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詩緒姉さんの帰国 ―先生の女 番外編―

2020/11/22 09:34:36
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詩緒はアメリカから日本へ向かう飛行機の中にいた。
ファーストクラスとはいえ、飛行機の移動は長く退屈だ。本や新聞を読むのにも飽きて、詩緒はいまここに至るまでの日々を思い出していた。
男だった自分が先生の手により女になったのは、忘れもしない高校一年、16歳の秋。あれから18年も経っている。

高校卒業後、プロテニスプレーヤー尾形詩緒の経歴は栄光に包まれている。ATPランキングは最高位2位。日本人初の四大大会優勝。全英が二度、全米・全豪 ともに一度。ボールスピードが遅いクレーコートの全仏タイトルこそ取ったことが無いが、男子並みの弾丸サーブと豪速スマッシュを武器に、テニス界のトップ へと駆け上がった。
今は34歳。往時のボールスピードはさすがにない。しかし頭脳的なストロークと動じない精神力を新たな武器に加え、ATPランキングは16位。現在でもトッププロであり続けている。
年齢的には問題無い。むしろ、技術的にはまだまだやれる。彼女はそう確信している。ナブラチロワがウィンブルドン混合ダブルスで優勝したのは、46歳261日。そんな最年長記録に挑戦するというのも悪くない。

しかし、さすがに疲れてきたかな、と最近思うようになった。
自分は全身全霊テニスに打ち込んできた。最初は両親から受けられなかった情愛の欠落感を埋めるために。女になってからは、自分が男性的な闘争心を持ち続けていることを証明するために。
それは十分な成果をあげた。達成感はすでにある。そのためか、勝利への渇望感は以前よりも薄らいだ気がする。
三十歳を過ぎた女性アスリートは、いつ引退するのかとマスコミによく聞かれる。その質問には否定を繰り返してきた。しかし何をきっかけにやめるか、という回答は胸の内にある。
弟のことだ。

詩緒が高校三年生の時に生まれた、年の離れた弟、良明。成長するに従い、詩緒は彼をテニスへと導いてきた。歩けないうちからおもちゃのテニスラケットとテニスボールを与え、歩き始めれば子供用のラケットをいちはやく握らせた。
海外ツアーの合間を縫って実家に帰っては、弟を相手にテニスをした。それは娯楽ではなく、稽古だった。誰よりも厳しいコーチに、「姉さん、姉さん」と良明はよくついてきた。
「姉さん、すごいなあ。ぼくも姉さんみたいな、プロテニスプレーヤーになれるかなあ」
「なれるさ。良明は男なんだから、オレよりも、もっと強くなれる」
よくそんな話をしたものだ。

良明の才能は自分並みにある、と詩緒は思っていた。だが、それだけではない。良明は発想が柔軟だ。詩緒は高校生当時、強く速いボールで相手を叩きのめすことしか頭になかった。だが、良明は違う。
彼は序盤からボールを前後左右に打ち分け相手を走らせる。相手の弱点が例えばバックハンドなら、バックハンドを徹底して突く。パワーで押せない時はスト ローク勝負に切り替える。そうした詩緒が年齢を重ねるにしたがって身につけてきた老獪さを、良明は高校生の段階で既に身に付けていた。
彼はずっと姉のテニスを見ていた。詩緒が後天的に会得したものを、子供の頃から見てきたのだ。そして詩緒を理想として自らを鍛えてきた。
詩緒のような試行錯誤をしていない。そのぶんだけ、良明は自分よりも早く先へ行けるのではないか?
男子テニスは女子よりも層が厚い。しかし、良明ならその厚い壁を打ち破れるかもしれない。詩緒がかつて目指していた男子テニスで。

女になったことで果たせなかった男子テニスへの夢を、弟に託そうとしている。詩緒はそれを自覚していた。
良明にしてみれば迷惑な話かもしれない。余計な負担かもしれない。しかし、詩緒が両親を選べなかったように、良明は姉を選べなかったのだ。尾形詩緒の弟に生れた以上、これは避けられないことだ。
その良明は、今年高校一年生。詩緒の母校に入学して詩緒の後輩になった。体の成長に伴って、彼はめきめきとパワーをつけてきた。ボールスピードだけなら、もう詩緒を追い越しているかもしれない。
この弟に負ける日が来れば、そう、尾形詩緒の後継者を男子テニス界に送り出せる日が来れば、自分は引退してもいい。詩緒はひそかにそう心に決めていた。


「ニッポンはまだか。楽しみだな」
詩緒の思考は、右隣のデイビッドに英語で話しかけられて、中断した。
デイビッド・マーフィーは詩緒の夫だ。結婚して六年になる。
「ニッポンは大好きなんだ。ナットウを除けばね」
そう言ってデイビッドは快活に笑った。彼はほとんど日本語を解さない。夫婦の会話はもっぱら英語だ。
「君の弟、ワンダーボーイ・ヨシアキにも会いたい。何よりヨシアキとシオのテニスを見たいな。シオはヨシアキとテニスをする時、どんな大会よりも真剣な顔をしているよ」
その通りだ。

詩緒がデイビッドと出会った場所は、息抜きに訪れたカリフォルニア州のスキー場だった。
「おい、あんたはテニスプレーヤーの、シオ・オガタじゃないか」
熊のような体をした、逞しいアメリカ人から声をかけられた。
「この間、全米で決勝まで行ってたよな」
その時は惜しくも決勝で敗れた。だが、全米だけあって、その後アメリカ国内を歩いていると、こんな風に知らない人間によく声をかけられていた。
「そうだが、あんたは」
詩緒の返答は、少しぞんざいだったかもしれない。
「おい、俺を知らないのか。オリンピックの金メダリストだぜ」
その顔に見覚えは無い。
「知らないよ。アメリカ人は金メダリストが多すぎて覚えられない」
「ハ、ハ。嬉しいことを言ってくれるじゃないか、親愛なるジャパニーズガール」
詩緒はむっとした。だいたい、彼女はレイディとかガールなどと言われると不機嫌になる。それにはもちろん、女性になった経緯が関係している。自分が女になってしまったのは確かだが、それを念押しされるような単語は嫌いなのだ。
「オレはガールじゃねえよ」
「レイディのほうが良かったか。ガールってのは、若くて綺麗だってことさ」
どうやら褒めているつもりらしい。詩緒は機嫌を直して、逆に質問した。
「それであんたはどのオリンピックでどんな世界一になったんだ。親愛なるアメリカンカウボーイ」
「ハッハッハ。ますます気に行ったぜ」
デイビッドはアルペンスキーの世界チャンピオンだった。それから二人はスキー場でともにスキーをした。それをきっかけに、急速に親密になっていった。
「シオはテニスプレーヤーっていう前に、いい女じゃないか。それに気が強いってところがいい。俺好みだ」
デイビッドは熱心に詩緒を口説いた。
「最高の女に似合うのは最高の男さ。つまりシオには俺、デイビッドってことだ」
デイビッドは常に自信満々だった。どこか先生、詩緒を女にした男、と似た所があった。


