「何でこんなことになっちまったんだよ……」
鏡に映る若葉の顔を見つめながら、俺は思わずため息をついた。
半日ほど前、俺は一大決心をしていた。
クラスメイトの双葉さんに、今日こそ告白をしようと思いたったんだ。
俺と双葉さんとは、前の年は隣のクラスだったけど、今年度に高校二年生に進級して、初めて同じクラスになった。
双葉さんは、俺の隣の席だった。
「あなたとははじめまして、かな? 今日から隣の席になった双葉です」
「ああ、たしかにはじめまして、だな、俺は清彦…です」
「よろしくね、清彦くん」(にこっ)
「よ、よろしく」
この時俺は、彼女の笑顔にやられた。
ほとんど俺の一目ぼれだった。
そんな双葉さんとは、隣の席という特権を利用して、積極的に話しかけたりして、わりとすぐに親しくなれた。
そうしているうちに、俺の中での双葉さんの存在は、どんどん大きくなっていった。
そして、一大決心をするに至ったんだ。
そしてまず双葉さんに、話があるから放課後に会いたい、と伝えようとした。
「清彦くんに話があるの、放課後に学校の裏庭に来てくれない?」
その直前に、まさか双葉さんのほうから、そんなお誘いをされるとは思っていなかった。
もしかして、双葉さんも俺のことを密かに想ってくれていた?
実は双葉さんと俺は両思いだった?
そういえば、俺から双葉さんに声をかけてたら、双葉さんのほうも満更でもなさそうだったもんな。
そうだといいな、いや、そうに違いない!
俺は期待に胸を膨らませ、喜び勇んで放課後に約束の場所に来てみたんだ。
「あ、清彦くん、やっほ~」
そうしたら、そこで俺を待っていたのは、双葉さんではなく若葉だったんだ。
双葉さんとの約束の場所に、なんで若葉がいるんだ?
知的で物静かな美人の双葉さんと、明るくてかわいい若葉は、うちのクラスのタイプの違う二大美少女として人気だった。
そんな二人は、クラス一の美少女の座をめぐって対立、などすることはなく、それどころかとても仲がよくて、一緒にいることが多かった。
以前に双葉さんから聞いた話によれば、若葉とは家が近所で、小学生の頃からの親友ってことだった。
それは別に構わない。
だけどその関係で、俺が双葉さんと親しくなって、双葉さんと関わることが多くなると、セットで若葉と関わることが多くなった。
というか、なぜだか俺は若葉に気に入られて、若葉のほうから積極的に俺にモーションをかけてくるようになっていた。
俺にとっては、なんだか不本意な状況だった。
だから今回は、若葉や他の女子の邪魔が入らないように、双葉さんと二人きりになりたかったんだ。そのはずだったのに。
「双葉が私と清彦くんと二人きりになれるように、気を利かせてくれたんだ、えへっ」
と、若葉は嬉しそうに事情を明かしてくれた。
つまり、今回の双葉さんのお誘いは、若葉と俺を二人きりにするための、双葉さんの若葉への肩入れってことか?
双葉さん~、そりゃないよ!
それはそうと、俺と二人きりになりたいって、若葉の目的は何だ?
相手が違うだけで、俺とは目的は同じだよな。
やばい、この場はどうごまかそう?
そう思う間もなく、若葉のほうから告白という名の、言葉の爆弾が投げ込まれた。
「清彦くん、私は清彦くんのことが好きです。だから、……私と付き合ってください。きゃあ言っちゃった♪」
俺は今までは、若葉には気を使って、どう遠まわしに距離をとるか、曖昧な態度を取ってきた。
はっきりと断って、若葉を傷つけてしまうことで、若葉と疎遠になってしまうのはまあしょうがない。
だけどその結果、若葉の件で双葉が気を悪くして、同時に双葉と疎遠になってしまう可能性が高いような気もしたからなんだ。
だけど今回、若葉のほうからはっきりと告白されてしまった。
こうなってしまっては、もう曖昧な態度なんてできない。
……なんて答えりゃいいんだよ!
若葉のことは、好きか嫌いかと問われれば、嫌いじゃない。
いや、どっちかというと、俺は明るくてかわいい若葉のことは好きだ。
ただしライクであってラブではない。
それに俺は、双葉のほうが好きなんだし、そう心に決めていた。
なんだ、もう答えは出てたんだ。今までのように曖昧な態度でなく、はっきりさせなきゃいけない、その時がきたんだ。
「悪いけど若葉、俺はお前のその気持ちを受けられない」
「えっ?」
俺の返答に、若葉は意外そうな顔をした。
若葉は俺に断られると思っていなかったのか?
「俺は双葉が好きなんだ。だから受けられない。ごめんな」
「……知っていたよ。清彦くんは私よりも、双葉のほうが好きだってことに、私、気づいていたよ」
知っていた?
気づいていた?
じゃあなんで俺に告白なんてしたんだ?
いや、告白はともかく、なんでそんな俺が、お前の告白を受け入れると思っていたんだ?
そんな俺の心の中の疑問の声に答える様に、若葉は独り言をつぶやいていた。
「……おまじない」
おまじない?
「清彦くんが私のものになるっていうおまじない、ちゃんとかけたのに、なんで効かないのよ!」
はあ、若葉の自信の根拠はそれかあ!!
なんだか急にばかばかしくなってきた。
若葉の告白を断ったことで、若葉や双葉との仲や関係がどうなるかわからない。
本来は若葉のフォローをするべきなのかもしれないが、今はそんな気が起きなかった。
というか、付き合いきれない、さっさと帰りたくなった。
「……若葉、悪いが俺、先に帰るわ、じゃあな」
俺はきびすを返して、落ち込んでいる若葉を置いて、その場を立ち去ろうとした。
「ま、待って!」
そんな俺を引き止めようと、若葉は慌てて手を伸ばし、両手で俺の左手をつかんで引っぱった。
その瞬間、引っ張られた俺の左手に、びりっと静電気で痺れたような感覚。
なぜかその直後、ぐにゃっと俺の視界が歪み、ふわりと宙に浮いたような感覚に襲われた。
な、なんだこりゃ?
と思った時には、一瞬気が遠くなり、次の瞬間、はっと気が付いた。
今のは何だったんだ?
