族との溝を何とか埋めるしかないだろう」
百合子への最大の意趣返し、それはやっぱり家族との良好な関係の構築だろう。冷え切った仲とは言え、
自宅でぎこちないというのは居心地が悪いのだ。それに「清彦」として許せない事でもあった。
(対話できる家族がいるのに話もしないなんて、そんなのダメに決まってる)
俺の母さんは自らの快楽を優先し、気が向いたら帰ってくるような人だ。腰を据えて話す機会さえ
もらえないのとは話が違う。いくらだって恩返しも罪滅ぼしも出来るはず。実際、少しずつ効果は
上がっているのだ。以前は洗濯物さえ畳ませてくれなかったのだから。今度は買い物や、それこそ
今日みたいにお母さんが疲れ果てているときは夜ご飯だって作ってみせようと思っている。百合子
はそんなことを一切したことなどないが、家庭科の調理実習で料理自体はできると試してあったり
する。そこに不安はない。
「あとは・・・、やっぱりきっかけだよなぁ・・・」
料理をしようにも、今の百合子がやるのは危険行為としか取られないだろう。何せ実績がなさすぎる。
そこは機会を伺って申し出ようと思う。そうした行動を積み重ねて、どこかで腹を割って話せば
少しは変わるかもしれない。
あと問題は恵理子だ。この2週間、彼女の事を今までとは違う、一切の色眼鏡抜きで見直してみたが、
あの子は明らかに憎しみだけで動いているのとは違っていた。ご飯が出来たりすればいつも呼びに
来るのは彼女だし、たまに見せる悲しそうな顔、あれは明らかに何か別の感情を抱いている。
こちらもやっぱりきっかけが必要だろう。それを待つか、どこかで作り出すかは様子を見ながらに
するしかない。大体やるべきことを頭でまとめた後で、ふと気が付いてしまう。
「復讐のはずなんだがなぁ・・・。俺なんで、こんな真剣に考えているんだ?」
百合子にとって居心地の悪い環境を作り上げる、あくまでこれは復讐のはずだ。だからこそ真剣に、
彼女にとってダメージの大きいやり方を考えているはずなんだ。なのに、明らかにやっていることが
俺が「久保田百合子」として居心地よく、楽しく生活する地盤の再構築だと今更気が付いた。こんな
具合に、最近時たま分からなくなることがある。
「俺って・・・、誰なんだろう」
俺の名前は清彦。母さんの名前は双葉。男として生まれてきた、どこにでもいる高校2年生・・・。
簡単に思い出せる自分のプロフィール、人間として生まれた以上、揺らがないはずの事実にヒビが
入っていることに驚きを抱く。徐々に作られていく新たな友人関係も、一生懸命に育てた頭脳も
百合子として作ったもの、そして俺は人前、それこそ家の中でさえ百合子として、女の子として
振舞い続けている。その事が俺が誰なのかを分からなくし始めているのかもしれない、もしかすると
俺はこのまま「私」になってしまうのかもしれない、そんな不安が胸を襲う。
「・・・、いかんいかん。とりあえずはまずダイエットから始めよう」
取りあえず一回忘れることにした。自分自身を貫き、仮の身体を完全に作り変える、心を強く持てば
大丈夫、そう言い聞かせて。しかし、そのしこりはやっぱり頭の片隅に残り続ける。俺はいったい、
どうすればいいのだろうか。
(こんな時、あいつに相談できればいいんだがな・・・)
そんな時にふと思い出すのは、俺の自慢の幼馴染のことだった。
その幼馴染の名前は「関原 豊」といい、幼稚園以来の付き合いだ。あいつはとにかくお節介焼きで、俺が悩んで
いると何故かすぐに気が付いてくれた。豊が言うには
(清彦が悩んでるときは何となくわかるんだよな。他の人はさっぱりなんだけど、なんでだろうな?)
とあっけらかんに笑っていた。両親が帰ってこなくて寂しい時は家に招いてくれたり、中学、高校と
進んでからは気晴らしにカラオケや買い物に誘ってくれたりするなど、果たしてこんなに世話を
焼いて疲れないのだろうかと疑問に思ったこともあったが、あいつのお陰で心が安らぐ自分がいた
のは間違いない。そんな豊でも、俺がまさか百合子と身体を入れ替えられたなんておとぎ話のような
出来事を打ち明けても信じてくれるだろうか、いま自分の目の前でいつもの通り振舞っている「清彦」が全く別の人間に支配されているなんて話を、受け入れてくれるだろうか・・・。
「やっぱり・・・、無理だよなぁ・・・」
何度考えても、何度悩んでも同じ結論に至ってしまう。百合子の身体も諦めてはいけないと様々な
選択肢を考え、それをシミュレートしてくれたが、どうやってもバッドエンド一直線しか思い
つかない。それがたまらなく無念だった。
その無念さが脳の片隅に残されたしこりに伝わり、ネガティブな感情を大きくする。奪われたものの
中でも、何とかして取り返したい大切な幼馴染、親友の存在が心に重くのしかかる。
―――あいつのおせっかいが恋しい
―――あいつのぬくもりが欲しい
―――あいつとまた2人でバカやりたい。
「うぅ・・・、会いたい、また遊びたいよ・・・」
そしてその想いは自然と言葉を作り出し、百合子の声で紡ぎださせる。澄んだ鈴の音のように、
思わず聞き惚れてしまう魅惑の声のはずが、今の俺が百合子だと確信させ、さらに追い込んでくる。
柔らかでぶよぶよとした身体つき、俺と比較して冴えわたる頭脳、最初に見いだせた美徳である
きれいな声、どれもこれもが他人の身体であると実感させる。ひび割れた自我に水を注がれて、
自分の中の何かが壊れそうになる。
(ああ、俺ってやっぱり、百合子として生きるしかないのかなぁ・・・)
振り切ろうとして振り切れなかった黒い感情に押しつぶされそうになる。俺が百合子として実績を
重ねていくたびに、俺はどんどん百合子になっていってしまう。吐き出せる相手が欲しい、悩みを
打ち明ける相手が欲しい、俺が「清彦」だと、認めてほしい・・・。
(諦めてんじゃねぇよ!清彦が誰より頑張ってるなんて俺が一番分かってんだよ!)
・・・、忘れるところだった。俺にとって一番うれしかった言葉だ。辛かった時、苦しかった時、
どんな時でも声をかけてくれた幼馴染、俺が全部投げ出しそうになったときに、この言葉で止めて
くれたんだったな・・・。今回もまた助けられた。その言葉を引き金に、また別の言葉が俺を叱咤
激励してくれる。
(百合っちはね、もっと自分に自信を持ってほしいの!)
俺が百合子になって、元々あった壁など関係ないとばかりに声をかけてくれた百合子として初めての
友達、あかね。彼女が認めてくれたものは、決して本来の持ち主が作ったものじゃない、見出して
くれたのは「俺」だ。見つけてくれたのは、育ててくれたのは「清彦」だ。だからその言葉は、
本来の「百合子」が貰った言葉ではなく、あなたに向けられたもの、この身体はまるでそう訴えかけるように、彼女からかけてもらった言葉を思い出させてくれた。
「・・・、分かったよ。俺として、清彦としてやるだけやってみる。ダメだったらまたそん時
考えるよ。ありがとな、豊、あかね・・・」
声に出したことで、自然と身体が奮い立つ。また2本足で立って、前に進めそうだ。清彦としての
心は失わず、百合子であり続けよう。元に戻れるチャンスを逃さないよう、決して諦めずに頑張ろう。
俺はたぶんこの時、本当の意味で前を向けたんだと思った。
* *
「んぅ・・・。朝、か・・・」
アラームの音で目が覚めた。今の時間は朝の5時30分、百合子としては起きたこともないような
早い時間だ。お弁当の準備や、洗濯物の処理、朝の筋トレなんかで起きることもあった俺としては
慣れた感覚だが、身体が付いていかない。血圧も上がらないようだ。
「ねむい・・・、でも、起きないとなっ・・・!」
両頬にパチンと手を当て、まだ夢うつつの身体を無理やり覚醒させる。次第に全身に血が巡り、
少しずつ目が覚めていくのが分かる。これも慣れていくしかないのだろう。そんな彼女の身体を
操り、パジャマを脱いでスポーツブラとジャージを着込んでいく。何かいいトレーニングウェア
でもあればと思ったが持ち合わせていないようで、学校のジャージを着ることにした。サイズが
ぴったりと合うのは、恐らく入学したころにはこの肉付きになっていた証拠だろう。
「まずは歩いてみるか」
まずはダイエットの初歩、ウォーキングから始めていく。まだまだ成長期なこの身体、食事制限は
課さないつもりでいる。というより、お母さんが作ってくれる料理はバランスもよく、残すのが
申し訳ない。だからこそ積極的に動かして脂肪を消費する。
計画では朝はウォーキング、夜は簡単なストレッチを取り入れて身体を慣らしていくつもりでいる。
それらの行動も習慣として身体に植え付け、規則正しい生活を送らせて体質改善を図っていく。
「あとは部活でもやってみようかなぁ・・・。お母さん許してくれるといいけど」
身体が少し整ってきたら部活にも挑んでみようと思っている。人間関係を拡げるうえでも部活は
やはり効果的だ。本来接点のない上級生や下級生とも親しくなれるかもしれない。それに、ずっと
バイトや家事に追われていた俺としても、正直なところ部活はやってみたかった。俺の身体に
戻ったとしたら、恐らく続けるのは難しくなってしまうだろうから、今のうちに楽しみたいという
素直な願望も持っていた。どうせ百合子がほっぽりだしていった身体だから、俺がどう使って
いようが文句はないはずだ。むしろ身体を売りに出したり、家族に手をかけないだけでも優しいと
思ってほしいくらいだ。
「それじゃ、行ってきます」
家を出ようとしたときに上から物音が聞こえた。恐らく恵理子が起きたのだろう。本当は一緒に
やりたいが、陸上部でずっと鍛え上げ続けた彼女に敵うはずもない。邪魔になっては申し訳ない
しね。俺はそのまま外に出ていった。今日は初めてだし、学校もあるから程々な距離で済ませる
つもりでいた。何よりこの身体の体力の底が分かっていない。登下校だけで疲れ果ててた時期も
考えるとかなり貧弱だろうと想像しているが、実際はどうなのだろう。スマートフォンに万歩計と
距離測定アプリを入れて、どの程度でどうなったかを確認することにしながら歩き続けた。
「きっつ・・・。やっぱり体力無いんだなぁ・・・」
歩き始めて30分、早くも息が上がり、肩を上下させて呼吸しなければ間に合わなくなってしまって
いた。やっぱり想定通り、身体の方はかなり弱いようだ。これでは運動など夢のまた夢であろう。
俺は近くのコンビニに立ち寄り、スポーツドリンクを買って呼吸を落ち着ける。途中から違和感を
覚えて引き返すルートに切り替えてあった事もあったおかげで、家までの距離はそう遠くはない。
そんな休憩中の俺の前を、颯爽と見覚えのある影が通過する。
「恵理子か・・・。はっや。あんだけ走って学校にも普通に行けるのか」
ポニーテールに白のジャージ、見間違えるはずもない妹、恵理子がものすごい勢いで通過していった。
百合子にとってはやっとの思いでこれっぽっちしか出来ないこと、いや、普通の女子でもあそこまで
の速さで継続して走ることは出来ないだろう。しかしそれは彼女にとってはあくまでルーチンワーク、日常の一コマでしかないのだろう。それだけの体力を、実力を長年研鑽して身に着けた妹に、俺は
素直に敬意を抱いた。
「負けてられないな・・・。俺もやるだけやらないと」
俺には分かっていた。勉強と一緒で、身体づくりも地道な努力によるものなのだと。才能の有無は
あるだろうが、それでも地道な努力は決して裏切らない。まずはそこで諦めないこと、見切りを
つけない事、体力が欲しいのであれば、ただひたすらに続けるしかないことは、元々の俺の身体で
嫌というほど分かっている。だからこそこの身体にも理解してもらう。しばらく辛い生活になる
だろうが、それでも無理やり付き合ってもらう。
「・・・、不思議と嫌がらないんだよなぁ・・・。何でなんだろう」
そんな意思を持つと、身体は拒絶反応どころかむしろ高揚としてくる。空っぽの体力で危険信号を
伝えてくるが、それでも全身が力を帯びてくるのが何となく伝わってくる。勉強に引き続き、
ダイエットや体力づくりにも前向きでいてくれるようだ。その事がとてもありがたかった。
その意味がどういうものか、この時は理解していなかった。俺はこの身体の隠された才能を、
眠ったまま腐っていくはずだった本来の性能を発揮させてしまうことになるのは、もう少し先の話
である。
* *
「おはよー百合っち~。ってあれ?顔色悪くね?なんか変な物でも食った?」
「いやぁ・・・、朝からちょっとダイエットのために走ってみたらこれなの・・・」
朝のウォーキングの余波で登校してすぐに机に突っ伏していると、登校したあかねから声を
かけられる。実際、体力を割と使い切ってるので結構しんどかったが、声をかけてくれる友達を
無下にするわけにもいかない。後から登校してきた早希子も交えていつもの通り雑談に興じ
始めると、次に現れた人物に目を奪われた。
「おはよっす~」
「清彦!?どうしたその頭!」
そこに現れた俺は、見慣れた俺ではなかった。髪は鮮やかな金色に染まり、左耳にはピアスが
ついていた。俺の身体は着実に百合子の好みに従って、とうとう見た目の部分まで改造され
始めていた。髪を染めたり、ピアスを開けるという行為にかなりの抵抗があった俺は手を
出さなかったが、百合子はその一線を越えてしまったらしい。いったい俺を、清彦という存在を
どうしようというのだろうか。
「おはよう久保田さん」
「あ、うん・・・。おはよう」
そんな彼は俺に声をかけてきた。わざとらしいくらいいつもの俺のまま、その見た目を誇示するかの
ように堂々とした様子からは、ただの自分にしか見えなかった。しかし、その見た目が、否が応でも
目につくピアスが全く別のポリシーによって身体を支配され、改造されていることを象徴していた。
そんな彼女に対して、俺は返事をするのが精いっぱいだった。
「百合っち・・・。顔怖いよ」
「え・・・?ごめん・・・」
「百合と清彦君の間で何かあったの?」
「え?い、いやそんな、何でもないよ。何でも・・・」
あかねと早希子が心配してくれるほど、俺はどうやらひどい顔をしていたらしい。ただ、俺はそれ
以上に戸惑っていた。
―――いま、俺一瞬「どうでもいい」って思ったよな・・・?
帰るべき身体、元に戻りたいはずの自分の姿、その身体がいいように改造されているのにも
かかわらず、心の中で不思議と冷めていた自分がいた。それはほんのわずかで、一瞬でかき消えて
しまうほどのちっぽけな存在だったが、その違和感が妙に頭の中にこびりついていた。
「え、まさか百合っちってきよぴーに気がある系??」
「おや、それは想定外かも」
「えっ!?なっ!!ちょ、そ、そんなことないってぇ!」
そんな俺を見て、あかねがあるはずもない事実でからかってくる。手をバタバタさせて拒否する俺の
様子に、周りの雰囲気も和やかなものへと変化していくのが分かる。どうやらまた俺は、あかねに
救われたらしい。
「うむ、それでよいそれで。やっぱり百合っちは笑うのが一番だよっ」
満面の笑みで告げるあかね、その横でクスクスと笑っている早希子を見ている間に、自然と怒りも
収まってくる。彼女たちと仲良くなれたことは本当に幸運だった。おかげでこうして、自分を
見失わずに済んでいるのだから。それと同時に、冷静に考える余裕が生まれてくる。
(百合子のやつ、昨日何をやったんだ・・・?)
