なぜか教室が騒がしい、悪友の敏明がおれの名前を呼びながら、誰かをゆすっていた。
「おい清彦、なにふざけてるんだよ、死んだふりなんてしてないで早く目を覚ませよ!!」
「やめろ敏明、清彦をゆするんじゃない! 保健の先生を、いや救急車を呼べ!」
「だれか先生を呼んで来てくれ!」
落ち着け敏明、俺はここにいるぞ。
と声をかけたのに、なぜだか敏明は俺に気付かない。なんでだ?
って、敏明がゆすっているのは俺? なんで俺が?
「それは君が死んだからだよ」
と後ろから声をかけられた俺が振り向くと、黒いローブのようなものをまとった男が宙に浮いていた。
宙に浮いているって! おまえはいったい何者だ?
「……何者だって、まあ君たちにわかりやすい言い方をすると、死神ってやつだな」
「死神……」
なんで死神が?
と疑問に思っていたら、どうやら俺を迎えに来たということらしい。
敏明とふざけていて転んだ俺は、机の角に頭をぶつけて、打ち所が悪くて死んだということらしい。
「そんな……」
「まあ、本来なら、君はまだ50年以上寿命が残っていたのだが、運が悪かったね」
「ちょっとまて、ということは、俺は生き返れるんじゃないのか?」
こういうとき、手違いですみませんでした。とかいって生き返らせるのがテンプレじゃないか?
「そういうわけにもいかなくてね、一度死んだ以上、簡単に返すわけにはいかないんだよ、これも運命だと思ってあきらめてくれ」
気がつけば、いつの間にか俺は、どこか暗い闇の中に浮いていた。
「まあ悪いようにはしないから、私についてきてくれ」
そういいながら、自称死神は、俺をどこかき連れて行こうとした。
「いやだ、俺はまだ死にたくない! まだまだやりたいことがたくさんあるんだ!」
俺は生に執着して、死神から逃れようと逃げだした。
ただ、あたりは真っ暗で、どこに逃げたらいいのか、俺がいまどこにいるのかさえわからなかった。
「まちたまえ、闇雲に逃げたって、どこにも逃げ場はないぞ」
だからって、はいそうですかと、俺の死を受け入れらるかよ。
そんな俺の悪あがきが、悪運を引き寄せた。
その時、俺は暗闇の中に、小さな光を見つけたんだ。
それはまるで、のぞき穴から漏れる光のようだった。
直感的に思った
もしかして、この光から地上に帰れる?
「ま、まちたまえ!」
「待てるかよ!」
死神の制止する声が聞こえたが、俺はかまわずその小さな光に触れた。
次に瞬間、俺はその光の中に吸い込まれ、一旦意識を失った。
…………ここは?
次に気がつくと、そこはどこかの病院の病室だった。
帰ってきた。俺は地上へ帰ってきたんだ。
『知らない天井だ』
というお約束のボケをかまそうとして、うまく声が出せなかった。
「……う…あぁ…んん……」
俺の口からは、なぜだかやたら甲高いうめき声が出ただけだった。
俺が目を覚ましたからなのか、病院の先生やら看護士やらが、なにやら騒ぎ出していた。
「ゆうちゃん、ああっゆうちゃん、……よかった、目を覚ましたのね」
俺の知らない若い女性が、目を覚ました俺に、涙ぐみながら、優しく声をかけてきた。
ゆうちゃん? ゆうちゃんって誰だ?
最初は状況がよく分からなかった。
だけど、ゆうちゃんというのは、どうやら俺のことらしい。
俺は清彦だ、ゆうなんて名前に改名した覚えはないぞ。
そう思いながら、まだ上手く動かない身体を動かして、自分の首から下を見下ろした。
なぜだか俺の身体は縮んでいた。
なんでだ? いったい何がどうなっているんだ?
状況が落ち着いてきてから、俺は鏡を見せてもらった。
鏡には幼稚園児くらいの、小さな女の子の姿が映っていた。
なんじゃこりゃ!! これが俺?
「そうだ、それが今の君の身体だよ」
「おまえは死神!!」
こんな所まで追いかけてきたのか?
どうしても俺を、あの世に連れて行くつもりか!!
俺は死神を警戒して身構えた。
小さな女の子の体で、どこまで抵抗できるのかわからないが、俺は必死だった。
「おいおい、そんなに警戒しないでくれよ。
私はもう君を連れていきはしないよ。
なぜなら君はその身体で生き返ったのだからね」
死神曰く、死神は生きた人間には、手出しできない事になっているのだそうだ。
「なら、いったい何のようだ?」
「それは、君に関わった私には、君への状況説明の義務があるからだよ。面倒なことにね」
そういいながら、死神はちいさくため息をついた。
今俺の魂が入り込んだのは、『宮下優』という名前の五歳の女の子だという。
優は近所の貯水池で遊んでいて、誤って落ちてそのまま溺れてしまったのだということだった。
「本来ならその子は、そのまま死んでいたはずだった。いや実際に死んでいる」
この子の魂は、すでに別の死神が連れて行ったらしい。
「ところが空になったその子の身体に、君の魂が入り込んで生き返ってしまった」
本来なら、死んだ人間の魂と死んだ人間の身体の組み合わせでは、
一時的に生き返ることができても、完全には生き返ることはできずに、すぐに死んでしまうのだということだった。
ところが、俺の魂は予定外の死亡だったので、生命エネルギーが有り余るくらいに残っていた。
そのうえ俺は生への執着が強く、入り込んだこの身体もまだ死にたてで、生命エナルギーさえあれば蘇生が可能な状態だった。
そんな条件が重なって、この子の身体に俺の魂と生命エネルギーが合わさって、全てがそろって生き返ってしまったのだということだった。
「ちょっとまて、ということは元の俺の、清彦の身体はどうなったんだ?」
「君の元の身体はもう死亡したことになっているよ。今頃は通夜をしているはずだ」
「そ、そんな……」
今からでも、俺を元の体に戻す事は出来ないのか?
「無理だな、死んだ人間を生き返らせるなんて、原則出来ない。今の状況でも異例なのだ。
仮に出来たとしても、君の元の身体は、死後時間が経過している。蘇生は不可能な状態のはずだ」
「そ、そんな……」
と死神に言われて、俺はがっくりうなだれるしかなかった。
「まあ、せっかく拾った命だ。
文字通り生まれ変わったつもりで、新しい人生を楽しんでみれば良かろう。
ではさらばだ、渡瀬清彦、いや宮下優」
そう言い残して、死神は去っていった。
病室には、ショックで呆然としたままの、五歳の女の子になった俺が残されたのだった。
宮下優として生き返った俺は、そのまま検査入院を続けることになった。
というのも、優は一度心肺停止、死亡、と認定されていたから、身体に異常がないか検査が必要だったのだ。
検査の結果、この体は今はどこにも異常がなく、明日退院ということになった。
「よかったわね優ちゃん、明日にはおうちへ帰れるわよ」
「……うん」
「どうしたの優ちゃん? 嬉しくないの?」
「え? …そ…そんなことないよ、わーい、おうちに帰れる、嬉しいな」
心配そうに俺を見つめる優のママを、これ以上心配させないように、喜んでみせたけど、
少し、……いや、かなりわざとらしかったかな?
だけど、家に帰れると言われても、それは優の家であり、俺の家ではない。
素直には喜べないし、俺のテンションは上がらなかった。
そんな俺に、優のママはつきっきりで面倒をみてくれた。
「優ちゃん、ママが絵本を読んであげようか?」
「優ちゃん、優ちゃんの好きなくまさんのぬいぐるみを、もってきてあげたわよ」
「優ちゃん、なにかほしいものはある? ジュースでもお菓子でも、ママが買ってきてあげるわよ」
優のママは元気のない娘が心配なのだろうか?
なんとか俺のご機嫌を取ろうと、俺を甘やかすようなことばかり言ってるけど、普段からこうだったのだろうか?
まあ、娘が死に掛けて、どうにか生き返ったんだ、必要以上に優しくしたくなるのもわかる。
だけど俺としては、いまはそっとしていてほしいし、一人にしてほしかった。
かといって、優のママを邪険に扱うわけにもいかないし、どうしたものか?
そうだ、寝たふりをしながら、その間に色々考えよう。
「ねえママ、ちょっと眠たい、寝てもいい?」
「……そうね、そういえばいつもなら、もうお昼寝の時間だものね」
優のママは少し残念そうに、それでも俺が寝ることに、理解を示してくれた。
それにしても、お昼寝の時間か、そういえば幼児のころはそういう時間があったっけ?
俺はシーツを頭までかぶり、目をつぶって寝る振りをした。
「優ちゃんが眠るまで、ママがそばで見ていてあげるわね」
……できれば優のママには、どこか別の場所に行ってほしかったんだけど、今はこれ以上気にしないことにした。
はあ~、それにしても、なんでこんなことになってしまったんだろう。
あの時、敏明とふざけていなかったら、こんなことにならずにすんだのだろうか?
その敏明は、今頃どうしているだろう?
俺とふざけていたのを、今頃後悔しているんだろうか?
クラスのみんなはどうなんだろう?
特に双葉さん、俺、あの人にあこがれていたんだ、こうなる前に告白しておくんだった。
いや、こうなるんだったら、告白なんかしなくてよかったんだろうな。
父さんや母さんは、俺に死なれてどう思ってるんだろうか?
何も親孝行できなかった。……ごめん。
兄さんと妹の若葉はどうしてるかな?
生意気な妹の若葉とは、いつも喧嘩していたから、俺がいなくなってせいせいしているだろうな。
……だけどなぜだか、若葉は泣いているような気がした。
若葉だけじゃない、家族もクラスのみんなも、みんな俺のために泣いている様な気がした。
そんなみんなにもう会えない、そう思ったら、なぜだか泣けてきた。
悲しくて、寂しくて、悔しくて、俺はいつの間にか、つぶった目から涙を流していた。
そんな俺の頭を、誰かがそっとなでてくれた。
だれだかわからないけど、その手が暖かくて優しくて、そのだれかが俺に、優しく声をかけてくれた。
「優ちゃん、ママは優ちゃんのすぐそばにいるからね、だから安心しておやすみなさい」
俺は半分眠りに落ちていて、俺にかけられた言葉の内容は理解できなかった。
だけど、俺はなぜだかその声に安心感を感じながら、そのまま眠りに落ちたのだった。
翌日、退院した俺は、ママと一緒に優の家に帰って(?)きた。
「さあ、おうちに着いたわよ。優ちゃん、ただいまは?」
「……ただいま」
「おかえりなさい」
優のママは、嬉しそうににっこり笑って、俺を迎え入れてくれた。
優の家に帰って来た俺は、優の部屋に入った。
優のママは、何か準備があるとかで家事を始めたので、今は俺一人になれて、少しホッとした。
優の部屋は、ぬいぐるみとか人形とか置いてあって、いかにも女の子の部屋って感じだった。
ただ、一部のぬいぐるみや絵本が散らかっていたり、
描きかけのお絵かき帳や、クレヨンが出しっぱなしになっていたりもして、
お片づけがが苦手な小さな子供の部屋って感じたりもした。
優って、部屋の片付け下手なのかな?
あの甘やかしママだからな、あまりうるさく言わないのかもな。
でも、娘が入院中に、少しくらい片付けておけば良さそうなものなのに、
まるでここだけ、時間が止まっているような印象を受けた。
時間が止まる?
俺は気づいた、冗談抜きで、ここの時間は止まってるんだ。
そして、本物の優の時間も止まっているんだ。
お絵かき帳を見た。
ぱぱとまま、と銘打って、子供が描いたみたいな下手な絵が描かれていた。
そしてひらがなで『だいすき』と書かれていた。
きっと娘が帰って来るまでは、両親はこの部屋に手を付けられなかったんだろう。
優が本当に亡くなっていたら、この部屋はずっとこのままだったに違いない。
これを書いた女の子が、この部屋に帰ってくることはもうない。
身体だけは帰ってきたけど、中身は俺という別人で偽者だ。
なんだかたまらない気持ちになった。
不意に見ていた風景が涙でにじんだ。
赤の他人の家族のことなのに、なぜだか悲しかった。
俺はちいさなもみじのような手で、目からあふれる涙を拭った。
これはきっと、本物の優の涙なんだ。
俺が本人のかわりに涙を流してあげてるんだ。
『ぱぱ、まま、ごめんね』
俺は優がそう言っているような気がした。
俺は本物の優のかわりに、しばらく涙を流し続けたのだった。
「優ちゃん、お昼ごはんができたわよ」
優のママがそう言いながら俺を呼びにきた。
俺はすぐに返事を返せなかった。
それどころか、涙で顔がびしょびしょで、それを完全に拭い去ることができなかった。
「どうしたのよ優ちゃん、どうして泣いているの?
どこか痛いの? それとも何か怖いことでも思い出したの?」
優のママは、整理ダンスから素早くタオルを取り出して、俺の顔を吹いてくれた。
そしてぎゅっと、やさしく俺を抱きしめてくれた。
「大丈夫よ優ちゃん、ママがすぐそばにいるから」
俺は、優のママの胸の感触にあたふたした。
でも同時に、なんだか懐かしいような暖かいような、不思議な感覚を感じていた。
いつの間にか俺は、母親に甘えるように、優のママに抱きついて、顔をこすり付けていたのだった。
泣き止んだ後、俺は少し恥ずかしかった。
なんで俺は優のママに、子供みたいに甘えるような真似をしたんだ?
それも、他人の母親にあんな真似をしてたんだろう。
まるで優の母親を、俺が横取りしたようないやな気分がした。
羞恥心と、そしてなんだか本物の優に悪いような気がして、俺は軽い自己嫌悪に陥った
それでも俺は、どうにか気持を落ち着かせた。
そして、優のママに連れられて、ダイニングルームにきた。
「お昼ごはんは、優ちゃんの大好きなオムライスよ」
見た目はタマゴがふわふわしていて、彩りもきれいで、気合を入れて作ったって感じで、なんだかおいしそうだった。
優のママって、料理が上手いみたいだな。
なんか腹も減ってるし、それに今朝まで美味しくない病院食だったし、今は遠慮なく食べよう。
「いただきます」
「あ、優ちゃん、ママが食べさせてあげる」
「えっ?」
「はい、あーん」
優のママは、小さなスプーンですくったオムライスを、俺の口のそばまでもってくる。
どうしたものかと戸惑っていると、優のママが悲しそうな顔するので、俺はしかたなく口を開く。
口にしたオムライスはおいしかった。
「どう、おいしい?」
「……おいしい」
俺がそういうと、優のママは嬉しそうだった。
優のママは本当に嬉しそうに、二口目もスプーンによそって俺の口まで運ぶ。
俺はしかたなく二口目以降も優のママから食べさせてもらった。
俺は親鳥にえさを貰う雛になった気分だった
『優のママって、すっごく子煩悩っていうか親ばかなんだな』
その日の昼はそんな調子で、俺は優のママにお昼を食べさせてもらったのだった。
お昼ごはんの食べ終わった後も、優のママは俺に構いたがった。
「優ちゃん、ママが絵本を読んであげようか?」
正直な所、俺に構いたがる優のママが鬱陶しいと思うんだけど、だからって邪険にできない。
今の俺は優なんだ。だから優のかわりに、優のママの相手をしてやらなきゃだめなんだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はそんな義務感から、優のママの相手をしてやることにした。
それにしても、絵本の読み聞かせだなんて、子供だましだよな。
まあいい、面倒だから、そのまま騙されてやろう。
俺は優のママと一緒に並んで、ママに絵本を読んでもらった。
いざ、優のママの相手をはじめると、さほど苦痛ではなかった。
この二、三日の間に、このママの相手に慣れてきていたからだろうか?
あと、子供だましなはずの絵本が、意外に新鮮で面白く感じていた。
そうこうしているうちに、俺はだんだん眠くなってきた。
「あら、もうお昼寝の時間なのね。優ちゃんお寝んねする?」
「……うん」
眠くなってその場で横になった俺に、優のママが毛布をかけてくれた。
そして、俺のすぐ横に、添い寝をしてくれた。
そんな優のママに、色々言いたい気分はあったけど、もう眠くて何も言えなかった。
「おやすみ優ちゃん」
「おやすみ……ママ」
俺はなぜだか優のママに安心を感じながら、お昼寝をしたのだった。
次に目を覚ましたら、もう夕方だった。
「今日は優ちゃんの退院祝いをしなきゃね」
とか言いながら優のママは、張り切ってケーキやらご馳走を作って用意していた。
そして優のパパが、仕事から帰ってきた。
優のパパとは、優のお見舞いに来てくれた病院でも会っていたから、顔はわかっていた。
優の回復に、喜んでくれていたような気はする。
だけど、今の時点では、優のママほどは印象になかった。
どんな人だろう?
