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魔法学院の生徒会長(前編)

2016/03/31 21:30:40
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「お久しぶりですわね」
わたしを迎え入れた少女が微笑んだ。首元には青い宝石をはめた金のブローチが輝いている。光によって色合いを変える髪は、一昨年の夏よりかなり伸びていた。

「どうぞ楽になさって。人払いはしましたから」
魔法学院は生徒の自立を促す意味から、生徒会にかなりの権限を持たせている。生徒会長には個人用の執務室が与えられていた。
わたしは無言で手帳に「盗み聞きは?」と書くと示す。中等部一年の秋から会長を務め続けている彼女が以前にも増して熱烈な支持を集めていることは、入学式からの数日でもよくわかった。ファンの暴走くらいはありうるだろう。
「用心深いですわね」
言って、片手を一振り。それだけで部屋全体に外部からの観測を封じる結界が張られた。
「……わたしの真似はやめてくださらない?」
「と言われましても。今はわたくしがフタバですもの。あなたこそ、そのしゃべり方は『キヨヒコ』らしくないと思いますわ」
それは、事実。『フタバ』は目の前の少女。わたしは『キヨヒコ』という平凡な顔立ちの少年で、女言葉なんて似合わない。
それでも、二人しかいない今くらいは、本来のわたしの口調で話したかった。
一昨年の夏、避暑地で地元の少年『キヨヒコ』と入れ替わってしまうまでは、わたしが『フタバ』だったのだから。


極めて高い魔力を持って生まれたその時から、わたしは一族当主だった。
一族当主に力を与える青い宝石をはめた金色の魔具は、わたしが生まれた瞬間に前当主であった祖父の胸元から消え失せて、わたしの傍に現れた。わたしは周囲から常に敬意をもって遇され、しかしそれに自惚れることなく、魔法やその他学業や帝王学を学び研鑽し続けた。
けれどわたしは、魔具の存在について考え違いをしていた。



一昨年の夏、わたしは新たに購入した別荘で寛いでいた。
未成年ということで一族当主としての仕事はあまりなく、それらも有能な補佐役たちに支えられているためさしたる負担でもない。
むしろ学院の生徒会長としての仕事が存外疲れるものだった。
「……学園祭のもう少し効率的な運営を考案したいですわね。後で去年までの詳細な資料を取り寄せないと……」
心身を休めるつもりなのについついあれこれ考えてしまう自分に苦笑する。
散歩へ行くことにした。


門を出て防護結界の外へ出ると、隠形魔法を併用しつつ、飛行魔法で宙に舞う。もちろん飛び始めたら探知魔法で衝突を警戒。
わたしの中から迸る魔力が、虹色の光を一瞬放った。
この辺りの別荘は年配の持ち主が多く、他に飛行魔法を使う者はいない(移動には飛行魔法より転移魔法の方がよほど便利だ。非魔法の移動手段に例えるなら、スキーと自家用機のような違いである)。おかげで空を独占できるのは気持ちいい。
しばらく空を飛ぶ楽しさを満喫して、いつの間にか近くの山村上空に来ていた。
と、目の前に少年がふらふらと飛んで来た。
「嘘でしょ?!」
探知魔法はきちんと発動している。飛行魔法を使えるほどの大きさの魔力なら、確実に検知できるはず。けれど目の前の少年からは小さな魔力しか感じない。ほんの少し魔法を使える程度の、この世の九割九分を占める一般人並みの魔力。
そして相手は、探知魔法を使っていないようだ。身を隠しているわたしに気づくことなく、こちらへ飛んでくる。
高速というわけではないから、すぐ回避行動に入れば回避できた。こちらの隠形魔法を解けば、向こうが気づいて回避なり停止なりしたかもしれない。
しかし目の前の事態を理解できず固まってしまったわたしはどちらもできず。
「え?」
彼と接触、少年の驚きの声とともに近くの原っぱへ墜落してしまった。
魔力でクッションを作り怪我はない。しかしわたしはそのまま去るつもりはない。
彼から話を聞き出さずにはいられなかった。

「どのような術式を組みましたの!?」
「そ、その……」
気弱そうな少年――キヨヒコから話を聞き出す。それは驚くべき発想の転換だった。
彼の魔力はわたしの五百分の一未満。しかしこの工夫により魔力の効率を二十倍以上に高めている。