高校卒業後の約十年間、詩緒はどんな男性を好きにもならなかったし、誰とも、女性とも交わりはしなかった。先生に匹敵するほど魅力的な男にも出会わなかっ たし、双葉以上に親しめる女性もいなかった。女の快楽を知っている体が疼くことはあったが、そんな夜は自慰で紛らわせていた。悶々とした思いは全てテニスにぶつけていた。
しかし、詩緒は磁石に引き寄せられる鉄釘のように、次第にこの陽気なアメリカンに魅かれていった。体を許し合う仲になるまでに、時間はかからなかった。
デイビッドは獰猛な獣が餌を貪るような愛し方をした。詩緒の薄い胸を激しく揉みしだき、全身を舐めまわした。愛撫だけで幾度も詩緒はオーガズムへと吹き上げられた。もちろんそれで終わるわけもなく、デイビッドは詩緒を太い肉棒で貫き、幾たびも熱い迸りを詩緒の胎内に注ぎ込んだ。詩緒の体もまた、それに応えた。激しい行為を全て受け止めて自分の快楽へと昇華させた。さらに快楽を与えてくれるデイビッドの男性自身を、詩緒自らが愛撫し奮い立たせ、貪欲に次も次もと求め続けた。
アスリートが限界まで体力を絞り出すように、二人の性行為は互いに互いをぎりぎりまで求めあうものだった。デイビッドも詩緒も、相手の体に溺れ夢中になった。
「ハッハッハ。俺と寝た女はどいつもこいつも体がもたないと言って、俺から去っていったものさ。シオみたいな女は初めてだ」
二人ともトップアスリートだから、会える日はそう多くない。しかし、互いにオフの日は、時間の許す限り体を求めあった。
「これはもう、一緒に暮らすしかないな、マイハニー」
出会って三カ月も経たないうちにデイビッドはプロポーズした。詩緒もまた、心も体も彼から離れがたいものを感じていた。
「オレもそう思っていたところさ、ダーリン」

「ところでシオ。君は俺に会うまではどうしていたんだ。そんな淫らな体で、本当に男はいなかったのかい」
詩緒はにやりと笑って答えた。
「王子様が来るのを窓辺で待ちながら、マスをかいていたのさ」


出会って半年後に二人は結婚式をアメリカの教会で挙げた。とっとと、くっついてしまおう、と互いの練習や試合の日の合間を縫って、式の日をひねり出した。
トップアスリート同士の結婚で、知り合いを全て呼んだら大変なことになりそうだった。しかし二人は、近しい人のみを呼んだ簡素な式にした。デイビッドは言った。
「豪華なパーティーはシーズンオフでいいさ」
詩緒は日本から両親と弟、そして後輩にして親友の双葉、計四人だけを式のためアメリカに呼んだ。

詩緒は筋肉質だが肩幅は決して広くはなく、純白のドレスを身にまとった姿は細身で可憐だった。
(姉さんって、こんなに綺麗だったんだ)
弟の良明は声も出せずに、口をあんぐりと開けてただ驚いていた。

バージンロードを共に歩く直前に、父は言った。
「感無量だな。まあ、男親というものは、娘にいつかこんな日が来ると思っているものだ。私も、詩緒がいつか嫁に行くと。いつからかな、そんなふうに思うようになったのは。詩緒が小さい頃は思いもしなかったか。はて、いつからだろう。高校生ぐらいからかな」
それはそうだ。小さい頃は息子だったのだから、嫁に行くなどと思っていたわけがない。

「ビューティフル アンド グレイスフル。口を開きさえしなければ、シオは本物のヤマトナデシコだな」
礼装に身を包んだ熊男、デイビッドもしきりに感心していた。
「これが俺のワイフだ。もう叫びだしたくなるくらい嬉しいよ。こういう気分を日本語ではなんて言うんだい」
「三国一の果報者、かな。アイアム ザ ハッピエスト マン、イン スリー カントリーズ」
「スリー カントリーズ? どこのことだい」
本当は日本・唐・天竺だが、相手はアメリカ人だ。説明が面倒くさかったので、詩緒はアレンジした。
「日本とアメリカと、ジンバブエあたりにしておくか」
「ハ、ハ、ハ。こいつはいい。ジンバブエ中の男どもがオレに嫉妬しているってわけだな」
デイビッドはそう言って豪放に笑った。

「へへ。ダンナに子供押しつけてきちゃった」
アメリカの教会に飛んできた双葉は、そう言って微笑んだ。双葉は大学在学中に付き合っていた男性と、卒業後すぐに結婚していた。F市、高校の頃に住んでいた家の隣の市、に夫と住んでいる。詩緒の結婚式の頃にはすでに三歳の子供がいた。就職した会社で事務系の仕事をしながら主婦をしていた。大学を出ても就職 口がなかなか無くて、就職するまで大変だったから、結婚しても子供が出来ても会社をやめる気になれないのだという。
双葉の話を聞いていると、元々男性だったのに、一般的な女の人生を歩んでいるのだな、と詩緒は妙な感慨に打たれた。
「詩緒さん、きれい」
詩緒のウェディングドレス姿を見て、双葉も感嘆の声を上げた。
体にせよ性格にせよ、自分の女性的な部分を指摘されると、なんとなく不機嫌になる詩緒だった。しかし、結婚式で綺麗と褒められることは、不思議と悪い気はしなかった。これが女の幸福というものだろうか。
「詩緒も綺麗だっただろ」
かつて双葉の結婚式に詩緒も出ていた。多忙な詩緒が出られるように、双葉が式の日程を合わせてくれた。
「うーん、ぼくもほめられたけど、詩緒さんの綺麗さ、って違う。息を呑むっていうか、おとぎ話の絵を見ているような感じ」
そう言われても自分ではピンとこない詩緒だった。