優のパパは、退院のお祝いをしようと言うママを、まず制止した。
「その前に、優に言っておかなきゃいけないことがある」
と言ってから優に、つまり俺に説教を始めた。
「どうして優は、子供は立ち入り禁止の貯水池で遊んでいたんだ?」
「パパもママも優のことでいっぱい心配したんだぞ。特にママは、なかなかおっきしない優のことをすごく心配していたんだぞ」
優のママは、そんなパパを宥めて、優のことをかばってくれた。
だけど優のパパは、何か思う所があるのか、俺に厳しく接してきた。
そして俺は、そんな優のパパが、優のことを思って叱っていることがよくわかった。
俺の(清彦の)父さんや母さんが、俺のことを真剣に怒る時はこんなだったってことを知っていたから。
だから俺は、優の代わりに謝った。
「ごめんなさい」
俺はなんでだか涙目になっていた。
「そうか、わかってくれればいいんだ。これからは気をつけるんだぞ」
「……うん」
それで、この場の空気は収まった。
この後は改めて、優の退院祝いのホームパーティが始まったのだった。
優のパパは、それまでの厳しさが嘘みたいに、優しいパパだった。
そして、優は両親に愛されているんだなって、この身で改めて感じたのだった。
俺がこのまま優のふりをして、優として生活を続けたら、優の両親を騙すことになる。
それに、本当の優はもう死んでいることを、優の両親に教えておいたほうがいいような気もした。
だから俺は、パーティの間、いや、パーティの始まる前から、本当の事を言おうかどうしようか迷っていた。
「俺は本当の優じゃないんです。
俺は清彦と言う名前の男子学生で、
死んじゃった優の体を間借りして生き返ったんです」
でも、こうして優が帰ってきたことを本当に喜んでくれている両親を前に、俺は本当の事を言えなかった。
優のパパもママも、優の事を本当に愛している。
それがよくわかるだけに、本当の事を教える事が、残酷なような気がしたんだ。
時間が経てば経つほど、本当のことなんて言えなくなってしまった。
そしてパーティの後、
優のママと一緒にお風呂に入れられて、身体をあちこち洗われて、いろいろな意味で恥ずかしい思いをした。
そして風呂から出て、ピンクのパジャマに着替えさせられた。
「優ちゃんが寂しくないように、今日はママと一緒に寝ましょうね」
優ちゃんが、とか言いながら、優のママが娘と一緒に寝たがっているのは明白だった。
優のパパもしょうがないな、という呆れ顔をしていた。
本当なら、清彦としての俺なら、断固として拒否している所だろう。
「……うん、いいよ」
だけど俺は、あっさりママの願いを受け入れていた。
パーティの後、俺はある決心を固めていたんだ。
『あの優しい両親に、本当の事を教えて悲しませたくない』
だから優と俺の本当の事は、優のパパとママには黙っていよう。
どこまで本物の優の代わりになれるかわからないけど、俺が優の身代わりになろう。
例えそれが、優の両親を騙しつづける事になるとしても。
この秘密は、墓場まで持って行こう。
俺はあの人たちを騙すって決めたんだ、なら最後まで騙し通すんだ。
『……ごめんね優、俺なんかがきみの全てを横取りして、
許して欲しいなんて言えないけれど、本当の優の代わりに精一杯がんばるから』
俺の宮下優としての新たな生活が、こうして始まったんだ。
朝、俺が目を覚ますと、優のママの広いベッドには誰もいなかった。
優のパパが寝ていた隣のベッドにも、誰もいない。
優のパパもママも、もう起きたのだろう。
眠い目をこすりながら、さて、これからどうしよう。
と思っていたら、う、オシッコがしたくなっていた。
早くトイレに行かなきゃ。この体、あまり我慢がきかないんだよな。
トイレにいくために、俺はもそもそと起き出して、ベッドから出た。
今の小さな俺の体には、ベッドの段差がちょっとだけきつかった。
部屋の外の廊下に続くドアのレバーを引いて、ドアを手前に引っ張って開けた。
これもこの体が小さくて非力なせいで、レバーに手が届くからまだ良いとして、ドアを開けるのは結構面倒だ。
トイレの前に立ち、レバーを引いてドアを開ける。
今度は押し開けるだから、さっきよりは楽だけど、やっぱり面倒だ。
うう、大人の体だと普通に出来ることが、幼児の小さな体だと面倒なんだな。
ここ数日でわかっていたことだけど、改めてそう感じた。
だけど俺は優の代わりになるって決めたんだ。
せっかく優の代わりに貰った命と身体なんだ、
面倒な事も含めて、全部を受け止めないでどうするんだ。
そう自分に言い聞かせた。
俺は便座に座って、パジャマのズボンとパンツを引き下ろした。
そこには男だった時にあったものが何もなく、つるっとした女の子の割れ目があるだけだった。
なんだか悲しい気分になりながら、オシッコを我慢していた下腹の力を緩めた。
次の瞬間、俺の股間の割れ目からは、我慢していた分、勢いよくオシッコが噴出した。
ああっ!、俺は女の子の身体で、女のオシッコをしてるんだ。
この身体は、まだ幼児でつるぺたで、男女の差は小さい。
だけどこの時ばかりは、今は俺は女なんだって、嫌でも実感させられた。
俺だって、元は男だったんだ、女の子の身体に興味はあった。
だけど……。
「この身体、さすがに子供すぎるんだよな」
着替えの時とか、お風呂の時に、優の裸を見たけど、つるぺただし、別に面白いと思わなかった。
高校生、いやせめて中学生くらいの女の子の身体なら、もっと興奮が出来たのかもしれない。
まあ、今まではどっちの時も、過保護な優のママが俺の側にいて過干渉してきたから、
食欲が湧かないとはいえ、この身体をじっくり見るどころじゃなかったけど。
さすがにトイレの中までは、優のママは俺の側にいなかったから、この時は男女の違いを観察できた。
だけどこれはこれで、色々と生々しいんだよな。
座ってオシッコをするのも、終わった後、あそこを紙で拭くのも、最初は男とは違う経験が新鮮だった。
だけど、男の時に比べて、オシッコの切れが悪かったり、紙で拭いてもしっかり拭かないと濡れた感じがあそこに残ったり、色々面倒だった。
何回か繰り返すうちに、女の身体の面倒くささにうんざりするようになった。
トイレは男のほうが楽だったし、やっぱり男のほうがよかったな。
「あー、立ちションがしてえなあ」
優の鈴のような可愛い声で、俺は思わずぼやいていた。
オシッコを済ませてトイレを出た後、俺は手を洗うために洗面台の前に立った。
洗面台の前には、小さな箱のような台が置いてあり、俺はその上に乗った。
そうすると、背の小さな今の俺でも、洗面台にちょうど手が届くようになる。
おそらくこの台は、優が一人でも手を洗えるように置いてあるんだろう。
俺は洗面台の水道でしっかり手を洗って、ついでに顔も洗った。
タオルで手と顔をしっかり拭いた。
洗面台の鏡には、つぶらな瞳のカワイイ女の子の顔が映っていた。
「優って、カワイイよな」
優のママも結構美人だし、将来この子も美人になるんだろうな。
そしてこの顔は、今の俺の顔でもある。
「どうせ女になるなら、カワイイほうがいい」
そう思ったら、俺も悪い気はしなかった。
今は身体が小さくて、可愛いらしすぎる気はするが、将来が楽しみ、ということにしておこう。
この身体が成長した頃には、俺はどうなっているんだろうな。
お手洗いを済ませて、ダイニングルームに移動すると、そこに優のパパとママがいた。
「あら、おはよう優ちゃん」
「おはよう優」
優のパパとママの朝の挨拶に、俺は、
「おはようございます」
と、挨拶を返した。
「あらあら、今日の優はいつもよりお行儀がいいのね」
え、そうなのか、まずかったかな?
いや、どうせ元の優のようにはいかないんだ。
今は俺が優なんだ、少しくらい変に思われてもしょうがない、今はこのままで行こう。
俺は、「うん」と返事を返して、何食わぬ顔で優の席に座った。
優のパパは仕事があるからなのか、先にトーストとコーヒーで朝食を取っていた。
優のママは、テーブルのうえに、あと二人分の朝食を並べていた。
俺の席の前には、ジャムを塗ったトーストとオレンジジュース、プリンが並べられていた。
……見事に甘ったるいものばかりだな、これは優の好みなんだろうか?
今は俺が優なんだ、文句を言わずに食べるとしよう。
「いただきます」
朝食のトーストは、普通に美味しかった。
こういう場合、味覚が変わって以前より美味しく感じる、ということがあるのかな、とも思ったが、
特別美味しく感じるということも、ジャムが甘すぎて食べられないということもなかった。
まあ、普通はそうだよね。
食べたトーストを、オレンジジュースで流し込んでから、最後のお楽しみに残しておいたプリンに手を伸ばした。
「あら、いつもは大好きなプリンは真っ先に食べるのに、今日は一番最後なのね」
「えっ? う、うん、今日はなんだか最後に食べたくて……」
「そう?」
優のママの何気ない突っ込みに、俺は密かに焦った。
優って、好きなものは最初に食べちゃう派なのか?
俺は楽しみは最後に取っておく派で、今回も自然な流れでそうしたんだけど、
もしかして、今ので優のママに怪しまれたか?
俺はこっそり優のママの様子を窺った。
特に気にする様子もなく、優のママは自分のトーストを食べていた。
良かった、特に怪しまれていた訳ではなさそうだ。
そりゃまあそうだよな。でも、さすがに母親、子供の細かい所まで見ているんだな。
……細かい事を気にしすぎてもしょうがない。
今は俺が優なんだ、これからは優は好きなものは最後に食べる、それでいいじゃないか。
少し気をそがれたけれど、俺は気を取り直して、残しておいたプリンを味わって食べたのだった。
朝食の後、優のパパは仕事に出かけるために、ダイニングルームを出た。
「優ちゃん、パパのお見送りをしようか?」
「うん」
優のママに促されて、俺と優のママは、パパのお見送りに玄関までついていった。
ちなみに、いつもはさすがにこんな風にお見送りなんてしないけれど、
今回のは、優が帰ってきて最初の朝だからと、気を効かした優のママの思いつきだったらしい。
「優、ママのいう事を聞いて、ちゃんといい子にしてるんだぞ」
「うん」
「じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい」
俺と優のママは、玄関で手を振って、優のパパを見送った。
手を振り返す優のパパは、なんだか嬉しそうに見えた。
そんな優のパパの様子に、俺も少し嬉しく感じていた。
さて、優のパパを見送った後の俺の予定は?
自宅療養だった。
優は近所の保育園に通っていたが、今週は大事を取ってお休み、という事らしい。
病院の先生の指示もあるが、優のママが優のことを心配して、ということでもあるようだ。
ちょっと娘に過保護すぎないか?
と思わないでもないが、かといって、じゃあすぐに保育園に行け、といわれても俺も戸惑っただろう。
いずれ俺が優のかわりに、保育園に行かなきゃいかないだろうけど、心の準備をする時間は欲しかった。
今は、来週まで猶予期間が与えられたのはありがたい、って思うことにしよう。
じゃあ、その猶予期間に俺がするべきことは?
「俺、優のこと、まだ何も知らないんだよな」
だから、優のことを知ることから始めよう。
まずはこの家の探検からだ!
と、言いたいところだが、今この家には俺の他には優のママがいる。
いくら優がこの家の子供でも、おおっぴらに家の中を調べてまわるのは不自然だろう。
まあいい、まだまだ時間はあるんだし、家中を調べるのはもう少し様子を見てからだ。
じゃあ、優の姿の俺が調べても不自然じゃない場所は、優の部屋かな?
色々調べてみよう。
俺は台所で、食器の後片付けをしている、優のママに話しかけた。
「ママ、優、優のお部屋に戻っているね」
「そう? お部屋で遊んでいるなら大丈夫ね、わかったわ。
ここのお片づけと洗濯が終わったら、ママも一緒に遊んであげるから、それまで一人で遊んでいてね」
「うん」
ママも一緒にって、この人はどんだけ子供の面倒見が良いんだよ。
病院でも付きっ切りだったし、昨日退院して家に帰ってきてからも、できるだけ一緒に居ようとしていたっけ。
清彦だった元の家では、俺の母さんはもっと放任だった気がする。
まあ、清彦の場合、俺が二人目の子供で、兄が面倒を見ていてくれたっていう事情もあったけどな。
三人目の妹のほうが、最初の女の子で末っ子ということもあって、母さんにかわいがられていたっけ。
そのせいで幼い頃の俺は妹に嫉妬して、ちょっと意地悪もして、大きくなっても妹とはよく喧嘩をする仲になったっけ。
その妹をかわいがるにしても、母さんはここまで過保護じゃなかった。
この家は優の一人っ子だし、清彦の家とは事情が違うのはわかる。
一人娘の優がかわいくて、一人に愛情を注いでいるのはわかるけど、ずっと付きっ切りっていうのもな。
と、ここで、優のママは、俺のうんざりした空気を感じたのだろうか?
「優ちゃん、ママに内緒で、勝手にお外に出ちゃ駄目だからね」
ここで俺に釘を刺してきた。
「……うん」
内緒でお外って、俺は別に外に出る気はなかったんだがな。
俺って信用ないのかな?
いや、この場合、信用がないのは優ってことか?
子供は立ち入り禁止の貯水池で、遊んでいて溺れたのだから、信用がないのもしょうがないが。
今までの俺の優の両親との少ないやりとりで、俺は優は少しわがままだったらしい。と察していた。
一人っ子で甘やかされて育てられたら、まあわがままにもなるわな。
と、優の事情は今では自分自身のことなのに、その時はまだどこか他人事のようにも感じていたんだ。
でも優のママの次の一言で、その心情を知る事になった。
「もし優ちゃんがいなくなったら私、……お願い、優ちゃんはママを置いてどこにも行かないで」
泣きそうな顔でそう言いながら、優のママは、俺の体をぎゅっと抱きしめた。
優のママの体は柔らかくて、そして温かかった。
そうか、優のママは、優を失う事を恐れているんだ。
優の体に俺の魂が入り込んで、結果的に優は生き返ったけど、本当なら死んでいたんだ。
優は病院で、一度死亡認定された。
少なくともその時、優のママは優を一度失っているんだ。
その時の優のママの心情は、どうだったんだろうか?
今、俺を抱きしめている優のママは、今までで一番弱々しく感じられた。
「うん、どこにもいかない。優はママを置いてどこにもいかないよ」
俺は本当の優の代わりにそう答えていた。
いや、俺自身がそう答えていた。
俺自身が、このママを放っとけないって、そう感じていたんだ。
「本当に?」
「本当だよ」
「……どこにも行かないって、ママと約束してくれる?」
「約束する。優はママを置いて、どこにも行かないよ」
それが俺が優として、いや俺自身がママと交わした約束だった。
後から振り返ってみると、
これまでは、優のママと、優の身代わりの俺が、という風なワンクッション置いた関係だった。
それがこの時から、ママと娘の俺が、って言う直接的な母娘の関係に置き変わっていったんだ。
あの後、優のママ……いや、今はもう俺が優で、俺にとってあの人は俺のママってことなんだ。
だからこれからは心の中でも、あの人の事をママと呼ぶことにする。
ママは、「洗い物を早く終わらせて戻ってくるわね。だから優は、それまでいい子で待っていてね」
と言って、家事に戻っていった。
一人になった俺は、優の部屋へ行って、部屋の中を見回した。
昨日見たときとは変わっていない、そのままの状態だった。
ここにはまだ、元の優の色が濃く残っている。
だけど、「元の優には悪いと思うけど、ずっとこのままってわけにはいかないよな」と思った。
これからは俺が優として、ここで生活していくことになるんだ。
この部屋は、新しく優になった俺の色に、少しづつ塗り替えられていくことになるだろう。
そして、元の優の色が消えていくのだろう。
そんな訳で、まず部屋の探索の前に、部屋に散らかっている物を簡単に片付ける事にした。
まず出しっぱなしのクレヨンを、元の箱の中に戻す。
……ちょっとまて、クレヨンの並び方がばらばらじゃないか!
それに、結構折れたクレヨンもあるし、優はどういう使い方をしたんだ?
まあ、子供なんだからしょうがないか、と思い直しながら、中のクレヨンを並べ直した。
クレヨンを並べ直しながら、改めて思う。
この体になってから、ずっと感じていたけど、子供の手って小さくて、何より動きがぎこちないんだな。
細かい作業をしていたら、そのぎこちなさを余計に感るんだ。
体が成長する過程で、だんだん手足を器用に動かせるようになるんだろうけど。
「幼児の体って、こんなに不便だったっけ?」
十年ほど前は、清彦だった俺自身が幼児だったけど、手の動きがぎこちないと感じた記憶が無い。
まあ、その頃はそれが当たり前だったから、そんなことを感じようがなかったんだろうけどな。
それに、手先の器用さよりも、体の小ささのほうが不便に感じる。
俺はつい、「はあ~っ」とため息をついた。
クレヨンを並べ直し終わって、お絵かき帳を手に取った。
優が最後描いた絵が、パパとママだったっていうのは、何だか皮肉な感じがした。
優は何か予感でも感じたのだろうか?
