その日の放課後のその時、俺と双葉さんは、訳あってたまたま学校の屋上にいた。
「清彦くん、私たち、これからどうしよう?」
俺の目の前にいる、長身だが少し頼りなげな男子生徒が、今にも泣きそうな表情で、俺にそう問いかけてきた。
「どうしようって、こうなったら元に戻れるまで、俺が双葉さんのかわりをするから、双葉さんが俺のかわりに清彦をするしかないよ」
今はこの学校の女子の制服に身を包まれている、女子生徒の姿の俺が、その男子生徒の問いかけにそう返した。
何が起きたのかって?
俺、山田清彦と、隣のクラスの白石双葉さんが、放課後に家に帰る直前に、階段の踊り場で接触事故。
この時、軽い接触だったはずなのに、なぜだかぐらっとして、まるで足元から世界がひっくり返ったようなショックをうけた。
「ううん、……もう、気をつけてよね!」
「なに言ってるんだよ、ぶつかってきたのはそっち……え、俺?」
「え、え、私? なんで目の前に私が?」
この階段のこの踊り場には、鏡が設置されていた。
ふとその鏡が目に入り、その鏡に映っている男女の姿、特に今の自分の姿を見て驚いた。
「なんだこりゃ、なんで俺、女になってるんだ?」
俺の身体は、俺にぶつかってきた、女子生徒の姿になっていたんだ。
「え、うそ、嘘よ! 何で私が、私にぶつかってきた男子になってるのよ!」
俺たちは、しばらくパニックに陥った後、俺たちの身の上に起きた現実をようやく認識した。
さっきの接触事故で、俺たちの身体が入れ替わってしまったんだと。
そしてその後、元の身体に戻れないか、何度か接触事故を再現して試したけれど、俺たちは元の身体にはもどれなかった。
身体が入れ替わってしまって、元に戻ることができない。
この後俺たちはどうすればいいのか?
その話し合いをするために屋上に移動したんだけど。
「わかっている、わかっているけど、でも私、やっぱりこんなの嫌だよ」
「嫌だっていわれても、何度試しても戻れなかったんだから、どうしようもないだろ」
「だって、だって……私、やっぱり元の双葉に戻りたい、私のおうちに帰りたいよ」
俺は半泣きな、元の俺の身体の双葉さんを宥めながら、
『うう、俺のほうこそ泣きたいよ、こんな事になっちまって、本当にどうすればいいんだよ!』
と、途方にくれていた。
こんなことにならなければ、俺も双葉さんもとっくに下校して、家路についていただろう。
すごく皮肉なことに、そのおかげで俺たちは命が助かっただなんて、この時は思いもよらなかった。
このとき学校のすぐ外では、俺たちの身の上に起きた事とは比較にならない、大きな厄災がおきていたんだ。
そんな調子で無駄に時間を浪費しながら、それでも今後の方針がどうにかまとまった。
ひとまず今日のところは、俺が双葉さんとして双葉さんの家に帰り、双葉さんは清彦として俺の家に帰ることになった。
そのために今は、お互いに成りすますために必要最小限の情報交換を行い、お互いの要望を言いあったり、アドバイスをしたりした。
あと、それを徹底させるために、今からお互いのことは、身体の名前で呼び合うことになった。
「そういうことだから、よろしくね、ふたばさ……じゃなくて、清彦…くん」
「う、うん、双葉…………さん」
元の自分の身体を前に、元の自分の名前を呼ぶ、なんだかむずがゆくて変な気分だ。
俺以上に、双葉…じゃなかった清彦のほうが、なんだか嫌そうというか、抵抗が大きいようだ。
方針が決まったからといって、事態が改善されたわけではない。
むしろこれから、この厄介な現実と向き合わなきゃならない。
『なんかさっきの双葉さんの話しを聞いていたら、どうやら双葉さんはマザコ……母親っ子みたいだし、俺は双葉さんの家族、特に母親とうまくやっていけるんだろうか?』
そんなことを考えたら、ただでさえ重かった気がさらに重くなって、俺の口からは思わずため息がでた。
そんな現実から目をそらすように、俺は何気なく屋上の外を、そして下を見た。
なんだありゃ?
浮浪者みたいなふらふらした変な集団が、この学校の敷地内に入り込んでいて、部活でグラウンドに残っていた運動部員や顧問の先生たちと、小競り合いをしていた。
一部の生徒は雲の子を散らすように、その変な集団から逃げまわっていた。
小競り合いというより集団暴行?
集団鬼ごっこ?
いったい何事なんだ?
その光景に、俺は得体の知れない恐怖を感じた。
もっと状況をよく見てみようとして、
「清彦くん! ……じゃなかった、双葉さん!」
俺は清彦に呼び止められた。
「私のスマホを出して、帰りがこんなに遅くなっちゃって、ママが心配してるだろうから、一度電話してママを安心させなきゃ」
そんなわけで、今は俺の持ち物になった双葉のスマートフォンを取り出した。
「お、俺が話すのかよ」
「私も嫌だけど、仕方ないでしょ、今はあなたが双葉なんだから」
そんなわけで、俺が双葉の母親に、電話をかけることになった。
放課後に女友達と話をしていて、話に夢中になって遅くなった。
というエアシナリオを、清彦が即行で決め、口調と一緒に俺に指導した。
「わかったよ」
「もっと女の子らしい口調で」
「わかったわよ!」
なんか女言葉が照れくさくて、電話越しでも嫌な感じだな。
今からこれでは先が思いやられるな。
はあ、気が重い、とにかく今から、言われたとおりに双葉の母親に電話だ。
電話の呼び出し音がやたら長く感じる。
いや、実際に長い、なかなか出ない?
どうかしたのか、忙しくて手が離せないのか、とか思っていたらようやく出た。
「もしもし、ママ?」
俺は精一杯、女の子っぽい口調で電話に話しかけた。
「双葉、双葉なの! よかった、あなたは無事だったのね」
電話の向こうからは、双葉の母親らしき女性の、切羽詰った声が聞こえた。
「双葉、あなた今どこにいるの!!」
双葉の母親の、切羽詰ったただならぬ様子と勢いに、俺はついエアシナリオのことを忘れてた。
「今? 今は、学校の屋上にいるよ」
「ばか、打ち合わせと違うでしょ!」
「あ!!」
つい、本当のことを言ってしまった。
「そう、双葉は今は安全な所にいるのね、良かった、安心したわ」
だけど電話の向こうから流れてきたのは、双葉の無事にほっとした空気だった。
少なくとも、帰りが遅くなったことを、咎める様子は無かった。
「とにかく遅くなってごめん、すぐに帰るから」
「駄目、ここはもう危険なの、うちへ帰ってきては駄目よ!!」
「危険、危険って何が?」
「何がって……そう、双葉はまだ危険な目に、ゾンビに会ってないのね」
「ゾンビ? ゾンビって、映画なんかに出てくる動く死体の?」
「そうよ、そのゾンビよ」
双葉の母親のこの言葉に、一緒に切羽詰っていた俺の空気は一瞬緩んだ。
なんだ、双葉の母親は、冗談を言って俺を担いでいるのかと。
俺は双葉の母親と、まだ会ったことはないし、本当の親子ではない。
だけど、このまま双葉の母親が、「冗談よ」と言うのを、心のどこかで期待していた。
だけど、双葉の母親は、冗談だとは言ってくれなかった。
逆に、「危険が通り過ぎるまで、そのまま安全な屋上でやりすごしなさい」と、アドバイスされた。
さらに、「ママはもう、……ううん、ママのことは心配しなくてもいいから」とも言い残し、
そして最後にしんみりとした口調で、
「最後に双葉の声を聞けて嬉しかった。ママは双葉のこと、大好きだったわ。……あなたは幸せになってね」
それだけ言い残して、電話が切れたのだった。
なんだよ今のは、まるで別れの言葉じゃないか。
「ちょっとママ、今のはどういう意味よ! ママ、ママてばっ!!」
聞き耳立てて、電話の内容を一緒に聞いていた清彦が、俺からスマホを引ったくって、切れている電話に怒鳴った。
電話が切れていることに気づいて、改めて電話をかけなおした。
だけど、向こうで携帯の電源を落としたのか、もう電話がつながらなかった。
「すぐに家に帰る、今のはどういうことなのか、ママに問いただすわ。この姿だからって、遠慮なんかしてらんない。あなたも一緒に来てくれるわよね?」
「う、うん」
鬼気迫る表情で清彦に迫られて、俺はついうなずいた。
俺はそんな清彦の迫力に押されて、一緒に屋上の出入り口に向かった。
と、その時、
「早く、ここへ!」
屋上の出入り口の扉が開き、ジャージ姿の女の先生と運動部員らしい女子生徒が数名、この屋上に逃げ込んで来たのだった。
新たに屋上に来た先生や生徒たちに進路を阻まれて、俺たちは足止めを食らって下に降りられなかった。
それでも俺は、どうにか出入り口付近で、下に降りる階段の様子を見ることが出来た。
「なんだありゃ?」
階段をゆっくり、夢遊病患者みたいな人の群れが、うなり声を上げながら上って来ていた。異様な光景だった。
ついさっき、校内に侵入してきた、おかしな連中のことを思い出しだ。
この連中って、もしかして、双葉の母親の言っていたゾンビなのか?
ドアの出入り口付近で、下の様子を伺っていたジャージの先生が、こちらを振り返って言った。
「ここまで逃げてこられた子はこれだけ? 他に無事な子はもういないわね? これ以上はもう待っても無理だわ、急いでドアを閉めるわよ!」
ジャージの先生は指示を出しながら、一緒に上がって来た女子生徒と一緒に、急いでドアを閉めた。
「ちょっと待って、私たち下に降りたいんです。ドアを開けてください!」
そこで、清彦が閉められたドアの前で、ドアを開けてほしいと訴えた。
外見にあわせて、男言葉で話をするってことを、すっかり忘れておかまみたいな口調になっていたが、本人も回りも気にする余裕はなかった。
「ドアを開けてって、あなた何を言ってるの? 今の状況がわかってるの? そんなことできるわけないじゃないの!」
「で、でも、ママが、私のママが危ないんです。電話で危ない状態だって言ってた、だから早く帰ってママを助けないと!!」
「落ち着いて、あなたの事情はわかったけど、今は無理よ、とにかく今は落ち着きなさい!!」
「嫌! もういいわ、私だけでも……」
今の清彦は、もうふつうの精神状態ではなかった。
焦った表情で、ドアの前にいた女子生徒を引き剥がし、無理にドアをこじ開け開けようとした。
「落ち着きなさい馬鹿!!」
パシ―――ン!!
屋上にビンタの乾いた音が響いた。
先生にビンタされた頬を押さえながら、清彦は信じられない、って感じで、呆然とした表情をしていた。
少なくとも、ビンタをされて、焦った気持ちが霧散したようだった。
「無理して死んでも、あなたは自己満足でそれでいいかもしれない。でも今ここを開けたら、ここにいる他の子まで危険に晒すことになるのよ!!」
先生は呆然としたままの清彦見て、そして俺のほうを見て言った。
「あなた、彼の連れ? 彼が落ち着くまで、少し離れたところで見てあげていて」
「あ、はい」
「他の手の空いてる子は、ここを抑えるわよ」
「「「はい!」」」
俺は、呆然としたままの清彦を引っ張って、出入り口のドアから離れた。
ジャージの先生の指示で、俺は清彦の手を引いて、その場を離れた。
だけど清彦は、抵抗はしなかったけど、大人しく言うことを聞いてくれなくて、引きずるようにしてだった。
「なんでだよ、俺ってこんなに非力だったっけか、……あっ!」
そうだった、今の俺は女の双葉さんの身体で、清彦より身体が小さくて非力なんだった。
いや、女のほうが力が無いって知ってはいたけど、こんなに非力だなんて思ってなかったんだ。
俺はどうにか出入り口から少し離れた場所まで清彦を引きずってきて、そこで息を切らしてへたりこんだ。
『こんな状況なのに、こんな非力な身体になって、俺、これからどうなるんだ?』
俺は座り込んで息を整えながら、俺の心の中には、そんな不安が芽生えはじめていた。
その間に、屋上の出入り口に残った先生と、女子生徒たちは、出入り口に簡単なバリケードを築いた。
屋上に出る階段の上部の半分のスペースは物置になっていて、古い黒板やら机や椅子などが置いてあった。
それを使ってバリケードを築いたんだ。
もうこれで、扉の向こうにいるゾンビたち(?)も、簡単には入ってこられないだろう。
そして清彦も、もう簡単には下に下りられない。
さっきまで感情的だった清彦は、先生のビンタの後、少しの時間の経過で、今はある程度冷静さを取り戻した。
それでも未練があるのだろうか、さっきまでのように感情的に下に下りようとはしないけれど、
屋上の出入り口から少し離れたその場所に座り込んで、無言で出入り口の様子を見つめていた。
多分清彦もわかってるんだ、今から双葉の家に行ってももう間に合わない、もうどうにもならないって。
それにこのまま下に下りては命が危ない、今はここにいるほうが安全なのだということも。
だけど、そうだと理屈ではわかっていても、感情がそれを許さないんだろう。
双葉の家に、母親の無事を確かめに行きたいんだろう。
「ママ、……ごめんねママ……」
清彦は小さな声で、そうつぶやいていた。
そんな清彦を見ていたら、何でだか俺までたまらない気分になってきた。
俺の胸の奥が苦しかった。
なんなんだろう、俺の今のこの気持ちは?