詩緒と二人きりになった時に、双葉は小声でこうも言った。
「それにしても、詩緒さん、半年前にデイビッドに会うまで男がいなかったって本当? ぼくには男無しなんて、三日も耐えられないよ」
双葉は今の夫にプロポーズされた時、
「ぼくを毎日抱いてくれる?」
と聞いたそうだ。相手はおののきながら三日に一度は必ず、と答えたそうで、「それならいいや」とプロポーズに応えたという。
最低三日に一度、という誓いは夫の長期出張や双葉の生理・妊娠中を除けば、今でも守られているそうだ。

「ぼくはうちの旦那様に満足しているんだけど、妹の芽衣の相手はわりと淡泊らしいんだよね」
双葉の弟が先生の女になった、という話は聞いていた。その妹、芽衣と双葉が女同士でしばしば愛し合っていることも。芽衣も双葉と同じく、大学を出てすぐに 結婚した。先生の女、特に男性から女性に変わった者は結婚が早い。体が男性を求めているからだろう。そういえば冬子も大学卒業後、ほどなくして結婚していた。だが結婚したとしても、性欲の強い男性に当たるとは限らない。芽衣の結婚相手は性格は良いのだが、性生活は週に一回か二週間に一回程度だという。
世の一般的な女性ならそれで十分かもしれないが、芽衣にはそれが不満なのだと。
「だから暇を見つけてはぼくの所に遊びに来るんだよね。うちの旦那が出張の時を見計らって」
姉妹の女同士の営みはまだ続いているらしい。
「それ、旦那が出張で体が寂しいから、双葉が妹を呼んでるんじゃないか?」
「バレた?」

詩緒の結婚式の頃にそんなことを言っていた双葉も、もう子供が三人に増えた。妹の芽衣にも子供が二人いるそうだ。芽衣が遊びに来ると5人の子供が戦場のようにけたたましく、姉妹で愛し合っている場合ではないと言う。
レズ行為はともかくとして、あの姉妹は平凡で幸福な女の人生を歩んでいる。男性だったことが嘘のように。
いや、それは違う。あの姉妹もかつて自分たちが男性だったことを忘れたことはないだろう。詩緒ほどの強烈な思いはないにしても。


「マミィ、マミィ、ニッポンはまだ?」
詩緒の思考は、今度は左隣のキャシーに話しかけられて中断した。
キャシーはデイビッドと詩緒の娘だ。もうすぐ三歳になる。直毛で黒い髪と切れ長の目をした詩緒とは違い、栗色の癖毛で丸い目をしている。どちらかと言えば父親似だ。
「起きた?」
「うん」
「もうすぐだよ」
「ニッポンのグランパ、グランマ、ヨシアキにもうすぐ会えるんだね」
「そうさ」
一人娘のキャシーは日本で良明に会うのを楽しみにしていた。良明は子供好きで、カタコト英語しか話せないが、キャシーとよく遊んでくれる。キャシーにしてみれば頼れるお兄さん、いや本当は叔父さんだが、良い遊び相手だ。
キャシーを見ながら、詩緒は思う。
(子供はもう一人くらいほしい)
しかし、この子を産んだ時と違って、次の子には決断がいる。
デイビッドと結婚した翌年にキャシーが産まれた。その時には、出産によるブランクのことなど、深くは考えなかった。母になっても復帰はできるし、復帰後に勝てる自信もあった。実際、キャシー出産後、四大大会の優勝こそしていないが、何度かトーナメント大会で優勝している。
しかし、自分はすでに年齢的な体力のピークを過ぎている。今度また出産によるブランクが入ったら、その後に勝てる自信は無い。次の子を宿して産む、というのは引退と引き換えになるだろう。
そのことはデイビッドと何度も話し合っている。子供好きなデイビッドも二人目の子を望んでいるが、詩緒の考えを尊重していた。二人の性行為は、現在安全日でなければ避妊具を付けて行われている。
二人目の子、か。引退の覚悟をするのも、それほど遠い未来ではない。ならば覚悟をするまで、もう少しテニスを続けてもいいのではないか。などと思いながら、詩緒は結論を毎度のように先延ばしにした。

「はやくニッポンに着かないかな」
笑いながらキャシーが言う。つぶらな瞳が、笑うとくるくる回るようだ。
親馬鹿とは思うが、キャシーは可愛い。自分が子供を産んで、その子を可愛がる日が来るなんて、女になったばかりの頃は思いもしなかった。

「世界を舞台にテニスで活躍することだ。君が強くなれば、そんな君を凌駕しようというさらに強い男が、君の前に現れるだろう」
「詩緒君もやがては子を産む女の幸福を知るようになるだろう」

卒業パーティーで先生に言われた言葉だ。言霊は使っていないと言われたが、詩緒は結局、先生が言った通りの人生を歩んできた。テニスで活躍し、力強い男性を伴侶にして、子を産む女の幸せを知った。
(先生が言った通り、か。そう思えば少し悔しいが)
女になって良かったなどとは今でも言いたくないが、女の人生を満喫した成功者にはなれたのかもしれない。それは満足してもいいことだろう。
後は男子テニスプレーヤーとして出来なかったことが残るだけだ。それは詩緒には果たせない。だが、弟の良明が詩緒の思いを継いでくれるだろう。

飛行機は空港へ向けて降下を始めた。



「ベティ、ただいま」
家の前で詩緒は黒い番犬に声をかけた。何カ月ぶりかという来訪者に黒い犬は尻尾を振って応えた。詩緒のことを覚えていたのだ。
このベティは二代目だ。
詩緒が飼っていたベティは3年半前に亡くなった。キャシーがお腹にいた詩緒は、ベティ危篤の連絡にも動くことが出来なかった。詩緒にとってベティはただの飼い犬ではなかった。半ば自分の分身だった。
ベティの死の報を聞いて詩緒は号泣した。デイビッドはその時、初めて詩緒が泣くのを見た。
いま玄関にいる二代目は初代ベティの孫娘にあたる。詩緒がアメリカにいる間に連れて来られた。普段面倒をみているのは弟の良明だ。
初めて詩緒がこのベティを見た時、見知らぬ訪問者に忠実な番犬は吠えかかった。
「てめぇ、オレが誰だと思っている」
詩緒が顔を寄せて凄んだら、それだけでベティは吠えるのをやめた。賢い犬には家に住む人間の序列がわかる、という。
「家の主が旅から帰ってきた、とベティは思ったみたいだね」
そう言って良明は感心していた。