そんな訳ないよな、だったら危ない所で水遊びなんてしないよな。
だけど、そんな風に感じたせいでか、優が以前に何を描いたのか興味がでてきた。
お絵かき帳をぱらぱらと捲ってみる。
中には、お花だとかねこさんだとか、とにかくかわいいものを描いていた。
花の比率が多いだろうか?
女の子らしいものを描いているんだな、とわかってなぜだか少しホッとした。
そんな中に、友達を描いた絵もあった。
ともちゃん、と名前の書かれた、髪の長い女の子の絵。
優と仲の良い子なのかな?
それと、もう一つにになったのは、
こうちゃん、と名前の書かれた、男の子と思われる絵だった。
こうちゃんのことを、男だと思ったのは、髪型が短髪で、ともちゃんがスカート、こうちゃんが半ズボンの絵だったからだ。
「絵に描くくらいだから、優とは仲のよい友達なのかな?」
優とどういう関係なのか、ともちゃん、こうちゃん、のことは少し気にはなったが、これ以外に判断材料はないし、
今はまだ会ったこともない二人のことを、これ以上考えてもしょうがない。
「優の絵の友達の事は、実際に会ってみてからだな」
保育園に通うようになれば、嫌でも顔をあわせることになるんだから。
「保育園に通う……か、俺はつい先日まで高校生だったのに、今更保育園に通うだなんてな、いったいどんな罰ゲームだよ」
はあ~、と俺は思わずため息をついた。
今週は大事を取って休みで、保育園に通うのは来週からというのは、せめてもの救いだった。
それまでに、せいぜい心の準備をしておこう。そう思った。
ところが優が絵に描いていた女の子のほう、ともちゃんと会う機会は、意外に早く訪れることになる。
ママは家事を済ませた後、急いで俺の元に来て、俺の世話を焼いて、俺にべったりだった。
たとえば、パジャマから部屋着への着替えの時、俺は今回は最初から最後までママに着せ替えられた。
一人で着替えられるって言ったのにな。
しかも着替えはフリルのついたひらひらなワンピース、外に出かけるわけでもないのに、着飾ってどうするんだよ。
まるでお姫様にでもなった気分にさせられて、俺は精神的にダメージを受けた。
俺の世話を焼いてくれるのはいいのだが、さすがに辟易した。
とはいえ、楽しそうに俺の世話を焼くママを、あまり邪険にもできないしな。
だけど同時に、俺は今の優のポジションが、心地よいとも感じていた。
清彦の母親は、俺を放任で育ててくれたからな。
おかげで俺は、あまり母親に甘えた記憶がない。
だから俺は、幼い頃は母親にべたべた甘える事に、憧れも感じていたんだ。
さすがに中学生、高校生と、成長していくうちに、
そんな気持ちは心の奥にしまい込んでしまったが、
今のこの境遇になって、そんな気持ちをだんだん思い出してきた。
ちょっとだけ、わがままを言ってみる。
「ママ、喉がかわいた。何か飲みたい」
「あらあら、じゃあ飲み物を用意するわね。優ちゃんはオレンジジュースとお茶、どっちがいい?」
「オレンジジュース!」
「わかったわ、今用意してあげるわね」
これがもし幼い頃の清彦の母親だったら、
「まだご飯を食べたばかりでしょ、我慢しなさい」
「冷蔵庫の麦茶でも飲んでいなさい」
だっただろう。
だから清彦だったら、この場合はお茶、なんだけど、
なんだか今の俺は、ささやかなわがままで、ジュースを頼みたい気分だったんだ。
そんな事を思い出しているうちに、ママがジュースを持ってきてくれた。
コップに氷を入れて、ストローまでさしてあった。
俺はママの持ってきてくれたジュースを、子供みたいにストローから飲んだ。
「優ちゃん、オレンジジュース美味しい?」
「うん」
甘ったるいオレンジジュースが、今の俺にはすごく美味しかった。
「そう、よかったわ」
俺は何だか嬉しくて、今は多分満面の笑みを浮かべてるだろう。
そしてママは、そんな俺を、嬉しそうににこにこ見つめていた。
昼食の後、午後はママと一緒に、アニメのDVDを見ていた。
アニメを見る前に、ママに、
「アン〇ンマンにする? それともト〇ロ?」
と聞かれた。どっちも優が好きで、良く見ているアニメらしい。
どうせなら、俺が清彦だった時にまだ視聴途中だった、深夜アニメが見たいなあ。
と密かに思ったけれど、幼児が深夜アニメを見たいだなんて、そんな不自然な事を、とても口には出せない。
途中まで見かけていた深夜アニメを、俺は再び見る機会はあるだろうか?
それはともかく、ここは無難に「ア〇パンマン」と答えておいた。
なんだかんだ言っても、俺も幼い頃はアンパン〇ンを夢中になってみていたからな。
さすがに今の俺には子供向けすぎるが、それでもそれなりに楽しめるはずだ。
少なくとも、退屈しないで済むはずだ。
〇トロも嫌いではない、というか幼い頃は好きだったが、何回も見ていて内容はよくわかっている。
しかもおとなしい内容だから、退屈するかもしれないし、今更改めて見たいとは思わない。
そう思ってママと一緒にアン〇ンマンのDVDを見始めた。
さすがに二十何年も放送していて、俺の見ていた頃とは十年ほどずれがあるだけあって、
今回見ている話は俺の初見の内容だった。
だけど、ある程度、勧善懲悪のお約束と言うか、パターンは決まっている。
悪い事をするバイキ〇マンを、アンパンマ〇が懲らしめるのだ。
子供騙しだけど、そのお約束が良いのだ。
そう思っていたのに、俺はいつの間にか、意外に夢中になって見ていた。
〇ンパンマンがバ〇キンマンをやっつけた時なんか、俺はつい思わず歓声をあげていた。
ちなみに、今回はママが見る候補に挙げられなかったので、気づかなかったし知らなかったのだが、
優はプ〇キュアも好んで見ていたらしい。
そして俺も、清彦だった時に、プリ〇ュアは好んで見ていた。
後でそうと知って、俺と優が共通して見ていたアニメを、継続して見られることを素直に喜んだ。
だけど、清彦だった時と、優になった今では、見る視点や感じ方が変わってしまっていて、
同じアニメなのに、印象が大きく変わってしまっている事に気づくのは、もう少し後のことになる。
ちなみに、アニメのDVDは、リビングの大画面のテレビで見ていた。
ママがテレビの正面のソファーに座り、俺はそのママの膝の上に、ちょこんとママに抱っこされている形で座っている。
ちょっと待て、さすがにこれは、少し恥ずかしいだろ!
最初はそう思ったけれど、ここで拒否するのも不自然だよな、というか、
いつもは優のほうからおねだりする形で、こんな風にママに抱っこされていたらしい。
仕方がないよな、今は俺が優なんだ、ここは優らしく振舞わないと。
ママの膝の上は、思っていたよりも収まりが良かった。
というか、なんだかここは暖かくて心地よくて、不思議な安心感があった。
俺は感覚的に理解した。確かにここは優の好んでいたポジションなんだと。
そしてそれも、今では俺のものなんだ。
俺が清彦でなくなって、失ったものは多い。
だけど優になって、かわりに清彦だった時には欲しくても得られなかったものが、今は独占的に得られている。
そのことに、なんだかよくわからない優越感や満足感を感じながら、俺は甘えるようにママに背中を預けた。
ピンポ―――ン
「あ、はーい」
玄関のチャイムが鳴って、ママが俺をおろして席を立とうとする。
うー、せっかく気分がよかったのに。
「ごめんね優ちゃん、お客様が来たみたいだから、ちょっとだけ我慢していてね」
どうやら俺は、不満そうな顔をしているらしい。実際に不満だったけど。
ママがそんな俺に謝ってくれた。さすがにここは聞き入れなきゃ。
「……うん」
俺は不満を感じながらも、そっとママの膝の上から降りた。
「今日はいい子ね優ちゃん、ちょっとだけ待っててね」
そう言いながら、ママはそっと俺の頭を撫でてくれた。
……そんな子供騙して、俺が誤魔化されるとでも?
そう思いながら、でも俺は少しだけ機嫌を直していた。
ママはそんな俺に微笑みかけながら、インターホンの所に移動した。
インターホンを操作する、ママの後姿を見ながら、俺ははっと気づいた。
ちょっと待て、俺は今、すっかり心が子供に戻ってなかったか?
それともだんだん優に馴染んできたのか?
今後は、俺は優として生きていくしかない以上、いずれは今の優の生活に慣れなきゃいけない。
だから優に馴染めるのなら、本当はそのほうがいいのだろう。
だけど何か、このままだと俺が俺でなくなっていくような気がして、急に怖くなった。
このまま流されるだけじゃ不味いんじゃないか?
かといって、あまりおかしな行動もできないし、この後はどうしよう?
などと、悩む間もなく、俺はママに声をかけられた。
「優ちゃん、優ちゃんにお客様よ。保育園の保母さんが、優ちゃんのお友達をつれてお見舞いに来てくれたわよ」
「お見舞い?」
俺が会った事のない、保母さんとかお友達が俺のお見舞いって、それこそどうしよう?
俺とママは、お見舞いに来てくれたお客様を、玄関で出迎えた。
お見舞いに来たのは、優の通っている保育園の保母の梅田さんと、
梅田さんが一緒に連れてきた、保育園児の女の子が二人、
二人は、優とおなじチューリップ組の園児、ということだった。
「優ちゃんの、思っていた以上に元気そうな顔を見て、安心しましたわ」
「いえいえ、おかげさまで……」
などと、梅田さんとママとの間で、少し大人の会話がされた。
その合間に、梅田さんから俺は体の調子は大丈夫?、とか聞かれて、俺は「大丈夫」と答えておいた。
梅田さんの横では、おかっぱ頭の女の子が立っていて、何か話したそうに俺のことを見つめていた。
そして、その女の子の後ろで、髪の長い大人しそうな女の子が、うるうるとした瞳で俺を見つめていた。
俺は直感的に気がついた。この子はもしかして?
「ともちゃん?」
つい口に出して言ってしまった。
大人しそうな女の子の表情が、嬉しそうにパッと明るくなった。
「ゆうちゃん、あいたかった」
「ともちゃんずるい、わたしだって、ゆうちゃんとおはなししたいの、がまんしてたのに」
「だって……」
これをきっかけに、女の子たちが、もっと俺とお話しがしたいと騒ぎ出した。
どうやら保母の梅田さんが、最初は大人しく待っているようにと、二人に言い聞かせていたらしい。
だけど、いちど火がついたら、騒ぐ二人を感単に止められなかった。
「じゃあ、立ち話もなんですし、続きは家の中で、どうぞおあがりください」
「良いのですか?」
「ええ、どうやら優も、久しぶりに会ったお友達とお話をしたいみたいだし」
別に俺はそんなことはないんだが、ここで断るのは不自然だ。
それに、俺はともかく、この二人は俺、というより優と会って話しがしたいみたいだしな。
結局、ママの提案に甘える形で、梅田さんと優の友達二人は、家の中に上がったのだった。
俺と二人の友達は、さっきまでDVDを見ていたリビングへ移動した。
「少しの間だけだけど、今は子供同士でゆっくりお話でもしていていいわよ」
ママは、俺たちに気を利かせて、梅田さんと一緒に隣の部屋に移動した。
「ゆうちゃんがのこと、ともみ、いっぱい、いっぱい、しんぱいしたんだからね」
ママたちが隣の部屋に移動した後、俺はともちゃんに泣きそうな顔をされてそう言われた。
そんな泣きそうなともちゃんを、おかっぱの子がなだめていた。
「ゆうちゃんがいなくなるなんて、ともみ、いやだからね」
「ともちゃんだけじゃないよ。ちゅーりっぷぐみのみんな、ゆうちゃんのこと、いっぱいしんぱいしたんだよ」
おかっぱの子にも、そう言われて、俺は咄嗟に返す言葉がなかった。
この二人は、優のことを、本気で心配してくれていたんだな。
そうとわかって、俺は胸がいっぱいになった。
まったくもう、優はこんないい子たちにこんなにも心配をさせて……。
実際に心配をかけたのは元の優だけど、今は俺が優なんだ、それは受け継がなきゃ。
「しんぱいをかけて、ごめんね」
だから優のかわりに俺が謝った。
俺に謝られて、ともちゃんが一瞬きょとんとして、そして俺の顔を見つめた。
「ゆうちゃん……」
なぜだろう、俺はともちゃんのその一瞬の間が気になった。
だけどそれを気にする間もなく、ともちゃんはまた泣きそうな顔になって、今度は俺に抱きついた。
「ゆうちゃんは、もうどこにもいかないよね?」
「……いかないよ、ゆうはどこにもいかないよ」
俺はともちゃんのことを抱きしめ返しながら、咄嗟に約束してしまった。
この場はそういわないと、収まらない様な気がしたから。
「ともちゃんばかりずるい」
結果的に仲間はずれになっていたおかっぱの子が、おもしろくなさそうに文句を言っていた。
こんな時なのにふと思う。
心配をかけたといえば、清彦の家族や友人は、今頃どうしているだろう?
俺が死んだ時、敏明は取り乱していた。
きっとこんな風に、いやそれ以上に悲しませただろう。
家族も悲しませて、迷惑をかけただろうな。
あの後どうなったのか、気にならないっていえば嘘になる。
だけど、優になった今の俺が、それを知りたがるのは不自然だし、今はそれを知る手段はない。
清彦の家族や友人に、関わることも出来そうにない。
だから今は、死んだ清彦の事を考えるより、生きている優のことを優先的に考えるべきだろう。
今の俺は優なんだから。
俺はそんな苦い思いを、そのまま飲み込んだ。
そして今は優として、二人と向き合ったんだ。
ともちゃんが落ち着いた後、あらためてお話、といわれても何を話そう。
友達同士の、それも幼児の話題なんて、俺は何を話していいのか見当もつかなくて、一瞬困った。
でも、今回はその心配は要らなかった。
まずはおかっぱの子、かおりちゃんから、質問と言う形で会話がはじまった。
あ、名前がわかったのは、保育園指定の上着の胸に付けていた名札に、かおり、と名前が書いてあったからだ。
ともちゃんの名札にも、ともみ、と書いてあった。
「ほいくえんにはいつからこられる?」
「びょういんってどうだった?」
興味津々に話を聞かれて、俺はそれに答えればよかったんだ。
あと、優の居ない間、保育園でなにがあったのかも、話してくれた。
もっとも子供の話題だから、たいした内容ではないんだけど、それでも今の俺にはありがたかった。
だって、優の事も、保育園の事も、俺は何も知らないんだから。
他愛もないことといえば、ともちゃんにこんなことも言われた。
「ゆうちゃんの、そのふくかわいいね」
「そう?」
「うん、なんかおひめさまみたい」
かわいいとか、おひめさまみたい、とか、清彦として言われたのであれば、嬉しくも何ともないはずだった。
だけど今は、ともちゃんに褒められて、なぜだか悪い気がしなかった。
ママにこのワンピースに着せかえられた時は、恥ずかしいとか、確かにかわいいけれど無意味だとか思った。
だけど今は、この二人の前に着飾って出られた事が、なぜだか嬉しいって感じていた。
何でだろう?
女の子がおしゃれをする気持ちが、ほんの少しだけわかったような気がした。
そんな風に話をしているうちに、二人がどんな子なのか、だんだんわかってきた。
おかっぱ頭のかおりちゃんは、クラスには一人か二人は居る、世話好きの委員長タイプの子だと思った。
話を振ったり、おとなしいともちゃんをフォローしたりしていた。
ともちゃんは、本来はどっちかというと、おとなしくて、口数が少ないタイプの子なんだなと思った。
それが仲の良い友達、この場合は優には、やっぱり口数は多くないけど、何か嬉しそうに話しかけてくる。
この子はよっぽど優のことが好きなんだな、と感じた。
今は俺が優だから、向けられている好意がよくわかるのだ。
そして今の俺は、感覚的になんとなくわかる。
優も、ともちゃんのことが大好きだったんだなって。
あとかおりちゃんは、ここに来た二人のほかにも、お見舞いに来たがっていた子がいるって話してくれた。
さすがに希望者全員というわけにはいかないので、保母さんたちがこの二人に絞ってお見舞いにきたらしい。
「こうくんも、ゆうちゃんとあいたがっていたよ」
かおりちゃんが、なんか悪戯っぽく笑いながら、俺にその名前をささやいた。
こうくん?