普段の俺は風邪でも引かなければ学校など休んだことがない。そんな俺が学校を休んだどころか、
髪まで染めてきたのだ。しかもあのケロッとした様子、明らかに仮病の類だろう。それに気になる
のがあの表情、何かに決着をつけたようなすっきりとした表情は、彼女の中で何かが決まったような
そんな予感がした。
(やっぱり、あいつと接触してみるしかないか・・・)
俺は俺で今後の方針を練っていく。直接聞いたところでどうせロクでもない話しかしないだろう。
心がへし折れるあの感覚はもうごめんだ。だからこそ、周りから着実に情報を固めていく。
そのためには・・・
―――キーンコーンカーンコーン
っとと、気づけば時間だ。俺は意識を授業へと切り替える。場合によっては今度あかねにも相談
してみよう。真実は明かせなくとも、力になってくれるだろう。
(豊とどこかで腹を割って話してみよう。あいつなら・・・)
あいつなら、この頓狂な話でさえ信じてくれるかもしれない。少なくとも、俺とその周りについては
あいつが一番知っているはずだ。一縷の望みをかけて、その隙を窺うのであった。
* *
「ふあぁ・・・。やっぱり男に割って入るの難しいわ・・・」
そんな俺は自宅で、今日の乏しい戦果に嘆きの声を上げていた。あかねレベルの異能ともいえる
コミュニケーション能力などあるはずもない俺は、結局今日は何も出来ずに一日を終えていた。
違うことと言えば全身を筋肉痛が襲い始めたことくらいだろうか。おかげで授業中も結構気が
散ってしまったが、それでもやっぱり頭に入ってくる情報量は段違いだった。意識が前向きなのも
大きいだろうが、そこはやはり性能差なのだろう。わずかでも重要そうな情報は逃がさずに書き
止め、記憶する、完全に覚醒した彼女の頭脳は授業中においてもはや心配はなさそうであった。
「となると、やっぱり後は身体の方だよなぁ・・・」
そんな俺は洗面所に向かい、身体を体重計に預けてみる。女の子としては男である俺に知られるのは
屈辱もいい所だろうが、ダイエットのために記録は大事である。数字を常に意識することで状況を
把握し、何が必要かを考える。
―と尤もらしく理由をつけてみたが、百合子も同い年の女の子である。また一つ彼女の秘密、
それもかなりデリケートな部分を知ることに、内心ドキドキはしていた。ましてそれを記録に
しようとしている。それは彼女の体重が、身体がどう変化していたのかが目に見えてわかるように
残されていく。ある種の人体実験のようなワクワクさは、必然的に俺を前向きにしていく。
これでも髪を染めたりするよりは甘いと思っているが、そこはどうなのだろう。少なくとも、
彼女の肉体にメスを入れたりはしていないのだが、実際どうなのかは俺も分からなかった。
なお、体重計の数値をみて目玉が飛び出そうになったのは公然の秘密である。何度見てもおぞましい
その数値は俺にダイエットへのモチベーションを強制的に高めさせてくる。確実に痩せないと、
本当の意味で寿命が縮みそうであった。
* *
ウォーキングを始めて3日後、身体を襲う筋肉痛に耐えながらも学校生活を続けていた俺に、とある
契機が訪れた。
きっかけは体育の授業であった。女子の授業はバレーボールだったが、その前にまた「2人組を
作って」の時間がやってきた。どうにかあかねや早希子たちに声をかけようとしたが、彼女たちは
早々にペアを作ってしまったらしい。そんなペアの相手にあぶれ掛けていた俺だったが・・・
「あ、あの・・・。もしよかったら、私とペア組みませんか・・・?」
消え入りそうな声で、恥ずかしそうな顔で声をかけてきた子がいた。かの清楚な美少女、「栗原
和美」である。その清楚で愛らしい顔を赤らめた姿は思わず変な声が出そうになるほどの破壊力を
持っていた。
「う、うん・・・。よろしく」
「こちらこそ・・・」
思わず鼓動が高鳴る。まさかあの和美ちゃんとペアを組む日が来るなんて思わなかった。そんな
出会いが、俺の、正確には百合子の中でかなり思い切った決断をする引き金となるのだが、この時は
まだ分からなかった。
(や、やばい・・・。和美ちゃんが俺に身体を預けてくれている・・・)
この先生は準備運動は2人でペアを組ませて、それぞれの手伝いをさせることが多い。怪我を
させないために入念に行ってもらうのを意識しているそうだ。そんな俺は和美ちゃんのストレッチを
手伝っていた。元々の俺では触れることもなかっただろう彼女の背中を当たり前のように押し、
彼女はそれを受け入れてくれている。そのすべすべで、少しあどけなさを残した可愛らしい
ボディライン、それらが間近で見られてしまうその事実に思わず胸がドキドキしてしまう。
(和美ちゃんの背中あったけぇ・・・!すごいいい匂いするし・・・。やばい。おかしくなりそう)
彼女から漂う甘く爽やかな匂い、背中の体操服越しでも伝わる柔らかな感触、そんな彼女にそもそも
触り、接近したこともないような近さで眺められるという実感のせいで、我を失いそうになるが
何とか自分を保つ。百合子自身は「おどおどした鬱陶しい女」程度にしか考えていなかったようだ。
この人格の歪みっぷりに頭が痛くなってしまう。自分のことは考えないのだろうか。
「久保田さん・・・」
「あっ!ご、ごめん!痛かった!?」
そんな和美ちゃんから思わず声がかかる。押しすぎてしまったのだろうか。しかし、彼女の要求は
正反対の物であった。
「あ、ううん。全然大丈夫。もうちょっと押してもらっていい、かな?」
「え、でも・・・」
「お願い・・・」
その顔は反則だろう・・・。恐らく自覚もなく、本能的にこういう表情が出来てしまうのだろう。
あるいは身体や顔立ちがそういう構造なのかもしれない。早希子が彼女が「清楚の答えの一つ」
と言っていた意味を実感を持って体感する。天然素材とも呼べる彼女の無垢な魅力にクラクラして
しまう。しかし、彼女が望むのならば仕方がない。声をかけながら、彼女の具合を確認しながら
慎重に背中を押すと、何と彼女の胸元は床についてしまった。その事を彼女自身は苦にもして
いないようだ。
「ありがとう。やっぱりここまでしておかないと調子でなくて・・・」
「栗原さん・・・、身体すごい柔らかいんだね」
「小さい頃から体操やってるの。ごめんね。付き合わせちゃって・・・」
確か和美ちゃんは体操部だった。その片鱗をまざまざと見せつけられ、むしろ感心してしまう。
その見た目に反し、彼女は比較的運動のほうが得意だったはずだ。その見た目と、まさに外見に
違わぬ控えめな性格、それに反して高い運動能力、彼女の魅力をたっぷりと楽しめて、すでに
お腹いっぱいであった。そんな俺に、今度は和美ちゃんから声がかかる。
「じゃあ、今度は交代・・・」
すっかり忘れていたが、そう言えば俺の準備運動がまだだった。ここ数日、夜はストレッチに
取り組んできたこともあり、何をすればいいのかは分かっていたし、身体も慣れ始めていた。
ウォーキングの影響を受けた筋肉痛が延ばされていく感覚が実に気持ちよく、快感なのだ。
サポートしてくれる和美ちゃんも手慣れたもので、初めての相方のはずなのだが的確に、
上手に導いてくれる。普段一人でやるより何倍も効率がよかった。
「あ、あの・・・」
「え?どうしたの?」
「久保田さんって、何か運動とかってやってるの・・・?」
「いや、まったくやってないよ?」
和美ちゃんの問いかけに、百合子の記憶の中を検索するがそんな情報はない。幼いころに少し
習い事をしていたことはあったようだが、結局辞めてしまっている。だからこそこんな苦労を
しているのだが、それで彼女を責めるのは酷だろう。ある意味本人以上にこの身体の全てが
分かってしまうからこそ答えられたのでもあるのだから。
「すごい・・・。それでここまで」
「何かあったかな?」
「あ、あの・・・、久保田さん。もしよかったら「全員集合-!バレーを始めるぞー!」」
先生の声にかき消され、和美ちゃんの問いかけが途中でかき消されてしまう。彼女は何を聞きた
かったのかは分からずじまいであった。俺にとってもあの和美ちゃんと話し、彼女の手伝いを
する形でその可愛らしい彼女に触れることさえできた。その満足感からすっかり質問について
抜け落ちてしまっていた。そんな和美ちゃんは俺に熱い視線を向けていたのだが、この時の俺は
気づいていなかった。
そのままバレーボールの授業に入る。試合形式で行われたその授業では、みんなが和気あいあいと
楽しむ中、俺は付いていくので精一杯であった。まず、やっぱり身体が動かない。長年怠惰な生活を
し、体育も適当な理由をつけて見学したり、サボったりしていた百合子の肉体は全然動いてくれない。
体力もまだ身についていないし、何より鈍重だ。ボールを拾うのも満足にできないし、サーブは
ネットに引っかかってしまう。元々の自分の身体ではある程度の対応は出来ただけに、それがとても
歯痒かった。それにまして大変だったことが・・・
(本当に視線のやり場に困るなぁ・・・)
バレーと言えばジャンプを多用するスポーツだ。その結果どうしても・・・、胸元を意識してしまう
のだ。大小あれど女性に備わっているその豊かな部分が揺れる様が見えてしまう。クラスメートの
中にはその部分が発達した子(特にあかねとかあかねとかあかねとか)もいる。そのたわわ部分の
揺れは正直に言って刺激が強すぎた。百合子本来の意識や思考を使えばかき消すことも可能かも
しれないが、その分黒い感情が頭を回り、不快な思いに支配されてしまう予感がした。色々限界は
あるとはいえ、協力的かつ前向きなこの身体に、今更本人の意識を持ち出して汚すような真似を
したくもない。仮初のパートナーかもしれないが、そういう意味では大事にしてあげたいとも思って
いるし、自分なりに丁寧に扱っているつもりだ。当然、彼女の意識を使って欲求を抑えるという
選択肢は排除される。となれば必然的に矢面に立つのは男である俺「清彦」としての意識となり、
その感情が百合子の身体を興奮させてしまう。男としての下半身がないので、行き場に困った
性的欲求は身体の呼吸や思考をかき乱してくる。それが本当に大変だった。ただ、身体を動かす
うちに気づいたこともあった。
(実は百合子の身体、運動のセンス自体はあるのかもしれないな)
必死に食い下がる形で授業に臨んでいた時に、俺は不思議な感覚に襲われていた。勉強をしている
うちに色々なことが分かってきた感覚と同様、ボールの打ち方や相手がどこを狙ってくるのか、
そう言ったことが何となく「分かる」のだ。分かっていても身体が付いてこないので何もできないし、
身体が付いてこないので結果に影響はなかったが、それでも相手が打ったスパイクの着弾点に反応
だけでもできたのは俺だけ、ということも実はそれなりにあった。その感覚は、自分の身体で同じ
ようにバレーをやっているときにはない、新鮮なものだった。
(まさかとは思うけど、鍛えれば運動もできるのかな・・・?)
もしかすると頭脳と同様、肉体についてもとんでもない物が隠されているのかもしれない。可能性と
しては未知数だが、少なくとも本来の俺より高いセンスは持ち合わせていそうな感覚はあった。
やってみる価値はある。そう考えると、日々のダイエットにも気合が入り、さらに前向きに取り組め
そうだった。身体も何か嬉しそうに高揚してくれる。まるで宝物を探すような、ただ単にその先を
見てみたいという子供じみた冒険心は、俺を更なるダイエットへと駆り立てるきっかけとなるの
だった。
* *
「どうだい百合っち!和ちゃんと少しは仲良くなれた?」
「おかげ様でね。いや、全く気付かなかった」
昼休みに昼食を一緒に食べた後に開かれた勉強会で、あかねは俺にカミングアウトしてきた。
以前に約束した和美ちゃんと話す機会をどうにか設けようとあれこれ考えた結果、今回の作戦を
思いついたらしい。どちらかというと人付き合いは控えめな和美ちゃんに対しては、事前に俺の事を
それとなく説明して好印象を抱いてもらい、彼女の友達や早希子とも口裏を合わせて和美ちゃんと
俺がペアを組めるように上手く誘導してくれたようだ。
「いやー、しかし和ちゃん可愛かったなぁ・・・。たぶん和ちゃんなりに結構頑張ったと思うよ?」
どうやら和美ちゃんから声をかけに行ったのはあかねとしても想定外だったらしい。勇気を振り絞って
こんな自分に声をかけてくれた彼女、そしてそんな状況を作り出してくれたあかねや友人たちには感謝
しかない。俺としても憧れた和美ちゃんと話せる機会を持てたこと、何より自分と接しようと努めて
くれたことが嬉しかった。俺も少しずつ変われてきているのだろうか。
「ははぁん、百合っちだらしない顔してるよぉ?そんなに嬉しかったかな?」
ちょっぴり意地悪な顔で指摘するあかね。友達付き合いを始めてそれなりに経ったが、彼女の笑顔や
所作が大好きになっていた。そんな自慢の友人に、俺も思わずサプライズを仕掛けたくなった。
――それっ!
「いつもありがとう・・・。あかねちゃん」
「ふわぁぁ!いきなり抱き着くのは反則だよ百合っちぃ!」
思い切って抱きついてみた。元の身体じゃ難しいだろうけど、百合子の、まして心を許してくれている
友達なら許してもらえるだろうと思ってやってみたのだが、慌てたあかねの反応がすごくかわいい。
髪から漂うちょっぴりきつめな香水の匂い、暖かで柔らかい身体、そんな彼女がとても愛しく可愛らしい。
百合に目覚めるわけではなかったが、それでも彼女には感謝してもしきれない。いきなり抱きしめられた
彼女は慌てていたが次第に落ち着き、そしてこんなことを言ってきた。
「百合っちさ・・・、何か分からないけど本当に変わったよね」
「え?そ、そうかな・・・」
「うん、何というかさ、あの時声かけたじゃん?あの時の百合っち、本当に壊れちゃいそうなひどい顔
してたんだよ?」
「びっくりしたんだからね。最初に声をかけた時は何というか、鬱陶しそうな感じで追い払われちゃった
ようなそんな子がさ、まるで迷子になった子供みたいに泣きそうで、辛そうな顔してたんだから」
恐らく入れ替えられてすぐの時の俺だろう。そしてその前のは本来の百合子がやってしまった、この身体が
背負っている罪だ。彼女の記憶の中にもその様子が鮮明に残されている。
「ごめんね・・・。あの時の私、きっとどうかしてたんだと思う」
「いいよ。どんな人にだって、背負ってるものや言えないことだってあるのは分かってるから」
本来は俺が謝ることでもないんだろうけど、それでも自然と謝っていた。そうしたかったから。本当は別の
人間が身体に入り込み、全くの別人になり果てている、そんな真実は言えなくても、それでも真摯に接して
くれる友達には正直でいたかった。この身体にも、少なくとも俺のものでいてくれる間だけでもそんな罪を
背負わせたくなかった。そんな俺の謝罪を、彼女はあっさりと受け入れてくれた。
「そんな子と仲良くなれて、勉強も教えてもらうようになってから、どんどん明るくなっていく百合子を
見てるのが本当に嬉しくて楽しいんだ。だからアタシもお節介焼いちゃってるんだけど、迷惑じゃない・・・、
よね?」
「迷惑なわけ・・・、ないよ。私が知らなかった世界をいつも見せてくれてむしろこっちがお礼言いたいよ」
「よかったぁ・・・!」
彼女なりに接し方を工夫してくれているんだろう。本来はこんなに歪んでいた百合子なのだ。どうしても慎重に、
気にしながらになってしまうのだろう。普段の彼女からはそんな様子は全く見えなかったが、それでも不安を
抱かせてしまっていたことが悔しかった。
「だからさ、百合っちも辛くなったらいつでも言ってくれていいからね?アタシで力になれるんだったらいくら
でも手を貸すし、アタシだけじゃない。早希子だって亜由未だって、百合っちのこと大好きなんだから」
「本当・・・?」
「うん!早希子も亜由未も、あんなにリラックスした表情って滅多に見せないんだよ?」
心にあった重しがなくなり、いつも以上に明るく、輝いた彼女はその顔に笑みを残しながらも真剣に、真っすぐに
俺の方を見つめてくる。俺の両頬にその柔らかですべすべした手を当てて、真っすぐに伝えてきた。
「大丈夫だよ。百合っちは一人なんかじゃない。怖いことがあっても、嫌なことがあってもアタシたちは味方で
いるから・・・。ね?」
まるで年下の子をあやすように優しい表情で告げるあかね。いったい彼女のどこに、こんな性質が隠れているの
だろう。どうやったらこんなにも立派に育つのだろう。どうして彼女は、俺が欲しいと思った言葉を、いつも
伝えてくれるのだろうか。
「本当に・・・、ありがとう。あかねちゃんが友達で、本当に嬉しいよ」
「へへっ。朝こっわい顔してたからさ、ちょっと心配だったの。その様子じゃ、一応大丈夫かな?」
どうやら朝の事を気にしてくれていたらしい。どこまでも友達思いの彼女の心に、俺の心の中の靄が晴れていく。
そうだ、俺は一人じゃないんだ・・・!