「ただいま」
ベティへの挨拶を終えて、詩緒は玄関から中に入った。返事はない。かまわずに先へ進む。
「ヘイ、キャシー。ここは日本だ。靴のまま入っちゃ駄目だ」
後ろで走って入ろうとするキャシーを、デイビッドが引きとめた。娘は夫に任せて、詩緒はリビングに入った。
「あ、姉さん、おかえり」

詩緒は思わず、手に持った荷物を取り落とした。
そこにいたのは、TシャツGパンの「女の子」だった。変声期を迎えていた筈の声は甲高く、シャツの下の胸は明らかに膨らんでいた。
「お前、まさか、良明……」
「うん、ぼく、先生の女になったんだよ」
(なんで)
詩緒は言葉を失った。
「先生、格好いいよねえ」
(そうだ。こいつ、今年高校に入ったんだ。俺の母校に)
「三週間前に職員室に呼ばれて、先生に好きです、って言ったら女にされちゃった」
(双葉と同じパターンじゃねえか)
「ぼくねえ、ずっと姉さんみたいな女子プロテニスプレーヤーになりたいって思ってたんだよ」
(姉さんみたいなプロテニスプレーヤーになりたいって、そういう意味か)
「だから女の子になって嬉しくって」
(なりたい系かよ)
「先生の女になったら、姉さんも前は男で、先生に女に変えてもらった、って聞いて驚いたよ」
(こいつにだけは知られたくなかったのに)
「先生が言ってたよ。ぼくと姉さんは似てるって。ぼくは素直だけど姉さんは素直じゃない。違うのはそこだけだって」
(どこが似てるって言うんだ)
「憧れの姉さんに似てるって言われて、ぼく、嬉しかった」
(オレは嬉しくなんかない、良明!)
「あ、 そうそう。さっき姉さん、ぼくを良明って呼んでたけど、ぼくもう良明じゃないから。さとって言うんだ。新しい女の名前。先生につけてもらった。さんずいに 少ないの沙にみやこと書いて沙都。先生がね、姉が詩緒(塩)だから砂糖でいいだろう、って。先生のネーミングセンスって独特だよね。でもこの名前、気に 入ってるんだ」
(オレは気に食わねえ)
「どう? 女になったぼく。可愛い?」
(可愛いというより美人系、って、そんな話じゃない)

(お・ま・え・と・い・う・や・つ・は)

言いようのない怒りに震えていると、デイビッドがキャシーを連れてリビングに入ってきた。

「ヘイ、この女の子は誰だい。ヨシアキに似ているようだが」
「イエス。アイワズヨシアキ、スリーウィークスアゴー。バットアイアムアガールナウ。マイニューネイムイズサト」
「ホワッツハプン?」
「ジ ャ パ ニ ー ズ ニ ン ジ ャ マ ジ ッ ク」
暗示だ。
「アイ、シー」
良明、もとい、沙都の言葉に、デイビッドはあっさり納得してしまった。そんなに簡単に納得するなよ、と詩緒は思った。
「ヨシアキ イズ ア ガール ナウ。ユア ニュー ネイム イズ サト。オーケー」
キャシーもまた、なんら疑問に持つことなくあっさり納得してしまった。この娘は順応性が高すぎる。
「それでさ、姉さん。さっきの質問なんだけど、答えてくれない?」
「なんだ」
「ぼく、可愛い?」
怒りを通り越した詩緒の顔は蒼ざめていた。

「テニス、やるぞ」
その詩緒の言葉に、良明、いや、沙都は耳を疑った。
「アメリカから、帰ってきたばかりでしょ。時差ボケもあるだろうし、休んだら」
「こ・れ・が・打・た・ず・に・い・ら・れ・る・か」
声が震えている。本気で怒っている時の、姉の癖だ。
「あ、あの、父さんと母さんも、もうすぐ買い物から帰ってくるし」
「デイビッドとキャシーに留守番をしてもらおう」
「あのっ、ぼく、まだ、初めての生理が終わってなくて」
「タンポン突っ込んで来い! オレは、生理中にトーナメントで優勝したことが何度もある!」


二十分後、二人は町内の私営テニスコートにいた。詩緒と沙都のホームグラウンドだ。予約などなくても、コートさえ空いていれば二人は顔パスだった。
ウォーミングアップを終えると、二人は試合形式でワンゲーム打ち合った。
そのゲームで、詩緒は沙都を6-0で叩きのめした。詩緒のサーブは悉くエースとなり、沙都のサーブはリターンエースを食らった。傍から見たら勝負ではなく、なにかのいじめに見えたかもしれない。
ワンゲーム終わって、詩緒は沙都に説教をした。

「女になって三週間も、何をしていた。全然女の体がわかっていない。筋力だけじゃないんだ。足の長さ、腕の長さも違う。歩幅がどれぐらいか、どこまで腕を伸ばせばラケットがボールに届くか。骨の付き方も違う。関節の回し方も変わってくる。まず自分の体と対話するんだ。どう動けばいいか、どう打てばいいか。生まれた時から当たり前に動かしていた体全部をチェックしなおせ。それが出来れば、生まれた時から女で、何も考えないでテニスをしている連中よりも、むしろ優位に立てる。
女は男に敵わないことばかりじゃない。筋力もスピードもないが体の柔軟性がある。男の時には打てなかったスピンが掛けられるようになる。
持久力もメンタルの保ち方も女になれば変わってくる。そこも考えろ」
圧倒される思いで沙都は聞いていた。それは、経験者にしか出来ない、貴重なアドバイスだった。