おそらく優のらくがき帳に描いてあった、こうちゃんのことだろう。
ニュアンスからして、やっぱり男だったんだな。
俺の反応が薄いせいなのか、かおりちゃんは戸惑いの表情、まずい。
「わあ、こうちゃんにも会いたいな」
すこしわざとらしいと思ったけれど、俺は少し大げさに、こうちゃんに会いたがって見せた。
かおりちゃんが、納得してくれたかどうかはわからないけど、それ以上は怪しまれなかったようだ。
ふう~。
そうこうしているうちに、隣の部屋で話し合っていたママたちが戻ってきた。
それは同時に、お見舞いの時間が終わって、ともちゃんたちが帰るということだった。
二人はすごく名残惜しそうだった。
というか、ともちゃんなんて、今にも泣きそうな顔をして、
「やだやだ、まだゆうちゃんといっしょにいたい」
とか言って、帰るのを渋った。
そんなともちゃんを、保母の梅田さんが、「保育園でまた会えるから」と言って一生懸命なだめていた。
お見舞いに来て、予定外に家の中に上がったりして、予定よりも長い時間この家に居た。
だから、もう保育園に戻らなきゃいけない。
だけど子供にはそんな理屈は通用しない。
こういうとき、幼い子供はわがままというか、一途というか、気持ちの切り替えが下手なんだな。
優と一緒に居たい、というともちゃんの気持ちが、俺には嬉しいと感じだけれど、このままってわけにはいかないよね。
「ともちゃん、優、またすぐに保育園にいくから、今日はもう、…ね」
「……やくそくだよゆうちゃん。うそついたらはりせんぼんだよ」
「うん、やくそく」
ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます、ゆびきった。
ともちゃんは、俺との約束で、やっと保育園に戻ることに同意してくれた。
そんな俺たちの様子に、梅田さんはほっとした顔をしていた。
「優ちゃん、知美ちゃんと、また会う約束をしてくれてありがとう」
「はい」
「くすっ、今日の優ちゃんはいい子ね、いつもなら優ちゃんも一緒に、……ううんなんでもないわ」
いつもならって、元の優ならともちゃんと一緒に、ともちゃんが帰るのを渋ったということかな?
元の優はわがままな所があったみたいだし、ありえる話だった。
だとしたら、今の対応はまずかったか?
だけど、そんな俺を見つめる梅田さんの目は、なぜだか優しかった。
保育園に戻る、梅田さんとともちゃん、かおりちゃんを見送るために、俺とママは一緒に玄関の外に出た。
「またね、ゆうちゃん」
「ゆうちゃんバイバイ」
「うん、バイバイ」
梅田さんに連れられて、二人は帰っていった。
名残惜しそうに、最後まで手を振ってくれた。
俺も二人の姿が見えなくなるまで、最後まで手を振った。
二人が帰った後には、俺とママが、ぽつんと残された。
何でだろう、俺はこの時、なんだかすげー寂しい、って感じていた。
俺が優として初めて会った、元の優の友達が帰って行っただけだ。
あの子達は、元の俺と親しかったわけじゃない。
だからこの場は上手く誤魔化せて、厄介ごとが去ってくれて、ホッと一息のはずなんだ。
なのに何でだろう?
「優ちゃん、お友達が帰っちゃってさみしい?」
頭の上からかけられたママに声に、俺はハッと気がついてママを見上げた。
ママは優しい微笑みを浮かべながら、俺のことを見つめていた。
俺は『寂しくなんてない』と、強がりを言おうとして、言えなかった。
この場面で、優が『寂しくない』なんて言うのは不自然な気がしたし、
実際に寂しい気分になっていたのだから。
「……うん」
俺は短くそう答えてた。
「優ちゃんは寂しがり屋さんだものね」
優は寂しがり屋さんって、そうなのか?
俺が今寂しいって感じているのは、優の身体の影響なのか?
いや、身体と言うより心の影響?
そんなものが、残っているのか?
「保育園に上がるまでは、ママが側にいないと、『ママがいない、ママはどこ?』
とか言いだして、すぐに泣いちゃう子だったものね」
などと、俺をからかうようにそんな話しをするママの口調は、なんだか楽しそうだ。
「そんなことないもん!」
俺はなぜだか反射的に反論していた。
……俺は何でこの話に、そもそも何に対してムキになっているんだ?
冷静な、高校生の清彦の部分でそう思いながら、なぜだか俺は感情的になっていた。
「あら、優ちゃんがお昼寝している間に、ママが買い物にいって、
帰ってきたら、目を覚ましていた優ちゃんが、
『ママー、ママー』って泣いていた事もあったじゃない。
あれは確か、優ちゃんが三つくらいの頃のことだったかしら?」
そんなこと、とか言って反論しようにも、俺にはその頃の優の記憶なんてない。
記憶があったとしても、ママの話の通りだろうし、やはり反論の余地は無かった。
そもそもこの手の思い出話で、子が親に勝てるはずはない。
だけど、俺はなぜだか悔しく感じた。
「う――っ!」
そして俺は、ママを睨んで唸っていた。
ママはそんな俺にお構いなしに、話を続けた。
「だから、優ちゃんが保育園に上がって、お友達が出来て、
嬉しそうにお友達の話をする優ちゃんを見ていて、ママは嬉しかった。
お友達の話ばかりするから、ちょっと優ちゃんのお友達に焼けちゃったけどね」
とママは笑いながら付け加えた。
「お友達……」
「ねえ優ちゃん」
「うん?」
ママの雰囲気が少し変わった。
表情が真剣になっていた。
「保育園のお友達に早く会いたい?」
そうか、ここからがママの話の本筋なんだ。
冷静な清彦の部分がそう思考する。
「うん」
「じゃあ、優が保育園に行くのは来週からってことになっていたけど、明後日から行きたい?」
明後日から?
「いく、いきたい!」
俺は即答していた。
元の優だったらきっと、「早く保育園にいきたい」と言っただろう、と俺は思う。
だから、おそらくママも、優がそう返事をするだろうって予測していたのだろう。
「わかったわ、じゃあ優ちゃんは明後日から保育園に行きますって、保育園に連絡しておくわね」
俺が「行く」と返事をすると、ママは早速携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけ始めた。
きっとさっきの梅田さんとの話し合いで、そういう話もしていたのだろう。
そんな訳で、俺は優の通っていた保育園に、予定より数日早く通うことになった。
本来の俺なら、こういうことを決める時は、もっと熟考してから決めていただろう。
そして、高校生だった俺が、保育園児の中に入ってやっていけるのか、不安だらけだった。
ついさっきまでは、「それってなんの罰ゲームだよ!」と感じていたほどだったんだ。
だから清彦的思考なら、保育園に通うのを、できるだけ先送りにしたに違いない。
もし、ともちゃんたちがお見舞いに来ていなかったら、間違いなくそうしていただろう。
だけど、お見舞いに来たともちゃんたちに、会っていたせいだろううか?
そんな理屈を考えるよりも先に、またともちゃんたちに会える、早く会いたいって思ったんだ。
それに、俺はともちゃんと約束もしたしね、「またすぐに保育園にいくから」って。
だからこれはこれでよかったんだ。
今は不思議と不安は感じなかった。
それどころか、俺は俺の優としての保育園デビューが決まったことに、心のどこかでわくわくしていたんだ。
そして翌日、俺(優)が保育園に復帰する前日ということで、その前に、
「ねえ優ちゃん、今日はお外にお出かけしようか?」
とママが誘ってくれた。
「お出かけ、行く!」
俺はママと一緒にお外にお出かけすることになった。
実際、退院してからの俺は、ほとんどこの家の外には出ていない。
どこでもいいから外に出て、何か気晴らしがしたかった。
ママの運転する車に乗せられて、午前中にまず向かうのは、優が住んでいる市内の動物園という事だ。
「動物園かあ……」
「あら、優ちゃんは動物園じゃ嫌? 嫌なら他の場所でもいいわよ」
「ううん、動物園がいい、動物園に行きたい」
俺は別に動物園が嫌ってわけじゃない。
ただ、ガキっぽい場所だな、と思っただけなのだが、ついそれが顔にでてしまったのだろう。
せっかく俺を喜ばせようと、外に連れ出してくれたママを、がっかりさせたくはなかった。
だから咄嗟にフォローした。
まあいいじゃんか、動物園で、気晴らしにはなるんだし。
そう思っているうちに、動物園に到着した。なぜか見覚えのある風景だった。
この動物園って、清彦だった時に来た覚えがある。
確か小学校のバス旅行の時の事だっただろうか?
小学生低学年の時の事だったので、細かい事までは覚えていないけど、俺は確かにここに来てたんだ。
そうか、優はこの動物園のある市に住んでいたのか。
清彦との意外な接点の発見に、俺のテンションは上がった。
たとえそれが、実はたいした接点でなかったとしてもだ。
ところでこの動物園は、目玉になる大型動物はあまりいない。
だけど、小さな子供が、小動物と直に触れ合えるというのが、ここの売りだった。
メエ――ッ!!
「わわっ!」
間近で見たヤギの迫力に、俺はついママの後ろに隠れた。
「あらあら、優ちゃんはヤギさんが怖いの?」
「こ、怖くなんか、ないもん!」
口では強がって見せたけど、今の俺は涙目だった。
今の幼児の小さな体では、ヤギでも相対的に巨大生物になってしまうのだ。
だとしても、……おかしい、清彦だった時には、これくらいは平気だったのに、何でだ?
その時の清彦は小学生低学年だったから、今の優より体が大きかっただろう。
だけど、それでもやはりヤギのほうが相対的に大きいのだ。
それでもあの時は平気だったのに。
「大丈夫よ、優ちゃんの側にはママがついてるわ」
そう言いながら、ママは俺を抱っこしてくれた。
ママに抱っこされた俺は、ヤギを見下ろす形になった。
「ほら、ヤギさんに触ってみて」
ママに促されて、俺は恐る恐るヤギの頭を撫でた。
ヤギの毛はごわごわしていて、思っていたより固かった。
でも、暖かかった。
「ね、平気でしょう?」
「うん」
俺は今度は安心して、ヤギの背中や頭を撫でた。
なんだか楽しくなってきた。
その後は、ポニーの所に行って、その背中に乗せてもらった。
「優ちゃん、お馬さんですよ」
「わあ~っ!」
今日は平日なので、お客さんが少なく、貸切状態でポニーに長く乗ることが出来た。
ポニーの背に乗って、その辺をちょっと引き歩いてもらっただけなのに、すごく楽しかった。
俺はいつの間にかポニーに夢中になって、年甲斐もなく、きゃっきゃとはしゃいでいた。
童心に帰るとは、こういう事を言うのだろうか?
そんなはしゃぐ俺を見て、ママはにこにこと笑っていた。
そして時々携帯電話で、そんなはしゃぐ俺の姿の撮影もしていたのだった。
その後は、うさぎの所に行った。
ここではうさぎに餌を与えたり、抱っこしたり撫でたりできるのだ。
「わあ~、うさぎさんかわいい」
うさぎは柔らかくて暖かくて、何よりかわいくて、こうして抱っこして撫でていたら、なんか気持ちが癒されていいな。
「うさぎさんがあったかいのはね、生きているからなの」
「生きている?」
「そうよ」
ママのその言葉は、俺の心に響いた。
「あたたかい、生きている」
そして、今の俺の身体も、あたたかくて、そして生きている。
そのことが嬉しくて、そして今ここにこうしていられることが、ありがたいって感じていた。
例えそれが、宮下優という、元の俺とは別人の姿であったとしても、
「俺は今、生きているんだ」
そのことを強く実感していた。
俺とママは、お昼になる少し前に動物園を出た。
「おなかが空いたわね優ちゃん、お昼ごはんはあそこで食べようか?」
「うん」
お昼は動物園の近くのファミレスに入った。
俺のお昼の注文は、お子様セットという、小さな子供向けのメニューだった。
とはいっても、俺はこれを食べたいと思っていたわけではない。
ママがメニューのお子様向けページを開いて、俺に見せながら、俺がこれを選ぶように誘導したのだ。
ママのなれた感じから、いつも優にこんな風に注文させていたのだろう。
子供が気まぐれで、変なものを選んでも困るからな。
まあいい、ここでごねてもしょうがない、ここはママにのせられておこう。
お子様セットは、子供サイズの少量のチキンライスと小さなハンバーグにエビフライ、
飲み物にオレンジジュース、おやつにプリンとお菓子と小さなおもちゃまでついた、本当に子供向けのメニューだった。
清彦の感覚だと、量が少ないな、こんなんで満足できるのか?
なのだけど、ここ数日の経験で、この体はそんなに多く食べられないとわかっている。
多分、これでも大丈夫だろう。
俺はまず真っ先に、プリンを食べた。
いっぱい遊んで、おなかが空いていたせいなのか、今はなんか甘いものが食べたいって心境だったんだ。
次にハンバーグ、残った中ではなんかハンバーグが一番って気がするんだよね。
とまあ、そんな調子で順番に食べていたら、最後に残ったのはチキンライス。
ここでふと気づく、あれ、いつもの俺なら、まずごはん系から食べるのに、これが最後に残った?
それなのに、おなかがふくれてきたのか、これを無理に食べたいって気がおきなかった。
「ママが食べさせてあげるわね、はい、あーん」
「あーん」
ママが食べさせてくれたので、俺はチキンライスを二口、三口、食べた。
でもそこで、おなかいっぱいでもういいやって気分。
食べたライスをオレンジジュースで流し込んで、ごちそうさまをした。
「じゃあ、残りはママが食べるわね」
そう言ってからママは、残りのチキンライスを食べたのだった。
そんなママを見ながら、ふと思った。
いつもの俺なら、後に食べるプリンを、先に食べておいてよかった。
!? そうか、元の優が好きなものから食べていたのは、
この身体だと、後に残しておなかがいっぱいになっていたら、食べられなくなるからなんだ!!
おなかがいっぱいになっちゃってて、美味しいもの、好きなものが食べられなかったら、それは不幸なことだからな。
そんな風に、俺が一人で納得していると、
ママの元に、食後のコーヒーとアイスクリームが運ばれてきた
アイス!! じゅるりっ
食べたい、そのアイスが食べたい。
俺は切実にそう思った。
「くすっ、優ちゃんもアイスが食べたい?」
「食べたい!」
ママの問いかけに、俺は即答で大きく頷いた。
「じゃあ、ママのをわけてあげる。はいあーんして」
「あーん」
俺は大きく口を開いて、ママにスプーンですくったアイスを食べさせてもらった。
「どう、おいしい?」
「うん、おいしい」
アイスは、冷たくて甘くて美味しかった。
そんな俺を見て、ママは微笑んでいた。
「ママだいすき!!」
俺の口からは、そんな一言が、自然に出ていた。
俺はママには感謝している。
だけど、だからといって、ここで面と向かって「だいすき」だなんて言っちゃうなんて、自分でも思わなかった。
元の清彦な俺だったら、そんな台詞、恥ずかしくて絶対言わなかっただろう。
でも言葉にしたおかげで、『そうか、俺はママがだいすきなんだ』と、その事に気がついた自分も居た。
「そう、ありがとう。ママも優ちゃんのことは大好きよ」
そう言いながら、ママは俺の頭を撫でてくれた。
「えへへ」
ママに大好きと言われて、頭を撫でてもらえて、なんかすごく嬉しかった。
なんか俺、ますますママの事が大好きになりそうだ。
この後、ママのアイスクリームを、半分こして食べさせてもらった。
すでにお腹はいっぱいだったけど、アイスだから食べられたのだろう。
デザートは別腹とはよく言ったものだ。
アイスを食べ終わった後は、さすがにもうお腹いっぱいだった。
ふぁ~あ、おなかがいっぱいになったからなのか、なんだかねむくなってきちゃった。
「あらあら、優ちゃん、眠たいの?」
「……うん」
「動物園ではしゃいでいたから、いつもより疲れちゃったのね」
そう言いながら、ママは俺の顔を見てくすっと笑う。
「じゃあ、ママが見ていてあげるから、優はゆっくりおやすみなさい」
今はとにかく眠い、俺はママの言葉に甘える事にした。
「おやすみ……ママ……」
「おやすみなさい」
重たくなった目蓋を閉じると同時に、俺は眠りに落ちていった。
この後、ママは眠っている俺を連れて、家に帰った。
次に俺が目を覚ました時、俺はママの部屋のママのベッドの中だった。
そしてさらに翌日、優が保育園に復帰する日がやってきた。
それは俺が優として、保育園デビューする日でもあった。
俺が保育園にいく準備は、ママが全てしてくれた。
俺は鏡の前に立ってみた。
鏡の中には、水色の保育園の上着を着ていて、
上着の胸には「ゆう」と名前の入ったチューリップの形の名札、
赤いスカートを穿いて、黄色いかばんを提げて、
黄色い帽子をかぶって、満面の笑みを浮かべた女の子が立っていた。
俺は鏡の前で、くるっと回ってみた。
鏡の中の女の子も、俺の動きにあわせてくるっと回った。
なんかそれが楽しく感じて、俺はくすっとわらった。
鏡の女の子も、楽しそうにわらっていた。
鏡に映る女の子の名前は宮下優、それが今の俺の名前で今の俺の姿だった。
「優ちゃん、何をしてるの、もう保育園にいくわよ」
「はーい、今いきます」
ママの呼ぶ声に返事を返して、俺はその場を後にしようとする。
その前に、もう一度鏡を覗きこんだ。
「じゃあね、優、今日から俺が君のかわりに、保育園に行ってくるからね」
それだけ言うと、俺はその場を後にした。
「いってきます」
こうして俺の宮下優としての、新しい生活がはじまったのだった。
「おい清彦、なにふざけてるんだよ、死んだふりなんてしてないで早く目を覚ませよ!!」
「やめろ敏明、清彦をゆするんじゃない! 保健の先生を、いや救急車を呼べ!」
「だれか先生を呼んで来てくれ!」
落ち着け敏明、俺はここにいるぞ。
と声をかけたのに、なぜだか敏明は俺に気付かない。なんでだ?