――もし彼にわたしと同じ魔力があったら、どれほどのことを成し遂げてしまうのか。

魔法の能力とは、魔力と努力の積だとわたしは思っていた。しかし努力は誰でもしていて、時間が平等な以上大きな差をつけられない、ゆえにトップレベルにおいては最終的に魔力がものを言う、と。
けれど、目の前のこの少年の「才能」は群を抜いていた。
わたしが十四年間積み上げてきた努力へのプライドを粉々にするほどに。

しかし同時に、哀れむしかなかった。
なるほど、この術式の改良はすごい。発見者として栄誉を称えられるだろう。しかしそれが普及したら彼本人は再び魔力の乏しさに足を引っぱられる。
今度はもっと高度な魔法を改良したりする手もあるかもしれない。だが改良をしようにも、彼はそれら高度な魔法がどんなものか肌身で理解できないのだ。どんな術を考案しても、実践で磨けなければ空理空論の域を出ない。
虚弱体質なのにスポーツの天稟を与えられたようなアンバランスさだ。

そして、もう一度考えてしまった。
――彼にわたしぐらいの魔力があったら……。

考えた、その瞬間。
わたしの胸元の魔具が、ひとりでに動き出した。

生まれた時からわたしとともにあった魔具。金のブローチと青い宝石。
その青い宝石が今、わたしの首から離れてしまい、ふわりと宙に浮いた。
生まれて初めての事態に、わたしは激しい不安をかき立てられた。裸にされたような居心地の悪さ。
青い石はそのまま、キヨヒコの元へ飛んでいく。
「これ、は?」
彼が呟いた時、漂う石が彼の額に触れた。
「あ……うぅ……」
危害を加えられているようには見えない。しかしキヨヒコは呻き声をあげる。
何が起きているかわからないが、よくないと思った。不安は消えないままながら、わたしは彼を助けようと一歩踏み出した。
その瞬間、キヨヒコは口を開いた。
「うん。……なら、僕が当主になる」
言葉が発せられると同時、わたしの意識は一瞬途絶えた。


ふらつきそうになる足に力を入れ、閉じてしまった眼を開ける。
けれど、その目に映る景色はさっきまでとは様変わりしていた。
わたしの目の前にいるのは、キヨヒコではなくて少女。どこか見覚えのある姿。
わたしの額に接触していたものが離れていく。それは、さっきまでキヨヒコの額に触れていたはずの青い宝石。
石は、宙を飛んでいくと、少女の首を飾る金のブローチへと元通りにはまる。
と同時に、少女は目を開く。
わたしにとっては、毎日見てきた顏。けれど鏡でしか見たことのない顔。
「あなた……」
わたしが呼びかけると、少女――『フタバ』は少し待てとばかりに手を挙げて遮る。さっきまでのわたしなら、無礼と腹を立てたに違いない振る舞い。
けれど今、わたしはそんな気持ちになれない。そんな余裕がない。
最前からの不安感はまだ続いている。だけどそれすら生ぬるいほどの新たな恐怖。服を脱がされたどころか、全身の皮を剥がれたような恐ろしさ。
わたしの全身から魔力が失われていた。
皆無になったわけではない。けれど、魔法をほとんど何も使えないほどの乏しさ。……まるで一般人のような。

「ようやく頭の中が落ち着きましたわ……お可哀想ですけれど、悪く思わないでくださいませね」
手を下ろした『フタバ』が、わたしそっくりの口調で言う。
「魔具は、強くあらんとする者を好みますの。そのために、所有者である一族当主へ常に自信を与え続ける」
自信に満ちた声音でわたしへ語る。
「なのにあなたは先ほど、『キヨヒコ』の才能に怯え、自分より彼に魔力があった方がいいのではないかとすら考えた。ゆえに魔具はあなたに見切りをつけて、ある意味あなたの望んだとおりにした。わたくしにも、こんな奇跡みたいな幸運を逃すつもりはなかった」
そこまで言うと、『フタバ』は滑らかに上昇する。虹色の魔力――『わたし』固有のはずの魔力が、わたしの目の前で軽やかに弾ける。
「魔具がフルサポートしてくれたわたくしほどではありませんが、あなたも日常生活をこなせるくらいの記憶は得られるはずですわ。新たな人生に幸あらんことをお祈りいたします」
「ま、待って……」
口から出るのは、自分でもわかるほど弱々しい声。
「ご容赦くださいませ。わたくしも忙しいの。帰宅したら、学園祭の詳細な資料を取り寄せないといけませんから」
そして『双葉』は姿を消し――隠形魔法だ――消え去った。
後に一人残されたわたしは、自分の身体を見下ろす。
平らな胸。安そうな既製品の衣服。そしてズボンの内側、股間に感じる存在。
鏡がなくともわたしが『キヨヒコ』になってしまったことはよくわかった。