「うん。おかげですっきりしたよ」
「よしよし、あ。そうだ。アタシからも一つお願いがあるんだった」
コロコロと表情を変え、少し頬を膨らませたあかねは俺に一つのお願いをしてきた。
「アタシのこと、呼び捨てでいいからね?遠慮なんかいらないからさっ!」
「うん・・・。分かった。いつもありがとう。あかね・・・」
そんな俺の様子にあかねは「よしっ!」と満面の笑みを浮かべてくれた。彼女との関係はこの百合子の身体で、
この姿で作ったものだ。彼女との間柄は、俺が元に戻れば無くなってしまうのだろう。それでも、ずっと大切に
したい。ずっと友達でいたい。俺は改めて、友達との関係を大切に思うことが出来た。
彼女の言葉を受け入れた瞬間、頭の中の記憶が蠢くのを感じる。本来の百合子が抱いていた思い、嫌悪感、
嫉妬・・・、あかねに対しての感情によって歪められていた百合子の記憶から彼女の想いが切り離され、
あくまで「百合子はこう思っていた」という知識として脳に格納されていく。今まで借りものだった彼女の
記憶、そのあかねに対しての部分が正真正銘俺の物として最適化され、姿を変えていく。同時に、身体が少し
軽くなった気がした。物理的に痩せたわけではないが、それでも手から足の先までの感覚が鋭くなり、まるで
鉛をつけていたかのような息苦しさが少し消えていた。
(もしかすると、少しずつ百合子になっているのかな・・・)
自分の名前は清彦、そこは譲るつもりは全くなかったが、対照的に百合子の肉体は少しずつ、しかし確実に
俺に居心地のいい環境を作ろうとしてくれている。俺の習慣やポリシー、人との接し方、本来の百合子とは
全く異なったそれらを押し付けに近い形で行わせているのにも関わらず、従わないどころか積極的に受け入れ、
彼女の身体に眠っていた非凡な才能を開花させてくれている。時には百合子本来の思いを捨て去ってまで、
俺に付き合おうとしてくれている。だからこそ、怖さこそあったが「百合子になる」ことに対して、不思議と
嫌な思いは抱かなかった。自分でも、不思議な気分だった。
* *
あかねのお陰で午後は気分良く過ごすことが出来た。自分の身体が別物へ変貌を遂げようとしているのはすごく
気になったが、それでも彼女がもたらしてくれたものはそれを吹き飛ばしかねないほど幸せで、心地のいい
気分へと変えてくれていた。
そんな気分のまま放課後を迎え、いつもの通り帰ろうとした時のことだった。
「あの・・・、久保田さん」
「ん?どうしたの栗原さん」
頬を赤らめた和美ちゃんが声をかけてきた。相変わらず可愛い・・・。制服を纏う姿もまた清楚の塊と言わん
ばかりの美少女が、体育の時と同じように顔を赤らめて、恥ずかしそうな顔をして俺の服の袖をつかんでいる。
少し視線までそらしたその表情、その仕草、こんな事やられたら大抵の男は即落ちるだろう。
「よ、よかったら少しお話しない・・・?時間ある・・・、かな?」
「う、うん。大丈夫だよ」
特にバイトも部活もなければ、塾通いというわけでもない。放課後はそれこそビックリするくらいなまでに
自由な時間があった。断る理由もない。和美ちゃんが何か話したがっているみたいだし、それにも興味があった。
和美ちゃんが話をし始めたその時だった。
「やあ久保田さん。時間はあるかな?」
髪を金に染めた「俺」が話しかけてきた。
「な、私に何の用?」
「いやぁ、色々と『気になる』かと思ってさ。だから俺が説明しようかなと」
髪を染め、ピアスをつけている以外はいつもの「俺」だった。心なしか自信を持った声色だが基本的には俺
そのものと言っても過言ではない。ただ、その雰囲気がいつもと異なっていた。何というか、女を見る目が怖い。
何かに飢えているような、何かを欲しているような、そんな目をしていた。
「ひぅ・・・」
「ああ、栗原さんもいるのか。いつの間に仲良くなったのやら。で、どうする?」
「どうするって・・・」
思わず俺は、俺の目線に怯える和美ちゃんの手を取っていた。
「いこっ。栗原さん。何か話があるんだよね?」
「え、でも・・・」
呆気にとられる俺、そしてその事に遠慮がちな視線を送る和美ちゃん。だが話は気になるといえば気になるが、
それでも先に声をかけてきたのは和美ちゃんだ。それを聞くのが筋ってものだろう。それに・・・
「いいからっ!」
「え、えぇぇぇ・・・?」
「あっ、おい!」
そのまま手を取り、当てもなく和美ちゃんと別の場所へと向かう。俺の呼ぶ声が聞こえたが耳を塞ぐように
場所を離れた。それはほぼ本能とでもいうべきものだった。あるいは、『女の勘』とでも呼ぶべきものなのかも
しれない。
――何か致命的な事を、言われそうな気がしたんだ。
和美ちゃんの手を引っ張ってたどり着いたのは、俺がいつも昼休みに寝床にしていた、体育館のそばにある
スペースだった。どうやら本能的にここにたどり着いてしまったらしい。
「あ、ごめんね栗原さん。いきなりビックリさせちゃったよね・・・?手、痛かったよね・・・。ごめん」
「う、うん。それはいいよ。手も大丈夫。でも・・・、よかったの・・・?」
和美ちゃんはどうやら俺が「俺」の声かけを無視したことを気にしているようだった。その華奢で小さな手を
力いっぱい掴んでしまったことも気にせず、他人の事を気にかけてくれる、やっぱり優しい子のようだ。
「それは大丈夫。それより用って何かな?」
「うん・・・。あの・・・、あのね?久保田さんって部活は何かやってる?」
「ううん。何もやってないよ」
当然のことながら、部活には入っていない。念のため記憶を漁ったが、やっぱりそう言った経験は皆無であった。
「じゃ、じゃあ運動とかの経験ってある・・・?」
「それもないかなぁ・・・。最近ウォーキングするようになったけど、筋肉痛がひどいくらいだよ」
おどけた調子で微笑みかけてみる。何だかんだ、百合子がしたこともない表情をさせてみるのは結構好きだった。
あかねが異様にダメージを受けることも多いのだが、何でなんだろう?
「す、すごい・・・。それなのにあんなに・・・」
そんな和美ちゃんは驚いた様子で一人ぶつぶつと呟きながら、何かを考えているようだった。
「あ、あの・・・?どうかした?」
何かを考えこんでいた和美ちゃんに声をかけると、意を決したような真剣な表情で俺に向き合い、こう伝えてきた。
「久保田さん・・・。体操、やってみませんか・・・?」
「えっ・・・?」
その可愛らしい声で繰り出された提案は、まさかの物であった。
「えっ・・・、その、本気なの・・・?」
驚いた俺は思わず聞き返したが、和美ちゃんの真剣なまなざしは崩れず、ただ1回頷くのみで返事を表してきた。
「久保田さん・・・。ちょっと立ったまま手の平を地面につけてもらえないかな?」
「うん。分かった」
そのままの体制で前屈する。筋肉が伸びる心地よさこそあったけど、痛みもなくあっさりとくっ付けることが
出来た。お腹の肉が邪魔だったが、それも大したハンデにはならなかった。
「久保田さん。これって身体が固い人がやると、すっごく痛いんだよ?」
「あ、そう言えば・・・」
元々の俺の身体はかなり固かった。前屈やストレッチでもだいぶ苦労した覚えがあったが、言われてみると
不思議なことに、大した痛みも感じずに当たり前にこなすことが出来ていた。そう言えば日々のストレッチでは
筋肉痛の痛みがあったから、それが身体の痛みと勘違いしていたんだ。
「体育の時、一緒にストレッチしたよね?人の身体って、あんなに簡単に曲がるように出来ていないの」
それから和美ちゃんはその辺の理屈を教えてくれた。ただの前屈や柔軟であっても脳から出される信号が正しく
出ているかどうかで効果が違ったりするらしい。小さなころから体操を続けてきた和美ちゃんも、その辺はかなり
苦労したそうだ。
「たぶん久保田さんは、自分でも分からないうちにそういう適切な信号が出せる身体になってるんだと
思うの・・・。これ、一種の才能だと思う」
「え、でも・・・」
「すぐに答えが欲しいとは言えません。私も突然話しかけちゃったことは分かってるつもり。でも・・・」
言葉を切った和美ちゃんは、その清楚な顔立ちに意思を込めて、改めて伝えてきた。
「せっかく凄いものを持っているんです。思いっきり、使ってみませんか?」
俺の頭の中は軽くパニックになっていた。自分でも気が付いていなかった百合子の才能、それをまさかあの
憧れた和美ちゃんが見出してくれたのだ。頭脳だけでなく、運動も生まれ持った何かを持っていたのだろうか、
その多彩さに軽く嫉妬してしまう。でも・・・
(せっかくだから、思いっきり動かしてみるのも悪くないのかもしれないな)
俺はその提案を、前向きに受け止めていた。いつまでこの身体の中にいるのかは分からなかったが、だからこそ
思いっきり、それこそ大胆なくらいまでやってみるのも悪くはないと思った。密かに憧れていた部活動、それに
参加してみるのも悪くはない、むしろ、ぜひやってみたかった。
「ありがとう・・・。本当に嬉しいよ。でも、少しだけ時間をもらってもいい?」
「大丈夫。本当に気が向いたらで構わないから。でも・・・」
そんな和美ちゃんは、その顔に凄い可愛らしい笑顔を浮かべていた。
「前向きってことで、いいんだよね?」
・・・、これじゃ断れないな。心の中で俺はそう思っていた。だからこそ、とうとうその時が来たのかもしれない。
(お母さん、許してくれるかな・・・)
最悪ともいえる娘のわがまま、これをお母さんが認めてくれるかどうかが、最大の問題であった。
* *
「栗原さん。部活の件なんだけど、次のテストの結果が良ければやってもいいって」
「わぁ・・・!本当に!?」
次の日、俺は和美ちゃんに入部できそうな話を伝えることが出来た。彼女の緊張した顔がほぐれていく様は
今でも忘れられないくらい可愛らしかった。昨日、和美ちゃんに誘われたあと家に帰ってすぐにお母さんと
話すと、最初は驚いた顔をしていたけど、意外とあっさりと認めてもらうことが出来た。ただし、
『次のテストでいい結果が取れたらね』
という条件が付いた。百合子といえば成績は大体学年でも最下位か、それに近い底辺を水平飛行しているような
女だった。勉強については恵理子も苦手なほうと記憶にはあるが、それでも彼女なりに努力して学年の真ん中
からちょっと上くらいをキープしているらしい。俺に課せられるのも当然の条件だろう。ただ、どことなく
嬉しそうだったお母さんの顔が忘れられない。一応百合子のことではあるが、意思自体は俺自身が真剣に話した
つもりではいる。それが伝わったのだと信じたい。
「まあそんな感じだから、またテストの後にね」
「楽しみにしてるね!テスト、頑張って!」
胸の前で両の手を握りこぶしにして応援してくれる和美ちゃん。その破壊力は、登校早々倒れそうになるほどに
凄まじいものであった。
「というわけで、部活やってみようかと・・・」
「へぇ!まさかあの和ちゃんがそんな積極的に来るとはねぇ!」
その日の昼休み、いつもの通りあかねに誘われて勉強会を始めていた。今日は早希子と亜由未も一緒だ。最近は
妙に昼休みに誘ってくることが多くなった気がするが、何かあったのだろうか?あかね曰く「みんなでお昼ご飯
食べながらのんびりやるのがいいじゃん?」って事らしい。まあ、その意見には同意するところではあるが・・・。
「しかし、テストの結果かぁ。私は違う意味で今度のテスト、楽しみだけどね?」
「あれ?早希子も何かあるの?」
「目の前にライバルがいるからさ」
そんな早希子は、俺を見てそんなことを言ってくる。
「ええ・・・?いや、私は」
「謙遜しなくていいよ。今の百合だったらたぶんすごい上の方まで来れると思うから。そうだ。負けたほうが
今度昼飯奢るとかでどう?1科目でも私が負けたら百合の勝ちでいいからさ」
早希子は学年でも上位クラスの才女だ。はっきり言って勝ち目はない戦いだが、妙に心がざわつく。俺自身、
百合子がどこまで伸びたのか試してみたかったのはあった。日々勉強に励み、今となっては授業が楽しいと
感じさえする。そんな俺に、早希子は目標を提示してくれたみたいだ。
「分かったよ。後悔しても知らないからね」
「その意気よ百合。今のあなたに必要なのはそう言った闘争心よ。私自身、そういう親しいライバルって
初めてなの。本当に嬉しいわ・・・!」
ギャルながら気だるげで知的な雰囲気を併せ持つ早希子が見せる表情はいつになく妖艶で、そしていつになく
無邪気なものであった。
「百合っちと早希が燃えてるところ悪いんだけど・・・、アタシの勉強は助けておくれよぉ」
「あたいのもお願いしまっす!もう先輩たちなしではあたい達はおしまいです!」
・・・いかんいかん。自分を高めるだけじゃダメだった。悲痛な顔をしている2人のことを見て、本来の目的を
思い出す。何せあかねはそれなりに悲惨な成績なのだ。彼女の面倒を見ることも大事なこと、そしてそれは
結果的に百合子の学力向上にもつながる・・・
(ってもっともらしく考えてみたけど、あかねを見捨てられないっていうほうが大きいよな)
自分の心の中ですっかり大きな存在となった彼女を見て思わず笑みがこぼれる。そんな彼女もまた、笑みで
返してくれる。親しい友であると同時に憧れを抱く彼女たちとの時間が続くことを俺は、いつしか祈っていた。
昼休みも半ばくらいで大体教えることに満足したあかねは少し早めに勉強会を切り上げ、あかねは早希子と
話があるみたいで図書室に残っていた。何やら「ちょっとデリケートなは・な・し」らしい。それで自分の
胸を揉むのはいかがなものかと・・・、うらやまけしからん。鼻血出るかと思った。
そんな俺は亜由未ちゃんと二人で歩いていた。小柄な彼女はまさに清涼剤のように無邪気で明るい存在だ。
いつもニコニコと笑みを崩さず、こんな俺にも無邪気に話しかけてくれる。恵理子ともこんな関係を築ければ
いいのだが。
「そう言えば先輩って、恵理子ちゃんのお姉ちゃんなんですよね!」
まるで心を読んだかのように亜由未ちゃんが恵理子について話を振ってきた。
「そうなの。全然似てないでしょう?しっかりしてるし、美人だし・・・」
「いやいや、結構似てるっすよー!特に笑顔とかそっくりっす!」
苦笑する私にも無邪気に返してくれるが、本当にそうだろうか。俺がこの身体で語ると身内贔屓になって
しまうが、それでも恵理子は美人の部類と言えるだろう。百合子と違って陸上で鍛え上げられた引き締まった
身体に、百合子同様艶やかな黒髪、どちらかと言うと強気な意思が顔に出たかのように、ハッキリとした顔つき
だがその中に残るあどけなさのお陰で、かなり可愛らしいと評判だ。
その事に百合子はかなり嫉妬していたようで、思い出すと俺も黒い感情に巻き込まれそうになってしまう。
本当なら彼女にも歩み寄りたいのだが、その感情のせいでどうしても及び腰になってしまう。間違いなく百合子が
一番迷惑をかけている存在の一人であることは容易に想像がつく以上何とかしたいのだが、それが辛い。
「最近なんすけどね、恵理子ちゃん、よく笑うようになったんすよ!」
