俺は大正時代の女学生、一日目(プロトタイプ)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ここ清流女子学院は、明治末期に開校の女学校だ。
その三年一組の教室では、小袖にはかま姿の女学生たちが、午後の授業を受けていた。
やがて授業の終了の時間が来て、教室の外から終了時間を告げる風鈴の音が、チリンチリンと聞こえてきた。
それを合図に、一組の級長である俺が、「おジャンでございます」と掛け声をかけると、教室内で拍手が起こり、今日の授業は無事に終わった。
俺はほっと一息ついたのだった。
(大正時代の女学生たちの下校風景、イメージ)
あの日から一週間、俺はこの大正時代の野泉鈴音としての、この清流女子学院での生活にも、ようやく慣れてきていた。
後で振り返ってみて、あの時ああしていれば良かった。
こうしていれば良かった。
そう思うことはないだろうか?
あの日のことを思い返すと、いつもそう思う。
だって俺は、一週間前までは平成時代の男女共学、清流学院の男子生徒、檜山清彦だったのだから。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
清流学院は、現在では男女共学だが、過去を辿れば、明治の末期に創設された女子校だった。
現在の学院の敷地内には、鉄筋コンクリートの新校舎と、築百年以上前の木造の旧校舎の一部が併設されている。
もっとも旧校舎は、当時の貴重な洋風建築として、重要文化財だとかなんだとかで保存されている状態で、現在では使われていなかった。
基本的には、当時の歴史的な資料の展示など、資料館として使用されていた。
前置きが長くなったが、なぜわざわざこんなことを説明するのかというと、俺の事情を説明するためだ。
俺の名前は檜山清彦(17)、あの日までは、俺は清流学院に通う普通の男子高校生だったんだ。
現在では旧校舎は使われていないとはいっても、清掃は必要なので、掃除当番が割り振られていた。
そしてあの日は、俺の班が掃除当番だった。
「ちょっとまて、俺以外は誰も掃除当番に来ていないのかよ!」
他に当番だったやつらは、この日は部活があるだとか家の用事があるとかで、この時旧校舎に掃除に来ていたのは俺一人だったんだ。
まあ、普段使用していない建物だし、あまり汚れていないから、ここの掃除は楽といえば楽なんだけど、それでも来ているのが俺一人だけってのは面白くなかった。
「まあいい、さっさと終わらせて帰るか」
そんなわけで、俺は適当に掃除を始めたんだ。
一通り軽く掃除を済ませて、そろそろ掃除を切り上げようか、と思っていたところで、俺はふと気がついた。
いつも鍵がかかっていて開かない、開かずの扉と呼ばれているドアが、少しだけ開いていたんだ。
「あれ、どうしたんだ? あのドア開いているのか?」
それでも普段なら、気にも留めなかっただろう。
だけどこの日は俺一人で、他には誰もいない。中がどうなっているのか、少し興味がわいたんだ。
「ちょっとだけ、ちょっと覗くだけだ」
俺はそっとドアを開けて、部屋の中に滑り込んだ。
部屋の中には、年代物の家具だとか、古い黒板や木製の机や椅子、古い教材や資料などが、埃をかぶった状態で放置されていた。
「なんだ、こんなもんか」
俺はこの部屋への興味を失って、部屋の外に出ようとして、ふとあるものに気を引かれて目にとまった。
それは壁に掛けられた、装飾が立派な年代モノの大きな鏡だった。
さすがに年代モノの鏡は表面が曇っていて、物置状態のこの部屋と、ブレザーの制服姿の男子生徒、つまり俺が、辛うじてぼやけて映っている程度だった。
と、思っていたら次の瞬間、鏡が鈍く光りだした。
「えっ?」
と驚いた直後には、すでに光は収まった。
「何だったんだ今のは? えっ?」
曇っていたはずの鏡が、まるで新品の鏡のように、くっきりきれいに部屋の様子を映し出していた。
いや、どうも様子がおかしい。
だってこの部屋は、年代ものの古びた物置状態だったはずなのに、鏡に映っているのはまた真新しい整然とした部屋だったんだ。
そして何より、鏡には俺の姿が映っていなくて、俺のかわりに小振袖の着物に緋色のはかま姿の、少し小柄な少女の姿が映し出されていたんだ。
結構かわいい……じゃなくて!
この子は誰だ?
何で今時着物にはかま姿なんだ?
卒業式の時期ではないのにコスプレか?
いやそれ以前に、この部屋には、俺しかいなかったはずだ、この少女はいつの間にこの部屋に入ってきたんだ。
俺は驚いて慌てて振り返り、そして部屋の中を見回した。
だけどこの部屋は、埃っぽい雑然とした物置状態のままで、俺以外は誰もいなかった。
また鏡に視線を戻してみた。
鏡の中はきれいな部屋で、中の少女もきょろきょろ辺りを見回していて、俺とほぼ同時に視線をこちらに戻していた。
この時、俺と鏡の少女のお互いの視線が絡み合ったように感じた。
「きみは誰だ?」
俺は鏡の中の、はかま姿の少女に問いかけた。
ほぼ同時に、鏡の中の少女も、俺を指差しながら、口をぱくぱくさせて、俺に何かを問いかけているようだった。
だけど少女の声が聞こえないから、何を言われているのかまではわからなかったが、
俺のほうも少女から、「あなたは誰?」と、問いかけられているような気はした。
「何を言ってるのか、声が聞こえないぞ!」
俺はこのとき、不用意に鏡に近づいて、そして鏡に触れてしまった。
俺とほぼ同時に、はかま姿の少女も鏡に触れていた。
その瞬間、鏡の表面が、水滴が落ちたみたいに波立っていた。
「な、なんだこりゃ!」
と思う間もなく、俺は鏡の中に吸い込まれていくように感じながら気が遠くなった。
この時、俺の意識は誰かとすれ違い、
その直後に何かがくるっと反転したように感じながら、俺は一旦意識を失った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……あれ、俺はいったいどうしたんだ?」
次に気が付いたら、俺は例の鏡の前で、気を失って倒れていたんだ。
ぼんやりしながら身を起して、ふと不自然な周りの状態に気がついた。
ついさっきまで古道具や古い教材が雑然と置かれていた埃だらけの部屋が、きれいに整理整頓されていて、とうぜん埃もなくぴかぴかな状態だった。
というか、部屋の内装が、まだ建築されてからさほど間がない新しい状態だった。
「な、なんで……? え、俺の声が!?」
あわてて自分の身体を見下ろすと、俺は小袖の着物に緋色のはかまを身に着けていた。
これって、さっきの女の子の着ていた着物……なんでだ?
慌てて目の前の鏡を見てみると、さっきまで曇っていた鏡が、まるで新品の鏡ように今のこの部屋の様子を映し出していた。
なのにこの鏡には俺の姿は映っていなくて、かわりにさっきの女の子が、その鏡のなかで茫然とした表情を浮かべていた。
「えっ、これ、まさか、……俺?」
(鏡に映っていた着物にはかま姿の少女のイメージ画です)
俺はこの時は、まさか俺が鏡の中の女の子になっていて、大正時代にタイムスリップしているなんて、思ってもみなかったんだ。
そしてそんな現実を、いきなりは受け入れられなくて、俺は最初は現実逃避しまくっていた。
俺、いったいどうなっちまったんだ?
こんなの夢だよな?
ついさっき気を失った時から、この変な夢を見ていて、まだ夢から醒めていないんだ。
あはは、だけど夢にしちゃ、妙にリアリティが高いな。
それとも、たちの悪いドッキリか?
だとしたら人選ミスだよ、有名人でもない俺なんかハメたって面白くも何とも無いのにな。
だけどセットで作るにしちゃこの建物、すごく凝ってて豪華だよな。
どっかに隠しカメラでもあるのか?
仕掛け人はどこに隠れているんだよ!
いい加減に出てきて、種明かしでもしてくれよ!!
だけど、俺が夢から醒めることはなく、ドッキリの仕掛け人が現れることもなかった。
何よりもこの時点では、俺が大正時代に飛ばされているなんて事には、まだ気づいていない。
気づいていて意識させられたのは、俺の身体の変化だった。
俺の身体は、気を失う前に鏡に映っていた、女の子の姿に変わっていたんだ。
どんなに意識するまいと思っても、意識ぜずにはいられなかった。
もう一度鏡を見た。
鏡に映っているのは年齢は俺より少し年下の、中学生くらいの女の子だった。
まだ幼さの残る顔立ちはかわいいけれど、どこか凛とした気品のようなものが感じられた。
体つきは元の俺よりもずっと小柄で、肉付きも薄くて線が細かった。
そして何よりも、今時めずらしい、着物にはかま姿、この子は何かのイベントで、コスプレでもしていたのだろうか?
だけど問題なのはそういうことではなく、今の俺はこの女の子の姿になっているということだった。
身体の変化を否定しようとして、俺は自分の胸を触ってみた。
膨らみは小さいけれど、手のひらから感じた柔らかい感触はその存在感を示していた。
次に恐る恐る股間を触ってみた。
俺の股間からは、俺のちんこはなくなっていた。
ないナイ無い、俺のちんこがなくなってる!
見た目だけじゃない、身体も女になってる!
なんで、どうしてこうなった?
その原因は、鏡?
そうだ、あの鏡が怪しい。
あの鏡に触れて気を失って、目が覚めたらこうなっていたんだ。
だからきっとあの鏡のせいだ。
俺はまたあの鏡を覗き込んだ。
鏡には、今度は必死な表情になったあの女の子が映っていた。
もう一度この鏡に触れれば、元に戻れるかもしれない。
根拠のない期待を抱きながら、俺は恐る恐る鏡に触れてみた。
でも、今度はなにも起こらなかった。
なんでだよ!
なんでなにもおこらないんだよ!!
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「鈴音さん、野泉鈴音(のいずみすずね)さん、なかなか戻ってこないから心配しましたわ、いったいどうしたのですか?」
いきなり誰かに声を掛けられて、俺ははっと気づいて声のしたほうへ振り返った。
三十代くらいの、すこし優しげな表情の女性が、この部屋の出入り口のドアの近くに立っていたんだ。
いつの間に?
俺が鏡に気を取られていて、この女性が部屋に入ってきたことに、気付いていなかったんだ。
「鈴音さん、鏡を覗きこんだりして、何にそんなにも見とれているのですか?」
一瞬、鈴音さんて誰だ?
そう思いかけて、はっと気づく。
鈴音は俺の名前なんだと。
って、いや違う。俺は清彦、俺の名前は檜山清彦なんだ!
鈴音なんて名前じゃない!
そのはずなのに、鈴音の名前を否定することに、強い反発を感じて戸惑った。
「鈴音さん?」
どこか心配そうな女性の呼び声に、俺ははっとした。
どうやら俺は、この人に心配されているみたいだ。
ぼけっとしてないで、早く何か返事を返さなきゃ。
でもなんて答えればいいんだ?
俺自身、今の自分の置かれている状況が、よくわからないんだ。
そもそもこの人は、どこの誰なんだ?
そう思った瞬間、頭の中で何かが閃いて、そして思い出していた。
この人は、大西八重先生は、俺の所属している三年一組の担任の先生なんだ。
そして三年一組の級長の俺は、この大西先生に授業で使った資料の後片付けを頼まれてこの部屋に来たんだっけ。
ちょっとまて、今のこの記憶はなんだ!!
これってこの女の子の、鈴音って子の記憶なのか?
なんで俺に、そんな記憶があるのかわからないけれど、俺はそれを元にアドリブで対応した。
「すみません、この鏡を見ていたら、急に気分が悪くなって、遅くなってすみません」
「まあ、そうだったの。鈴音さん、今の体調は大丈夫? 体調が悪いのなら、保健室につれて行きましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
と言った直後に、しまった、と思った。
状況がよくわからないんだから、今は体調不良とかで休んで様子を見ておけば良かったんだ。
今更やっぱり休むとは言いにくいし……いや。
「すみません、やっぱり気分が、……少し休ませてください」
「そう? 顔色も悪いようだし、そのほうがいいわね」
そんな訳で、俺はこの大西先生に連れられて、保健室で休むことになったのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
正直な所、俺はこんなわけのわからない状況に放り込まれて、今はすごく不安だった。
今この鏡の前を離れたら、元に戻るチャンスを失うのではないか?
そんな不安も感じて、ここから離れたくない、という気分もあった。
だけど、ここでじっとしていても、おそらく元に戻れないだろうし、事態はなにも変わらないだろうとも感じていた。
だとしたら、今は成り行き任せでもいいから、とにかく動いてみるのがいいかもしれない。
少なくとも、ここでじっとしているよりもましだろうし、なにかわかるかもしれない。
俺はこの人の、大西先生の後について保健室に行くことにした。
大西先生の後について歩き始めて、最初に感じたのは身体の違和感だった。
いや、身体の違和感そのものは、目が覚めてからずっと感じていた。
だけど、実際にこの身体で歩いてみると、元の男の清彦との違いがより大きく感じられた。
清彦より身長が低くて視線もいつもより低いし、男女の骨格の違いなのか、身体のバランスもいつもとは違うように感じられた。
さらに今の俺は、着物にはかまという慣れない服装のうえに、足には高いブーツを履いていて、より歩きにくく感じてもいたんだ。
「鈴音さん、さっきから足元を気にしているみたいだけど、どこか痛めましたの?」
「あ、いえ、足を痛めたわけではないです。大丈夫です」
先生に心配そうに声をかけられて、俺はあわてて否定した。
実際に足は痛めていないし、それに最初は違和感が大きいかったけど、歩いているうちにだんだん慣れてきた。
というか、この鈴音の身体の感覚にだんだん馴染んできて、違和感が急速に薄れていくように感じていた。
この身体の感覚に慣れるのはいいけど、それはそれでまずくないか?
あと、身体の感覚の違いに慣れてくると、俺は周りに見える風景の違いにも気がつく余裕もできてきた。
この建物の間取りは、旧校舎と同じだ。
だけど、旧校舎は年代を感じさせる古い建物だったけど、この校舎は内装がきれいで、まだ木の匂いが香る、建てられてまだ間もない新しい建物だった。
そして、最大の違いは、廊下の角を曲がった先にあった。
「ない、鉄筋コンクリートの校舎がない!」
そのかわりに、その先には、旧校舎と同じ作りの木造の校舎が続いていたんだ。
いや違う、ここは俺の知っている清流学院じゃない!!
「ここは、いったいどこなんだ!!」
つい俺は声に出して叫んでいた。
「鈴音さん、急にどうしましたの?」
急変した俺の様子に、大西先生は心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
俺はそんな大西先生に、反射的に聞いていた。
「先生、ここは、ここはどこなんですか!!」
「ここはどこって、ここは清流女学院(せいりゅうじょがくいん)ではないですか。ご自分の通う学びの屋を忘れたのですか?」
「清流女学院……」
それって、男女共学になる前の、過去のこの学院の名前じゃないか。
過去の?
ってまさか俺は、過去の世界にいる!!?
まさかとは思いつつ、俺は聞かずにはいられなかった。
「先生、今は何年ですか?」
「え、何年って、年号のこと? 今年は大正5年だったはずだけど」
「た、大正5年!?」
平成でもその前の昭和でもなく大正!!
大正5年って、何年くらい前だ?
さすがに咄嗟に出てこない。
「大正5年って、西暦だと何年だったかな?」
「西暦とは珍しいことを聞くのですね。西暦だとたしか、1916年だったはずね」
「1916年……」
そんな俺の様子に訝しがりがりながらも、大西先生は俺の質問にしっかり答えてくれた。
だけど俺は、そんな大西先生からの答えにショックを受けていた。
ついさっきまで俺がいたのは平成28年、西暦だと2016年だ。
てことは、ちょうど100年前ってことなのか!!
俺は100年前の清流学院に来てしまったんだ。
俺の記憶(?)や大西先生の話、さらに状況証拠がそうだといっている。
築百十年のはずの旧校舎が、まるでつい最近建てられたばかりの新しい校舎にかわっていること。
なのに俺の時代にあったはずの新校舎が無くなっていて、木造の校舎にかわっていること。
あと大西先生の服装は、平成時代の感覚だと、どこか古臭いデザインのブラウスにロングスカートだった。
そして今の俺自身の服装も、着物にはかま姿、まるで大正時代の女学生そのまんまだ。
薄々そうじゃないかと思っていた。
薄々気づいていた。
俺の心は、大正時代の女学生の体の中にいるんだと。
だけど、俺は認めたくなかったんだ。
いや、今でも認めたくないんだ!
そんな俺に、大西先生は、また心配そうに問いかけてきた。
「どうしたの鈴音さん、おかしな質問をしてきたかと思えば、今度はそんな泣きそうな顔をして」
「違う!」
「えっ、違うって?」
「俺、本当の鈴音じゃないんです! 中身は別人なんです!」
「中身は別人って、それはどういうことなんです?」
「信じられないかもしれないけど、俺は百年後の人間なんです」
俺は、百年後の学院にあった例の鏡を通じて、鏡に映った鈴音と出合った。
そしてうっかり鏡に触れたら、意識が鏡に引き込まれて、気が付いたら、鈴音の姿で百年前のこの学院にいた。
そんな話を淡々とした。
今は鈴音のふりをしたまま、様子をうかがっていたほうが無難だったとも思う。
だけど、そうやって正体を偽ることに、俺はだんだん苦痛を感じてきていた。
そこへきて、さらにここが百年前の世界であることに気づいて、その現実から目を背けることができなくなってしまった。
そんな今の俺の置かれた現実に耐え切れなくなって、突発的に話をしてしまったんだ。
いきなりこんなことを話して、与太話と思われるか、それとも頭がおかしいと思われてもしかたがないだろう。
だけど大西先生は、そんな怪しげな俺の話を、最後までだまって聞いてくれたんだ。
「信じられないですよね、こんな話」
「……確かに今の話は、とても信じられないわね」
「ですよね」
「でも、今のあなたが、嘘を言っていたとも思えない。
そしてそう感じたときは、私は信じることにしているの」
俺はこんな与太話、信じてくれるとは思っていなかった。
だけどこの先生は、信じると言ってくれた。
すごく嬉しかった。
そしてそのことで、俺は救われていたんだ。
「だけど、だとしたら、本当の鈴音さんはどこに行っちゃったんでしょう?」
「あっ!?」
俺は今まで、自分のことでいっぱいいっぱいで、そこまで気が付かなかった。
だけど言われてみれば確かにそうだ。
本当の鈴音はどこに行ったんだ?
あの時の状況から考えて、俺と入れ替わりに、百年後の清流学院に、旧校舎のあの部屋に行っているんじゃないか?
ちょっとまて、ということは、まさか鈴音は俺の身体の中にいるのか?
今の俺の置かれている状況だけでも厄介なのに、あっちのことはどうすればいいんだよ!
俺はその状況に気づいて焦った。だけど向こうの清彦のことはどうしようもなくて、俺は頭を抱えた。
「百年後のあなたは、名前はなんて言っていたかしら」
「俺の名前? ……清彦、俺の名前は檜山清彦です」
「そう、清彦くんか、良い名前ですね」
「……そうですか?」
俺は自分の名前を、特別いい名前だとは思ったことは無い。
だけど、こういう風に大西先生に名前を褒められて、でも悪い気はしなかった。
なによりも、俺の事を清彦だと認めてもらえて、そのことが嬉しかった。
俺の焦る気持ちが、少しだけ和らいだ。
「鈴音さんなら、あなたの悪いようにはしない、清彦くんのことを大切にしてくれると思うわ。
だから百年後の清彦くんのことは、今は鈴音さんのことを信じて、任せてあげて。
かわりに清彦くんは、鈴音さんが戻ってくるまで、鈴音さんの身体を大切にしてあげてね。
特に鈴音さんの身体は、嫁入り前の女の子の身体なんだから」
俺は大西先生のこの建設的で、何よりも思いやりのあるこの言葉にハッとした。
そして大西先生は、鈴音のことはもちろん、俺のことも思いやってくれていることに気づいた。
「大西先生は、俺のこんな突拍子も無い話を、本当に信じてくれているんですね」
「そうね、最初は半信半疑だったけど、あなたと話をしているうちに、あなたの話は本当なんだって確信してきたわ。
具体的には、そうね、素に戻ったあなたの雰囲気が、外見は女子の鈴音さんなのに、まるで男子みたいだったわよ。
あと、本当の鈴音さんは、根が生真面目で、嘘や冗談が言えない子なのよ。
仮に嘘をつくにしても、あの子なら、そんな突拍子も無い嘘はつかないわ」
この先生は、鈴音さんのことをよく見ていて、信用していたんだな。
そして本当に物分りがいい先生なんだなと思った。この時代には珍しいタイプだと思う。
俺がこの時代で、俺が最初に出会えたのがこの先生だったのは、不幸中の幸いだった。
頭の固い他の先生だったら、特に高木のばばあだったら、俺の話を頭ごなしに否定して、信じてくれなかっただろう。
う、俺が会ったこともない堅物そうなおばさん先生の顔が思い浮かんでしまった。これも鈴音の記憶なのか?
まあ俺自身も、自分がこういう境遇にならなかったら、こんな話を信じたりはしないだろうけどさ。
それはともかく、この先生が、この学院の女子生徒からの人気が高い理由もうなずけた。
そして俺も、この先生のそういう所が好きなんだ。
などと、この時俺は元の鈴音の抱いていた大西先生への気持ちを、無自覚に俺自身の気持ちのように感じていたんだ。
「それはそれとして、清彦くん、あなたはこの後はどうしますか?」
「どうしますか、とは?」
「このまま保健室へ行って休みますか? それともさっきの部屋へ戻って、あの鏡を調べなおしてみるのはどうかしら?」
俺が合唱部に入ったのは、音楽が得意で、歌を歌うことが好きだったことも理由にあったけど、俺がこの先生が好きだったからなんだ。
「それはそれとして、今日はあなたは合唱部に出ないほうが、いいかもしれないわね」
「そ、そうですね、でも具体的には、俺はどうすれば?」
「私が鈴音さんに用件を言いつけたことにしておくから、さっきの部屋に戻って、もう一度鏡を調べてみてはどうかしら?」
それで原因が見つかって元に戻れればよし。
戻れなかったとしても、その間はトラブルを回避できるし、その間に、俺の気持ちを整理することができるだろう。
そういう配慮だった。
「本当なら、あなたに付きっ切りで、色々と手伝ってあげたいんだけど、合唱部のみんなを待たせてるからもう行かなくちゃ。
本当のことを言うとね、百年後の未来の日本とか学院とか、興味があるからあなたから話を聞いてみたいと思っているんだけどね」
そう言いながら、大西先生はぺろっと舌を出した。
なんか今まで見たことの無い、この先生の意外な一面に、俺は思わずかわいいって思った。
「そんな話でよければ、後でいくらでもしますよ」
「だめよ、できるならばあなたは、今の機会に元の時代に戻っているべきだわ。
あなたが元の時代に戻っていて、私に百年後の話をする機会なんて、なくなっていたほうがいいのよ。ちょっと残念だと思うけどね」
「……そうですね」
「できればあなたが元の時代に戻れることを、そして鈴音さんが戻ってこれることを願っているわ。じゃあ、私は行くわね。清彦くん元気でね」
「大西先生、……ありがとうございます。先生こそ御元気で」
お互いに別れ(?)の挨拶をして、大西先生はこの場を後にした。
そして後に残された俺は、一旦元いた部屋へと引き返したのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
元の部屋に戻った後、俺は早速例の鏡を調べなおした。
鏡には、明治四十五年寄贈、と小さく書かれていた。
鏡の外枠の装飾が凝っていて、高級でお値段は高そうだ。
雰囲気も日本製じゃなさそうだ。ヨーロッパの職人さんが作ったものを、輸入したものなのかな?
もしかしたら鏡のほうは、あっちの錬金術師あたりが、魔法でもかけたのかな?
などと、今の状況では、あまり冗談になっていない想像をめぐらせたりもした。
だけど、素人が調べても、それ以上詳しいことは、わかりそうになかった。
それよりも俺が期待していたのは、鏡を調べているうちに、俺がこの鏡に引き込まれた時と、同じ異変が起きることだった。
だけど、いつまで経っても、あの時の異変は起きなかった。
普通の鏡のように、今の俺の、野泉鈴音の姿を映しているだけだった。
「これが今の俺、なんだよな?」
鏡の中では、着物にはかま姿の女の子が、途方にくれた表情をしていた。
俺は改めて鏡の中の鈴音を見直した。
顔はまだ幼さが残っていて、今はまだかわいいって印象が強かった。
だけど、今は中身が俺のせいでなのか、ちょっと情けない表情をしているけれど、
この子の育ちのせいだろうか、その幼さの残る顔の中に、凛とした気品が感じられた。
上手く言えないけど、俺と同年代の女子高生よりも、意志が強くて、芯がしっかりしているように感じられた。
「この子、俺より年下だよな? 確か……」
思い出そうとすると、この子の記憶を思い浮かべることができた。
「数えで15歳、てことは満年齢だと14歳か、俺より3つ年下、……って、現代(平成)の基準だと、この子はまだ中学生じゃん!」
目鼻立ちも整っているし、将来この子は美人になるな、とも思った。
「この子、この時代に女子校に通うほどだし、雰囲気的にも育ちは良さそうだよな。本当はどんな子だったんだろう?」
俺は段々この野泉鈴音って子に、興味を抱きはじめていた。
さっきから立ちっ放しで、少し疲れてきてたから、俺は近くにあった椅子を引きよせて、腰を降ろした。
そして鏡に映る、椅子に座った鈴音の姿を見ながら、俺はつい興味本位に、その記憶をたどり始めた。
俺はなんとなく、指先を額に当てて、鈴音の記憶を辿っていた。
それが、鈴音がものを考え込む時の癖だとは、まったく思いもせずに。
鈴音の記憶によれば、野泉家はかなりのお金持ちみたいだ。
なんかかなり大きな屋敷に住んでるみたいで、そんな大きなお屋敷だから、女中とか料理人とか庭師とか住み込みの書生とか、使用人もたくさんいるみたいだ。
てことは、鈴音はやっぱりいい所のお嬢様なのか。
実際、使用人たちからは、この子は『鈴音お嬢様』って呼ばれているみたいだ。
その野泉家の家族構成は、今はお父様とお母様、お婆様に弟、それに鈴音の五人なんだ。
鈴音はお爺様が大好きだったけど、去年亡くなっていて今はいないんだ。
逆にお父様とは折り合いが悪いみたいだ。
夕べだって、いきなり今度見合いをしろ、良縁を用意してやるから早く嫁に行けだなんて、頭ごなしにいきなり言われて喧嘩したんだっけ。
うーっ、夕べのことを思い出したら、また腹が立ってきた!!
って、違う!
父親と喧嘩をしたのは俺じゃない、鈴音だ!
……あんまり記憶を覗きすぎるのは、良くないみたいだな。
それに、他人の記憶を覗き見するのは、プライバシーの侵害だよな。
今はこの辺にしておこう。
「それにしても、元の鈴音は、今頃何をしているんだろう?」
お嬢様育ちの女の子が、なんのとりえも無い俺みたいな男になっちまって、今頃途方にくれているんだろうか?
俺は、そんな境遇になったであろう、本当の鈴音に同情していた。
とにかく今は、できるだけこの身体は大切に扱って、きれいな状態で鈴音に返そう。
俺はそんな決意を、新たにしたのだった。
……そんな決意から、さほど時間が経たないうちに、俺は危機的状況に陥った。
「やばい、トイレ、トイレに行きたくなっちまった!」
鈴音が生きた人間である以上、これも当たり前の生理現象だ。
まさかこのままずっと、トイレに行かないというわけにもいかないだろう。
だけど、「俺がこの身体で、トイレに行ってもいいのか?」と、つい鈴音に気を使って、トイレに行くのを躊躇っていた。
ただし、我慢すればするほど、今度はお漏らしの危険が増していく。我慢の限界が近づいていく。
「ごめん、緊急事態だから、できるだけ変なことはしないようにするから」
俺は鈴音に謝りながら、トイレに駆け込んだのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
旧校舎に設置されていたトイレの位置は隅っこで、この時代と百年後とでは、まったく位置が変わっていなかった。
なので、すぐに場所がわかったし、迷わずにトイレに移動することができた。
ただし、中の様子は全然違っていた。
「げ、これってもしかして、汲み取り式ってやつかよ!」
和式の汲み取り式トイレに、木製の蓋をしてある状態だった。
百年後はさすがに水洗トイレ、(一応和式の水洗、新校舎のトイレなら洋式だった)に変わっていたので、
百年前のトイレに、ちょっとしたジェネレーションギャップを感じていた。
臭いは臭いし、衛生環境も悪そうだし、ここでトイレを済ますのはなんだか嫌だな。と思った。
ただし、この時代のトイレの事情は、下水の完備した都市部にでもいかなければ、水洗トイレなんて無い、どこでもこんなもんなんだ。
ということに、割と早いうちに気づくことになる。
そしてこのときは、もう我慢の限界が近かったし、しかたがない、そのままここで済ませることにした。
だけど、俺の戸惑いは、まだつづいた。
「はかまって、トイレのときどうすればいいんだ? 全部脱ぐのか?」
着物とかはかまとか、普段着たことのない服装だってこともあり、こういうときにどうすれば良いのかわからない。
わからないけれど、早くしないと漏れそうだ、ともかくはかまを脱ぐか?