なんだかよくわからないけど、まだ俺の平衡感覚がすこしおかしくて、足元がふらついていた。
俺は思わず、両手でつかんでいた誰かの手にぎゅっと力をこめて引っ張って、ふらつく俺の体勢を立て直そうとした。
その誰かも、体勢を崩しかけていたけれど、踏ん張って自分の体勢を立て直しながら、俺の手を引っ張りかえして崩れかけた俺の体勢も立て直してくれた。
「あ、ありがと……えっ?」
反射的にお礼を言いかけて、俺は異変に気づいた。
俺の目の前にいるのは、身長が182cmのはずの俺よりも、ずっと大きな大男だった。
いや違う、その大男の顔は、俺のよく知っている見覚えのある顔だった。
「お、俺?」
なんで俺が、清彦が俺の目の前にいるんだ?
そう疑問に思った直後に、清彦が俺を見て驚きの声をあげた。
「わ、私? なんで目の前に私がいるの!?
あー、あー、なんか声が変!!
それに、……なんで私、男子の制服を着ているの?」
目の前の清彦は、おかまっぽいなよなよした仕草で、慌てて何かを確かめるように、ぺたぺたと自分の身体を触りだした。
そんな清彦の様子に、俺もはっと気がついて、つられるように、慌てて自分の身体を見下ろした。
俺、身体が縮んでいる?
それ以前に、何だよこれ、なんで俺、スカートなんて穿いてるんだよ!
今俺の着ているこれ、もしかして、女子の制服なのか?
俺はすっかり変わり果てた今の自分の身体を、ついぺたぺたと触って、その感触を確かめた。
元の清彦に比べて、今の俺の身体は、柔らかくてふにゃふにゃしていた。
特に胸元には、男の俺にはなかったはずの、小ぶりながらも柔らかな膨らみがあった。
これってもしかして、女のおっぱい?
「わわっ、ごめん!」
俺は慌てて手を引っ込めた。
あれ、俺はいったい誰に謝っているんだ?
それに今改めて気が付いたけど、今の俺の声、何でこんなにも甲高いんだ?
それにいつもなら、こんな経験をしたら、反応しているはずの俺の股間のマグナムが、まったく反応していない。
いったいどうなってるんだ?
それを確かめようと、俺はおそるおそる股間に手を滑らせて、スカートの上から触ってみようと……。
「えっ、やっぱり清彦くんだ! わたし清彦くんになっちゃったの!!」
その時、素っ頓狂な男の声が聞こえて、俺は慌てて手を引っ込めた。
なんだかほっとしたような、残念だったような、って違う!
俺は慌てて声のしたほうを見た。
俺の目の前で清彦が、手鏡を覗き込みながら、驚きの表情を浮かべていた。
その手鏡は、どうやら若葉の荷物から取り出したものらしい。
ん手鏡?
「それ、その鏡、俺にも見せてくれ!!」
俺は清彦からひったくるように手にとって、その手鏡を覗きこんだ。
鏡の中には、童顔でかわいい顔立ちの少女、若葉の顔が映っていた。
「若葉、なんで若葉の顔が? もしかして俺、若葉なのか!!」
そんな俺の素っ頓狂な甲高いさけび声に、目の前の清彦が反応した。
「やっぱりそっちの私の中にいるの、清彦くんなんだ」
「てことは、俺の中にいるお前は、若葉なのか?」
「もしかして『俺たち』『私たち』、入れ替わってる!」
俺たちはほぼ同時に、去年大ヒットしたアニメ映画みたいな台詞を口にしていた。
身体が入れ替わっちまうなんて、映画やアニメじゃないのに、そんなバカな!
でも現実に、俺たちはこうなってしまってるわけで……。
「何でこんなことになっちまったんだ!」
「……もしかして、恋のおまじないのせい?」
「おまじないって、なんだよそれ!!」
そういえば、入れ替わる直前に、若葉が独り言でそんなことを言っていたっけ。
どういうことなのか説明しろ!!
清彦(自称若葉)の説明によれば、数日前、若葉は古本屋で、古びたおまじないの本をみつけて購入した。
その中に、好きな人を自分のモノにするおまじないがあり、今日俺に告白する前にそれを実行したのだということだった。
「好きな人を私のモノにするって、恋愛成就のおまじないだと思ってた。まさかこんなことになるなんて、思っていなかったのよ」
「そんなわけあるか! ていうか、なんでそんなおまじないが効くなんて思ったんだよ!」
「だって、革表紙のすごく年季の入ってて、本からのオーラーもすごい本だったんだよ」
あと本の中を覗いてみたら、英語でも日本語でもない、よくわからない文字で書かれていた。
なのにその内容をなぜか若葉は読めた。いかにもすごそうな本だとわかった。これは効果がありそうだと感じたのだということだった。
なんだよ、話を聞いたら、あからさまに妖しそうな本じゃねえか!
「何でそんな妖しい本に頼ろうと思ったんだよ!」
「だって、清彦くんは双葉ばかりを見て、私を見てくれない。
妖しいおまじないでもなんでもいいから、清彦くんに私のことを見てほしいと思ったんだもん!」
咄嗟に返す言葉がなかった。
確かに俺は、双葉さんばかり見て、若葉を見ていなかった。
そんな状態で、若葉から普通に告白されても、俺はその告白を受けいれなかっただろう。
ついさっき、若葉からの告白を断ったように。
それに気づいていたから、若葉はその妖しい本のおまじないとやらに、頼ってみようと思い至ったのだろう。
それほど若葉に想われていたのかと思えば、悪い気はしなかった。
それ以上に、はた迷惑だとも感じていたが。
今回のこの件で、俺は若葉に言いたい文句は山ほどある。
だけど同時に、今はこれ以上、若葉を責めようという気にはならなかった。
それよりも、今はもっと建設的に行動するべきだろう。
「……わかった、ならその本を、俺にも見せてくれないか」
「いまはここにはないよ。あんな目立つ本、持ってこれないから家に置いてきちゃったよ」
「仕方ない、じゃあ、若葉の家まで見に行くしかないか」
「清彦くん、うちにくるの? やったあ!」
「あのな、俺はお前の家に、遊びに行くわけじゃねえんだぞ!」
「うんうん、わかってる、わかってるよ」
本当にわかてるんだろうな?