俺はそんなよくわからない気持ちのまま、いつの間にか清彦を、無言でぎゅっと抱き締めていた。
清彦の顔が一瞬「えっ?」て驚いたような表情になり、でも暗かった表情を少しだけ緩ませて、そのまま俺に身を預けてきた。
なんだか俺、清彦を慰めることができた、清彦に頼られた、みたいに感じて嬉しかった。
なんだか俺、そんな清彦が段々……。
「あー、あんたたち、こんな時間に何で屋上にいたのかって思っていたけど、そう言う関係だったの?」
冷やかすような声に、俺ははっと慌てて清彦から飛びのいて、
「ち、違う、そんなんじゃない!!」
と、慌てて咄嗟に否定していた。
誰、と思って見たら、声をかけてきたのは屋上に逃げてきた、女子のうちの一人だった。
陸上部のランニングシャツに短パン姿だから、ついさっきまで部活中だったんだろう。
なんかゴシップが好き、みたいな表情で、にひひと笑っていた。
なんだよ、せっかくいい感じだったのに、って違う違う、
いや、そういえば俺、今清彦に何をやっていたんだよ!!
正気に戻って、つい今まで清彦にしていたこと、感じていたことを思い出して、急に恥ずかしくなった。
違うんだこんなの俺じゃないんだと、イヤイヤしながら身悶えた。
そうこうしているうちに、先生や他の女子生徒も集まってきた。
どうやら屋上の出入り口を塞ぎ、一応安全が確保されたから、無事だった者を集めて、これからの話をするみたいだ。
「そこのあなた、確か二年三組の双葉さんだったわね」
え、この先生、双葉さんのことを知ってるの?
いや、生徒と先生だし、俺が関係を知らないだけで、二人が普通に知り合っていてもおかしくないか。
双葉さんが二年三組ってことを知ってるってことは、この先生は女子の体育の授業で見ていたってことなのか?
どの程度の関係だったのかまではわからないけど、今はアドリブで対応しておこう。
「はい、そうですが」
「さっきはその男子の面倒を見てくれてありがとう、助かったわ。どうやら落ち着いたみたいね」
「そうみたい……です」
「……はい」
「でも、今は非常時だからうるさくは言わないけど、あまり感心はしないわね」
うるさく言わない、とか言いつつこの先生、説教でもするつもりだろうか?
いや、でも、だから、俺たちはそんなんじゃないんだってば!
だがしかし、救いの手は、意外な方向から来た。
「綾子先生、彼氏に振られて今は独り者だからって、ひがんで八つ当たりなんかしないでくださいよ」
声の主は、ついさっき、俺たちの関係を冷やかした陸上部の女子だった。
「う、うるさいわね、そんなんじゃないわよ!! だいたい私が独り者かどうかなんて、関係ないでしょう!!」
なんだろうこの子、先生相手にそんな口を聞いて、思ったよりすごい子なんだな。
そしてそのおかげで、話がどんどん逸れていった。
「うう、私だって今度こそ、この人ならって思ってたのに、なのに……」
「ごめん、私こそ言いすぎました」
そしてそのせいで、周りの女子の先生を見る目が、かわいそうな人を見る目になっていた。
でもそのおかげで、俺たちが屋上に居た件はうやむやになった。
それからもうしばらくして落ち着いた後、今後の話し合いをすることになった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
そんな訳で、場の空気が落ち着いてから、仕切りなおして、改めて話し合いをはじめることになった。
屋上に居る全員が集まり、先生を中心に体育座りで半円形に座った。
「屋上に逃げてきた子はこれで全員ね、私を含めて九人か…………」
先生はここにいる全員の顔を見回しながら、一瞬沈痛な表情になり、頭を振って真剣な表情に改めた。
「お互いに顔見知りって子もいるだろうけど、初対面の子もいるみたいね、だから自己紹介からはじめるわね、まず私から」
ジャージ姿のこの女性教師は、綾子先生(28)
保健体育の担当で、陸上部の女子の顧問もしている。
綾子先生は、この学校の半分のクラスの女子の体育の授業も担当していて、
後で知った話だと、双葉が一年生の時に、この先生の体育の授業を受けていたらしい。
それで綾子先生は、双葉の名前を覚えていたんだな。
もっとも男子だった俺は、この先生の指導を受けたことが無い。
だから俺は、この先生の顔と名前は知っていても、どういう先生なのかまではよく知らなかった。
そのせいで後でぼろが出なきゃいいんだけど。
あと、結構美人で、スタイルもいいので、一部の男子には人気があったみたいだ。
体育会系は俺の好みじゃなかったから、俺は注目していなかったけど、こうしてま近で見ると、確かに美人な先生だ。
それはともかく、今回は綾子先生が、たまたま女子部員の指導でグラウンドにいたときに、ゾンビ騒動に巻き込まれた。
グラウンドにいた男子サッカー部や、陸上部の男子など、運動部の男子が、外から進入してきた集団に対応して襲われたのを見たときに、直感的にやばいと感じたらしい。
綾子先生は咄嗟に近くにいた女子部員や他の運動部員に、校舎内に逃げ込むように指示を出した。
ここにいる女子は、そのおかげでここに逃げ込めて、助かった子たちだった。
あと、ここに座っている生徒八人は、綾子先生から見て半円形に時計回りで、
恵梨香(18)三年生、女 陸上部
由香里(17)二年生、女 陸上部
小麦 (15)一年生、女 陸上部
美雪 (16)一年生、女
聖羅 (18)三年生、女 ソフトボール部
直美 (17)二年生、女 ソフトボール部
双葉 (16)二年生、女
清彦 (17)二年生、男
の順番で座っていた。
そしてその順番で、顔を見せて、名前と学年を紹介する程度の、簡単な自己紹介をはじめることになった。
俺は他の子の自己紹介を聞きながら、自分の自己紹介をどうしようかと迷った。
今の俺は、身体は双葉さんで、心は清彦で、普通に考えたら、身体の名前の、双葉と名乗るべきなんだろう。
だけど、ただそれだけのことなのに、なぜだか改めて双葉と名乗ることに、心理的に大きな抵抗を感じていたんだ。
改めて考えてみれば、俺が双葉さんと入れ替わってから、まだ二時間も経っていないんだ。
あれから清彦の身体に入れ替って泣いていた双葉さんを宥めたり、ゾンビ騒ぎがあったりと、
そうか、俺自身が入れ替わりのことで悩んだりする余裕がなかっただけで、まだ気持ちが割り切れていないんだ。
だからといって、この身体で清彦と名乗るのもおかしな話だし、本当にどうしようか?
俺の自己紹介の順番が、後のほうでよかった。
ほんの少しだけど、気持ちを整理する余裕ができた。
だけど、ぐずぐずしているうちに、隣の子の自己紹介が終わり、俺の順番が来た。
もう悩んでいられない、俺はゆっくり立ち上がった。
立ち上がる時に、緊張からだろうか?
スカートがひらりとする感覚、
髪が頬や首筋にかかる感覚、
胸が揺れる感覚などが、なぜか敏感に感じた。
まるでこの身体が、男の清彦ではなく、女の双葉なんだよと、俺に主張しているように感られた。
俺は覚悟を決めた!
「わ、わたしは、二年三組の双葉です。今はこんな状況で、何をどうしていいのかわからないけど、がんばります」
言えた、みんなの前で、双葉だと名乗ってしまった。
名乗った以上、俺は双葉としてやっていくしかないんだ。
この瞬間、俺の中で何かがすとんと腑に落ちた。
後で落ち着いてから振り返ってみて思う。
この混乱の中で、俺はこの時から、双葉としての人生の再スタートを切っていたんだと。
どうにか自己紹介をすませて、緊張が解けた俺は、そのままその場にすとんと座った。
「なにやってんのよ双葉、それじゃスカートの中が、丸見えだよ!」
先に自己紹介をすませて、俺の隣に座っていた直美が、小声で俺に注意してきた。
「えっ? あわわっ!」
つい油断して、俺は男だった時みたいに、脚を半開きして座っていた。
俺は急に恥ずかしく感じて、慌てて内股に脚を閉じて、スカートのすそを抑えた。
まずい、こんなのを清彦(双葉さん)に見られたら……、
やっぱり見られてた、なんだか表情が少し怖かった。
怒っているのかな、やっぱり。
「あはは、ついうっかり」
俺は笑ってごまかした。
「ドジっ子ブリッ子なんて、らしくないよ双葉」
と言いながら、隣の直美がくすくすわらった。
あれ、直美って、さっきからなんか俺に気安くない?
もしかして、双葉さんと知り合い?
最後に、清彦の順番が来て、自己紹介をはじめた。
「二年二組の清彦です。よろしく」
あまり感情のこもらない表情と声で、あっさり素っ気無く、清彦は自己紹介を終わらせた。
それでもまあ、余計なことを言わずに、無事に清彦の自己紹介を終わらせてくれてほっとした。
清彦、いや双葉さんは、母親の安否のことが気になるのか、元気が無かった。
さっきまでの俺のように、入れ替わりのせいで、アイディンティティのことで悩んでないだろうかとも心配だった。
それでなくとも清彦は、この女ばかりの集団の中で、この場に一人だけいる男、存在が浮いていた。
そのうえ、彼女たちが屋上に逃げ込んできたときに、下に降りる降りないで、結果的にトラブルを起こしていた。
だからなのか、清彦はこのときも、一部の女子からきつい視線を受けていた。
本当だったら女なのに、今は男扱いされて、母親の安否も不明。
今の清彦(双葉)の心情は、どうなんだろうか?
後で話し合わなきゃな。
「それじゃ、一通り自己紹介も終わったし、今後の方針について話し合いましょう」
綾子先生の主導で、改めて今後の話し合いが始まった。
「私たちは屋上での安全は確保できたけど、このままここに立てこもるだけでいい?」
「いいわけないです。ここには水も食べ物もないし、このままじゃここにいてもジリ貧です!」
「じゃあどうすればいい?」
てな感じで、話し合いが進められた。
俺は話しに参加しないで、聞き役に徹していたけど、
綾子先生は、まずは生徒に意見を言わせて、その子を褒めたり乗せたりして、話を引き出した。
そのうえで、先生自身が要所では納得できる情報や意見をだして、
うまくみんなが納得できるように話を誘導したりして、意見をまとめて、さすがだなって思った。
なるほど、この先生のおかげで、ここにいるみんなが助かったというのも納得できる。
「はあ、屋上に家庭菜園とか、循環システムとか、ソーラーパネルとか、あったら良かったのに」
「そんな都合の良いものが、学校の屋上にあるわけないでしょ」
そう言う意見には、みんなで苦笑した。
「まあ、たしかにそういうものはないけど、でもこの学校にはひとつ、ご都合主義なものがあるわよ」
「ご都合主義なものって?」
「この学校は、この地区の災害時の避難所に指定されているのは、みんなも知っているわね」
「そう言われてみれば……」
「たしか、地震なんかのときの、避難所なんですよね」
「そうよ、そしてこの学校には、約千人の避難民が、三日すごせるだけの災害避難物資が備蓄してあるのよ」
みんなその話に食いついた。
たしかにご都合主義だが、この状況では大きな希望だった。
後で調べたら、実際にはそこまで大量の物資が備蓄されていたわけではなかった。
物資を備蓄するスペースの関係と、何よりも予算の都合で、予定よりも備蓄が少なかった。
何年か時間をかけて、少しづつ備蓄する物資を増やしていく予定だったらしい。
それでも、地震などで想定された千人単位の避難民ではなく、十人にも満たない集団が、当面食いつなぐには十分な分量でもあった。
それはともかく、話し合いの結果、当面の目標が決まった。
まずはこの屋上を脱出して、校舎内の一部を取り戻す。
災害用の物資を確保して、自分たちが生き残るすべを確保する。
そのための作戦も話し合われて、大雑把ながらも作戦が決められた。
外からの救助を待つにせよ、自力でなんとかするにせよ、その後から考えることだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
話し合っているうちに、辺りが薄暗くなってきた。
今からでは無理は出来ない、今は身体を休めて体力を温存しておいて、実際に作戦を行うのは、明日、明るくなってから、ということになった。
「あのぉ、先生、わたし、トイレに行きたいんですけど……」
「今夜寝る場所をどうしましょう?」
「……おなかが空いた」
だけど問題は山積みだった。
ここにいるメンバーは、俺と清彦以外は、ゾンビに追われて逃げてきた者ばかりだった。
だから、何も荷物をもっていなかった。
それどころか、陸上部員やソフト部員は、部活中だったので、ランニングシャツやユニフォーム姿のままだ。
だけど俺たちは、帰宅直前に入れ替わり、ゾンビに追われたわけではなく、自分でここに来た。
だからスクールバッグの荷物を持っていたんだ。
「あなたたち、飴玉でもスナック菓子でも、何でもいいから持っていない?」
先生の指示で、俺はスクールバッグの中を開けてみた。
俺、弁当は食ってしまったし、お菓子なんかもってきてなんて……あった!