日が落ちてきた。後片付けをして帰ろうとしたところで、一台の小型車がコートの外、金網のすぐ脇に来て、止まった。
双葉の車だった。
「詩緒さん、お久しぶり」
そう言いながら双葉は車を降り、息せききって金網に駆け寄ってきた。詩緒は小首を傾げた。
「オレ、今日帰って来たばかりなのに、なんでここでテニスをしてるってわかったんだ?」
「沙都ちゃんが、メールで教えてくれた。今から詩緒さんとテニスするから、来れたら来てって。仕事終わらせて、すぐに飛んで来ちゃった」
メールか。素直で人懐っこい性格の双葉は、詩緒の家族全員と親しい。双葉と沙都も互いのメールアドレスぐらい知っているだろう。この弟、もとい妹は、出がけのばたばたした時間にメールを打っていたのか。と、待て。
「沙都ちゃん、って、言ったね。知ってた? 良明が女になったって」
「うん。先週、F市でばったり会って」
双葉の一家が住んでいるF市の商店街には、詩緒や沙都も買い物に行くこともあるから、街でばったり双葉と会うこともある。
「見たことのあるような女子高生だと思って、少し考えたらわかった。良明君だ。ああ、先生の女になったんだ。やっぱり、って」
「やっぱり?」
「うん。意外じゃなかった。ぼくもそうだし、ぼくの弟も、詩緒さんも先生の女になったわけだけど、だからなんとなくわかるんだよね。先生の女になりそうな男の子って」
「良明、って子供の時からそんな奴だった?」
「うん。良明君が詩緒さんを見ている目なんか、ただの憧れっていうより、ああいう女の人になりたい、って感じだった。なんか、発想も女の子っぽいところがあっ て。ぼくがスカートを穿いていたら、そんな恰好もしてみたいとか子供の時に言っていたり。この子はぼくよりももっと、なりたい系かなって」
「オレは全然、気付かなかったな」
「詩緒さんに女の子っぽいことを言うと、怒られると思ったんじゃない? それに詩緒さんは良明君を男子プレーヤーに育てようと懸命だったから、そういうところ に気付かなかったんじゃないかな。自分の弟って、関係が近いからかえってわからないんだよ。ぼくも弟の幸彦が芽衣になるまで気づかなかったし」
「そうか」
「先週会った時は沙都ちゃんといろんな話をして、立ち話だけど。ぼくや詩緒さんが女になった話とか、詩緒さんが男子プレーヤーとして活躍したかったと今でも思ってるとか、そんな話もした。それから、なりたい系で、先生を好きになったんなら、それは女になって良かったんじゃないかな、って言った。ありがとう、って言われた」
「余計なことを言うなよ」
「そうかな。あと、詩緒さんには良明君が女になった、ってぼくが教えようか、って言ったんだけど。詩緒さんショック受けるよって」
「受けたよ」
「だよね。でも沙都ちゃん、自分で話すって。それは自分でしなきゃいけない、って言ってた」
「そうか」
「先生を好きになったらしょうがないじゃない。詩緒さんもしょうがなかったでしょう?」
「いや、今でもしょうがなくなかったんじゃないかな、と思うことはある。でも、そう思っても、今さらだな」
「だよね」
「ああ、うちに寄ってく? 夕飯、オレもなんか作るよ」
「ううん。これから保育所に行って下の子を迎えに行かないといけないから。詩緒さん、まだこっちにいるんでしょう?」
「うん。一週間くらい家にいる。東京で試合があるんだ。それまでここで調整するから」
「じゃあ、今日じゃなくて、もっと時間がある時に行くから。連絡する」
「わかった。じゃあね」
「またね」
言うだけ言うと、双葉は慌ただしく去っていった。
「あ、双葉さん。ああ、行っちゃったか。素早いな。挨拶くらいしようと思っていたのに」
道具を片づけていた沙都が、駆け寄って来て言った。
「何の話してたの」
「お前の話だよ」
「ふうん」
沙都はそれ以上、何も言わなかった。詩緒と双葉が何を話したか、聞かなくてもだいたいわかっているようだ。
まあ、あれだ。沙都にあまり怒るな、ということだ。双葉が言いたかったのは。

家に帰ると、二代目ベティが沙都に向かって唸り声をあげた。まだ沙都を飼い主だと認識していないらしい。オレが女になったときと同じだ、と詩緒は思い出していた。


夕食後、詩緒、デイビッド、キャシーは詩緒の部屋に入った。もともと詩緒の部屋は十畳程度の広さがある。そこに元々あった詩緒用のシングルベッドに加えて、デイビッド用のベッド一台、キャシー用のベッド一台がすでに入っていた。
長旅の疲れもあって、デイビッドとキャシーはあっさり眠ってしまった。しかし、詩緒は眠れなかった。弟の良明が妹になってしまった衝撃は、なかなか脳裏を去らなかった。

眠れずに寝がえりを打った時、ドアを叩く音がした。
「姉さん、ちょっと」
沙都の声だった。詩緒はデイビッドとキャシーを起こさぬようにそっとベッドを離れると、扉を開けた。そして沙都の後に続き、彼女の部屋に入った。良明が生まれるまでは物置だった隣の部屋だ。
壁に詩緒の母校の、女子の制服がかかっていた。デザインは詩緒が女子高生だった頃と変わらない。女になって詩緒が抵抗なくこの制服を着られるまでには何カ月もかかった。沙都が女になってまだ三週間。
「これを着て学校に行っているのか」
「うん。もう慣れた。今はこれが着られるだけで嬉しくって」
これほどまでになりたい系だったのか。
「まだ、怒ってる? ぼくが女になったこと」
「怒ってはいない。でも、落胆はしている。さっき横になっていた時、いろいろ考えた。オレは確かに男だった頃の夢、男子プロテニスプレーヤーになること、を良明、いや、沙都だったな、に託していた。でもそれは自分の勝手な思い込みだったのかな、とか」
「姉さんが忙しい中、ぼくを鍛えたりアドバイスをくれたことは感謝してるよ。だからテニスも強くなれたし。でも、」
「女になりたかったし、先生を好きになってしまったし、か」
「うん」
屈託のない声で沙都は答えた。詩緒はため息をついた。
「沙都」
「なに?」
「見せてくれないか。そうしないと、諦めきれないんだ」

姉の意図を察した沙都は、着ていたパジャマを脱いだ。さらにはその下の下着まで脱いだ。部屋の明かりの下で、若い女の裸身が露わになった。
(女の体だ)
胸のふくらみ。男根の無い股間。かつての弟は、間違いなく、女になっていた。
(似ている)
若い頃の自分に。細い体躯。形が良い薄い胸。女らしさは乏しいが、上半身も下半身も筋肉質で緊張感がある。
「金ヤスリみたい。触ったら火が出そうだ」
高校生の頃、詩緒はよく双葉にそう言われたものだ。沙都もそんな体だった。
「昼にも言ったけど、先生がね、ぼくと姉さんはよく似てるって言うんだ」
体は似ているな、と詩緒は思う。
「顔や体もそうだが、性格も似てるって。姉さんも先生を好きになって女になったんでしょう。同じ人を好きになるんだから、似てるよね」
あの頃は認めたくなかったことだ。だが、詩緒は頷いた。
「そうか。そうだな。オレも先生を好きだった」
似た姉妹、なのかもしれない。