ともあれそんな訳で、俺たちは若葉の家に、その問題のおまじないの本を、調べに行くことになったんだ。
若葉の家の住所を聞いてみると、うちの高校から徒歩で十数分の場所だった。
「お前の家、ここから意外に近かったんだな」
「うん、そういう清彦くんの家は隣の市で、自転車通学なんだってね」
「……俺、そんなこと、お前に言ったっけか?」
「あ、それは、双葉、そう双葉に聞いたのよ!」
そう言われてみれば、確かに以前に、双葉に俺の家の住所や、自転車通学のことを話した覚えはある。
この二人の仲のよさを考えたら、双葉から若葉にその話が伝わっていてもおかしくはない。
あとそう言われて思い出したが、双葉の家もわりとこの近所のはずだ。
若葉とはご近所で、子供の頃からの付き合いだとも言っていたっけ。
「じゃあまず、駐輪場の清彦くんの自転車の所まで行こう」
「俺の自転車? 何で?」
「何でって、清彦くんは学校に自転車置いていくの?」
「お前は徒歩だろ、だから俺一人だけ自転車ってわけにはいかないだろ」
「でも私の家に寄っていくと、清彦くんの家、余計に遠まわりになるんだよ」
「それはそうだが……」
若葉の家は、わりと学校の近くなんだから、元の身体に戻ってから学校に戻って、それから自転車で家に帰ってもいいんだし。
「いいから、いいから、私に考えがあるんだ」
とまあそんな訳で、なぜだか強引に、まず自転車の場所に向かうことになった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
学校の裏庭から、駐輪場までの短い道のりを歩きながら、俺は改めて今の若葉の身体から、大きな違和感を感じていた。
清彦だった時より、背が縮んでいるせいだろうか、いつもより視線が低くて周りの世界が大きく見えた。
長身な清彦とは逆に、若葉は女子の中でも小柄なほうで、感覚的に頭二つ分くらい背が低いからな。
小柄なせいで、歩幅も小さくて、なのにお尻は大きくて、いつもの俺とは身体の重心やバランスも違っていた。
そのせいでか、微妙に歩きにくいように感じていて、歩くスピードもいつもより遅くなっていた。
そのうえスカートの足元がスースーする感覚も、気になって仕方がない。なんでこのスカートはこんなにも短いんだ?
俺は男だ、かわいい女の子のスカート姿を見るのは好きだけど、俺自身がスカートを穿きたいなんて思ったことはないぞ!
そうこうしているうちに、他の生徒のいる表口まで歩いて来てしまった。
こんなスカートを穿いている姿を、他の生徒に見られているなんて、
うう、女装している所を、他のやつらに見られているみたいで、なんだか恥ずかしい!!
あと、歩くたびに、俺の胸元から何かが揺れる感覚も伝わってきて、これも妙に気になった。
若葉って、見た目は胸が小さいのに、それでもこんな風に感じるんだ。
あと、それとは逆に、股間から伝わってくる感覚が、なんだか物足りないような気がした。
……何が物足りないのか、今はできるだけ考えないようにした。
そんな感じで、いつもの俺とは身体の感覚が違うせいで、若葉本人ならおそらく気にしていない些細な感覚が、今の俺には全て気になって仕方がなかった。
他の生徒の人目も気になって、少し縮こまってもいた。
そんな調子で歩くのが遅くなっていた俺は、早歩きの清彦に置いていかれそうになる。
「ま、待て若葉、歩くのが早い!」
「ご、ごめん、なんかこう、いつもより体力が有り余ってるみたいに感じちゃって、歩くのもつい早くなっちゃって……」
清彦は清彦で、いつもの若葉の時との体力の差や身体の感覚の違いに、戸惑いを感じているのだろう。
だけど俺とは違い、今の清彦は状況の変化を楽しんでいるように見えて、なんだか面白くなかった。
それでも清彦は、この後は今の俺のペースに合わせて、ゆっくり歩いてくれた。
本当だったらこんな場合、男の俺のほうが女子の若葉に気を使っていたはずなのに、今は逆に気を使われた。
「くそ、本当なら、俺が清彦だったのに」
そんな今の状況が、俺には屈辱的に感じられた。
そうこうしているうちに、どうにか俺の自転車の停めてある、学校の駐輪場へ到着した。
「へえ、これが清彦くんの自転車なんだ」
「ああ」
「いい自転車だね」
「まあな」
通学用ということで、俺より母さんがフレームだとかなんだとかこだわって、結構値の張るいい自転車を買ってもらったんだ。
だけどどうするんだ?
自転車はこの一台しかないし、いざ実際に自転車の前に来てみて気づいたが、今の俺にはこの自転車結構大きいんだな。
今の俺にはこの自転車は大きくて、サドルの高さも高く設定されていて、この自転車には乗れない。
それどころか、今の俺にはこの自転車は重そうで、押して歩くのもきつそうだ。
「ちょっと私が乗れるか、試してみるね」
清彦はそう言いながら、俺の返事を待たずに自転車を駐輪所から引っ張り出して、そのサドルにまたがった。
「うん、なんか最初は、サドルの高さが高そうに見えたけど、この身体にはぴったりなんだね」
そりゃそうだ、元々その自転車は、清彦の身体に合わせて調整してあるんだからな。
「ちょっと試し乗りしてみる」
清彦は、すいすい軽がると、その自転車に乗って見せた。
「あは、こんなに気持ちよく、自転車に乗れたのは初めてだよ」
「そう、なのか?」
「それに……良かった、この自転車なら大丈夫」
「大丈夫って何がだ?」
「いいからいいから、まず校外まで行こう」
そう言いながら清彦は、一旦自転車から降りた。
そして、自転車を押して、校外へと歩きはじめた。
俺はその清彦の後に続いた。
くそ、やっぱりなんだか面白くない。
そんな調子で、校外に出てからも、しばらく二人で一緒に歩いた。
「学校から離れたし、そろそろいいよね」
「いいって、何がだ?」
「清彦くん、後ろに乗って」
「えっ?」
「自転車の後ろに乗ってって言ってるの」
そう言いながら清彦は、押していた自転車に、再びまたがった。
ちょっとまて、後ろにって、まさか二人乗りしようっていうのか?
「うん、そのつもりだった。この自転車、後ろに荷台があってよかったよ」
「よくねえよ! 自転車の二人乗りは交通違反だろ!」
「いいからいいから」
「いいから、じゃねえ!」
こいつ、最初からそのつもりだったんだ。
俺が交通違反だといっても、聞く耳をもたねえ!