バッグの中から、飴玉の袋と飲みかけのペットボトルのお茶が出てきた。
なんで? あ、そうか、これは俺のバッグじゃなくて、双葉さんのバッグだったんだ。
……双葉さんのバッグ、俺が勝手に開けた形だけど、良かったのだろうか?
今は非常時なんだし、先生の指示で開けたんだし、おまけに今は俺が双葉さんなわけだし、今はこれでよかったってことにしておこう。
あと、一年生の美雪ちゃんも、荷物を持っていて、バッグに飴とかチョコレートとか持ってきていた。
美雪ちゃんは、小柄で眼鏡をかけた大人しそうな女の子だ。
陸上部の友達の小麦ちゃんを待っていて、そこで今回の騒ぎに巻き込まれたんだといっていた。
綾子先生は、俺の差し出した飴と、美雪ちゃんの飴とチョコレートを集めて、公平に分配した。
「まず最初に、みんなで双葉さんと美雪さんに感謝しましょう。ありがとう」
「ありがとう双葉さん、美雪さん」
「ありがとう、助かったわ」
「ありがとう」
「あ、う、うん」
これは俺の手柄ではない。
本来は双葉さん、そして美雪ちゃんの手柄なんだ。
なのに俺がお礼を言われて、なんだかこそばゆかった。
「今はこれだけしかないから、みんな大事に食べてね。できれば今夜と明日の朝の二回にわけて食べることをお勧めするわ」
俺は先生のアドバイスにしたがって、飴やチョコを二つに分けて、まず今夜の分を味わって食べたのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
そして、現在一部の女子の切実な問題は、トイレだった。
当然のことながら、屋上にはトイレは無い。
だけどもう我慢できない、限界だという子が出始めていた。
それなら目立たないところで、こっそりすませればいいじゃん、
今はまだ男の感覚で、俺はそう思ったんだが、女子の場合は、そうは簡単にはいかないらしい。
まだ女に成りたてで、しかもまだトイレの経験の無い俺には、まだその辺の事情がわからないのだった。
「あ、あの、わたし予備のティッシュ持ってます」
と遠慮しがちに美雪ちゃん。
美雪ちゃんは、体質的に風邪を引きやすいとか、花粉症だとかで、ティッシュをつかう機会が多かったらしい。
なので、バッグの中には予備のポケットティッシュを多く持っていた。
一ダースのうちの、使っていない残り十一ものポケットティッシュ、
その予備のポケットティッシュを、綾子先生はさっそく持っていない女子に配った。
「ありがとう美雪ちゃん、助かるわ」
綾子先生も、他の女子も、美雪ちゃんのティッシュに大いに感謝していた。
そんな中、俺は思った。
『たかがティッシュで、そこまでおおげさな』
くどいようだが、この時点ではまだ女として経験の無い俺には、女にはこれが必要なことがわからなかったんだ。
俺がこの身でそれを体験して実感するのは、ほんのもう少し後の事なのだった。
で、肝心のトイレを、どこでどう済ますかなのだが。
「それについては考えてみたわ」
まず、屋上の出降り口の近くに、清掃用とかいう事で、一本だけ水道が通してあった。
「水道はまだ生きているわね。で、この清掃用のバケツに水を汲んで持っていくの」
「持っていくって、どこへですか?」
「あの隅っこの影になる辺りが、人目につかなくていいかなって考えてる、確か排水溝もあるはずだわ」
「なるほど、その水でそこに流すんですね」
「そうそう、終わったらここに戻ってきて、この水道で手を洗うのよ」
などと、綾子先生の相手をしているのは、陸上部の三年生の恵梨香さんだった。
陸上部の顧問と部員という関係だからなのだろうか、仲がいいのかぴったり息が合っていた。
恵梨香さん、さっきは恋人に振られたとか言って、綾香先生をからかっていたのにな、それくらい仲がいいってことなのか。
我慢の限界の子も居るし、後の説明はその場に移動して行うことになった。
なったのだが……。
「清彦くん、大変言いにくいのだけど、ここから先は女の子のプライバシーに関わってくるから、あなたには遠慮してほしいのよ」
「……わかりました」
「あとそうね、清彦くんは今後はこっち側には立ち入らないで、反対側ですませてほしいの」
「それもわかりました、ええわかってます。話はそれだけですね」
清彦は、さっきまでポーカーフェイスで対応していたのに、今は少し苛立っていた。
「ええ」
「じゃあおれは、今のうちに反対側を見てきますね」
それだけ言い残して、清彦はさっと背を向けて女子とは反対側へ歩いていく。
俺にはその背中が、すごく寂しそうに見えた。
「それじゃ、私たちも行くわよ」
綾子先生は、残りの女子を引き連れて、屋上の隅へと歩き始める。
だけど俺は……このまま清彦を、ううん双葉さんを放っておけない。
「彼が心配なので様子を見てきます」
「ちょっと双葉さん!」
「双葉、先生の説明を聞かなくていいの?」
先生の呼び止める声と、誰かが俺に確認する声が聞こえるた。
「後で教えて!」
それだけ言い残して、俺は清彦の後を追った。
「まって清彦、ううんまってよ双葉さん!」
追いかけていった少し先に、清彦はぽつんと一人で佇んでいた。
「あら、なんでこっちに来たの、『双葉』さん」
清彦はゆっくり振り返りながら返事をした。
「女子はあっちでしょ」
その言い草に、俺にたいしても、軽く拒絶をしているように感じた。
「俺、双葉さんのことが心配で、追いかけてきたんだ。なんか双葉さんを放っとけなくてさ……」
「何言ってるの、『双葉』はあなたでしょう? 今の私…おれは男の『清彦』なんだから」
今の清彦は、俺には自分のことを禄に見てもらえなくて、拗ねた子供のように見えた。
だってその顔は、その言葉とは裏腹に、今にも泣きそうな顔だったから。
やっぱり放っておけないよ。
「違うよ、本当の双葉さんはあなたで、あなたは本当は女の子なんだって、俺は、俺だけは知ってるよ」
下手な慰めなんて、何を言ってもかえって清彦を傷つけるような気がして、だけど言わずにはいられなくって。
「うるさい、もういいから、私のことなんか放っておいて!!」
だけど案の定、清彦を怒らせて、気が付いたら俺は突き飛ばされていた。
「ご、ごめんなさい、私、軽く突き放しただけのつもりだったのに……」
「いてて……、ううん、だ、大丈夫だよ、なんともないから」
なんて言葉とは裏腹に、俺はど派手にひっくり返りながら、尻餅をついて痛むお尻をさすった。
双葉さんは、男の清彦の身体の、力加減がわからなかったんだろう。
そして俺も、小突かれるくらいは覚悟していたつもりだったけど、なのに全然対応できなかった。
男と女の力の差は、お互いの認識以上に大きかったんだ。
「あー、脚閉じてよ、中が丸見えよ!」
「え? わわっ!!」
言われて俺は、あわてて脚を内股に閉じた。
スカートの裾も押さえながら、なんでこのスカートは、こんなに短いんだよ、と思った。
なんか妙にこっ恥ずかしい気持ちになって、なぜだか俺の顔は赤くなっていた。
そして、そんな俺を見つめながら、清彦の顔も赤くなっていた。
「ど、どこを見てるんだよ!」
「ご、ごめん!!」
俺の怒鳴り声に、清彦は顔を赤くしながら、慌てて視線を逸らせた。
……あれ? 俺たちの男女の立場って?
なんかさっきまでとは別な意味で、微妙な空気になっていた。
かといって、気まずい気分なのを認めたくないし、こんな格好で座りっぱなしなのも何だし、俺はそっと立ち上がる。
「あ、手を貸すわ」
「ありがと……」
俺は素直に、差し出された清彦の手をとった。
俺を引っ張りあげる清彦の手は大きくて、そして力強かった。
「さっきはごめんなさい」
何に対してごめんなさいなんだろう、でも今はそんな事よりも、双葉さんが素直になってくれた事のほうが嬉しい。
「いいよ、俺は気にしていないから」
「ありがとう、『清彦』くんは優しいんだね」
「そ、そんなことねえよ」
「ううん、『清彦』くんが追いかけて来てくれて、私、本当は嬉しかったんだ」
すっかり憑き物が落ちたような、素直な真顔で清彦にそう言われて、俺はどぎまぎした。
そして、俺はなんだかすごく照れくさかった。
「そ、そんなたいしたことじゃないよ、さっきも言ったけど、俺は双葉さんのことを放っとけなかっただけだよ」
「ありがとう、私、入れ替わったのが、清彦くんでよかったわ」
「俺はイヤだな」
「え、なんで、清彦くんは私じゃイヤなの?」
「いや、そうじゃなくてさ、双葉さんとは入れ替わりなんてなしでさ、普通に出会いたかったな、なんて思ってさ」
もちろん今回のゾンビの騒ぎもなしで、双葉さんとは普通に出会って、普通に仲良くなりたかったんだ、ってね。
「やっぱりこんなかわいい女の子とはさ、男として仲良くなりたいじゃん、いくらかわいいったって、俺が女になったんじゃ意味ないじゃん!」
「そんな理由で、……くすっ、うふふ、あはははは……」
俺の真顔での返答に、清彦は笑い出した。
俺も釣られて笑い出して、しばらく二人で一緒に笑ったのだった。
俺たちは、屋上の金網のフェンスにもたれかかりながら、並んで立っていた。
俺は清彦の顔を、見上げる形で見つめていた。
清彦はそんな俺の顔を、優しい表情で見つめ返していた。
俺って、思っていたよりも背が高いんだな。
それに俺の顔って、平凡な顔立ちだと思っていたけど、こうして見てみると、結構いけてるんだな。
なんか俺の胸がドキドキしてる。
ちょっと待て、俺が俺の顔を見て胸がドキドキって、俺は何を考えてんだよ!
俺はホモでもナルシストでもねえんだぞ!
ありえねえだろ!!
俺は清彦から視線を逸らしながら、慌ててぶんぶんと頭を振った。
そしてもう一度、清彦に視線を戻して気がつく。
清彦はもう俺ではなく、別のところを見つめていた。
清彦が俺を見ていない?
その事へのがっかり感と、なぜだかそれ以上の怒りがこみ上げてきた。
俺の事を見ないで、いったいどこ見てるんだよ!
「……直美」
「えっ?」
「あはは、や、やあ」
その視線の先には、ソフトボールのユニフォーム姿の直美がいた。
なんで直美がここに?
「そろそろいいかなって、二人を呼びに来たんだけど……」
「私たちの話、どこから聞いていたの?」
清彦が厳しい表情で、直美を問い詰めた。
え、どこからって、もしかして直美に、俺たちの話を聞かれていた?
「あなたが『入れ替わったのが、清彦くんでよかったわ』って言っていたあたりから、かな」
え、そこから聞かれていたの!!
直美と双葉は、この高校に入学した一年生のときに同じクラスになり、そこではじめて知り合った。
で、クラスメイトとして、わりと早くから親くなったらしい。
とはいうものの、文科系の双葉と、運動部の直美は、生活のサイクルが違っていて、それ以上の交流はなく、
二年生になった時に、双葉が三組、直美が一組にクラスが分かれて、直接の交流は無くなった。
もっともこれは、後で二人から聞いた話で、今の時点では俺は二人の関係は知らなかった。
だから直美は屋上で出会った双葉、つまり俺に親しげに声をかけた。
なのに、なぜか反応が鈍かったんで怪訝に思った。
ただ、この非常時だし、双葉も精神的に余裕が無かったのかもしれないと思い直し、
その時は深く追求はしなかったのだ、ということだった。
そしてついさっきの一件で、清彦は綾子先生の指示で女子の集団から距離を置かされ、自分から離れた。
そんな清彦のことを追いかけて、双葉も女子の集団から離れていった。
その後、綾子先生の説明が終わり、状況がいったん落ち着いた。
二人を呼び戻すことになり、屋上の生き残りのメンバーの中で、清彦と親しい者はおらず、双葉とは直美が親しかった。
なので、直美が半ば志願する形で、二人を呼びにいった。
呼びに言った先で、なぜだか二人はいい雰囲気だった。
なので、邪魔しちゃ悪いと思って、二人に気づかれないように、そっとこっそり近づいた。
「そ、そんなたいしたことじゃないよ、さっきも言ったけど、俺は双葉さんのことを放っとけなかっただけだよ」
「ありがとう、私、入れ替わったのが、清彦くんでよかったわ」
えっ?