と、このとき、ふだん鈴音がやっていた方法の記憶が、俺の脳裏に浮かんだ。
「……そんなんでいいのか?」
基本的に女学生のはかまは行灯(あんどん)袴で、別名女袴、構造はスカート状なのだ。
なので、はかまをそのままスカートのように捲り上げればよいのだった。
そしてはかまを捲り上げて気が付いた。
「……ちょっとまて、まさかノーパンだったのかよ!」
鈴音が、いやこの時代の女の子は、ほとんどノーパンだという事実に、俺はこのときはじめて気が付いたのだった。
ちなみに、もう少し後、大正末期から昭和の初期にかけて、日本の女性もズロースなどの洋風の下着を身につけるようになっていくのだけれど、このときはまだ一般に普及していないのだった。
そしてそんな事など、このときの俺は知る由もなかったのだった。
それはともかく、このときの俺はもう我慢の限界で、それ以上は、余計なことを考えている余裕は無かった。
むしろこの時は、パンツを下ろす手間が省けて、かえって良かったかもしれない。
俺ははかまを捲り上げたまま、汲み取りの和式便器の上にしゃがみこんだ。
ほぼ同時に、我慢の限界を超えてしまい、決壊した俺の股間の割れ目からは、勢いよくオシッコが噴出した。
シャアアアァァァ………
と、オシッコが噴出す音、ビチャビチャと、下のほうで水滴が跳ねる音、が聞こえた。
男なら狙いをつけられるのに、女だとコントロールが出来なくて、ただ垂れ流すことしかできなかった。
そして男の時と違って、一度始めてしまったら、もう止められなかった。
俺の股間の割れ目から噴出したオシッコの一部が霧状になり、しゃがんだ太ももにかかったりして、汚くてやだなあって思った。
そんな風に、ジェネレーションギャップを感じながら、俺は女の子としての初めてのトイレを済ませた。
全部出し切って、ほっと一息、ひとまず気持ちはすっきりした。
だけど、垂れたオシッコが、股間だけではなく、太ももやお尻まで濡らしていた。その後始末がまだ残っていた。
「これって、拭かなきゃいけないんだ……よな?」
俺は、便器の前の台に置いてあった、ちり紙を手に取った。
鈴音の記憶によれば、これで拭いて、拭いたちり紙は備え付けのゴミ箱に捨てるものらしい。
ちり紙を手に持ったまま、俺は少しの間戸惑っていた。いいのだろうか? と。
だけど股間の割れ目やお尻が、このまますっと濡れたままにしておく、というのはイヤだった。
というか、このまま身体が汚れたまま、という状態が、許せないような気がした。
「ごめん、鈴音、この身体をきれいにするためだから」
俺は鈴音に謝りながら、濡れた股間の割れ目やお尻を、ちり紙で拭き始めた。
少しばかり気恥ずかしく思いながら、ゆっくりと濡れた股間を拭いた。
俺の股間の割れ目に、そっと触れられた感触を敏感に感じて、俺は改めて『ない』ことを自覚することになった。
現代のトイレットペーパーよりも、ざらざらしてはるかに紙質の悪いちり紙に、余計に敏感に感じさせられてしまっているような気がした。
なんだかクセになりそうな割れ目からの触感に、俺はまたゾクゾクするものが、身体の中を駆け抜けていくのを感じていた。
拭き終えたちり紙は、トイレに備え付けのゴミ箱に捨てて、まだ股間が湿っていて拭き足りなく感じてもいて、俺は次のちり紙を手に取った。
結局三回ほど、そうやってちり紙で股間やお尻のオシッコを念入りに拭き取って、俺は気恥ずかしさに頬を赤く染めながら、ゆっくりと立ち上がった。
そんな風に、神経をすり減らしながら、どうにかトイレを終えて、俺はほっと一息ついた。
「だけど色々面倒くさかった、女のトイレだけでも面倒くさいのに、そのうえ着物やはかまも面倒くさい、早く元の身体に戻りてえ」
俺は弱音を吐きながら、捲り上げたはかまを戻した。
「そのためには、早くあの部屋に戻って、あの鏡を見張らなくちゃな」
俺はまた無意識に、鈴音がいつもしていたように、素早く着物やはかまの乱れを直した。
そしてトイレを出て、洗面所へと移動した。
さすがにここには、水道が通っていた。
水道の蛇口が古い型のものだったけど、この時代だとこれが最先端なのかな?
などと変な感想を抱きながら、俺は念入りに手を洗った。
清彦だった時のいつもの俺だったら、さっと手を洗ってさっと終わりなんだけど、今回はやけに手の汚れが気になって、念入りに手を洗った。
ようやく俺の気が済んで、手を洗い終わった。
俺はあの部屋へと、慣れた足取りで移動したのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あの部屋に戻ってきた俺は、鏡の前に置いていたあの椅子へ、背もたれに身を預けるようにどっかりと座った。
「あー、疲れた、トイレに行ってきただけなのに、すげー疲れた」
正面の鏡には、大股開きのだらしない姿勢で椅子に座っている、だらしない鈴音の姿が映っていた。
もし鈴音を知ってる誰か、たとえば大西先生がこの光景を見たら、どう思うだろうか?
俺自身だらしないこの姿を見て、いくらなんでもお嬢様って女の子が、これはどうかと思いながら、それでも今はだらけていたい気分だった。
ふと思いかえせば、鈴音の姿になってから、俺はずっと気持ちが張り詰めた状態だったんだ。
この部屋に戻ってきて、安心したからか、一旦緊張が切れて、素の状態に戻ったんだ。
この部屋には、他に人目が無かったのも大きかった。
「俺はさっきまで、なにをやってたんだろうな、あー、色々と面倒くせえな」
このままじゃだめだと、理屈ではわかるけど、今くらいはだらけていたいと思った。
一旦切れた緊張は、すぐには戻らなかった。
「普段真面目そうな女が、こんな風にだらしなくしている姿は、見ていてなんか面白いな」
「なあ鈴音お嬢様、これを見ているなら、俺にこんな格好をさせるのが嫌だったら、早く元の身体に戻ろうぜ」
そんな風に、俺はしばらく鏡に映るだらしない鈴音の姿を見ながら、しばらくだらけていたのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……飽きた」
何も変化が無い部屋で、鏡に映る鈴音の姿だけ見ていても、段々面白くなくなってきた。
気持ちが醒めて落ち着いてくると、段々鏡に映るだらけてる鈴音の姿を見ている事が、恥ずかしいって気分にもなってきた。
そろそろ止めておくか。
俺は一旦椅子から立ち上がった。
このまま何もしないで椅子に座っていても、退屈なだけだ。
何か暇つぶしになるものはないだろうか?
「スマホでもあれば、時間がつぶせるんだけどな」
ふと気が付いた。
この時代にはネットの環境も、スマホのゲームもない。
テレビも無ければ、ラジオ放送すら始まっていない。
そんなところで、俺はやっていけるのだろうか?
また気が重くなってきた。
そんな気を紛らわせるように、棚にある本を何気なく手に取った。
「今昔物語? 日本昔話みたいなものか?」
何気なくぱらぱらページをめくってみた。
「げ、文体が古い、旧仮名遣いってやつか? 俺古文とか苦手なんだよな……」
そもそもこの仮名遣いってやつ、話し言葉と違うせいで、内容がわかりにくいんだよな。
俺はばやきながら、それでも気を紛らわせられればいいかと、その本を片手に椅子に戻った。
そして今度は、最初からページをめくってみた。
「今昔、皇極天皇と申ける女帝の御代に、御子の天智天皇は春宮にてぞ御ましましける。其の時一人の大臣有り。
あれ、なんかすらすら読めるぞ?」
この時点では知らなかったが、鈴音は読書が好きで、こういう本を読むのは得意だった。
俺はその鈴音の学力そのままで、その本を読むことができたんだ。
難しそうな本がすらすら読めて、内容がすらすら頭の中に入ってくる。
こんな経験は初めてだった。
「なんかおもしれえ」
なんだかうれしくなって、俺はそのまま椅子に座って、その本を読み始めた。
無意識にぴんと姿勢を正して、椅子に座っていた。
さっきは大股開きで座っていた脚は、自然に内股に閉じていた。
いつしか夢中になってその本を読む俺の姿は、お嬢様然したいつもの鈴音のものだった。
そしてそのことを、俺は自覚していなかったのだった。
(椅子に座るお嬢様のイメージ画、ふたば板掲載時はこのイラストでした)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……さん。鈴音さん」
「えっ、うわっ! だ、誰?」
読書に夢中になっていた俺は、声を掛けられるまで、俺のすぐ側に女の子が来ていることに気が付かなかった。
今の俺と同じくらいの年齢の、着物にはかま姿の、腰のあたりまで長い髪の、おっとりしたおとなしそうな雰囲気の女の子だった。
この子もこの女学院の女子生徒なのか?
「そんなに大袈裟に驚いて、そのうえ誰って、ひどいですわ。鈴音さんは、私のことを忘れちゃったの?」
微笑を浮かべながら、冗談っぽく抗議する女の子に、俺は慌てた。
「そ、そんなことねえ! ……ないわよ。(鈴音の記憶だと確か)雪子さん、そうそう雪子さん」
慌てて思い出した鈴音の記憶に、雪子さん、松田雪子の記憶があった。
鈴音と雪子さんとは同い年で、鈴音が物心ついた幼いころからの仲の良い友達のようだ。
要は幼馴染、俺にとっての双葉みたいなもんだな。……双葉!
なんでだろう? 双葉のことを思い浮かべたら、俺の胸の奥がちくりと痛んだ。
「……今の間はなに?」
女の子、松田雪子さんは、俺の反応に、ちょっと気を悪くしたみたいだ。
微笑みを浮かべていた顔が、真顔になっていた。
「読書に夢中になってて、反応が遅れただけだ。気のせいだよ」
「まあいいですわ。そういうことにしておいてあげます」
それでも雪子さんは、俺の言い訳を受け入れて、あっさり許してくれた。
俺はひとまずほっとした。
そしてこのやりとりの流れで、俺は双葉のことを一旦忘れた。
「で、雪子さんが、なんでここに?」
「鈴音さんが、音楽室に戻って来るのが遅かったから、私がお迎えに来たのですわ」
「え、それは、その……」
まずい、どう言い訳すればいいんだ?
「大丈夫ですわ。大山先生から、ちゃんと話を聞いていますわよ」
「えっ、大山先生から!」
話を聞いているって、あの先生、俺のことをどこまで話をしたんだよ!
俺のことはともかく、鈴音は身体を他人に、それも男に乗っ取られているなんて、他人に知られたくないだろう。
特に雪子さんみたいな、仲の良い女友達には。
「鈴音さんは、何か悩みがあるみたいだから、気持ちが落ち着くまでそっとおきましょう。
鈴音さんが一人で落ち着けるように、私から用事を言い渡したことにしてあります。とか仰られていましたわ」
「そ、そうなんだ、大山先生がそんなことを」
大山先生、ちゃんとフォローしてくれていたんだ。
ほっとしながら、一瞬先生のことを疑って悪かった、ごめん、って思った。
「でも、くやしいですわ。
音楽室を出る前に、悩みがあるなら、私でよければ相談にのりますわよって言いましたわよね」
「う、うん」
空返事を返しながら、俺は鈴音の記憶を探ってみた。
確かにそんなことを言われた記憶があった。
「ありがとう、でも大丈夫だから」
と言って、断った覚えまであった。
鈴音は、俺と入れ替わる直前に、雪子さんとそんなやりとりをしていたんだ。
「私には悩みを打ち明けてくれなかったのに、大山先生には相談したのではなくて?」
「それは違う、大山先生にはそんな話はしていない」
少なくとも、鈴音の悩み事の話は、していなかった。
かといって、俺の事情を話すわけにもいかず、このあと雪子をごまかすのに苦労した。
「まあいいですわ、信じてあげますわ」
俺の言い訳に、雪子はどうにか納得してくれたみたいで、ほっとした。
それはともかく、お迎えが来たということは、俺は雪子さんと一緒に、戻らなきゃいけないってことか。
…………あっ! てことは、もうこの鏡の前にはいられない。
少なくとも今日は、元の俺には戻れないってことなのか?
そのことに気づいて、俺は動揺した。
いやだ、この鏡の前を離れたくない。そう思った。
「どうしたの鈴音さん、浮かない顔をして、やっぱり何か心配事がありますの?」
そんな俺の動揺を、雪子は見落とさずに気づいて、心配そうに声を掛けてくる。
悩み事があるのなら、私に相談して。そう言っているみたいな表情だった。
いっそのこと、雪子のも俺の秘密を打ち明けてしまうか?
「ううん、なんでもないよ」
だけど、最初にごまかすことに決めて、ついさっきもごまかしたばかりであり、打ち明けられなかった。
そのままごまかし続けるしかなかった。
「そう、しかたがありませんわね。……それでは、行きましょうか」
俺からの返事を諦めた雪子は、この部屋を出て、音楽室に移動することを促した。
これ以上、この部屋に留まり続けることは、出来なさそうだった。
俺は後ろ髪を引かれながら、この部屋のこの鏡の前から、離れたのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
俺は雪子と一緒に、初めてこの学院の木造校舎に、そして音楽室に来た。
音楽室にはピアノが置いてあり、その側に大西先生がいた。
「ごきげんよう、雪子さん、鈴音さん」
「ごきげんよう」
「えっ? ぁ、ごきげんよう」
最初、咄嗟に意味がわからず、これがここのあいさつだと気づいて、慌てて返事を返した。
雪子は少し怪訝な顔をして、大西先生は俺の事情を察したのか、少し表情を曇らせた。
だけど、さっと表情を戻して、俺と雪子に語りかけてきた。
「鈴音さん、おつかいご苦労様でした。雪子さんも、鈴音さんのお迎えごくろうさま」
「あ、はい、ありがとうございます」
「たいしたことではありませんわ」
「鈴音さんにおつかいをしてもらっている間に、今日の合唱部の活動は終わりましたわ。
雪子さん以外の皆さんは、もう帰られましたわよ」
「そうなんですか」
そう言われても、ぴんと来なかった。
鈴音の記憶を探るまでもなく、部活が終わって、みんなが帰っていったってことはわかった。
じゃあだからって、俺はどんな反応をすればいいのだろう?
というか、俺はこの後、どうすればいいのだろう?
「雪子さん」
「はい」
「私はこの後、鈴音さんからおつかいの報告を受けるから、あなたは先に帰られても良いですわよ」
「え、ですが」
「おねがいね」
「……わかりました」
大西先生に促されて、雪子はしぶしぶ先に帰っていった。
明日、話を聞かせてね。と俺に言い残して。
「これで、私と鈴音さん以外、他に誰もいませんわね。
さてと、それでは……鈴音さん、いえ、あなたは清彦くんなのですね?」
「はい、俺は清彦……です」
「そう……、結局戻れなかったのね」
「はい」
俺は、先生と別れた後のことを、簡単に説明した。
何もおきなかった。特に期待した鏡に何も変化はおきなかった。
「それで、あなたはこれからどうしたいの?」
「俺は……これからどうしていいのかわかりません」
俺は、途方にくれていた。
そんな俺に、大西先生は静かに告げた。
「まず最初に言っておくわね。私があなたにしてあげられることは、助言だけよ」
「助言だけ?」
「そうよ、鈴音さんが、これから先どうするのか?
それを決めることが出来るのは、私でも他の誰でもない、鈴音さん、あなた自身だけなのよ」
「俺自身だけ? ちょっと待ってよ、さっきから何度も言ったけど、俺は本当は清彦で、本当の鈴音じゃなくて……」
「今はあなたが鈴音さんなのよ! あなた以外に、ここには鈴音さんはいないのよ!」
その大西先生の言葉に、俺ははっとした。
「今は俺が鈴音で、俺以外に鈴音はいない……」
「そうよ、だからこれから先のことは、あなたが鈴音さんとして決めなさい」
さっきは優しかった大西先生の表情は、このときは鬼のように厳しかった。
だけど、あえてきつく言うことで、俺を叱咤激励してくれているようにも感じられた。
そしてその言葉が、俺の心の中に染み込んでいく。
「鈴音のことは、今は俺が決めるしかない……か」
後で思い返せば、俺はこの時に大西先生に背中を押された形で、覚悟が出来たんだと思う。
俺が、『野泉鈴音』として、生きていく覚悟を。
「あえて問うわ、鈴音さん、あなたはこれからどうしたいの?」
「俺は、……それでもあきらめたくない、元の清彦に戻りたい。
元の時代の元の家に帰りたい。
この身体を元の鈴音に返したい。
今すぐには無理でも、いつか元に戻れるならそうしたい」
覚悟が出来たとは言っても、この時点では、まだまだ未練もいっぱい残っていた。
すぐに戻れなくても、長期的にチャンスを待って、戻れるなら戻りたいって思っていた。
だけど、こんな答えで、大西先生の返事が怖かった。
「こんないい加減な答えじゃ、やっぱりダメかな?」
「そう、それがあなたの望みなのね、わかったわ」
そう返事を返しながら、大西先生が俺に見せてくれた表情は、とびっきり優しい微笑みだった。
この後、大西先生は、最初の言葉通り、俺に色々アドバイスをしてくれた。
俺の望みに合わせて、基本方針を決めてくれた。
「あなたはしばらくは、野泉鈴音として生活しながら、元の時代の元の身体に戻る方法を探す。基本方針はそれでいいわね?」
「は、はい、それでお願いします」
「わかったわ、その方針にあわせて、私も協力してあげますわね」
あと、俺がこの学院にいる間は、大西先生が色々フォローしてくれることになった。
それと、今回の入れ替わり現象のことについても、先生なりに調べてくれると約束してくれた。
「とはいっても私には、あの鏡のことを調べるくらいしか、出来そうにないですけどね」
「そ、それでもいいです。どうかよろしくお願いします」
「わかったわ、期待しないで待っていてね」
この時代に飛ばされてきた俺のことを、大西先生は理解して、俺のことを助けてくれる。
そのことが嬉しかったし、心強かった。
鈴音になった最初のころに、俺が心細い思いをしながらも、どうにか乗り切れたのは、大西先生のおかげだったんだ。
基本方針も決まり、今日のところはここにいても、これ以上できることはない。
俺は野泉鈴音として、野泉家に帰ることになった。
「今日は遅くなってしまったから、お迎えをいつもよりも長く待たせているでしょうし、早く行ってあげたほうがいいわよ」
「お迎えって、そんなのがいるんですか?」
「そんなのがいるんですかって、……そうだったわね、ええ、いるわよ。
今のあなたに覚えが無くても、鈴音さんには覚えがあるはずよ。ためしに思い出してみてはどうかしら?」
「……思い出してみます」
俺は額に手を当てながら、鈴音の記憶を探ってみた。
鈴音は毎日この学院の登下校で、野泉家のおかかえの人力車で、送迎してもらっている記憶があった。
そしてその車夫の源之助は、今頃は学院の側で、帰りの遅い鈴音を待っているのだろう。早く行ってあげないと。
「それじゃ先生、俺、これで行きます」
「ええ、ごきげんよう、鈴音さん」
「ごきげんよう、大西先生」
学院の外へ出ると、玄関より少し離れた場所で、人力車が止められていた。
「鈴音お嬢様、お待ちしておりやした」
三十台半ばくらいの屈強な男が、俺が出てくるのを待っていた。
鈴音の記憶の中にいる人物と同じ顔だ、この人が、車夫の源之助さんか。
「おそくなってしまって、待たせてごめんね」
「そんな滅相も無い、もったいないお言葉です」
帰りが遅いことを源之助さんに謝ったら、かえって恐縮されてしまった。
どうもお嬢様と使用人との間には、そんな遠慮はいらないらしい。
うーん、本来一般庶民の俺としては、こういうのは苦手だなあ。
まあいい、鈴音の記憶だけじゃわからない、その辺の距離感は、これから少しづつ覚えていこう。
もっともそんなこと覚える前に、元の俺に戻れれば良いのだけどな。
俺は気を取り直して、人力車に乗った。
俺が生まれて初めて乗る人力車、じつは少しだけ楽しみだったりする。
「遅くなった分、帰りは飛ばしやす」
「お願いね」
こうして俺は、人力車に乗って、この学院を後にしたのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
人力車は現代の乗用車に比べたら、スピードは遅いし、乗り心地も良いとはいえない。
だけどそれだけに、人力車から見える風景は、俺の身近に感じられた。
なんだか子供の頃に乗った、アトラクションの乗り物に乗っているみたいで、ちょっとわくわくしていた。
現代のこの辺りは、高層ビルはさすがにないが、鉄筋コンクリートの建物が立ち並ぶ市街地だったはずだ。
だけどいまのここは、昔の和風の建物の中に、洋風建築が混じっていて、現代から来た俺の感覚では、どこかレトロな町並みに感じられた。
車なんてたまにしか走っていない。路面電車や人力車、荷物を載せた馬車、などが走っていた。
町にいる人たちも、和洋折衷な服装で、NHKの朝の連続ドラマの世界にでも来てしまったみたいに感じられた。
「ここはやっぱり大正時代なんだ。俺、大正時代に、来てしまったんだよな……」
最初は物珍しい風景にわくわくしたけど、それでもこうして今の俺の置かれている現実に気づき始めると、少し気分がへこんだ。
「……ここも一応、東京都なんだよな?」
そしてそんな町から外に出ると、自然が豊かでのどかな田園風景とか林などが広がっていた。
現代では、ここは開発されていて、ここには田畑もこんな緑も残っていないはずだ。
……ちょっとまて、この方向のこの林のある辺りって、確か俺の家のある新興住宅地の場所じゃなかったか?
まだここに建てられていないだけで、俺の家がなくなってしまったわけじゃないはずだ。
だけど、少なくともここには、俺の帰る家はない。
そんな現実を突きつけられたみたいに感じられて、なんだかショックだった。
そうこうしているうちに、大きな屋敷が見えてきた。
鈴音の記憶の通りなら、あそこが鈴音の家のはずだ。
だけど、と、ふと思った。
こんな所に、こんな大きな屋敷があったっけか?
少なくとも、百年後には存在していないはずだ。
細かいところまでどうなっていたのか、気にしていなかったけど、この辺りも住宅地になっていて、
建売住宅やアパートなんかが建っていたような気がする。
そういえば、郷土の歴史とやらで、そういう話があったような気がする。
昔このあたりに、すごいお金持ちの大きなお屋敷があったけど、持ち主が何度か変わったとか、
戦前に火事で消失したとか、戦後に跡地が分譲されて住宅地になったとか、そんな話を聞いた覚えがあった。
あまり興味が無かったから、くわしく聞かなかったし調べなかったけど、こんなことなら調べておけば良かったか?
……まあいい、今日や明日にそうなるわけじゃないし、今そんなこと気にしてもしょうがない。
そうこうしているうちに、人力車は屋敷への門をくぐり、屋敷の前に到着した。
「これが鈴音の家なのか?」
俺が見上げたその屋敷は、大きな洋館だった。
鈴音の記憶の中にある家そのままなんだけど、実物を目の前にして、俺は圧倒されていた。
この洋館よりも大きな建物なんて、高層ビルでも何でも、いくらでもあったし、いくらでも見てきた。
だけど、一般市民だった俺がいきなり、今日からここがお前の家だ、と言われたとしたらどうだろうか?
本当にここが俺の家か?
本当にこの屋敷に、俺なんかが入ってもいいのだろうか?
そんな場違い感を感じて、気が引けてしまっていた。
「鈴音お嬢様、どうかしやしたか?」
「ううん、なんでもない…わ」
とはいえ、今の俺が帰る所はここしかない。
戸惑いながらも、俺は人力車を降りた。
「「鈴音お嬢様、おかえりなさいませ」」
そんな俺を、屋敷から出てきた、着物姿の二人の女性が出迎えた。
俺は咄嗟に鈴音の記憶を探った。
「ただいま、……ばあや、それにお菊」
少しだけタイムラグがあったけど、咄嗟に記憶が引き出せて、反応することができた。
ばあやは、鈴音が生まれる前から野泉家に仕えていた人で、この家の女中のまとめ役だった。
そしてその側にいるお菊は、鈴音付きの女中らしい。今の俺と同い年くらいの女の子だった。
今風に言えば、ばあやはメイド長、お菊は鈴音の専属のメイドという所だろうか。
そんな人たちに、「お嬢様」と言われて、俺はなんだかこそばゆく感じていた。
(お嬢様付きの女中、メイドのお菊、イメージ画)
「お嬢様、今夜の夕食は、いかがなされますか?」
「今夜の夕食?」
ばあやに、「いかがなされますか」ってわざわざ聞かれた。これってどういう意味だろう?
そう思いながら、鈴音の記憶を探ってみる。
すると、昨夜の鈴音は、お父様と衝突して、夕食は自室で別に食べていたことを思い出した。
そしてこういう時、鈴音はお父様と顔を合わせたくないから、数日は別々に食事を取ることが多いらしい。
……なんでだろう、俺はまだ会った事のない鈴音のお父様のことを思い出したら、急に気分がむかむかしてきた。
「お父様とは、今は顔を合わせたくありませんわ!」
俺の口からは冷たい声で、自然にこんな台詞を吐き出していた。
なんとなく、鈴音ならこう言うだろうという気がした。
「承知いたしました」
あらかじめ、俺の返事がわかっていたような、ばあやの返答だった。
そんなわけで、今夜の夕食は、俺は家族とは別に、自室で取ることに決まった。
俺としても、今は鈴音の家族とは、あまり顔を合わせたくないから、好都合なはずなんだけど、
うー、なんだか気分が悪くてすっきりしない。
鈴音がお父様と衝突したって、いったい何があったんだ?
昨日のことを、思い出そうと試みてみる。
お父様に、お見合いをするように強要されて、それに反発したことを思い出した。
ただ、さわりの部分を思い出しただけで、余計にむかついてきた。
そして鈴音としては、あまり思い出したくないことのようだ。
お見合い? 鈴音が? まだ15歳だろ?
鈴音の事情が、気にならないといえば嘘になるが、なんだかこの件は、深く追求したらやぶへびになるような気がして、俺自身、あまり深く追求したくない気分だった。
なので、今は深く追求しないで流すことにした。
後でこの時スルーした件が、俺自身に返ってくることになるのだけれど、この時にはそこまではわからなかった。
もしわかっていたとして、この件を深く追求したとして、まだ鈴音になりたてのこのときの俺では、かえって困惑を深めただけだろうから、スルーでよかったのかもしれないが。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
俺から夕食の予定を聞き終えたばあやは、後のことはお菊にまかせて、ひとまずこの場を立ち去った。
「お嬢様、お荷物お持ちします」
「えっ、ああ、ありがとう」
そのお菊の申し出に、俺は手に持っていた、鈴音の荷物の風呂敷包みを手渡した。
俺は中身は見ていないが、この中には教科書や筆記用具、空になった弁当箱などが包まれているらしい。
そして俺のお礼の言葉に、お菊は少し驚いた顔をしていた。
だけど特に何も言わずに、恭しく俺から風呂敷包みを受け取った。
……ひょっとして、今の返事、またまずかったか?
よく考えてみたら、こういう所のお嬢様が、こんなことでいちいち使用人にお礼なんか言わないだろう。
だけど、本来なら一般市民の俺は、使うほうじゃなくて使われるほう、お嬢様じゃなくてこのお菊のほうの立場なんだよな。
なんかこういうの慣れないよな。
あれ、俺から荷物を受け取ったまま、お菊が動かない、どうしたんだ?