「え、そうなの・・・?」
丁寧に染められた茶色の髪によく似合うツインテールを揺らし、その顔に似合う白い歯を見せながらニコリと
笑う亜由未ちゃんも相当可愛らしい。彼女も両耳に大きなイヤリングをつけているが、全体のバランスも考えて
しっかりと整えてあるからだろう。露骨におかしい「俺」とは違ってそれが文字通りのアクセサリとして機能し、
彼女の魅力を大きく伸ばしている。
「そうっすねぇ。あたいが先輩と仲良くなってちょっとしてからくらいからっすかねぇ。あたい自身はそこまで
よく話すほうでもないっすけど、雰囲気が丸くなったというか、胸のつかえが取れたというか・・・、なんか
そんな感じっす!すみません。分かりづらかったっすよね!」
「いや、ありがとう・・・。すごく参考になった」
その後も色々話を聞くと、どうやら亜由未ちゃんは恵理子と同じクラスだそうだ。最初はどうにも近づきづらい
オーラを前面に出し続けてたみたいなんだが、ある時を境に少しだが和らいできているらしい。おかげで何人か
親しくなってきているんだとか。
「そうですか・・・。恵理子ちゃんとはまだ・・・」
「うん・・・。何とかしたいんだけどね・・・。本当にごめんね。変なこと言っちゃって」
「大丈夫っす!あたいでよければ力になるっすから!それに、恵理子ちゃんの雰囲気が和らいだのも、きっと
先輩が頑張るようになったからっす!間違いないっすよ!」
俺にとっても奇跡的な偶然だった。家族として恵理子に近い位置にいられないもどかしさはあるが、もしかすると
家と比べても鎧をまとっていない恵理子の姿を伝えてくれる子が友達になってくれていたのだ。
「厚かましいお願いだと思うんだけどさ、これからも恵理子の事、教えてくれるかな」
「お任せあれっす!ゆくゆくはあたいも友達になってみせるっすよぉ!」
嫌な顔一つせずに快く引き受けてくれる亜由未ちゃんを見て、不思議と気持ちが和らいでいく。本当に一人
じゃないんだと、心の中の何かが温まるのを感じる。少しずつ、一歩ずつだが確実に変わっていく生活を俺は
喜んで・・・
――あれ?俺なんで、「自分の事」のように喜んでいるんだろう・・・
――――――――――――――――――――――――――――――――
百合子を亜由未に任せて、あかねと早希子の2人になった彼女たちは真剣な表情で会話をしていた。
「で、昼休みに勉強会しようとするのはやっぱり清彦君のこと?」
「うん・・・。なーんかわかんないんだけど、あの2人なんかあったような気がするんだよね・・・」
清彦が髪を染め、その雰囲気を変えた様子を思い出し、あかねは懸念を口にする。あかねや早希子にとっての
清彦といえば、大人しく心優しいというのが印象であった。決して特徴的ではないが、所作の一つ一つから
優しさと穏やかさが伝わってくる、そんな暖かな雰囲気を持ったどこにでもいる感じの男の子が、ある日を境に
変わってしまっていた。
「何だろうね。清彦君であることは間違いないと思うんだけど」
「そう、きよぴーであるはずなんだけどねぇ・・・。何というか、怖いんよ」
「何か分かるかも。ロボットみたいな感じって言えばいいのかな・・・」
「そうそう。きよぴーらし過ぎてむしろ何考えてんのか分からない感じがするんよ」
彼女たちにとって、表面上は全く変わっていないはずの清彦の行為が何か違う気がしていた。例えるなら説明書を
読みながら行動しているような、「清彦」という枠から逸脱することのないように仮面を被っているような、
そんな漠然とした違和感を抱いていたのだ。
「それを言ったら百合もだいぶ変わったけどね」
「そうねー。こっちはいい意味で変わってたって感じだけどね。友達にこんなこと言うのもあれだけど、すごい
いい子じゃん?自信なさ過ぎなのがちょっと勿体ないけんどもね。百合っちはむしろ、何考えてるのか分かる
ようになったね」
そんな2人の会話はほぼ同時期に雰囲気を変えた百合子の話へと遷移していた。不気味ささえ抱いていたクラスの
陰キャ女子もまた、ある時期を境に雰囲気を変えた。最初は迷子になったかのように誰かに救いの手を求めていた
その子を見逃せず、あかねが手を差し伸べてからというものの、彼女たちはその評価を見直していた。慣れて
くれば穏やかで気遣いに溢れ、一つ一つの所作からも優しさが見えるようになっていた。と同時に、心の中に
何か重い闇のような、秘密を抱えていそうなこともまた伝わってきた。
「さすがに女の子抱いて好きなだけ泣かせたのはアタシも初めてだったわ。多少は吐き出せたみたいだから
よかったけどねぇ」
「相変わらずあんたの包容力は凄いよねぇ。ほれ、私も抱いておくれよ」
「別に早希は困ってないでしょうがぁ!」
呆れたように茶化す早希子とそれに応じるあかね。亜由未を含め、昔からの親友である彼女たちの信頼関係は
揺らぐことがない。だからこそ、こうして深い話をすることもよくあるのだ。
「そんな百合っちが、きよぴーを見ると何か怖い顔するんだよねぇ。何となくだけど、2人きりにすると大変な
ことになりそうな気がして・・・」
「あー、だから徹底的にガードしてるんだ。納得。でも分かる気がするわ」
あかねは詳細な事情を知っているわけではない。まさかその2人の身体の中身がそれぞれ入れ替わっているなど
想像もつかないだろう。だが、彼女の鋭敏な感覚は漠然とだが、その危険性を捉えていた。だからこそ、あかねは
先に手を打つことにした。声をかけたそうな素振りを見せていた清彦を確認して、敢えて百合子を誘うことで別の
場所に移動して、接触させないように動き回るようになっていた。
「そうなの、だからさ・・・」
「了解。私も極力百合のこと守るようにするよ。せっかく明るくなって、色々話せるようになれた友達が傷つく
のは見たくないしね」
「ありがとぉ!アタシもきよぴーの友達とかにそれとなく話してみるからさ!きよぴーと仲良くしてもらうように
すれば動けないと思うんよ!」
この2人、正確には亜由未も交えた3人の行動が発端で清彦は自分の身が守られていることを知るのは当面先の
事である。だが、友達たちにより清彦は自分の身の破滅から難を逃れることが出来た。そしてそれは、同時に
百合子によって奪われた「清彦」という存在を堕落へと進めていくことにもなってしまったのだが、その事を知る
ことになるのは、ずっと先の当人だけであった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
テストまでの2週間、俺はとにかく一心不乱に勉強していた。憧れていた部活、そして早希子との勝負、目標を
得たことでそこに目指そうという気持ちが自然と湧いてきたこともあってか、普段と比べてさらに集中した勉強が
出来た。その目標に応えるかのように、百合子の身体も授業中の集中力がさらに増し、頭に残る知識量が明らかに
増えていた。その分、今までの知識の蓄積が少ない部分で引っかかることが増えてきたので、家では復習を
そこそこに中学校の勉強が多くなっていた気がする。埃さえ被っていたかつての真っ白で手付かずな教科書を
見るにこの高校にどうやって合格したのか不思議だったが、その辺は彼女の脳の性能で何とか強引に補っていた
ようだ。必死に勉強してた俺からすると羨ましかった。
勉強と並行して、日々の生活習慣も確実に根付かせていった。朝は早起きしてウォーキングを欠かさず取り組み、
夕方は勉強前にストレッチに励んだ。その事もあってか、通学の時の息切れも最近はほとんど感じない。筋肉痛も
ウォーキングくらいであればほぼ起きることはなくなっていた。テストが終わったらもっと厳しくやろうと思って
いる。それと同時に、気づけば習慣化していることがあった。
「はぁ・・・。お風呂気持ちいいなぁ」
ウォーキングを始めてから筋肉痛に苛まれるようになり、それらを癒すのにお風呂に入ってストレッチをしている
うちに、いつしか「風呂に入る」ということそのものが大好きになっていた。
「百合子の数少ない趣味みたいなものでもあったんだよなぁこれ。身体に影響されちゃったのかなぁ。
まあいいや。気持ちいいし・・・」
俺自身はどちらかというと烏の行水と呼ばれるほど、あっさりと風呂から上がることも多かったこともあり最初は
戸惑う部分もあったけど、今となっては毎日の欠かせないリラックスタイムだ。筋肉のほぐれていく感覚が
たまらず、ついついゆっくり浸かってしまう。それに合わせて入浴剤を買ってみたり、シャンプーやボディソープ
でちょっぴり贅沢をするようになった。もちろんお小遣いの範囲の中でだが、自由に使えるお金があるというのも
また新鮮だった。俺自身は大学に行きたいと思っていたこともあり、生活費や学費以外で余っていた生活費は
極力貯金していた。その分、運動や勉強など、自分でお金をかけずに出来ることに時間をかけたり、パソコンで
出来る無料のゲームをやったりして時間を潰していた。こっちも落ち着いたらまた始めようかな・・・。そんな
ことを考えながら風呂からあがろうとして、ふと鏡を見た。
「あれ?肌ってこんなきれいだったっけ・・・?」
確かにあかね達にはここ最近「肌がやたらときれい」だとか、「ニキビの跡も気づけばさっぱりなくなったね!」
と言われていたが、改めて自分の肌を見直して驚いた。白く、シミ一つない肌は、シャワーを浴びればその水を
弾くほどにすっかりその張りを取り戻し。お腹に居座る贅肉はまだまだ存在感を主張しているが、心なしか少し
小さくなり始めていた。
風呂から上がり、髪を丁寧に拭いた後にドライヤーで乾かしていく。亜由未ちゃんが言ってくれた手入れをして
いないのにそれでも伝わる髪質の良さがあるのなら、それを伸ばしてみるのも悪くない。当然俺の知識にそんな
やり方なんかはあるわけもなかったが、あれやこれやと調べて実践することにした。あかね達にも聞いて
シャンプーを選び、髪の乾かし方や維持方法も勉強し続けた。その結果、
「うーん、自分・・・?の物とは言え、髪さらっさらになったよなぁ・・・」
黒く、艶やかな髪は丁寧なメンテナンスを受け続けた結果、以前よりましてサラサラに、そしてふんわりとした
髪へと変貌を遂げていた。毛先まで手入れが行き届いたその黒髪は、周りのみんながそれなりに驚きを以て見て
いるのにも何となく気が付くほどに自分にとっても自慢であった。
そして俺は次第に百合子の身体を改造することに、いつしか楽しさを覚えていた。傷を入れたり、整形する
ような真似はしない。あくまで持ち合わせたものを徹底的に伸ばし、生かしていく、それだけのポテンシャルは
確実に持ち合わせていると確信しているからこそ、その身体を、頭をいじめ抜き、鍛え上げる。そんな俺に応え
ようと、全力でついてきてくれるこの身体との対話、朽ち果てかけていた怠惰な女の子の全てが様変わりしていく、
それを感じるのがとても楽しかったし、自分の身体で出来ないこと、届かない場所にも達し始めていることに、
ある種の快感を得ていた。自分の手で文字通り人生を捻じ曲げ始めていることに、少しばかり達成感を抱いていた。
「そう言えば、百合子の奴、いま何やってんだろう」
ストレッチをしながらふと、元の「俺」の存在を思い出す。和美ちゃんといるときに話しかけられたのを断って
以来、あいつから話しかけられることはなくなっていた。そんな俺は日を追うごとに元の「俺」とは離れていって
いた。制服は着崩し、いつしか両耳にピアスをつけるようになっていた。どうも友達付き合いもだいぶ変わって
来ているらしい。あんまりいい噂を聞かない連中ともつるみ始めていると聞く。いったいあいつはどこを目指して
いるんだろうか。止めないと手遅れになりそうな予感がヒシヒシとするが、果たしてあいつはそれを聞き入れる
だろうか。
「・・・、難しいだろうな。思い込むと止まらないし」
考えれば考えるほど、説得できる絵が浮かばない。何せこの身体は百合子の物だ。脳の中には俺が持ってきた
記憶に加えて、彼女に関する記憶も、人格の情報もすべてそのまま残されている。そんな彼女が俺から説得
されたらどういう行動を取るか、どういう心理状態になるか、今の百合子の脳であれば十分に演算することが
出来た。恐らく彼女は自棄を起こすか、俺に突っかかってくるかのどちらかだろう。
「豊と何とか連絡取らないとなぁ・・・。どうするか」
そしてこちらの方は、残念ながら未だ戦果を挙げられていなかった。あいつはあいつで声をかけようとすると
不在なことが多かった。手紙を書いたりするのも変だろうし、連絡先は覚えているが、送ったら向こうが不振
がってしまうだろう。全く伝手が無くなるのも避ける必要がある。一本気でお節介焼きのあいつとは、やっぱり
真正面から行くしかありえない。長年の経験から俺はそう判断していた。
「まあ取りあえずはテストだ。頑張るぞー!」
残り3日まで迫ったテストに備え、勉強に励むのであった。正直なところ凄い楽しい。そんな俺は「俺のこと」の
優先順位を無意識に繰り下げていた事に気が付いていなかった。
* *
「ふふっ、賭けは私の勝ちね?でも頑張ったじゃない。本当にすごいわよ。これ」
「うむむむ・・・、まだまだ遠かったぁ・・・」
テスト期間を終え、答案用紙を早希子と見比べる。やはり、学年でもトップクラスの彼女にはまだまだ遠かった。
俺自身、それなりにケアレスミスをしてしまった部分もあった。こうして俺は、早希子に昼飯を奢らなければ
ならなく・・・
「あのぉ・・・、ちょっと異次元超人バトルをなさってるお二人さん?みて?ねえ、一応あかね史において最高
得点を刻んだアタシの答案用紙も見てみて、ね?」
そんな俺たちに、ジト目のあかねが声を掛けてくる。彼女の答案用紙は×が多かったが、彼女として初めて追試を
免れるという、歴史的快挙を迎えたんだそうだ。
「うっわぁ・・・。直視できん。目が歪む」
「ひどい!早希ってばちょっと頭がいいからってえ!」
「あはは・・・、でも、もうちょっと落ち着いて考えればこの辺とか伸ばせるんじゃないかな。大丈夫。もっと
できるよ」
「うわぁ!やっぱ師匠は女神や!優しさの塊やぁ!!」
歯に衣着せない早希子の言葉に対し、大仰に驚いてみせるあかね。一応フォローしてみたけど、これはあんまし
いらなかったかなぁ。
「でもこの成績なら、部活やるのも許してもらえるっしょ!頑張ったね!」
「私とあと少しで張り合えるくらいなんだから、これで成績が悪いなんて言わせないわよ」
「うん、ありがとう・・・」
そう。俺としてもそこの部分は手ごたえがあった。百合子の記憶をたどっても、どの教科もこれほど好成績を
収めたことなどなかった。むしろ俺が「清彦」として挑んだ時より成績がいい。まだまだ過去の知識が不足した
部分が補填しきれていなかったが、それを補って余りある程度に高い水準だった。
(これが本来の百合子の実力なんだろうな。でも、嬉しいや・・・)
俺は嬉しかった。百合子の力を大いに借りたとはいえ、少なくとも出来なかった壁を一つ壊せたのだ。次の
テストでは・・・
(・・・、あれ?俺いま、喜んでいたのか?)