二人の会話の内容がおかしかった。
二人の会話の、お互いの外見と呼び名が逆だった。
それに会話の中の『入れ替わり』って、どこまで本当なの?
私はかつがれているんだろうか?
直美はそう思いかけて、即座にそれを否定した。
この非常時に、二人にそうする理由が無いし、それ以前に、今の会話を盗み聞きされているなんて気づいていない。
つまり、本音で本気で、今の話をしているんだろう。
じゃあ二人は本当に入れ替わっているの?
それならば、さっきから二人の(特に双葉の)様子がおかしかったことへの説明がつく。
だけど常識が邪魔をして、直美はそれを信じ切れなかった。
どこまで本当なんだろう?
結果、二人に声をかけられないまま、今の今までずるずるときてしまった。
というのが、直美から見ての経緯だった。
「それで本当のところはどうなの?
入れ替わったとかいう話が本当なら、そっちの男子が双葉で、あなたが清彦さんなの?」
「う、うん、そうだけど」
「でも、どう見てもあなたは双葉だし、そっちが双葉だといわれても、正直半信半疑なのよね」
「……」
そんな風に言われても、入れ替わりなんて、どう証明すればいいんだろう?
正直、入れ替わった当事者である俺自身でさえ、今の状況は半信半疑なのに。
俺は返事に困って返答できなかった。
そんな俺のかわりに清彦が、にっこり笑って返答をしてくれた。
「直美は私たちの身体が、入れ替わっていることを証明できれば、納得してくれるのね?」
「そうだけど」
「じゃあさ、直美は去年の学園祭のときのことを覚えている?」
「え、学園祭のときって……」
直美がだらだらと汗をながして慌て始めた。
「確かあのときのうちのクラス、一年一組は、メイド喫茶をやろうって話になったわよね? その時確か直美は……」
「わかった、悪かった、あなたは確かに双葉だわ」
「あら、まだろくに話していないのにいいの? これ以外にも直美のネタはまだあるのに」
「……その言い草で、あなたの中身が双葉だということがよくわかったわ」
黒歴史を暴かれてはたまらないと、直美は俺たちの入れ替わりを認めて、この話を一旦打ち切った。
「去年の学園祭で、何があったの?」
「興味があるなら、後で教えてあげるわ」
「教えなくていい、あなたも聞かないで、お願いだから!」
とりあえず、直美の過去話は封印ということになった。少し残念。
その後、放課後に俺たちの間に何があったのかを、清彦が直美に事情の説明をした。
階段で接触事故を起こし、一緒に転落したこと。
次に気がついて、階段の踊り場の鏡を見たら、俺たちの身体が入れ替わっていることに気づいたこと。
接触事故を再現したけども、元に戻れなかったこと。
そのあと屋上に行って、今後の話をした後、双葉のママに電話をしたこと。
その電話でのママの様子がおかしい、慌てて帰ろうとして、今回のゾンビ騒ぎで帰るにかえれなくなったこと、など。
感情を殺して淡々と話していたけど、だんだん感情がにじみ出てきてた。
やっぱりママのことが心配なんだろうな。
「そうか、そんなことがあったんだ」
それだけ言って、直美は考えこみはじめた。
「直美、それとお二人さんも、ちょっといいかな?」
「せ、聖羅さん」
俺たちに声をかけてきたのは、直美のソフトボール部の先輩の、聖羅(せーら)だった。
直美が俺たちを呼びに行ったけれど、なかなか帰ってこないので、今度は彼女が呼びに来たということだった。
「三人で何を話していたかは知らないけれど、そろそろ戻ってきて」
「はい、わかりました」
「待たせてすみません、今行きます」
そんな訳で、俺たちは綾子先生たちの集団に戻ることになった。
戻る途中で、直子が清彦に、なにやらこっそり耳打ちした。
何を言ったのかまではわからないけど、清彦の表情が少し和らいでいた。
そして何か一言、小声で直子に返していた。
そして次に、直子は今度は、俺に小声で話しかけてきた。
「話が中途半端になってごめんね、後でこっそり相談に乗るわね」
「あ、はい、ありがとうございます」
「んもう、他人行儀ね、あなたが私の知ってる双葉じゃないっていうのは本当なのね」
「あ、……すみません」
「そこは謝るところじゃないでしょ。でもまあ、しょうがないか」
俺は直美に呆れられた。
俺はそんな直美に恐縮していた。
「まあいいわ、でも、今のあなたは、女の子のこと何もわからないでしょ?」
「あ、はい、多分」
「女の集団の中で、上手くやっていく自信は?」
「……ないです」
「しょうがないわね、その辺は、私がフォローしてあげるわ」
「あ、ありがとうございます」
「だから、そういう所が他人行儀だっていうのよ、あなたは今は双葉なんだから、私にはもっとフレンドリーに接してくれてもいいのよ」
「すみません」
「もういいわよ」
とまあそんな訳で、直美が双葉としての俺のフォローをしてくれることになった。
そうこうしているうちに、俺たちは綾子先生たちの集団に戻ってきたのだった。
綾子先生たちと合流する直前に、俺たちは手前で待っていた綾子先生に呼び止められた。
そして俺たちが不在の間に決定したことが、綾子先生から伝えられた。
その決定の中に、今夜の班分けがあり、唯一の男子の清彦だけが、一人で隔離されることになっていた。
どうも一部の女子が、男子がすぐ近くで寝ることに不安を感じたせいでそう決まったらしい。
綾子先生が清彦に、申し訳なさそうに謝った。
「清彦くん、ごめんなさいね」
「いえ、いいですよ、おれが近くに居たら、不安になる子がいるのもわかりますし」
清彦は、さっきとは違って、今度は決定をあっさりと受け入れた。
さっきの俺とのやりとりで、心に余裕ができたからだろうか。
でも、その表情は、俺にはどこか寂しそうに見えた
「それなら俺、いやわたしが、今夜は清彦と一緒にいます」
俺はそう申し出た。
身体は男だけど、中身は女の子なんだ、双葉さんを一人きりになんてできないよ。
「双葉さん、気持ちはわかるけど、あなたを清彦くんと二人きりにするわけにもいかないわ」
まあ確かに、先生としては、男女で二人きりにするわけにもいかないのだろう。
「だったら私も、今夜はこの二人と一緒に居ます。それでも駄目でしょうか?」
「……直美」
「直美さん」
直美は渋る先生に、自分も一緒にいるからと、一緒に説得に加わってくれた。
そうだった、直美もおれたちの事情を、わかってくれているんだ。
直美は振り返って俺たちにウインクした。
なんだか嬉しかった。そして心強かった。
そしてもう一人。
「そういうことなら、今夜は私もこの子たちと一緒にいます。
私が責任を持って、この子たちのことを見ています。
それならどうでしょうか?」
聖羅先輩だった。
「……わかったわ、今夜はそうしましょう」
俺と直美、そして聖羅先輩の申し出もあり、綾子先生は折れた。
いや、少しだけほっとした表情をしていた。
綾子先生も本当は、清彦を一人で孤立させたくなかったんだろう。
「じゃあ聖羅さん、あとのことは年長者のあなたに任せます」
「はい、わかりました」
綾子先生は、ひとまず避難集団に戻っていった。
「聖羅先輩、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
「いいっていいって、私もちょっと思う所があったし、それにこっちのほうが面白しろそうだったしね」
それにしても聖羅さんか、なんだか頼りになりそうな人だ。
俺は第一印象で、この人に好感を持った。
「よろしくおねがいします」
「ふふ、こちらこそよろしくね、双葉さん、それに……清彦くんだったわね」
改めて俺たちと挨拶を交わしながら、聖羅さんはにっこりと笑った。
あれ、なんでだろう?
いい笑顔なのに、清彦を見つめる聖羅さんの表情が、肉食獣のように見えて、俺はなぜだか不安を覚えたのだった。
それでもどうにか状況が落ち着いてきたので、俺はほっとした。
ほっとして、緊張が緩んだせいだろうか、俺はトイレに行きたくなってきた。
……トイレ! 双葉さんの身体で、ど、どうしよう!!
「あの、わたし、トイレに行きたくなったんだけど……」
俺は遠慮がちに、清彦にそっとお伺いをたてた。
「トイレ? 行ってくればいいじゃない……って、あっ!!」
俺がこの身体でトイレに行くことが、どういうことなのか、清彦はようやく気づいて慌て始めた。
「だ、だめ~っ!」
「だめって何で?」
「そ、それは……」
俺たちの事情を知らない聖羅さんが、素で不思議そうに聞き返した。
「心配、そうおれは、双葉のことが心配なんです。何か変なことしないかって。
そうだ、だからおれが双葉についていってやります。そうすれば安全だ、そうすれば……」
ちょっと待てよ、俺が双葉の身体でトイレに行って変な事をしないか、清彦が元の自分の身体を心配するのはわかる。
だけど今の清彦は、自分が何を言っているのかわかっているのか?
男子が女子のトイレについていくといってるんだぞ、それじゃ俺が変態だと思われるじゃないか。
さらに実際にトイレに清彦がついて来たら、他の女子が清彦を警戒する理由を、正当化してしまうじゃないか。
清彦は混乱していて、そのことに気づいてない。
どうするつもりなんだよ。
案の定、聖羅さんがそんな清彦の返答に、なんだか呆れていた。
直美が額に手を当ててため息をつきながら、清彦を宥め始めた。
「私が双葉についていってあげるわ、だから安心して」
「で、でも……」
「清彦くん!! 私に任せて」
「あ、……わかった…わよ」
「わかってくれてうれしいわ」
直美は落ち着いた清彦に、さらに何か小声で一言話しかけて納得させた。
「じゃあ、私が仮設のトイレに案内するわね、双葉」
「……うん」
こうして俺は直美に案内されて、屋上の仮の女子トイレに行くことになったのだった。
「ここが仮の女子トイレよ」
仮の女子トイレは、さっきまで俺たちの居た場所の反対側に設定されていた。
物陰になる場所に、目印にと半分壊れた古い机も置いてあった。
そこの隅に、雨水の流れる排水溝があり、そこで用をすませるようにということだった。
「はい、バケツの水、終わったらこれで流してね」
「あ、ありがとう」
バケツの水は、屋上唯一の水道から運んできたものだった。
トイレに用のある子は、掃除用のバケツに水を汲んでもってきて、終わったらその水で流すように、とのことだった。
本当は俺が自分で持ってくるはずだったんだけど、バケツの水は俺が思っていたよりも重かった。
「く、重い、なんでだ?」
双葉さんの身体が清彦より非力で、思っていたより重く感じたからだった。
仕方が無いので、水を半分に減らそうとした。
「それなら私が持ってあげるわ」
と言って、非力な今の俺の代わりに、直美がここまで持ってきてくれたんだ。
あと、今はまだ関係ないが、大の場合は、その古い机に集めた古新聞が置いてあるので、
それにくるんでさらに隅のほうに集めて置くように、とも決められたとのことだった。
「それじゃ、私は少し離れた所で待っているから、何かあったら声をかけてね」
「わ、わかった」
「あと、今のあなたは女の子なんだから、終わった後、ティッシュで拭くのを忘れないようにね」
「……それもわかった」
「あと、双葉から釘を刺されているからわかっていると思うけど、変なことしちゃ駄目だからね」
「わかっているよ!!」
「あはは、それじゃごゆっくり」
俺をからかうようにそう言い残して、直美は少し離れた物陰へと移動したのだった。
「信用ないなあ、いやこの場合、信用してくれているのか?」
物陰に移動した直美は、俺に気を使って、こっちを見ないようにしてくれていた。
「とにかく早く終わらせよう……っ!」
身体を見下ろすと、意外に大きな胸が、俺の下半身への視界を遮っていた。
少し視線をずらすと、その下半身にスカートを穿いているのが見えた。
そのことで、今の俺が女の身体になっていることを、イヤでも意識させられた。
「俺、スカートを着けてるんだ」
今までこの格好で歩き回っていて、下半身がすーすーするのは感じていたけど、そのことを改めて自覚した。
俺はなんだかドキドキしながらスカートを捲り上げて、穿いていたパンツを引き下ろした。
パンツを下ろしたままの何もない俺の股間に、空気が触れてひんやりと感じていた。
ちんこがない!
今の俺は双葉さんの身体で、女の身体なんだから、ついてないのは当たり前、当たり前のはずなんだが、
なんだろう、この喪失感は?
今の俺は男じゃないんだ!
俺は女になったんだ!
と感じるより、
俺は男ではなくなったんだ!
と感じて、そのことのほうがショックだった。
おかげで気持ちがさめただろうか?