「姉さんの裸も見たいな。ぼくだけが見せるんじゃなくて」
沙都が少し笑いながら言った。
「昔はよく一緒にお風呂に入ったじゃない。ぼくが大きくなってから別々になったけど。もう女どうしなんだし、いいでしょ」
「ああ、いいよ」
詩緒は着ていたパジャマと下着を脱いだ。今度は三十路の女の裸身が蛍光灯の下で浮かび上がった。
「姉さん、綺麗」
沙都が呟いた。
「そんなことはない。お前のように若くはない。子供を産んで線も崩れてきた」
「ううん、違う。体が柔らかい。ただのアスリートじゃなくって、ちゃんと女の人って感じがする。男の人を愛して、その人の子供を産んで、女らしい毎日を送っている体」
沙都は本気で詩緒の体に感心しているようだった。

「ぼくね、女になって残念だったことがひとつあるんだ」
沙都のことだ。男子テニスで世界一、などとは言わないだろう、と詩緒は思った。だが、沙都の言葉はそんな想像を超えていた。
「姉さんとセックスができなくなったことさ」
「な、っ」
詩緒は声を詰まらせた。
「何を言い出すんだっ!」
「言ったじゃない? 姉さんはぼくの憧れだって。男の子が、憧れの女性と結びつきたいと思うのは、そんなに変なことかな」
「だからって」
「姉と弟なんて、関係ないよ。でももう妹だけど」
沙都の口調はしっかりしていた。嘘や冗談で言っているのではなかった。
「ぼくは大きくなって、毎日のようにオナニーをするようになった。男の子なんだから普通だよね。そのオナニーの時は、毎回、姉さんのことを考えていたんだ」

詩緒の驚愕を無視して、沙都の告白は続いた。
「例えばこんな想像をしていた。姉さんとテニスをしている。ぼくはミスばかりしている。そのうちに姉さんが怒りだす。
『てめえ、それでも男か。チンチンついてんのか』
ネットを乗り越えて姉さんが迫ってくる。ぼくは逃げ出すことができない。姉さんはぼくを押し倒して、パンツを脱がせる。ぼくのペニスは興奮してそそり立ってい る。それを見られてしまい、ぼくは真っ赤になってしまう。顔を覆っていると姉さんはぼくのペニスを握りしめて、言うんだ。
『けっ、ここだけは男らしいんだな。こんなちんちんはこうしてやる』
姉さんは下半身だけ脱いで、ぼくにのしかかる。ぼくのペニスは姉さんの中に包まれてしまう。姉さんがぼくの上で腰を動かすと、ぼくはあっという間に、イってしまうんだ」

「ひでえズリネタだな。シスコンのマゾか」
詩緒は呆れて言った。
「そうさ。ぼくは姉さんに犯されることを夢見ていたんだ」
悪びれもせずに沙都は言った。
「先生に呼び出された時、この話をしたんだ。いや、強制的に話をさせられた」
そうだろう。先生はどんな性的な嗜好もあらわにしてしまう。詩緒の時もそうだった。詩緒本人も認めていなかったのに、男に圧倒されメス犬のように犯されたいという願望を引き出され、女にされてしまった。
「ぼくは先生に言われた。君の性志向は女性そのものだ。私に魅かれたのも君に女性的な心があったからだ。君は女になったほうがいい、とね」
良明、のちの沙都は、すぐに女になることに同意した。だが、先生の説明には続きがあった。

「そもそもインセストタブーなどというものを私は気にしない。姉と弟が二人とも真に交わりたいと言うならば止めるほうが罪だ。双方の同意がありさえすればいい。私はそう思っている。
だが、問題はその双方の同意だ。
良明君。君の姉さんは、君が男性である限り、決して君と交わろうとはしないだろう。詩緒君はあれで、とても女性的な性的嗜好をしている。力強い男性に圧倒的されるような性行為を求めているんだ。彼女の夫、熊のような大男、デイビッドはまさに理想の伴侶だ。
良明君。君は男性でありながら女性のように犯されることを望んでいる。君はデイビッドとは真逆の男だ。良明君が男性である限り、詩緒君が君と性行為を行うことはあり得んよ。
だが、良明君が女性になったら、話が違ってくる。
詩緒君はかつて男性だったことに強いこだわりがある。詩緒君の後輩でありかつ親友の双葉君を、君も知っているだろう。家族ぐるみの付き合いと聞いているよ。詩緒君はかつてその双葉君と、女同士で性的な関係があった。私が勧めたんだがね。詩緒君と双葉君が愛し合う時、詩緒君が男役のときは男性的、男らしくあろうとしたようだ。自分がかつて男だったことを証明しようとでもいうのかな。女役の時は真逆だったようだが。
つまりだ。良明君、君は女性になったほうが、詩緒君と交われるチャンスがある。そういうことだ」

「ぼくは姉さんに抱かれたい」
気がつくと、裸の沙都が潤んだ瞳で詩緒を見上げていた。
「沙都」
同じく裸の詩緒は、立ちあがって沙都に近寄った。そして、答える代りに、自分の唇で、沙都の唇を塞いだ。さらに、ゆっくりと沙都の鍛えられた裸身を抱きしめた。
夜、沙都の部屋へ呼び出された時から、なんとなく、こうなるような予感がしていた。
いや、その予感は、初めて良明が女に、沙都になっている姿を見た時からかもしれない。
同じ女の詩緒にしてみても、それだけ沙都は魅力的だったのだ。思わず抱いてしまいたくなるほどに。