わたしは、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
ついさっきまで、わたしはフタバという女の子だったのに。膨大な魔力を持つ、高名な一族の当主だったのに。
今はキヨヒコという男の子。空は飛べるけど、魔力は一般人並みしかない。
こんなに一気に人生というものが変わってしまうなんて。

……どれくらいそこに立っていたのだろう。
どこかのスピーカーから流れる間の抜けた音楽が、わたしを我に返らせた。
あれは村役場のお昼の防災無線。そろそろ帰らないと、またお母さんに叱られる。でもここは村の外れだから家まで歩いて帰るには三時間か四時間くらいかかるはずで、お母さんはともかく、きっと妹のワカバを心配させてしまうのが心苦しい……。
「え?」
自分の脳裏で立て続けに展開した思考に、少し遅れて愕然とする。
わたしはキヨヒコのことを何も知らないのに。別荘から少し離れたこの村の地理やら何やらなんてまったく知るわけがないのに。
でも今、『キヨヒコ』の記憶は、自然とわたしの中に湧き起こっていた。
「わたし……わたし、フタバなのに……」
自分が自分でなくなる恐怖。わたしは思わず両腕で体を守るように抱くが、その身体自体がすでに『フタバ』のものではない。
線の細い、華奢な体つき。クラスで背の順だと必ず前の方。女みたいだと小学校の頃はよくからかわれ、時にはいじめられもした。
いじめから逃げるように学校の図書室へよく行くようになった。
心惹かれたのは、魔法について書かれた本。
自分でも魔法を使えるようになりたくて、でもわたしはごく少ない魔力しか持たないいわゆる一般人で、それでもどうにか魔法を使えないかと試行錯誤……
「!」
わたしは両腕を体から離して、おぞましいものを振り払うように闇雲に振り回す。けれど何ができるわけもなく、半袖のシャツが少しはためくだけ。
このシャツはお母さんが遠出した時に買ってきてくれたお気に入りのもので、わたし自身も好き。だから今日、初めて飛行魔法を実験してみる時に着ようと思って、でも少し汚してしまったから帰ったらこのことでも怒られそうな……
「おかしくなりそう……」
何をしても、『キヨヒコ』の記憶が芋づる式に引き出される。『フタバ』の記憶が損なわれているわけではないけれど、記憶は二重写しのようになっていて、しかも『キヨヒコ』側に焦点が合わさりやすくなっているようだ。
けれどこれは利点もあると、前向きに考えてみる。
今のわたしが『フタバ』の別荘へどうにか辿り着いても、『フタバ』がきっと入れ替わりを否定する以上、「おかしなことを言う地元の男の子」として追い出されるだけの公算は高い。
ならばわたしは当面『キヨヒコ』として暮らしていくしかない。彼のふりをする以上、その記憶が簡単に手に入るのはむしろ幸運というものでは……
「幸運なんかじゃない」
都合が良い、くらいのことは言えても、幸運なんてとんでもない。そこまで自分をごまかす必要はない。
「わたしは、フタバ。わたしは『フタバ』に戻る。キヨヒコからいつか『フタバ』を取り戻す」
それがこれからの目標。心に思い定め、実際に口にすると、身体を入れ替えられてからの混乱が少しだけ鎮まった気がした。

「……でも、どうしよう」
周囲に人のいそうにない山間の原っぱに一人。『家』への大まかな方角はわかるけれど、実際にここへ来たのは『キヨヒコ』としても初めてのことで、森を突っ切るか舗装された道へ出て大きく迂回するか、どっちにしても時間はかかる。
「あ、そうだ」
魔法で空を飛べばいい。いくら『キヨヒコ』になったからって、なぜそれを忘れてしまっていたんだろう。
この魔力では不安だけれど、さっきキヨヒコ本人から理屈は聞いている。彼にできたことがわたしにできないわけがない。
空を飛んで家に帰ったら、わたしをいつも応援してくれたワカバは喜んでくれるだろうか。魔力が乏しい人間が魔法なんかに関わるなといつも言っていた母さんが腰を抜かしたら、ちょっと面白いかも。
そんなことを考えつつ魔法を発動しようとして。
「あれ?」
わたしは、少しも宙に浮けなかった。