俺が言うこと聞かなかったら、梃子でも動きそうもねえ。
くそ、これで交通違反でつかまったら、処罰されるのは俺の身体なんだぞ!
……仕方がない、今はこいつの気の済むようにしてやろう。
俺は後ろの荷台にまたがろうとした。
「違うよ、そんな座りかたしたら、スカートの中が丸見えになっちゃうよ!」
中が丸見えって、こんな短いスカートじゃ、どっちにしてもみられちまうだろうが!
どう座れっていうんだよ!
「脚をそろえて、こう横座りしてみて」
「……わあったよ」
もう半分投げやりに、俺は言われたとおりに自転車の荷台に、女みたいに横座りに座った。
そして言われたとおりに清彦の背中に抱きついた。
一瞬、清彦が息を呑む気配がした。
……いったいなんなんだ?
「い、行くよ」
なぜか清彦はぎこちなくそう言って、自転車をこぎ始めた。
「わあすごいすごい、自転車でこんなに早く走れるんだ」
「ば、ばか、早い、スピード落とせ! もっとゆっくり走れ!」
最初はおそるおそる、ゆっくり自転車をこぎ始めた清彦は、すぐに調子に乗ってスピードを上げていた。
調子に乗ってる清彦には、俺の抗議の声が聞こえていないのか、スピードを落としてくれない
そんな俺は、自分で自転車をこいで走っていた時は、もっと早く走っても平気だったはずなのに、今はなぜか怖く感じて、必死に清彦の背中にしがみついていた。
そして、信号待ちで、ようやく一旦止まってくれた。
「スピード落とせって言ったのに、なんで落とさないんだよ!」
「ご、ごめん、自転車でスムーズに早く走れるのが、なんかすごく気分が良くて、つい調子にのっちゃってた」
俺に怒鳴られて、清彦はしゅんとしていた。
だけどまあ、早く走りたがるその気持ちはわかる。いつもは俺も、一人で走る時はわりと飛ばしているからな。
でも、今は二人乗りなんだから、もうちょっと俺に、気を使って欲しかったっていうかなんていうか……。
「もしかして怖かった?」
「そ、そんなんじゃねえ、あれくらい怖くねえよ。ただ二人乗りじゃ飛ばすのは危ないって言ってるんだ!」
本当はなぜか怖く感じてたんだけど、俺の男のプライドにかけてそう言えなくて、この場は強がってみせた。
「ここからなら私の家は近いから、もう二人乗りはやめて、あとは歩いていく?」
「い、いや、ここまで来たんだ。もう最後まで自転車で行っていいぜ」
若葉の提案に、俺は反射的に反対した。
最初に二人乗りを渋ったのは俺だ。
そして認めたくないけど、自転車で早く走られて、怖いとも感じていた。
なのに二人乗りを止めようかと提案されて、俺は嫌だ、二人乗りを続けたいと感じていた。なんでだ?
……これはきっと俺の意地だ。
怖がったままじゃ引き下がれない。そうだ、きっとそうに違いない。
それらしい理由を見つけて、俺は自分を納得させた。
「うん、わかった。じゃあ今度はゆっくり安全運転で走るね」
清彦は嬉しそうにうなずきながら、再び自転車にまたがった。
俺はその自転車の荷台に、再び女みたいに横座りして、清彦の背中に抱きついて手を回した。
清彦は今度はゆっくり走ってくれた。
ゆっくり流れる風景が、柔らかく流れる風が肌に触れる感触が、妙に心地良く感じていた。
おかげで今度はさっきまでと違って、俺にはまわりを見る余裕があった。
自分で自転車をかっ飛ばして、風を感じるのもいいけど、なんかこういうのも悪くないな。
二人乗りの自転車の後ろに乗せられていることに、俺は抵抗感がなくなっていた。
それどころか、今のポジションが、妙に気に入りはじめていた。
ふと気が付くと、俺の正面には清彦の背中が見える。
……俺の背中って、こんなにも大きかったんだ。
なんでだろう、俺は俺のこの背中に、ずっと憧れていたような気がする。
あと、なぜだか懐かしいような気分。
理由はわかんないけど、こうしていると、なんかうれしー、えへっ。
清彦の背中を抱きしめている俺の手に力がこもり、無意識にぎゅってなった。
だけど、その直後、ある家の前で、自転車が止まった。
「つ、着いたよ」
え、やっといい感じになってきたのに、もう着いちゃったの?
そりゃまあ、徒歩で十数分のところを自転車で走れば、ゆっくりでも数分で着くのはわかるけどさ、
なんだろうこのがっかり感は?
もうちょっとこうしていたかったな。
なぜだか名残惜しく感じながら、俺はそっと自転車の後ろから降りた。
そして清彦の様子を見た。
あれ、なぜだか清彦の顔色が、少しだけ赤いような気がした。
「もしかして、二人乗りで無理していたのか? 大丈夫か?」
「大丈夫だよ、無理なんてしてなかったよ。
それどころか、いつもの私より、体力が有り余ってるみたいな感じて、調子が良かったくらいだよ」
「そ、そうか、ならいいんだが」
そう言い返されて、改めて思い返す。
そうだった、元の俺の身体の体力なら、これくらい問題ない。
そもそも俺は、あいつのおまじないで、取られた身体を取り返す方法を探すために、ここへ来たんだった。
「あ、もしかして、私のことを心配してくれたんだ」
「ば、ばか、そんなんじゃねえよ! 勘違いするなよ!
俺は俺の身体のことを心配しているだけなんだからな!!」
「はいはい、清彦くんの気持ちはわかってるよ」
くそ、俺はこんなあいつに、俺は文句が山ほどあったはずなんだ。
なのに、今はなぜかあいつを、憎めないんだよな。
それどころか今度のことで、俺は若葉のことをほんの少しだけ理解して、ほんの少しだけ距離が近くなったような気がしてた。
ほんの少しだけだぞ、そもそも俺の本命は双葉なんだからな!