「沙都は生理中じゃなかったのか」
「姉さんとテニスをしている間に止まっちゃったよ」

詩緒は沙都の背後に立った。その手は沙都のわきの下から回り込んで、沙都の胸を捕えた。
「は、あ、あ」
(思った通り、オレに似ている。胸が敏感だ)
唇を首筋に這わせると、沙都の声はさらに切迫したものになった。
(もうすっかり、女の反応だな)
「先生に何度抱かれた?」
「二回、うっ、ああ、そこ、いい」
女になってまだ三週間。その間に二度の性行為。それだけで沙都の体は、もうすっかり女の快楽を刻み込まれていた。
(先生に女にされた、か)
詩緒もそうだった。先生に女にされたその日から、心は拒んでも、体はもう女の性愛に染まって先生のモノを求めるようになっていた。ましてや沙都は望んで女になった。女の快楽を貪欲に追及することこそあれ、拒むことはあるまい。
「姉さん、ああ、いい」
背中を舌で刺激すると、沙都からさらに甘えたような声が漏れた。それを合図に手を胸から離して、下へと向かわせた。秘毛の下はもうすっかり濡れていた。
「ああっ」
沙都の女の部分を軽く撫でるだけで嬌声があがった。
(すぐにイってしまいそうだ)
そう思った時、沙都が喘ぎながら、言った。
「姉さんの机……」
「オレの机がなんだって」
「姉さんの机の中、鍵がかかっていた場所があった。それが、ぼくが女になった途端、机の別な場所から鍵が見つかったんだ。姉さん、暗示で鍵を見えなくしていたんだね。その机の中のものが、今、ぼくの机の中にある。ごめん。勝手に持ってきて、ぼくが使っているんだ」
何の話だ。そう思いながら見てみると、沙都の机の中にあったのは、詩緒が愛用していたバイブレータだった。双葉が持ち込んだものはもう双葉が持ち返ってこの家に無かったが、詩緒用のバイブと、バイブ装着用の腰バンドは共に、詩緒の机の中に入れたままだった。それが、沙都の机の中に移動していた。
「それを、使って。姉さん、ぼくを、それで犯して」

「人のものを勝手に使いやがって」
「これが姉さんの中に入ったんだ、って思うと、一人で慰める時、すごく興奮するんだ」
潤んだ瞳で、沙都は言い訳をした。その沙都の目の前で、詩緒はバイブレータを腰に装着した。
「これが欲しいのか」
「うん」
「まったく、先生の女はどいつもこいつも淫乱娘だ」
「姉さんもそうだった?」
「もちろんだ」

ベッドの上で仰向けになった沙都を見下ろしながら、詩緒は挿入した。
「ああ、嬉しい。姉さんに貫かれるなんて」
沙都は感激した声を上げた。実際に入ってきたのは詩緒のペニスではなくバイブレータなのだが、それは沙都にとって瑣末なことのようだ。
沙都が感激していたのに対し、詩緒の頭は冷静だった。
(真っすぐ入れるより、上を擦り上げるようにして)
「は、あ、あうん」
(沙都が感じてる。やはり、昔のオレや双葉と同じだ。沙都の膣は、先生のペニスにちょうど合うように造られている)
それならば、自分が女子高生だった頃、先生に攻められ、双葉を攻め、あるいは双葉に攻められた時と同じように突けばいい。
「あ、あ、あ、姉さん。いい、いいよ」
胸を揉みしだかれた時から高まっていた沙都は、すぐにでもイキそうだった。
(少し焦らしてやろう)
動きを緩め、敢えてGスポットを外して、高まりが持続するようにしてみる。双葉と愉しむ時によく使った手だ。
「姉さん、ああ、姉さん、お願い」
当時、双葉との間には信頼関係があった。いつかはイカせてくれる。だから、こうした時に双葉はじっと耐えていた。そのほうがイク時の快感が大きいとわかっていたからだ。だが、沙都は詩緒との行為は初めてだ。少し不安な心持ちがあったようだ。
「安心して、まかせて」
「うん」
イキそうでイカない体に耐えながら、沙都が小さく頷いた。
(可愛いじゃないか。まったく)
先生が性別を変えた女は例外なく可愛いし美人になる。そして性感も高い。
「あ、あ、もうイキそう」
じっくり攻めても沙都はもう決壊しそうだった。詩緒は動きを速めて素直にイカせることにした。
先生の女は、イク時に誓いの言葉を唱える。さて、沙都は先生の女として、どんな誓いの言葉を述べるのだろうか。
「ああ、姉さん、イク、もう、だめ」

『ぼ く は、 姉 さ ん の よ う な 女 に な り ま す』

詩緒は愕然とした。
(よりによって、その言葉か。お前、どこまでシスコンなんだよ。オレはそんな妹になるような弟に、育てた覚えはないっ!)



何分、悄然としていただろうか。余韻から醒めた沙都が体を起して、詩緒の耳元で囁いた。
「次は姉さんの番だよ」


良明が産まれたのは、詩緒が高校三年生の時だった。母の手が離せない時など、詩緒がおむつを替えてやったこともあった。赤ん坊の良明の股間には可愛らしい男性の象徴があった。詩緒もかつては持ち、しかし失ってしまったものが。
「生意気なものをつけやがって」
それをよく指で弾いたりしたものだ。敏感な性器を弾いたために、幼い弟を泣かせてしまったこともある。

その弟が女になり、腰にバイブを装着して、詩緒を犯そうとしていた。
「お前、オレに犯されたかったんじゃないのか」
「姉さんを満足させたいんだ。それに、ぼくにだって、少しは男性的な気持ちがあるんだよ」
沙都は仰向けで寝ている詩緒の両足を、両の手でゆっくりと開いていった。詩緒の女の部分が、沙都の前で露わになった。
「姉さん、すごく濡れてる」
かつて弟だった妹を、女である自分が犯した。その自分もまたかつては男だった。そんな倒錯した性の行為は、詩緒を激しく興奮させていた。冷静にバイブを沙都に打ちつけながらも、自分の股間もまた濡れていたのだ。
今度は自分が貫かれたかった。どうしようもなく。
「姉さん、どうしてほしい?」
詩緒の大陰唇を沙都は指先でゆっくりと撫でまわした。
「生意気だな。焦らしているのか」
「うん。焦らされるの、好きなんでしょう」
先生に聞いたのか。双葉に聞いたのか。
「ああ、好きだ」
「姉さん、すごくいやらしい顔。日本が誇るテニスプレーヤーが、こんなに淫らだなんて」
「ふふ、そんなふうに言葉で責められるのも大好きだ。入れてくれ。そのバイブを。オレのあそこの中に」
「あそこって?」
「おまんこ」
沙都はその言葉を震えるような心持ちで聞いた。あの厳しく自分を鍛え上げてくれた姉から、こんな単語を聞く日がくるなんて。この四文字を聞くために自分は女になった。そうとまで思った。