あ、そうか、俺が動くのを待っているのか。
俺は鈴音の記憶を頼りに、お屋敷の中へ、そして鈴音の部屋へと動きだした。
そしてお菊は、その俺の後に続いてきたのだった。
この洋館は、正面の玄関から入ると、ロビーから応接室へと来客用の広くて豪華なスペースになっていた。
そして鈴音や鈴音の家族の住むプライベートルームは、そのさらに奥にあった。
外見や内装は洋式の洋館だったが、これは武家の屋敷の基本構造と同じだった。
この時点では俺は知らなかったが、元々野泉家は旗本の家柄で、この洋館は今は亡き鈴音の祖父が、色々こだわって作らせたものだったようだ。
そして俺は、この洋館の内装の豪華さにも圧倒されていた。
廊下にはカーペットが引かれ、家具や調度品も高そうなものを置いてあるし、少なくとも個人住宅レベルじゃないよな。
俺は場違い感を感じていた。
とはいえ、俺のすぐ後ろにはお菊がいる、この家のお嬢様がきょろきょろしたり、いちいち驚いていたら変に思うだろう。
俺は出来るだけ平静を装っていた。
そして奥の家族スペースへ、ここも内装は豪華だったけど、ロビーなどの入り口付近よりは、雰囲気が落ち着いていた。
鈴音の部屋の前まで来た。
お菊が俺に先んじてドアを開けた。
鈴音の部屋は、内装がきれいで広い洋室だった。
部屋の中には輸入品だろうか? お値段の高そうなアンティーク調な家具、テーブル、ベッドなどが置かれていた。
俺はますます場違い感を感じたのだった。
ちなみにこれも後で知るのだが、祖父のこだわりだったのだろうか、かつての祖父の部屋、現在の両親の部屋は、畳敷きの和室になっていた。
それ以外にも和室の部屋もあり、このお屋敷は、あちこち和洋折衷になっていたのだった。
「お嬢様、お召し替えのお手伝いをいたします」
「え? ああ、うん」
お召し替えって、部屋着への着替えってことか?
おそらくここで着替えるのが、いつもの流れなんだろうな。
ここは流れに任せよう。
お菊は手馴れた様子で、俺の身に着けていたはかまや着物を脱がせていった。
そしてほとんど素っ裸に。
うう、なんか恥ずかしいな。それに、やっぱりこういうの、慣れないよな
そして今度は、洋式の肌着を着せられた。
お、これは? この感じは!
男女の違いはあれど、現代に近い感覚だった。
ドロワーズだかズロースだか、ショーツより露出が低い女物のパンツを穿くのは、なんか恥ずかしいけど、でもなんか嬉しかった。
ついさっきまでノーパンだったからな。忘れていたけど。
そして、下着を身に着けた後、ゆったりとしたワンピースを着せられた。
うう、やっぱり女物の服なんだよね。スカートだよね。
元は男の俺としては、やっぱり恥ずかしいな。
だけど、着物よりは馴染みやすくて、なんか嬉しかった。
そして元の鈴音も、着物などの和装より、洋服などの洋装のほうが好きだったことを、俺はこの時なんとなく感じていたのだった。
(洋装のお嬢様のイメージ画、ということで)
俺の着替えが終わり、お菊さんが部屋から出て行った。
一人になれて、ひとまずほっとした。
でもこれからどうしようか?
こんな境遇になった直後も、学院のあの部屋で、俺はこんな風に途方にくれていたっけ。
そしてあの時は、元に戻れるわずかな可能性に、俺は望みをつないでいた。
だけど今は、そんな望みは無い。
学院のあの部屋のあの鏡の前以外の場所では、元に戻れる可能性はゼロだろう。
どんなに早くても、明日学院のあの鏡の前へ行くまでは、俺は元には戻れない。
それまでは俺は、鈴音として過ごさなければならないってことだ。
正直、気が重かった。
今日は夕食時などは、鈴音の家族とは別々ということになっているから、家族と顔を合わせずにすむのが救いだった。
おとなしくしていれば、今日くらいはぼろを出さないで過ごせるだろう。
でも、いつまでそんな風に、ごまかせるだろうか?
えーい、これ以上悩むのは止め止め、どんなに悩んだところで、今すぐには元には戻れないんだ。
だったら今は、うじうじ悩むより、この状況を楽しんだほうがいいんじゃないか?
少なくとも、一般庶民の俺が、お金持ちのお嬢様の生活なんて、こんな機会でもないと体験できないだろうしな。
俺はこのころになって、ようやく開き直れたんだ。
俺はあらためて、俺の今いる鈴音の部屋を見回した。
広くて明るくて、掃除も行き届いていて、きれいな部屋だなって思った。
置いてある家具もインテリアも、ただ高級なだけではなく、色使いやデザインが女性向けのものばかりだ。
特にアンティーク調の白い鏡台や、家具の上に置かれた西洋人形やぬいぐるみなどを見ていたら、いかにも女の子の部屋なんだなって感じた。
というか、百年前(大正)でも現代(平成)でも、基本的に女の子のこういう所は、同じなのかもな。
俺は鏡台の前に立ってみた。
鏡台の鏡の中には、あの鏡で見たのと同じ女の子の姿が映し出されていた。
「……かわいい」
俺はつい、鏡に映る、鈴音の姿に見とれた。
いや違う、そうじゃなくて!
「着ているものが違うと、ちょっと印象が違うんだ……」
学院の鏡で見たときより、こっちのほうが俺の好みというか、かわいく感じたんだ。
かといって、着物にはかま姿の鈴音が、かわいくない、というわけではない。
多分、今のワンピース姿のほうが現代的で、俺の感覚だとこっちのほうが、身近に感じられたからなんだと思う。
シンプルなワンピース姿の鈴音は、今時の女子高生のように、カラフルに着飾ってはいない。
だけど、鈴音は素材が良いおかげもあり、現代の女子高生の中にそのまま紛れ込んでも遜色ない。
いや、負けていない。それどころか、部分的には勝っている。って感じたんだ。
そうだと感じたら、俺自身、なんだか嬉しいような、誇らしい気分になっていたんだ。
あと、学院であの鏡を見ていたときは、鏡に映る鈴音の姿を、ここまでじっくりと見ていなかった。
トイレへ行ったり、だらけてみたり、読書をしてみたり、不可抗力な事もあったけど、なんとなくじっくり鏡を見るのを避けていたような気がする。
「多分、認めたくなかったんだよな」
鏡に映るこの鈴音の姿が、今の自分の姿だと認めてしまったら、もう元に戻れないような気がしたんだ。
だけど今は、ついさっき開き直れたおかげで、今の状況を受け入れようという気分になっていた。
今は鏡に映るこのワンピース姿の女の子が、今の俺の姿なんだって、すんなり受け入れられたんだ。
「えへへ、こうしてよく見てみると、鈴音っていけてるじゃん」
鏡の前で、俺は腰や頭に手を当てて、ちょっと気取ったポーズを取ってみた。
鏡の中には、いつもは真面目な女の子が、めずらしく気取ったポーズを取っている姿が、映し出されていた。
俺は今度は、鏡の女の子に向かって、微笑みかけてみた。
鏡の中の女の子は、俺に優しく微笑みかけてくれていた。
「清彦さん、わたし、清彦さんのことが好きです」
自分で言っておきながら、けっこうドキドキした。
そんな女の子にに、返事をしようと口を開きかけたその時、
コンコン、とドアからノックの音。
「鈴音お嬢様、よろしいでしょうか?」
「あわわっ! ……い、いいわよ!」
俺は慌てて鏡の前から離れながら、ドアに向かって返事を返したのだった。
「それで、なに?」
「お嬢様、おやつをお持ちしました」
「おやつ……わかったわ、テーブルの上に置いておいて」
「承知しました」
お菊は俺の指示通りに、テーブルの上におやつを置くと、再び部屋を出て行ったのだった。
「ふう、いきなりだから焦った。でもおやつか」
そういわれてみれば、小腹が空いていた。
気分も変えたいし、小休止でおやつを食べるのもわるくないな。
でも、この時代の、お嬢様のおやつって、何なんだろう?
ケーキかなにかかな?
興味をもって見た。テーブルの上に置かれていたのは、羊羹とお茶だった。
意外に和風なんだな。まあいいか。
「いただきます。……うん、あっさり甘くて美味しい」
羊羹を味わって食べながら、これは鈴音の大好物なんだということを、俺は思い出していたんだ。
大好物の羊羹を食べ終わった頃には、俺はすっかりご機嫌だった。
お茶を飲みながら、その余韻を楽しんでいた。
このときは俺は自覚していなかったけど、ついさっきまで場違い感を感じていたこの部屋が、
今はなぜだか、長年住み慣れた自分の部屋にいるみたいに感じられて、なんだか気持ちが落ち着いていたんだ。
「この後はどうしようか?
いつもなら、おやつのあとは、女学院で出された課題を片付けるか、予習をする所なんだけど、
今日は特に課題は出ていないし、今は予習をする気になれない。
かといって、ここには携帯ゲームもスマホもないし、本当にどうしようか?」
そういえば、俺が小さい子供の頃だったら、この洋館みたいな大きな建物へ来たら、よく探検とかしたっけ。
童心に返って探検でもしてみようか?
さすがにやめておこう。
ここのお嬢様が探検なんてやっていたら、どう見たって不自然だ。
周りから変に見られて、正体を怪しまれても困るからな。
第一、自分ん家を探検するって言うのも、変な話しだしな。
鈴音の部屋の中を、もう一度見回してみた。
鏡台のすぐ側には、洋服ダンスやクローゼットが置かれていた。
あの中に、鈴音の服がしまわれているのだろう。
最初の着物とはかまや、このワンピース以外に、鈴音はどんな服を着ているんだろうな。
さらには窓際には勉強机が置かれていて、すぐ側の本棚には本がぎっしり並べられていた。
鈴音って、どんな本を読んでいたんだろう。
鈴音はこの部屋でどんな生活をしていたのだろう?
俺はさらに視線を動かした。その視線の先にはベッドがあった。
天蓋がついた、高級そうなベッドだった。
俺は引き寄せられるようにベッドの側まで来た。そして触ってみた。
なんか中はふかふかしてる、ここに寝たら気持ち良さそうだな。
つい、ベッドにダイブしてみた。やっぱりふかふかだった。
ベッドからは、いい匂いがした。なんだかうとうとしてきた。
このまま寝ちまうか?
慣れない環境で、精神的には結構くたくただし、それも悪くないかもな。
これは悪い夢で、寝て目が覚めたら、俺は元の清彦に戻っているかもしれないしな。
なんてことを思いながら、俺は一旦意識を手放したんだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「きよひこ~」
どこからか、誰かが俺を呼ぶ声が聞こえた。
「清彦~」
俺は声のしたほうを見た。
声の主は俺のおやじとおふくろ、俺の両親だった。
どうやらおやじたちは、俺を探しているようだった。
知らせなきゃ、俺がここにいるって。
「ここだよ、俺はここにいるよ!」
俺は声を出して、おやじとおふくろに、俺がここにいるって知らせた。
その俺の声は、なぜだか女みたいな甲高い声なのが気になった。
だけど、その俺の声に気づいて、おやじたちがこっちを向いてくれた、今は気にしないことにしよう。
「こっちこっち!」
なぜだか嬉しくなって、俺は両親に手を振っていた。
手を振っている時、着物の長い裾が、少し邪魔に感じられた。
着物? 長い裾? なんで俺がこんなの着てるんだ?
そのことに疑問を感じたけれど、その直後のおふくろの返事に、そんなことを気にする余裕は吹き飛んだ。
「あなたは誰?」
おふくろの、俺を他人でも見るようなその目とその返事に、俺は血の気が引いた。
「俺だよおふくろ、あんたの息子の清彦だよ!」
俺の声は、相変わらず甲高かった。
清彦だと名乗った後、咳払いしたけど、甲高い声は直らなかった。
「何を言っているのよ、あなたが私の息子の訳がないでしょ、だってあなたは女の子じゃないの!」
「そうだ、俺の息子はれっきとした男だ、女じゃない!」
両親に俺の存在が否定されて、今度は頭に血が上った。
「もっとよく見てくれよ、俺のどこが女なんだよ!!」
そう主張しながら、俺は自分の胸を手のひらでどんと叩いた。
ふにゃ、と手のひらから柔らかい感触、えっ?
慌てて自分の身体を見下ろすと、俺は女物っぽい着物を着て、女っぽいはかまを穿いていた。
そしていつもより身体が縮んでいて、その胸元には、まるで女みたいな緩やかな膨らみがあった。
まさか!
俺は股間に手を滑らせた。股間にあったはずの、俺の男のシンボルが存在しなかった。
いったいどうなってるんだよこれ!
もしかして俺、本当に女になっちまったのかよ!
「信じてくれよ、俺は本当に清彦なんだよ!」
そう主張しながら、俺は正面にいる両親のほうを見た。
「えっ、いない?」
俺の両親は、煙のように掻き消えていた。
「おやじ~、おふくろ~、いったいどこへ行ったんだよ!」
俺は不安にかられながら、両親の姿を探した。
俺の身体が女になってて、俺が両親に清彦と認識されなくて、このまま見捨ててしまうんじゃないかって恐怖を感じた。
そのとき、別の声が聞こえた。
「バカ清彦、私を置いてどこへ行ったのよ!」
その声は双葉!
「ここだよ双葉、俺はここにいる!」
俺は双葉に、俺の存在を主張した。
双葉なら、双葉なら俺のことをわかってくれる。
姿が女に変わっていても、見分けてくれる。そんな気がして。
だけどその期待は、あっさり打ち砕かれた。
「あなた誰?」
双葉も俺のことを、他人を見るような目で見つめていた。
双葉も、俺のことがわからないのか?
絶望感を感じながらも、それでも俺は主張せずにはいられなかった。
「もっとよく見てくれよ、身体は女かもしれないけれど、俺は本当に清彦なんだ!」
「あんたが清彦のわけないでしょ、そこの鏡で、自分の顔をよく確かめてみなさいよ!」
「鏡?」
言われた方を見てみれば、いつのまにか、旧校舎の開かずの扉の部屋にあった、あの鏡がそこにあった。
そしてその鏡に映っていたのは、清彦じゃなくて、着物にはかま姿の女の子、野泉鈴音の姿だった。
「違うんだ双葉! これは……いない!」
いつの間にか、双葉もいなくなっていた。
俺は慌てて、双葉の姿を求めて、辺りを見回した。
すると、ついさっき、鈴音の姿を映していた鏡に、双葉の姿が映っていた。
鏡の向こうで、双葉は誰かと一緒に居た。
あれは誰だ! ……あれは俺? 清彦!?
清彦は双葉をエスコートしていた。
一緒に居る双葉が楽しそうで、いつもの俺よりも上手くやっていた。
あれは俺だけど俺じゃない! あれは誰だ?
そんな清彦に、俺は嫉妬した。
双葉に触るな! くっつくな! 双葉から離れろ!!
だけど、鏡の向こうに、俺の声は届かない。
向こうで二人は楽しそうに話をしているけど、その声も聞こえない。
俺は双葉と、鏡の壁に隔てられて、俺は歯噛みしていた。
ふと、声が聞こえないはずの向こうの俺が、振り返った。
そして、一瞬にやりと笑った。
その瞬間、おれは悟った。あの清彦は鈴音だ! と。
双葉、そいつは本当の俺じゃない!
本当の俺はここにいるんだ! 待ってくれ! 気づいてくれ!
双葉っ、ふたば~っ!!
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……様! 鈴音お嬢様!」
誰かの呼び声に、俺ははっと目を覚ました。
俺はがばっと跳ね起きた。
はあはあと、寝覚めの俺の呼吸は荒かった。
寝汗もかいていて、背中のあたりがぐっしょり冷たかった。
何かつい今まで、嫌な夢を見ていたような気がする。
そのせいだろうか、目が覚めたことに、俺はどこかほっとしていた。
俺はゆっくりと、呼吸を整えた。
気分が落ち着いてくると、ようやく周りが見えてきた。
あれ、ここはどこだっけ?
俺が寝ていたのは、洋館の広い部屋の高級そうなベッドの上だった。
「お嬢様、お目覚めになられましたか」
そんな俺の目の前には、着物姿の、どこかほっとした表情の女の子の顔。
俺は一瞬、この子は誰だっけ? と思った。だけどすぐにピンときて思い出した。
ああそうだった、この子は俺付きの女中のお菊だったっけ。
……俺付きの女中!?
なんで一般庶民の俺に、そんなものが付いてるんだ?
その疑問に、またピンときて思い出した。
そうだった、今の俺は、この野泉家の野泉鈴音お嬢様なんだった。
お嬢様!? 野泉鈴音!!
俺は慌てて自分の身体を見下ろした。
俺は寝る前に身に着けた、ワンピース姿だった。
確かめるように、胸元に手を滑らせると、俺の手のひらには、小さいながらも柔らかい膨らみを感じた。
今の俺は男の清彦じゃない、今は女の鈴音なんだ。
今の俺は、あの時あの鏡で、野泉鈴音と入れ替わってしまっていたんだ。
そして俺は、鈴音としてこの家に帰ってきて、慣れない環境に気疲れして、このベッドで寝てしまっていたんだ。
次に目が覚めたときに、元に戻っていることに期待しながら。
そのことを思い出しながら、目覚めた後も、やっぱり元に戻ることはなく、鈴音のままだったことに気がついて、俺は落胆しながら項垂れたのだった。
そんな俺に、お菊は恐る恐る、だけど心配そうに口を開いた。
「鈴音お嬢様、ずいぶんうなされておられましたが、何か怖い夢でも見られていましたか?」
「怖い夢? そうかもしれない。……どんな夢だったか、忘れちゃったけど」
怖いというよりも、何か腹立たしい内容だったような気がする。
どんな夢だったのか、思い出せないけど。
こういうときは、思い出せないほうがいいのかもしれないが、どこかすっきりしない。
「双葉、というお方は、お嬢様のご学友なのでしょうか?」
「双葉? なんであなたがその名前を?」
お菊の口からその名前を聞いて、俺はどきりとした。
双葉はこの時代の人間じゃない、百年後の人間だ、お菊が知ってるはずはないのに何でだ?
「いえ、お嬢様が夢でうなされながら、しきりにそのお方の名前を呼んでおられましたから、つい気になってしまって、差し出口をはさんでしまって申し訳ありません」
「夢でうなされながら? ……そう、教えてくれてありがとう」
どんな夢だったか思い出せないのは残念だけど、その名前を聞いた瞬間から、俺の胸の奥がちくちく痛んでいた。
息が苦しくて、なんだか切ない気分になっていた。
俺は、こんな状況になって、はじめて自分の気持ちに気が付いたんだ。
俺は、双葉のことが好きだったんだ。って。
会いたい。双葉に会いたい。
会って俺のこの気持ちを伝えたい。
だけど今の俺は、鈴音の姿になっていて、百年前の世界にいる。
こんなことになってしまって、どうすればいいんだ?
ひょっとして、俺はもう双葉に会えないのか?
いやだ、双葉に会いたい。もう一度双葉に会って、俺のこの気持ちを伝えるんだ!
でもどうやったら、元の俺に戻って、もう一度双葉に会えるんだ?
「お嬢様、どうかなされたのですか、そんなに悲しそうな顔をされて」
「悲しそうな顔? 私はそんなに悲しそうな顔をしていた?」
「はい、とてもお辛そうです。やはり私は、余計な差し出口を挟んでしまったでしょうか?」
まるで自分のせいで俺に悲しそうな顔をさせてしまったと、責任を感じて申し訳なさそうなお菊の様子に、俺は慌てて否定した。
俺はお菊に感謝こそすれ、そんな申し訳なさそうにされることはなにもない。
「なんでもないわ、少なくともお菊のせいではないわ。それよりも、お菊は何か用があって、私の元へ来たのではなくて?」
俺は話題を変えさせた。
少なくともお菊は、ベッドで仮眠をしていた俺を、起こしに来た訳ではないだろう。
そして、話題を変えさせたことで、俺自身も気持ちを切り替えることができたんだ。
「そうでした。夕食の準備が整いましたので、部屋にお持ちしました」
「夕食、もうそんな時間なの?」
そう言われてみれば、この部屋の中は薄暗くなっていた。
寝ている間に、こんな時間になってしまった。
今何時だろうか? 少なくとももう夕方なんだ、何か明かりを点けなきゃ。
「明かりを点けます」
俺の意図を察したのか、お菊は素早く壁際に移動して、電気のスイッチを入れた。
天井から吊り下げられた、シャンデリアっぽい装飾の白熱電球に明かりが点り、ぱっと部屋が明るくなった。
でも、なんとなく蛍光灯よりは、暗いような気がした。
そうか、この時代は、まだ蛍光灯がないんだ。
でも、電球はあるんだな。
などと、俺は変な感想を抱いていた。
その後お菊は、テーブルの上に、運んできていた夕食を並べてくれた。
「ありがとう、もう下がってもいいわ」
「失礼しました」
一礼して、お菊は部屋から出て行った。
後に一人残された俺は、ほっとしながらテーブルについて、並べられた夕食を見た。
ご飯に、味噌汁に、焼き魚に、お新香。
「……普通の夕食なんだ。それも和食」
鈴音はこういう洋館に住んでいるお嬢様なんだから、もっと洋食っぽいご馳走を食べているのかと思っていた。
いや、洋食も食べるし、庶民の食べられないすごいご馳走を食べることもあるけど、野泉家の普段の食生活はこういうものなんだ。
俺はこれから野泉鈴音としてこの野泉家で生活しながら、そんなことを少しづつ理解していくことになるのだった。
まあいい、いまはともかく、夕食を済ませてしまおう。
「いただきます」
俺は朱塗りの箸を手に取った。
使い慣れた箸のように、今の小さな俺の手に馴染んでいた。
まずご飯を口に運ぶ。普通に美味しかった。
「俺、魚って、あまり好きじゃないんだよな。骨とかあるし。まあ食べるけど」
俺は箸の先で、魚の身を小さくちぎって、口の先に運んだ。
「あれ、この魚、意外に美味しい」
それに、いつもは悪戦苦闘する魚を、今は器用に箸を使って食べられていた。
魚が美味しいので、ご飯もどんどん進む。
お腹もすいていたし、俺はいつの間にか夢中になって夕食を食べていた。
だけど、清彦だった時のように、がつがつかきもむような食べ方じゃなく、お行儀よく少量ずつ箸を進めていた。
もしお菊が、今の俺の夕食を食べる姿を見ていたら、普通にこう思うだろう。
「鈴音お嬢様は、相変わらずお行儀がよくて、夕食を食べる姿もお美しい」と。
だけどそのことを、俺はこの時は自覚していなかったのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
夕食を食べ終わった時には、俺は満足していた。
「ごちそうさま」
夕食が終わるタイミングを、計っていたかのようにお菊が現れて、食器は素早く片付けられた。
鈴音の部屋に置いてある置時計を見てみると、時刻は七時を少し回っていた。外もさすがに暗くなっていた。
さて、これから自由時間だけど、この後どうする?
この部屋に帰ってきた後にも思っていたことだが、ここには携帯ゲームやスマホはない。
テレビもネットができるPCもない。あの時にも思った事だが、本当にどうしよう?
「いつもなら、そろそろ夕食の時間か……」
そういえば、たしか今日は出掛けに、おふくろが、「今夜はカレーよ」と言っていたような気がする。
そんなおふくろに、俺は、「うええ、またカレーかよ、手抜きばっかするんじゃねえよ」って言い返したっけか?
たった今、夕食を済ませたばかりなので、空腹感はない。それどころか満足していた、そのはずなのに。
「おふくろのカレーか、食べたかったな」
そんなことを思い出していたら、無性にカレーを食べたくなった。
おふくろは、一度カレーを作ると、翌日の分くらいまで多めに作り置きをする。
今日がダメでも明日に帰れれば、残った作り置きを食べられるだろうか?
俺の目頭が熱くなって、急に部屋の景色がにじんだ。
俺は指先で目頭を拭った。
「帰りてえ、やっぱり元の俺の家にかえりてえ、帰っておふくろに会いてえよ」
拭っても拭っても、堰を切ったかのように、涙がぽろぽろ流れ出て止まらなかった。
俺ってこんなに泣き虫だったっけか?
そういえば、小さい頃は泣き虫で、些細なことでいつも泣いていたっけ。
そして、そんな時はいつも双葉が……。
「きよひこくんのなきむし、またないてるの」
「だって……」
「きよひこくんはおとこのこでしょ! おとこのこは、泣いてちゃだめなんだからね!」
「そんないじわるいわれるなら、ぼく、おんなのこでいいよ」
「だめ、きよひこくんは、ぜったいおとこのこなの!」
「だってふたばは、きよひこくんがすきだもん、だからきよひこくんは、おとこのこじゃないとだめなの!」
「ふたばちゃんは、ぼくがすき? ぼくがおとこのこじゃないとだめ?」
「だから、なかないで」
「……うん、もうなかないよふたばちゃん、、ぼくがんばる」
「うん、いいこいいこ」
そんなことを思い出していたら、俺の目には、余計に涙が溢れてきた。
ちくしょう、あれから強い男になろうと努力して、いつのまにか俺は、泣き虫を返上していたはずだったんだ。
なのに今の俺はすっかり泣き虫で、涙がちっとも止められなかった。
今は身体が女になってしまったから、俺は昔の泣き虫に戻っちまったのか?
だとしたら、すげえ皮肉だな。
「会いてえ、双葉にも会いてえ」
もし今、双葉に会えたら、俺はどうするだろうか?
そのまま双葉に泣きつくだろうか?
それとも強がって、泣くのをこらえようとするのだろうか?
あれから少し泣いて、泣き止んだ頃、コンコン、とドアをノックする音。
「失礼します」と、お菊がこの部屋へ入ってきた。
「鈴音お嬢様、……泣いておられたのですか?」
まずい、もう泣き止んでたんだけど、涙でぐしゃぐしゃな顔を見られたか。
ここはごまかさないと、俺は強く否定した。
「なんでもないわ! それにあなたには関係ないわ!」
「失礼いたしました。出すぎたことを言って申し訳ありませんでした」
お菊さんは、普通に心配してくれたんだろうから、こうやって突き放すのは心が痛かった。
だけど今の俺は、余計な詮索はされたくなかった。
「それで、何か用?」
「はい、お風呂の用意が出来ましたので、お嬢様をお呼びに来ました」
「そう、お風呂の用意がね」
……ちょっと待て、お風呂の用意って!!
もしかして、このままだと、俺が鈴音の身体で、風呂に入ることになるんじゃないか?
いいのか俺?
ここで俺は、ふと(鈴音の記憶を)思い出した。
「今日はいつもより、お風呂の時刻が早いんじゃなくて?」
「はい、今日は旦那様が、おられませんので」
「お父様がおられない? なぜ?」
「はい、横浜へ出かけられていた旦那様から、夕方に今日はお戻りになられないとの連絡がありました」
そんな話は聞いていなかった。
だけど今日は、俺が鈴音の家族と一緒の夕食を避けて、鈴音の部屋に篭っていたのだから、そのことを知る機会がなくても仕方がなかった。
「それで、お父様がおられない分、いつもよりお風呂の時刻が早くなった。ということなのですね?」
「はい、その通りです」
「そう、わかりましたわ」
どういうことなのかというと、この家ではこういう時の序列や順番は決まっている。
この野泉家の序列は、この家の主人であるお父様が、一番と決まっている。
次に、跡継ぎで長男である、鈴音の弟の誠二が二番目と、まず男が序列が上で優遇される。
三番目からは、女で年齢が上のお婆様が、次にお母様と続いて、最後に家族の一番下っ端に、鈴音が来る序列になっていた。
お風呂の順番も、だいたいこの序列に当てはまっている。
一番風呂はお父様、二番目は弟の誠二と、
三番目には、本来ならば序列的にはお婆様のはずなのだが、この場合は、子供の鈴音を優先して三番目にお風呂、ということになっていた。
ちなみに、この家の使用人たちは、その後の残り湯を使うことができるらしいが、その辺の細かい順番や取り決めまではよくわからない。
説明が長くなったが、そんな訳で、今日は父親がいない&お風呂は早上がりな弟の順番が終わった。なので、いつもより早く鈴音の順番が回って来たということだった。
そして問題なのは、そんなことじゃない。
『鈴音の身体で、俺が風呂に入ってもいいのか?』
最初の問題に戻るのだった。
真っ先に思いついたのは、何か理由をつけて、お風呂を回避することだった。
もし明日、元の身体に戻れるなら、今日のお風呂くらい入らなくても大丈夫だろう。
一瞬そう思いかけて、でも俺の中の何かが、強く反発した。
『嫌だ! 結構汗もかいたんだし、お風呂に入らないで、このまま身体が汚れたままだなんてありえない!