って、敏明がゆすっているのは俺? なんで俺が?
「それは君が死んだからだよ」
と後ろから声をかけられた俺が振り向くと、黒いローブのようなものをまとった男が宙に浮いていた。
宙に浮いているって! おまえはいったい何者だ?
「……何者だって、まあ君たちにわかりやすい言い方をすると、死神ってやつだな」
「死神……」
なんで死神が?
と疑問に思っていたら、どうやら俺を迎えに来たということらしい。
敏明とふざけていて転んだ俺は、机の角に頭をぶつけて、打ち所が悪くて死んだということらしい。
「そんな……」
「まあ、本来なら、君はまだ50年以上寿命が残っていたのだが、運が悪かったね」
「ちょっとまて、ということは、俺は生き返れるんじゃないのか?」
こういうとき、手違いですみませんでした。とかいって生き返らせるのがテンプレじゃないか?
「そういうわけにもいかなくてね、一度死んだ以上、簡単に返すわけにはいかないんだよ、これも運命だと思ってあきらめてくれ」
気がつけば、いつの間にか俺は、どこか暗い闇の中に浮いていた。
「まあ悪いようにはしないから、私についてきてくれ」
そういいながら、自称死神は、俺をどこかき連れて行こうとした。
「いやだ、俺はまだ死にたくない! まだまだやりたいことがたくさんあるんだ!」
俺は生に執着して、死神から逃れようと逃げだした。
ただ、あたりは真っ暗で、どこに逃げたらいいのか、俺がいまどこにいるのかさえわからなかった。
「まちたまえ、闇雲に逃げたって、どこにも逃げ場はないぞ」
だからって、はいそうですかと、俺の死を受け入れらるかよ。
そんな俺の悪あがきが、悪運を引き寄せた。
その時、俺は暗闇の中に、小さな光を見つけたんだ。
それはまるで、のぞき穴から漏れる光のようだった。
直感的に思った
もしかして、この光から地上に帰れる?
「ま、まちたまえ!」
「待てるかよ!」
死神の制止する声が聞こえたが、俺はかまわずその小さな光に触れた。
次に瞬間、俺はその光の中に吸い込まれ、一旦意識を失った。
…………ここは?
次に気がつくと、そこはどこかの病院の病室だった。
帰ってきた。俺は地上へ帰ってきたんだ。
『知らない天井だ』
というお約束のボケをかまそうとして、うまく声が出せなかった。
「……う…あぁ…んん……」
俺の口からは、なぜだかやたら甲高いうめき声が出ただけだった。
俺が目を覚ましたからなのか、病院の先生やら看護士やらが、なにやら騒ぎ出していた。
「ゆうちゃん、ああっゆうちゃん、……よかった、目を覚ましたのね」
俺の知らない若い女性が、目を覚ました俺に、涙ぐみながら、優しく声をかけてきた。
ゆうちゃん? ゆうちゃんって誰だ?
最初は状況がよく分からなかった。
だけど、ゆうちゃんというのは、どうやら俺のことらしい。
俺は清彦だ、ゆうなんて名前に改名した覚えはないぞ。
そう思いながら、まだ上手く動かない身体を動かして、自分の首から下を見下ろした。
なぜだか俺の身体は縮んでいた。
なんでだ? いったい何がどうなっているんだ?
状況が落ち着いてきてから、俺は鏡を見せてもらった。
鏡には幼稚園児くらいの、小さな女の子の姿が映っていた。
なんじゃこりゃ!! これが俺?
「そうだ、それが今の君の身体だよ」
「おまえは死神!!」
こんな所まで追いかけてきたのか?
どうしても俺を、あの世に連れて行くつもりか!!
俺は死神を警戒して身構えた。
小さな女の子の体で、どこまで抵抗できるのかわからないが、俺は必死だった。
「おいおい、そんなに警戒しないでくれよ。
私はもう君を連れていきはしないよ。
なぜなら君はその身体で生き返ったのだからね」
死神曰く、死神は生きた人間には、手出しできない事になっているのだそうだ。
「なら、いったい何のようだ?」
「それは、君に関わった私には、君への状況説明の義務があるからだよ。面倒なことにね」
そういいながら、死神はちいさくため息をついた。
今俺の魂が入り込んだのは、『宮下優』という名前の五歳の女の子だという。
優は近所の貯水池で遊んでいて、誤って落ちてそのまま溺れてしまったのだということだった。
「本来ならその子は、そのまま死んでいたはずだった。いや実際に死んでいる」
この子の魂は、すでに別の死神が連れて行ったらしい。
「ところが空になったその子の身体に、君の魂が入り込んで生き返ってしまった」
本来なら、死んだ人間の魂と死んだ人間の身体の組み合わせでは、
一時的に生き返ることができても、完全には生き返ることはできずに、すぐに死んでしまうのだということだった。
ところが、俺の魂は予定外の死亡だったので、生命エネルギーが有り余るくらいに残っていた。
そのうえ俺は生への執着が強く、入り込んだこの身体もまだ死にたてで、生命エナルギーさえあれば蘇生が可能な状態だった。
そんな条件が重なって、この子の身体に俺の魂と生命エネルギーが合わさって、全てがそろって生き返ってしまったのだということだった。
「ちょっとまて、ということは元の俺の、清彦の身体はどうなったんだ?」
「君の元の身体はもう死亡したことになっているよ。今頃は通夜をしているはずだ」
「そ、そんな……」
今からでも、俺を元の体に戻す事は出来ないのか?
「無理だな、死んだ人間を生き返らせるなんて、原則出来ない。今の状況でも異例なのだ。
仮に出来たとしても、君の元の身体は、死後時間が経過している。蘇生は不可能な状態のはずだ」
「そ、そんな……」
と死神に言われて、俺はがっくりうなだれるしかなかった。
「まあ、せっかく拾った命だ。
文字通り生まれ変わったつもりで、新しい人生を楽しんでみれば良かろう。
ではさらばだ、渡瀬清彦、いや宮下優」
そう言い残して、死神は去っていった。
病室には、ショックで呆然としたままの、五歳の女の子になった俺が残されたのだった。
宮下優として生き返った俺は、そのまま検査入院を続けることになった。
というのも、優は一度心肺停止、死亡、と認定されていたから、身体に異常がないか検査が必要だったのだ。
検査の結果、この体は今はどこにも異常がなく、明日退院ということになった。
「よかったわね優ちゃん、明日にはおうちへ帰れるわよ」
「……うん」
「どうしたの優ちゃん? 嬉しくないの?」
「え? …そ…そんなことないよ、わーい、おうちに帰れる、嬉しいな」
心配そうに俺を見つめる優のママを、これ以上心配させないように、喜んでみせたけど、
少し、……いや、かなりわざとらしかったかな?
だけど、家に帰れると言われても、それは優の家であり、俺の家ではない。
素直には喜べないし、俺のテンションは上がらなかった。
そんな俺に、優のママはつきっきりで面倒をみてくれた。
「優ちゃん、ママが絵本を読んであげようか?」
「優ちゃん、優ちゃんの好きなくまさんのぬいぐるみを、もってきてあげたわよ」
「優ちゃん、なにかほしいものはある? ジュースでもお菓子でも、ママが買ってきてあげるわよ」
優のママは元気のない娘が心配なのだろうか?
なんとか俺のご機嫌を取ろうと、俺を甘やかすようなことばかり言ってるけど、普段からこうだったのだろうか?
まあ、娘が死に掛けて、どうにか生き返ったんだ、必要以上に優しくしたくなるのもわかる。
だけど俺としては、いまはそっとしていてほしいし、一人にしてほしかった。
かといって、優のママを邪険に扱うわけにもいかないし、どうしたものか?
そうだ、寝たふりをしながら、その間に色々考えよう。
「ねえママ、ちょっと眠たい、寝てもいい?」
「……そうね、そういえばいつもなら、もうお昼寝の時間だものね」
優のママは少し残念そうに、それでも俺が寝ることに、理解を示してくれた。
それにしても、お昼寝の時間か、そういえば幼児のころはそういう時間があったっけ?
俺はシーツを頭までかぶり、目をつぶって寝る振りをした。
「優ちゃんが眠るまで、ママがそばで見ていてあげるわね」
……できれば優のママには、どこか別の場所に行ってほしかったんだけど、今はこれ以上気にしないことにした。
はあ~、それにしても、なんでこんなことになってしまったんだろう。
あの時、敏明とふざけていなかったら、こんなことにならずにすんだのだろうか?
その敏明は、今頃どうしているだろう?
俺とふざけていたのを、今頃後悔しているんだろうか?
クラスのみんなはどうなんだろう?
特に双葉さん、俺、あの人にあこがれていたんだ、こうなる前に告白しておくんだった。
いや、こうなるんだったら、告白なんかしなくてよかったんだろうな。
父さんや母さんは、俺に死なれてどう思ってるんだろうか?
何も親孝行できなかった。……ごめん。
兄さんと妹の若葉はどうしてるかな?
生意気な妹の若葉とは、いつも喧嘩していたから、俺がいなくなってせいせいしているだろうな。
……だけどなぜだか、若葉は泣いているような気がした。
若葉だけじゃない、家族もクラスのみんなも、みんな俺のために泣いている様な気がした。
そんなみんなにもう会えない、そう思ったら、なぜだか泣けてきた。
悲しくて、寂しくて、悔しくて、俺はいつの間にか、つぶった目から涙を流していた。
そんな俺の頭を、誰かがそっとなでてくれた。
だれだかわからないけど、その手が暖かくて優しくて、そのだれかが俺に、優しく声をかけてくれた。
「優ちゃん、ママは優ちゃんのすぐそばにいるからね、だから安心しておやすみなさい」
俺は半分眠りに落ちていて、俺にかけられた言葉の内容は理解できなかった。
だけど、俺はなぜだかその声に安心感を感じながら、そのまま眠りに落ちたのだった。
翌日、退院した俺は、ママと一緒に優の家に帰って(?)きた。
「さあ、おうちに着いたわよ。優ちゃん、ただいまは?」
「……ただいま」
「おかえりなさい」
優のママは、嬉しそうににっこり笑って、俺を迎え入れてくれた。
優の家に帰って来た俺は、優の部屋に入った。
優のママは、何か準備があるとかで家事を始めたので、今は俺一人になれて、少しホッとした。
優の部屋は、ぬいぐるみとか人形とか置いてあって、いかにも女の子の部屋って感じだった。
ただ、一部のぬいぐるみや絵本が散らかっていたり、
描きかけのお絵かき帳や、クレヨンが出しっぱなしになっていたりもして、
お片づけがが苦手な小さな子供の部屋って感じたりもした。
優って、部屋の片付け下手なのかな?
あの甘やかしママだからな、あまりうるさく言わないのかもな。
でも、娘が入院中に、少しくらい片付けておけば良さそうなものなのに、
まるでここだけ、時間が止まっているような印象を受けた。
時間が止まる?
俺は気づいた、冗談抜きで、ここの時間は止まってるんだ。
そして、本物の優の時間も止まっているんだ。
お絵かき帳を見た。
ぱぱとまま、と銘打って、子供が描いたみたいな下手な絵が描かれていた。
そしてひらがなで『だいすき』と書かれていた。
きっと娘が帰って来るまでは、両親はこの部屋に手を付けられなかったんだろう。
優が本当に亡くなっていたら、この部屋はずっとこのままだったに違いない。
これを書いた女の子が、この部屋に帰ってくることはもうない。
身体だけは帰ってきたけど、中身は俺という別人で偽者だ。
なんだかたまらない気持ちになった。
不意に見ていた風景が涙でにじんだ。
赤の他人の家族のことなのに、なぜだか悲しかった。
俺はちいさなもみじのような手で、目からあふれる涙を拭った。
これはきっと、本物の優の涙なんだ。
俺が本人のかわりに涙を流してあげてるんだ。
『ぱぱ、まま、ごめんね』
俺は優がそう言っているような気がした。
俺は本物の優のかわりに、しばらく涙を流し続けたのだった。
「優ちゃん、お昼ごはんができたわよ」
優のママがそう言いながら俺を呼びにきた。
俺はすぐに返事を返せなかった。
それどころか、涙で顔がびしょびしょで、それを完全に拭い去ることができなかった。
「どうしたのよ優ちゃん、どうして泣いているの?
どこか痛いの? それとも何か怖いことでも思い出したの?」
優のママは、整理ダンスから素早くタオルを取り出して、俺の顔を吹いてくれた。
そしてぎゅっと、やさしく俺を抱きしめてくれた。
「大丈夫よ優ちゃん、ママがすぐそばにいるから」
俺は、優のママの胸の感触にあたふたした。
でも同時に、なんだか懐かしいような暖かいような、不思議な感覚を感じていた。
いつの間にか俺は、母親に甘えるように、優のママに抱きついて、顔をこすり付けていたのだった。
泣き止んだ後、俺は少し恥ずかしかった。
なんで俺は優のママに、子供みたいに甘えるような真似をしたんだ?
それも、他人の母親にあんな真似をしてたんだろう。
まるで優の母親を、俺が横取りしたようないやな気分がした。
羞恥心と、そしてなんだか本物の優に悪いような気がして、俺は軽い自己嫌悪に陥った
それでも俺は、どうにか気持を落ち着かせた。
そして、優のママに連れられて、ダイニングルームにきた。
「お昼ごはんは、優ちゃんの大好きなオムライスよ」
見た目はタマゴがふわふわしていて、彩りもきれいで、気合を入れて作ったって感じで、なんだかおいしそうだった。
優のママって、料理が上手いみたいだな。
なんか腹も減ってるし、それに今朝まで美味しくない病院食だったし、今は遠慮なく食べよう。
「いただきます」
「あ、優ちゃん、ママが食べさせてあげる」
「えっ?」
「はい、あーん」
優のママは、小さなスプーンですくったオムライスを、俺の口のそばまでもってくる。
どうしたものかと戸惑っていると、優のママが悲しそうな顔するので、俺はしかたなく口を開く。
口にしたオムライスはおいしかった。
「どう、おいしい?」
「……おいしい」
俺がそういうと、優のママは嬉しそうだった。
優のママは本当に嬉しそうに、二口目もスプーンによそって俺の口まで運ぶ。
俺はしかたなく二口目以降も優のママから食べさせてもらった。
俺は親鳥にえさを貰う雛になった気分だった
『優のママって、すっごく子煩悩っていうか親ばかなんだな』
その日の昼はそんな調子で、俺は優のママにお昼を食べさせてもらったのだった。
お昼ごはんの食べ終わった後も、優のママは俺に構いたがった。
「優ちゃん、ママが絵本を読んであげようか?」
正直な所、俺に構いたがる優のママが鬱陶しいと思うんだけど、だからって邪険にできない。
今の俺は優なんだ。だから優のかわりに、優のママの相手をしてやらなきゃだめなんだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はそんな義務感から、優のママの相手をしてやることにした。
それにしても、絵本の読み聞かせだなんて、子供だましだよな。
まあいい、面倒だから、そのまま騙されてやろう。
俺は優のママと一緒に並んで、ママに絵本を読んでもらった。
いざ、優のママの相手をはじめると、さほど苦痛ではなかった。
この二、三日の間に、このママの相手に慣れてきていたからだろうか?
あと、子供だましなはずの絵本が、意外に新鮮で面白く感じていた。
そうこうしているうちに、俺はだんだん眠くなってきた。
「あら、もうお昼寝の時間なのね。優ちゃんお寝んねする?」
「……うん」
眠くなってその場で横になった俺に、優のママが毛布をかけてくれた。
そして、俺のすぐ横に、添い寝をしてくれた。
そんな優のママに、色々言いたい気分はあったけど、もう眠くて何も言えなかった。
「おやすみ優ちゃん」
「おやすみ……ママ」
俺はなぜだか優のママに安心を感じながら、お昼寝をしたのだった。
次に目を覚ましたら、もう夕方だった。
「今日は優ちゃんの退院祝いをしなきゃね」
とか言いながら優のママは、張り切ってケーキやらご馳走を作って用意していた。
そして優のパパが、仕事から帰ってきた。
優のパパとは、優のお見舞いに来てくれた病院でも会っていたから、顔はわかっていた。
優の回復に、喜んでくれていたような気はする。
だけど、今の時点では、優のママほどは印象になかった。
どんな人だろう?