魔力消費を抑える工夫はしている。けれどそこにはまた何かコツのようなものが必要で、ついさっき理屈を聞いただけのわたしには再現できない。この件に関しては、『キヨヒコ』の記憶も一向に蘇らない。
焦れて、これまで通りに飛ぼうとした。けれどほんの十センチほど浮いたところで気力の限界に達し、あえなく地面に戻る。
「魔力がないって、こんなにつらいんだ……」
呟くと同時に思い出す『キヨヒコ』の過去。魔力がなければ魔法は満足に使えない。魔法がろくに使えない者が魔法に関わるべきではない。それはこの世界の常識ではあるけれど。クラスの魔力が高い連中にもからかわれたことではあるけれど。この村の期待を背負って魔法学院に入学したものの冴えない成績で卒業した母さんにも散々言われたことではあるけれど。 でも、わたしは本当に魔法が好きで。
悔しさ、つらさ、魔力さえあればという渇望。
あの時、キヨヒコがわたしとの入れ替わりを拒まなかったのも、わかるような気がした。


ともあれ、飛べない以上はどうしようもない。
わたしは歩いて『家』へ帰るしかなかった。少しでも早くと、森の中を進む。
森の中なんて生まれて初めて歩くのに、困難は感じない。ただ時間がかかるのが厄介だと感じるだけ。
途中で湧水を見つけ、『いつも』のように手ですくって飲む。
そんな風に一時間ほど歩いた後になって、わたしは尿意を催した。

ここまでの道のりを、わたしは『キヨヒコ』の記憶に身体を明け渡すように行動してきた。
でも、これは……。
いっそ我慢し続けたい。けどいつまでも我慢できるわけもない。『家』まで保つならまだしも、人里が近くなった辺りで限界に達したら、みっともないことになる。
ここでするしかなかった。
誰に見られているわけでもないが、木陰に入って大きな木に向かい合う。立ってすることに抵抗はあったものの、こんな森の中でしゃがんでというのは虫や草が気になってできなかった。
触る気にはなれなくて、ズボンとブリーフをずり下ろした。
断じて見たいわけではないけれど、先端が変な方を向いていたらあらぬ方向へ飛んでしまう。『キヨヒコ』のそんな苦い記憶も蘇ってきた。
恐る恐る見下ろすそれは、当然ながら今朝までの『キヨヒコ』の記憶と何ら変わらない形。
でも、それは今、今朝まで女の子だったわたしのものになっている。改めて現状を認識させられる。
「わたし、男の子なんだ……」
生まれて初めて立ったまま、ちょろちょろとおしっこをしながら、みじめな気持ちになった。


歩きながら、『キヨヒコ』の記憶が断片的に浮かび上がっていく。わたしはもう、この夏休みに『キヨヒコ』に出された宿題の何が終わっていて何が手付かずなのかまで思い出せるようになっていた。
ただ、まだらのように空白もできている。それは、魔法の工夫に関する細かい部分だったり、妹とのいくつかの思い出だったり、自宅の郵便番号だったり、あるいは予備のトイレットペーパーの置き場所なんてどうでもいい点だったり。
舗道が見えてきた。『見覚え』のある景色。『家』まではもうちょっと。
安堵と不安が同時に湧き立つ。
わたしは今日から『キヨヒコ』として生きることになる。元に戻れるまで。元に戻れなかったら一生。
けれど安心しているのも事実。『家』に帰れば疲れきった体を休められる。お母さんがご飯を準備してくれている。妹が迎えてくれる。夜にはお父さんも帰って来る。
二つの相反する感情は、打ち消し合うこともなく高まり続け、玄関へ着いたところで頂点に達した。
「キヨヒコ、どこまで遊びに行ってたの!」
玄関の引き戸を開けるなり、台所から顔を出して怒鳴りつけてきたお母さん。
「お兄ちゃん、お帰りなさい……!」
居間から飛び出して来て泣きそうな顔でわたしにしがみつく、妹のワカバ。七歳下の小学一年生。
安心、不安、苛立ち、喜び。心がいくつもの両極を行き来する。肉体も限界に達していた。
わたしは玄関先にへたり込むとそのまま意識を手放した。