それに、こんな状況なんだ、せめてお風呂にゆっくり浸かって、心身の疲れを癒したい』
そんな気持ちが、急に強くなったんだ。
そしてそうだと決めたら、居ても立ってもいられなかった。
俺はお菊に、すぐお風呂に入ると伝えた。
「承知しました」
俺はお菊と一緒に脱衣所へと移動した。
そして、俺の着替えを、お菊にまかせた。
お菊は手馴れた感じで、俺の身に着けている服を脱がせていく。
この家に帰ってきた直後に、一度経験しているから、別に驚きはしない。
だけど、こうして他人に奉仕されるのって、やっぱり慣れないし、気分が落ち着かないな。
やがて俺は、一糸纏わぬ生まれたままの姿になった。
うう、やっぱりちょっと恥ずかしいな。
そのときお菊が、なぜだか恐る恐るって感じで、口を開いた。
「鈴音お嬢様、もしよろしければ、お背中をお流ししましょうか?」
お菊はなぜそんな事を聞くのだろう?
俺は、いつもの鈴音ならどうだったのか? を思い出す。
いつもの鈴音は、この後は一人でお風呂に入っていた。
幼い頃なら(ばあやに見てもらった)ともかく、女学院に上がった頃には、一人で入るようになっていた。
思春期に入った鈴音は、一人でお風呂に入りたがるようになったのだ。
なので鈴音は、普段の生活ではお菊の世話になっているが、お風呂ではお菊に背中を流してもらったことはない。
なのになんでお菊は、わざわざこんな事を聞くのだろう?
きっと今の俺は、普段の鈴音よりも、微妙にたよりなく見えるのだろう。
だから、世話を焼きたがるのではないだろうか?
「私は大丈夫、一人で入れるからいいわ」
「承知しました。すぐそこで控えておりますので、ご用のときはいつでも声をおかけくださいませ」
「……ありがとう」
「!!? もったいないお言葉です」
なんてやり取りの後、俺は一人で浴室に入ったのだった。
お菊にはついさっき、泣いた後の顔を、見せちまったからなあ。
やっぱりそれで、心配させちまったかな。
下手なことをして、怪しまれないように、気をつけないとな。
ちょっと反省しながら、俺は浴室の中を見回した。
浴室は結構広かった。
そして浴槽も、木でできた結構大きなものだった。
「これって檜風呂ってやつなのかな?」
浴室も浴槽も、現代の俺の家のユニットバスよりも大きくて広かった。
だけど、現代の俺の家の風呂にあって、ここにないものがあった。
「シャワー、どうしよう?」
いつもだったら、俺は風呂に入る前に、まずシャワーを浴びて、汗を流してさっぱりしてから風呂へ入っていた。
だけどこの時代、シャワーはまだ一般的ではないのだろう。
こんな大豪邸なのに、さすがにシャワーは設置されていなかった。
シャワーなしで、鈴音はどうしていたんだろう?
そう思った瞬間に、俺は鈴音がどうしていたのかを思いだした。
「そうか、掛け湯をしていたのか」
俺は早速、浴槽の側に置いてあった木の桶で、浴槽のお湯を汲んで、まず一杯身体にお湯をかけた。
「ひゃあ、少し熱っちい!」
だけど、お湯が心地よかった。
そして続けて、掛け湯で身体を洗おうとして、はたと気がついた。
「えっ、……このまま続けても、いいのだろうか?」
何を今更なことだが、今の自分の身体が、女の子の身体だということを、俺は改めて意識しだしたのだった。
今までは、できるだけ鈴音の身体を見ないようにとか、できるだけ触らないようにとか、わりと鈴音に遠慮して気を使っていた。
この家に来てからの着替えや脱衣は、お菊が着せ替えしてくれたので、必要以上に身体を見なくても済んでいた。
まあ、トイレのときは、股間を拭いたり触ったりしたけど、それでもあまり見ないようにしていた。
……普通のエロ男子だったら、とっくの昔に、この身体で色々エロイことやっていただろうな。
まあ、エロイことをするかどうかはともかく、ちょっと遠慮しすぎだったような気はするけどな。
これからは、元の俺に戻れないうちは、当分この身体が俺の身体なんだ。
いい加減に覚悟を決めろ!
俺は俺自身にそう言い聞かせた。
俺はえいっと、自分の身体を見下ろした。
「み、見ちまった……」
俺の胸元には、小ぶりなおっぱいが見えて、さらにその先のまだ毛の生えていない股間には、つるっとした綺麗な割れ目が存在していた。
そう、綺麗だと思って、俺はつい、見とれてしまってたんだ。
はっとして、あわてて視線を逸らした。……なにをやってるんだ俺は!
俺は気恥ずかしくなって、思わず赤面していた。
ちらっと股間の割れ目を見ただけだけど、それでもそれは綺麗だと思った。
これは排泄のための割れ目なんだ、本来なら綺麗なはずはないんだ。
それでも綺麗だと思った。
これが俺の身体の一部だなんて、なんだか信じられなかった。
いけね、こんなことしてねえで、さっさと身体を洗わなきゃ。
でも、やっぱり意識するなっていうのは、しばらく無理かもな。
俺は女の子な自分の身体にどぎまぎしながらも、浴槽のお湯を汲んで、掛け湯で身体を洗い始めた。
最初は俺は、恐る恐るって感じで、掛け湯で軽く身体を洗い流していた。
お湯で濡らした俺の白い肌の表面を、細い指先を滑らせる感触が心地良かった。
そうやっているうちに、『今はこの身体は俺の身体なんだ』という気持ちが強くなってきた。
段々俺の手の動きや気持ちに、遠慮がなくなってきた。
おっぱいやお尻も、自然に手を動かして、さっとお湯で洗い流した。
あそこのほうは、さすがにちょっと躊躇したけど、それでもお湯を掛けながら、そっと洗い流した。
さあ、いよいよ念願のお風呂だ。
でもその前に、湯加減はどうなった?
俺は浴槽のお湯をかき混ぜて、熱さを見てみた。
……やっぱり少し熱いな。もう少しこのまま水で薄めよう。
最初の掛け湯の時に、浴槽のお湯は少し熱かったので、俺は浴槽脇の水道の水を適度に出しっぱなしにしておいたんだ。
さっきの掛け湯は、この水と、浴槽のお湯を混ぜながらしていたんだ。
ちなみにこのお風呂のお湯は、浴室のすぐ外の風呂釜に、風呂焚き担当の使用人が薪をくべて焚いていた。
今は保温程度の弱い火力で待機している状態だけど、もし俺がお湯が温いって言えば、また薪をくべるって流れになっていたんだ。
もっともこの時点では、俺にはこの風呂に関して、そこまでの知識はなかったし、特に思い出さなかった。なので使用人に指示をする発想もなかった。
あと、浴槽のお湯の調整も、脱衣所に待機しているお菊に言えば、やってもらえたはずだけど、これまた俺には、お菊にそう指示する発想がなかった。
もっとも、元の鈴音も、浴槽のお湯の調整に関しては、自分で自分好みの熱さにするのを好んで、あまりお菊に指示はしなかったようだ。
とかやっている間に、浴槽のお湯が水で薄まってきた。うん、いい感じだ。
俺は水道の水を止めたあと、ゆっくりと浴槽に入って、お湯に浸かった。
「ふう、いい湯だな」
ようやくひと心地つけた。
お風呂に入る前は、この身体は着物や服を着ていて、肝心な部分は隠されていた。
だけどお風呂に入るために、素っ裸になってからは、この身体はずっともろ見え、もろ触り状態だった。
今の自分が女なんだってことを、俺は改めて意識させられていた。
女の子な自分の身体に、俺は興味津々だった。
それでも俺は、どこか鈴音に遠慮していた。というか、この期に及んでまだヘたれだった。
堂々と触るのではなく、身体を洗っているときは、どさくさ紛れに身体に触るって感じだったんた。
こうしてお風呂に浸かっていると、だんだん気持ちが落ち着いてきた。
だけどまだ、今の自分の身体に、俺は興味津々だった。
どさくさ紛れとはいえ、あちこち触っているうちに、俺の心の中のハードルが下がっていたんだ。
今は俺の身体なんだし、もうちょっとくらい触ってもいいよね。
目の前に、自分の手をかざしてみた。
生っ白くて、細くて、小さな手だよな。
その小さな手で、男の俺にはなかった胸元の膨らみに、そっと触ってみた。
今の俺の小さな手に収まる、小さなおっぱいだけど、柔らかな弾力があって、触り心地は良かった。
その小さなおっぱいを、そのままそっと撫でてみた。
昔、敏明たちと鑑賞したエロDVDなんかだと、AV女優は胸を触られて、気持ち良さそうにあえぎ声をあげていたっけ。
だけど、こうして実際に胸に触ってみても、思っていたほど気持ちよいって感じはなく、どちらかというとくすぐったいって感じた。
まあ、男の時よりは、乳首が敏感って感じだけど、それほど気持ちよくないのは、自分で触っているからなのかな?
それともこの身体が、まだ性的に開発されていないからなのか?
それでも、女の子のおっぱいを、俺の自由に触っているというこのシチュエーションに、俺の気分は高揚していた。
まあいいや、それならこっちはどうか、と思いながら、俺はおっぱいから手を離し、その手をそっと股間へとずらした。
もし俺が男の清彦だったら、股間にあるはずのものが、今の身体にはない。
かわりに、そこには女の割れ目があった。
今更だけど、ここにちんこないって、変な感じだな。
俺は、女になりたいとか、女に生まれたかったとか、思ったことはない。
だけど、ちょっとの間なら女になってみたい、男と女の感覚の違いを体験してみたいって、興味本位で思ったことならあった。
そして今の状況は、ちょっとの間で済むかどうかはともかく、女の感覚がどんなものなのかを、実際に体験するチャンスではあった。
元の鈴音に悪いって気持ちはまだあったけど、今は女の子の身体への興味のほうが勝った。
今は俺が鈴音なんだ。だからいいんだ。
俺は股間の割れ目の中へと指を滑らせた。
期待感でゾクゾクしていた。
慎重にまさぐっていると、指先がちっちゃな突起物に触れた。
その瞬間、俺の身体が、電流が走るような快感に包まれた。
「これって……クリトリス? これが、女の快感?」
俺は初めて味わう女の快感を、もっと味わいたくて、それを指先で慎重に弄りつづけた。
俺は知らなかったことだが、鈴音は今までオナニーをしたことはなかった。
根が真面目だったこともあるだろうが、現代のようにネットや雑誌でそういう情報は簡単に入ってこない。
女学院の育ちの良い女友達と、そのての会話もしていなかったようで、そんなことをする発想もなかったようだ。
なので、この身体でオナニーをしたのは、実質これが初めてで、俺が初めてだった。
そして鈴音の身体は、その初めての経験に戸惑っているみたいだった。
だけど俺自身も、女の身体でのオナニーは初めてで、快感を感じながらも、身体と一緒に戸惑っていた。
戸惑いながらも、鈴音の身体も、俺の心も、もっと気持ちよくなりたいと感じていた。
オナニーをすることで、鈴音の身体と俺の心のズレが、俺の自覚しないうちに少しづつ修正されていった。
慎重だった俺の指の動きが、だんだん大胆になっていく。快感も高揚した気持ちも高まっていく。
あまりの気持ちよさに、ついあえぎ声を上げそうになりながら、どうにか俺は抑えた。
外には風呂焚き担当の使用人がいて、脱衣所にはお菊がいる。そんな声を聞かれたくなかった。
そして俺は、「…………っ!!」
男の時の射精とは違う長い絶頂をむかえて、頭の中が真っ白になったんだ。
オナニーで絶頂を迎えた後、俺は風呂に浸かりながら、しばらくぼんやりしていた。
「……ずるい、女のほうが気持ちいいなんて、……なんだかずるい」
まだ身体に残っている、オナニーの余韻に浸りながら、俺はそんな風に思っていた。
これが男の時だったら、絶頂のあと、急激に気持ちが醒めて賢者タイムに入っていた所だろう。
だけど、このときの俺は、まだ残るオナニーの余韻のせいでか、身体も心もふわふわしていた。
こんなに気持ちがいいのなら、もうしばらく、この身体のままでもいいかもな。
などと思いかけて、さすがにはっと気づいて、慌てて頭を振った。
いやいや、女のほうが気持ちいいからって、ずっと女のままでいいなんて、さすがにそれはない。
元の身体に戻れるのなら、元に戻りたいし戻らなきゃ。
……さすがにちょっとのぼせてきたかな、色々と、そろそろ風呂から上がって、頭を冷やさなきゃ。
俺はゆっくりと風呂から上がった。
俺は風呂から上がり、浴室を出た。
脱衣所で待機していたお菊が、心配そうに顔色をかえて俺の側に寄って来た。
「鈴音お嬢様、お風呂のお湯でのぼせられましたか?」
一瞬、オナニーのことがお菊にばれたのか? と思ってドキッとしたが、そうではないようでほっとした。
「……そうね、ちょっとだけ、のぼせちゃったみたい。でも大丈夫よ」
風呂から上がった俺は、浴室を出た。
風呂上りの俺は、頭の中がふわふわしてて、足取りもふらふらしていた。
そんな俺を見て、脱衣所で待機していたお菊が、あわてて寄って来て、ふらふらしていた俺を支えてくれた。
「鈴音お嬢様、どうかなさいましたか!」
「……ちょっとだけ、のぼせちゃったかな。でも大丈夫よ」
「大丈夫ではありません。お嬢様、こちらへ……落ち着くまで、少し休んでいてください」
脱衣所内の椅子のほうに連れて行かれて、藤で編んだ椅子に座らされた。
「お嬢様これを」
「あ、お水」
休んでいる俺に、お菊が水を持ってきてくれた。
風呂上りののぼせ気味の今の俺には、冷たい水が美味しかった。
それが仕事なんだろうけど、お菊は俺が落ち着くまで、かいがいしく俺の世話を焼いてくれた。
なんだかそれが嬉しかった。
「お菊」
「はい」
「ありがとうね」
「そんな、……もったいないお言葉です」
俺のお礼の言葉に、なぜだかお菊は恐縮していた。
少し休んでいるうちに、お風呂(それともオナニー?)で火照った身体が冷えてきた。
同時に、気持ちのほうも段々落ち着いてきて、冷静になってきた。
浴室でのことを改めて思い出しながら、俺は、やっちゃったか。と思った。
こんな状況なんだし、着替えやお風呂で、この身体を見たり触ったりするのは仕方がない事だと思う。
だけど。オナニーはやりすぎたか?
もし鈴音本人に、そのことを問い詰められたら、俺は言い訳なんてできない立場のはずだった。
『今は俺の身体なんだ。それにお嬢様なんて、面倒な立場を押し付けられてるんだし、ちょっとくらい、役得があってもいいだろ!』
だけど俺は、同時に開き直っていたんだ。
『今は俺の身体なんだ! それが嫌なら、鈴音は俺から、この身体を取り返せばいいんだ!』
俺は俺自身に言い訳するように、そう言い聞かせていた。
この後、俺は当たり前のように、お菊に服を着せてもらった。
そして俺は、着替えが終わった直後に、そのことに気が付いた。
あれ、なんで俺、ナチュラルにお菊の奉仕を受けていたんだ?
お菊は鈴音専属の女中なんだから、今は鈴音の俺がその奉仕を受けるのは、当たり前のことなんだろうけど、
ついさっきまでの俺は、そうだとわかっていても、お菊に身の回りの世話をしてもらうことに、申し訳なさを感じていた。
なのに今は、特に意識していなかったからなのか、俺は当たり前のように、お菊の奉仕を受け入れていたんだ。
いやいや、意識していなかったとしたら、普段の俺なら自分で着替えをしようとしたはずなんだ。
なのに今回は……。
「鈴音お嬢様、どうかなさいましたか? もしかして私、お嬢様に何か粗相でも致しましたか?」
そんな不安そうな表情のお菊に、俺は慌てて否定した。
「粗相なんて、なにもないわ。お菊はよくやってくれているって、感謝しているくらいだわよ。ありがとうね」
「そんな、また、私などにはもったいないお言葉です」
そう言って恐縮しながらも、お菊は嬉しそうに微笑んでくれた。
(今日のお嬢様はお優しい。いったいどうなされたんだろう?)
そんなお菊の様子を見て、俺はほっとした。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
鈴音の部屋に戻ってきて、お菊が退室して俺一人になって、俺はほっと一息ついた。
ここは他人の、それも女の子の部屋のはずなのに、今はとにかくほっとしたんだ。
おそらく、一人になれたからだろうな。
さて、この後はどうしようか、と思った所で、尿意を感じてきた。
おそらく、ほっとして気が緩んだせいだろう。
それはともかく、この時代の鈴音の身体になって、これで三度目のトイレだ。
(ちなみに二度目は、帰ってきた直後の、鈴音の部屋で落ち着いた頃だった)
トイレにはもう二度も行ってるし、ついさっきお風呂にも入った。今更だよな。
そんな風に、ある意味開き直りながら、俺はトイレに向かった。
帰宅したすぐ後に、一度ここのトイレに行っているから、場所はわかっている。
迷わずトイレに入った。
そしてスカートをたくし上げて、ズロースをずり下げてしゃがんだ。
そして普通におしっこを済ませて、備え付けの紙で濡れた股間を拭いたのだった。
あれ、なんで俺、ナチュラルにトイレを済ませてるんだ?
まるで、いつもこうしていたみたいに、やたら自然な動作で……。
トイレを済ませた後は、洗面所で手を洗った。
最初のトイレの時からそうだったけど、さっと手を洗うのでは気がすまなくて、念入りに手を洗っていた。
手を洗いながら、ふと正面の鏡を見た。
鏡の中の俺は、なんだか浮かない顔をしているな。……俺の顔!?
はっとして、俺は鏡を見直した。
鏡に映っているのは、鈴音の顔、鈴音の姿だった
違う違う、これは俺じゃない、鈴音なんだ!
なのに俺は、鈴音の顔を、俺の顔って認識していたのか?
「こいつは俺じゃない! こいつは鈴音なんだ!」
俺は改めて俺自身にそう言い聞かせた。
手を洗い終わった後、俺はそそくさと洗面所を後にして、鈴音の部屋に戻ったのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
部屋の戻った俺は、俺自身の変化について考えた。
少なくとも、お風呂に入る前は、この身体への違和感は、もう少し大きかったような気がする。
「なのに今は、なんか違和感が、小さくなっているような気がするんだよな」
例えるなら、下ろしたての、最初は身体に合わなかった服が、だんだん着慣れて馴染んできたみたいな感じ?
だとしても、なんでこんな急に、身体が馴染んだりしたんだ?
いずれそうなるにしても、なんか早くないか?
「……やっぱりアレか? オナニーの刺激が強すぎたのか?」
そういえば、オナニーの後から、この身体が俺の身体っていう気分が強くなったような気がする。
このままじゃ、なんかまずくねえか?
いったいどうすりゃいいんだよ!
俺は頭を抱えた。
さっきは鈴音の身体で、変な調子に乗ったりもしていたけど、俺は鈴音になりたいわけじゃないんだ。
本当は元の時代の元の俺に戻りたいんだ。
だけど、この状況に流されたままじゃ、このまま俺は、大正時代の鈴音になりきってしまうような気がした。
そんなのはいやだ!
急に心細くなってきて、俺はまた泣きそうになってきた。
俺は元の俺の家に帰りたいんだ!
なのになんでこうなっちまったんだよ! 誰か、誰か俺を助けてくれよ!
そんな俺の脳裏に、また幼い頃の双葉の顔が浮かんだ。
「きよひこくんはおとこのこでしょ!
おとこのこは、泣いてちゃだめなんだからね!
ふたばは、おとこのこなきよひこくんが、すきなんだからね!」
そしてその脳裏の幼い双葉の顔が、高校生に成長した顔に変化した。
「だから清彦、待っててあげるから、帰ってきなさい」
双葉、……そうだ、ここで泣いていても、叫んでいても、どうにもならないんだ。
帰るんだ、俺は元の俺に戻って、双葉の元に帰るんだ。
折れそうになった俺の心が、気持ちが、双葉のことを想うことで、どうにか持ち直すことが出来たんだ。
この後は、これ以上鈴音に馴染み過ぎないように、刺激を抑えるようにしよう。
少なくとも、オナニーをするのは止めておこう。
この身体は俺の身体じゃない、借り物の身体なんだ!
と改めて自分に言い聞かせた。
どれだけ効果があるかわからないけど、心の歯止めはかけておきたかった。
気持ちを立て直せた俺は、この後をどうするのか考えた。
置時計を見てみると、時刻は八時を少し回ったくらい、まだ早い時間だった。
いつもの俺なら、TVでも見ているか、PCでネットでもしている頃だろうか。
この時代にはTVもPCもない。ラジオですらまだない。
いくら野泉家が大富豪で、鈴音がそのお嬢様でも、存在しないものは持ちようがなかった。
まあ、TVがあったとしても、さすがに今は見る気分にはならなかっただろうけどな。
PCやネットのほうは、もしあったら色々と調べたかもしれないが。
鈴音の部屋を見回して、ふと鈴音の机の上にあるものが目に入った。
鈴音の机の上には、鉛筆で描きさしのラフな絵があった。
「へえ、描写も細かいし、けっこう絵が上手いんだな」
鈴音って、勉強だけではなく、音楽が得意だったようだし、そのうえ絵まで描けるんだ。
俺とは違って、多芸多才で、なんでもできるんだな。
「でもこれって、絵と言うよりイラストって感じだな」
描かれていたのは着物姿の少女の絵だった。
その絵の隣には、この時代の少女雑誌がページを開いた状態で置かれていて、鈴音の絵に似たイラストが載っていた。
というより、鈴音が雑誌のイラストを真似て、この絵を描いたのだろう。
「そうそう、この絵が綺麗だなって思って、俺もこんな絵が描きたくなって、模写していたんだっけ。……違う、これって、鈴音の記憶か」
鈴音の記憶は、これまで何回も思い出しているんだし、何を今更驚くことがあるって気はするけど、
ただ、今の記憶は、ほとんどタイムラグなしで思い出したことと、まるで自分自身の記憶のように感じたことが怖かった。
「へえ、この時代にも、こんな雑誌があったんだ」
俺はそんな現実から目を逸らすように、その雑誌を手にとって見た。
現代ほど洗礼されていないけど、少女向けの小説や綺麗なイラストや、読者の投稿コーナーまであった。
そして鈴音は、真面目な優等生ではあったが、こういう少女雑誌も愛読していたようだった。
「……大正時代の真面目なお嬢様ってことで、なんだか鈴音にお堅いイメージがあったけど、こういうところは、現代の女の子とかわらないんだな」
俺の中での鈴音の印象が、少しだけ変わって、親近感を感じた。
まあ、それはそれとして。
「俺は絵が下手だから、こういうのには憧れるな。……もしかして」
俺は、ふとあることを思いついて、新しい紙を用意して、鉛筆を手に取った。
試しに、ドラ○もんを思い浮かべて、描いてみた。
まだこの時代には存在しないド○えもんが、俺の手でさらさらと簡単に描かれた。
「思ったとおりだ。今の俺は、鈴音の画力で絵が描けるんだ」
ただ、オナニーほどではないだろうけど、こういうことを繰り返していたら、心と身体がより馴染んでしまうような気はした。
「それでも俺は、描きたいものがあるんだ」
俺はさらに新しい紙を用意して、今度は気合を入れて絵を描き始めた。
清彦たった時とは、比べ物にならないくらい集中して、絵を描いた。そして。
「よし、できた!」
俺の手で描かれた絵は、この時代には存在しないはずの、ブレザーの制服姿の女子高生。
「思った以上に、上手くそっくりに描けてるよな。……なあ、そうだろう双葉」
幼馴染の双葉の絵だった。
俺は描き上げたばかりの双葉の絵を、そっと自分の胸に抱きしめた。
「双葉、俺、がんばるから、絶対お前のいる現代に帰るからな」
俺は双葉への想いと、その絵を心の支えにして、しばらくは鈴音の身代わりの生活をがんばることになる。
そして、想い人の絵を抱く、今の俺のその姿や仕草は、傍から見れば、恋する乙女のように見えた。
もっとも俺は、そんな今の自分の姿を見ることは出来ない。なので俺自身はそのことに気づいていない。
そんな俺の姿を目撃したのは……。
「鈴音お嬢様」
「えっ? あわわっ! お、お菊!?」
お菊はノックをしてから部屋に入ってきたのに、俺はお菊に声を掛けられるまで、そのことに気づいていなかった。
お菊の声に慌てて、別に隠し必要もないのに絵を背中に隠したりして、思わず挙動不審になってしまった。
「それで、何か用?」
俺は気まずい気分をどうにか取り繕いながら、お菊に問いかけた。
「はい、そろそろお休みのお時間なので、その準備に来ました」
「お休みの時間……」
置時計の時刻は、九時半を回っていた。
まだ早くないか?
そう思いかけて、それは現代の高校生の感覚だとすぐに気づいた。
あっちだと、夜遅くまで起きている、深夜型の生活をするのは、今では珍しくなかった。
俺の場合は、深夜番組やらPCやゲームなどで、起きている事が多かった。
あるいは俺は行っていなかったが、遅くまで塾に通うなんて生活をしてるやつもいたし、夜に遊びに行くやつすらいた。
だけどこの時代だと、夜に暗くなったら、一般庶民はわりと早く寝る。
そして鈴音の場合は、特に用のない時は、十時前までには眠っていたらしい。
そういえば、少し眠くなってきたような気がする。
慣れない環境での気疲れや、ついさっき集中して絵を描いていたから、その疲労もあるだろう。
だけどこの身体は、いつもこのくらいの時刻に眠っていた。
この身体にみに付いた、その生活リズムのせいでもあるのだろう。
鈴音の記憶で、いつもそうだとわかった。
だけど、まだ少し戸惑っていたが、眠くなってもきていたし、俺はその通りにすることにした。
俺はお菊の手伝いで、部屋着からピンク色のワンピースタイプの寝巻きに着替えた。
……色々と思うところはあるが、スケスケのネグリジェじゃないだけましだと思うことにする。
あとは寝る前に、顔を洗って歯を磨くだけだ。俺は洗面所へと移動した。
お菊はその間に、いつも通りに、ベッドの準備を整えておくようだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
#ここで少し、お菊視点
鈴音お嬢様が洗面所へ行った後、私はいつものようにベッドの準備を整えた。
たいしたことではないので、すぐに準備は済んだ。
時間が余ったので、こっそり机の上の絵を見み行った。
さっきから気になっていたのだ。
「今日のお嬢様は、いつもとは少し様子が違っていた。いったいどうなされたんだろう?」
その秘密が、あの絵にあるような気がした。
お嬢様は、まるで愛しい人でも抱くように、あの絵を抱いていた。
何が描かれているのだろう?
愛しい殿方の絵だろうか?
あのお見合いを渋っていたお嬢様が、いつのまに……。
いや、だからこそ、お見合いを渋っていたのかも。
「……これは? 女の人の絵?」
おかしな絵だった。
今まで見たことのない、不思議な洋装の女性、いや少女?
お嬢様と同世代だろうか?
まさか殿方ではなく、この方がお嬢様の想い人?
私は、なぜか胸の奥がちくっと痛んだ。
そしてなぜか、絵の少女に対して、嫉妬に似た感情を感じていた。なぜ?
その理由は、私にはわからなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
#視点、鈴音(清彦)戻ります。
洗面所へと移動した俺は、まず鈴音が使用していた歯ブラシを手に取った。
この時代にも、歯ブラシはあったんだ。
この時代に来てから、何度目かわからない、同じような感想を抱いていた。
大正時代って、意外に色々あるんだな。
ただ、現代のようなプラスチック製ではなく、木製の柄のブラシだった。
ブラシは何かの動物の毛だろうか?