とにかく、これ以上余計なこと考えてないで、早く終わらせよう。
俺はそのまま排水溝のすぐ側にしゃがんだ。
(未完)
「清彦くん、私たち、これからどうしよう?」
俺の目の前にいる、長身だが少し頼りなげな男子生徒が、今にも泣きそうな表情で、俺にそう問いかけてきた。
「どうしようって、こうなったら元に戻れるまで、俺が双葉さんのかわりをするから、双葉さんが俺のかわりに清彦をするしかないよ」
今はこの学校の女子の制服に身を包まれている、女子生徒の姿の俺が、その男子生徒の問いかけにそう返した。
何が起きたのかって?
俺、山田清彦と、隣のクラスの白石双葉さんが、放課後に家に帰る直前に、階段の踊り場で接触事故。
この時、軽い接触だったはずなのに、なぜだかぐらっとして、まるで足元から世界がひっくり返ったようなショックをうけた。
「ううん、……もう、気をつけてよね!」
「なに言ってるんだよ、ぶつかってきたのはそっち……え、俺?」
「え、え、私? なんで目の前に私が?」
この階段のこの踊り場には、鏡が設置されていた。
ふとその鏡が目に入り、その鏡に映っている男女の姿、特に今の自分の姿を見て驚いた。
「なんだこりゃ、なんで俺、女になってるんだ?」
俺の身体は、俺にぶつかってきた、女子生徒の姿になっていたんだ。
「え、うそ、嘘よ! 何で私が、私にぶつかってきた男子になってるのよ!」
俺たちは、しばらくパニックに陥った後、俺たちの身の上に起きた現実をようやく認識した。
さっきの接触事故で、俺たちの身体が入れ替わってしまったんだと。
そしてその後、元の身体に戻れないか、何度か接触事故を再現して試したけれど、俺たちは元の身体にはもどれなかった。
身体が入れ替わってしまって、元に戻ることができない。
この後俺たちはどうすればいいのか?
その話し合いをするために屋上に移動したんだけど。
「わかっている、わかっているけど、でも私、やっぱりこんなの嫌だよ」
「嫌だっていわれても、何度試しても戻れなかったんだから、どうしようもないだろ」
「だって、だって……私、やっぱり元の双葉に戻りたい、私のおうちに帰りたいよ」
俺は半泣きな、元の俺の身体の双葉さんを宥めながら、
『うう、俺のほうこそ泣きたいよ、こんな事になっちまって、本当にどうすればいいんだよ!』
と、途方にくれていた。
こんなことにならなければ、俺も双葉さんもとっくに下校して、家路についていただろう。
すごく皮肉なことに、そのおかげで俺たちは命が助かっただなんて、この時は思いもよらなかった。
このとき学校のすぐ外では、俺たちの身の上に起きた事とは比較にならない、大きな厄災がおきていたんだ。
そんな調子で無駄に時間を浪費しながら、それでも今後の方針がどうにかまとまった。
ひとまず今日のところは、俺が双葉さんとして双葉さんの家に帰り、双葉さんは清彦として俺の家に帰ることになった。
そのために今は、お互いに成りすますために必要最小限の情報交換を行い、お互いの要望を言いあったり、アドバイスをしたりした。
あと、それを徹底させるために、今からお互いのことは、身体の名前で呼び合うことになった。
「そういうことだから、よろしくね、ふたばさ……じゃなくて、清彦…くん」
「う、うん、双葉…………さん」
元の自分の身体を前に、元の自分の名前を呼ぶ、なんだかむずがゆくて変な気分だ。
俺以上に、双葉…じゃなかった清彦のほうが、なんだか嫌そうというか、抵抗が大きいようだ。
方針が決まったからといって、事態が改善されたわけではない。
むしろこれから、この厄介な現実と向き合わなきゃならない。
『なんかさっきの双葉さんの話しを聞いていたら、どうやら双葉さんはマザコ……母親っ子みたいだし、俺は双葉さんの家族、特に母親とうまくやっていけるんだろうか?』
そんなことを考えたら、ただでさえ重かった気がさらに重くなって、俺の口からは思わずため息がでた。
そんな現実から目をそらすように、俺は何気なく屋上の外を、そして下を見た。
なんだありゃ?
浮浪者みたいなふらふらした変な集団が、この学校の敷地内に入り込んでいて、部活でグラウンドに残っていた運動部員や顧問の先生たちと、小競り合いをしていた。
一部の生徒は雲の子を散らすように、その変な集団から逃げまわっていた。
小競り合いというより集団暴行?
集団鬼ごっこ?
いったい何事なんだ?
その光景に、俺は得体の知れない恐怖を感じた。
もっと状況をよく見てみようとして、
「清彦くん! ……じゃなかった、双葉さん!」
俺は清彦に呼び止められた。
「私のスマホを出して、帰りがこんなに遅くなっちゃって、ママが心配してるだろうから、一度電話してママを安心させなきゃ」
そんなわけで、今は俺の持ち物になった双葉のスマートフォンを取り出した。
「お、俺が話すのかよ」
「私も嫌だけど、仕方ないでしょ、今はあなたが双葉なんだから」
そんなわけで、俺が双葉の母親に、電話をかけることになった。
放課後に女友達と話をしていて、話に夢中になって遅くなった。
というエアシナリオを、清彦が即行で決め、口調と一緒に俺に指導した。
「わかったよ」
「もっと女の子らしい口調で」
「わかったわよ!」
なんか女言葉が照れくさくて、電話越しでも嫌な感じだな。
今からこれでは先が思いやられるな。
はあ、気が重い、とにかく今から、言われたとおりに双葉の母親に電話だ。
電話の呼び出し音がやたら長く感じる。
いや、実際に長い、なかなか出ない?
どうかしたのか、忙しくて手が離せないのか、とか思っていたらようやく出た。
「もしもし、ママ?」
俺は精一杯、女の子っぽい口調で電話に話しかけた。
「双葉、双葉なの! よかった、あなたは無事だったのね」
電話の向こうからは、双葉の母親らしき女性の、切羽詰った声が聞こえた。
「双葉、あなた今どこにいるの!!」
双葉の母親の、切羽詰ったただならぬ様子と勢いに、俺はついエアシナリオのことを忘れてた。
「今? 今は、学校の屋上にいるよ」
「ばか、打ち合わせと違うでしょ!」
「あ!!」
つい、本当のことを言ってしまった。
「そう、双葉は今は安全な所にいるのね、良かった、安心したわ」
だけど電話の向こうから流れてきたのは、双葉の無事にほっとした空気だった。
少なくとも、帰りが遅くなったことを、咎める様子は無かった。
「とにかく遅くなってごめん、すぐに帰るから」
「駄目、ここはもう危険なの、うちへ帰ってきては駄目よ!!」
「危険、危険って何が?」
「何がって……そう、双葉はまだ危険な目に、ゾンビに会ってないのね」
「ゾンビ? ゾンビって、映画なんかに出てくる動く死体の?」
「そうよ、そのゾンビよ」
双葉の母親のこの言葉に、一緒に切羽詰っていた俺の空気は一瞬緩んだ。
なんだ、双葉の母親は、冗談を言って俺を担いでいるのかと。
俺は双葉の母親と、まだ会ったことはないし、本当の親子ではない。
だけど、このまま双葉の母親が、「冗談よ」と言うのを、心のどこかで期待していた。
だけど、双葉の母親は、冗談だとは言ってくれなかった。
逆に、「危険が通り過ぎるまで、そのまま安全な屋上でやりすごしなさい」と、アドバイスされた。
さらに、「ママはもう、……ううん、ママのことは心配しなくてもいいから」とも言い残し、
そして最後にしんみりとした口調で、
「最後に双葉の声を聞けて嬉しかった。ママは双葉のこと、大好きだったわ。……あなたは幸せになってね」
それだけ言い残して、電話が切れたのだった。
なんだよ今のは、まるで別れの言葉じゃないか。
「ちょっとママ、今のはどういう意味よ! ママ、ママてばっ!!」
聞き耳立てて、電話の内容を一緒に聞いていた清彦が、俺からスマホを引ったくって、切れている電話に怒鳴った。
電話が切れていることに気づいて、改めて電話をかけなおした。
だけど、向こうで携帯の電源を落としたのか、もう電話がつながらなかった。
「すぐに家に帰る、今のはどういうことなのか、ママに問いただすわ。この姿だからって、遠慮なんかしてらんない。あなたも一緒に来てくれるわよね?」
「う、うん」
鬼気迫る表情で清彦に迫られて、俺はついうなずいた。
俺はそんな清彦の迫力に押されて、一緒に屋上の出入り口に向かった。
と、その時、
「早く、ここへ!」
屋上の出入り口の扉が開き、ジャージ姿の女の先生と運動部員らしい女子生徒が数名、この屋上に逃げ込んで来たのだった。
新たに屋上に来た先生や生徒たちに進路を阻まれて、俺たちは足止めを食らって下に降りられなかった。
それでも俺は、どうにか出入り口付近で、下に降りる階段の様子を見ることが出来た。
「なんだありゃ?」
階段をゆっくり、夢遊病患者みたいな人の群れが、うなり声を上げながら上って来ていた。異様な光景だった。
ついさっき、校内に侵入してきた、おかしな連中のことを思い出しだ。
この連中って、もしかして、双葉の母親の言っていたゾンビなのか?
ドアの出入り口付近で、下の様子を伺っていたジャージの先生が、こちらを振り返って言った。
「ここまで逃げてこられた子はこれだけ? 他に無事な子はもういないわね? これ以上はもう待っても無理だわ、急いでドアを閉めるわよ!」
ジャージの先生は指示を出しながら、一緒に上がって来た女子生徒と一緒に、急いでドアを閉めた。
「ちょっと待って、私たち下に降りたいんです。ドアを開けてください!」
そこで、清彦が閉められたドアの前で、ドアを開けてほしいと訴えた。
外見にあわせて、男言葉で話をするってことを、すっかり忘れておかまみたいな口調になっていたが、本人も回りも気にする余裕はなかった。
「ドアを開けてって、あなた何を言ってるの? 今の状況がわかってるの? そんなことできるわけないじゃないの!」
「で、でも、ママが、私のママが危ないんです。電話で危ない状態だって言ってた、だから早く帰ってママを助けないと!!」
「落ち着いて、あなたの事情はわかったけど、今は無理よ、とにかく今は落ち着きなさい!!」
「嫌! もういいわ、私だけでも……」
今の清彦は、もうふつうの精神状態ではなかった。
焦った表情で、ドアの前にいた女子生徒を引き剥がし、無理にドアをこじ開け開けようとした。
「落ち着きなさい馬鹿!!」
パシ―――ン!!
屋上にビンタの乾いた音が響いた。
先生にビンタされた頬を押さえながら、清彦は信じられない、って感じで、呆然とした表情をしていた。
少なくとも、ビンタをされて、焦った気持ちが霧散したようだった。
「無理して死んでも、あなたは自己満足でそれでいいかもしれない。でも今ここを開けたら、ここにいる他の子まで危険に晒すことになるのよ!!」
先生は呆然としたままの清彦見て、そして俺のほうを見て言った。
「あなた、彼の連れ? 彼が落ち着くまで、少し離れたところで見てあげていて」
「あ、はい」
「他の手の空いてる子は、ここを抑えるわよ」
「「「はい!」」」
俺は、呆然としたままの清彦を引っ張って、出入り口のドアから離れた。
ジャージの先生の指示で、俺は清彦の手を引いて、その場を離れた。
だけど清彦は、抵抗はしなかったけど、大人しく言うことを聞いてくれなくて、引きずるようにしてだった。
「なんでだよ、俺ってこんなに非力だったっけか、……あっ!」
そうだった、今の俺は女の双葉さんの身体で、清彦より身体が小さくて非力なんだった。
いや、女のほうが力が無いって知ってはいたけど、こんなに非力だなんて思ってなかったんだ。
俺はどうにか出入り口から少し離れた場所まで清彦を引きずってきて、そこで息を切らしてへたりこんだ。
『こんな状況なのに、こんな非力な身体になって、俺、これからどうなるんだ?』
俺は座り込んで息を整えながら、俺の心の中には、そんな不安が芽生えはじめていた。
その間に、屋上の出入り口に残った先生と、女子生徒たちは、出入り口に簡単なバリケードを築いた。
屋上に出る階段の上部の半分のスペースは物置になっていて、古い黒板やら机や椅子などが置いてあった。
それを使ってバリケードを築いたんだ。
もうこれで、扉の向こうにいるゾンビたち(?)も、簡単には入ってこられないだろう。
そして清彦も、もう簡単には下に下りられない。
さっきまで感情的だった清彦は、先生のビンタの後、少しの時間の経過で、今はある程度冷静さを取り戻した。
それでも未練があるのだろうか、さっきまでのように感情的に下に下りようとはしないけれど、
屋上の出入り口から少し離れたその場所に座り込んで、無言で出入り口の様子を見つめていた。
多分清彦もわかってるんだ、今から双葉の家に行ってももう間に合わない、もうどうにもならないって。
それにこのまま下に下りては命が危ない、今はここにいるほうが安全なのだということも。
だけど、そうだと理屈ではわかっていても、感情がそれを許さないんだろう。
双葉の家に、母親の無事を確かめに行きたいんだろう。
「ママ、……ごめんねママ……」
清彦は小さな声で、そうつぶやいていた。
そんな清彦を見ていたら、何でだか俺までたまらない気分になってきた。
俺の胸の奥が苦しかった。
なんなんだろう、俺の今のこの気持ちは?