段々と境界線が曖昧になってきている。あくまでこれは「百合子がこの身体に戻ったときに最大限に苦しむよう」
環境を整えているだけのはずだ。今の俺は、一瞬そのことを完全に忘れていた。今の俺は間違いなく「百合子」と
しての先を考えていた。この身体とともに、友人たちをサポートし、競い合い、自分の学力を高めていく、そんな
未来を当たり前のように考えていた自分に、少なからずビックリした。だが、そんな未来を俺の身体で作ることは
不可能だった。それは俺自身が、身をもって理解している。何故なら・・・
――俺本来の身体はここまで、頭はよくないんだ。
百合子の身体を使うようになってしばらく経ったが、身体が本来持ち合わせていた性能に舌を巻いていた。
目標を持てたり、競い合ったりしたことはあったと思うがそれでも俺としては今までの自分と同じように
勉強していた。そうしなければ、俺の時は覚えられなかった。勉強が苦手だが、それを無理やりチューニング
して手入れをして、やっとこさあの位置にまでたどり着ける、それが「清彦」という人間だった。しかし、
俺と全く同じ勉強方法、ただそれだけのことで百合子は、俺の成績を軽々と飛び越してしまった。それだけ
俺と彼女の脳には明確な性能差があった。
(少なくとも、俺の身体だとここまで張り合えない。それに・・・)
俺がいつか自分の身体に戻ったとしたら、百合子もまた本来の性格に戻ってしまうのだろう。そうなったら
あかね達はどうなってしまうのだろう。
(たぶん本当の百合子だったら、彼女たちを傷つけてしまうだろうか)
俺のことでさえ無邪気に、まるで自分のことのように喜んでくれるあかね、自分を友人であるとともにライバルと
認め、お互いを高める存在になった早希子、これは恐らく俺が百合子を操作したから生じた関係だ。自分が復讐の
ためと励んで出来た関係、この暖かな関係も元に戻れば崩壊してしまうのだろう。その時彼女たちは果たして
どう思うだろうか、それを考えると心が痛む。
(いったいどうすれば、誰も傷つけずに収まるのだろう・・・)
喜ぶ彼女たちを見ながら、俺の中では確実に、明確に揺らぎが生じていた。俺は果たして、自分の身体に戻りたい
のだろうか。
* *
そんな思いを抱えたままこの日は家に帰った。それでも部活はやってみたいし、少なくともこの段階で元の
「百合子」らしく暮らせば俺の心そのものが腐ってしまいそうだ。それだけは真っ平ごめんだった。
「ただいまー」
「ああ・・・、おかえり。百合子・・・」
「あ、ごめんお母さん。起こしちゃった・・・?」
「いいのよ・・・。気にすることはないわ」
返事をしてくれたお母さんはどことなく気だるげだった。もしかすると、疲れて休んでたところを起こして
しまったのかもしれない。
「それで、そんな嬉しそうな顔してるってことは、テスト頑張ったのね?」
「あ、そ、そうなの。これで・・・、やっても大丈夫かな・・・?」
お母さんの方から話を切り出してくれたので、リビングの椅子に座りながら成績を見せてみる。
「すごい・・・。よく頑張ったのね。やればできるじゃない!」
「うん・・・。ありがとう」
お母さんは驚きながらも褒めてくれた。こんなことはいつ以来なのだろうか。自然と心が浮ついてくる。
「部活、やってみるといいわ。ただし、あんまり成績が悪くなるんだったら許さないから勉強もきちんと
すること。いいわね?」
「やった・・・!」
あっさりと許可が下りた。夢にまで見た部活だ。和美ちゃんの期待にも応えてみせたい。心が躍っていた俺だが、
ふと気になることがあった。
「あ、でもお手伝い・・・」
「大丈夫よ。せっかくの高校生活なんだから、思いっきり楽しみなさい・・・っ」
最近は勉強とかの合間に手伝えることは手伝っていた。洗濯やお風呂場の掃除なんかもすっかり俺がやっていたが、
お母さんはそれより、高校生活を楽しんでもらいたいようだ。そんな思い、お母さんの思いやりの暖かさは俺が
感じ慣れない物だった。ありがたさを感じつつも、どうにも気がかりなことがあった。
「お母さん・・・、体調悪いの・・・?」
「大丈夫よ。心配いらないわ・・・」
嘘だと思った。心なしか呼吸も荒いし、目元がフラフラしている。そんなお母さんは椅子から立ち上がろう
としてふらつき、思わずテーブルに手をついていた。
「お母さんっ!大丈夫!?」
「大丈夫・・・、大丈夫だから・・・」
そんなお母さんを慌てて支える。口から吐き出される呼吸が熱い。触ると肌もかなり熱い。相当に無理をして
いるのではないだろうか。取りあえずゆっくりと腰を下ろさせ、座らせる。
「お母さん、ゆっくり休んでて。今日の家事は私がやるから」
「疲れてるでしょう・・・?百合子こそ休んでていいから・・・」
「お母さんっ!」
俺は思わず、声を荒げてしまっていた。
「お母さん、熱あるよね?家事なら私がやっておくから!」
「でも・・・、部活もあるんじゃないの?」
百合子のお母さん、沙苗さんはウチの母さんとは違う意味で困った人だ。少しずつ手伝いをしながら、
前よりはいい関係を作れていた自信はあったが、同時に彼女の性質も分かってきていた。どうにも頑張り屋さん
すぎるのだ。こんな娘なのにも関わらず、文字通り心が入れ替わり、立ち上がろうとした俺の意思に気が付き、
応援してくれようとするのは嬉しかった。少なくとも酔っぱらって俺の方を見てくれない母さんとは違っていた。
だが熱があり、体調も怪しいのにそれでもなお無理はしてほしくなかった。だからこそ・・・
「それはそれだよ!でも、お母さんは・・・、私にとってのお母さんはお母さんしかいないの!
だからもっと・・・、自分を大事にしてよ・・・」
「百合子・・・」
思わず抱きついてしまった。この頑張り屋さんにもっと甘えてほしかった。自分自身も背負い込みがち
なのは分かっているからこそ、気持ちも理解できるが、それでも頑張りすぎだ。家族なんだから、一緒の家で
暮らしているんだからこそ、辛い時は頼って欲しかった。
「うん・・・。分かった。病院自体は来週までお休みをもらってあるから、少し・・・、甘えさせてもらうわね」
「大丈夫。任せて!」
どうやら聞き届けてもらえたようだ。恵理子は確か来週が大事な試合のはずだから、そこは俺がやるしかない。
俺の部活のほうは、包み隠さず話そう。
「でも百合子。一つだけ覚えておいてね・・・?」
「え・・・?」
そんなお母さんは、俺が抱きしめた状態で力を入れて、抱え直してきた。柔らかい身体が、その大きな胸が俺に
触れる。ドキッとしてしまうが、それより安心感を抱いていた。百合子も、それこそ俺も久しく味わっていない
感覚だが、その心地は妙に優しく、心が落ち着いた。やっぱり母子ということなんだろうか。
「最近のあなたがすごく頑張ってるのは分かってるわ。何があったのかは分からないけど、とってもいい子に
なってくれた。私のことをお母さんって言ってくれた。それは本当に嬉しいわ・・・?だけど、貴方も私の
大事な娘なのよ。だから、もっと甘えてくれていいからね・・・?どうかそれだけは、忘れないで」
「うん・・・」
お母さんの言葉に、背中に冷たい汗が流れていた。確かに百合子にとっては間違いなく実の母親だ。
彼女の言う通り冷たい関係になっていたとしても、かけがえのない親子のはずなのだ。だが、「俺」からすれば
どうだろうか。確かに身体は紛れもなく親子だが、中に入っている「俺」にとっては赤の他人でしかない。だから
こそ、どこかよそよそしく、友達のお母さんの手伝いをするようなそんな接し方をしていたのかもしれなかった。
実の娘の身体の中に、全く別の男の心が入っているなどとは思ってもいないだろうが、お母さんは「百合子」の
変化に、そんな思いを抱いていたのかもしれない。
「じゃあ、少し寝させてもらうわね・・・」
「お休みなさい。部屋まで一人で大丈夫?」
「さすがにそのくらいは大丈夫よ。あと、本当にありがとう・・・」
接し方を考え直した方がいいのかもしれない。俺自身、親に甘えたことがほとんどない以上どうやればいいのか
さっぱり分からなかったが、もっと思い切って色々話してみよう、腹を割って、話せることは話してみよう、
フラフラと頼りないお母さんの背中を見ながら、俺はそんなことを漠然と考えていた。
* *
「洗濯はこれでよし・・・、っと。次はご飯ね」
洗濯機を回している間に夕ご飯を作っておく。お母さんのあの様子だとたぶん食欲はあまりないだろう。
「久しぶりにあれ・・・、作りますかね」
どうやらお母さんは今日は魚の煮つけを作ろうとしていたようなので、それを引き継いで作っていく。
俺自身、料理についてはそれなりに色々とやってきたつもりだし、簡単なものだけ作らせてもらったくらいだが
バイト先で厨房に立ったこともある。一通りの作業は頭に入っていた。百合子の身体はその手のことをほとんど
と言っていいほどやったことはないが、彼女の記憶の中にある家庭科での工程や、俺が入り込んでから家庭科で
簡単な試運転をした時のことを思い出しながら作業する。最初はぎこちなかったが、30分もすれば普段の俺と
そこまで変わらないくらいには包丁を使ったり出来るようになっていた。
魚の準備をしつつ、その傍らで鶏肉を細かく刻んだり、シイタケなどを準備しておく。お母さん用に作るのは
雑炊だ。よく母さんが酔っぱらって帰ってきたときのために作ってたから、レシピを含めてほとんど心に刻ま
れているくらいに覚えている。百合子は初めて作るはずだが、嗅ぎなれたにおい、手順が凄く懐かしく感じる。
「そう言えば、段々と俺のことも自然に思い出せるようになってきたな・・・」
ここ最近、「清彦」としての思い出も段々と自然に思い出せるようになっていた。今までは思い出すときは
少なからず身体にノイズのようなものが走っていたが、それも今ではすっかりなくなっている。彼女の身体
も、頭も使いこんでいるうちに、俺の存在そのものが馴染んだのだろうか。しかし、不思議と悪い感じは
しなかった。
「よしっ、出来上がりっと!・・・、ちょっとしょっぱかったかなぁ」
取りあえず雑炊と魚の煮つけ、みそ汁は出来た。あとは恵理子が帰ってくるくらいのタイミングでサラダを
作ればいつでもご飯は出せる。ただ、味が少し濃すぎたかもしれない。それにこれがお母さんだったらもう
何品か作っているんだが、さすがにそこまで手は回らなかった。
「改めてお母さんってすごいんだなぁ・・・。今度教えてもらおうかな」
ほとんど同じくらいの時間のはずだが、それでさらに別の料理も作れてしまうお母さんの手際の良さに脱帽
する。元気になったら一緒に作ってみるのもありかもしれない。親子で一緒に何かをする、そんなありふれて
いて、百合子としては絶対にありえなかったであろう未来、それを作るのも悪くないし。
「とりあえず、お母さんにはこれを食べてもらうとして・・・、部屋持ってくか」
雑炊は小さな土鍋で作ってある。そのまま食べられるはずだから、これをお盆に乗せて、水と薬も併せて
準備する。とりあえず何か腹に入れてもらって薬を飲んでもらおう。市販の風邪薬だけど飲まないより
マシなはずだ。
「お母さん、入るよ」
2階のお母さんの部屋にノックをする。「はーい」と声が聞こえた。どうやら起きているようだ。そのまま
ドアを開けて雑炊を持って入っていく。大人らしい、落ち着いた雰囲気の部屋に一人用のベッドが備え付けて
ある。百合子の頭の中にはほとんど記憶になかったと言うことは、もしかすると部屋に入るのは相当久しぶり
なんだろうか。
「あんまり寝れなかった?」
「まあ、寝付いては目が覚めて・・・、って感じかしらね?それより、本当にご飯作ってくれたのね?
ありがとう・・・。ケガしなかった?」
「うん・・・、そこは大丈夫。お口に合うかは分からないけど」
ベッドの上で寝ていたお母さんは入ってきた俺に気が付き、上体を起こしてこちらを見てくれた。
パジャマに着替え、いくらか弱っているお母さんは普段の可愛らしさに少し儚さが同居し、妙にエロい
感じがして、ドキッとしてしまう。俺と同い年の頃はどんな人だったんだろう。そんなお母さんはお盆の
上に乗せてきた土鍋を見て察してくれたようだ。優しそうに目を細めながらこちらを見てくれている。
こんな暖かい視線はいつ以来なのだろう。
「きっと大丈夫よ。一生懸命作ってくれたんだから。いただきますっ」
そういってお母さんは躊躇いもなく食べ始めた。
「おいしい・・・。凄い優しい味ね。こんな上手に作れるなんて・・・」
お母さんは驚きながらも、その手を休めることなく食べ続けてくれた。どうやらお気に召してくれた
ようだ。その様子に胸をなでおろす。その時、玄関のドアが開く音が聞こえた。どうやら恵理子が
帰ってきたようだ。
「あ、恵理子のご飯の支度してくるね。後でお椀は取りに来るから、ゆっくり食べてね」
「百合子」
晩御飯の支度をしようと部屋を出ようとしたところで、お母さんに呼び止められた。百合子らしく
したら疑われかねないので、努めて俺らしく、ただし女の子らしく振舞ってみる。賢いもので、
ある程度自動で補正をかけてくれる。
「どうしたの?」
「変なこと聞いているのはわかっているんだけど、聞きたいことがあるの・・・」
お母さんは一瞬躊躇いながら、俺に確認してきた。表情が見たこともないほど真剣で、何かを
考えている。どうしたのだろう?