まあこの際、つかえるのなら、材質は別に何でもよしとしよう。問題なのは……。
「……これって間接キスにならないか?」
鈴音の歯ブラシを鈴音が使うのだから、別に間接キスでも何でもないんだが、気分の問題だった。
それでも歯を磨かないで寝るわけにもいかない。
気にしすぎないようにしながら、さっさと歯磨きをすませよう。
それでも、心の中で一言、「ごめん」と謝りながら、俺はブラシに歯磨き粉をつけて、歯を磨きはじめたのだった。
歯磨きが終わった後は、顔を洗ってタオルで拭いた。
タオルで顔を拭きながら、鏡に映っている鈴音の顔を見た。
ついさっきは、まだ高揚した気分が残っていた時にこの顔を見て、無意識に自分の顔だと認識していた。
だけど今は、気分が落ち着いた冷静な状態なせいでもあるかもしれないが、この顔は他人の顔だと認識している。
そう、これは俺の顔じゃない、鈴音の顔なんだ。
顔や身体は鈴音でも、俺の心は清彦なんだ。まだ大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は自分を安心させたのだった。
洗顔と歯磨きが終わった俺は、鈴音の部屋へと戻った。
俺が部屋に入ると、お菊はなぜか慌てた様子で俺を出迎えた。
「おかえりなさいませお嬢様。寝所の準備は整えておきました」
そんなお菊を見て、俺はふと、しっかり者のお菊がこんなに慌てているなんて珍しいな。と思った。
いったい何で慌ててたんだ?
「そう、ご苦労さま」
俺はお菊にねぎらいの言葉を掛けながら、でもまあいいか、とも思った。
特に何か失敗をした訳でもなさそうだし、お菊だって人間なんだ、たまには慌てることくらいあるだろう。
主人と使用人との関係とはいえ、俺とお菊との付き合いは短くない。俺はお菊を信頼しているんだ。
それに、「ふぁ~あ」俺は急速に眠くなってきていたんだ。
お菊の前で、つい大口をあけて、あくびをしてしまうくらいに。
いけね、いくらお菊のことを信頼してるからって、はしたない姿をみせちまったな。
案の定、そんな俺に、お菊は苦言を呈してきた。
「お嬢様、あくびをするなとは申しませんが、せめて手で口元をお隠しくださいませ」
「わかってる。次からは気をつけるわ」
一応反省の言葉を口にしながら、後のことはお菊に任せることにして、俺はベッドに横になった。
「おやすみ、お菊」
「おやすみなさいませ、鈴音お嬢様」
心身ともに疲れていたせいだろうか、俺はあっという間に深い眠りについたんだ。
こうして、平成の現代から、百年前の大正時代の過去の世界に、意識だけが飛ばされての、俺の長い一日が終わったのだった。
そしてそれは、現代での俺の清彦としての人生が中断して、大正時代での鈴音としての人生が始まった日でもあったのだった。
一日目終了
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ここ清流女子学院は、明治末期に開校の女学校だ。
その三年一組の教室では、小袖にはかま姿の女学生たちが、午後の授業を受けていた。
やがて授業の終了の時間が来て、教室の外から終了時間を告げる風鈴の音が、チリンチリンと聞こえてきた。
それを合図に、一組の級長である俺が、「おジャンでございます」と掛け声をかけると、教室内で拍手が起こり、今日の授業は無事に終わった。
俺はほっと一息ついたのだった。
(大正時代の女学生たちの下校風景、イメージ)
あの日から一週間、俺はこの大正時代の野泉鈴音としての、この清流女子学院での生活にも、ようやく慣れてきていた。
後で振り返ってみて、あの時ああしていれば良かった。
こうしていれば良かった。
そう思うことはないだろうか?
あの日のことを思い返すと、いつもそう思う。
だって俺は、一週間前までは平成時代の男女共学、清流学院の男子生徒、檜山清彦だったのだから。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
清流学院は、現在では男女共学だが、過去を辿れば、明治の末期に創設された女子校だった。
現在の学院の敷地内には、鉄筋コンクリートの新校舎と、築百年以上前の木造の旧校舎の一部が併設されている。
もっとも旧校舎は、当時の貴重な洋風建築として、重要文化財だとかなんだとかで保存されている状態で、現在では使われていなかった。
基本的には、当時の歴史的な資料の展示など、資料館として使用されていた。
前置きが長くなったが、なぜわざわざこんなことを説明するのかというと、俺の事情を説明するためだ。
俺の名前は檜山清彦(17)、あの日までは、俺は清流学院に通う普通の男子高校生だったんだ。
現在では旧校舎は使われていないとはいっても、清掃は必要なので、掃除当番が割り振られていた。
そしてあの日は、俺の班が掃除当番だった。
「ちょっとまて、俺以外は誰も掃除当番に来ていないのかよ!」
他に当番だったやつらは、この日は部活があるだとか家の用事があるとかで、この時旧校舎に掃除に来ていたのは俺一人だったんだ。
まあ、普段使用していない建物だし、あまり汚れていないから、ここの掃除は楽といえば楽なんだけど、それでも来ているのが俺一人だけってのは面白くなかった。
「まあいい、さっさと終わらせて帰るか」
そんなわけで、俺は適当に掃除を始めたんだ。
一通り軽く掃除を済ませて、そろそろ掃除を切り上げようか、と思っていたところで、俺はふと気がついた。
いつも鍵がかかっていて開かない、開かずの扉と呼ばれているドアが、少しだけ開いていたんだ。
「あれ、どうしたんだ? あのドア開いているのか?」
それでも普段なら、気にも留めなかっただろう。
だけどこの日は俺一人で、他には誰もいない。中がどうなっているのか、少し興味がわいたんだ。
「ちょっとだけ、ちょっと覗くだけだ」
俺はそっとドアを開けて、部屋の中に滑り込んだ。
部屋の中には、年代物の家具だとか、古い黒板や木製の机や椅子、古い教材や資料などが、埃をかぶった状態で放置されていた。
「なんだ、こんなもんか」
俺はこの部屋への興味を失って、部屋の外に出ようとして、ふとあるものに気を引かれて目にとまった。
それは壁に掛けられた、装飾が立派な年代モノの大きな鏡だった。
さすがに年代モノの鏡は表面が曇っていて、物置状態のこの部屋と、ブレザーの制服姿の男子生徒、つまり俺が、辛うじてぼやけて映っている程度だった。
と、思っていたら次の瞬間、鏡が鈍く光りだした。
「えっ?」
と驚いた直後には、すでに光は収まった。
「何だったんだ今のは? えっ?」
曇っていたはずの鏡が、まるで新品の鏡のように、くっきりきれいに部屋の様子を映し出していた。
いや、どうも様子がおかしい。
だってこの部屋は、年代ものの古びた物置状態だったはずなのに、鏡に映っているのはまた真新しい整然とした部屋だったんだ。
そして何より、鏡には俺の姿が映っていなくて、俺のかわりに小振袖の着物に緋色のはかま姿の、少し小柄な少女の姿が映し出されていたんだ。
結構かわいい……じゃなくて!
この子は誰だ?
何で今時着物にはかま姿なんだ?
卒業式の時期ではないのにコスプレか?
いやそれ以前に、この部屋には、俺しかいなかったはずだ、この少女はいつの間にこの部屋に入ってきたんだ。
俺は驚いて慌てて振り返り、そして部屋の中を見回した。
だけどこの部屋は、埃っぽい雑然とした物置状態のままで、俺以外は誰もいなかった。
また鏡に視線を戻してみた。
鏡の中はきれいな部屋で、中の少女もきょろきょろ辺りを見回していて、俺とほぼ同時に視線をこちらに戻していた。
この時、俺と鏡の少女のお互いの視線が絡み合ったように感じた。
「きみは誰だ?」
俺は鏡の中の、はかま姿の少女に問いかけた。
ほぼ同時に、鏡の中の少女も、俺を指差しながら、口をぱくぱくさせて、俺に何かを問いかけているようだった。
だけど少女の声が聞こえないから、何を言われているのかまではわからなかったが、
俺のほうも少女から、「あなたは誰?」と、問いかけられているような気はした。
「何を言ってるのか、声が聞こえないぞ!」
俺はこのとき、不用意に鏡に近づいて、そして鏡に触れてしまった。
俺とほぼ同時に、はかま姿の少女も鏡に触れていた。
その瞬間、鏡の表面が、水滴が落ちたみたいに波立っていた。
「な、なんだこりゃ!」
と思う間もなく、俺は鏡の中に吸い込まれていくように感じながら気が遠くなった。
この時、俺の意識は誰かとすれ違い、
その直後に何かがくるっと反転したように感じながら、俺は一旦意識を失った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……あれ、俺はいったいどうしたんだ?」
次に気が付いたら、俺は例の鏡の前で、気を失って倒れていたんだ。
ぼんやりしながら身を起して、ふと不自然な周りの状態に気がついた。
ついさっきまで古道具や古い教材が雑然と置かれていた埃だらけの部屋が、きれいに整理整頓されていて、とうぜん埃もなくぴかぴかな状態だった。
というか、部屋の内装が、まだ建築されてからさほど間がない新しい状態だった。
「な、なんで……? え、俺の声が!?」
あわてて自分の身体を見下ろすと、俺は小袖の着物に緋色のはかまを身に着けていた。
これって、さっきの女の子の着ていた着物……なんでだ?
慌てて目の前の鏡を見てみると、さっきまで曇っていた鏡が、まるで新品の鏡ように今のこの部屋の様子を映し出していた。
なのにこの鏡には俺の姿は映っていなくて、かわりにさっきの女の子が、その鏡のなかで茫然とした表情を浮かべていた。
「えっ、これ、まさか、……俺?」
(鏡に映っていた着物にはかま姿の少女のイメージ画です)
俺はこの時は、まさか俺が鏡の中の女の子になっていて、大正時代にタイムスリップしているなんて、思ってもみなかったんだ。
そしてそんな現実を、いきなりは受け入れられなくて、俺は最初は現実逃避しまくっていた。
俺、いったいどうなっちまったんだ?
こんなの夢だよな?
ついさっき気を失った時から、この変な夢を見ていて、まだ夢から醒めていないんだ。
あはは、だけど夢にしちゃ、妙にリアリティが高いな。
それとも、たちの悪いドッキリか?
だとしたら人選ミスだよ、有名人でもない俺なんかハメたって面白くも何とも無いのにな。
だけどセットで作るにしちゃこの建物、すごく凝ってて豪華だよな。
どっかに隠しカメラでもあるのか?
仕掛け人はどこに隠れているんだよ!
いい加減に出てきて、種明かしでもしてくれよ!!
だけど、俺が夢から醒めることはなく、ドッキリの仕掛け人が現れることもなかった。
何よりもこの時点では、俺が大正時代に飛ばされているなんて事には、まだ気づいていない。
気づいていて意識させられたのは、俺の身体の変化だった。
俺の身体は、気を失う前に鏡に映っていた、女の子の姿に変わっていたんだ。
どんなに意識するまいと思っても、意識ぜずにはいられなかった。
もう一度鏡を見た。
鏡に映っているのは年齢は俺より少し年下の、中学生くらいの女の子だった。
まだ幼さの残る顔立ちはかわいいけれど、どこか凛とした気品のようなものが感じられた。
体つきは元の俺よりもずっと小柄で、肉付きも薄くて線が細かった。
そして何よりも、今時めずらしい、着物にはかま姿、この子は何かのイベントで、コスプレでもしていたのだろうか?
だけど問題なのはそういうことではなく、今の俺はこの女の子の姿になっているということだった。
身体の変化を否定しようとして、俺は自分の胸を触ってみた。
膨らみは小さいけれど、手のひらから感じた柔らかい感触はその存在感を示していた。
次に恐る恐る股間を触ってみた。
俺の股間からは、俺のちんこはなくなっていた。
ないナイ無い、俺のちんこがなくなってる!
見た目だけじゃない、身体も女になってる!
なんで、どうしてこうなった?
その原因は、鏡?
そうだ、あの鏡が怪しい。
あの鏡に触れて気を失って、目が覚めたらこうなっていたんだ。
だからきっとあの鏡のせいだ。
俺はまたあの鏡を覗き込んだ。
鏡には、今度は必死な表情になったあの女の子が映っていた。
もう一度この鏡に触れれば、元に戻れるかもしれない。
根拠のない期待を抱きながら、俺は恐る恐る鏡に触れてみた。
でも、今度はなにも起こらなかった。
なんでだよ!
なんでなにもおこらないんだよ!!
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「鈴音さん、野泉鈴音(のいずみすずね)さん、なかなか戻ってこないから心配しましたわ、いったいどうしたのですか?」
いきなり誰かに声を掛けられて、俺ははっと気づいて声のしたほうへ振り返った。
三十代くらいの、すこし優しげな表情の女性が、この部屋の出入り口のドアの近くに立っていたんだ。
いつの間に?
俺が鏡に気を取られていて、この女性が部屋に入ってきたことに、気付いていなかったんだ。
「鈴音さん、鏡を覗きこんだりして、何にそんなにも見とれているのですか?」
一瞬、鈴音さんて誰だ?
そう思いかけて、はっと気づく。
鈴音は俺の名前なんだと。
って、いや違う。俺は清彦、俺の名前は檜山清彦なんだ!
鈴音なんて名前じゃない!
そのはずなのに、鈴音の名前を否定することに、強い反発を感じて戸惑った。
「鈴音さん?」
どこか心配そうな女性の呼び声に、俺ははっとした。
どうやら俺は、この人に心配されているみたいだ。
ぼけっとしてないで、早く何か返事を返さなきゃ。
でもなんて答えればいいんだ?
俺自身、今の自分の置かれている状況が、よくわからないんだ。
そもそもこの人は、どこの誰なんだ?
そう思った瞬間、頭の中で何かが閃いて、そして思い出していた。
この人は、大西八重先生は、俺の所属している三年一組の担任の先生なんだ。
そして三年一組の級長の俺は、この大西先生に授業で使った資料の後片付けを頼まれてこの部屋に来たんだっけ。
ちょっとまて、今のこの記憶はなんだ!!
これってこの女の子の、鈴音って子の記憶なのか?
なんで俺に、そんな記憶があるのかわからないけれど、俺はそれを元にアドリブで対応した。
「すみません、この鏡を見ていたら、急に気分が悪くなって、遅くなってすみません」
「まあ、そうだったの。鈴音さん、今の体調は大丈夫? 体調が悪いのなら、保健室につれて行きましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
と言った直後に、しまった、と思った。
状況がよくわからないんだから、今は体調不良とかで休んで様子を見ておけば良かったんだ。
今更やっぱり休むとは言いにくいし……いや。
「すみません、やっぱり気分が、……少し休ませてください」
「そう? 顔色も悪いようだし、そのほうがいいわね」
そんな訳で、俺はこの大西先生に連れられて、保健室で休むことになったのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
正直な所、俺はこんなわけのわからない状況に放り込まれて、今はすごく不安だった。
今この鏡の前を離れたら、元に戻るチャンスを失うのではないか?
そんな不安も感じて、ここから離れたくない、という気分もあった。
だけど、ここでじっとしていても、おそらく元に戻れないだろうし、事態はなにも変わらないだろうとも感じていた。
だとしたら、今は成り行き任せでもいいから、とにかく動いてみるのがいいかもしれない。
少なくとも、ここでじっとしているよりもましだろうし、なにかわかるかもしれない。
俺はこの人の、大西先生の後について保健室に行くことにした。
大西先生の後について歩き始めて、最初に感じたのは身体の違和感だった。
いや、身体の違和感そのものは、目が覚めてからずっと感じていた。
だけど、実際にこの身体で歩いてみると、元の男の清彦との違いがより大きく感じられた。
清彦より身長が低くて視線もいつもより低いし、男女の骨格の違いなのか、身体のバランスもいつもとは違うように感じられた。
さらに今の俺は、着物にはかまという慣れない服装のうえに、足には高いブーツを履いていて、より歩きにくく感じてもいたんだ。
「鈴音さん、さっきから足元を気にしているみたいだけど、どこか痛めましたの?」
「あ、いえ、足を痛めたわけではないです。大丈夫です」
先生に心配そうに声をかけられて、俺はあわてて否定した。
実際に足は痛めていないし、それに最初は違和感が大きいかったけど、歩いているうちにだんだん慣れてきた。
というか、この鈴音の身体の感覚にだんだん馴染んできて、違和感が急速に薄れていくように感じていた。
この身体の感覚に慣れるのはいいけど、それはそれでまずくないか?
あと、身体の感覚の違いに慣れてくると、俺は周りに見える風景の違いにも気がつく余裕もできてきた。
この建物の間取りは、旧校舎と同じだ。
だけど、旧校舎は年代を感じさせる古い建物だったけど、この校舎は内装がきれいで、まだ木の匂いが香る、建てられてまだ間もない新しい建物だった。
そして、最大の違いは、廊下の角を曲がった先にあった。
「ない、鉄筋コンクリートの校舎がない!」
そのかわりに、その先には、旧校舎と同じ作りの木造の校舎が続いていたんだ。
いや違う、ここは俺の知っている清流学院じゃない!!
「ここは、いったいどこなんだ!!」
つい俺は声に出して叫んでいた。
「鈴音さん、急にどうしましたの?」
急変した俺の様子に、大西先生は心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
俺はそんな大西先生に、反射的に聞いていた。
「先生、ここは、ここはどこなんですか!!」
「ここはどこって、ここは清流女学院(せいりゅうじょがくいん)ではないですか。ご自分の通う学びの屋を忘れたのですか?」
「清流女学院……」
それって、男女共学になる前の、過去のこの学院の名前じゃないか。
過去の?
ってまさか俺は、過去の世界にいる!!?
まさかとは思いつつ、俺は聞かずにはいられなかった。
「先生、今は何年ですか?」
「え、何年って、年号のこと? 今年は大正5年だったはずだけど」
「た、大正5年!?」
平成でもその前の昭和でもなく大正!!
大正5年って、何年くらい前だ?
さすがに咄嗟に出てこない。
「大正5年って、西暦だと何年だったかな?」
「西暦とは珍しいことを聞くのですね。西暦だとたしか、1916年だったはずね」
「1916年……」
そんな俺の様子に訝しがりがりながらも、大西先生は俺の質問にしっかり答えてくれた。
だけど俺は、そんな大西先生からの答えにショックを受けていた。
ついさっきまで俺がいたのは平成28年、西暦だと2016年だ。
てことは、ちょうど100年前ってことなのか!!
俺は100年前の清流学院に来てしまったんだ。
俺の記憶(?)や大西先生の話、さらに状況証拠がそうだといっている。
築百十年のはずの旧校舎が、まるでつい最近建てられたばかりの新しい校舎にかわっていること。
なのに俺の時代にあったはずの新校舎が無くなっていて、木造の校舎にかわっていること。
あと大西先生の服装は、平成時代の感覚だと、どこか古臭いデザインのブラウスにロングスカートだった。
そして今の俺自身の服装も、着物にはかま姿、まるで大正時代の女学生そのまんまだ。
薄々そうじゃないかと思っていた。
薄々気づいていた。
俺の心は、大正時代の女学生の体の中にいるんだと。
だけど、俺は認めたくなかったんだ。
いや、今でも認めたくないんだ!
そんな俺に、大西先生は、また心配そうに問いかけてきた。
「どうしたの鈴音さん、おかしな質問をしてきたかと思えば、今度はそんな泣きそうな顔をして」
「違う!」
「えっ、違うって?」
「俺、本当の鈴音じゃないんです! 中身は別人なんです!」
「中身は別人って、それはどういうことなんです?」
「信じられないかもしれないけど、俺は百年後の人間なんです」
俺は、百年後の学院にあった例の鏡を通じて、鏡に映った鈴音と出合った。
そしてうっかり鏡に触れたら、意識が鏡に引き込まれて、気が付いたら、鈴音の姿で百年前のこの学院にいた。
そんな話を淡々とした。
今は鈴音のふりをしたまま、様子をうかがっていたほうが無難だったとも思う。
だけど、そうやって正体を偽ることに、俺はだんだん苦痛を感じてきていた。
そこへきて、さらにここが百年前の世界であることに気づいて、その現実から目を背けることができなくなってしまった。
そんな今の俺の置かれた現実に耐え切れなくなって、突発的に話をしてしまったんだ。
いきなりこんなことを話して、与太話と思われるか、それとも頭がおかしいと思われてもしかたがないだろう。
だけど大西先生は、そんな怪しげな俺の話を、最後までだまって聞いてくれたんだ。
「信じられないですよね、こんな話」
「……確かに今の話は、とても信じられないわね」
「ですよね」
「でも、今のあなたが、嘘を言っていたとも思えない。
そしてそう感じたときは、私は信じることにしているの」
俺はこんな与太話、信じてくれるとは思っていなかった。
だけどこの先生は、信じると言ってくれた。
すごく嬉しかった。
そしてそのことで、俺は救われていたんだ。
「だけど、だとしたら、本当の鈴音さんはどこに行っちゃったんでしょう?」
「あっ!?」
俺は今まで、自分のことでいっぱいいっぱいで、そこまで気が付かなかった。
だけど言われてみれば確かにそうだ。
本当の鈴音はどこに行ったんだ?
あの時の状況から考えて、俺と入れ替わりに、百年後の清流学院に、旧校舎のあの部屋に行っているんじゃないか?
ちょっとまて、ということは、まさか鈴音は俺の身体の中にいるのか?
今の俺の置かれている状況だけでも厄介なのに、あっちのことはどうすればいいんだよ!
俺はその状況に気づいて焦った。だけど向こうの清彦のことはどうしようもなくて、俺は頭を抱えた。
「百年後のあなたは、名前はなんて言っていたかしら」
「俺の名前? ……清彦、俺の名前は檜山清彦です」
「そう、清彦くんか、良い名前ですね」
「……そうですか?」
俺は自分の名前を、特別いい名前だとは思ったことは無い。
だけど、こういう風に大西先生に名前を褒められて、でも悪い気はしなかった。
なによりも、俺の事を清彦だと認めてもらえて、そのことが嬉しかった。
俺の焦る気持ちが、少しだけ和らいだ。
「鈴音さんなら、あなたの悪いようにはしない、清彦くんのことを大切にしてくれると思うわ。
だから百年後の清彦くんのことは、今は鈴音さんのことを信じて、任せてあげて。
かわりに清彦くんは、鈴音さんが戻ってくるまで、鈴音さんの身体を大切にしてあげてね。
特に鈴音さんの身体は、嫁入り前の女の子の身体なんだから」
俺は大西先生のこの建設的で、何よりも思いやりのあるこの言葉にハッとした。
そして大西先生は、鈴音のことはもちろん、俺のことも思いやってくれていることに気づいた。
「大西先生は、俺のこんな突拍子も無い話を、本当に信じてくれているんですね」
「そうね、最初は半信半疑だったけど、あなたと話をしているうちに、あなたの話は本当なんだって確信してきたわ。
具体的には、そうね、素に戻ったあなたの雰囲気が、外見は女子の鈴音さんなのに、まるで男子みたいだったわよ。
あと、本当の鈴音さんは、根が生真面目で、嘘や冗談が言えない子なのよ。
仮に嘘をつくにしても、あの子なら、そんな突拍子も無い嘘はつかないわ」
この先生は、鈴音さんのことをよく見ていて、信用していたんだな。
そして本当に物分りがいい先生なんだなと思った。この時代には珍しいタイプだと思う。
俺がこの時代で、俺が最初に出会えたのがこの先生だったのは、不幸中の幸いだった。
頭の固い他の先生だったら、特に高木のばばあだったら、俺の話を頭ごなしに否定して、信じてくれなかっただろう。
う、俺が会ったこともない堅物そうなおばさん先生の顔が思い浮かんでしまった。これも鈴音の記憶なのか?
まあ俺自身も、自分がこういう境遇にならなかったら、こんな話を信じたりはしないだろうけどさ。
それはともかく、この先生が、この学院の女子生徒からの人気が高い理由もうなずけた。
そして俺も、この先生のそういう所が好きなんだ。
などと、この時俺は元の鈴音の抱いていた大西先生への気持ちを、無自覚に俺自身の気持ちのように感じていたんだ。
「それはそれとして、清彦くん、あなたはこの後はどうしますか?」
「どうしますか、とは?」
「このまま保健室へ行って休みますか? それともさっきの部屋へ戻って、あの鏡を調べなおしてみるのはどうかしら?」
俺が合唱部に入ったのは、音楽が得意で、歌を歌うことが好きだったことも理由にあったけど、俺がこの先生が好きだったからなんだ。
「それはそれとして、今日はあなたは合唱部に出ないほうが、いいかもしれないわね」
「そ、そうですね、でも具体的には、俺はどうすれば?」
「私が鈴音さんに用件を言いつけたことにしておくから、さっきの部屋に戻って、もう一度鏡を調べてみてはどうかしら?」
それで原因が見つかって元に戻れればよし。
戻れなかったとしても、その間はトラブルを回避できるし、その間に、俺の気持ちを整理することができるだろう。
そういう配慮だった。
「本当なら、あなたに付きっ切りで、色々と手伝ってあげたいんだけど、合唱部のみんなを待たせてるからもう行かなくちゃ。
本当のことを言うとね、百年後の未来の日本とか学院とか、興味があるからあなたから話を聞いてみたいと思っているんだけどね」
そう言いながら、大西先生はぺろっと舌を出した。
なんか今まで見たことの無い、この先生の意外な一面に、俺は思わずかわいいって思った。
「そんな話でよければ、後でいくらでもしますよ」
「だめよ、できるならばあなたは、今の機会に元の時代に戻っているべきだわ。
あなたが元の時代に戻っていて、私に百年後の話をする機会なんて、なくなっていたほうがいいのよ。ちょっと残念だと思うけどね」
「……そうですね」
「できればあなたが元の時代に戻れることを、そして鈴音さんが戻ってこれることを願っているわ。じゃあ、私は行くわね。清彦くん元気でね」
「大西先生、……ありがとうございます。先生こそ御元気で」
お互いに別れ(?)の挨拶をして、大西先生はこの場を後にした。
そして後に残された俺は、一旦元いた部屋へと引き返したのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
元の部屋に戻った後、俺は早速例の鏡を調べなおした。
鏡には、明治四十五年寄贈、と小さく書かれていた。
鏡の外枠の装飾が凝っていて、高級でお値段は高そうだ。
雰囲気も日本製じゃなさそうだ。ヨーロッパの職人さんが作ったものを、輸入したものなのかな?
もしかしたら鏡のほうは、あっちの錬金術師あたりが、魔法でもかけたのかな?
などと、今の状況では、あまり冗談になっていない想像をめぐらせたりもした。
だけど、素人が調べても、それ以上詳しいことは、わかりそうになかった。
それよりも俺が期待していたのは、鏡を調べているうちに、俺がこの鏡に引き込まれた時と、同じ異変が起きることだった。
だけど、いつまで経っても、あの時の異変は起きなかった。
普通の鏡のように、今の俺の、野泉鈴音の姿を映しているだけだった。
「これが今の俺、なんだよな?」
鏡の中では、着物にはかま姿の女の子が、途方にくれた表情をしていた。
俺は改めて鏡の中の鈴音を見直した。
顔はまだ幼さが残っていて、今はまだかわいいって印象が強かった。
だけど、今は中身が俺のせいでなのか、ちょっと情けない表情をしているけれど、
この子の育ちのせいだろうか、その幼さの残る顔の中に、凛とした気品が感じられた。
上手く言えないけど、俺と同年代の女子高生よりも、意志が強くて、芯がしっかりしているように感じられた。
「この子、俺より年下だよな? 確か……」
思い出そうとすると、この子の記憶を思い浮かべることができた。
「数えで15歳、てことは満年齢だと14歳か、俺より3つ年下、……って、現代(平成)の基準だと、この子はまだ中学生じゃん!」
目鼻立ちも整っているし、将来この子は美人になるな、とも思った。
「この子、この時代に女子校に通うほどだし、雰囲気的にも育ちは良さそうだよな。本当はどんな子だったんだろう?」
俺は段々この野泉鈴音って子に、興味を抱きはじめていた。
さっきから立ちっ放しで、少し疲れてきてたから、俺は近くにあった椅子を引きよせて、腰を降ろした。
そして鏡に映る、椅子に座った鈴音の姿を見ながら、俺はつい興味本位に、その記憶をたどり始めた。
俺はなんとなく、指先を額に当てて、鈴音の記憶を辿っていた。
それが、鈴音がものを考え込む時の癖だとは、まったく思いもせずに。
鈴音の記憶によれば、野泉家はかなりのお金持ちみたいだ。
なんかかなり大きな屋敷に住んでるみたいで、そんな大きなお屋敷だから、女中とか料理人とか庭師とか住み込みの書生とか、使用人もたくさんいるみたいだ。
てことは、鈴音はやっぱりいい所のお嬢様なのか。
実際、使用人たちからは、この子は『鈴音お嬢様』って呼ばれているみたいだ。
その野泉家の家族構成は、今はお父様とお母様、お婆様に弟、それに鈴音の五人なんだ。
鈴音はお爺様が大好きだったけど、去年亡くなっていて今はいないんだ。
逆にお父様とは折り合いが悪いみたいだ。
夕べだって、いきなり今度見合いをしろ、良縁を用意してやるから早く嫁に行けだなんて、頭ごなしにいきなり言われて喧嘩したんだっけ。
うーっ、夕べのことを思い出したら、また腹が立ってきた!!