俺はそんなよくわからない気持ちのまま、いつの間にか清彦を、無言でぎゅっと抱き締めていた。
清彦の顔が一瞬「えっ?」て驚いたような表情になり、でも暗かった表情を少しだけ緩ませて、そのまま俺に身を預けてきた。
なんだか俺、清彦を慰めることができた、清彦に頼られた、みたいに感じて嬉しかった。
なんだか俺、そんな清彦が段々……。
「あー、あんたたち、こんな時間に何で屋上にいたのかって思っていたけど、そう言う関係だったの?」
冷やかすような声に、俺ははっと慌てて清彦から飛びのいて、
「ち、違う、そんなんじゃない!!」
と、慌てて咄嗟に否定していた。
誰、と思って見たら、声をかけてきたのは屋上に逃げてきた、女子のうちの一人だった。
陸上部のランニングシャツに短パン姿だから、ついさっきまで部活中だったんだろう。
なんかゴシップが好き、みたいな表情で、にひひと笑っていた。
なんだよ、せっかくいい感じだったのに、って違う違う、
いや、そういえば俺、今清彦に何をやっていたんだよ!!
正気に戻って、つい今まで清彦にしていたこと、感じていたことを思い出して、急に恥ずかしくなった。
違うんだこんなの俺じゃないんだと、イヤイヤしながら身悶えた。
そうこうしているうちに、先生や他の女子生徒も集まってきた。
どうやら屋上の出入り口を塞ぎ、一応安全が確保されたから、無事だった者を集めて、これからの話をするみたいだ。
「そこのあなた、確か二年三組の双葉さんだったわね」
え、この先生、双葉さんのことを知ってるの?
いや、生徒と先生だし、俺が関係を知らないだけで、二人が普通に知り合っていてもおかしくないか。
双葉さんが二年三組ってことを知ってるってことは、この先生は女子の体育の授業で見ていたってことなのか?
どの程度の関係だったのかまではわからないけど、今はアドリブで対応しておこう。
「はい、そうですが」
「さっきはその男子の面倒を見てくれてありがとう、助かったわ。どうやら落ち着いたみたいね」
「そうみたい……です」
「……はい」
「でも、今は非常時だからうるさくは言わないけど、あまり感心はしないわね」
うるさく言わない、とか言いつつこの先生、説教でもするつもりだろうか?
いや、でも、だから、俺たちはそんなんじゃないんだってば!
だがしかし、救いの手は、意外な方向から来た。
「綾子先生、彼氏に振られて今は独り者だからって、ひがんで八つ当たりなんかしないでくださいよ」
声の主は、ついさっき、俺たちの関係を冷やかした陸上部の女子だった。
「う、うるさいわね、そんなんじゃないわよ!! だいたい私が独り者かどうかなんて、関係ないでしょう!!」
なんだろうこの子、先生相手にそんな口を聞いて、思ったよりすごい子なんだな。
そしてそのおかげで、話がどんどん逸れていった。
「うう、私だって今度こそ、この人ならって思ってたのに、なのに……」
「ごめん、私こそ言いすぎました」
そしてそのせいで、周りの女子の先生を見る目が、かわいそうな人を見る目になっていた。
でもそのおかげで、俺たちが屋上に居た件はうやむやになった。
それからもうしばらくして落ち着いた後、今後の話し合いをすることになった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
そんな訳で、場の空気が落ち着いてから、仕切りなおして、改めて話し合いをはじめることになった。
屋上に居る全員が集まり、先生を中心に体育座りで半円形に座った。
「屋上に逃げてきた子はこれで全員ね、私を含めて九人か…………」
先生はここにいる全員の顔を見回しながら、一瞬沈痛な表情になり、頭を振って真剣な表情に改めた。
「お互いに顔見知りって子もいるだろうけど、初対面の子もいるみたいね、だから自己紹介からはじめるわね、まず私から」
ジャージ姿のこの女性教師は、綾子先生(28)
保健体育の担当で、陸上部の女子の顧問もしている。
綾子先生は、この学校の半分のクラスの女子の体育の授業も担当していて、
後で知った話だと、双葉が一年生の時に、この先生の体育の授業を受けていたらしい。
それで綾子先生は、双葉の名前を覚えていたんだな。
もっとも男子だった俺は、この先生の指導を受けたことが無い。
だから俺は、この先生の顔と名前は知っていても、どういう先生なのかまではよく知らなかった。
そのせいで後でぼろが出なきゃいいんだけど。
あと、結構美人で、スタイルもいいので、一部の男子には人気があったみたいだ。
体育会系は俺の好みじゃなかったから、俺は注目していなかったけど、こうしてま近で見ると、確かに美人な先生だ。
それはともかく、今回は綾子先生が、たまたま女子部員の指導でグラウンドにいたときに、ゾンビ騒動に巻き込まれた。
グラウンドにいた男子サッカー部や、陸上部の男子など、運動部の男子が、外から進入してきた集団に対応して襲われたのを見たときに、直感的にやばいと感じたらしい。
綾子先生は咄嗟に近くにいた女子部員や他の運動部員に、校舎内に逃げ込むように指示を出した。
ここにいる女子は、そのおかげでここに逃げ込めて、助かった子たちだった。
あと、ここに座っている生徒八人は、綾子先生から見て半円形に時計回りで、
恵梨香(18)三年生、女 陸上部
由香里(17)二年生、女 陸上部
小麦 (15)一年生、女 陸上部
美雪 (16)一年生、女
聖羅 (18)三年生、女 ソフトボール部
直美 (17)二年生、女 ソフトボール部
双葉 (16)二年生、女
清彦 (17)二年生、男
の順番で座っていた。
そしてその順番で、顔を見せて、名前と学年を紹介する程度の、簡単な自己紹介をはじめることになった。
俺は他の子の自己紹介を聞きながら、自分の自己紹介をどうしようかと迷った。
今の俺は、身体は双葉さんで、心は清彦で、普通に考えたら、身体の名前の、双葉と名乗るべきなんだろう。
だけど、ただそれだけのことなのに、なぜだか改めて双葉と名乗ることに、心理的に大きな抵抗を感じていたんだ。
改めて考えてみれば、俺が双葉さんと入れ替わってから、まだ二時間も経っていないんだ。
あれから清彦の身体に入れ替って泣いていた双葉さんを宥めたり、ゾンビ騒ぎがあったりと、
そうか、俺自身が入れ替わりのことで悩んだりする余裕がなかっただけで、まだ気持ちが割り切れていないんだ。
だからといって、この身体で清彦と名乗るのもおかしな話だし、本当にどうしようか?
俺の自己紹介の順番が、後のほうでよかった。
ほんの少しだけど、気持ちを整理する余裕ができた。
だけど、ぐずぐずしているうちに、隣の子の自己紹介が終わり、俺の順番が来た。
もう悩んでいられない、俺はゆっくり立ち上がった。
立ち上がる時に、緊張からだろうか?
スカートがひらりとする感覚、
髪が頬や首筋にかかる感覚、
胸が揺れる感覚などが、なぜか敏感に感じた。
まるでこの身体が、男の清彦ではなく、女の双葉なんだよと、俺に主張しているように感られた。
俺は覚悟を決めた!
「わ、わたしは、二年三組の双葉です。今はこんな状況で、何をどうしていいのかわからないけど、がんばります」
言えた、みんなの前で、双葉だと名乗ってしまった。
名乗った以上、俺は双葉としてやっていくしかないんだ。
この瞬間、俺の中で何かがすとんと腑に落ちた。
後で落ち着いてから振り返ってみて思う。
この混乱の中で、俺はこの時から、双葉としての人生の再スタートを切っていたんだと。
どうにか自己紹介をすませて、緊張が解けた俺は、そのままその場にすとんと座った。
「なにやってんのよ双葉、それじゃスカートの中が、丸見えだよ!」
先に自己紹介をすませて、俺の隣に座っていた直美が、小声で俺に注意してきた。
「えっ? あわわっ!」
つい油断して、俺は男だった時みたいに、脚を半開きして座っていた。
俺は急に恥ずかしく感じて、慌てて内股に脚を閉じて、スカートのすそを抑えた。
まずい、こんなのを清彦(双葉さん)に見られたら……、
やっぱり見られてた、なんだか表情が少し怖かった。
怒っているのかな、やっぱり。
「あはは、ついうっかり」
俺は笑ってごまかした。
「ドジっ子ブリッ子なんて、らしくないよ双葉」
と言いながら、隣の直美がくすくすわらった。
あれ、直美って、さっきからなんか俺に気安くない?
もしかして、双葉さんと知り合い?
最後に、清彦の順番が来て、自己紹介をはじめた。
「二年二組の清彦です。よろしく」
あまり感情のこもらない表情と声で、あっさり素っ気無く、清彦は自己紹介を終わらせた。
それでもまあ、余計なことを言わずに、無事に清彦の自己紹介を終わらせてくれてほっとした。
清彦、いや双葉さんは、母親の安否のことが気になるのか、元気が無かった。
さっきまでの俺のように、入れ替わりのせいで、アイディンティティのことで悩んでないだろうかとも心配だった。
それでなくとも清彦は、この女ばかりの集団の中で、この場に一人だけいる男、存在が浮いていた。
そのうえ、彼女たちが屋上に逃げ込んできたときに、下に降りる降りないで、結果的にトラブルを起こしていた。
だからなのか、清彦はこのときも、一部の女子からきつい視線を受けていた。
本当だったら女なのに、今は男扱いされて、母親の安否も不明。
今の清彦(双葉)の心情は、どうなんだろうか?
後で話し合わなきゃな。
「それじゃ、一通り自己紹介も終わったし、今後の方針について話し合いましょう」
綾子先生の主導で、改めて今後の話し合いが始まった。
「私たちは屋上での安全は確保できたけど、このままここに立てこもるだけでいい?」
「いいわけないです。ここには水も食べ物もないし、このままじゃここにいてもジリ貧です!」
「じゃあどうすればいい?」
てな感じで、話し合いが進められた。
俺は話しに参加しないで、聞き役に徹していたけど、
綾子先生は、まずは生徒に意見を言わせて、その子を褒めたり乗せたりして、話を引き出した。
そのうえで、先生自身が要所では納得できる情報や意見をだして、
うまくみんなが納得できるように話を誘導したりして、意見をまとめて、さすがだなって思った。
なるほど、この先生のおかげで、ここにいるみんなが助かったというのも納得できる。
「はあ、屋上に家庭菜園とか、循環システムとか、ソーラーパネルとか、あったら良かったのに」
「そんな都合の良いものが、学校の屋上にあるわけないでしょ」
そう言う意見には、みんなで苦笑した。
「まあ、たしかにそういうものはないけど、でもこの学校にはひとつ、ご都合主義なものがあるわよ」
「ご都合主義なものって?」
「この学校は、この地区の災害時の避難所に指定されているのは、みんなも知っているわね」
「そう言われてみれば……」
「たしか、地震なんかのときの、避難所なんですよね」
「そうよ、そしてこの学校には、約千人の避難民が、三日すごせるだけの災害避難物資が備蓄してあるのよ」
みんなその話に食いついた。
たしかにご都合主義だが、この状況では大きな希望だった。
後で調べたら、実際にはそこまで大量の物資が備蓄されていたわけではなかった。
物資を備蓄するスペースの関係と、何よりも予算の都合で、予定よりも備蓄が少なかった。
何年か時間をかけて、少しづつ備蓄する物資を増やしていく予定だったらしい。
それでも、地震などで想定された千人単位の避難民ではなく、十人にも満たない集団が、当面食いつなぐには十分な分量でもあった。
それはともかく、話し合いの結果、当面の目標が決まった。
まずはこの屋上を脱出して、校舎内の一部を取り戻す。
災害用の物資を確保して、自分たちが生き残るすべを確保する。
そのための作戦も話し合われて、大雑把ながらも作戦が決められた。
外からの救助を待つにせよ、自力でなんとかするにせよ、その後から考えることだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
話し合っているうちに、辺りが薄暗くなってきた。
今からでは無理は出来ない、今は身体を休めて体力を温存しておいて、実際に作戦を行うのは、明日、明るくなってから、ということになった。
「あのぉ、先生、わたし、トイレに行きたいんですけど……」
「今夜寝る場所をどうしましょう?」
「……おなかが空いた」
だけど問題は山積みだった。
ここにいるメンバーは、俺と清彦以外は、ゾンビに追われて逃げてきた者ばかりだった。
だから、何も荷物をもっていなかった。
それどころか、陸上部員やソフト部員は、部活中だったので、ランニングシャツやユニフォーム姿のままだ。
だけど俺たちは、帰宅直前に入れ替わり、ゾンビに追われたわけではなく、自分でここに来た。
だからスクールバッグの荷物を持っていたんだ。
「あなたたち、飴玉でもスナック菓子でも、何でもいいから持っていない?」
先生の指示で、俺はスクールバッグの中を開けてみた。
俺、弁当は食ってしまったし、お菓子なんかもってきてなんて……あった!