それはともかく若葉の家は、新興住宅地の、わりと新しい目の家だった。
一戸建てとはいえ、築うん十年のぼろい俺の家とはえらい違いだな、ちょっと羨ましい。
「わたし、十年ほど前の、まだ小学生になったばかりの時に、この家に引っ越してきたんだ。
双葉も同じ頃にこの近所に引っ越してきて、まだ小さかった私たちは、すぐに仲良くなったんだよ」
「へえ、そうだったんだ」
それ以前は、若葉はどこかのアパートのような所に住んでいたらしいが、まだ小さかったので、よく覚えていないらしい。
おっと、若葉の家の感想や昔話は後にして、早く中に入ろう。
早く妖しい本のおまじないとやらをキャンセルして、元の俺の身体に戻りたい。
「まって、その前に、今から清彦くんが私で、私が清彦くんだからね」
「うん、今更何でだ?」
「だってこの家には、私のママがいるからだよ」
「あっ、……そうなのか!」
若葉の家族の事は気づかなかった。というか気づきたくなかった。
でも確かに、俺の身体の若葉が、清彦の姿で若葉として振舞うことなんてできない。
今は俺が若葉なんだから、俺が若葉のフリをして、若葉の家族に接しなきゃいけないんだな。
あーややこしいな。そして、……すごく気が重いな。
「わかったよ、で、俺はどうすればいい?」
「まず、私がママに『俺』なんて言ったら変だよ、だから言葉遣いを直さなきゃ、それから……」
そんな調子で、この後のことを軽く打ち合わせをした後、俺は若葉として、若葉の家に帰宅することになったのだった。
「ただいま~」
俺は精一杯、明るく元気な声で、帰宅の挨拶をしながら、玄関のドアをくぐった。
うう、俺が若葉のフリなんてして、本当に大丈夫なんだろうか?
若葉の母親に、バレやしないよな?
バレないまでも、怪しまれないだろうな?
やばい、不安に思っていたら、どんどん緊張してきちまった。
「おかえりなさい、若葉」
家の奥からは、若葉の母親らしいおっとりした雰囲気の女の人が現れて、俺を出迎えてくれた。
そして、俺と一緒にこの家に入って来た、清彦の存在に気づいた。
「あら、お客さん?」
「う、うん、クラスのお友達だよ」
打ち合わせ通りに、清彦の紹介をする。
最初は若葉には、ママには清彦くんのことを、私のボーイフレンドと紹介したい、と言われたんだが却下した。
その後も表現で少し揉めた後、『クラスのお友達の紹介』と決まったのは、妥協の産物だった。
「はじめまして、クラスメイトの清彦です。若葉さんにはいつもお世話になっています」
「まあまあご丁寧に、そういって、うちの若葉のほうこそ、清彦くんに迷惑をかけているんじゃない?」
「いえ、そんなことはないです」
若葉のやつ、緊張している俺とは違って、堂々と俺のフリをしながら、母親と会話をしていやがる。
なんでそんなに堂々としていられるんだ?
相手が自分の母親だからなのか?
そんな調子で挨拶が終わった後、俺が清彦を、若葉の家の中へ案内することになった。
この家の中の様子を知らない俺が、知ってる清彦の案内をするって、なんのギャグだよ。
実際は、俺が案内するフリをしながら、清彦に家の中をそっと誘導してもらう形になった。
そして、若葉の部屋の中に入り込んで、ほっと一息、……つく暇もなく。
「若葉、ちょっといらっしゃい」
俺は若葉の母親に、部屋の外へと呼び出された。
「おやつとお茶を用意してきたわ、お客さんにお出ししてあげて」
「……はい」
俺は、いつの間にか用意されていた、おやつとお茶の乗せられたお盆を、若葉の母親から受け取った。
若葉の母親が、俺にお盆を渡しながら、意味ありげにそっと耳打ちした。
「あの子が、若葉のいつも言っていた清彦くんなのね、話の通りのすてきな子ね。
その清彦くんをうちに連れて来るなんて、若葉もなかなかやるじゃない!」
俺のことをすてきな子って、若葉は母親に俺のことを、普段はどう説明していたんだ?
一瞬返事に困った。
「いつもはおしゃべりな若葉が、こんなに無口になるなんて……」
やばい、怪しまれたか?
「珍しく緊張しているのね?」
「……うん」
「くすっ、青春っていいわね」
実際はそんなんじゃないって、否定したいけど、今はそういうことにしておこう。
余計なことを言って、怪しまれても困るしな。
「ママは若葉のこと応援してるからね、この後も上手くやりなさいよ」
おまけに俺たちの関係も勘違いされているし、
違うから、俺と若葉はそういう関係じゃないから!!
曖昧にごまかしながら、俺は若葉の部屋へと逃げ戻った。
「若葉、おまえは母親に、普段から俺のことをどう言っていたんだ!」
「どうって、同じクラスの清彦くんのことが好きだよ、とか、清彦くんはこんなにもすてきなんだよ、とか」
「……まあいい、訂正は後でいい、今はとにかく早く元に戻ろう。それで、例のおまじないの本とやらはどこにあるんだ?」
「もう、そんなに慌てなくてもいいのに、……確か、勉強机の上に置いて……」
清彦はぶつぶつ言いながら、勉強机の方へと移動した。
つられるように、俺も移動する。
今は一刻も早く、元の俺に戻りたかった。だけど。
「……あれ?」
「どうした?」
「ない、ここに置いておいたはずの、おまじないの本がない!」
「な、なんだって!!」
「確かに朝は、ここに置いたのに、なんで見つからないのよ!」
「見つからないですむか、探せ!」
「探してるよ!」
「俺も探す、どんな本なんだ?」
「あ、スマホに画像を取ってたんだ。……これだよ」
清彦は、若葉のバッグからスマホを取り出して、写真の画像を見せてくれた。
若葉のスマホの写真には、学校で話に聞いた通りの、古びた革表紙の本が映っていた。
「あ、そうだ、確か念のためにって、あのおまじないのページの写真も、撮っておいたんだっけ」
そういいながら、その画像も見せてくれた。
確かにそれらしい画像が映っていた。
だけど、日本語でも英語でもない、正体不明の文字でなにやら書かれていて、内容はちんぷんかんぷんだった。
「……あれ、読めない。あの本からなら読めたのに」
ちなみに、俺にも読めない。ちんぷんかんぷんだ。
理屈はわからないが、おまいないとか魔力とか、そういうものが関係して、本から直接でないと読めないようになっているのではないだろうか?