って、違う!
父親と喧嘩をしたのは俺じゃない、鈴音だ!
……あんまり記憶を覗きすぎるのは、良くないみたいだな。
それに、他人の記憶を覗き見するのは、プライバシーの侵害だよな。
今はこの辺にしておこう。
「それにしても、元の鈴音は、今頃何をしているんだろう?」
お嬢様育ちの女の子が、なんのとりえも無い俺みたいな男になっちまって、今頃途方にくれているんだろうか?
俺は、そんな境遇になったであろう、本当の鈴音に同情していた。
とにかく今は、できるだけこの身体は大切に扱って、きれいな状態で鈴音に返そう。
俺はそんな決意を、新たにしたのだった。
……そんな決意から、さほど時間が経たないうちに、俺は危機的状況に陥った。
「やばい、トイレ、トイレに行きたくなっちまった!」
鈴音が生きた人間である以上、これも当たり前の生理現象だ。
まさかこのままずっと、トイレに行かないというわけにもいかないだろう。
だけど、「俺がこの身体で、トイレに行ってもいいのか?」と、つい鈴音に気を使って、トイレに行くのを躊躇っていた。
ただし、我慢すればするほど、今度はお漏らしの危険が増していく。我慢の限界が近づいていく。
「ごめん、緊急事態だから、できるだけ変なことはしないようにするから」
俺は鈴音に謝りながら、トイレに駆け込んだのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
旧校舎に設置されていたトイレの位置は隅っこで、この時代と百年後とでは、まったく位置が変わっていなかった。
なので、すぐに場所がわかったし、迷わずにトイレに移動することができた。
ただし、中の様子は全然違っていた。
「げ、これってもしかして、汲み取り式ってやつかよ!」
和式の汲み取り式トイレに、木製の蓋をしてある状態だった。
百年後はさすがに水洗トイレ、(一応和式の水洗、新校舎のトイレなら洋式だった)に変わっていたので、
百年前のトイレに、ちょっとしたジェネレーションギャップを感じていた。
臭いは臭いし、衛生環境も悪そうだし、ここでトイレを済ますのはなんだか嫌だな。と思った。
ただし、この時代のトイレの事情は、下水の完備した都市部にでもいかなければ、水洗トイレなんて無い、どこでもこんなもんなんだ。
ということに、割と早いうちに気づくことになる。
そしてこのときは、もう我慢の限界が近かったし、しかたがない、そのままここで済ませることにした。
だけど、俺の戸惑いは、まだつづいた。
「はかまって、トイレのときどうすればいいんだ? 全部脱ぐのか?」
着物とかはかまとか、普段着たことのない服装だってこともあり、こういうときにどうすれば良いのかわからない。
わからないけれど、早くしないと漏れそうだ、ともかくはかまを脱ぐか?
と、このとき、ふだん鈴音がやっていた方法の記憶が、俺の脳裏に浮かんだ。
「……そんなんでいいのか?」
基本的に女学生のはかまは行灯(あんどん)袴で、別名女袴、構造はスカート状なのだ。
なので、はかまをそのままスカートのように捲り上げればよいのだった。
そしてはかまを捲り上げて気が付いた。
「……ちょっとまて、まさかノーパンだったのかよ!」
鈴音が、いやこの時代の女の子は、ほとんどノーパンだという事実に、俺はこのときはじめて気が付いたのだった。
ちなみに、もう少し後、大正末期から昭和の初期にかけて、日本の女性もズロースなどの洋風の下着を身につけるようになっていくのだけれど、このときはまだ一般に普及していないのだった。
そしてそんな事など、このときの俺は知る由もなかったのだった。
それはともかく、このときの俺はもう我慢の限界で、それ以上は、余計なことを考えている余裕は無かった。
むしろこの時は、パンツを下ろす手間が省けて、かえって良かったかもしれない。
俺ははかまを捲り上げたまま、汲み取りの和式便器の上にしゃがみこんだ。
ほぼ同時に、我慢の限界を超えてしまい、決壊した俺の股間の割れ目からは、勢いよくオシッコが噴出した。
シャアアアァァァ………
と、オシッコが噴出す音、ビチャビチャと、下のほうで水滴が跳ねる音、が聞こえた。
男なら狙いをつけられるのに、女だとコントロールが出来なくて、ただ垂れ流すことしかできなかった。
そして男の時と違って、一度始めてしまったら、もう止められなかった。
俺の股間の割れ目から噴出したオシッコの一部が霧状になり、しゃがんだ太ももにかかったりして、汚くてやだなあって思った。
そんな風に、ジェネレーションギャップを感じながら、俺は女の子としての初めてのトイレを済ませた。
全部出し切って、ほっと一息、ひとまず気持ちはすっきりした。
だけど、垂れたオシッコが、股間だけではなく、太ももやお尻まで濡らしていた。その後始末がまだ残っていた。
「これって、拭かなきゃいけないんだ……よな?」
俺は、便器の前の台に置いてあった、ちり紙を手に取った。
鈴音の記憶によれば、これで拭いて、拭いたちり紙は備え付けのゴミ箱に捨てるものらしい。
ちり紙を手に持ったまま、俺は少しの間戸惑っていた。いいのだろうか? と。
だけど股間の割れ目やお尻が、このまますっと濡れたままにしておく、というのはイヤだった。
というか、このまま身体が汚れたまま、という状態が、許せないような気がした。
「ごめん、鈴音、この身体をきれいにするためだから」
俺は鈴音に謝りながら、濡れた股間の割れ目やお尻を、ちり紙で拭き始めた。
少しばかり気恥ずかしく思いながら、ゆっくりと濡れた股間を拭いた。
俺の股間の割れ目に、そっと触れられた感触を敏感に感じて、俺は改めて『ない』ことを自覚することになった。
現代のトイレットペーパーよりも、ざらざらしてはるかに紙質の悪いちり紙に、余計に敏感に感じさせられてしまっているような気がした。
なんだかクセになりそうな割れ目からの触感に、俺はまたゾクゾクするものが、身体の中を駆け抜けていくのを感じていた。
拭き終えたちり紙は、トイレに備え付けのゴミ箱に捨てて、まだ股間が湿っていて拭き足りなく感じてもいて、俺は次のちり紙を手に取った。
結局三回ほど、そうやってちり紙で股間やお尻のオシッコを念入りに拭き取って、俺は気恥ずかしさに頬を赤く染めながら、ゆっくりと立ち上がった。
そんな風に、神経をすり減らしながら、どうにかトイレを終えて、俺はほっと一息ついた。
「だけど色々面倒くさかった、女のトイレだけでも面倒くさいのに、そのうえ着物やはかまも面倒くさい、早く元の身体に戻りてえ」
俺は弱音を吐きながら、捲り上げたはかまを戻した。
「そのためには、早くあの部屋に戻って、あの鏡を見張らなくちゃな」
俺はまた無意識に、鈴音がいつもしていたように、素早く着物やはかまの乱れを直した。
そしてトイレを出て、洗面所へと移動した。
さすがにここには、水道が通っていた。
水道の蛇口が古い型のものだったけど、この時代だとこれが最先端なのかな?
などと変な感想を抱きながら、俺は念入りに手を洗った。
清彦だった時のいつもの俺だったら、さっと手を洗ってさっと終わりなんだけど、今回はやけに手の汚れが気になって、念入りに手を洗った。
ようやく俺の気が済んで、手を洗い終わった。
俺はあの部屋へと、慣れた足取りで移動したのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あの部屋に戻ってきた俺は、鏡の前に置いていたあの椅子へ、背もたれに身を預けるようにどっかりと座った。
「あー、疲れた、トイレに行ってきただけなのに、すげー疲れた」
正面の鏡には、大股開きのだらしない姿勢で椅子に座っている、だらしない鈴音の姿が映っていた。
もし鈴音を知ってる誰か、たとえば大西先生がこの光景を見たら、どう思うだろうか?
俺自身だらしないこの姿を見て、いくらなんでもお嬢様って女の子が、これはどうかと思いながら、それでも今はだらけていたい気分だった。
ふと思いかえせば、鈴音の姿になってから、俺はずっと気持ちが張り詰めた状態だったんだ。
この部屋に戻ってきて、安心したからか、一旦緊張が切れて、素の状態に戻ったんだ。
この部屋には、他に人目が無かったのも大きかった。
「俺はさっきまで、なにをやってたんだろうな、あー、色々と面倒くせえな」
このままじゃだめだと、理屈ではわかるけど、今くらいはだらけていたいと思った。
一旦切れた緊張は、すぐには戻らなかった。
「普段真面目そうな女が、こんな風にだらしなくしている姿は、見ていてなんか面白いな」
「なあ鈴音お嬢様、これを見ているなら、俺にこんな格好をさせるのが嫌だったら、早く元の身体に戻ろうぜ」
そんな風に、俺はしばらく鏡に映るだらしない鈴音の姿を見ながら、しばらくだらけていたのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……飽きた」
何も変化が無い部屋で、鏡に映る鈴音の姿だけ見ていても、段々面白くなくなってきた。
気持ちが醒めて落ち着いてくると、段々鏡に映るだらけてる鈴音の姿を見ている事が、恥ずかしいって気分にもなってきた。
そろそろ止めておくか。
俺は一旦椅子から立ち上がった。
このまま何もしないで椅子に座っていても、退屈なだけだ。
何か暇つぶしになるものはないだろうか?
「スマホでもあれば、時間がつぶせるんだけどな」
ふと気が付いた。
この時代にはネットの環境も、スマホのゲームもない。
テレビも無ければ、ラジオ放送すら始まっていない。
そんなところで、俺はやっていけるのだろうか?
また気が重くなってきた。
そんな気を紛らわせるように、棚にある本を何気なく手に取った。
「今昔物語? 日本昔話みたいなものか?」
何気なくぱらぱらページをめくってみた。
「げ、文体が古い、旧仮名遣いってやつか? 俺古文とか苦手なんだよな……」
そもそもこの仮名遣いってやつ、話し言葉と違うせいで、内容がわかりにくいんだよな。
俺はばやきながら、それでも気を紛らわせられればいいかと、その本を片手に椅子に戻った。
そして今度は、最初からページをめくってみた。
「今昔、皇極天皇と申ける女帝の御代に、御子の天智天皇は春宮にてぞ御ましましける。其の時一人の大臣有り。
あれ、なんかすらすら読めるぞ?」
この時点では知らなかったが、鈴音は読書が好きで、こういう本を読むのは得意だった。
俺はその鈴音の学力そのままで、その本を読むことができたんだ。
難しそうな本がすらすら読めて、内容がすらすら頭の中に入ってくる。
こんな経験は初めてだった。
「なんかおもしれえ」
なんだかうれしくなって、俺はそのまま椅子に座って、その本を読み始めた。
無意識にぴんと姿勢を正して、椅子に座っていた。
さっきは大股開きで座っていた脚は、自然に内股に閉じていた。
いつしか夢中になってその本を読む俺の姿は、お嬢様然したいつもの鈴音のものだった。
そしてそのことを、俺は自覚していなかったのだった。
(椅子に座るお嬢様のイメージ画、ふたば板掲載時はこのイラストでした)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……さん。鈴音さん」
「えっ、うわっ! だ、誰?」
読書に夢中になっていた俺は、声を掛けられるまで、俺のすぐ側に女の子が来ていることに気が付かなかった。
今の俺と同じくらいの年齢の、着物にはかま姿の、腰のあたりまで長い髪の、おっとりしたおとなしそうな雰囲気の女の子だった。
この子もこの女学院の女子生徒なのか?
「そんなに大袈裟に驚いて、そのうえ誰って、ひどいですわ。鈴音さんは、私のことを忘れちゃったの?」
微笑を浮かべながら、冗談っぽく抗議する女の子に、俺は慌てた。
「そ、そんなことねえ! ……ないわよ。(鈴音の記憶だと確か)雪子さん、そうそう雪子さん」
慌てて思い出した鈴音の記憶に、雪子さん、松田雪子の記憶があった。
鈴音と雪子さんとは同い年で、鈴音が物心ついた幼いころからの仲の良い友達のようだ。
要は幼馴染、俺にとっての双葉みたいなもんだな。……双葉!
なんでだろう? 双葉のことを思い浮かべたら、俺の胸の奥がちくりと痛んだ。
「……今の間はなに?」
女の子、松田雪子さんは、俺の反応に、ちょっと気を悪くしたみたいだ。
微笑みを浮かべていた顔が、真顔になっていた。
「読書に夢中になってて、反応が遅れただけだ。気のせいだよ」
「まあいいですわ。そういうことにしておいてあげます」
それでも雪子さんは、俺の言い訳を受け入れて、あっさり許してくれた。
俺はひとまずほっとした。
そしてこのやりとりの流れで、俺は双葉のことを一旦忘れた。
「で、雪子さんが、なんでここに?」
「鈴音さんが、音楽室に戻って来るのが遅かったから、私がお迎えに来たのですわ」
「え、それは、その……」
まずい、どう言い訳すればいいんだ?
「大丈夫ですわ。大山先生から、ちゃんと話を聞いていますわよ」
「えっ、大山先生から!」
話を聞いているって、あの先生、俺のことをどこまで話をしたんだよ!
俺のことはともかく、鈴音は身体を他人に、それも男に乗っ取られているなんて、他人に知られたくないだろう。
特に雪子さんみたいな、仲の良い女友達には。
「鈴音さんは、何か悩みがあるみたいだから、気持ちが落ち着くまでそっとおきましょう。
鈴音さんが一人で落ち着けるように、私から用事を言い渡したことにしてあります。とか仰られていましたわ」
「そ、そうなんだ、大山先生がそんなことを」
大山先生、ちゃんとフォローしてくれていたんだ。
ほっとしながら、一瞬先生のことを疑って悪かった、ごめん、って思った。
「でも、くやしいですわ。
音楽室を出る前に、悩みがあるなら、私でよければ相談にのりますわよって言いましたわよね」
「う、うん」
空返事を返しながら、俺は鈴音の記憶を探ってみた。
確かにそんなことを言われた記憶があった。
「ありがとう、でも大丈夫だから」
と言って、断った覚えまであった。
鈴音は、俺と入れ替わる直前に、雪子さんとそんなやりとりをしていたんだ。
「私には悩みを打ち明けてくれなかったのに、大山先生には相談したのではなくて?」
「それは違う、大山先生にはそんな話はしていない」
少なくとも、鈴音の悩み事の話は、していなかった。
かといって、俺の事情を話すわけにもいかず、このあと雪子をごまかすのに苦労した。
「まあいいですわ、信じてあげますわ」
俺の言い訳に、雪子はどうにか納得してくれたみたいで、ほっとした。
それはともかく、お迎えが来たということは、俺は雪子さんと一緒に、戻らなきゃいけないってことか。
…………あっ! てことは、もうこの鏡の前にはいられない。
少なくとも今日は、元の俺には戻れないってことなのか?
そのことに気づいて、俺は動揺した。
いやだ、この鏡の前を離れたくない。そう思った。
「どうしたの鈴音さん、浮かない顔をして、やっぱり何か心配事がありますの?」
そんな俺の動揺を、雪子は見落とさずに気づいて、心配そうに声を掛けてくる。
悩み事があるのなら、私に相談して。そう言っているみたいな表情だった。
いっそのこと、雪子のも俺の秘密を打ち明けてしまうか?
「ううん、なんでもないよ」
だけど、最初にごまかすことに決めて、ついさっきもごまかしたばかりであり、打ち明けられなかった。
そのままごまかし続けるしかなかった。
「そう、しかたがありませんわね。……それでは、行きましょうか」
俺からの返事を諦めた雪子は、この部屋を出て、音楽室に移動することを促した。
これ以上、この部屋に留まり続けることは、出来なさそうだった。
俺は後ろ髪を引かれながら、この部屋のこの鏡の前から、離れたのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
俺は雪子と一緒に、初めてこの学院の木造校舎に、そして音楽室に来た。
音楽室にはピアノが置いてあり、その側に大西先生がいた。
「ごきげんよう、雪子さん、鈴音さん」
「ごきげんよう」
「えっ? ぁ、ごきげんよう」
最初、咄嗟に意味がわからず、これがここのあいさつだと気づいて、慌てて返事を返した。
雪子は少し怪訝な顔をして、大西先生は俺の事情を察したのか、少し表情を曇らせた。
だけど、さっと表情を戻して、俺と雪子に語りかけてきた。
「鈴音さん、おつかいご苦労様でした。雪子さんも、鈴音さんのお迎えごくろうさま」
「あ、はい、ありがとうございます」
「たいしたことではありませんわ」
「鈴音さんにおつかいをしてもらっている間に、今日の合唱部の活動は終わりましたわ。
雪子さん以外の皆さんは、もう帰られましたわよ」
「そうなんですか」
そう言われても、ぴんと来なかった。
鈴音の記憶を探るまでもなく、部活が終わって、みんなが帰っていったってことはわかった。
じゃあだからって、俺はどんな反応をすればいいのだろう?
というか、俺はこの後、どうすればいいのだろう?
「雪子さん」
「はい」
「私はこの後、鈴音さんからおつかいの報告を受けるから、あなたは先に帰られても良いですわよ」
「え、ですが」
「おねがいね」
「……わかりました」
大西先生に促されて、雪子はしぶしぶ先に帰っていった。
明日、話を聞かせてね。と俺に言い残して。
「これで、私と鈴音さん以外、他に誰もいませんわね。
さてと、それでは……鈴音さん、いえ、あなたは清彦くんなのですね?」
「はい、俺は清彦……です」
「そう……、結局戻れなかったのね」
「はい」
俺は、先生と別れた後のことを、簡単に説明した。
何もおきなかった。特に期待した鏡に何も変化はおきなかった。
「それで、あなたはこれからどうしたいの?」
「俺は……これからどうしていいのかわかりません」
俺は、途方にくれていた。
そんな俺に、大西先生は静かに告げた。
「まず最初に言っておくわね。私があなたにしてあげられることは、助言だけよ」
「助言だけ?」
「そうよ、鈴音さんが、これから先どうするのか?
それを決めることが出来るのは、私でも他の誰でもない、鈴音さん、あなた自身だけなのよ」
「俺自身だけ? ちょっと待ってよ、さっきから何度も言ったけど、俺は本当は清彦で、本当の鈴音じゃなくて……」
「今はあなたが鈴音さんなのよ! あなた以外に、ここには鈴音さんはいないのよ!」
その大西先生の言葉に、俺ははっとした。
「今は俺が鈴音で、俺以外に鈴音はいない……」
「そうよ、だからこれから先のことは、あなたが鈴音さんとして決めなさい」
さっきは優しかった大西先生の表情は、このときは鬼のように厳しかった。
だけど、あえてきつく言うことで、俺を叱咤激励してくれているようにも感じられた。
そしてその言葉が、俺の心の中に染み込んでいく。
「鈴音のことは、今は俺が決めるしかない……か」
後で思い返せば、俺はこの時に大西先生に背中を押された形で、覚悟が出来たんだと思う。
俺が、『野泉鈴音』として、生きていく覚悟を。
「あえて問うわ、鈴音さん、あなたはこれからどうしたいの?」
「俺は、……それでもあきらめたくない、元の清彦に戻りたい。
元の時代の元の家に帰りたい。
この身体を元の鈴音に返したい。
今すぐには無理でも、いつか元に戻れるならそうしたい」
覚悟が出来たとは言っても、この時点では、まだまだ未練もいっぱい残っていた。
すぐに戻れなくても、長期的にチャンスを待って、戻れるなら戻りたいって思っていた。
だけど、こんな答えで、大西先生の返事が怖かった。
「こんないい加減な答えじゃ、やっぱりダメかな?」
「そう、それがあなたの望みなのね、わかったわ」
そう返事を返しながら、大西先生が俺に見せてくれた表情は、とびっきり優しい微笑みだった。
この後、大西先生は、最初の言葉通り、俺に色々アドバイスをしてくれた。
俺の望みに合わせて、基本方針を決めてくれた。
「あなたはしばらくは、野泉鈴音として生活しながら、元の時代の元の身体に戻る方法を探す。基本方針はそれでいいわね?」
「は、はい、それでお願いします」
「わかったわ、その方針にあわせて、私も協力してあげますわね」
あと、俺がこの学院にいる間は、大西先生が色々フォローしてくれることになった。
それと、今回の入れ替わり現象のことについても、先生なりに調べてくれると約束してくれた。
「とはいっても私には、あの鏡のことを調べるくらいしか、出来そうにないですけどね」
「そ、それでもいいです。どうかよろしくお願いします」
「わかったわ、期待しないで待っていてね」
この時代に飛ばされてきた俺のことを、大西先生は理解して、俺のことを助けてくれる。
そのことが嬉しかったし、心強かった。
鈴音になった最初のころに、俺が心細い思いをしながらも、どうにか乗り切れたのは、大西先生のおかげだったんだ。
基本方針も決まり、今日のところはここにいても、これ以上できることはない。
俺は野泉鈴音として、野泉家に帰ることになった。
「今日は遅くなってしまったから、お迎えをいつもよりも長く待たせているでしょうし、早く行ってあげたほうがいいわよ」
「お迎えって、そんなのがいるんですか?」
「そんなのがいるんですかって、……そうだったわね、ええ、いるわよ。
今のあなたに覚えが無くても、鈴音さんには覚えがあるはずよ。ためしに思い出してみてはどうかしら?」
「……思い出してみます」
俺は額に手を当てながら、鈴音の記憶を探ってみた。
鈴音は毎日この学院の登下校で、野泉家のおかかえの人力車で、送迎してもらっている記憶があった。
そしてその車夫の源之助は、今頃は学院の側で、帰りの遅い鈴音を待っているのだろう。早く行ってあげないと。
「それじゃ先生、俺、これで行きます」
「ええ、ごきげんよう、鈴音さん」
「ごきげんよう、大西先生」
学院の外へ出ると、玄関より少し離れた場所で、人力車が止められていた。
「鈴音お嬢様、お待ちしておりやした」
三十台半ばくらいの屈強な男が、俺が出てくるのを待っていた。
鈴音の記憶の中にいる人物と同じ顔だ、この人が、車夫の源之助さんか。
「おそくなってしまって、待たせてごめんね」
「そんな滅相も無い、もったいないお言葉です」
帰りが遅いことを源之助さんに謝ったら、かえって恐縮されてしまった。
どうもお嬢様と使用人との間には、そんな遠慮はいらないらしい。
うーん、本来一般庶民の俺としては、こういうのは苦手だなあ。
まあいい、鈴音の記憶だけじゃわからない、その辺の距離感は、これから少しづつ覚えていこう。
もっともそんなこと覚える前に、元の俺に戻れれば良いのだけどな。
俺は気を取り直して、人力車に乗った。
俺が生まれて初めて乗る人力車、じつは少しだけ楽しみだったりする。
「遅くなった分、帰りは飛ばしやす」
「お願いね」
こうして俺は、人力車に乗って、この学院を後にしたのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
人力車は現代の乗用車に比べたら、スピードは遅いし、乗り心地も良いとはいえない。
だけどそれだけに、人力車から見える風景は、俺の身近に感じられた。
なんだか子供の頃に乗った、アトラクションの乗り物に乗っているみたいで、ちょっとわくわくしていた。
現代のこの辺りは、高層ビルはさすがにないが、鉄筋コンクリートの建物が立ち並ぶ市街地だったはずだ。
だけどいまのここは、昔の和風の建物の中に、洋風建築が混じっていて、現代から来た俺の感覚では、どこかレトロな町並みに感じられた。
車なんてたまにしか走っていない。路面電車や人力車、荷物を載せた馬車、などが走っていた。
町にいる人たちも、和洋折衷な服装で、NHKの朝の連続ドラマの世界にでも来てしまったみたいに感じられた。
「ここはやっぱり大正時代なんだ。俺、大正時代に、来てしまったんだよな……」
最初は物珍しい風景にわくわくしたけど、それでもこうして今の俺の置かれている現実に気づき始めると、少し気分がへこんだ。
「……ここも一応、東京都なんだよな?」
そしてそんな町から外に出ると、自然が豊かでのどかな田園風景とか林などが広がっていた。
現代では、ここは開発されていて、ここには田畑もこんな緑も残っていないはずだ。
……ちょっとまて、この方向のこの林のある辺りって、確か俺の家のある新興住宅地の場所じゃなかったか?
まだここに建てられていないだけで、俺の家がなくなってしまったわけじゃないはずだ。
だけど、少なくともここには、俺の帰る家はない。
そんな現実を突きつけられたみたいに感じられて、なんだかショックだった。
そうこうしているうちに、大きな屋敷が見えてきた。
鈴音の記憶の通りなら、あそこが鈴音の家のはずだ。
だけど、と、ふと思った。
こんな所に、こんな大きな屋敷があったっけか?
少なくとも、百年後には存在していないはずだ。
細かいところまでどうなっていたのか、気にしていなかったけど、この辺りも住宅地になっていて、
建売住宅やアパートなんかが建っていたような気がする。
そういえば、郷土の歴史とやらで、そういう話があったような気がする。
昔このあたりに、すごいお金持ちの大きなお屋敷があったけど、持ち主が何度か変わったとか、
戦前に火事で消失したとか、戦後に跡地が分譲されて住宅地になったとか、そんな話を聞いた覚えがあった。
あまり興味が無かったから、くわしく聞かなかったし調べなかったけど、こんなことなら調べておけば良かったか?
……まあいい、今日や明日にそうなるわけじゃないし、今そんなこと気にしてもしょうがない。
そうこうしているうちに、人力車は屋敷への門をくぐり、屋敷の前に到着した。
「これが鈴音の家なのか?」
俺が見上げたその屋敷は、大きな洋館だった。
鈴音の記憶の中にある家そのままなんだけど、実物を目の前にして、俺は圧倒されていた。
この洋館よりも大きな建物なんて、高層ビルでも何でも、いくらでもあったし、いくらでも見てきた。
だけど、一般市民だった俺がいきなり、今日からここがお前の家だ、と言われたとしたらどうだろうか?
本当にここが俺の家か?
本当にこの屋敷に、俺なんかが入ってもいいのだろうか?
そんな場違い感を感じて、気が引けてしまっていた。
「鈴音お嬢様、どうかしやしたか?」
「ううん、なんでもない…わ」
とはいえ、今の俺が帰る所はここしかない。
戸惑いながらも、俺は人力車を降りた。
「「鈴音お嬢様、おかえりなさいませ」」
そんな俺を、屋敷から出てきた、着物姿の二人の女性が出迎えた。
俺は咄嗟に鈴音の記憶を探った。
「ただいま、……ばあや、それにお菊」
少しだけタイムラグがあったけど、咄嗟に記憶が引き出せて、反応することができた。
ばあやは、鈴音が生まれる前から野泉家に仕えていた人で、この家の女中のまとめ役だった。
そしてその側にいるお菊は、鈴音付きの女中らしい。今の俺と同い年くらいの女の子だった。
今風に言えば、ばあやはメイド長、お菊は鈴音の専属のメイドという所だろうか。
そんな人たちに、「お嬢様」と言われて、俺はなんだかこそばゆく感じていた。
(お嬢様付きの女中、メイドのお菊、イメージ画)
「お嬢様、今夜の夕食は、いかがなされますか?」
「今夜の夕食?」
ばあやに、「いかがなされますか」ってわざわざ聞かれた。これってどういう意味だろう?