「いや・・・、何でもないわ。ごめんなさい。私の思い過ごしだったみたい。忘れてくれるかしら?」
「どうしたの?私・・・、何か変だった?」
「大丈夫よ。あなたは百合子、私の大切な娘なんだから・・・」
その言葉に、お母さんが聞きたかったことが何となくわかってしまった。娘の変貌に、漠然とながら
何かに気が付いてしまったようだ。これが親としての勘なのだろうか。
「ほら、お腹すいたでしょう?ご飯食べておいで」
「う、うん・・・。お母さんこそ、ゆっくり寝てね」
考えを巡らせているうちに、お母さんが声をかけてくる。恵理子を待たせてしまっているのだった。
それに、お母さんは病人なのだ。さっさと寝て、身体を治してもらわないと。微笑むお母さんを後に、
俺は部屋を後にした。
下に降りると、制服姿の恵理子がいた。何やら機嫌が悪そうに見えるが、百合子と会う時はいつも
こんな顔なのだ。それがやっぱり寂しい。
「お帰り、恵理子。お腹すいたでしょう。ご飯にする?」
「ただいま・・・、お母さんは?」
「風邪ひいちゃったみたいで、今は部屋にいるわ」
「え・・・?」
その言葉に、恵理子は目を丸くした。驚いた表情も見慣れない。もしかすると、ここまでまともに
会話をしたのも久しいのかもしれない。
「大丈夫なの?」
「とりあえず、ゆっくり寝て早く治して、って言ってある。ご飯は食べられてるから、疲れちゃった
のかなとは思うんだけど・・・」
その言葉に、恵理子は2階のお母さんの部屋に向かった。心配なようだ。やっぱりいい子じゃないか、
俺はそう感じた。百合子の思い出に浸ると、恵理子についての好意的な評価にすべてネガティブな感情を
差そうとしてくる。よほど嫌いだったのだろう。ただ、俺が見る限りでは家族思いで、ちょっと不器用な
いい子にしか見えなかった。お母さんが言う「赤の他人」としての目線が、こういう時には役に立っていた。
恵理子がいないうちに、晩御飯の準備をしておく。煮つけを温め、サラダを作っておく。レタスとかを刻み、
トマトを乗っけた簡単なサラダだ。せっかくなのでツナ缶も開けて一緒に添えておく。
「あっさりできちゃった・・・。恵理子の口にも合えばいいんだけど、大丈夫かな」
俺が持っていた料理の知識をあっさりと吸収し、それを再現して見せた。百合子として初めて作った料理、
果たして食べてもらえるだろうか、少しばかり緊張する。
テーブルに準備した晩御飯を並べていると、恵理子が下りてきた。心なしかホッとした表情に見えるのは
気のせいではないだろう。
「・・・、ご飯作ったんだ」
「うん。食べる・・・、よね?」
「・・・、うん」
最低限の会話のまま、晩御飯の支度を手伝ってくれた。冷え切った関係なのが悔やまれるが、それでも
手伝ってくれるあたり、やっぱり悪い子だとは思えないが、それでも会話がないのもやっぱり悲しいものだ。
ただ、取りあえず晩御飯を食べないというのはなさそうだ。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます・・・」
恵理子の手伝いもあり、あっさりと準備が終わったので2人で晩御飯を食べ始めた。俺の時は一人で、家族と
食卓を共にしても会話が弾まないことも多いから、この光景も慣れたものだ。
「おいしいかな?」
「・・・」
取り合えず話しかけてみるが、この通り返事も帰ってこない。だが、百合子の記憶を探ればその態度も思わず
納得できてしまうほどに、百合子は彼女に向き合っていなかった。ただし、そんな彼女は箸を止めることなく、
淡々と食べ進めてくれていた。全く口に合わない、あるいは姉が作った料理など意地でも食べないと心に決めて
いるのであれば恐らく残すだろう。
「お母さんのことは私が見るし、家事もやっておくから恵理子は部活、頑張ってね」
「・・・!」
何気なくかけた言葉に、恵理子が思わずピクリとする。視線だけをこちらに向けて、まるで睨みつけるように
俺のことを見ている。その表情は怖かった。
「今週末大事な試合なんでしょう?友達から聞いたよ」
「・・・、うん」
一言だが、返事をしてくれた。その戸惑いに溢れた表情は最近よく見かける表情だ。彼女も頭の中でパニックに
なっているのかもしれない。でも、俺としては恵理子にそのくらいしかやってあげられることがないんだ。
そこはキッチリと支えさせてもらう。ちなみに恵理子に大事な試合が控えているというのは亜由未ちゃん情報だ。
どうやらレギュラーに抜擢されたらしい。そこまで一生懸命頑張っている彼女だからこそ、少しでも何かして
あげたかった。改善関係の糸口に出来ればいいんだが・・・
そうこう考えているうちに、俺も恵理子も食べ終わっていた。
「・・・、ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
そんな恵理子は俺の物を含めて、皿を重ねて流し場へ運んでくれた。
「あぁ、大丈夫だよ。あとはやっておくから。運んでくれてありがとね」
俺としては自然に声をかけたつもりだったが、彼女はかなりビックリした顔をしていた。それもつかの間、
いつもの通り厳しい表情に戻り、流しを後にして自分の部屋へと向かっていった。俺はその後を引き継ぎ、
皿洗いを始めると、去り際のことだった。
「・・・、おいしかった。ありがとう」
彼女はただ一言、その言葉を呟いていた。思わず視線をあげると、既にそこに彼女はおらず、上の階でドアが
閉まる音が聞こえた。残念ながらそれ以上の言葉をかけることは出来なかったが、それでもその言葉は本当に
嬉しかった。
「おいしかった・・・、か。やった・・・!」
ひょんなきっかけだったが、もしかすると家族とも関係を改善できるかもしれない。話しかけることさえ
できなかったと思えば、大した進歩だった。しかし・・・
「・・・、でもダメだ。まだ近づけない・・・」
本当はもっと話したいし、もっと知りたい。だが、百合子の記憶が邪魔をする。他の部分についてはかなり
緩和できているのだが、恵理子に関して考えると、百合子が残していった黒い感情が渦巻いてしまう。
「でも、きっかけは出来た。少しずつでも・・・」
そう、今日で確信した。彼女との関係改善は「出来る」。少しずつでも、一歩ずつでも歩み寄る。
百合子と恵理子の関係がここまで冷え込んでしまったきっかけまではまだつかめてないが、それでも少しずつ
関係を改善する。近づいていく。そうすれば、いつかきっと笑いながら話が出来る。出来ないはずはない、
何せ俺は百合子の身体に入ってから、色々なものを・・・
「・・・、すっかり、自分のことのように考えるようになってきたな・・・」
そこでふと我にかえる。今の俺は間違いなく「久保田百合子」として考えていた。最近、そういう時間が
確実に伸びてきている。そしてそれを悪くないと思う俺もまた、確実に増えてきていた。
「まあでもいいか・・・。恵理子ともちゃんと話してみたいし・・・」
だが、「俺」として考えてもそれを自然に受け止められた。間違いなく彼女は傷ついている。だからこそ
話を聞いてみたかったし、吐き出させてあげたかった。少なくとも俺は、そこに関してはあかねたちに
助けてもらっている。抱え込むことが辛いのは、この身体に入ってから痛いほど理解できた。だからせめて、
俺が百合子でいるうちに、そこは何とかしてあげたかった。
「他でもない、妹のためだからな・・・」
本来俺が持つことのなかった「妹」への、身内としての情愛が、俺の心にほんのりと灯っていた。
ご飯の後は残りの家事をさっさと片づけた。お母さんの部屋から土鍋を回収しに行ったら、鍋の中は空に
なっていた。食欲がないわけじゃなさそうだったのが一安心だ。皿洗いに洗濯、アイロンかけなど一通りを
こなしているうちに結構な時間が経っていた。俺の時は、母さんが滅多に帰ってこないこともあって俺一人分
だけこなせば十分だったのだが、百合子の場合他に家族がいる。当然ながら人数も多くなるし、作業量も多い。
恵理子はたまに手伝っていたみたいだが、基本的にお母さんにすべて任せてしまっていた。改めて一人で全部
やってくれていたお母さんのすごさを実感する。と同時に、疲れが溜まっていたことも理解できてしまう。
風呂に入り、ストレッチをし、勉強する。一日の流れとして次第に定着してきているが、家事までこなすと
それなりに時間もかかっていた。気づけば夜の11時。早起きする習慣を身体に沁み込ませるようにしている
今の生活では、いつの間にかもう寝る時間になっていた。
「うん・・・っ、くあっ・・・♡」
寝る前に少しヌいておく。どっちかというと俺自身もあまりやっていなかったのもあるのかも知れないが、
俺本来の身体について考えなければ割と性欲は少なめらしい。おかげでいつも適度に、快楽に浸るくらいで
終わってくれる。ちょっとしたご褒美に近いものだ。
「ふう・・・、気持ちよかったぁ・・・。あ、そうだ」
寝る前にお母さんの部屋を確認しに行く。枕元の電気だけついてたが、よく眠っているようだ。
「うーん・・・、まだ熱上がりそうだなぁ・・・」
首元に手を当てるとまだまだかなり熱い。汗をかいている様子も見られないあたり、完治まで何日かはかかり
そうだった。
「飲み物は・・・、ちゃんと飲んでるな。足しておこう。あとは熱さまシートも貼り替えて・・・」
おでこと首元の少し剥がれかけていた冷却シートを貼り替え、スポーツドリンクを入れておいた水筒を満杯に
しておく。そんなお母さんの目元には少しクマが見えた。
「本当に・・・、頑張り過ぎなんだから・・・」
お母さんが風邪をひいたのは、恐らく疲れもあるのだろう。元々男子としては平均くらいの身長があった俺から
見ると、母さんと同様百合子のお母さんもまた小柄に見えた。そんな彼女が背負っていた負担はどんなくらい
なんだろう。育ち盛りの娘、まして一人とは冷え切っていたのだ。肉体的だけでなく、精神的にもかなり辛い
のは容易に想像が出来た。
「お休み、お母さん・・・」
眠っているお母さんの頭をそっと撫でて部屋を後にする。その姿は奇しくも、寝ている母さんとダブって見えた。
(何でこんな人を嫌うんだろう・・・。いいお母さんじゃないか)
明日の朝も早い。自分の部屋に戻り、ベッドの中で百合子の記憶を探る。少なくとも俺が百合子に入ってからの
お母さんは、最初の頃こそ冷たかったし、手伝いもさせてくれなかったような人ではあったが、最近は少しずつ
だが話も出来るようになってきた。やりたいことは応援してくれるし、何より娘を、家庭を支えるために一生懸命に
頑張っている姿はたぶん、真っ当なお母さんなんだろうと思わせてくれた。
「うーん・・・、きちんと接してると思うんだけどなぁ・・・」
記憶の中のお母さんは百合子が嫌がることはせず、助けを求めているときは力になっているようにしか思えなかった。
たぶん俺が同じことをしてもらえたなら、素直に甘えていただろう。しかし、そこにもまた彼女の黒い感情が突き
刺さってくる。一体なぜなのだろうか、百合子の記憶の海に少しばかり潜り込んでみる。
「・・・、不登校だった時期があったのか・・・」
百合子の記憶の中の、まだ見えていなかった一部が垣間見えた。どうやら中学3年生の頃のようだが、同級生から
のいじめに遭い不登校だった時期があったようだ。元々暗い性格だった彼女がさらに歪んだのは間違いないだろう。
その時のお母さんは・・・
「きちんと向き合おうとしているんだよなぁ。学校に働きかけたり、って、お母さんボロ泣きじゃん・・・。でも
百合子は向き合わなかった。自分の中に引きこもっちまったのか・・・」
様子がおかしいことにも気が付き、きちんと向き合っているように見えた。少なくとも、同じような経験をした時に
母さんはおらず豊がいなかったら立ち上がれなかっただろう俺とは違い、家族として、母として最大限努めている
ように思えた。だが、彼女はそれを拒絶した。結果的にある程度は自分で立ち直ったみたいだが、その分内面も
歪んでしまったのだろう。
「・・・、何とか、戻さないとな」
だからこそ、俺が代わりに歩み寄ろう。少なくとも百合子が戻ってくるまでに、彼女が「籠れない百合子」に改造
してやる。結果的にそれが家族にも救いになる、勝手に俺はこう結論付けた。
それに何より、他にも突き動かすものがあった。
(お母さんと何かを一緒にする、っていうのもいいよな・・・)
それは本能的な「俺」の感情だったと思う。だがそんな普通の、ありふれた家族の関係に憧れた。やりたくても
出来ない、そもそも機会さえ与えられなかった「俺」とは違う。少なくとも、お母さんは手を差し伸べてくれて
いる。だったら思いっきり掴んで、手繰り寄せてみよう、俺は自然とそう考えていた。
「まあ取りあえず、まずはお母さんに元気になってもらおう・・・。話はそれからか」
考えているうちに眠気が襲ってきた。自分が動かしている身体のはずだが、内面を探るとどうしても頭を使う
らしい。明日からやるべきことが一つ増えたが、それでも何となく嬉しかった。確実に「百合子」を構成した
ものを壊し、直し、作り替えている、その感覚がとても楽しい。ついてきてくれる、下手をするとそれ以上の
ところまでたどり着いてくれる身体との対話が面白い。変化によって変わっていくうちに、周りのみんなの
笑顔も増えてきている、その事が本当に嬉しい。いつしか俺は、無意識のうちに百合子に対する復讐以外の
目的をも見出し始めていたのだが、それを意識するのはまだ先の話だった。
翌朝、いつもの通り5時30分に目を覚ます。次第と身体が覚えてきてくれたのか、寝覚めも段々と悪いもの
ではなくなってきていた。ひどい時は朝、起き抜けで胸をいじったり、ヌいたりして無理やり起こしてたんだ
けどなぁ・・・。
いつもの通りのウォーキングだが、今日は軽めに抑えて30分くらいで戻ってきた。それでもやっぱりそれなり
に疲れは出てしまうし息も上がるが、最初の頃に比べれば遥かにマシだった。
「取りあえず作り置きしてかないとなぁ・・・」
登校前に、お母さん用のお粥を作っておく。昼ごはんにも使えるよう、少し多めに用意しておくことにした。
たぶん病院に行くとは思うが、やっぱり身体を早く治すには何か食べておいた方がいい。風邪をひいた時の
俺の経験則だ。ささっと作り終えた後に、お母さんの部屋に行く。
「お母さん、入るよ」
「はーい・・・」
返事が聞こえた。どうやら起きているようだ。中に入ると、お母さんはベッドの上で上半身を起こしていた。
呼吸がかなり辛そうに見えるが、それを感じさせまいとどうにかこうにか微笑んで迎え入れてくれる。
「おはよう。辛そうだね・・・。お粥作っておいたから、後で食べてね」
「おはよう・・・。ありがとうね色々と・・・」
いつもとは違う弱々しい様子、無防備な姿、そんなお母さんに、俺は不思議とドキッとしてしまう。
そんな俺は、とあることに気が付いた。
(そうか・・・。やっぱり俺、お母さんを赤の他人として見てたんだ)
この身体で語れば身内贔屓の話になってしまうが、お母さんは正直可愛らしい。小柄な身体、40歳に迫って
なおあどけなさを帯びた童顔な顔立ち、その身体に不釣り合いなくらいに大きな胸、これで性格は少し頑張り屋
さん過ぎるところはあるが、とても優しいのだ。こんな嫁さんを捕まえたお父さんが羨ましいと思ってしまうが、
それはあくまで俺の、「清彦」としての感想だった。それに、
(こんなにきちんと向かい合ったことさえなかったのか・・・)
不登校になったときも、どんな時も、百合子は彼女から目を背け続けてきた。だからこそ変化に気づくこともなく、
俺もお母さんの様子がおかしいことに気が付くまで時間がかかってしまった。
「百合子・・・、どうかした?」
「あ、い、いや何でもない!それよりちゃんとお医者さん行ってね?お大事にっ!」
「え・・・?ああ。うん。いってらっしゃい・・・」
結構じっと眺めてしまっていたらしい。その仕草、病気で弱った姿が妙に艶めかしい。そんな俺は心のドキドキが
抑えきれないまま部屋を飛び出していた。気づけば顔が、妙に火照っていた。
その後は俺と恵理子の朝ごはんの準備をして、俺はさっさと学校に出かけた。何故か分からなかったが妙にそう
したくなった。何というか、妙に恥ずかしかった・・・、のだと思う。
早く着いた教室は生徒もまばらだ。あかねや早希子、当然ながら元の「俺」も来ていない。グラウンドからは
朝練に出ているみんなの声が聞こえてくる。俺もその内、ああいうのに混ざれる機会があるのかなぁ・・・、
とボヤっと考えていると、
「あ、おはよう久保田さん」
「おはよう・・・、か、栗原さん」
制服を身にまとった和美ちゃんが教室に入ってきた。ああ、今日も可愛らしいなぁ・・・、近くに来た和美ちゃん
からはシトラス系の爽やかな香りが伝わってくる。
「珍しいね。この時間って全然人いないんだよ?」
「うん・・・、まあね。栗原さんは朝練?」
「和美でいいよ。私もそんな感じ。基本的に朝練はないんだけど、この時間の体育館って空いてるんだよ」
どうやら彼女は既に軽く練習しているらしい。何となく感じていたが、彼女は見た目に反してかなり熱心で、
情熱的なのかもしれない。たぶん和美ちゃんのことは俺が百合子の身体に入っていなければ、ここまで知る
機会もなかったのだろう。
「ああ、そうだ。部活なんだけど、やれることになった」
「えっ!?本当に!やったぁ!」
目を爛々と輝かせて、俺の両手を掴んでくる和美ちゃん。やばい、顔が近い・・・。本当にきれいな顔
してるよなぁ・・・。すべすべで、手触りのよさそうな白い肌が近づいてくる。ああ、でもダメだ。
ちゃんと正直に話しておこう。
「うん・・・。それはいいんだけどね・・・」
「?」
キョトンとする和美ちゃんに事情を話す。本当ならすぐにでも参加してみたかったが、こればかりはさすがに
仕方がない。お母さんは放っておくと無理するのは目に見えてしまう。今は少しでも休ませたい。
「ってわけなの・・・。ごめんね。ちょっと遅くなっちゃうかも知れないんだけど・・・」
「ううん、大丈夫だよ。落ち着いたら声かけてくれれば大丈夫なようにしてあるから、それは心配しないで?