優のパパは、退院のお祝いをしようと言うママを、まず制止した。
「その前に、優に言っておかなきゃいけないことがある」
と言ってから優に、つまり俺に説教を始めた。
「どうして優は、子供は立ち入り禁止の貯水池で遊んでいたんだ?」
「パパもママも優のことでいっぱい心配したんだぞ。特にママは、なかなかおっきしない優のことをすごく心配していたんだぞ」
優のママは、そんなパパを宥めて、優のことをかばってくれた。
だけど優のパパは、何か思う所があるのか、俺に厳しく接してきた。
そして俺は、そんな優のパパが、優のことを思って叱っていることがよくわかった。
俺の(清彦の)父さんや母さんが、俺のことを真剣に怒る時はこんなだったってことを知っていたから。
だから俺は、優の代わりに謝った。
「ごめんなさい」
俺はなんでだか涙目になっていた。
「そうか、わかってくれればいいんだ。これからは気をつけるんだぞ」
「……うん」
それで、この場の空気は収まった。
この後は改めて、優の退院祝いのホームパーティが始まったのだった。
優のパパは、それまでの厳しさが嘘みたいに、優しいパパだった。
そして、優は両親に愛されているんだなって、この身で改めて感じたのだった。
俺がこのまま優のふりをして、優として生活を続けたら、優の両親を騙すことになる。
それに、本当の優はもう死んでいることを、優の両親に教えておいたほうがいいような気もした。
だから俺は、パーティの間、いや、パーティの始まる前から、本当の事を言おうかどうしようか迷っていた。
「俺は本当の優じゃないんです。
俺は清彦と言う名前の男子学生で、
死んじゃった優の体を間借りして生き返ったんです」
でも、こうして優が帰ってきたことを本当に喜んでくれている両親を前に、俺は本当の事を言えなかった。
優のパパもママも、優の事を本当に愛している。
それがよくわかるだけに、本当の事を教える事が、残酷なような気がしたんだ。
時間が経てば経つほど、本当のことなんて言えなくなってしまった。
そしてパーティの後、
優のママと一緒にお風呂に入れられて、身体をあちこち洗われて、いろいろな意味で恥ずかしい思いをした。
そして風呂から出て、ピンクのパジャマに着替えさせられた。
「優ちゃんが寂しくないように、今日はママと一緒に寝ましょうね」
優ちゃんが、とか言いながら、優のママが娘と一緒に寝たがっているのは明白だった。
優のパパもしょうがないな、という呆れ顔をしていた。
本当なら、清彦としての俺なら、断固として拒否している所だろう。
「……うん、いいよ」
だけど俺は、あっさりママの願いを受け入れていた。
パーティの後、俺はある決心を固めていたんだ。
『あの優しい両親に、本当の事を教えて悲しませたくない』
だから優と俺の本当の事は、優のパパとママには黙っていよう。
どこまで本物の優の代わりになれるかわからないけど、俺が優の身代わりになろう。
例えそれが、優の両親を騙しつづける事になるとしても。
この秘密は、墓場まで持って行こう。
俺はあの人たちを騙すって決めたんだ、なら最後まで騙し通すんだ。
『……ごめんね優、俺なんかがきみの全てを横取りして、
許して欲しいなんて言えないけれど、本当の優の代わりに精一杯がんばるから』
俺の宮下優としての新たな生活が、こうして始まったんだ。
朝、俺が目を覚ますと、優のママの広いベッドには誰もいなかった。
優のパパが寝ていた隣のベッドにも、誰もいない。
優のパパもママも、もう起きたのだろう。
眠い目をこすりながら、さて、これからどうしよう。
と思っていたら、う、オシッコがしたくなっていた。
早くトイレに行かなきゃ。この体、あまり我慢がきかないんだよな。
トイレにいくために、俺はもそもそと起き出して、ベッドから出た。
今の小さな俺の体には、ベッドの段差がちょっとだけきつかった。
部屋の外の廊下に続くドアのレバーを引いて、ドアを手前に引っ張って開けた。
これもこの体が小さくて非力なせいで、レバーに手が届くからまだ良いとして、ドアを開けるのは結構面倒だ。
トイレの前に立ち、レバーを引いてドアを開ける。
今度は押し開けるだから、さっきよりは楽だけど、やっぱり面倒だ。
うう、大人の体だと普通に出来ることが、幼児の小さな体だと面倒なんだな。
ここ数日でわかっていたことだけど、改めてそう感じた。
だけど俺は優の代わりになるって決めたんだ。
せっかく優の代わりに貰った命と身体なんだ、
面倒な事も含めて、全部を受け止めないでどうするんだ。
そう自分に言い聞かせた。
俺は便座に座って、パジャマのズボンとパンツを引き下ろした。
そこには男だった時にあったものが何もなく、つるっとした女の子の割れ目があるだけだった。
なんだか悲しい気分になりながら、オシッコを我慢していた下腹の力を緩めた。
次の瞬間、俺の股間の割れ目からは、我慢していた分、勢いよくオシッコが噴出した。
ああっ!、俺は女の子の身体で、女のオシッコをしてるんだ。
この身体は、まだ幼児でつるぺたで、男女の差は小さい。
だけどこの時ばかりは、今は俺は女なんだって、嫌でも実感させられた。
俺だって、元は男だったんだ、女の子の身体に興味はあった。
だけど……。
「この身体、さすがに子供すぎるんだよな」
着替えの時とか、お風呂の時に、優の裸を見たけど、つるぺただし、別に面白いと思わなかった。
高校生、いやせめて中学生くらいの女の子の身体なら、もっと興奮が出来たのかもしれない。
まあ、今まではどっちの時も、過保護な優のママが俺の側にいて過干渉してきたから、
食欲が湧かないとはいえ、この身体をじっくり見るどころじゃなかったけど。
さすがにトイレの中までは、優のママは俺の側にいなかったから、この時は男女の違いを観察できた。
だけどこれはこれで、色々と生々しいんだよな。
座ってオシッコをするのも、終わった後、あそこを紙で拭くのも、最初は男とは違う経験が新鮮だった。
だけど、男の時に比べて、オシッコの切れが悪かったり、紙で拭いてもしっかり拭かないと濡れた感じがあそこに残ったり、色々面倒だった。
何回か繰り返すうちに、女の身体の面倒くささにうんざりするようになった。
トイレは男のほうが楽だったし、やっぱり男のほうがよかったな。
「あー、立ちションがしてえなあ」
優の鈴のような可愛い声で、俺は思わずぼやいていた。
オシッコを済ませてトイレを出た後、俺は手を洗うために洗面台の前に立った。
洗面台の前には、小さな箱のような台が置いてあり、俺はその上に乗った。
そうすると、背の小さな今の俺でも、洗面台にちょうど手が届くようになる。
おそらくこの台は、優が一人でも手を洗えるように置いてあるんだろう。
俺は洗面台の水道でしっかり手を洗って、ついでに顔も洗った。
タオルで手と顔をしっかり拭いた。
洗面台の鏡には、つぶらな瞳のカワイイ女の子の顔が映っていた。
「優って、カワイイよな」
優のママも結構美人だし、将来この子も美人になるんだろうな。
そしてこの顔は、今の俺の顔でもある。
「どうせ女になるなら、カワイイほうがいい」
そう思ったら、俺も悪い気はしなかった。
今は身体が小さくて、可愛いらしすぎる気はするが、将来が楽しみ、ということにしておこう。
この身体が成長した頃には、俺はどうなっているんだろうな。
お手洗いを済ませて、ダイニングルームに移動すると、そこに優のパパとママがいた。
「あら、おはよう優ちゃん」
「おはよう優」
優のパパとママの朝の挨拶に、俺は、
「おはようございます」
と、挨拶を返した。
「あらあら、今日の優はいつもよりお行儀がいいのね」
え、そうなのか、まずかったかな?
いや、どうせ元の優のようにはいかないんだ。
今は俺が優なんだ、少しくらい変に思われてもしょうがない、今はこのままで行こう。
俺は、「うん」と返事を返して、何食わぬ顔で優の席に座った。
優のパパは仕事があるからなのか、先にトーストとコーヒーで朝食を取っていた。
優のママは、テーブルのうえに、あと二人分の朝食を並べていた。
俺の席の前には、ジャムを塗ったトーストとオレンジジュース、プリンが並べられていた。
……見事に甘ったるいものばかりだな、これは優の好みなんだろうか?
今は俺が優なんだ、文句を言わずに食べるとしよう。
「いただきます」
朝食のトーストは、普通に美味しかった。
こういう場合、味覚が変わって以前より美味しく感じる、ということがあるのかな、とも思ったが、
特別美味しく感じるということも、ジャムが甘すぎて食べられないということもなかった。
まあ、普通はそうだよね。
食べたトーストを、オレンジジュースで流し込んでから、最後のお楽しみに残しておいたプリンに手を伸ばした。
「あら、いつもは大好きなプリンは真っ先に食べるのに、今日は一番最後なのね」
「えっ? う、うん、今日はなんだか最後に食べたくて……」
「そう?」
優のママの何気ない突っ込みに、俺は密かに焦った。
優って、好きなものは最初に食べちゃう派なのか?
俺は楽しみは最後に取っておく派で、今回も自然な流れでそうしたんだけど、
もしかして、今ので優のママに怪しまれたか?
俺はこっそり優のママの様子を窺った。
特に気にする様子もなく、優のママは自分のトーストを食べていた。
良かった、特に怪しまれていた訳ではなさそうだ。
そりゃまあそうだよな。でも、さすがに母親、子供の細かい所まで見ているんだな。
……細かい事を気にしすぎてもしょうがない。
今は俺が優なんだ、これからは優は好きなものは最後に食べる、それでいいじゃないか。
少し気をそがれたけれど、俺は気を取り直して、残しておいたプリンを味わって食べたのだった。
朝食の後、優のパパは仕事に出かけるために、ダイニングルームを出た。
「優ちゃん、パパのお見送りをしようか?」
「うん」
優のママに促されて、俺と優のママは、パパのお見送りに玄関までついていった。
ちなみに、いつもはさすがにこんな風にお見送りなんてしないけれど、
今回のは、優が帰ってきて最初の朝だからと、気を効かした優のママの思いつきだったらしい。
「優、ママのいう事を聞いて、ちゃんといい子にしてるんだぞ」
「うん」
「じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい」
俺と優のママは、玄関で手を振って、優のパパを見送った。
手を振り返す優のパパは、なんだか嬉しそうに見えた。
そんな優のパパの様子に、俺も少し嬉しく感じていた。
さて、優のパパを見送った後の俺の予定は?
自宅療養だった。
優は近所の保育園に通っていたが、今週は大事を取ってお休み、という事らしい。
病院の先生の指示もあるが、優のママが優のことを心配して、ということでもあるようだ。
ちょっと娘に過保護すぎないか?
と思わないでもないが、かといって、じゃあすぐに保育園に行け、といわれても俺も戸惑っただろう。
いずれ俺が優のかわりに、保育園に行かなきゃいかないだろうけど、心の準備をする時間は欲しかった。
今は、来週まで猶予期間が与えられたのはありがたい、って思うことにしよう。
じゃあ、その猶予期間に俺がするべきことは?
「俺、優のこと、まだ何も知らないんだよな」
だから、優のことを知ることから始めよう。
まずはこの家の探検からだ!
と、言いたいところだが、今この家には俺の他には優のママがいる。
いくら優がこの家の子供でも、おおっぴらに家の中を調べてまわるのは不自然だろう。
まあいい、まだまだ時間はあるんだし、家中を調べるのはもう少し様子を見てからだ。
じゃあ、優の姿の俺が調べても不自然じゃない場所は、優の部屋かな?
色々調べてみよう。
俺は台所で、食器の後片付けをしている、優のママに話しかけた。
「ママ、優、優のお部屋に戻っているね」
「そう? お部屋で遊んでいるなら大丈夫ね、わかったわ。
ここのお片づけと洗濯が終わったら、ママも一緒に遊んであげるから、それまで一人で遊んでいてね」
「うん」
ママも一緒にって、この人はどんだけ子供の面倒見が良いんだよ。
病院でも付きっ切りだったし、昨日退院して家に帰ってきてからも、できるだけ一緒に居ようとしていたっけ。
清彦だった元の家では、俺の母さんはもっと放任だった気がする。
まあ、清彦の場合、俺が二人目の子供で、兄が面倒を見ていてくれたっていう事情もあったけどな。
三人目の妹のほうが、最初の女の子で末っ子ということもあって、母さんにかわいがられていたっけ。
そのせいで幼い頃の俺は妹に嫉妬して、ちょっと意地悪もして、大きくなっても妹とはよく喧嘩をする仲になったっけ。
その妹をかわいがるにしても、母さんはここまで過保護じゃなかった。
この家は優の一人っ子だし、清彦の家とは事情が違うのはわかる。
一人娘の優がかわいくて、一人に愛情を注いでいるのはわかるけど、ずっと付きっ切りっていうのもな。
と、ここで、優のママは、俺のうんざりした空気を感じたのだろうか?
「優ちゃん、ママに内緒で、勝手にお外に出ちゃ駄目だからね」
ここで俺に釘を刺してきた。
「……うん」
内緒でお外って、俺は別に外に出る気はなかったんだがな。
俺って信用ないのかな?
いや、この場合、信用がないのは優ってことか?
子供は立ち入り禁止の貯水池で、遊んでいて溺れたのだから、信用がないのもしょうがないが。
今までの俺の優の両親との少ないやりとりで、俺は優は少しわがままだったらしい。と察していた。
一人っ子で甘やかされて育てられたら、まあわがままにもなるわな。
と、優の事情は今では自分自身のことなのに、その時はまだどこか他人事のようにも感じていたんだ。
でも優のママの次の一言で、その心情を知る事になった。
「もし優ちゃんがいなくなったら私、……お願い、優ちゃんはママを置いてどこにも行かないで」
泣きそうな顔でそう言いながら、優のママは、俺の体をぎゅっと抱きしめた。
優のママの体は柔らかくて、そして温かかった。
そうか、優のママは、優を失う事を恐れているんだ。
優の体に俺の魂が入り込んで、結果的に優は生き返ったけど、本当なら死んでいたんだ。
優は病院で、一度死亡認定された。
少なくともその時、優のママは優を一度失っているんだ。
その時の優のママの心情は、どうだったんだろうか?
今、俺を抱きしめている優のママは、今までで一番弱々しく感じられた。
「うん、どこにもいかない。優はママを置いてどこにもいかないよ」
俺は本当の優の代わりにそう答えていた。
いや、俺自身がそう答えていた。
俺自身が、このママを放っとけないって、そう感じていたんだ。
「本当に?」
「本当だよ」
「……どこにも行かないって、ママと約束してくれる?」
「約束する。優はママを置いて、どこにも行かないよ」
それが俺が優として、いや俺自身がママと交わした約束だった。
後から振り返ってみると、
これまでは、優のママと、優の身代わりの俺が、という風なワンクッション置いた関係だった。
それがこの時から、ママと娘の俺が、って言う直接的な母娘の関係に置き変わっていったんだ。
あの後、優のママ……いや、今はもう俺が優で、俺にとってあの人は俺のママってことなんだ。
だからこれからは心の中でも、あの人の事をママと呼ぶことにする。
ママは、「洗い物を早く終わらせて戻ってくるわね。だから優は、それまでいい子で待っていてね」
と言って、家事に戻っていった。
一人になった俺は、優の部屋へ行って、部屋の中を見回した。
昨日見たときとは変わっていない、そのままの状態だった。
ここにはまだ、元の優の色が濃く残っている。
だけど、「元の優には悪いと思うけど、ずっとこのままってわけにはいかないよな」と思った。
これからは俺が優として、ここで生活していくことになるんだ。
この部屋は、新しく優になった俺の色に、少しづつ塗り替えられていくことになるだろう。
そして、元の優の色が消えていくのだろう。
そんな訳で、まず部屋の探索の前に、部屋に散らかっている物を簡単に片付ける事にした。
まず出しっぱなしのクレヨンを、元の箱の中に戻す。
……ちょっとまて、クレヨンの並び方がばらばらじゃないか!
それに、結構折れたクレヨンもあるし、優はどういう使い方をしたんだ?
まあ、子供なんだからしょうがないか、と思い直しながら、中のクレヨンを並べ直した。
クレヨンを並べ直しながら、改めて思う。
この体になってから、ずっと感じていたけど、子供の手って小さくて、何より動きがぎこちないんだな。
細かい作業をしていたら、そのぎこちなさを余計に感るんだ。
体が成長する過程で、だんだん手足を器用に動かせるようになるんだろうけど。
「幼児の体って、こんなに不便だったっけ?」
十年ほど前は、清彦だった俺自身が幼児だったけど、手の動きがぎこちないと感じた記憶が無い。
まあ、その頃はそれが当たり前だったから、そんなことを感じようがなかったんだろうけどな。
それに、手先の器用さよりも、体の小ささのほうが不便に感じる。
俺はつい、「はあ~っ」とため息をついた。
クレヨンを並べ直し終わって、お絵かき帳を手に取った。
優が最後描いた絵が、パパとママだったっていうのは、何だか皮肉な感じがした。
優は何か予感でも感じたのだろうか?