そう思いながら、鈴音の記憶を探ってみる。
すると、昨夜の鈴音は、お父様と衝突して、夕食は自室で別に食べていたことを思い出した。
そしてこういう時、鈴音はお父様と顔を合わせたくないから、数日は別々に食事を取ることが多いらしい。
……なんでだろう、俺はまだ会った事のない鈴音のお父様のことを思い出したら、急に気分がむかむかしてきた。
「お父様とは、今は顔を合わせたくありませんわ!」
俺の口からは冷たい声で、自然にこんな台詞を吐き出していた。
なんとなく、鈴音ならこう言うだろうという気がした。
「承知いたしました」
あらかじめ、俺の返事がわかっていたような、ばあやの返答だった。
そんなわけで、今夜の夕食は、俺は家族とは別に、自室で取ることに決まった。
俺としても、今は鈴音の家族とは、あまり顔を合わせたくないから、好都合なはずなんだけど、
うー、なんだか気分が悪くてすっきりしない。
鈴音がお父様と衝突したって、いったい何があったんだ?
昨日のことを、思い出そうと試みてみる。
お父様に、お見合いをするように強要されて、それに反発したことを思い出した。
ただ、さわりの部分を思い出しただけで、余計にむかついてきた。
そして鈴音としては、あまり思い出したくないことのようだ。
お見合い? 鈴音が? まだ15歳だろ?
鈴音の事情が、気にならないといえば嘘になるが、なんだかこの件は、深く追求したらやぶへびになるような気がして、俺自身、あまり深く追求したくない気分だった。
なので、今は深く追求しないで流すことにした。
後でこの時スルーした件が、俺自身に返ってくることになるのだけれど、この時にはそこまではわからなかった。
もしわかっていたとして、この件を深く追求したとして、まだ鈴音になりたてのこのときの俺では、かえって困惑を深めただけだろうから、スルーでよかったのかもしれないが。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
俺から夕食の予定を聞き終えたばあやは、後のことはお菊にまかせて、ひとまずこの場を立ち去った。
「お嬢様、お荷物お持ちします」
「えっ、ああ、ありがとう」
そのお菊の申し出に、俺は手に持っていた、鈴音の荷物の風呂敷包みを手渡した。
俺は中身は見ていないが、この中には教科書や筆記用具、空になった弁当箱などが包まれているらしい。
そして俺のお礼の言葉に、お菊は少し驚いた顔をしていた。
だけど特に何も言わずに、恭しく俺から風呂敷包みを受け取った。
……ひょっとして、今の返事、またまずかったか?
よく考えてみたら、こういう所のお嬢様が、こんなことでいちいち使用人にお礼なんか言わないだろう。
だけど、本来なら一般市民の俺は、使うほうじゃなくて使われるほう、お嬢様じゃなくてこのお菊のほうの立場なんだよな。
なんかこういうの慣れないよな。
あれ、俺から荷物を受け取ったまま、お菊が動かない、どうしたんだ?
あ、そうか、俺が動くのを待っているのか。
俺は鈴音の記憶を頼りに、お屋敷の中へ、そして鈴音の部屋へと動きだした。
そしてお菊は、その俺の後に続いてきたのだった。
この洋館は、正面の玄関から入ると、ロビーから応接室へと来客用の広くて豪華なスペースになっていた。
そして鈴音や鈴音の家族の住むプライベートルームは、そのさらに奥にあった。
外見や内装は洋式の洋館だったが、これは武家の屋敷の基本構造と同じだった。
この時点では俺は知らなかったが、元々野泉家は旗本の家柄で、この洋館は今は亡き鈴音の祖父が、色々こだわって作らせたものだったようだ。
そして俺は、この洋館の内装の豪華さにも圧倒されていた。
廊下にはカーペットが引かれ、家具や調度品も高そうなものを置いてあるし、少なくとも個人住宅レベルじゃないよな。
俺は場違い感を感じていた。
とはいえ、俺のすぐ後ろにはお菊がいる、この家のお嬢様がきょろきょろしたり、いちいち驚いていたら変に思うだろう。
俺は出来るだけ平静を装っていた。
そして奥の家族スペースへ、ここも内装は豪華だったけど、ロビーなどの入り口付近よりは、雰囲気が落ち着いていた。
鈴音の部屋の前まで来た。
お菊が俺に先んじてドアを開けた。
鈴音の部屋は、内装がきれいで広い洋室だった。
部屋の中には輸入品だろうか? お値段の高そうなアンティーク調な家具、テーブル、ベッドなどが置かれていた。
俺はますます場違い感を感じたのだった。
ちなみにこれも後で知るのだが、祖父のこだわりだったのだろうか、かつての祖父の部屋、現在の両親の部屋は、畳敷きの和室になっていた。
それ以外にも和室の部屋もあり、このお屋敷は、あちこち和洋折衷になっていたのだった。
「お嬢様、お召し替えのお手伝いをいたします」
「え? ああ、うん」
お召し替えって、部屋着への着替えってことか?
おそらくここで着替えるのが、いつもの流れなんだろうな。
ここは流れに任せよう。
お菊は手馴れた様子で、俺の身に着けていたはかまや着物を脱がせていった。
そしてほとんど素っ裸に。
うう、なんか恥ずかしいな。それに、やっぱりこういうの、慣れないよな
そして今度は、洋式の肌着を着せられた。
お、これは? この感じは!
男女の違いはあれど、現代に近い感覚だった。
ドロワーズだかズロースだか、ショーツより露出が低い女物のパンツを穿くのは、なんか恥ずかしいけど、でもなんか嬉しかった。
ついさっきまでノーパンだったからな。忘れていたけど。
そして、下着を身に着けた後、ゆったりとしたワンピースを着せられた。
うう、やっぱり女物の服なんだよね。スカートだよね。
元は男の俺としては、やっぱり恥ずかしいな。
だけど、着物よりは馴染みやすくて、なんか嬉しかった。
そして元の鈴音も、着物などの和装より、洋服などの洋装のほうが好きだったことを、俺はこの時なんとなく感じていたのだった。
(洋装のお嬢様のイメージ画、ということで)
俺の着替えが終わり、お菊さんが部屋から出て行った。
一人になれて、ひとまずほっとした。
でもこれからどうしようか?
こんな境遇になった直後も、学院のあの部屋で、俺はこんな風に途方にくれていたっけ。
そしてあの時は、元に戻れるわずかな可能性に、俺は望みをつないでいた。
だけど今は、そんな望みは無い。
学院のあの部屋のあの鏡の前以外の場所では、元に戻れる可能性はゼロだろう。
どんなに早くても、明日学院のあの鏡の前へ行くまでは、俺は元には戻れない。
それまでは俺は、鈴音として過ごさなければならないってことだ。
正直、気が重かった。
今日は夕食時などは、鈴音の家族とは別々ということになっているから、家族と顔を合わせずにすむのが救いだった。
おとなしくしていれば、今日くらいはぼろを出さないで過ごせるだろう。
でも、いつまでそんな風に、ごまかせるだろうか?
えーい、これ以上悩むのは止め止め、どんなに悩んだところで、今すぐには元には戻れないんだ。
だったら今は、うじうじ悩むより、この状況を楽しんだほうがいいんじゃないか?
少なくとも、一般庶民の俺が、お金持ちのお嬢様の生活なんて、こんな機会でもないと体験できないだろうしな。
俺はこのころになって、ようやく開き直れたんだ。
俺はあらためて、俺の今いる鈴音の部屋を見回した。
広くて明るくて、掃除も行き届いていて、きれいな部屋だなって思った。
置いてある家具もインテリアも、ただ高級なだけではなく、色使いやデザインが女性向けのものばかりだ。
特にアンティーク調の白い鏡台や、家具の上に置かれた西洋人形やぬいぐるみなどを見ていたら、いかにも女の子の部屋なんだなって感じた。
というか、百年前(大正)でも現代(平成)でも、基本的に女の子のこういう所は、同じなのかもな。
俺は鏡台の前に立ってみた。
鏡台の鏡の中には、あの鏡で見たのと同じ女の子の姿が映し出されていた。
「……かわいい」
俺はつい、鏡に映る、鈴音の姿に見とれた。
いや違う、そうじゃなくて!
「着ているものが違うと、ちょっと印象が違うんだ……」
学院の鏡で見たときより、こっちのほうが俺の好みというか、かわいく感じたんだ。
かといって、着物にはかま姿の鈴音が、かわいくない、というわけではない。
多分、今のワンピース姿のほうが現代的で、俺の感覚だとこっちのほうが、身近に感じられたからなんだと思う。
シンプルなワンピース姿の鈴音は、今時の女子高生のように、カラフルに着飾ってはいない。
だけど、鈴音は素材が良いおかげもあり、現代の女子高生の中にそのまま紛れ込んでも遜色ない。
いや、負けていない。それどころか、部分的には勝っている。って感じたんだ。
そうだと感じたら、俺自身、なんだか嬉しいような、誇らしい気分になっていたんだ。
あと、学院であの鏡を見ていたときは、鏡に映る鈴音の姿を、ここまでじっくりと見ていなかった。
トイレへ行ったり、だらけてみたり、読書をしてみたり、不可抗力な事もあったけど、なんとなくじっくり鏡を見るのを避けていたような気がする。
「多分、認めたくなかったんだよな」
鏡に映るこの鈴音の姿が、今の自分の姿だと認めてしまったら、もう元に戻れないような気がしたんだ。
だけど今は、ついさっき開き直れたおかげで、今の状況を受け入れようという気分になっていた。
今は鏡に映るこのワンピース姿の女の子が、今の俺の姿なんだって、すんなり受け入れられたんだ。
「えへへ、こうしてよく見てみると、鈴音っていけてるじゃん」
鏡の前で、俺は腰や頭に手を当てて、ちょっと気取ったポーズを取ってみた。
鏡の中には、いつもは真面目な女の子が、めずらしく気取ったポーズを取っている姿が、映し出されていた。
俺は今度は、鏡の女の子に向かって、微笑みかけてみた。
鏡の中の女の子は、俺に優しく微笑みかけてくれていた。
「清彦さん、わたし、清彦さんのことが好きです」
自分で言っておきながら、けっこうドキドキした。
そんな女の子にに、返事をしようと口を開きかけたその時、
コンコン、とドアからノックの音。
「鈴音お嬢様、よろしいでしょうか?」
「あわわっ! ……い、いいわよ!」
俺は慌てて鏡の前から離れながら、ドアに向かって返事を返したのだった。
「それで、なに?」
「お嬢様、おやつをお持ちしました」
「おやつ……わかったわ、テーブルの上に置いておいて」
「承知しました」
お菊は俺の指示通りに、テーブルの上におやつを置くと、再び部屋を出て行ったのだった。
「ふう、いきなりだから焦った。でもおやつか」
そういわれてみれば、小腹が空いていた。
気分も変えたいし、小休止でおやつを食べるのもわるくないな。
でも、この時代の、お嬢様のおやつって、何なんだろう?
ケーキかなにかかな?
興味をもって見た。テーブルの上に置かれていたのは、羊羹とお茶だった。
意外に和風なんだな。まあいいか。
「いただきます。……うん、あっさり甘くて美味しい」
羊羹を味わって食べながら、これは鈴音の大好物なんだということを、俺は思い出していたんだ。
大好物の羊羹を食べ終わった頃には、俺はすっかりご機嫌だった。
お茶を飲みながら、その余韻を楽しんでいた。
このときは俺は自覚していなかったけど、ついさっきまで場違い感を感じていたこの部屋が、
今はなぜだか、長年住み慣れた自分の部屋にいるみたいに感じられて、なんだか気持ちが落ち着いていたんだ。
「この後はどうしようか?
いつもなら、おやつのあとは、女学院で出された課題を片付けるか、予習をする所なんだけど、
今日は特に課題は出ていないし、今は予習をする気になれない。
かといって、ここには携帯ゲームもスマホもないし、本当にどうしようか?」
そういえば、俺が小さい子供の頃だったら、この洋館みたいな大きな建物へ来たら、よく探検とかしたっけ。
童心に返って探検でもしてみようか?
さすがにやめておこう。
ここのお嬢様が探検なんてやっていたら、どう見たって不自然だ。
周りから変に見られて、正体を怪しまれても困るからな。
第一、自分ん家を探検するって言うのも、変な話しだしな。
鈴音の部屋の中を、もう一度見回してみた。
鏡台のすぐ側には、洋服ダンスやクローゼットが置かれていた。
あの中に、鈴音の服がしまわれているのだろう。
最初の着物とはかまや、このワンピース以外に、鈴音はどんな服を着ているんだろうな。
さらには窓際には勉強机が置かれていて、すぐ側の本棚には本がぎっしり並べられていた。
鈴音って、どんな本を読んでいたんだろう。
鈴音はこの部屋でどんな生活をしていたのだろう?
俺はさらに視線を動かした。その視線の先にはベッドがあった。
天蓋がついた、高級そうなベッドだった。
俺は引き寄せられるようにベッドの側まで来た。そして触ってみた。
なんか中はふかふかしてる、ここに寝たら気持ち良さそうだな。
つい、ベッドにダイブしてみた。やっぱりふかふかだった。
ベッドからは、いい匂いがした。なんだかうとうとしてきた。
このまま寝ちまうか?
慣れない環境で、精神的には結構くたくただし、それも悪くないかもな。
これは悪い夢で、寝て目が覚めたら、俺は元の清彦に戻っているかもしれないしな。
なんてことを思いながら、俺は一旦意識を手放したんだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「きよひこ~」
どこからか、誰かが俺を呼ぶ声が聞こえた。
「清彦~」
俺は声のしたほうを見た。
声の主は俺のおやじとおふくろ、俺の両親だった。
どうやらおやじたちは、俺を探しているようだった。
知らせなきゃ、俺がここにいるって。
「ここだよ、俺はここにいるよ!」
俺は声を出して、おやじとおふくろに、俺がここにいるって知らせた。
その俺の声は、なぜだか女みたいな甲高い声なのが気になった。
だけど、その俺の声に気づいて、おやじたちがこっちを向いてくれた、今は気にしないことにしよう。
「こっちこっち!」
なぜだか嬉しくなって、俺は両親に手を振っていた。
手を振っている時、着物の長い裾が、少し邪魔に感じられた。
着物? 長い裾? なんで俺がこんなの着てるんだ?
そのことに疑問を感じたけれど、その直後のおふくろの返事に、そんなことを気にする余裕は吹き飛んだ。
「あなたは誰?」
おふくろの、俺を他人でも見るようなその目とその返事に、俺は血の気が引いた。
「俺だよおふくろ、あんたの息子の清彦だよ!」
俺の声は、相変わらず甲高かった。
清彦だと名乗った後、咳払いしたけど、甲高い声は直らなかった。
「何を言っているのよ、あなたが私の息子の訳がないでしょ、だってあなたは女の子じゃないの!」
「そうだ、俺の息子はれっきとした男だ、女じゃない!」
両親に俺の存在が否定されて、今度は頭に血が上った。
「もっとよく見てくれよ、俺のどこが女なんだよ!!」
そう主張しながら、俺は自分の胸を手のひらでどんと叩いた。
ふにゃ、と手のひらから柔らかい感触、えっ?
慌てて自分の身体を見下ろすと、俺は女物っぽい着物を着て、女っぽいはかまを穿いていた。
そしていつもより身体が縮んでいて、その胸元には、まるで女みたいな緩やかな膨らみがあった。
まさか!
俺は股間に手を滑らせた。股間にあったはずの、俺の男のシンボルが存在しなかった。
いったいどうなってるんだよこれ!
もしかして俺、本当に女になっちまったのかよ!
「信じてくれよ、俺は本当に清彦なんだよ!」
そう主張しながら、俺は正面にいる両親のほうを見た。
「えっ、いない?」
俺の両親は、煙のように掻き消えていた。
「おやじ~、おふくろ~、いったいどこへ行ったんだよ!」
俺は不安にかられながら、両親の姿を探した。
俺の身体が女になってて、俺が両親に清彦と認識されなくて、このまま見捨ててしまうんじゃないかって恐怖を感じた。
そのとき、別の声が聞こえた。
「バカ清彦、私を置いてどこへ行ったのよ!」
その声は双葉!
「ここだよ双葉、俺はここにいる!」
俺は双葉に、俺の存在を主張した。
双葉なら、双葉なら俺のことをわかってくれる。
姿が女に変わっていても、見分けてくれる。そんな気がして。
だけどその期待は、あっさり打ち砕かれた。
「あなた誰?」
双葉も俺のことを、他人を見るような目で見つめていた。
双葉も、俺のことがわからないのか?
絶望感を感じながらも、それでも俺は主張せずにはいられなかった。
「もっとよく見てくれよ、身体は女かもしれないけれど、俺は本当に清彦なんだ!」
「あんたが清彦のわけないでしょ、そこの鏡で、自分の顔をよく確かめてみなさいよ!」
「鏡?」
言われた方を見てみれば、いつのまにか、旧校舎の開かずの扉の部屋にあった、あの鏡がそこにあった。
そしてその鏡に映っていたのは、清彦じゃなくて、着物にはかま姿の女の子、野泉鈴音の姿だった。
「違うんだ双葉! これは……いない!」
いつの間にか、双葉もいなくなっていた。
俺は慌てて、双葉の姿を求めて、辺りを見回した。
すると、ついさっき、鈴音の姿を映していた鏡に、双葉の姿が映っていた。
鏡の向こうで、双葉は誰かと一緒に居た。
あれは誰だ! ……あれは俺? 清彦!?
清彦は双葉をエスコートしていた。
一緒に居る双葉が楽しそうで、いつもの俺よりも上手くやっていた。
あれは俺だけど俺じゃない! あれは誰だ?
そんな清彦に、俺は嫉妬した。
双葉に触るな! くっつくな! 双葉から離れろ!!
だけど、鏡の向こうに、俺の声は届かない。
向こうで二人は楽しそうに話をしているけど、その声も聞こえない。
俺は双葉と、鏡の壁に隔てられて、俺は歯噛みしていた。
ふと、声が聞こえないはずの向こうの俺が、振り返った。
そして、一瞬にやりと笑った。
その瞬間、おれは悟った。あの清彦は鈴音だ! と。
双葉、そいつは本当の俺じゃない!
本当の俺はここにいるんだ! 待ってくれ! 気づいてくれ!
双葉っ、ふたば~っ!!
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……様! 鈴音お嬢様!」
誰かの呼び声に、俺ははっと目を覚ました。
俺はがばっと跳ね起きた。
はあはあと、寝覚めの俺の呼吸は荒かった。
寝汗もかいていて、背中のあたりがぐっしょり冷たかった。
何かつい今まで、嫌な夢を見ていたような気がする。
そのせいだろうか、目が覚めたことに、俺はどこかほっとしていた。
俺はゆっくりと、呼吸を整えた。
気分が落ち着いてくると、ようやく周りが見えてきた。
あれ、ここはどこだっけ?
俺が寝ていたのは、洋館の広い部屋の高級そうなベッドの上だった。
「お嬢様、お目覚めになられましたか」
そんな俺の目の前には、着物姿の、どこかほっとした表情の女の子の顔。
俺は一瞬、この子は誰だっけ? と思った。だけどすぐにピンときて思い出した。
ああそうだった、この子は俺付きの女中のお菊だったっけ。
……俺付きの女中!?
なんで一般庶民の俺に、そんなものが付いてるんだ?
その疑問に、またピンときて思い出した。
そうだった、今の俺は、この野泉家の野泉鈴音お嬢様なんだった。
お嬢様!? 野泉鈴音!!
俺は慌てて自分の身体を見下ろした。
俺は寝る前に身に着けた、ワンピース姿だった。
確かめるように、胸元に手を滑らせると、俺の手のひらには、小さいながらも柔らかい膨らみを感じた。
今の俺は男の清彦じゃない、今は女の鈴音なんだ。
今の俺は、あの時あの鏡で、野泉鈴音と入れ替わってしまっていたんだ。
そして俺は、鈴音としてこの家に帰ってきて、慣れない環境に気疲れして、このベッドで寝てしまっていたんだ。
次に目が覚めたときに、元に戻っていることに期待しながら。
そのことを思い出しながら、目覚めた後も、やっぱり元に戻ることはなく、鈴音のままだったことに気がついて、俺は落胆しながら項垂れたのだった。
そんな俺に、お菊は恐る恐る、だけど心配そうに口を開いた。
「鈴音お嬢様、ずいぶんうなされておられましたが、何か怖い夢でも見られていましたか?」
「怖い夢? そうかもしれない。……どんな夢だったか、忘れちゃったけど」
怖いというよりも、何か腹立たしい内容だったような気がする。
どんな夢だったのか、思い出せないけど。
こういうときは、思い出せないほうがいいのかもしれないが、どこかすっきりしない。
「双葉、というお方は、お嬢様のご学友なのでしょうか?」
「双葉? なんであなたがその名前を?」
お菊の口からその名前を聞いて、俺はどきりとした。
双葉はこの時代の人間じゃない、百年後の人間だ、お菊が知ってるはずはないのに何でだ?
「いえ、お嬢様が夢でうなされながら、しきりにそのお方の名前を呼んでおられましたから、つい気になってしまって、差し出口をはさんでしまって申し訳ありません」
「夢でうなされながら? ……そう、教えてくれてありがとう」
どんな夢だったか思い出せないのは残念だけど、その名前を聞いた瞬間から、俺の胸の奥がちくちく痛んでいた。
息が苦しくて、なんだか切ない気分になっていた。
俺は、こんな状況になって、はじめて自分の気持ちに気が付いたんだ。
俺は、双葉のことが好きだったんだ。って。
会いたい。双葉に会いたい。
会って俺のこの気持ちを伝えたい。
だけど今の俺は、鈴音の姿になっていて、百年前の世界にいる。
こんなことになってしまって、どうすればいいんだ?
ひょっとして、俺はもう双葉に会えないのか?
いやだ、双葉に会いたい。もう一度双葉に会って、俺のこの気持ちを伝えるんだ!
でもどうやったら、元の俺に戻って、もう一度双葉に会えるんだ?
「お嬢様、どうかなされたのですか、そんなに悲しそうな顔をされて」
「悲しそうな顔? 私はそんなに悲しそうな顔をしていた?」
「はい、とてもお辛そうです。やはり私は、余計な差し出口を挟んでしまったでしょうか?」
まるで自分のせいで俺に悲しそうな顔をさせてしまったと、責任を感じて申し訳なさそうなお菊の様子に、俺は慌てて否定した。
俺はお菊に感謝こそすれ、そんな申し訳なさそうにされることはなにもない。
「なんでもないわ、少なくともお菊のせいではないわ。それよりも、お菊は何か用があって、私の元へ来たのではなくて?」
俺は話題を変えさせた。
少なくともお菊は、ベッドで仮眠をしていた俺を、起こしに来た訳ではないだろう。
そして、話題を変えさせたことで、俺自身も気持ちを切り替えることができたんだ。
「そうでした。夕食の準備が整いましたので、部屋にお持ちしました」
「夕食、もうそんな時間なの?」
そう言われてみれば、この部屋の中は薄暗くなっていた。
寝ている間に、こんな時間になってしまった。
今何時だろうか? 少なくとももう夕方なんだ、何か明かりを点けなきゃ。
「明かりを点けます」
俺の意図を察したのか、お菊は素早く壁際に移動して、電気のスイッチを入れた。
天井から吊り下げられた、シャンデリアっぽい装飾の白熱電球に明かりが点り、ぱっと部屋が明るくなった。
でも、なんとなく蛍光灯よりは、暗いような気がした。
そうか、この時代は、まだ蛍光灯がないんだ。
でも、電球はあるんだな。
などと、俺は変な感想を抱いていた。
その後お菊は、テーブルの上に、運んできていた夕食を並べてくれた。
「ありがとう、もう下がってもいいわ」
「失礼しました」
一礼して、お菊は部屋から出て行った。
後に一人残された俺は、ほっとしながらテーブルについて、並べられた夕食を見た。
ご飯に、味噌汁に、焼き魚に、お新香。
「……普通の夕食なんだ。それも和食」
鈴音はこういう洋館に住んでいるお嬢様なんだから、もっと洋食っぽいご馳走を食べているのかと思っていた。
いや、洋食も食べるし、庶民の食べられないすごいご馳走を食べることもあるけど、野泉家の普段の食生活はこういうものなんだ。
俺はこれから野泉鈴音としてこの野泉家で生活しながら、そんなことを少しづつ理解していくことになるのだった。
まあいい、いまはともかく、夕食を済ませてしまおう。
「いただきます」
俺は朱塗りの箸を手に取った。
使い慣れた箸のように、今の小さな俺の手に馴染んでいた。
まずご飯を口に運ぶ。普通に美味しかった。
「俺、魚って、あまり好きじゃないんだよな。骨とかあるし。まあ食べるけど」
俺は箸の先で、魚の身を小さくちぎって、口の先に運んだ。
「あれ、この魚、意外に美味しい」
それに、いつもは悪戦苦闘する魚を、今は器用に箸を使って食べられていた。
魚が美味しいので、ご飯もどんどん進む。
お腹もすいていたし、俺はいつの間にか夢中になって夕食を食べていた。
だけど、清彦だった時のように、がつがつかきもむような食べ方じゃなく、お行儀よく少量ずつ箸を進めていた。
もしお菊が、今の俺の夕食を食べる姿を見ていたら、普通にこう思うだろう。
「鈴音お嬢様は、相変わらずお行儀がよくて、夕食を食べる姿もお美しい」と。
だけどそのことを、俺はこの時は自覚していなかったのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
夕食を食べ終わった時には、俺は満足していた。
「ごちそうさま」
夕食が終わるタイミングを、計っていたかのようにお菊が現れて、食器は素早く片付けられた。
鈴音の部屋に置いてある置時計を見てみると、時刻は七時を少し回っていた。外もさすがに暗くなっていた。
さて、これから自由時間だけど、この後どうする?
この部屋に帰ってきた後にも思っていたことだが、ここには携帯ゲームやスマホはない。
テレビもネットができるPCもない。あの時にも思った事だが、本当にどうしよう?
「いつもなら、そろそろ夕食の時間か……」
そういえば、たしか今日は出掛けに、おふくろが、「今夜はカレーよ」と言っていたような気がする。
そんなおふくろに、俺は、「うええ、またカレーかよ、手抜きばっかするんじゃねえよ」って言い返したっけか?
たった今、夕食を済ませたばかりなので、空腹感はない。それどころか満足していた、そのはずなのに。
「おふくろのカレーか、食べたかったな」
そんなことを思い出していたら、無性にカレーを食べたくなった。
おふくろは、一度カレーを作ると、翌日の分くらいまで多めに作り置きをする。
今日がダメでも明日に帰れれば、残った作り置きを食べられるだろうか?
俺の目頭が熱くなって、急に部屋の景色がにじんだ。
俺は指先で目頭を拭った。
「帰りてえ、やっぱり元の俺の家にかえりてえ、帰っておふくろに会いてえよ」
拭っても拭っても、堰を切ったかのように、涙がぽろぽろ流れ出て止まらなかった。
俺ってこんなに泣き虫だったっけか?
そういえば、小さい頃は泣き虫で、些細なことでいつも泣いていたっけ。
そして、そんな時はいつも双葉が……。
「きよひこくんのなきむし、またないてるの」
「だって……」
「きよひこくんはおとこのこでしょ! おとこのこは、泣いてちゃだめなんだからね!」
「そんないじわるいわれるなら、ぼく、おんなのこでいいよ」
「だめ、きよひこくんは、ぜったいおとこのこなの!」
「だってふたばは、きよひこくんがすきだもん、だからきよひこくんは、おとこのこじゃないとだめなの!」
「ふたばちゃんは、ぼくがすき? ぼくがおとこのこじゃないとだめ?」
「だから、なかないで」
「……うん、もうなかないよふたばちゃん、、ぼくがんばる」
「うん、いいこいいこ」
そんなことを思い出していたら、俺の目には、余計に涙が溢れてきた。
ちくしょう、あれから強い男になろうと努力して、いつのまにか俺は、泣き虫を返上していたはずだったんだ。
なのに今の俺はすっかり泣き虫で、涙がちっとも止められなかった。
今は身体が女になってしまったから、俺は昔の泣き虫に戻っちまったのか?
だとしたら、すげえ皮肉だな。
「会いてえ、双葉にも会いてえ」
もし今、双葉に会えたら、俺はどうするだろうか?
そのまま双葉に泣きつくだろうか?
それとも強がって、泣くのをこらえようとするのだろうか?