「とにかく、その本を探せ!」
俺たちは勉強机の上だけでなく、その周りや本棚も探した。
だけど、見つからなかった。
俺と若葉との身体の入れ替わってから、そのことで動揺もしたし、若葉の家に来るまでにも色々あったけど、それでも何とか冷静でいられた。
それは、この入れ替わりの原因が、若葉による妖しいおまじないによるもので、それを解除すれば直ぐにでも元に戻れると思っていたからだ。
だけど、その原因になった、おまじないの本が見つからない。
この入れ替わりを解除する方法が、わからなくなってしまい、その前提条件が崩れてしまった。
「ちょっと待て、このままだと、俺たちはどうなるんだ?」
おまじないの本がみつかるまでは、俺たちは当分身体が入れ替わったまま?
いや、考えたくないけど、下手をすれば一生このまま?
くらっと眩暈がして、気が遠くなった。
「き、清彦くん!」
気が遠くなって倒れそうになった俺を、誰かが慌てて抱きとめてくれるのを感じながら、俺は一旦意識を手放した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ふと目を覚ますと、俺は見知らぬ部屋のベッドの上に寝かされていた。
あれ、ここはどこだ?
「あ、清彦くん、気が付いたんだね。……良かった」
そんな目を覚ました俺の事に気づいて、俺が半分泣きそうな顔をしながら、もう半分は嬉しそうな顔をして喜んでくれた。
「……え? お、俺!?」
何で俺の目の前に、俺が居るんだ?
俺、まだ寝ぼけていて、夢でも見ているのか?
そう思いかけて、はっとあることに気づいて、慌ててがばっと上半身を起こした。
そして確かめるように、上半身を起こした自分の身体を見下ろした。
女子の制服に身を包んだ小柄で華奢な身体。
緩やかに膨らんだその胸元。
小さな手、長くてさらさらした髪。
これは男の俺の身体じゃない、女の子の身体なんだ。
そして俺は、これが誰の身体なのかも思い出した。
「そうだった、俺は若葉と身体が入れ替わってしまったんだった」
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俺たちの身体の入れ替わりの原因になった、おまじないの本が結局見つからず、
元に戻れない可能性に気づいて、俺はそのショックで気を失ってしまったんだった。
あの時の俺は、頭から血の気が引いていくのを感じていた。
確かにショックだったけど、あのくらいで気を失うなんて、俺ってこんなに情けなかったっけか。
そして清彦は、気を失った俺をベッドに寝かせて、今まで介抱してくれていたという事だった。
といっても、清彦の話によると、俺が気を失っていたのは、五分くらいだったらしい。
「ごめんなさい、私のせいでこんなことになっちゃって」
「……簡単に謝られてもな、謝って済む問題じゃねえだろ」
こいつに謝られて、それで俺が許したとして、それで元の身体に戻れるのなら、いくらでも許す。
だけど現実には、俺が許そうが許すまいが、元に戻れるわけでも、状況が改善されるわけでもない。
「私にできることだったら、何でもするよ」
「何でもって、じゃあおまえは俺を、元の身体に戻せるのか?」
「……ごめん、できないよ」
「じゃあ簡単に何でもするっていうな!」
「……ごめんなさい」
「だから簡単に謝るなって!」
俺に怒鳴られて清彦は、ますます責任を感じたような、思いつめた顔をして、縮こまった。
ええい、くそっ、こいつを余計に萎縮させちまった。
俺は別に、お前をいじめたいわけじゃねえんだぞ。
「一つ貸しだ」
「えっ?」
「お前は俺の言うことを一つ聞け、それで今回の件をチャラにしてやる!」
「本当にそれでいいの?」
「ああ、ただし、お前に何をさせるか、今すぐには思いつかないから、後日にな、覚悟しておけよ!」
「う、うん、わかった。清彦くんの言う事、何でも聞くよ」
本当はそんなことで、チャラにできるほど軽いことじゃないと思う。
だけど、責任を感じて思いつめているこいつには、今はそう言ってやるのがいいって思ったんだ。
(ありがとう清彦くん、清彦くんはやっぱり優しいんだね)
「ん、何か言ったか?」
「ううん、何でもないよ、何でも、えへっ」
そんな訳で、ようやく状況が落ち行いた俺たちは、今後の事を話し合ったんだ。
元の身体に戻れるまで、お互いに今の身体に合わせて、俺が若葉で、若葉が清彦として、立場を取り替えて生活をすることになった。
そして、そのためのお互いの情報交換をした。
学校でもスムーズに情報交換ができるように、今日から俺と若葉は付き合い始めたことにもした。
付き合い始めっていっても、『最初はお友達から』だけどな。
「ほ、本当に、私たちが付き合い始めたことにしていいの?」
「勘違いするなよ、あくまで『最初はお友達』それも付き合ってるフリだけ、だからな! 俺はそんな気はねえし、そもそも今はそれどころじゃねえしな」
「う、うん、わかってる。わかってるよ、私たちが付き合うのは、あくまでお芝居だもんね」
俺にそう返事を返しながらも、清彦は、なぜだか表情をほころばせていた。
「おっと、もうこんな時間か、そろそろ家に帰らないとな」
「帰るって誰が?」
「誰って、俺に決まってる」
「帰るってどこへ?」
「どこへって、俺の家に決まってるだろ」
「清彦くん、今の清彦くんは、若葉なんだよ」
「それがどうし……あっ!」
「そう、ここが若葉の家で、清彦くんの家に帰るのは私だよ」
「そうだった。……そうだったんだよな」
ついさっきまで、そのための情報交換や、話し合いをしていたんだ。
理屈では、今は俺が若葉だってことはわかっていたはずだけど、でも、いざその時になっても、すぐにはぴんと来なかったんだ。
「俺の家の場所はわかるか? おまえ一人で行けるのか?」
「うん、大丈夫だよ。さっき住所は聞いたし、ほら、スマホのナビで行けるよ」
「そ、そうか」
(それに、実は前にこっそり清彦くんの家の近くまで行って、場所を確認してあるしね。まさかこんな形で、清彦くんの家にいくことになるなんて思わなかったけど)
「うん? 何か言ったか?」
「ううん、何でもないよ」
そんなこんなで、俺たちは若葉の家の外へ出た。
清彦は清彦の家に帰るために。
そして俺は、若葉として、家に帰る清彦を見送るために。
「俺んちの家族は、さっき話した通りだからな」
「うん、メモももらってるし、さっきの話も覚えてるよ」
「でも一人で大丈夫か? やっぱり俺が付いていったほうがいいか?」
「大丈夫だよ、そりゃ一人はちょっと不安だけど、最初から清彦くんに頼っちゃダメだと思う。なんとかやってみるよ」
「そ、そうか」
「困ったことがあったら電話するから、だからそんなに心配しないで」
「ああ、わかった」
「じゃあ、また明日もよろしくね、おやすみ若葉」
「え、お、おやすみ清彦、……なんか変な感じだな」
「くすっ」
そんな訳で、俺は自転車に乗って帰っていく清彦の後姿を、その姿が見えなくなるまで見送ったのだった。
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俺が俺の見送りだなんて、なんだか本当に変な感じだな。
あいつがいなくなって、なんか寂しい、なんでだろう?