そんな訳ないよな、だったら危ない所で水遊びなんてしないよな。
だけど、そんな風に感じたせいでか、優が以前に何を描いたのか興味がでてきた。
お絵かき帳をぱらぱらと捲ってみる。
中には、お花だとかねこさんだとか、とにかくかわいいものを描いていた。
花の比率が多いだろうか?
女の子らしいものを描いているんだな、とわかってなぜだか少しホッとした。
そんな中に、友達を描いた絵もあった。
ともちゃん、と名前の書かれた、髪の長い女の子の絵。
優と仲の良い子なのかな?
それと、もう一つにになったのは、
こうちゃん、と名前の書かれた、男の子と思われる絵だった。
こうちゃんのことを、男だと思ったのは、髪型が短髪で、ともちゃんがスカート、こうちゃんが半ズボンの絵だったからだ。
「絵に描くくらいだから、優とは仲のよい友達なのかな?」
優とどういう関係なのか、ともちゃん、こうちゃん、のことは少し気にはなったが、これ以外に判断材料はないし、
今はまだ会ったこともない二人のことを、これ以上考えてもしょうがない。
「優の絵の友達の事は、実際に会ってみてからだな」
保育園に通うようになれば、嫌でも顔をあわせることになるんだから。
「保育園に通う……か、俺はつい先日まで高校生だったのに、今更保育園に通うだなんてな、いったいどんな罰ゲームだよ」
はあ~、と俺は思わずため息をついた。
今週は大事を取って休みで、保育園に通うのは来週からというのは、せめてもの救いだった。
それまでに、せいぜい心の準備をしておこう。そう思った。
ところが優が絵に描いていた女の子のほう、ともちゃんと会う機会は、意外に早く訪れることになる。
ママは家事を済ませた後、急いで俺の元に来て、俺の世話を焼いて、俺にべったりだった。
たとえば、パジャマから部屋着への着替えの時、俺は今回は最初から最後までママに着せ替えられた。
一人で着替えられるって言ったのにな。
しかも着替えはフリルのついたひらひらなワンピース、外に出かけるわけでもないのに、着飾ってどうするんだよ。
まるでお姫様にでもなった気分にさせられて、俺は精神的にダメージを受けた。
俺の世話を焼いてくれるのはいいのだが、さすがに辟易した。
とはいえ、楽しそうに俺の世話を焼くママを、あまり邪険にもできないしな。
だけど同時に、俺は今の優のポジションが、心地よいとも感じていた。
清彦の母親は、俺を放任で育ててくれたからな。
おかげで俺は、あまり母親に甘えた記憶がない。
だから俺は、幼い頃は母親にべたべた甘える事に、憧れも感じていたんだ。
さすがに中学生、高校生と、成長していくうちに、
そんな気持ちは心の奥にしまい込んでしまったが、
今のこの境遇になって、そんな気持ちをだんだん思い出してきた。
ちょっとだけ、わがままを言ってみる。
「ママ、喉がかわいた。何か飲みたい」
「あらあら、じゃあ飲み物を用意するわね。優ちゃんはオレンジジュースとお茶、どっちがいい?」
「オレンジジュース!」
「わかったわ、今用意してあげるわね」
これがもし幼い頃の清彦の母親だったら、
「まだご飯を食べたばかりでしょ、我慢しなさい」
「冷蔵庫の麦茶でも飲んでいなさい」
だっただろう。
だから清彦だったら、この場合はお茶、なんだけど、
なんだか今の俺は、ささやかなわがままで、ジュースを頼みたい気分だったんだ。
そんな事を思い出しているうちに、ママがジュースを持ってきてくれた。
コップに氷を入れて、ストローまでさしてあった。
俺はママの持ってきてくれたジュースを、子供みたいにストローから飲んだ。
「優ちゃん、オレンジジュース美味しい?」
「うん」
甘ったるいオレンジジュースが、今の俺にはすごく美味しかった。
「そう、よかったわ」
俺は何だか嬉しくて、今は多分満面の笑みを浮かべてるだろう。
そしてママは、そんな俺を、嬉しそうににこにこ見つめていた。
昼食の後、午後はママと一緒に、アニメのDVDを見ていた。
アニメを見る前に、ママに、
「アン〇ンマンにする? それともト〇ロ?」
と聞かれた。どっちも優が好きで、良く見ているアニメらしい。
どうせなら、俺が清彦だった時にまだ視聴途中だった、深夜アニメが見たいなあ。
と密かに思ったけれど、幼児が深夜アニメを見たいだなんて、そんな不自然な事を、とても口には出せない。
途中まで見かけていた深夜アニメを、俺は再び見る機会はあるだろうか?
それはともかく、ここは無難に「ア〇パンマン」と答えておいた。
なんだかんだ言っても、俺も幼い頃はアンパン〇ンを夢中になってみていたからな。
さすがに今の俺には子供向けすぎるが、それでもそれなりに楽しめるはずだ。
少なくとも、退屈しないで済むはずだ。
〇トロも嫌いではない、というか幼い頃は好きだったが、何回も見ていて内容はよくわかっている。
しかもおとなしい内容だから、退屈するかもしれないし、今更改めて見たいとは思わない。
そう思ってママと一緒にアン〇ンマンのDVDを見始めた。
さすがに二十何年も放送していて、俺の見ていた頃とは十年ほどずれがあるだけあって、
今回見ている話は俺の初見の内容だった。
だけど、ある程度、勧善懲悪のお約束と言うか、パターンは決まっている。
悪い事をするバイキ〇マンを、アンパンマ〇が懲らしめるのだ。
子供騙しだけど、そのお約束が良いのだ。
そう思っていたのに、俺はいつの間にか、意外に夢中になって見ていた。
〇ンパンマンがバ〇キンマンをやっつけた時なんか、俺はつい思わず歓声をあげていた。
ちなみに、今回はママが見る候補に挙げられなかったので、気づかなかったし知らなかったのだが、
優はプ〇キュアも好んで見ていたらしい。
そして俺も、清彦だった時に、プリ〇ュアは好んで見ていた。
後でそうと知って、俺と優が共通して見ていたアニメを、継続して見られることを素直に喜んだ。
だけど、清彦だった時と、優になった今では、見る視点や感じ方が変わってしまっていて、
同じアニメなのに、印象が大きく変わってしまっている事に気づくのは、もう少し後のことになる。
ちなみに、アニメのDVDは、リビングの大画面のテレビで見ていた。
ママがテレビの正面のソファーに座り、俺はそのママの膝の上に、ちょこんとママに抱っこされている形で座っている。
ちょっと待て、さすがにこれは、少し恥ずかしいだろ!
最初はそう思ったけれど、ここで拒否するのも不自然だよな、というか、
いつもは優のほうからおねだりする形で、こんな風にママに抱っこされていたらしい。
仕方がないよな、今は俺が優なんだ、ここは優らしく振舞わないと。
ママの膝の上は、思っていたよりも収まりが良かった。
というか、なんだかここは暖かくて心地よくて、不思議な安心感があった。
俺は感覚的に理解した。確かにここは優の好んでいたポジションなんだと。
そしてそれも、今では俺のものなんだ。
俺が清彦でなくなって、失ったものは多い。
だけど優になって、かわりに清彦だった時には欲しくても得られなかったものが、今は独占的に得られている。
そのことに、なんだかよくわからない優越感や満足感を感じながら、俺は甘えるようにママに背中を預けた。
ピンポ―――ン
「あ、はーい」
玄関のチャイムが鳴って、ママが俺をおろして席を立とうとする。
うー、せっかく気分がよかったのに。
「ごめんね優ちゃん、お客様が来たみたいだから、ちょっとだけ我慢していてね」
どうやら俺は、不満そうな顔をしているらしい。実際に不満だったけど。
ママがそんな俺に謝ってくれた。さすがにここは聞き入れなきゃ。
「……うん」
俺は不満を感じながらも、そっとママの膝の上から降りた。
「今日はいい子ね優ちゃん、ちょっとだけ待っててね」
そう言いながら、ママはそっと俺の頭を撫でてくれた。
……そんな子供騙して、俺が誤魔化されるとでも?
そう思いながら、でも俺は少しだけ機嫌を直していた。
ママはそんな俺に微笑みかけながら、インターホンの所に移動した。
インターホンを操作する、ママの後姿を見ながら、俺ははっと気づいた。
ちょっと待て、俺は今、すっかり心が子供に戻ってなかったか?
それともだんだん優に馴染んできたのか?
今後は、俺は優として生きていくしかない以上、いずれは今の優の生活に慣れなきゃいけない。
だから優に馴染めるのなら、本当はそのほうがいいのだろう。
だけど何か、このままだと俺が俺でなくなっていくような気がして、急に怖くなった。
このまま流されるだけじゃ不味いんじゃないか?
かといって、あまりおかしな行動もできないし、この後はどうしよう?
などと、悩む間もなく、俺はママに声をかけられた。
「優ちゃん、優ちゃんにお客様よ。保育園の保母さんが、優ちゃんのお友達をつれてお見舞いに来てくれたわよ」
「お見舞い?」
俺が会った事のない、保母さんとかお友達が俺のお見舞いって、それこそどうしよう?
俺とママは、お見舞いに来てくれたお客様を、玄関で出迎えた。
お見舞いに来たのは、優の通っている保育園の保母の梅田さんと、
梅田さんが一緒に連れてきた、保育園児の女の子が二人、
二人は、優とおなじチューリップ組の園児、ということだった。
「優ちゃんの、思っていた以上に元気そうな顔を見て、安心しましたわ」
「いえいえ、おかげさまで……」
などと、梅田さんとママとの間で、少し大人の会話がされた。
その合間に、梅田さんから俺は体の調子は大丈夫?、とか聞かれて、俺は「大丈夫」と答えておいた。
梅田さんの横では、おかっぱ頭の女の子が立っていて、何か話したそうに俺のことを見つめていた。
そして、その女の子の後ろで、髪の長い大人しそうな女の子が、うるうるとした瞳で俺を見つめていた。
俺は直感的に気がついた。この子はもしかして?
「ともちゃん?」
つい口に出して言ってしまった。
大人しそうな女の子の表情が、嬉しそうにパッと明るくなった。
「ゆうちゃん、あいたかった」
「ともちゃんずるい、わたしだって、ゆうちゃんとおはなししたいの、がまんしてたのに」
「だって……」
これをきっかけに、女の子たちが、もっと俺とお話しがしたいと騒ぎ出した。
どうやら保母の梅田さんが、最初は大人しく待っているようにと、二人に言い聞かせていたらしい。
だけど、いちど火がついたら、騒ぐ二人を感単に止められなかった。
「じゃあ、立ち話もなんですし、続きは家の中で、どうぞおあがりください」
「良いのですか?」
「ええ、どうやら優も、久しぶりに会ったお友達とお話をしたいみたいだし」
別に俺はそんなことはないんだが、ここで断るのは不自然だ。
それに、俺はともかく、この二人は俺、というより優と会って話しがしたいみたいだしな。
結局、ママの提案に甘える形で、梅田さんと優の友達二人は、家の中に上がったのだった。
俺と二人の友達は、さっきまでDVDを見ていたリビングへ移動した。
「少しの間だけだけど、今は子供同士でゆっくりお話でもしていていいわよ」
ママは、俺たちに気を利かせて、梅田さんと一緒に隣の部屋に移動した。
「ゆうちゃんがのこと、ともみ、いっぱい、いっぱい、しんぱいしたんだからね」
ママたちが隣の部屋に移動した後、俺はともちゃんに泣きそうな顔をされてそう言われた。
そんな泣きそうなともちゃんを、おかっぱの子がなだめていた。
「ゆうちゃんがいなくなるなんて、ともみ、いやだからね」
「ともちゃんだけじゃないよ。ちゅーりっぷぐみのみんな、ゆうちゃんのこと、いっぱいしんぱいしたんだよ」
おかっぱの子にも、そう言われて、俺は咄嗟に返す言葉がなかった。
この二人は、優のことを、本気で心配してくれていたんだな。
そうとわかって、俺は胸がいっぱいになった。
まったくもう、優はこんないい子たちにこんなにも心配をさせて……。
実際に心配をかけたのは元の優だけど、今は俺が優なんだ、それは受け継がなきゃ。
「しんぱいをかけて、ごめんね」
だから優のかわりに俺が謝った。
俺に謝られて、ともちゃんが一瞬きょとんとして、そして俺の顔を見つめた。
「ゆうちゃん……」
なぜだろう、俺はともちゃんのその一瞬の間が気になった。
だけどそれを気にする間もなく、ともちゃんはまた泣きそうな顔になって、今度は俺に抱きついた。
「ゆうちゃんは、もうどこにもいかないよね?」
「……いかないよ、ゆうはどこにもいかないよ」
俺はともちゃんのことを抱きしめ返しながら、咄嗟に約束してしまった。
この場はそういわないと、収まらない様な気がしたから。
「ともちゃんばかりずるい」
結果的に仲間はずれになっていたおかっぱの子が、おもしろくなさそうに文句を言っていた。
こんな時なのにふと思う。
心配をかけたといえば、清彦の家族や友人は、今頃どうしているだろう?
俺が死んだ時、敏明は取り乱していた。
きっとこんな風に、いやそれ以上に悲しませただろう。
家族も悲しませて、迷惑をかけただろうな。
あの後どうなったのか、気にならないっていえば嘘になる。
だけど、優になった今の俺が、それを知りたがるのは不自然だし、今はそれを知る手段はない。
清彦の家族や友人に、関わることも出来そうにない。
だから今は、死んだ清彦の事を考えるより、生きている優のことを優先的に考えるべきだろう。
今の俺は優なんだから。
俺はそんな苦い思いを、そのまま飲み込んだ。
そして今は優として、二人と向き合ったんだ。
ともちゃんが落ち着いた後、あらためてお話、といわれても何を話そう。
友達同士の、それも幼児の話題なんて、俺は何を話していいのか見当もつかなくて、一瞬困った。
でも、今回はその心配は要らなかった。
まずはおかっぱの子、かおりちゃんから、質問と言う形で会話がはじまった。
あ、名前がわかったのは、保育園指定の上着の胸に付けていた名札に、かおり、と名前が書いてあったからだ。
ともちゃんの名札にも、ともみ、と書いてあった。
「ほいくえんにはいつからこられる?」
「びょういんってどうだった?」
興味津々に話を聞かれて、俺はそれに答えればよかったんだ。
あと、優の居ない間、保育園でなにがあったのかも、話してくれた。
もっとも子供の話題だから、たいした内容ではないんだけど、それでも今の俺にはありがたかった。
だって、優の事も、保育園の事も、俺は何も知らないんだから。
他愛もないことといえば、ともちゃんにこんなことも言われた。
「ゆうちゃんの、そのふくかわいいね」
「そう?」
「うん、なんかおひめさまみたい」
かわいいとか、おひめさまみたい、とか、清彦として言われたのであれば、嬉しくも何ともないはずだった。
だけど今は、ともちゃんに褒められて、なぜだか悪い気がしなかった。
ママにこのワンピースに着せかえられた時は、恥ずかしいとか、確かにかわいいけれど無意味だとか思った。
だけど今は、この二人の前に着飾って出られた事が、なぜだか嬉しいって感じていた。
何でだろう?
女の子がおしゃれをする気持ちが、ほんの少しだけわかったような気がした。
そんな風に話をしているうちに、二人がどんな子なのか、だんだんわかってきた。
おかっぱ頭のかおりちゃんは、クラスには一人か二人は居る、世話好きの委員長タイプの子だと思った。
話を振ったり、おとなしいともちゃんをフォローしたりしていた。
ともちゃんは、本来はどっちかというと、おとなしくて、口数が少ないタイプの子なんだなと思った。
それが仲の良い友達、この場合は優には、やっぱり口数は多くないけど、何か嬉しそうに話しかけてくる。
この子はよっぽど優のことが好きなんだな、と感じた。
今は俺が優だから、向けられている好意がよくわかるのだ。
そして今の俺は、感覚的になんとなくわかる。
優も、ともちゃんのことが大好きだったんだなって。
あとかおりちゃんは、ここに来た二人のほかにも、お見舞いに来たがっていた子がいるって話してくれた。
さすがに希望者全員というわけにはいかないので、保母さんたちがこの二人に絞ってお見舞いにきたらしい。
「こうくんも、ゆうちゃんとあいたがっていたよ」
かおりちゃんが、なんか悪戯っぽく笑いながら、俺にその名前をささやいた。
こうくん?