それよりお母さんのこと大事にしてあげてね」
何か言われるかと思ったけど、あっさりと受け止めてくれた。穿った見方をしてた俺の方がむしろ申し訳なく
なってくるくらいだった。
「えへへ、でも嬉しいなぁ・・・。私、部活に誰かを誘うのって初めてだったんだ」
ちょっと恥ずかしそうな顔で、ぽつりと言葉をこぼす和美ちゃん。初めて誘うのが俺みたいな、それこそ百合子で
よかったのだろうか。他にももっと、いい子がいそうな気がするのだが・・・。
「ねえく・・・、和美ちゃん」
「えへへ・・・。どうしたの?」
あかねみたいに距離感をぐいぐいと近づけてくれるような子は別なようだ。和美ちゃんを名前で呼んでみただけで
心がざわっとする。そんな彼女は呼んでくれたことが嬉しかったのか、その可愛らしい顔に笑みを浮かべていた。
やばい、本当に可愛い。
「どうして・・・、私を誘ってくれたの?」
「え?だってあんなに身体柔らかいんだもん。どこまで行くか、見てみたくなっちゃって。それに・・・」
「それに・・・?えっと「おっはよー百合っち、和ちゃん!」」
詳しく聞こうと思ったら、後ろからよく通る元気な声が聞こえる。間違いなくあかねだ。彼女の介入で聞きた
かったことも霧散していた。つくづく色々な意味で力の強い彼女である。というか意外と朝早いんだな。
あかねの登場からはいつもの通りの雑談に興じ始める。何だかんだで当たり前になってきたこの時間だが、
俺の精神安定にはかなり寄与してくれている。最近はあかねたち以外にも少しばかりだが、話せるようになった
子も増えてきた。どうやら俺は意外と話が面白いらしい。そう言ってもらえるだけでもありがたかった。
・・・、そう言えば最近、「百合子」が話しかけてこなくなった気がするんだが、一体あいつは何をやって
いるのだろうか。ふとあいつの様子を見れば、確かに話してはいる。普通に雑談をしているようだが、その
メンバーはだいぶ変わり果てていた。
前は結構、こう言ってはあれだが傾向としては「陰キャ」寄りな交友関係だったはずだ。色んな人と話せる
つもりではいたが、それでもいわゆる「陽キャ」の相手はあんまり得意ではなかった。だからこそあかねなんか
ともあまり話す機会はなかったわけだが・・・。だけど、お互いマイペースに話せる友人のほうが気が合ったし、
俺自身気が楽だった。
そんな俺は今話しているのは「陽キャ」そのもの。というよりかなり尖った面子ばかりだった。いわゆる
「札付き」や、あかねとは違う意味でのギャルとつるんでいるようだ。いわゆる、いい噂は聞かない連中だ。
それと溶け込んでいる俺の姿はもはや、俺の知っている俺自身ではなかった。果たしてあいつは本当にどこへ
行きたいのか、もはや俺にも分からなかった。
「うぉーい百合っちぃ~。宿題のここがアタシわかんねぇ・・・」
「あ、ごめんごめん。えーっとここはね・・・」
あかねからの救援要請に、思考を打ち切りそちらに意識を集中する。最近のあかねは宿題も結構自力でやるように
なってきていた。彼女なりに頑張っているのだろう。それが嬉しかった。
ただその事は、俺が元の清彦より今の百合子であることを優先していたと気づいたのは、家に帰ってからだった。
あっという間に放課後になった。今日はそそくさと帰ることにして、駅前のスーパーで買い物を済ませて家路を
急ぐ。しかし、あかねがあんなに詳しいとは意外だったなぁ・・・。
今日の昼休みにあかねや早希子たちにも相談してみたら、あかねから看病の方法を色々と教えてもらえた。
話しただけで「あー、それだと百合っちのお母さん、相当疲れてるね・・・」とあっさり看破し、そういう時に
効く食べ物や、面倒の見方、あるいは冷却シートを貼るおすすめの位置まで、とても詳しく教えてくれたのだ。
清彦だったときに母さんの面倒を見ることはあったが、看病まではしたことがなかった俺からすれば「女の人」
の看病の仕方など頭にあるはずもない。その辺の知識不足をあかねが補填してくれたのだった。
家に帰ると、やっぱり恵理子はまだ帰ってきていない。だがそれでいい。彼女が試合に備えて部活に取り組める
よう、お母さんが元気になるまで支えるのは俺の、姉としての百合子の役目だ。その事を受け入れてくれたことに
ホッとする。恵理子とも話していく糸口はありそうだ、何となくそう思えた。
「お母さん、ただいまー」
「ああ、お帰り・・・。ゴホッゴホッ」
お母さんは自分の部屋にいた。枕元には見慣れない薬が置かれていた。どうやら医者に行ってくれたようだ。
「お母さん、風邪はどうだった?」
「ええ、お医者さんに診てもらったら、疲れから出たただの風邪だったわ。本当にごめんね・・・?」
「大丈夫だよ。気にしないでゆっくり休んでて」
努めて明るい声で問いかける。ただの風邪とは言え、お母さんがここまで体調を崩した記憶は百合子の中にも
ない。看護師ということもあり、普段からかなり気を使っていたであろうお母さんが風邪を引いてしまうと
いうこと自体が既に異常なのだ。その後はお母さんに色々と聞いた。ご飯は食べられそうかとか、何か買って
きてほしいものはあるかとか、あと、学校の話も少しした。こんなに長い時間話したのは久しぶりではない
だろうか。ちょっと辛そうだけど、コロコロと表情を変えるお母さんが可愛らしい。本当はこんな、面白い人
だったんだ・・・。
「ああ、ごめんね話し込んじゃって。またご飯できたら持ってくるからゆっくりしてて?」
「いいのよ。待ってるわ」
ついつい話し込んでしまったが、お母さんは病人だ。ゆっくりしてもらわないと。そう言って部屋を出よう
としたときだった。
「あ、待って百合子・・・」
お母さんから呼び止められる。少しバツの悪そうな顔をしていた。その様子はどことなく俺が「百合子」に
入れ替えられたときの、彼女本来の表情にも似ているのかもしれない。これも親子なのだろうか。
「その・・・、本当にありがとうね・・・?あなたが止めてくれなかったら私・・・」
「え・・・?どうかした?」
俺の問いかけに、お母さんは一瞬キョトンとしたあと、そのまま続けた。
「・・・、お医者さんに言われたの。働きすぎ、気にしすぎだって・・・。もう少し遅かったり、ここで無理を
したら最悪の場合倒れたり、死んでいたかもしれなかった。そうやって怒られちゃった・・・。これでも
看護師さんなんだけどなぁ」
まるで叱られた子供のような表情で俺に語り掛けてきた。どうやら色んな意味でギリギリのタイミングだった
らしい。もし本来の百合子だったら、と思うとぞっとする。
「仕方ないよ・・・。私自身、本当にひどい娘だと思うし・・・」
「そんなことない!百合子も恵理子も私にとっては大切な・・・ゴホッ!ゴホゴホッ!」
「お母さん!無理しちゃだめだよ。ほら、横になって・・・」
俺が「百合子」に感じていたことを素直に吐き出すと、体調が悪いだろうに必死に否定してくれる。やっぱり、
本当にいいお母さんだな・・・。大丈夫、俺が「百合子」でいる間は、辛い思いさせないから。
「・・・、百合子。風邪が治ったら、ゆっくり話したり、一緒にご飯作ったりしましょうね・・・?私も、
もう絶対に無理はしすぎないようにするから・・・」
「うん・・・。ゆっくり話そうね。いっぱい教えて?お母さんの事、家族の事、それから・・・」
お母さんの身体を支え、横たえながらその目と目が合う。百合子の記憶が拒絶反応を起こすが、その感情を
押し殺す。「百合子」にとってお母さんの目は大の苦手だったようだ。何もかもを見通す、子供のことを
真剣に見守っているその目が、向き合おうとするその心が何より辛かったらしい。だから反抗して、自分の
殻に閉じこもって、あまつさえ他人を傷つけて・・・
「百合子・・・、泣いてるの?」
「えっ・・・?あ、あれ・・・?」
お母さんが心配そうな目で見つめてくる。どうやら俺は泣いていたらしい。
「だ、大丈夫だよ。目にゴミが入っただけだから・・・」
どうにか誤魔化すが、嘘は付けなかった。百合子の記憶を読んで、その感情の流れが分かって、それでも
その答えに至ったことが許せなかった。恵理子もそうだがあまりにも可哀想だった。世の中には、自分に
向き合ってさえくれない親だっているというのに・・・。そんなことを考えていると、ふと頭が柔らかな
感覚に包まれる。
「大丈夫。一人で抱え込むことなんてないわ・・・。私は、お母さんはいつまでも、百合子の味方よ。
って、今の私が言えたことじゃないか。無理しすぎてこの有様、だもんね」
お母さんは俺を抱きかかえながら、あやす様に俺に話しかけてくる。その事が本当に嬉しかった。
まだまだぎこちなくても、お母さんと少しずつ歩み寄っていける、それが出来そうだったから。だけど・・・
(俺にとっては本当の母さんじゃないんだよな・・・)
思い出してしまう。あくまでこの身体は借り物、勝手に押し付けられた他人の人生なんだ。俺が「俺」に
戻る方法を見つけたら、この関係も空中分解してしまうのではないか、せっかく打ち解けかけた関係も、
俺が作った関係さえも、「百合子」は喜んで破壊するんじゃないか、それならいっそ・・・
「少しだけでもお母さんらしく出来たかな?」
「うん、落ち着いた。ありがとう、お母さん・・・」
少し振り払うようにお母さんに声をかけ、部屋の外に出た。温かい家庭、心配してくれる家族、改善していく
関係、例え俺の物じゃなくても、今を全力で生きてみよう。そう思ってここまで積み上げてきた。実際、
それなりに効果は出始めていると実感さえしている。それで雁字搦めにしてやれば、百合子は何もできない、
そう思っていた。けど、
(今の「百合子」を見ていると、本当にそれで大丈夫か分からなくなってくる・・・)
今の百合子が操る俺とはすっかりご無沙汰である。だけど、よくない噂だけなら耳を塞いでいても聞こえて
きてしまう。バイトはサボりがち、成績は落ち込み気味、そして何より女子ともあまりいい付き合い方はして
いないようだ。
(なあ、清彦の奴どうしたんだ?)
(うん・・・、なんかいい噂聞かないよね。それに話も最近ずれる気がするし・・・)
(何というか、あんな奴だったっけ・・・?)
(それに・・・、いや、何でもない。何でも・・・)
この前佐竹と大川が俺の席のそばで話していた事だった。聞き耳を立てるつもりはなかったのだが、聞こえて
しまったものだ。
(そんな百合子が仮に戻ってきたとして、今の生活を良しとするか・・・?)
否である。俺の身体で味を占めた彼女は、生まれ変わった「百合子」の仮面さえ被れてしまうだろう。
なまじ今までの彼女にはなかった「人付き合い」を覚えてしまったのだ。そうなればもう答えは見えている・・・。
少なくとも百合子の脳は、かつての持ち主の性格をトレースして答えを導き出してくれた。そして俺にもそれを
否定できるだけのものはなかった。あまりに「あり得すぎる」未来だった。
「・・・、嫌だよぅ・・・」
そんな言葉が自然と口から出た。そうなれば毒牙にかかるのは間違いなくお母さんであり、恵理子であり、
あかね達である。恐らく和美も餌食になってしまうだろう。自分を助けてくれた人たち、「百合子」として
向き合った存在がひどい目に遭う、仮に元の俺の身体に戻ったとして、それを阻止できるだろうか。
――俺は一体、どうすればいいんだろうか・・・。
「・・・、ただいま」
恵理子の声で我に返る。結局彼女が帰ってくるまでの間、それを真剣に悩み続けていたが結局答えは出なかった。
彼女に余計な心配をかけるわけにもいかないと、百合子としての仮面を被り極力自然体で振舞おうとする。
「ああ、お帰り恵理子。ご飯、出来てるけどどうする?」
「・・・、食べる。あとこれ・・・」
答えた恵理子が一緒に手渡してきた。ヨーグルトや洗剤など、ちょうど切らしかけていたものだった。どうやら
買い物を済ませてきてくれたようだ。
「あ、ありがとうっ!ちょうど足りてなかったの!」
「・・・、うん」
やはり必要最小限の回答しかしてくれない。でも、気を使ってくれているのはよく伝わってきた。ぶっきらぼう
だけど、それでもどうにか近づこうとしてくれている。その不器用さに苦笑するとともに、気遣いが心に染みた。
「・・・、何?笑っちゃって・・・」
「ああ、ごめんごめん。何だかちょっと嬉しくて・・・」
「・・・、変なこと言わないでよ・・・」
思わず顔に出てしまった感情に、いつもの通り帰ってくる冷たい言葉。だが、その声色は不思議とどことなく
穏やかなものだった。
* *
「お母さーん、おはよう。調子はどう?」
「おはよう百合子。おかげさまでだいぶ楽になってきたわ。本当にありがとうね」
「顔色よくなってきたね。じゃあ、熱計ろうね」
学校へ通いながらお母さんの看病をする生活も早いもので4日目だ。そんなお母さんは前に比べると明らかに
顔色がよくなってきていた。お母さん曰く「こんなによく寝れた生活は久しぶりかも」と言っていた。今思うと、
確かにお母さん夜遅くまで起きてたし、朝も早かった気がする。
「37度6分・・・。下がってきたね」
39度近くまで上がっていた体温も段々と下がってきていた。それに食欲も出てきたようだ。下手をすると風邪を
引く前より今の状態の方がいくらかましかもしれない。
「それにしても、百合子のお友達の・・・、あかねちゃんだったかしら?凄いわね。冷却シートの貼り方といい、
ご飯のレシピといい、よく勉強してるわね。私も参考にしたいものだってあったくらいだわ」
あかねは本当にあれこれと親切に教えてくれた。料理に至ってはわざわざレシピまで作ってくれて
いた。彼女らしく擬音が混じっていたり、ちょっとカラフル過ぎる独特のレシピだったが、それでも
色鉛筆を使ったり、工程が難しいところは絵をかいておいてくれたりするなどと、一生懸命作って
くれたのがひしひしと伝わるものだった。それでいて味はおいしく、栄養まで考えられているのだから
たまったものではない。お母さんもレシピを見て思わず唸っていたほどだ。
(あかねって、料理作れるんだなぁ・・・)
そんな物思いにふけっていると、お母さんから「百合子、学校遅れちゃうよ?」と指摘される。気づけば
結構いい時間だったので、私は慌てて学校へ向かった。
・・・、周りに支えられながら続けてきたお母さんの看病、それが確実に実を結んで快方へと向かっている
手ごたえはあった。しかし、その事が男子高校生である「俺」にとってある種の試練を与えることになるとは、
この時は夢にも思っていなかった。
その日の晩御飯は鍋料理にした。お母さんもだいぶ体調が戻ってきたらしく、布団から出たり、一緒に
ご飯を食べられるくらいには回復した(家事をやろうとしてたのでそれは頑張って止めた)。
「美味しいわね!百合子が作ったの?」
「うん・・・。口にあったなら何よりだよ」
一応家事全般はこなせるがこの清彦、実は鍋だけはちょっと自信があった。親が帰ってこず、バイトで忙しい
日などはどうしてもご飯を作るのが適当になってしまう。そんなときによく作っていたのが鍋だった。色々
食べられるうえに、手間も割と簡単だ。極端な話、水を入れて煮ればどうにかなってしまう。ただ、鍋ばかり
食ってると飽きてしまう。だから、暇なときは出汁にこだわってみたり、味付けにこだわったりとあれこれ
工夫することがあった。その鍋を振舞ってみることにした。
今日は生姜ベースで味をつけてある。なるべく身体が温まるように具材を揃え、味を調えている。お母さんの
食欲もよく、恵理子も喋ってはくれないが手が止まっていない。それなりに好評のようで、胸を撫でおろした。
お母さんは俺と恵理子、それぞれに話題を振ってくれる。どうにか会話を設けようとあれこれ頑張ってくれて
いるが、なかなか2人での会話とはいかないようだ。正直仕方がないだろう。百合子が恵理子に与えた傷は、
1日2日でどうにかできるものではない。こればかりは少しずつ歩み寄っていかないと・・・。
「ごちそうさま!美味しかったわ!」
「ごちそうさま・・・」
「お粗末さまでした。お口にあったなら何よりだよ」
それなりに具材を用意したつもりだったが、きれいに完食となった。お母さんはまだ熱は下がり切って
いなかったが、顔色はだいぶ良くなってきているのが見ていてわかる。食欲もだいぶ戻ってきたあたり、
そろそろ風邪も治りそうだ。
「身体が芯からポカポカしてくるわね。ふわぁ・・・。少し眠いかも・・・」
「あとやっておくから、ゆっくり寝ててよ」
風邪をひいてからのお母さんは割と早寝だ。長い間身体に貯まっていた疲労が出てきてしまっているのだろう。
温まるような具材を大量投入したこともあり、その温かさに導かれるように眠気が出てきたみたいなので、
そのまま眠っててもらう。いっぱい食べて、暖かくしていっぱい寝る、風邪を治すときの基本は変わりないらしい。
お母さんが寝た後はいつもの通りに家事を片付けた。今日は恵理子がお皿を洗っておいてくれた。恵理子なりに気を
使ってくれているのだろうか、色々と尋ねてみたいことはあったが聞くことは叶わなかった。
「ふう・・・、やっぱり結構疲れるな。休みはちょっとゆっくりしようかな」
俺の身体ではいつもやっていたことをこなしてきたつもりだが、家族全員分の家事をやる以上どうしても量が多く
なるのと、百合子の身体は当然ながら不慣れだということもあり、結構疲れが溜まっているらしい。明日は確か
恵理子はいよいよ試合だから、彼女を送りだしたら少し昼寝しようかな。お弁当作ったら食べてくれるかな・・・?