俺の身体が、俺のものじゃなくなって、俺の側からもいなくなって心細いからだ。きっとそうだ。
……いつまでもこうしていてもしょうがない、とにかく家に入ろう。
俺は、今から俺の仮住まいになった若葉の家の中に入り、若葉の部屋へと戻った。
部屋に戻って、なんかホッとした。
あれ、ここ若葉の部屋なのに、なんで俺はホッとしてるんだ?
その理由に思い至る前に、ぶるっと身体が震えた。
ホッとして、今までの緊張が解けたせいだろうか?
やばい、急にトイレに行きたくなってきた。
この身体で、俺がトイレに行ってもいいんだろうか?
いや、お漏らしするわけにもいかないし、行かないって選択肢はないことはわかってる。
これが俺の身体だったら、迷わずさっさとトイレに行っている。
生理現象なんだから、遅かれ早かれこういう時が来るのはわかっていたはずだ。
それに、ついさっきまでの打ち合わせの時に、あいつも言っていた。
「着替えとか、トイレとかお風呂とか、もう仕方ないよ」
「こうなったらお互い様だもん、ちょっとくらい私の身体を、見たり触ったりしても、清彦くんならいいよ。……ちょっと恥ずかしいけど」
ああは言われたものの、実際にこんな場面になって、意識するなというのは無理がある。
今は俺の身体なんだし、少しくらいは仕方ないよな。
だけど、それでも心のどこかで、若葉に悪いって思ってしまって、つい躊躇してしまう。
なんてやってる間に、もう我慢の限界が近い!
俺はこれ以上変な遠慮をするのはやめて、慌ててトイレに駆け込んだ。
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「ふう~、スッキリした」
次に気が付いた時には、俺はトイレの便座に腰掛けて、用を足し終えていた。
こういう設定の作り話の場合、元男は男の時の習慣で、ついうっかり立って小便をしようとして、失敗してしまう話がある。
今回の俺の場合、尿意の限界で追い込まれていて、余計なことを考えてる余裕がなかった。
かえってこの身体に染み付いていた、いつもの習慣で無意識のうちに動いていた、みたいな感じだった。
……失敗しなかったんだし、変に意識しないでトイレを済ませられたんだから、まあいいか。
と、安心するのはまだ早かった。
「……紙で拭かなきゃいけないんだよな、やっぱり」
覚悟を決めて、俺はトイレットペーパーを引き出した。
いつもの若葉より、長めにペーパーを引き出していたのだけれど、そんなこと俺の知る由もなかった。
俺は恥ずかしさに赤面しながら、多めに取っていた紙で、そっと濡れた股間を拭いた。
「ひゃん!」
変に意識していたせいか、あそこがやたら敏感だった。
やたら敏感なここってもしかして?
俺はドギマギしながら、敏感だった辺りは特に気をつけながら、そっと股間の割れ目を拭いた。
「ここに俺のち○こがない。俺、男じゃなくなったんだな」
そのことに気づいた瞬間、ドギマギしていたはずの俺の気持ちが、急に正気に戻ったみたいに醒めた。
このときの俺は、女の身体になったことよりも、男でなくなったことに、改めてショックを受けていたんだ。
気持ちが落ち着いてくると、そのことに軽い喪失感や寂しさも感じはじめていた。
股間を拭き終わり、拭いた紙をトイレの中に捨てた。
そして膝の辺りまで下ろしていたショーツを引き上げて、直前に穿きなおす事を躊躇った。
ピンク色の女物の下着、ついさっきまで身に着けていたものとはいえ、女物の下着を自分の意思で穿くことに、抵抗を感じたんだ。
でもだからって、これを穿かないで、この先ずっとノーパンって訳にもいかない。
俺は思い切ってショーツを穿きなおした。なんだか変な気分だった。
俺は今までとは違う新しい経験をして、でも同時に、大切な何かを失ってしまったような、そんな気がした。
トイレを出てすぐに、俺は洗面所で手を洗いはじめた。
なんだかあそこを触った手が気になって、いつもよりも念入りに手を洗っていた。
ふと、正面の鏡を見た。
鏡には、困惑の表情を浮かべた若葉、今の俺の顔が映っていた。
そう、俺は今は若葉なんだ。
「何でこんなことになっちまったんだよ……」
鏡に映る若葉の顔を見つめながら、俺は思わずため息をついた。
本当だったら、俺は双葉に告白していたはずだったのに、若葉の妖しいおまじないで、俺は若葉になってしまった。
そのおまじないの本とやらがみつからなくて、元に戻るあてがなくなってしまった。
もしこのまま元の俺に戻れなかったら、これから先、俺はいったいどうなってしまうのだろうか?
この時俺は自覚していなかった。鏡の中の若葉は、だけどほんの少し頬を赤らめてもいたことに。
今の俺の上に、少しづつ新しくわたしが上書きされていく、その変化に期待と興奮を感じていたことに。
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トイレから若葉の部屋に戻ってきた。
さて、これからどうしよう?