わたしは、途中でトイレに行ったりしつつも、トータルでは丸一日以上寝込んだ。
翌日の晩に目を覚まし、ようやく意識がはっきりする。そこは、初めて来たのに馴染みきった自分の部屋。窓の外の夕暮れの景色も、見慣れた光景。
記憶のまだら状態はまだのこっているけれど、思い出せる記憶はすっかりわたしの一部になっていた。この家も、住み慣れた自宅としか思えない。
部屋を出て、料理の匂いがする台所へ。
「もう大丈夫なの?」
「うん」
寝込んだこともあってか、お母さんはいつもほど怒りっぽくなかった。
「まずはご飯食べちゃいなさい。入れるようならお風呂にも入ってね」
「お兄ちゃん、元気になったの?」
「うん。心配かけてごめんね」
ワカバとお母さんと一緒にご飯を食べる。父さんは役場の仕事で今日から出張とのこと。
わたしの――『キヨヒコ』の――好きな唐揚げが、たっぷり皿に盛られて出た。
フタバとしてのわたしは尻込みしたくなる量。けれど『キヨヒコ』の身体が訴える空腹に従って箸を動かすと、わたしの胃袋にすんなり収まった。この身体は意外と大食漢らしい。それとも男の子はみんなこんなものなのだろうか。

わたしに付き合ってたっぷり食べたワカバが早々に寝てしまう。
お母さんと二人になると少し気づまりになる。
自室へ引き上げようとすると母さんが言った。
「明日は寝坊しないようにね」
「明日?」
「登校日でしょ」
「え……」
記憶を探るけど覚えにない。
でも、これも記憶のまだらによるものかもしれなかった。
「う、うん。支度しないとね」
部屋に戻ってプリントを確認。確かに明日が中学への登校日だった。
今夜はこのまま寝るつもりだったけど、そうなると話が変わってくる。お風呂に入らないなんてありえない。
タオルと替えの下着を手にしてお風呂へ向かった。
服を脱いで全裸になる。自分が『キヨヒコ』であることを改めて突きつけられる。
一度首を振ると、浴室に足を踏み入れた。