バッグの中から、飴玉の袋と飲みかけのペットボトルのお茶が出てきた。
なんで? あ、そうか、これは俺のバッグじゃなくて、双葉さんのバッグだったんだ。
……双葉さんのバッグ、俺が勝手に開けた形だけど、良かったのだろうか?
今は非常時なんだし、先生の指示で開けたんだし、おまけに今は俺が双葉さんなわけだし、今はこれでよかったってことにしておこう。
あと、一年生の美雪ちゃんも、荷物を持っていて、バッグに飴とかチョコレートとか持ってきていた。
美雪ちゃんは、小柄で眼鏡をかけた大人しそうな女の子だ。
陸上部の友達の小麦ちゃんを待っていて、そこで今回の騒ぎに巻き込まれたんだといっていた。
綾子先生は、俺の差し出した飴と、美雪ちゃんの飴とチョコレートを集めて、公平に分配した。
「まず最初に、みんなで双葉さんと美雪さんに感謝しましょう。ありがとう」
「ありがとう双葉さん、美雪さん」
「ありがとう、助かったわ」
「ありがとう」
「あ、う、うん」
これは俺の手柄ではない。
本来は双葉さん、そして美雪ちゃんの手柄なんだ。
なのに俺がお礼を言われて、なんだかこそばゆかった。
「今はこれだけしかないから、みんな大事に食べてね。できれば今夜と明日の朝の二回にわけて食べることをお勧めするわ」
俺は先生のアドバイスにしたがって、飴やチョコを二つに分けて、まず今夜の分を味わって食べたのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
そして、現在一部の女子の切実な問題は、トイレだった。
当然のことながら、屋上にはトイレは無い。
だけどもう我慢できない、限界だという子が出始めていた。
それなら目立たないところで、こっそりすませればいいじゃん、
今はまだ男の感覚で、俺はそう思ったんだが、女子の場合は、そうは簡単にはいかないらしい。
まだ女に成りたてで、しかもまだトイレの経験の無い俺には、まだその辺の事情がわからないのだった。
「あ、あの、わたし予備のティッシュ持ってます」
と遠慮しがちに美雪ちゃん。
美雪ちゃんは、体質的に風邪を引きやすいとか、花粉症だとかで、ティッシュをつかう機会が多かったらしい。
なので、バッグの中には予備のポケットティッシュを多く持っていた。
一ダースのうちの、使っていない残り十一ものポケットティッシュ、
その予備のポケットティッシュを、綾子先生はさっそく持っていない女子に配った。
「ありがとう美雪ちゃん、助かるわ」
綾子先生も、他の女子も、美雪ちゃんのティッシュに大いに感謝していた。
そんな中、俺は思った。
『たかがティッシュで、そこまでおおげさな』
くどいようだが、この時点ではまだ女として経験の無い俺には、女にはこれが必要なことがわからなかったんだ。
俺がこの身でそれを体験して実感するのは、ほんのもう少し後の事なのだった。
で、肝心のトイレを、どこでどう済ますかなのだが。
「それについては考えてみたわ」
まず、屋上の出降り口の近くに、清掃用とかいう事で、一本だけ水道が通してあった。
「水道はまだ生きているわね。で、この清掃用のバケツに水を汲んで持っていくの」
「持っていくって、どこへですか?」
「あの隅っこの影になる辺りが、人目につかなくていいかなって考えてる、確か排水溝もあるはずだわ」
「なるほど、その水でそこに流すんですね」
「そうそう、終わったらここに戻ってきて、この水道で手を洗うのよ」
などと、綾子先生の相手をしているのは、陸上部の三年生の恵梨香さんだった。
陸上部の顧問と部員という関係だからなのだろうか、仲がいいのかぴったり息が合っていた。
恵梨香さん、さっきは恋人に振られたとか言って、綾香先生をからかっていたのにな、それくらい仲がいいってことなのか。
我慢の限界の子も居るし、後の説明はその場に移動して行うことになった。
なったのだが……。
「清彦くん、大変言いにくいのだけど、ここから先は女の子のプライバシーに関わってくるから、あなたには遠慮してほしいのよ」
「……わかりました」
「あとそうね、清彦くんは今後はこっち側には立ち入らないで、反対側ですませてほしいの」
「それもわかりました、ええわかってます。話はそれだけですね」
清彦は、さっきまでポーカーフェイスで対応していたのに、今は少し苛立っていた。
「ええ」
「じゃあおれは、今のうちに反対側を見てきますね」
それだけ言い残して、清彦はさっと背を向けて女子とは反対側へ歩いていく。
俺にはその背中が、すごく寂しそうに見えた。
「それじゃ、私たちも行くわよ」
綾子先生は、残りの女子を引き連れて、屋上の隅へと歩き始める。
だけど俺は……このまま清彦を、ううん双葉さんを放っておけない。
「彼が心配なので様子を見てきます」
「ちょっと双葉さん!」
「双葉、先生の説明を聞かなくていいの?」
先生の呼び止める声と、誰かが俺に確認する声が聞こえるた。
「後で教えて!」
それだけ言い残して、俺は清彦の後を追った。
「まって清彦、ううんまってよ双葉さん!」
追いかけていった少し先に、清彦はぽつんと一人で佇んでいた。
「あら、なんでこっちに来たの、『双葉』さん」
清彦はゆっくり振り返りながら返事をした。
「女子はあっちでしょ」
その言い草に、俺にたいしても、軽く拒絶をしているように感じた。
「俺、双葉さんのことが心配で、追いかけてきたんだ。なんか双葉さんを放っとけなくてさ……」
「何言ってるの、『双葉』はあなたでしょう? 今の私…おれは男の『清彦』なんだから」
今の清彦は、俺には自分のことを禄に見てもらえなくて、拗ねた子供のように見えた。
だってその顔は、その言葉とは裏腹に、今にも泣きそうな顔だったから。
やっぱり放っておけないよ。
「違うよ、本当の双葉さんはあなたで、あなたは本当は女の子なんだって、俺は、俺だけは知ってるよ」
下手な慰めなんて、何を言ってもかえって清彦を傷つけるような気がして、だけど言わずにはいられなくって。
「うるさい、もういいから、私のことなんか放っておいて!!」
だけど案の定、清彦を怒らせて、気が付いたら俺は突き飛ばされていた。
「ご、ごめんなさい、私、軽く突き放しただけのつもりだったのに……」
「いてて……、ううん、だ、大丈夫だよ、なんともないから」
なんて言葉とは裏腹に、俺はど派手にひっくり返りながら、尻餅をついて痛むお尻をさすった。
双葉さんは、男の清彦の身体の、力加減がわからなかったんだろう。
そして俺も、小突かれるくらいは覚悟していたつもりだったけど、なのに全然対応できなかった。
男と女の力の差は、お互いの認識以上に大きかったんだ。
「あー、脚閉じてよ、中が丸見えよ!」
「え? わわっ!!」
言われて俺は、あわてて脚を内股に閉じた。
スカートの裾も押さえながら、なんでこのスカートは、こんなに短いんだよ、と思った。
なんか妙にこっ恥ずかしい気持ちになって、なぜだか俺の顔は赤くなっていた。
そして、そんな俺を見つめながら、清彦の顔も赤くなっていた。
「ど、どこを見てるんだよ!」
「ご、ごめん!!」
俺の怒鳴り声に、清彦は顔を赤くしながら、慌てて視線を逸らせた。
……あれ? 俺たちの男女の立場って?
なんかさっきまでとは別な意味で、微妙な空気になっていた。
かといって、気まずい気分なのを認めたくないし、こんな格好で座りっぱなしなのも何だし、俺はそっと立ち上がる。
「あ、手を貸すわ」
「ありがと……」
俺は素直に、差し出された清彦の手をとった。
俺を引っ張りあげる清彦の手は大きくて、そして力強かった。
「さっきはごめんなさい」
何に対してごめんなさいなんだろう、でも今はそんな事よりも、双葉さんが素直になってくれた事のほうが嬉しい。
「いいよ、俺は気にしていないから」
「ありがとう、『清彦』くんは優しいんだね」
「そ、そんなことねえよ」
「ううん、『清彦』くんが追いかけて来てくれて、私、本当は嬉しかったんだ」
すっかり憑き物が落ちたような、素直な真顔で清彦にそう言われて、俺はどぎまぎした。
そして、俺はなんだかすごく照れくさかった。
「そ、そんなたいしたことじゃないよ、さっきも言ったけど、俺は双葉さんのことを放っとけなかっただけだよ」
「ありがとう、私、入れ替わったのが、清彦くんでよかったわ」
「俺はイヤだな」
「え、なんで、清彦くんは私じゃイヤなの?」
「いや、そうじゃなくてさ、双葉さんとは入れ替わりなんてなしでさ、普通に出会いたかったな、なんて思ってさ」
もちろん今回のゾンビの騒ぎもなしで、双葉さんとは普通に出会って、普通に仲良くなりたかったんだ、ってね。
「やっぱりこんなかわいい女の子とはさ、男として仲良くなりたいじゃん、いくらかわいいったって、俺が女になったんじゃ意味ないじゃん!」
「そんな理由で、……くすっ、うふふ、あはははは……」
俺の真顔での返答に、清彦は笑い出した。
俺も釣られて笑い出して、しばらく二人で一緒に笑ったのだった。
俺たちは、屋上の金網のフェンスにもたれかかりながら、並んで立っていた。
俺は清彦の顔を、見上げる形で見つめていた。
清彦はそんな俺の顔を、優しい表情で見つめ返していた。
俺って、思っていたよりも背が高いんだな。
それに俺の顔って、平凡な顔立ちだと思っていたけど、こうして見てみると、結構いけてるんだな。
なんか俺の胸がドキドキしてる。
ちょっと待て、俺が俺の顔を見て胸がドキドキって、俺は何を考えてんだよ!
俺はホモでもナルシストでもねえんだぞ!
ありえねえだろ!!
俺は清彦から視線を逸らしながら、慌ててぶんぶんと頭を振った。
そしてもう一度、清彦に視線を戻して気がつく。
清彦はもう俺ではなく、別のところを見つめていた。
清彦が俺を見ていない?
その事へのがっかり感と、なぜだかそれ以上の怒りがこみ上げてきた。
俺の事を見ないで、いったいどこ見てるんだよ!
「……直美」
「えっ?」
「あはは、や、やあ」
その視線の先には、ソフトボールのユニフォーム姿の直美がいた。
なんで直美がここに?
「そろそろいいかなって、二人を呼びに来たんだけど……」
「私たちの話、どこから聞いていたの?」
清彦が厳しい表情で、直美を問い詰めた。
え、どこからって、もしかして直美に、俺たちの話を聞かれていた?
「あなたが『入れ替わったのが、清彦くんでよかったわ』って言っていたあたりから、かな」
え、そこから聞かれていたの!!
直美と双葉は、この高校に入学した一年生のときに同じクラスになり、そこではじめて知り合った。
で、クラスメイトとして、わりと早くから親くなったらしい。
とはいうものの、文科系の双葉と、運動部の直美は、生活のサイクルが違っていて、それ以上の交流はなく、
二年生になった時に、双葉が三組、直美が一組にクラスが分かれて、直接の交流は無くなった。
もっともこれは、後で二人から聞いた話で、今の時点では俺は二人の関係は知らなかった。
だから直美は屋上で出会った双葉、つまり俺に親しげに声をかけた。
なのに、なぜか反応が鈍かったんで怪訝に思った。
ただ、この非常時だし、双葉も精神的に余裕が無かったのかもしれないと思い直し、
その時は深く追求はしなかったのだ、ということだった。
そしてついさっきの一件で、清彦は綾子先生の指示で女子の集団から距離を置かされ、自分から離れた。
そんな清彦のことを追いかけて、双葉も女子の集団から離れていった。
その後、綾子先生の説明が終わり、状況がいったん落ち着いた。
二人を呼び戻すことになり、屋上の生き残りのメンバーの中で、清彦と親しい者はおらず、双葉とは直美が親しかった。
なので、直美が半ば志願する形で、二人を呼びにいった。
呼びに言った先で、なぜだか二人はいい雰囲気だった。
なので、邪魔しちゃ悪いと思って、二人に気づかれないように、そっとこっそり近づいた。
「そ、そんなたいしたことじゃないよ、さっきも言ったけど、俺は双葉さんのことを放っとけなかっただけだよ」
「ありがとう、私、入れ替わったのが、清彦くんでよかったわ」
えっ?