若葉からは、後で部屋着に着替えてねって、言われていたけれど……。
「着替えるってことは、まず今着てる服を脱がなきゃいけないんだよな」
それは今のこの身体を、女の子の身体を晒して、それを見てしまうことになる。
それに、ついさっきのトイレの件で、俺は今の身体の性別を強く意識してしまっていて、さらに余計に遠慮や抵抗を感じてしまっていた。
「これとこれなら、大人しめの組み合わせだから、清彦くんでも平気だと思うよ」
と、若葉は男の俺でも心理的に抵抗の少ない、パンツスタイルの服装を、コーディネートしてくれていた。
とはいうものの、それでもいかにも女の子ってデザインの服装だった。なんとなく嫌だな。
そう思いながらも、なんとなく今の自分の服装を見下ろしてふと気が付く、
今着ている女子の制服のほうが、スカートだし、よっぽど女の子を意識させられる服装なんだよな。
「ずっとこのままって訳にもいかないし、さっさと着替えてしまおう」
グズグズと迷った挙句、着替えてしまうことにした。
できるだけ身体を見ないようにして、素早く……とはいかなかった。意外に苦戦した。
うちの女子の制服って、構造が複雑で、色々面倒なんだよな。
その点、男子の制服は、構造が単純で楽だったよな。
う、長い髪って、意外に着替えの邪魔になるんだな。
四苦八苦しながらも、どうにか制服を脱ぐことができた。
今の俺は、ショーツとブラだけの下着姿だ。
できるだけ見ないようにしていたけれど、今の自分の身体をまったく見ないというのは、やっぱり不可能な訳で、つい見てしまう。
「うわわっ、ゴメン、わざとじゃないんだ」
ブラジャーに包まれた、小ぶりな胸を目にして、慌てて視線を逸らした。
だけど、目に焼きついた今の自分の下着姿に、ドギマギしてしまっていた。
俺も男だ、女の子の裸は気になるし、やっぱり意識してしまう。
俺は再度視線を逸らしながら、着替えのレディースのシャツを手にとって、素早く身に付けた。
……つもりだったけど、またしても長い髪が邪魔に感じて、やや苦戦したのだった。
無事(?)着替えが終わった。
まったくチェックしない訳にもいかなくて、鏡に今の自分の姿を映してみた。
「……かわいい」
鏡には、パンツスタイルが中性的で、意外にかわいい若葉の姿が映っていた。
元々、小柄で童顔な若葉は、男子からも女子からも、かわいいと評されていた。
若葉って、こんなにかわいかったんだ。
そういえば俺、若葉の私服姿って、初めて見たんだな。
俺は双葉のほうが好みだったので、若葉のことはそこまで見ていなかった。
だけど、こんな状況になって、改めて若葉の魅力に気づかされたんだ。
「……えへっ」
俺は無意識に、鏡の前でポーズを取ったり、今の自分の姿に見とれたりしていた。
ついさっきまで感じていた、女の身体になった自分に対する嫌悪感は、すっかりどこかへ吹き飛んでいた。
それどころか、俺の中で何かのスイッチが入ってしまったことに、まったく気づいていなかったのだった。
俺は変身願望なんて、ほとんど持っていなかった。
せいぜい小さい子供の頃に、変身ヒーローに憧れたくらいだろう。
まして俺は、女になりたい、なんて思ったことはなかった。
……興味くらいはあったけどな。
そして今は、俺は若葉という女の子になっている。
鏡に映る、今の自分の姿を見つめながら、つぶやいてみた。
「私、若葉だよ、えへっ」
そうつぶやいた瞬間、俺の中で、何かがぞくっと痺れた。
なんだろう今の、なんでだかすげー気分がよかった。
俺が俺以外の別人になるって、意外に楽しいんだな。
こうなっちまった以上、せめて今の状況を楽しまないと損だよな。
ついさっきまで俺は、どっちかというと悲観的な気分だったのが、今は開き直れたのか、少し楽天的な気分になっていた。
俺って意外に楽天的だったのかもな。
おっと、いつまでもこうしていないで、そろそろ建設的なことをしないと。
でも、何をすればいいんだ?
さすがに他人の家の他人の部屋では、何をどうしてよいのか、勝手がわからない。
本棚には少女マンガや少女小説が置いてあるけど、さすがに今はそれを読む気にはならなかった。
今日は学校の宿題はなかったはずだ。あっても今する気にはならなかっただろうけど。
この部屋にはテレビはないし、PCもないようだ。
若葉のスマホはあるから、それで時間でもつぶそうか?
よし、もう一度例のおまじないの本を探しながら、この部屋を調べてみることにしよう。
あまり勝手なことをしては、若葉に悪いような気もするが……いや、今は俺が若葉なんだ。
いつ元に戻れるのかわからない以上、俺は今の若葉として、若葉の事を知っておく必要があるんだ。
だんだん俺の心のハードルが低くなってきて、若葉に対する遠慮も、少なくなってきていた。
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若葉の部屋は、かわいいというか、わりと女の子って感じの部屋だった
特にぬいぐるみが多くて、若葉はこういうかわいいものが好きなんだな、と思われた。
それはいい、まずは洋服ダンスの中を漁る、なんてことはしない。
例のおまじないの本を置いたと言っていた、若葉の机の周りから調べてみよう。
机の上や周りには、それらしい本はなかった。
まあそうだよな、ほんの少し前に、二人で調べたんだ。ここにあるなら当の昔にみつかってる。
それでも、もう一度一通り調べてみることにした。
机の引き出しを開けてみる。
一番下の引き出しに、『若葉のたからもの』と書かれた箱が入れてあった。
若葉のたからものって、この中に、何が入ってるんだろう?
だんだん興味がわいてきた。
だけどこれは、若葉のプライベートを暴く行為だ。本当はいけないことだ。
いつもの俺なら、この時点で若葉に遠慮して、スルーしただろう。
なのに今は、なぜだか湧き上がる好奇心を、おさえられなかった。
「それに、もしかしたら、例のおまじないの本を、あいつはここに隠したかもしれない」
最初にこの部屋に入った直後に、俺はお茶を持ってきた若葉の母親に、部屋の外に呼び出された。
その間に、隠す余裕はあった。
「だから、箱の中を確かめてみる必要はある」
などと理由をつけて、言い訳をして、箱を開ける理由を正当化してみる。
でも同時に、あいつはそんなことをしてはいないだろう、とも思っていた。理屈ではわかっている。
「今は、わたしが若葉なんだから、わたしの箱をわたしが開けてもいいよね?」
と、魔法の言葉で言い訳をしながら、俺は『若葉のたからもの』の箱に手をのばした。
箱に触れた瞬間、背筋がゾクッとして、何だか嫌な予感がした。
今はこれに触れないほうがいい、そんな気がしたんだ。
こういう時の俺の予感って、よく当たるんだよな。
特にこういう悪い予感とか、嫌な予感の時には。
「やっぱりプライバシーの侵害だよな。これには触らないでおこう」
直前で気が変わって、箱を開けるのを止めた。
俺は心の中で言い訳をしながら、机の引き出しを閉めたのだった。
入れ替わり大好きです。特に男性になってしまった元女性の描写が好きです。