頭を洗い、顔を洗い、体を洗い、湯船に入る。そこまでは順調だった。
でも。
お湯の中で全身がほぐれ、開放的な気分になっていくとともに、股間がおかしなことになっていく。
「え……」
わたしのおちんちんが、むくむくと大きく硬くなり始めた。
「ど、どうしよう……」
具体的なキヨヒコの記憶は引き出せない。これもまだらな空白の一つ。
けれど、放置しておいてはいけないことだけは覚えていた。この場で治まっても学校でこんな状態になったら大変なことになると。その危険を減らすには「処理」しなくちゃいけないと。
フタバとして、男性の性に関するわたしの知識は保険の授業で少し習った程度。ほとんどないに等しい。
それでも、手探りでどうにかするしかなかった。
「精液を出してしまえばいいのよね……」
湯船から出て、股間を観察する。
そそり立ったおちんちん。その先端からは、お湯とは違う透明な液体が滴りそうになっている。
人差し指で採ってみると、触れた時に先端から刺激と快感が感じられた。
「きゃっ!」
硬くなったおちんちんがびくりと痙攣するように動く。わたしの身体から生えているのに、わたしとは別の生き物のように思えた。
「男って……こんなにグロテスクなの……?」
言ってから自分の言葉に傷つく。今はわたしもそのグロテスクな存在の一員なのだ。
ともあれ、人差し指に採った液体を眺める。親指とこすり合わせると、ぬるりとした感触で糸を引いた。
「これが、精液……?」
どうも違うような気もする。
硬く膨らんだおちんちんに変化はない。わずかに液体が出てくる程度じゃ「処理」にはならないようだ。
見ていても状況は動かない。わたしは小さな腰掛けに座ると、思いきって股間へ手を伸ばす。
硬くなった部分に触ると、触られた快感が股間から脳へ走った。先端でなくても気持ちいいと知る。
撫でさすると、さらに気持ちいい。
そうしているうちに、『キヨヒコ』の記憶が少し浮かび上がってきた。
それに導かれて、わたしは棒状のおちんちんを握りしめる。感触は柔らかいのに、全体としては硬い。
「あ……っ」
これまでにない快感。
握ったまま、手を前後にしごく。快感がさらに高まっていく。
夢中になって手を動かす。息が荒くなる。
身体の内側から、何かが出ようとしてくる。尿意とは違う、快感とともに迫ってくるもの。
手が止まらない。止める気にもならない。わたしは自分が陥っている異常な状況も何も考えないようにしていた。快感の虜になっていた。
「ああ……あぁ……あ、あっっ……!」
快感が、先端から迸る。生まれて初めて経験する、一点突破的で瞬間的な気持ちよさ。
わたしの中から出たものは、少量だけど水鉄砲のような勢いで、一部は壁にまで到達した。
壁に垂れる、うっすら白い粘液。そこまでのタイル床にも、届かなかったものが点々と直線状に付着している。
そして手にも同じものがたっぷりとまとわりついて、生臭さとねちょねちょした感触を嫌というほど伝えてくる。
「これが……精液」
さっきまでの快感が、笑えるほど急速に薄れていく。
後に残るのは自己嫌悪。
わたし、女の子なのに。女の子だったのに。男の子がすることをしてしまった。
入れ替わったのは昨日の午前中。まだ三十六時間も経っていない。なのにわたしは、さっそくこんなことを。
性欲を押さえきれない愚かな男子。魔法学院にもたまに存在している。でも、わたしのしたことは、軽蔑していた彼らと変わりなかった。
だけど、やるしかなかったという気持ちも事実。
そんなことを考えると、付随して浮かび上がる『キヨヒコ』の記憶。
学校で勃起してごまかしきれなかったらどんなことになるか。からかうであろう男子、蔑むであろう女子。それはどうあっても回避しなければならない屈辱。だから毎日の射精は欠かせない、はず。
田舎の中学校の一クラスの中での立ち位置を思い悩んでこんなことをしてしまう自分が情けない。魔法の名家の当主だった、首都の魔法学院で生徒会長を務めていた、わたしなのに。
「……洗わなくちゃ」
いつまでもぼんやりとしていられない。『キヨヒコ』の記憶に従って、シャワーを取って股間を洗う。
「きゃんっ!」
射精したばかりのおちんちんは敏感で、その記憶を得られなかったわたしは小さく悲鳴を上げてしまった。
壁や床にへばりついている精液もシャワーで流す。排水口の網目にゲル状の塊がこびりつきそうになったので、シャワーの勢いを強くした。お父さんやお母さんが気づいてもたぶん見逃してくれるだろうけど、ワカバにこんなものを見せるわけにはいかない。
そんな作業が終わった後、股間を見下ろすと、さっきまでの大きさが嘘のようにおちんちんは小さく縮んでいる。
その先から少し残っていた精液が垂れ落ちそうになっていた。
指に掬い取る。ただの半透明の粘液にしか見えない。
でも、もしもこれが、例えば『フタバ』の中に入ったら、『フタバ』は妊娠してしまうかもしれないのだ。
妊娠させられる側から、妊娠させる側になってしまった自分が、不思議でならなかった。


風呂から出ると、布団に入る。お母さんがシーツや枕カバーを取り換えてくれていた。『フタバ』の別荘や自宅のベッドとは全然違うけれど、『キヨヒコ』の身体にしっくり来るのか、心地よい。
ただ、初めての射精がなかなか脳裏から離れてくれず、寝付くのには苦労した。



わたしがキヨヒコと入れ替わって、一週間が過ぎた。

朝食を済ませると、お母さんは畑へ農作業に向かう。ワカバは友達の家へ遊びに行く。わたしはそれらを待って、裏庭へ。それが登校日翌日からの日課になっていた。
目的は、少ない魔力による飛行魔法の再現、なのだけれど。
「できない……」
あの日キヨヒコが成功させていたものを、わたしは一度も再現できずにいた。
魔力消費を抑制する理屈は正しい。何より、あの日空を飛んでいたキヨヒコが確かな証拠だ。
それなのに、わたしには同じことができない。
別に飛行魔法でなく他の魔法でも、キヨヒコの理屈で魔力消費を少なくすることは可能なはずである。けれどそちらもうまくいっていない。
……もしかして、わたしには魔法の才能がないんだろうか。
生まれついての膨大な魔力に甘えていただけの、能無しなんじゃないだろうか。
そんなわけはないと否定したい。けれどこんな時に限ってキヨヒコの過去の記憶が簡単に浮かび上がる。
魔法を扱うセンス、魔法に関する冴えたアイデア、それらを示しても、魔力の乏しさゆえに魔法の才ある母親や教師に見向きもされなかったキヨヒコ。
けれど彼は、そこから這い上がるように、飛行魔法を成功させた。
……なら、わたしは?