おそらく優のらくがき帳に描いてあった、こうちゃんのことだろう。
ニュアンスからして、やっぱり男だったんだな。
俺の反応が薄いせいなのか、かおりちゃんは戸惑いの表情、まずい。
「わあ、こうちゃんにも会いたいな」
すこしわざとらしいと思ったけれど、俺は少し大げさに、こうちゃんに会いたがって見せた。
かおりちゃんが、納得してくれたかどうかはわからないけど、それ以上は怪しまれなかったようだ。
ふう~。
そうこうしているうちに、隣の部屋で話し合っていたママたちが戻ってきた。
それは同時に、お見舞いの時間が終わって、ともちゃんたちが帰るということだった。
二人はすごく名残惜しそうだった。
というか、ともちゃんなんて、今にも泣きそうな顔をして、
「やだやだ、まだゆうちゃんといっしょにいたい」
とか言って、帰るのを渋った。
そんなともちゃんを、保母の梅田さんが、「保育園でまた会えるから」と言って一生懸命なだめていた。
お見舞いに来て、予定外に家の中に上がったりして、予定よりも長い時間この家に居た。
だから、もう保育園に戻らなきゃいけない。
だけど子供にはそんな理屈は通用しない。
こういうとき、幼い子供はわがままというか、一途というか、気持ちの切り替えが下手なんだな。
優と一緒に居たい、というともちゃんの気持ちが、俺には嬉しいと感じだけれど、このままってわけにはいかないよね。
「ともちゃん、優、またすぐに保育園にいくから、今日はもう、…ね」
「……やくそくだよゆうちゃん。うそついたらはりせんぼんだよ」
「うん、やくそく」
ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます、ゆびきった。
ともちゃんは、俺との約束で、やっと保育園に戻ることに同意してくれた。
そんな俺たちの様子に、梅田さんはほっとした顔をしていた。
「優ちゃん、知美ちゃんと、また会う約束をしてくれてありがとう」
「はい」
「くすっ、今日の優ちゃんはいい子ね、いつもなら優ちゃんも一緒に、……ううんなんでもないわ」
いつもならって、元の優ならともちゃんと一緒に、ともちゃんが帰るのを渋ったということかな?
元の優はわがままな所があったみたいだし、ありえる話だった。
だとしたら、今の対応はまずかったか?
だけど、そんな俺を見つめる梅田さんの目は、なぜだか優しかった。
保育園に戻る、梅田さんとともちゃん、かおりちゃんを見送るために、俺とママは一緒に玄関の外に出た。
「またね、ゆうちゃん」
「ゆうちゃんバイバイ」
「うん、バイバイ」
梅田さんに連れられて、二人は帰っていった。
名残惜しそうに、最後まで手を振ってくれた。
俺も二人の姿が見えなくなるまで、最後まで手を振った。
二人が帰った後には、俺とママが、ぽつんと残された。
何でだろう、俺はこの時、なんだかすげー寂しい、って感じていた。
俺が優として初めて会った、元の優の友達が帰って行っただけだ。
あの子達は、元の俺と親しかったわけじゃない。
だからこの場は上手く誤魔化せて、厄介ごとが去ってくれて、ホッと一息のはずなんだ。
なのに何でだろう?
「優ちゃん、お友達が帰っちゃってさみしい?」
頭の上からかけられたママに声に、俺はハッと気がついてママを見上げた。
ママは優しい微笑みを浮かべながら、俺のことを見つめていた。
俺は『寂しくなんてない』と、強がりを言おうとして、言えなかった。
この場面で、優が『寂しくない』なんて言うのは不自然な気がしたし、
実際に寂しい気分になっていたのだから。
「……うん」
俺は短くそう答えてた。
「優ちゃんは寂しがり屋さんだものね」
優は寂しがり屋さんって、そうなのか?
俺が今寂しいって感じているのは、優の身体の影響なのか?
いや、身体と言うより心の影響?
そんなものが、残っているのか?
「保育園に上がるまでは、ママが側にいないと、『ママがいない、ママはどこ?』
とか言いだして、すぐに泣いちゃう子だったものね」
などと、俺をからかうようにそんな話しをするママの口調は、なんだか楽しそうだ。
「そんなことないもん!」
俺はなぜだか反射的に反論していた。
……俺は何でこの話に、そもそも何に対してムキになっているんだ?
冷静な、高校生の清彦の部分でそう思いながら、なぜだか俺は感情的になっていた。
「あら、優ちゃんがお昼寝している間に、ママが買い物にいって、
帰ってきたら、目を覚ましていた優ちゃんが、
『ママー、ママー』って泣いていた事もあったじゃない。
あれは確か、優ちゃんが三つくらいの頃のことだったかしら?」
そんなこと、とか言って反論しようにも、俺にはその頃の優の記憶なんてない。
記憶があったとしても、ママの話の通りだろうし、やはり反論の余地は無かった。
そもそもこの手の思い出話で、子が親に勝てるはずはない。
だけど、俺はなぜだか悔しく感じた。
「う――っ!」
そして俺は、ママを睨んで唸っていた。
ママはそんな俺にお構いなしに、話を続けた。
「だから、優ちゃんが保育園に上がって、お友達が出来て、
嬉しそうにお友達の話をする優ちゃんを見ていて、ママは嬉しかった。
お友達の話ばかりするから、ちょっと優ちゃんのお友達に焼けちゃったけどね」
とママは笑いながら付け加えた。
「お友達……」
「ねえ優ちゃん」
「うん?」
ママの雰囲気が少し変わった。
表情が真剣になっていた。
「保育園のお友達に早く会いたい?」
そうか、ここからがママの話の本筋なんだ。
冷静な清彦の部分がそう思考する。
「うん」
「じゃあ、優が保育園に行くのは来週からってことになっていたけど、明後日から行きたい?」
明後日から?
「いく、いきたい!」
俺は即答していた。
元の優だったらきっと、「早く保育園にいきたい」と言っただろう、と俺は思う。
だから、おそらくママも、優がそう返事をするだろうって予測していたのだろう。
「わかったわ、じゃあ優ちゃんは明後日から保育園に行きますって、保育園に連絡しておくわね」
俺が「行く」と返事をすると、ママは早速携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけ始めた。
きっとさっきの梅田さんとの話し合いで、そういう話もしていたのだろう。
そんな訳で、俺は優の通っていた保育園に、予定より数日早く通うことになった。
本来の俺なら、こういうことを決める時は、もっと熟考してから決めていただろう。
そして、高校生だった俺が、保育園児の中に入ってやっていけるのか、不安だらけだった。
ついさっきまでは、「それってなんの罰ゲームだよ!」と感じていたほどだったんだ。
だから清彦的思考なら、保育園に通うのを、できるだけ先送りにしたに違いない。
もし、ともちゃんたちがお見舞いに来ていなかったら、間違いなくそうしていただろう。
だけど、お見舞いに来たともちゃんたちに、会っていたせいだろううか?
そんな理屈を考えるよりも先に、またともちゃんたちに会える、早く会いたいって思ったんだ。
それに、俺はともちゃんと約束もしたしね、「またすぐに保育園にいくから」って。
だからこれはこれでよかったんだ。
今は不思議と不安は感じなかった。
それどころか、俺は俺の優としての保育園デビューが決まったことに、心のどこかでわくわくしていたんだ。
そして翌日、俺(優)が保育園に復帰する前日ということで、その前に、
「ねえ優ちゃん、今日はお外にお出かけしようか?」
とママが誘ってくれた。
「お出かけ、行く!」
俺はママと一緒にお外にお出かけすることになった。
実際、退院してからの俺は、ほとんどこの家の外には出ていない。
どこでもいいから外に出て、何か気晴らしがしたかった。
ママの運転する車に乗せられて、午前中にまず向かうのは、優が住んでいる市内の動物園という事だ。
「動物園かあ……」
「あら、優ちゃんは動物園じゃ嫌? 嫌なら他の場所でもいいわよ」
「ううん、動物園がいい、動物園に行きたい」
俺は別に動物園が嫌ってわけじゃない。
ただ、ガキっぽい場所だな、と思っただけなのだが、ついそれが顔にでてしまったのだろう。
せっかく俺を喜ばせようと、外に連れ出してくれたママを、がっかりさせたくはなかった。
だから咄嗟にフォローした。
まあいいじゃんか、動物園で、気晴らしにはなるんだし。
そう思っているうちに、動物園に到着した。なぜか見覚えのある風景だった。
この動物園って、清彦だった時に来た覚えがある。
確か小学校のバス旅行の時の事だっただろうか?
小学生低学年の時の事だったので、細かい事までは覚えていないけど、俺は確かにここに来てたんだ。
そうか、優はこの動物園のある市に住んでいたのか。
清彦との意外な接点の発見に、俺のテンションは上がった。
たとえそれが、実はたいした接点でなかったとしてもだ。
ところでこの動物園は、目玉になる大型動物はあまりいない。
だけど、小さな子供が、小動物と直に触れ合えるというのが、ここの売りだった。
メエ――ッ!!
「わわっ!」
間近で見たヤギの迫力に、俺はついママの後ろに隠れた。
「あらあら、優ちゃんはヤギさんが怖いの?」
「こ、怖くなんか、ないもん!」
口では強がって見せたけど、今の俺は涙目だった。
今の幼児の小さな体では、ヤギでも相対的に巨大生物になってしまうのだ。
だとしても、……おかしい、清彦だった時には、これくらいは平気だったのに、何でだ?
その時の清彦は小学生低学年だったから、今の優より体が大きかっただろう。
だけど、それでもやはりヤギのほうが相対的に大きいのだ。
それでもあの時は平気だったのに。
「大丈夫よ、優ちゃんの側にはママがついてるわ」
そう言いながら、ママは俺を抱っこしてくれた。
ママに抱っこされた俺は、ヤギを見下ろす形になった。
「ほら、ヤギさんに触ってみて」
ママに促されて、俺は恐る恐るヤギの頭を撫でた。
ヤギの毛はごわごわしていて、思っていたより固かった。
でも、暖かかった。
「ね、平気でしょう?」
「うん」
俺は今度は安心して、ヤギの背中や頭を撫でた。
なんだか楽しくなってきた。
その後は、ポニーの所に行って、その背中に乗せてもらった。
「優ちゃん、お馬さんですよ」
「わあ~っ!」
今日は平日なので、お客さんが少なく、貸切状態でポニーに長く乗ることが出来た。
ポニーの背に乗って、その辺をちょっと引き歩いてもらっただけなのに、すごく楽しかった。
俺はいつの間にかポニーに夢中になって、年甲斐もなく、きゃっきゃとはしゃいでいた。
童心に帰るとは、こういう事を言うのだろうか?
そんなはしゃぐ俺を見て、ママはにこにこと笑っていた。
そして時々携帯電話で、そんなはしゃぐ俺の姿の撮影もしていたのだった。
その後は、うさぎの所に行った。
ここではうさぎに餌を与えたり、抱っこしたり撫でたりできるのだ。
「わあ~、うさぎさんかわいい」
うさぎは柔らかくて暖かくて、何よりかわいくて、こうして抱っこして撫でていたら、なんか気持ちが癒されていいな。
「うさぎさんがあったかいのはね、生きているからなの」
「生きている?」
「そうよ」
ママのその言葉は、俺の心に響いた。
「あたたかい、生きている」
そして、今の俺の身体も、あたたかくて、そして生きている。
そのことが嬉しくて、そして今ここにこうしていられることが、ありがたいって感じていた。
例えそれが、宮下優という、元の俺とは別人の姿であったとしても、
「俺は今、生きているんだ」
そのことを強く実感していた。
俺とママは、お昼になる少し前に動物園を出た。
「おなかが空いたわね優ちゃん、お昼ごはんはあそこで食べようか?」
「うん」
お昼は動物園の近くのファミレスに入った。
俺のお昼の注文は、お子様セットという、小さな子供向けのメニューだった。
とはいっても、俺はこれを食べたいと思っていたわけではない。
ママがメニューのお子様向けページを開いて、俺に見せながら、俺がこれを選ぶように誘導したのだ。
ママのなれた感じから、いつも優にこんな風に注文させていたのだろう。
子供が気まぐれで、変なものを選んでも困るからな。
まあいい、ここでごねてもしょうがない、ここはママにのせられておこう。
お子様セットは、子供サイズの少量のチキンライスと小さなハンバーグにエビフライ、
飲み物にオレンジジュース、おやつにプリンとお菓子と小さなおもちゃまでついた、本当に子供向けのメニューだった。
清彦の感覚だと、量が少ないな、こんなんで満足できるのか?
なのだけど、ここ数日の経験で、この体はそんなに多く食べられないとわかっている。
多分、これでも大丈夫だろう。
俺はまず真っ先に、プリンを食べた。
いっぱい遊んで、おなかが空いていたせいなのか、今はなんか甘いものが食べたいって心境だったんだ。
次にハンバーグ、残った中ではなんかハンバーグが一番って気がするんだよね。
とまあ、そんな調子で順番に食べていたら、最後に残ったのはチキンライス。
ここでふと気づく、あれ、いつもの俺なら、まずごはん系から食べるのに、これが最後に残った?
それなのに、おなかがふくれてきたのか、これを無理に食べたいって気がおきなかった。
「ママが食べさせてあげるわね、はい、あーん」
「あーん」
ママが食べさせてくれたので、俺はチキンライスを二口、三口、食べた。
でもそこで、おなかいっぱいでもういいやって気分。
食べたライスをオレンジジュースで流し込んで、ごちそうさまをした。
「じゃあ、残りはママが食べるわね」
そう言ってからママは、残りのチキンライスを食べたのだった。
そんなママを見ながら、ふと思った。
いつもの俺なら、後に食べるプリンを、先に食べておいてよかった。
!? そうか、元の優が好きなものから食べていたのは、
この身体だと、後に残しておなかがいっぱいになっていたら、食べられなくなるからなんだ!!
おなかがいっぱいになっちゃってて、美味しいもの、好きなものが食べられなかったら、それは不幸なことだからな。
そんな風に、俺が一人で納得していると、
ママの元に、食後のコーヒーとアイスクリームが運ばれてきた
アイス!! じゅるりっ
食べたい、そのアイスが食べたい。
俺は切実にそう思った。
「くすっ、優ちゃんもアイスが食べたい?」
「食べたい!」
ママの問いかけに、俺は即答で大きく頷いた。
「じゃあ、ママのをわけてあげる。はいあーんして」
「あーん」
俺は大きく口を開いて、ママにスプーンですくったアイスを食べさせてもらった。
「どう、おいしい?」
「うん、おいしい」
アイスは、冷たくて甘くて美味しかった。
そんな俺を見て、ママは微笑んでいた。
「ママだいすき!!」
俺の口からは、そんな一言が、自然に出ていた。
俺はママには感謝している。
だけど、だからといって、ここで面と向かって「だいすき」だなんて言っちゃうなんて、自分でも思わなかった。
元の清彦な俺だったら、そんな台詞、恥ずかしくて絶対言わなかっただろう。
でも言葉にしたおかげで、『そうか、俺はママがだいすきなんだ』と、その事に気がついた自分も居た。
「そう、ありがとう。ママも優ちゃんのことは大好きよ」
そう言いながら、ママは俺の頭を撫でてくれた。
「えへへ」
ママに大好きと言われて、頭を撫でてもらえて、なんかすごく嬉しかった。
なんか俺、ますますママの事が大好きになりそうだ。
この後、ママのアイスクリームを、半分こして食べさせてもらった。
すでにお腹はいっぱいだったけど、アイスだから食べられたのだろう。
デザートは別腹とはよく言ったものだ。
アイスを食べ終わった後は、さすがにもうお腹いっぱいだった。
ふぁ~あ、おなかがいっぱいになったからなのか、なんだかねむくなってきちゃった。
「あらあら、優ちゃん、眠たいの?」
「……うん」
「動物園ではしゃいでいたから、いつもより疲れちゃったのね」
そう言いながら、ママは俺の顔を見てくすっと笑う。
「じゃあ、ママが見ていてあげるから、優はゆっくりおやすみなさい」
今はとにかく眠い、俺はママの言葉に甘える事にした。
「おやすみ……ママ……」
「おやすみなさい」
重たくなった目蓋を閉じると同時に、俺は眠りに落ちていった。
この後、ママは眠っている俺を連れて、家に帰った。
次に俺が目を覚ました時、俺はママの部屋のママのベッドの中だった。
そしてさらに翌日、優が保育園に復帰する日がやってきた。
それは俺が優として、保育園デビューする日でもあった。
俺が保育園にいく準備は、ママが全てしてくれた。
俺は鏡の前に立ってみた。
鏡の中には、水色の保育園の上着を着ていて、
上着の胸には「ゆう」と名前の入ったチューリップの形の名札、
赤いスカートを穿いて、黄色いかばんを提げて、
黄色い帽子をかぶって、満面の笑みを浮かべた女の子が立っていた。
俺は鏡の前で、くるっと回ってみた。
鏡の中の女の子も、俺の動きにあわせてくるっと回った。
なんかそれが楽しく感じて、俺はくすっとわらった。
鏡の女の子も、楽しそうにわらっていた。
鏡に映る女の子の名前は宮下優、それが今の俺の名前で今の俺の姿だった。
「優ちゃん、何をしてるの、もう保育園にいくわよ」
「はーい、今いきます」
ママの呼ぶ声に返事を返して、俺はその場を後にしようとする。
その前に、もう一度鏡を覗きこんだ。
「じゃあね、優、今日から俺が君のかわりに、保育園に行ってくるからね」
それだけ言うと、俺はその場を後にした。
「いってきます」
こうして俺の宮下優としての、新しい生活がはじまったのだった。