沙都の疑似肉棒は、ゆっくりと詩緒の中に侵入してきた。
「は、ああ」
詩緒から思わず歓喜の声が漏れた。その声に勢いを得た沙都はバイブを打ちつけ始めた。動きがぎこちない。沙都は女同士が初めてだし、自分のペニスではないから、どうしても動きは手さぐりになる。
だが、男だった頃の本能が残っていたのか、沙都は次第にリズミカルに腰を動かし始めた。
「あっ、あっ、あっ」
思わず嬌声を上げてしまった詩緒。それに力を得て、さらに沙都は詩緒から快楽を絞り取ろうとした。
(あ、違う)
それは膣内の腹側を擦り上げるような、先生がセックスをするときのペニスと同じ動きだった。さっき詩緒が沙都を犯した時と同じだ。
だがその律動は、先生のペニスに合うように造られた膣だからこそ感じるものだ。詩緒の膣は卒業パーティーの時、「一般用に」と、先生に造り変えられていた。
「そうじゃなくて、」
沙都の動きが止まった。
「もっと真っすぐ突いて。奥まで一気に進むような感じで」
沙都の動きが変わった。単純な出し入れだが、それはデイビッドの肉棒の動きに似て、詩緒の快感を素直に引き出していった。
一般的な膣。それは、当たり前の男根の動きで、一番感じるように造られていたのだ。

「は、あ、あ、いい」
沙都の挿入する人工の肉棒は、萎えることもなければ暴発することもない。詩緒の体は確実に高められていった。
「あ、あ」
「姉さんの顔、すごくいやらしい。そんな顔になるんだ。イク時は言ってね。姉さん」
言われなくてもイキそうだった。詩緒の腕は、自分でも気づかぬうちに中空をさまよいだした。デイビッドに抱かれている時、その腕は彼の背中に回している。だが、詩緒の顔を見たかった沙都は、詩緒が犯した時と同じく、坐したまま詩緒に挿入していた。
その詩緒の目に入ったのは、揺れる沙都の膨らみだった。中空に漂った詩緒の手は、その胸を掴んだ。
「は、あ、イク、っ」
沙都の胸を掴んだまま、背をのけぞらせて、詩緒は絶頂に達した。


「姉さん。良かった?」
「ああ。初めてなのに、なかなかうまいじゃないか」
余韻が去って詩緒が落ち着いた頃、二人は話し始めた。
「姉さん、胸、痛いよ。おもいっきり掴むんだから」
「オレに黙ってそんなものを膨らませているからだ」
「ぶう。せっかく先生に膨らませてもらったのに」
「胸があったって邪魔なだけだろう」
「ぼくはずっと、そんな膨らんだ胸をしていた姉さんが、うらやましかったんだ。まさか姉さんも昔は男だったなんて知らなかったけどね」
「姉さんがうらやましかった、か」
逆だった。詩緒はずっと弟、良明が羨ましかった。詩緒は不仲の両親のもと、氷のような家庭で育った。だが良明は違う。彼は両親が和解してから生まれた。十分な愛情に育まれてきた。
詩緒は、じぶんが女になったのは、氷のような家庭で育ったおかげで性衝動がねじ曲がってしまったからだ、そう思っていた。だから良明が、自分のように女になる筈はないと思っていた。
「君たち姉妹は似ていると先生が言ったって?」
「そうだよ」
「そうか。そうかもしれないな」
二人は何かに導かれるように先生に出会い、女になった。そんなふうに生れついていたのかもしれない。
「姉さんはもう、誓いの言葉は言わないんだね」
「ああ。オレは女になってしあわせだ。それはわかっている。だからもう、言う必要は無いんだ」
それは、卒業パーティーで先生が詩緒に言った言葉と同じだった。

そこまで話し終えると、詩緒はベッドから立ち上がった。
「自分の部屋に戻っちゃうの? 子供の頃みたいに、一緒に寝ようよ」
「そういうわけにはいかない。キャシーはベビーシッター泣かせでね。夜中に突然目を覚ますことがある。その時、隣にオレがいないと泣くんだ」
「母親なんだね、姉さん」
「そうさ」

背中に手を回してブラジャーをつける詩緒を見て、沙都が言った。
「色っぽいね」
「妹に言われても嬉しくない」
「弟なら良かった?」
「弟でも嬉しくない。弟は性の対象じゃなかった。男であって男じゃない」
「でも、姉さんは姉さんだけど、女だよ。ぼくには性の対象だった。ずっと」
「ふん」
さっきまで快楽を貪っていた姉は、その時にはもう、普段の凛とした口調に戻っていた。

「姉さん」
沙都の口調が変わった。その真剣な声に、おや、と思って詩緒は沙都のほうを向いた。沙都の目に、いつの間にか炎が宿っていた。戦う女の眼だ。
「姉さん、テニス、やめないよね。ぼく、せっかく女になったんだし、姉さんと公式戦で戦いたいんだ」
ほう、と詩緒は思った。自分が引退時期について悩んでいたのを、それとなく感じていたのだろうか。
それにしても沙都の、この刺すような眼差しはどうだ。こいつもラケットを持った戦士だったのか。

「いいだろう。沙都、お前がオレを乗り越えようと言うのなら、オレはお前の壁であり続けよう。どこまでも高くそびえたつ壁になろう。早くその壁を登って来い。相手になってやる」


やがて沙都はプロテニスプレーヤーとなり、公式戦で詩緒と対戦する。
何度目かの挑戦の後、ついに姉に勝利する。
それを機に姉は引退する。
妹は引退した姉に代わって、トッププレーヤーへの道を駆け上っていく。

例えばこの姉妹には、そんな未来があるのかもしれない。
だが、そんな未来は、もうしばらく先になりそうである。
沙都の姉への挑戦状は、詩緒の闘争心に、再び火をつけてしまったからだ。


良明が沙都になった翌年の六月、尾形詩緒は全仏で優勝し、生涯グランドスラムを達成した。

<終わり>
これを書いたのが2010年です。いま読むと時代性を感じますね。当時は日本人の女子テニスプレーヤーがランキング一位になる日が来るなどと、想像していませんでした。
この番外編だけを読むと、何が何だかわからない所が多いかもしれません。本編は双葉と詩緒が女子高生だった頃の物語です。無理に薦める気はないですが、もし興味があったら、「支援図書館 CACHE」で「先生の女」シリーズを読んでみてください。
みあ
0.660簡易評価
10.100ななし
先生の女シリーズ、大好きでした!もう十年も前になるんですね…感慨深いです。まさか今続編?が読めるとは!ありがとうございます
11.100きよひこ
ありがとうございます、リクエストした者です。
もう10年ですか・・・でも改めて読んでも新鮮でした。
16.100ふゆ
こんないい作品があったんですね、今まで知りませんでした、番外編を最初に読んで良かったので本編を読んでみました、第五部で詩緒さんが女になって元カノと話し、先生に女になってしあわせですと言うシーンがグッときました