お昼前になるとお母さんが戻ってくる。わたしが魔法を試すことにいい顔をしないので、裏庭でのことは内緒にしなければならない。
台所でお母さんの指示に従って食器を出したりしていると、ワカバのただいまという元気な声が聞こえてきた。
考えてみればおかしなことだ。わたしにとってこの家の人たちは、一週間前まで見も知らぬ赤の他人だったのに、わたしは家族のふりをしているだけでなく、本物の家族のように感じている。
もちろんそれはキヨヒコの記憶が大きいのだけれど……ワカバに関しては記憶が虫食いのようになっているのに、断片的なものだけでも愛しくてたまらない。キヨヒコ本人はどれほど彼女のことを大切に思っていたのだろう。
「またそうめん?」
夏の盛りだというのに台所に充満する勢いの湯気を見て、ワカバが微妙な表情になる。
「いただきものが余ってるんだからしょうがないでしょ。キヨヒコもワカバもどんどんおかわりしていいからね」
「はーい……」
「は、はあい……」
居間でテレビを見ながら食事。ちょうどお昼になったところで、お母さんはニュースにチャンネルを合わせる。ワカバは何だかんだで食べ始めるとそうめんに専念し出し、番組に文句はつけない。
と。
「飛行魔法の競技会で、世界記録が更新されました」
テレビの画面に、『フタバ』の姿が映った。


便器に洗剤をかけ、ブラシでこする。
記憶は引き出せないのだが、去年中学に入学してからトイレ掃除はキヨヒコの担当だったらしい。
入れ替わった以降のわたしが一週間掃除していないことをお母さんに指摘されて叱られ、こうして掃除することになった。
これもまた、生まれて初めての経験。記憶の手助けが得られないこともあり、手つきがぎこちないと自分でもわかる。便器の黄ばみが落ちないのは、元からこびりついていたものなのか、わたしの手際が悪いからなのか。
これまで『キヨヒコ』のふりはできていると思っていたけれど、それすら彼の記憶頼りだったのかもしれないと思ってしまう。
もしかして、わたしは自力では何もできない、無能な存在なのだろうか。
さっき、ニュースの画面を見ながらお母さんがわたしにかけた言葉を思い出す。
「いつまでも魔法がどうこう言ってないで、ちゃんと普通に勉強しなさい。あんたはあのお嬢さんのように魔力に恵まれてるわけじゃないんだから」
わたしがその『お嬢さん』だったのに。
今は誰が見ているわけでもない。泣くか怒るかしてもいいのかもしれない。
でも、泣いたり怒ったりできるのは、不当な境遇に貶められた人だけではないだろうか。わたし程度の存在には『キヨヒコ』の立場すらもったいないくらいではないだろうか。
窓もドアも開け放しているけれど、やけに蒸し暑い。
ブラシでこする便器に、汗がしたたり落ちた。