二人の会話の内容がおかしかった。
二人の会話の、お互いの外見と呼び名が逆だった。
それに会話の中の『入れ替わり』って、どこまで本当なの?
私はかつがれているんだろうか?
直美はそう思いかけて、即座にそれを否定した。
この非常時に、二人にそうする理由が無いし、それ以前に、今の会話を盗み聞きされているなんて気づいていない。
つまり、本音で本気で、今の話をしているんだろう。
じゃあ二人は本当に入れ替わっているの?
それならば、さっきから二人の(特に双葉の)様子がおかしかったことへの説明がつく。
だけど常識が邪魔をして、直美はそれを信じ切れなかった。
どこまで本当なんだろう?
結果、二人に声をかけられないまま、今の今までずるずるときてしまった。
というのが、直美から見ての経緯だった。
「それで本当のところはどうなの?
入れ替わったとかいう話が本当なら、そっちの男子が双葉で、あなたが清彦さんなの?」
「う、うん、そうだけど」
「でも、どう見てもあなたは双葉だし、そっちが双葉だといわれても、正直半信半疑なのよね」
「……」
そんな風に言われても、入れ替わりなんて、どう証明すればいいんだろう?
正直、入れ替わった当事者である俺自身でさえ、今の状況は半信半疑なのに。
俺は返事に困って返答できなかった。
そんな俺のかわりに清彦が、にっこり笑って返答をしてくれた。
「直美は私たちの身体が、入れ替わっていることを証明できれば、納得してくれるのね?」
「そうだけど」
「じゃあさ、直美は去年の学園祭のときのことを覚えている?」
「え、学園祭のときって……」
直美がだらだらと汗をながして慌て始めた。
「確かあのときのうちのクラス、一年一組は、メイド喫茶をやろうって話になったわよね? その時確か直美は……」
「わかった、悪かった、あなたは確かに双葉だわ」
「あら、まだろくに話していないのにいいの? これ以外にも直美のネタはまだあるのに」
「……その言い草で、あなたの中身が双葉だということがよくわかったわ」
黒歴史を暴かれてはたまらないと、直美は俺たちの入れ替わりを認めて、この話を一旦打ち切った。
「去年の学園祭で、何があったの?」
「興味があるなら、後で教えてあげるわ」
「教えなくていい、あなたも聞かないで、お願いだから!」
とりあえず、直美の過去話は封印ということになった。少し残念。
その後、放課後に俺たちの間に何があったのかを、清彦が直美に事情の説明をした。
階段で接触事故を起こし、一緒に転落したこと。
次に気がついて、階段の踊り場の鏡を見たら、俺たちの身体が入れ替わっていることに気づいたこと。
接触事故を再現したけども、元に戻れなかったこと。
そのあと屋上に行って、今後の話をした後、双葉のママに電話をしたこと。
その電話でのママの様子がおかしい、慌てて帰ろうとして、今回のゾンビ騒ぎで帰るにかえれなくなったこと、など。
感情を殺して淡々と話していたけど、だんだん感情がにじみ出てきてた。
やっぱりママのことが心配なんだろうな。
「そうか、そんなことがあったんだ」
それだけ言って、直美は考えこみはじめた。
「直美、それとお二人さんも、ちょっといいかな?」
「せ、聖羅さん」
俺たちに声をかけてきたのは、直美のソフトボール部の先輩の、聖羅(せーら)だった。
直美が俺たちを呼びに行ったけれど、なかなか帰ってこないので、今度は彼女が呼びに来たということだった。
「三人で何を話していたかは知らないけれど、そろそろ戻ってきて」
「はい、わかりました」
「待たせてすみません、今行きます」
そんな訳で、俺たちは綾子先生たちの集団に戻ることになった。
戻る途中で、直子が清彦に、なにやらこっそり耳打ちした。
何を言ったのかまではわからないけど、清彦の表情が少し和らいでいた。
そして何か一言、小声で直子に返していた。
そして次に、直子は今度は、俺に小声で話しかけてきた。
「話が中途半端になってごめんね、後でこっそり相談に乗るわね」
「あ、はい、ありがとうございます」
「んもう、他人行儀ね、あなたが私の知ってる双葉じゃないっていうのは本当なのね」
「あ、……すみません」
「そこは謝るところじゃないでしょ。でもまあ、しょうがないか」
俺は直美に呆れられた。
俺はそんな直美に恐縮していた。
「まあいいわ、でも、今のあなたは、女の子のこと何もわからないでしょ?」
「あ、はい、多分」
「女の集団の中で、上手くやっていく自信は?」
「……ないです」
「しょうがないわね、その辺は、私がフォローしてあげるわ」
「あ、ありがとうございます」
「だから、そういう所が他人行儀だっていうのよ、あなたは今は双葉なんだから、私にはもっとフレンドリーに接してくれてもいいのよ」
「すみません」
「もういいわよ」
とまあそんな訳で、直美が双葉としての俺のフォローをしてくれることになった。
そうこうしているうちに、俺たちは綾子先生たちの集団に戻ってきたのだった。
綾子先生たちと合流する直前に、俺たちは手前で待っていた綾子先生に呼び止められた。
そして俺たちが不在の間に決定したことが、綾子先生から伝えられた。
その決定の中に、今夜の班分けがあり、唯一の男子の清彦だけが、一人で隔離されることになっていた。
どうも一部の女子が、男子がすぐ近くで寝ることに不安を感じたせいでそう決まったらしい。
綾子先生が清彦に、申し訳なさそうに謝った。
「清彦くん、ごめんなさいね」
「いえ、いいですよ、おれが近くに居たら、不安になる子がいるのもわかりますし」
清彦は、さっきとは違って、今度は決定をあっさりと受け入れた。
さっきの俺とのやりとりで、心に余裕ができたからだろうか。
でも、その表情は、俺にはどこか寂しそうに見えた
「それなら俺、いやわたしが、今夜は清彦と一緒にいます」
俺はそう申し出た。
身体は男だけど、中身は女の子なんだ、双葉さんを一人きりになんてできないよ。
「双葉さん、気持ちはわかるけど、あなたを清彦くんと二人きりにするわけにもいかないわ」
まあ確かに、先生としては、男女で二人きりにするわけにもいかないのだろう。
「だったら私も、今夜はこの二人と一緒に居ます。それでも駄目でしょうか?」
「……直美」
「直美さん」
直美は渋る先生に、自分も一緒にいるからと、一緒に説得に加わってくれた。
そうだった、直美もおれたちの事情を、わかってくれているんだ。
直美は振り返って俺たちにウインクした。
なんだか嬉しかった。そして心強かった。
そしてもう一人。
「そういうことなら、今夜は私もこの子たちと一緒にいます。
私が責任を持って、この子たちのことを見ています。
それならどうでしょうか?」
聖羅先輩だった。
「……わかったわ、今夜はそうしましょう」
俺と直美、そして聖羅先輩の申し出もあり、綾子先生は折れた。
いや、少しだけほっとした表情をしていた。
綾子先生も本当は、清彦を一人で孤立させたくなかったんだろう。
「じゃあ聖羅さん、あとのことは年長者のあなたに任せます」
「はい、わかりました」
綾子先生は、ひとまず避難集団に戻っていった。
「聖羅先輩、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
「いいっていいって、私もちょっと思う所があったし、それにこっちのほうが面白しろそうだったしね」
それにしても聖羅さんか、なんだか頼りになりそうな人だ。
俺は第一印象で、この人に好感を持った。
「よろしくおねがいします」
「ふふ、こちらこそよろしくね、双葉さん、それに……清彦くんだったわね」
改めて俺たちと挨拶を交わしながら、聖羅さんはにっこりと笑った。
あれ、なんでだろう?
いい笑顔なのに、清彦を見つめる聖羅さんの表情が、肉食獣のように見えて、俺はなぜだか不安を覚えたのだった。
それでもどうにか状況が落ち着いてきたので、俺はほっとした。
ほっとして、緊張が緩んだせいだろうか、俺はトイレに行きたくなってきた。
……トイレ! 双葉さんの身体で、ど、どうしよう!!
「あの、わたし、トイレに行きたくなったんだけど……」
俺は遠慮がちに、清彦にそっとお伺いをたてた。
「トイレ? 行ってくればいいじゃない……って、あっ!!」
俺がこの身体でトイレに行くことが、どういうことなのか、清彦はようやく気づいて慌て始めた。
「だ、だめ~っ!」
「だめって何で?」
「そ、それは……」
俺たちの事情を知らない聖羅さんが、素で不思議そうに聞き返した。
「心配、そうおれは、双葉のことが心配なんです。何か変なことしないかって。
そうだ、だからおれが双葉についていってやります。そうすれば安全だ、そうすれば……」
ちょっと待てよ、俺が双葉の身体でトイレに行って変な事をしないか、清彦が元の自分の身体を心配するのはわかる。
だけど今の清彦は、自分が何を言っているのかわかっているのか?
男子が女子のトイレについていくといってるんだぞ、それじゃ俺が変態だと思われるじゃないか。
さらに実際にトイレに清彦がついて来たら、他の女子が清彦を警戒する理由を、正当化してしまうじゃないか。
清彦は混乱していて、そのことに気づいてない。
どうするつもりなんだよ。
案の定、聖羅さんがそんな清彦の返答に、なんだか呆れていた。
直美が額に手を当ててため息をつきながら、清彦を宥め始めた。
「私が双葉についていってあげるわ、だから安心して」
「で、でも……」
「清彦くん!! 私に任せて」
「あ、……わかった…わよ」
「わかってくれてうれしいわ」
直美は落ち着いた清彦に、さらに何か小声で一言話しかけて納得させた。
「じゃあ、私が仮設のトイレに案内するわね、双葉」
「……うん」
こうして俺は直美に案内されて、屋上の仮の女子トイレに行くことになったのだった。
「ここが仮の女子トイレよ」
仮の女子トイレは、さっきまで俺たちの居た場所の反対側に設定されていた。
物陰になる場所に、目印にと半分壊れた古い机も置いてあった。
そこの隅に、雨水の流れる排水溝があり、そこで用をすませるようにということだった。
「はい、バケツの水、終わったらこれで流してね」
「あ、ありがとう」
バケツの水は、屋上唯一の水道から運んできたものだった。
トイレに用のある子は、掃除用のバケツに水を汲んでもってきて、終わったらその水で流すように、とのことだった。
本当は俺が自分で持ってくるはずだったんだけど、バケツの水は俺が思っていたよりも重かった。
「く、重い、なんでだ?」
双葉さんの身体が清彦より非力で、思っていたより重く感じたからだった。
仕方が無いので、水を半分に減らそうとした。
「それなら私が持ってあげるわ」
と言って、非力な今の俺の代わりに、直美がここまで持ってきてくれたんだ。
あと、今はまだ関係ないが、大の場合は、その古い机に集めた古新聞が置いてあるので、
それにくるんでさらに隅のほうに集めて置くように、とも決められたとのことだった。
「それじゃ、私は少し離れた所で待っているから、何かあったら声をかけてね」
「わ、わかった」
「あと、今のあなたは女の子なんだから、終わった後、ティッシュで拭くのを忘れないようにね」
「……それもわかった」
「あと、双葉から釘を刺されているからわかっていると思うけど、変なことしちゃ駄目だからね」
「わかっているよ!!」
「あはは、それじゃごゆっくり」
俺をからかうようにそう言い残して、直美は少し離れた物陰へと移動したのだった。
「信用ないなあ、いやこの場合、信用してくれているのか?」
物陰に移動した直美は、俺に気を使って、こっちを見ないようにしてくれていた。
「とにかく早く終わらせよう……っ!」
身体を見下ろすと、意外に大きな胸が、俺の下半身への視界を遮っていた。
少し視線をずらすと、その下半身にスカートを穿いているのが見えた。
そのことで、今の俺が女の身体になっていることを、イヤでも意識させられた。
「俺、スカートを着けてるんだ」
今までこの格好で歩き回っていて、下半身がすーすーするのは感じていたけど、そのことを改めて自覚した。
俺はなんだかドキドキしながらスカートを捲り上げて、穿いていたパンツを引き下ろした。
パンツを下ろしたままの何もない俺の股間に、空気が触れてひんやりと感じていた。
ちんこがない!
今の俺は双葉さんの身体で、女の身体なんだから、ついてないのは当たり前、当たり前のはずなんだが、
なんだろう、この喪失感は?
今の俺は男じゃないんだ!
俺は女になったんだ!
と感じるより、
俺は男ではなくなったんだ!
と感じて、そのことのほうがショックだった。
おかげで気持ちがさめただろうか?
とにかく、これ以上余計なこと考えてないで、早く終わらせよう。
俺はそのまま排水溝のすぐ側にしゃがんだ。
(未完)