そんなことを考えながら、寝る前にお母さんの様子を確認しに行く。最近は寝る前に冷却シートを張り替えたり、
水筒に水を補給している。とにかく水分補給はまめに、あかねから教わった事をお母さんに教えたら忠実に守って
くれているので、寝る前には意外と空っぽに近いところまでいっているのだ。
お母さんの部屋に入り、冷却シートを張り替えようとした時のことだった。
「凄い汗・・・」
そんなお母さんは、冷却シートが剥がれそうになるくらいの、大量の汗をかきながら眠っていた。
「えっ・・・、ちょっとこれ大丈夫なのか・・・?」
いつもとは違う様子に思わず慌ててしまい、お母さんの首筋に手を当てる。ただ、触ると懸念していた事とは
対照的に、熱があるという感じの熱さはなくなっていた。
「ふう・・・、熱、下がってきてるのかな」
風邪が治るタイミングでは、身体の熱を下げるためにかなり汗をかくと聞く。よく見ると汗こそかいているが
寝苦しいとか、呼吸が辛いとかそう言った様子には見えなかった。ただ汗だけが吹き出すように溢れている、
そんな様子だった。
「ちょっとごめんね、お母さん・・・」
俺はお母さんのパジャマの胸元のボタンを外し、汗をタオルで吹きながら脇の下に体温計を差し込む。湿った
感触と、胸にあたったときのマシュマロのような柔らかさにドキッとしてしまうが、頭を振りながらどうにか
我慢する。年齢の割に、若々しいお母さんの身体は年頃の俺には少し、男としては厳しいものがある。
――ピピピッ、ピピピッ
体温計の鳴動音に一瞬呆けかけてた意識を戻され、すぐに確認する。
「37度1分・・・、よかった。熱下がってきてる」
どうやら治りかけの発汗だったようだ。恐らくこのままいけば明日には熱も下がっているだろう。ただし・・・
「このままじゃ・・・、風邪ぶり返すよなぁ・・・」
夕ご飯が効いたのだろうか、それともお母さんがきちんと水分補給をしてくれているからだろうか、その
パジャマはぐっしょりと汗で濡れていた。この様子だと下着も濡れてしまっているだろう。このままの服では
せっかく引いてきた熱がまた戻ってしまうかもしれない。
「お母さん、ねえお母さん」
着替えてもらおうと身体をゆすってみたり、頬を軽く叩いてみたりして起こそうとしたが目を覚まさない。
かなり熟睡しているようだ。これではお母さんに着替えてもらう選択肢は取れない。となると残された選択肢は・・・
「俺が・・・、着替えさせるしかないのか・・・」
一応これでも男子高校生の俺にとっては、とても厳しい選択肢しか残されていなかった。
「と、取りあえず服と下着とタオル、だよな・・・」
幸いにも今日洗濯したばかりだったこともあり、お母さんのタンスを漁る必要はなかった。洗って畳んだもので
事足りたからだ。緑のチェック柄のパジャマに、白いシンプルなインナー、念のために下着を用意して持っていく。
着替えさせるのに勇気を出して覗いてみたが、どうやらブラジャーは付けず、インナーを下に着込んでいるらしい。
まあ、ずぼらな「百合子」は当然つけていなかったが、俺も胸が苦しいから結局ノーブラで寝ている。実際その方が
よく寝れるのもある。その辺は遺伝なのだろうか。ちなみに恵理子はナイトブラをつけている。家事を引き受けて
いると、どうしてもその辺の事情も理解できてしまうのだ。母に似て胸が大きく育ちつつある彼女にも、それなりに
苦労はあるのかもしれない。
「さてと・・・、やりますか」
「清彦」だったときに酔っぱらった母さんをベッドに放り投げたことはあったが、そのまま寝るか自分で着替えて
くれていたこともあり、女性を着替えさせることなんてなかった。ましてお母さん、沙苗さんは可愛い顔立ち、
小柄な身体に大きな胸といった、正直女性として魅力的な身体なのだ。ドキドキするなというほうが無理だろう。
布団を足までめくり、上半身だけピンクの可愛らしいパジャマを脱がせていく。ぐっしょりと湿った感触と
熱で普段より高いせいかしっかりとした温かさがない交ぜになった、何とも言えない感覚が手に伝わってくる。
「なるべく手早く・・・、でも・・・」
思わず生唾を飲み込んでしまう。無防備で力の入っていない手を動かすたびに、お母さんの柔らかな肌の感覚を、
年齢を考えても明らかに瑞々しい、白くて透き通る肌を味わってしまう。その肌の色は奇しくも百合子の肌の色と
そっくりな色だった。
「すっげぇ・・・、やっぱりおっぱい大きい・・・。ってだめだ。早くしないと」
力の抜けきったお母さんの身体をあの手この手でずらしながらパジャマを脱がせると、汗で濡れて、濃い灰色を
帯びているアンダーを着たのみの姿になる。シャツに対してまるで逆らうかのようにそびえたつその双丘は、
お母さんのバストの大きさを主張していた。
お母さんの腰を持って浮かせ、「バンザイ」のポーズを取らせるようにしてアンダーを剥ぎ取っていく。力の抜け
きったお母さんの身体は今の俺にとってはやはりだいぶ重たいが、起こさないように丁寧に、慎重に剥ぎ取った。
すると・・・
「きれい・・・」
露になったお母さんの上半身は、見惚れてしまうくらいに美しかった。年を経て少し垂れているが、きれいな丸い形を
した大きな乳房、身体を酷使しながらも節制しケアを続けた結果なのか、引き締まりつつも程よく肉付きのいいウェストに
大きなシミやしわもないきれいな白い肌、その小柄に不釣り合いな乳房と、可愛らしくあどけない寝顔を晒しながら
一定の呼吸を保つその姿は、まるで等身大の着せ替え人形のように整った、理想の女体であった。
「羨ましいなぁ・・・。特にこのおっぱい・・・、って違う。さっさと拭かないと」
思わず我を忘れかけるが、お母さんは病人だ。何とか意識を引き戻すが、こんな美人の身体を好き放題しているという
事実にどうしても興奮してしまう。
「と、取りあえず身体を・・・」
鼓動が昂るのをどうにか抑え、身体を拭いていく。バスタオルでお腹や腕、首の汗を拭うたびに、柔らかな感触がタオル
越しに伝わってくる。こうなると目を覚ましてくれた方がいっそ楽な気がしないでもないが、目を覚まされると説明が
難しい。もうこうなったら走り切るしかないのだ。
「やっぱり・・・、ここも拭かないとだめだよな・・・」
意識的に避けていたが、やっぱり胸も濡れてしまっている。思わず生唾を飲み込んだが、いよいよその柔らかな胸を
拭き始めた。
「やっわらか・・・。どうやったらこんな立派になるんだろう・・・」
タオル越しに伝わるマシュマロのように柔らかく、それでいてしっかりとした弾力を持った感覚はいつぞやの「復讐」
以来だが、以前よりハッキリとした感覚が伝わってくる。果たしてそれはタオル越しの下着もない感触なのだろうか。
それとも俺が百合子の身体に馴染んできた結果なのだろうか。そんなことを考え、かき分けながら胸の谷間の汗も
拭きとる。形のいい、そして大きい胸が俺の動作に合わせて歪み、離れると形を取り戻す。そしてその瑞々しい感覚が
さらに鋭敏に伝わり、百合子の身体の鼓動を早め、興奮させてしまう。すると・・・
「んぅ・・・、あっ・・・」
意識のないはずのお母さんの口から、艶めかしい喘ぎ声が聞こえてきた。
「もしかして、感じてるのか・・・?」
下を見てみると、お母さんの乳首が立ち、呼吸が早まっている。可愛らしいお母さんの妖艶な状態に思わず興奮して
しまう。自分の鼓動が高鳴り、早まるのをどうしても感じてしまう。気づけば自分の股の部分さえじんわりと濡れて
いた。どうやら百合子の身体は、俺の性的興奮をそのまま捉えてしまっているらしい。
「そうだ、背中も拭かないと・・・」
そっと背中に手を当ててみると、うっすらと湿っている。しかし、持ち上げて拭くのはどうやら難しそうだ。試して
みたが、力の抜けきったお母さんを支えるには百合子の腕が持ちそうにない。そこで・・・
「ごめんね・・・。起きないでくれよ・・・!」
布団に潜り込み、お母さんの上半身を起こす。今日は頭だけ痒かったらしく洗っており、シャンプーの濃密な匂いと、
身体を洗っていない分であろう、女性としての本来の匂いに包まれる。起きないように首をそっと支えて前に倒し、
そのまま抱きかかえる要領で身体を支え、背中を拭いていく。
(―――じょう―よ、百合子。おか――さんが、――――と守るからね―――)
そんな折、頭にしびれが走る。それは、百合子の幼い記憶の封印が解かれたものだった。
(いまのは・・・?昔の記憶か?)
恐らく本当の百合子でさえ思い出せないであろう幼い頃の話だと思う。そこにいたのはお腹を膨らませたお母さんに
抱かれた自分自身の記憶だった。恵理子が生まれる寸前くらいの話だろうか。それを引き金に今まではっきりと思い
出せなかった、幼い頃の記憶が滝のように溢れ出てくる。公園で遊んでいた記憶、思いっきり転んでお母さんに慰め
られた記憶、恵理子と2人でいたずらをして叱られた記憶・・・。
「・・・、さすがにここまで小さい頃は歪んでいなかったな・・・。もっと後で、決定的な何かがあったのか」
それらの記憶を手繰ると、どうにも問題を抱えた子には感じられなかった。素直で穏やか、家族とも仲良くしている
記憶だった。それが歪んだのは、どうやらもう少し大きくなってからのようだ。しかし、それ以上の記憶は溢れ出て
こない。元々の「百合子」が記憶を固く封印してしまったのだろう。これを紐解くにはきっかけがいる。それも
恐らく・・・、
「・・・、恵理子と、何かあったからなんだろうなぁ・・・」
お母さんの背中を拭きながら、百合子の頭から湧いた記憶を吟味し、整理する。しかし、固く閉ざされたその先の記憶が
阻害し、いつしか「仲が悪くなっていたお母さんと妹」という状態に至っている、物語の途中をごっそりと抜き取られた
記憶だけが俺には提示される。身体の方も何とか解き放とうとしているのか頭痛が続くが、どうやらまだそこまでは
許されていないようだ。
「この間何があったのかを聞けたり、分かればいいんだけど・・・、難しそうだなぁ」
お母さんとはまだまだ関係改善の途上だ。今の俺が聞いては逆効果になりそうだし、恵理子に対してはもはや賭けに近い。
今はまだ、控えたほうがいいだろう。まずはお母さんとの関係を戻して、少しずつ恵理子とも話していく。恐らくこれが
最適解と俺は結論付けることにした。
あらかた背中も拭き終わったところで、上半身の服を戻していく。片腕ずつインナーを通して着せて、さらに後ろから
服を着せていく。洗い立てのふんわりとした服の匂いが心地いい。少し時間はかかったが、どうにか上半身は着せ終わった。
「ふう・・・、思ったより疲れるな。結構体力を消費しちゃったか・・・。まだ下半身もあるんだけど、そんなに
手間かからないといいんだが」
いくらお母さんが小柄だからとはいえ、あまり体力のない百合子の肉体では疲れも段違いだ。早いところ
部活に参加し、根本から鍛え直す他ないだろうという思いはますます強まっていく。服を着せ終わり、
お母さんの後ろから抜けようとした時だった。
「あれ・・・?この匂いって・・・」
先ほどまではそれこそ興奮さえ覚えそうだった、お母さんから発される甘く、濃密な女の匂い、その匂いに俺は何故か
懐かしさを覚えてしまう。俺はどこかで、小さい頃に・・・
(大丈夫よ百合子、お母さんがこれからもずっと、ちゃんと守るからね―――)
「これって・・・、百合子の記憶か?」
気づけば頭痛も収まり、意識の抜けたお母さんから発される匂いに望郷のような思いを得たのは、どうやら百合子の身体が、
小さい頃から覚え続けていたかららしい。包まれるような優しさ、その温かさを封印したところで、身体はきちんと大切に
思いを取っておいたようだ。決していい匂いではないはずなのに、不思議と心が安らいでいく。包まれるような安心感は
全く感じたことのないものだった。
「何だよ・・・、お前も甘えたかったのか?百合子。・・・それとも、俺自身が甘えたかったのかな・・・?」
俺が清彦として自分自身の身体にあったころは、母さんをどうにか面倒は見ていたが、自分が甘えた覚えがほとんど
なかった。だからこそ、お母さん、沙苗さんに変わりを求めてしまったのだろうか。それともこれは、百合子自身が心の
奥底に封印していた思いなのだろうか?今の俺には分からなかった。
「ごめんねお母さん・・・、少しだけこうさせて・・・?」
俺はお母さんを背後から抱いた。抱きしめた身体から伝わる暖かな体温が、そこから漂う匂いに包まれ、どうにも安心
してしまう。意識のないお母さんを為すがままに使ってしまっている罪悪感もあるが、この安心感は拭い去れないもの
だった。
(落ち着く・・・。俺自身、もうちょっと甘えてみてもいいのかな・・・?)
本当は迷惑をかけるわけにもいかないし、あくまで「この身体の」お母さんである沙苗さんに甘えるのはどうかとも思う
のだが、少なくとも、今は俺が「百合子」だ。ちょっとくらい、少なくとも自分の身体に帰るその時まで、出来ないことは
やってみたい。そうやって素直に思えたのは、百合子の身体のお陰なのだろうか。それとも俺の、心の奥底に潜んでいた
渇望なのだろうか?
ふと我に返る。そうだ、まだ下の服を着替えさせていなかった。幸い時間にしてみるとそこまで経っていなかった。
抱きかかえるようにしていたお母さんの後ろから離れてそっと横たえ、足元へと移っていく。
「よいしょっと・・・。これはこれで体力使うな」
ぐったりとしたお母さんの腰を浮かせ、どうにか下着ごと脱がせて下半身を露にする。お母さんは小柄な身体に比して
お尻も大きい。いわゆる「出るところはきちんと出ている」タイプの体系だ。男の子としてこの家に生まれていたら
どうなっていただろうと、思わずそんな妄想をしてしまう。
「やっぱり足もキレイだよなぁ。きちんとするとこうなるのかなぁ」
上半身と比較すると汗の量は遥かに少ないが、それでも下着を履いていた部分を中心にかなり湿っている。肉付きがよく、
丁寧に手入れをされているであろう足を拭き終わり、少し股を開かせる。内ももはどうしても汗が貯まりやすい。そんな
濡れた部分を拭いていると、・・・、どうしても見えてしまう。百合子と恵理子、二人の存在をこの世に放った、まさに
この身体が生を受け、最初にこの世界へと出たその場所、お母さんの秘部が露になっていた。
「こ、これが・・・、お母さんの・・・」
その秘部は少しビラビラになっているが、それでも恐らくきれいな物なのだろう。ただ、俺が清彦として見てきたのは
せいぜいマンガやAVと言ったものだ。実際に他人の物を見るのは初めてだった。百合子と違い適度に処理された陰毛、
肉付きのいいお尻についたそれは不思議とまとまりを帯びたものに見えた。
「少し濡れてるよね・・・」
汗でもかいたのだろう。少し湿り気を帯びていたのでそこも拭きとっていく。あくまで刺激しないよう丁寧に、優しく
触れていく。すると・・・
「あっ・・・、ふあっ・・・」
すやすやと眠っていたお母さんの口から声が漏れる。きつく目をつむり、その表情には何かの刺激から堪えるように
力が入る。慌ててお母さんの顔を見るが、どうやら目を覚ましたわけではないらしい。手を離すと眉間のしわも
なくなり、名残惜しそうに穏やかな寝顔へと戻っていく。
「びっくりしたぁ・・・。え、でもこれって・・・」
拭いたタオルを見てみると、そこについていたのは少し粘り気を帯び、秘部から糸を引いている液体だった。
「もしかしてお母さん、感じてたの・・・?」
そこについていたのは汗ではなく、どうやらお母さんの膣から分泌された愛液だった。上半身を見るとその胸元に
2つ、小さな突起が立っているのが服越しにも見えた。顔もわずかばかり紅潮している。そして何より、せっかく
拭いた足元がまた湿り気を帯びてしまっている。無意識に感じてしまっているのだろう。
「お母さん、感度いいんだな・・・」
百合子の身体も感じないわけではない。だが、本来の「百合子」があまりに特殊な性癖だったこともあり、感度が
高いかというとそう言うわけではない。この身体に入ってから俺もそれなりに自慰はさせてしまっているが、結構
下準備がいる。押し寄せてくる快楽は男の比ではないが、それでもどちらかというと鈍いほうなのだろうとは思っている。
あかりと二人っきりになったときに際どい話を聞いてみたこともあったが、時間がかかることに結構ビックリされた
から間違いないだろう。
「もう1回、拭かないと・・・」
再度拭き取ろうと試みるが、やはりお母さんの口からは艶やかな声が漏れ、また愛液が分泌される。その様子に俺も
ドキドキしてしまう。「俺」の目線で見てしまうと、お母さんは40代とは思えないくらいに若々しく、可愛らしい人だ。
そんな人を「他人」目線で見てしまうとそこにあるのは、AVなんか比じゃない、リアルな衝撃が、出来事が展開される。
続きを期待しています。
続きお待ちしてます。
続編、お待ちしております。
完結していない点、続きが来ない点から減点してます。それがなければ満点でした。
この図書室が落ちる前に最高評価で書き込みます。
ぜひ、続きが読みたいです。