「汗びっしょりじゃない。おやつはシャワー浴びてからになさい」
お母さんに言われ、お風呂へ。オレンジ色の電灯をつける必要がなく、窓の曇りガラス越しに射す白い陽光だけで問題ない日中のお風呂は、不思議な感じがする。
服を脱ぐ。『キヨヒコ』の男物の服。その下から現れるのは『キヨヒコ』の――男の子の身体。
つい考えてしまうのはこれからのこと。
少ない消費量で魔法を使う力を示して、魔法学院へ何とかして転入して、キヨヒコに接触してどうにか元に戻る。そんな希望的観測だらけの胸算用は狂いつつあった。
このままずっと魔法が使えなかったら、わたしはどんな人生を送ることになるんだろう。
お母さんが言う「普通の勉強」だけは、どうにかなるかもしれない。『フタバ』の時に学んだ諸々は、入れ替わっても忘れていない。魔法以外の教科についても、わたしはなかなかの優等生だった。
でも、それを用いてどんな進路を進むのだろう。
うちは旧家で、家屋敷は広く、田畑など土地をそれなりに有していて、貧しいというほどではない。しかし豊かとも言い難い。ワカバの将来も考えれば、兄であるわたしが金を使いすぎるわけにいかないと、『前に』お母さんが言っていたのを思い出す。
高校は県立の進学校、そこから県庁所在地にある国立大学へ、そして役場に勤めて、お父さんの後を継いで兼業農家に。お母さんがわたしに望んでいるのはそんなルートだった。
この土地に寄り添うように生きる。やがてお父さんとお母さんのようにお見合いをして、お嫁さんを迎えて、子どもができて……。
頭と顔を洗いながら、自分の将来をイメージする。
この一週間ですっかり馴染んでしまった『キヨヒコ』の記憶も相まって、その未来図は怖いほどくっきり脳裏に浮かんだ。

洗い終えると、手は自然と股間に伸びた。
軽く触ればそれだけでおちんちんは膨れ上がる。
さっきのように、何をしても何を考えても『キヨヒコ』の記憶は湧いてくる。そんな中、オナニーに関してだけは、ほとんど空白のままだ。
なので皮肉なことに、最近わたしが自分をフタバだと一番強く感じるのは、こうして勃起したおちんちんを握りしめている時だった。
最初の数日は、闇雲にしごいていればそれだけでたまらなく気持ちよくなって、たちまち射精していた。
けれど指先による性急な刺激だけだと少しずつ慣れてくる。
そのうち、わたしは緩急をつけたりしておちんちんをじっくり弄ぶようになっていた。
入れ替わった直後は触るのがあんなに嫌だったというのに、変われば変わるものである(おしっこする時に触るのは相変わらず嫌で、トイレでは座って用を足し、先端を紙で拭くけれど)。
軽い勃起状態を維持しながら、わたしは男の子の快感を時間をかけて味わう。
入れ替わる前、『フタバ』だった時、女の子としてオナニーをした経験はある。方向性が違うから一概には言えないけれど、今こんな風に時間をかけても、気持ちよさの総量は女の子の方が上だった気もする。
でも、男の性欲は、女とは全然違う切迫感がある。勃起すると、射精したくてしたくてたまらなくなる。何をしていても、頭の一部が股間を常に意識してしまう。
そんな欲求に駆られ、入れ替わった翌日の初めての射精以来、わたしは一日も欠かさずオナニーしていた。
男と女の違いは、出す側と受け止める側の違いなのだろうか。あるいはこれは、『キヨヒコ』と『フタバ』の肉体や立場の違いも関係していたりするのだろうか。
わたしはおちんちんを弄りながら、何とはなしに、さっきのニュースで見た『フタバ』の身体を思い出す。
夏用の正装に身を包み、魔法を長時間使い続けたばかりなのに――消費を抑えていたのだろうけど――余裕ある笑みを浮かべていた『フタバ』。
晴れ渡る青空の下、吹き過ぎる風に長い髪が軽くなびき、不思議な色が舞う。魔法を使える者の髪色は特殊になりがちだが、その中でも『フタバ』の髪は際立っている。
穏やかに微笑む青い瞳。整った顔立ち。あんなにも『わたし』は綺麗で可愛い顔をしていただろうか。それともキヨヒコという中身がそんな魅力を生んでいるのだろうか。
剥き出しの腕は日焼けとは無縁に白く輝き、同時にとてもすべすべして柔らかそうに見えた。
観客に振る手も、ほっそりしている。入れ替わって初めて自覚したけれど、男子と女子の手は思っていた以上にすでに違っている。今のわたしの手は、もっとごつごつしている。
服の胸元を押し上げる膨らみ。男には存在しないもの。『フタバ』だった時には何とも思わなかったのに、今、わたしはその感触を不思議と思い出したくなっている。
そして、短いスカートが隠している部分。大きなお尻と、何より……。
今、手に握っているこれ、硬く勃起しているこれを、あそこに突っ込んだらどんなに気持ちよくなるだろう。
想像すると、硬度が増す。手の動きが速くなる。止められない。これまで以上に高まる快感。
……それは一瞬で爆ぜて果て。
「最低……」
わたしは、『自分』に欲情して射精していた。

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