あれから少し泣いて、泣き止んだ頃、コンコン、とドアをノックする音。
「失礼します」と、お菊がこの部屋へ入ってきた。
「鈴音お嬢様、……泣いておられたのですか?」
まずい、もう泣き止んでたんだけど、涙でぐしゃぐしゃな顔を見られたか。
ここはごまかさないと、俺は強く否定した。
「なんでもないわ! それにあなたには関係ないわ!」
「失礼いたしました。出すぎたことを言って申し訳ありませんでした」
お菊さんは、普通に心配してくれたんだろうから、こうやって突き放すのは心が痛かった。
だけど今の俺は、余計な詮索はされたくなかった。
「それで、何か用?」
「はい、お風呂の用意が出来ましたので、お嬢様をお呼びに来ました」
「そう、お風呂の用意がね」
……ちょっと待て、お風呂の用意って!!
もしかして、このままだと、俺が鈴音の身体で、風呂に入ることになるんじゃないか?
いいのか俺?
ここで俺は、ふと(鈴音の記憶を)思い出した。
「今日はいつもより、お風呂の時刻が早いんじゃなくて?」
「はい、今日は旦那様が、おられませんので」
「お父様がおられない? なぜ?」
「はい、横浜へ出かけられていた旦那様から、夕方に今日はお戻りになられないとの連絡がありました」
そんな話は聞いていなかった。
だけど今日は、俺が鈴音の家族と一緒の夕食を避けて、鈴音の部屋に篭っていたのだから、そのことを知る機会がなくても仕方がなかった。
「それで、お父様がおられない分、いつもよりお風呂の時刻が早くなった。ということなのですね?」
「はい、その通りです」
「そう、わかりましたわ」
どういうことなのかというと、この家ではこういう時の序列や順番は決まっている。
この野泉家の序列は、この家の主人であるお父様が、一番と決まっている。
次に、跡継ぎで長男である、鈴音の弟の誠二が二番目と、まず男が序列が上で優遇される。
三番目からは、女で年齢が上のお婆様が、次にお母様と続いて、最後に家族の一番下っ端に、鈴音が来る序列になっていた。
お風呂の順番も、だいたいこの序列に当てはまっている。
一番風呂はお父様、二番目は弟の誠二と、
三番目には、本来ならば序列的にはお婆様のはずなのだが、この場合は、子供の鈴音を優先して三番目にお風呂、ということになっていた。
ちなみに、この家の使用人たちは、その後の残り湯を使うことができるらしいが、その辺の細かい順番や取り決めまではよくわからない。
説明が長くなったが、そんな訳で、今日は父親がいない&お風呂は早上がりな弟の順番が終わった。なので、いつもより早く鈴音の順番が回って来たということだった。
そして問題なのは、そんなことじゃない。
『鈴音の身体で、俺が風呂に入ってもいいのか?』
最初の問題に戻るのだった。
真っ先に思いついたのは、何か理由をつけて、お風呂を回避することだった。
もし明日、元の身体に戻れるなら、今日のお風呂くらい入らなくても大丈夫だろう。
一瞬そう思いかけて、でも俺の中の何かが、強く反発した。
『嫌だ! 結構汗もかいたんだし、お風呂に入らないで、このまま身体が汚れたままだなんてありえない!
それに、こんな状況なんだ、せめてお風呂にゆっくり浸かって、心身の疲れを癒したい』
そんな気持ちが、急に強くなったんだ。
そしてそうだと決めたら、居ても立ってもいられなかった。
俺はお菊に、すぐお風呂に入ると伝えた。
「承知しました」
俺はお菊と一緒に脱衣所へと移動した。
そして、俺の着替えを、お菊にまかせた。
お菊は手馴れた感じで、俺の身に着けている服を脱がせていく。
この家に帰ってきた直後に、一度経験しているから、別に驚きはしない。
だけど、こうして他人に奉仕されるのって、やっぱり慣れないし、気分が落ち着かないな。
やがて俺は、一糸纏わぬ生まれたままの姿になった。
うう、やっぱりちょっと恥ずかしいな。
そのときお菊が、なぜだか恐る恐るって感じで、口を開いた。
「鈴音お嬢様、もしよろしければ、お背中をお流ししましょうか?」
お菊はなぜそんな事を聞くのだろう?
俺は、いつもの鈴音ならどうだったのか? を思い出す。
いつもの鈴音は、この後は一人でお風呂に入っていた。
幼い頃なら(ばあやに見てもらった)ともかく、女学院に上がった頃には、一人で入るようになっていた。
思春期に入った鈴音は、一人でお風呂に入りたがるようになったのだ。
なので鈴音は、普段の生活ではお菊の世話になっているが、お風呂ではお菊に背中を流してもらったことはない。
なのになんでお菊は、わざわざこんな事を聞くのだろう?
きっと今の俺は、普段の鈴音よりも、微妙にたよりなく見えるのだろう。
だから、世話を焼きたがるのではないだろうか?
「私は大丈夫、一人で入れるからいいわ」
「承知しました。すぐそこで控えておりますので、ご用のときはいつでも声をおかけくださいませ」
「……ありがとう」
「!!? もったいないお言葉です」
なんてやり取りの後、俺は一人で浴室に入ったのだった。
お菊にはついさっき、泣いた後の顔を、見せちまったからなあ。
やっぱりそれで、心配させちまったかな。
下手なことをして、怪しまれないように、気をつけないとな。
ちょっと反省しながら、俺は浴室の中を見回した。
浴室は結構広かった。
そして浴槽も、木でできた結構大きなものだった。
「これって檜風呂ってやつなのかな?」
浴室も浴槽も、現代の俺の家のユニットバスよりも大きくて広かった。
だけど、現代の俺の家の風呂にあって、ここにないものがあった。
「シャワー、どうしよう?」
いつもだったら、俺は風呂に入る前に、まずシャワーを浴びて、汗を流してさっぱりしてから風呂へ入っていた。
だけどこの時代、シャワーはまだ一般的ではないのだろう。
こんな大豪邸なのに、さすがにシャワーは設置されていなかった。
シャワーなしで、鈴音はどうしていたんだろう?
そう思った瞬間に、俺は鈴音がどうしていたのかを思いだした。
「そうか、掛け湯をしていたのか」
俺は早速、浴槽の側に置いてあった木の桶で、浴槽のお湯を汲んで、まず一杯身体にお湯をかけた。
「ひゃあ、少し熱っちい!」
だけど、お湯が心地よかった。
そして続けて、掛け湯で身体を洗おうとして、はたと気がついた。
「えっ、……このまま続けても、いいのだろうか?」
何を今更なことだが、今の自分の身体が、女の子の身体だということを、俺は改めて意識しだしたのだった。
今までは、できるだけ鈴音の身体を見ないようにとか、できるだけ触らないようにとか、わりと鈴音に遠慮して気を使っていた。
この家に来てからの着替えや脱衣は、お菊が着せ替えしてくれたので、必要以上に身体を見なくても済んでいた。
まあ、トイレのときは、股間を拭いたり触ったりしたけど、それでもあまり見ないようにしていた。
……普通のエロ男子だったら、とっくの昔に、この身体で色々エロイことやっていただろうな。
まあ、エロイことをするかどうかはともかく、ちょっと遠慮しすぎだったような気はするけどな。
これからは、元の俺に戻れないうちは、当分この身体が俺の身体なんだ。
いい加減に覚悟を決めろ!
俺は俺自身にそう言い聞かせた。
俺はえいっと、自分の身体を見下ろした。
「み、見ちまった……」
俺の胸元には、小ぶりなおっぱいが見えて、さらにその先のまだ毛の生えていない股間には、つるっとした綺麗な割れ目が存在していた。
そう、綺麗だと思って、俺はつい、見とれてしまってたんだ。
はっとして、あわてて視線を逸らした。……なにをやってるんだ俺は!
俺は気恥ずかしくなって、思わず赤面していた。
ちらっと股間の割れ目を見ただけだけど、それでもそれは綺麗だと思った。
これは排泄のための割れ目なんだ、本来なら綺麗なはずはないんだ。
それでも綺麗だと思った。
これが俺の身体の一部だなんて、なんだか信じられなかった。
いけね、こんなことしてねえで、さっさと身体を洗わなきゃ。
でも、やっぱり意識するなっていうのは、しばらく無理かもな。
俺は女の子な自分の身体にどぎまぎしながらも、浴槽のお湯を汲んで、掛け湯で身体を洗い始めた。
最初は俺は、恐る恐るって感じで、掛け湯で軽く身体を洗い流していた。
お湯で濡らした俺の白い肌の表面を、細い指先を滑らせる感触が心地良かった。
そうやっているうちに、『今はこの身体は俺の身体なんだ』という気持ちが強くなってきた。
段々俺の手の動きや気持ちに、遠慮がなくなってきた。
おっぱいやお尻も、自然に手を動かして、さっとお湯で洗い流した。
あそこのほうは、さすがにちょっと躊躇したけど、それでもお湯を掛けながら、そっと洗い流した。
さあ、いよいよ念願のお風呂だ。
でもその前に、湯加減はどうなった?
俺は浴槽のお湯をかき混ぜて、熱さを見てみた。
……やっぱり少し熱いな。もう少しこのまま水で薄めよう。
最初の掛け湯の時に、浴槽のお湯は少し熱かったので、俺は浴槽脇の水道の水を適度に出しっぱなしにしておいたんだ。
さっきの掛け湯は、この水と、浴槽のお湯を混ぜながらしていたんだ。
ちなみにこのお風呂のお湯は、浴室のすぐ外の風呂釜に、風呂焚き担当の使用人が薪をくべて焚いていた。
今は保温程度の弱い火力で待機している状態だけど、もし俺がお湯が温いって言えば、また薪をくべるって流れになっていたんだ。
もっともこの時点では、俺にはこの風呂に関して、そこまでの知識はなかったし、特に思い出さなかった。なので使用人に指示をする発想もなかった。
あと、浴槽のお湯の調整も、脱衣所に待機しているお菊に言えば、やってもらえたはずだけど、これまた俺には、お菊にそう指示する発想がなかった。
もっとも、元の鈴音も、浴槽のお湯の調整に関しては、自分で自分好みの熱さにするのを好んで、あまりお菊に指示はしなかったようだ。
とかやっている間に、浴槽のお湯が水で薄まってきた。うん、いい感じだ。
俺は水道の水を止めたあと、ゆっくりと浴槽に入って、お湯に浸かった。
「ふう、いい湯だな」
ようやくひと心地つけた。
お風呂に入る前は、この身体は着物や服を着ていて、肝心な部分は隠されていた。
だけどお風呂に入るために、素っ裸になってからは、この身体はずっともろ見え、もろ触り状態だった。
今の自分が女なんだってことを、俺は改めて意識させられていた。
女の子な自分の身体に、俺は興味津々だった。
それでも俺は、どこか鈴音に遠慮していた。というか、この期に及んでまだヘたれだった。
堂々と触るのではなく、身体を洗っているときは、どさくさ紛れに身体に触るって感じだったんた。
こうしてお風呂に浸かっていると、だんだん気持ちが落ち着いてきた。
だけどまだ、今の自分の身体に、俺は興味津々だった。
どさくさ紛れとはいえ、あちこち触っているうちに、俺の心の中のハードルが下がっていたんだ。
今は俺の身体なんだし、もうちょっとくらい触ってもいいよね。
目の前に、自分の手をかざしてみた。
生っ白くて、細くて、小さな手だよな。
その小さな手で、男の俺にはなかった胸元の膨らみに、そっと触ってみた。
今の俺の小さな手に収まる、小さなおっぱいだけど、柔らかな弾力があって、触り心地は良かった。
その小さなおっぱいを、そのままそっと撫でてみた。
昔、敏明たちと鑑賞したエロDVDなんかだと、AV女優は胸を触られて、気持ち良さそうにあえぎ声をあげていたっけ。
だけど、こうして実際に胸に触ってみても、思っていたほど気持ちよいって感じはなく、どちらかというとくすぐったいって感じた。
まあ、男の時よりは、乳首が敏感って感じだけど、それほど気持ちよくないのは、自分で触っているからなのかな?
それともこの身体が、まだ性的に開発されていないからなのか?
それでも、女の子のおっぱいを、俺の自由に触っているというこのシチュエーションに、俺の気分は高揚していた。
まあいいや、それならこっちはどうか、と思いながら、俺はおっぱいから手を離し、その手をそっと股間へとずらした。
もし俺が男の清彦だったら、股間にあるはずのものが、今の身体にはない。
かわりに、そこには女の割れ目があった。
今更だけど、ここにちんこないって、変な感じだな。
俺は、女になりたいとか、女に生まれたかったとか、思ったことはない。
だけど、ちょっとの間なら女になってみたい、男と女の感覚の違いを体験してみたいって、興味本位で思ったことならあった。
そして今の状況は、ちょっとの間で済むかどうかはともかく、女の感覚がどんなものなのかを、実際に体験するチャンスではあった。
元の鈴音に悪いって気持ちはまだあったけど、今は女の子の身体への興味のほうが勝った。
今は俺が鈴音なんだ。だからいいんだ。
俺は股間の割れ目の中へと指を滑らせた。
期待感でゾクゾクしていた。
慎重にまさぐっていると、指先がちっちゃな突起物に触れた。
その瞬間、俺の身体が、電流が走るような快感に包まれた。
「これって……クリトリス? これが、女の快感?」
俺は初めて味わう女の快感を、もっと味わいたくて、それを指先で慎重に弄りつづけた。
俺は知らなかったことだが、鈴音は今までオナニーをしたことはなかった。
根が真面目だったこともあるだろうが、現代のようにネットや雑誌でそういう情報は簡単に入ってこない。
女学院の育ちの良い女友達と、そのての会話もしていなかったようで、そんなことをする発想もなかったようだ。
なので、この身体でオナニーをしたのは、実質これが初めてで、俺が初めてだった。
そして鈴音の身体は、その初めての経験に戸惑っているみたいだった。
だけど俺自身も、女の身体でのオナニーは初めてで、快感を感じながらも、身体と一緒に戸惑っていた。
戸惑いながらも、鈴音の身体も、俺の心も、もっと気持ちよくなりたいと感じていた。
オナニーをすることで、鈴音の身体と俺の心のズレが、俺の自覚しないうちに少しづつ修正されていった。
慎重だった俺の指の動きが、だんだん大胆になっていく。快感も高揚した気持ちも高まっていく。
あまりの気持ちよさに、ついあえぎ声を上げそうになりながら、どうにか俺は抑えた。
外には風呂焚き担当の使用人がいて、脱衣所にはお菊がいる。そんな声を聞かれたくなかった。
そして俺は、「…………っ!!」
男の時の射精とは違う長い絶頂をむかえて、頭の中が真っ白になったんだ。
オナニーで絶頂を迎えた後、俺は風呂に浸かりながら、しばらくぼんやりしていた。
「……ずるい、女のほうが気持ちいいなんて、……なんだかずるい」
まだ身体に残っている、オナニーの余韻に浸りながら、俺はそんな風に思っていた。
これが男の時だったら、絶頂のあと、急激に気持ちが醒めて賢者タイムに入っていた所だろう。
だけど、このときの俺は、まだ残るオナニーの余韻のせいでか、身体も心もふわふわしていた。
こんなに気持ちがいいのなら、もうしばらく、この身体のままでもいいかもな。
などと思いかけて、さすがにはっと気づいて、慌てて頭を振った。
いやいや、女のほうが気持ちいいからって、ずっと女のままでいいなんて、さすがにそれはない。
元の身体に戻れるのなら、元に戻りたいし戻らなきゃ。
……さすがにちょっとのぼせてきたかな、色々と、そろそろ風呂から上がって、頭を冷やさなきゃ。
俺はゆっくりと風呂から上がった。
俺は風呂から上がり、浴室を出た。
脱衣所で待機していたお菊が、心配そうに顔色をかえて俺の側に寄って来た。
「鈴音お嬢様、お風呂のお湯でのぼせられましたか?」
一瞬、オナニーのことがお菊にばれたのか? と思ってドキッとしたが、そうではないようでほっとした。
「……そうね、ちょっとだけ、のぼせちゃったみたい。でも大丈夫よ」
風呂から上がった俺は、浴室を出た。
風呂上りの俺は、頭の中がふわふわしてて、足取りもふらふらしていた。
そんな俺を見て、脱衣所で待機していたお菊が、あわてて寄って来て、ふらふらしていた俺を支えてくれた。
「鈴音お嬢様、どうかなさいましたか!」
「……ちょっとだけ、のぼせちゃったかな。でも大丈夫よ」
「大丈夫ではありません。お嬢様、こちらへ……落ち着くまで、少し休んでいてください」
脱衣所内の椅子のほうに連れて行かれて、藤で編んだ椅子に座らされた。
「お嬢様これを」
「あ、お水」
休んでいる俺に、お菊が水を持ってきてくれた。
風呂上りののぼせ気味の今の俺には、冷たい水が美味しかった。
それが仕事なんだろうけど、お菊は俺が落ち着くまで、かいがいしく俺の世話を焼いてくれた。
なんだかそれが嬉しかった。
「お菊」
「はい」
「ありがとうね」
「そんな、……もったいないお言葉です」
俺のお礼の言葉に、なぜだかお菊は恐縮していた。
少し休んでいるうちに、お風呂(それともオナニー?)で火照った身体が冷えてきた。
同時に、気持ちのほうも段々落ち着いてきて、冷静になってきた。
浴室でのことを改めて思い出しながら、俺は、やっちゃったか。と思った。
こんな状況なんだし、着替えやお風呂で、この身体を見たり触ったりするのは仕方がない事だと思う。
だけど。オナニーはやりすぎたか?
もし鈴音本人に、そのことを問い詰められたら、俺は言い訳なんてできない立場のはずだった。
『今は俺の身体なんだ。それにお嬢様なんて、面倒な立場を押し付けられてるんだし、ちょっとくらい、役得があってもいいだろ!』
だけど俺は、同時に開き直っていたんだ。
『今は俺の身体なんだ! それが嫌なら、鈴音は俺から、この身体を取り返せばいいんだ!』
俺は俺自身に言い訳するように、そう言い聞かせていた。
この後、俺は当たり前のように、お菊に服を着せてもらった。
そして俺は、着替えが終わった直後に、そのことに気が付いた。
あれ、なんで俺、ナチュラルにお菊の奉仕を受けていたんだ?
お菊は鈴音専属の女中なんだから、今は鈴音の俺がその奉仕を受けるのは、当たり前のことなんだろうけど、
ついさっきまでの俺は、そうだとわかっていても、お菊に身の回りの世話をしてもらうことに、申し訳なさを感じていた。
なのに今は、特に意識していなかったからなのか、俺は当たり前のように、お菊の奉仕を受け入れていたんだ。
いやいや、意識していなかったとしたら、普段の俺なら自分で着替えをしようとしたはずなんだ。
なのに今回は……。
「鈴音お嬢様、どうかなさいましたか? もしかして私、お嬢様に何か粗相でも致しましたか?」
そんな不安そうな表情のお菊に、俺は慌てて否定した。
「粗相なんて、なにもないわ。お菊はよくやってくれているって、感謝しているくらいだわよ。ありがとうね」
「そんな、また、私などにはもったいないお言葉です」
そう言って恐縮しながらも、お菊は嬉しそうに微笑んでくれた。
(今日のお嬢様はお優しい。いったいどうなされたんだろう?)
そんなお菊の様子を見て、俺はほっとした。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
鈴音の部屋に戻ってきて、お菊が退室して俺一人になって、俺はほっと一息ついた。
ここは他人の、それも女の子の部屋のはずなのに、今はとにかくほっとしたんだ。
おそらく、一人になれたからだろうな。
さて、この後はどうしようか、と思った所で、尿意を感じてきた。
おそらく、ほっとして気が緩んだせいだろう。
それはともかく、この時代の鈴音の身体になって、これで三度目のトイレだ。
(ちなみに二度目は、帰ってきた直後の、鈴音の部屋で落ち着いた頃だった)
トイレにはもう二度も行ってるし、ついさっきお風呂にも入った。今更だよな。
そんな風に、ある意味開き直りながら、俺はトイレに向かった。
帰宅したすぐ後に、一度ここのトイレに行っているから、場所はわかっている。
迷わずトイレに入った。
そしてスカートをたくし上げて、ズロースをずり下げてしゃがんだ。
そして普通におしっこを済ませて、備え付けの紙で濡れた股間を拭いたのだった。
あれ、なんで俺、ナチュラルにトイレを済ませてるんだ?
まるで、いつもこうしていたみたいに、やたら自然な動作で……。
トイレを済ませた後は、洗面所で手を洗った。
最初のトイレの時からそうだったけど、さっと手を洗うのでは気がすまなくて、念入りに手を洗っていた。
手を洗いながら、ふと正面の鏡を見た。
鏡の中の俺は、なんだか浮かない顔をしているな。……俺の顔!?
はっとして、俺は鏡を見直した。
鏡に映っているのは、鈴音の顔、鈴音の姿だった
違う違う、これは俺じゃない、鈴音なんだ!
なのに俺は、鈴音の顔を、俺の顔って認識していたのか?
「こいつは俺じゃない! こいつは鈴音なんだ!」
俺は改めて俺自身にそう言い聞かせた。
手を洗い終わった後、俺はそそくさと洗面所を後にして、鈴音の部屋に戻ったのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
部屋の戻った俺は、俺自身の変化について考えた。
少なくとも、お風呂に入る前は、この身体への違和感は、もう少し大きかったような気がする。
「なのに今は、なんか違和感が、小さくなっているような気がするんだよな」
例えるなら、下ろしたての、最初は身体に合わなかった服が、だんだん着慣れて馴染んできたみたいな感じ?
だとしても、なんでこんな急に、身体が馴染んだりしたんだ?
いずれそうなるにしても、なんか早くないか?
「……やっぱりアレか? オナニーの刺激が強すぎたのか?」
そういえば、オナニーの後から、この身体が俺の身体っていう気分が強くなったような気がする。
このままじゃ、なんかまずくねえか?
いったいどうすりゃいいんだよ!
俺は頭を抱えた。
さっきは鈴音の身体で、変な調子に乗ったりもしていたけど、俺は鈴音になりたいわけじゃないんだ。
本当は元の時代の元の俺に戻りたいんだ。
だけど、この状況に流されたままじゃ、このまま俺は、大正時代の鈴音になりきってしまうような気がした。
そんなのはいやだ!
急に心細くなってきて、俺はまた泣きそうになってきた。
俺は元の俺の家に帰りたいんだ!
なのになんでこうなっちまったんだよ! 誰か、誰か俺を助けてくれよ!
そんな俺の脳裏に、また幼い頃の双葉の顔が浮かんだ。
「きよひこくんはおとこのこでしょ!
おとこのこは、泣いてちゃだめなんだからね!
ふたばは、おとこのこなきよひこくんが、すきなんだからね!」
そしてその脳裏の幼い双葉の顔が、高校生に成長した顔に変化した。
「だから清彦、待っててあげるから、帰ってきなさい」
双葉、……そうだ、ここで泣いていても、叫んでいても、どうにもならないんだ。
帰るんだ、俺は元の俺に戻って、双葉の元に帰るんだ。
折れそうになった俺の心が、気持ちが、双葉のことを想うことで、どうにか持ち直すことが出来たんだ。
この後は、これ以上鈴音に馴染み過ぎないように、刺激を抑えるようにしよう。
少なくとも、オナニーをするのは止めておこう。
この身体は俺の身体じゃない、借り物の身体なんだ!
と改めて自分に言い聞かせた。
どれだけ効果があるかわからないけど、心の歯止めはかけておきたかった。
気持ちを立て直せた俺は、この後をどうするのか考えた。
置時計を見てみると、時刻は八時を少し回ったくらい、まだ早い時間だった。
いつもの俺なら、TVでも見ているか、PCでネットでもしている頃だろうか。
この時代にはTVもPCもない。ラジオですらまだない。
いくら野泉家が大富豪で、鈴音がそのお嬢様でも、存在しないものは持ちようがなかった。
まあ、TVがあったとしても、さすがに今は見る気分にはならなかっただろうけどな。
PCやネットのほうは、もしあったら色々と調べたかもしれないが。
鈴音の部屋を見回して、ふと鈴音の机の上にあるものが目に入った。
鈴音の机の上には、鉛筆で描きさしのラフな絵があった。
「へえ、描写も細かいし、けっこう絵が上手いんだな」
鈴音って、勉強だけではなく、音楽が得意だったようだし、そのうえ絵まで描けるんだ。
俺とは違って、多芸多才で、なんでもできるんだな。
「でもこれって、絵と言うよりイラストって感じだな」
描かれていたのは着物姿の少女の絵だった。
その絵の隣には、この時代の少女雑誌がページを開いた状態で置かれていて、鈴音の絵に似たイラストが載っていた。
というより、鈴音が雑誌のイラストを真似て、この絵を描いたのだろう。
「そうそう、この絵が綺麗だなって思って、俺もこんな絵が描きたくなって、模写していたんだっけ。……違う、これって、鈴音の記憶か」
鈴音の記憶は、これまで何回も思い出しているんだし、何を今更驚くことがあるって気はするけど、
ただ、今の記憶は、ほとんどタイムラグなしで思い出したことと、まるで自分自身の記憶のように感じたことが怖かった。
「へえ、この時代にも、こんな雑誌があったんだ」
俺はそんな現実から目を逸らすように、その雑誌を手にとって見た。
現代ほど洗礼されていないけど、少女向けの小説や綺麗なイラストや、読者の投稿コーナーまであった。
そして鈴音は、真面目な優等生ではあったが、こういう少女雑誌も愛読していたようだった。
「……大正時代の真面目なお嬢様ってことで、なんだか鈴音にお堅いイメージがあったけど、こういうところは、現代の女の子とかわらないんだな」
俺の中での鈴音の印象が、少しだけ変わって、親近感を感じた。
まあ、それはそれとして。
「俺は絵が下手だから、こういうのには憧れるな。……もしかして」
俺は、ふとあることを思いついて、新しい紙を用意して、鉛筆を手に取った。
試しに、ドラ○もんを思い浮かべて、描いてみた。
まだこの時代には存在しないド○えもんが、俺の手でさらさらと簡単に描かれた。
「思ったとおりだ。今の俺は、鈴音の画力で絵が描けるんだ」
ただ、オナニーほどではないだろうけど、こういうことを繰り返していたら、心と身体がより馴染んでしまうような気はした。
「それでも俺は、描きたいものがあるんだ」
俺はさらに新しい紙を用意して、今度は気合を入れて絵を描き始めた。
清彦たった時とは、比べ物にならないくらい集中して、絵を描いた。そして。
「よし、できた!」
俺の手で描かれた絵は、この時代には存在しないはずの、ブレザーの制服姿の女子高生。
「思った以上に、上手くそっくりに描けてるよな。……なあ、そうだろう双葉」
幼馴染の双葉の絵だった。
俺は描き上げたばかりの双葉の絵を、そっと自分の胸に抱きしめた。
「双葉、俺、がんばるから、絶対お前のいる現代に帰るからな」
俺は双葉への想いと、その絵を心の支えにして、しばらくは鈴音の身代わりの生活をがんばることになる。
そして、想い人の絵を抱く、今の俺のその姿や仕草は、傍から見れば、恋する乙女のように見えた。
もっとも俺は、そんな今の自分の姿を見ることは出来ない。なので俺自身はそのことに気づいていない。
そんな俺の姿を目撃したのは……。
「鈴音お嬢様」
「えっ? あわわっ! お、お菊!?」
お菊はノックをしてから部屋に入ってきたのに、俺はお菊に声を掛けられるまで、そのことに気づいていなかった。
お菊の声に慌てて、別に隠し必要もないのに絵を背中に隠したりして、思わず挙動不審になってしまった。
「それで、何か用?」
俺は気まずい気分をどうにか取り繕いながら、お菊に問いかけた。
「はい、そろそろお休みのお時間なので、その準備に来ました」
「お休みの時間……」
置時計の時刻は、九時半を回っていた。
まだ早くないか?
そう思いかけて、それは現代の高校生の感覚だとすぐに気づいた。
あっちだと、夜遅くまで起きている、深夜型の生活をするのは、今では珍しくなかった。
俺の場合は、深夜番組やらPCやゲームなどで、起きている事が多かった。
あるいは俺は行っていなかったが、遅くまで塾に通うなんて生活をしてるやつもいたし、夜に遊びに行くやつすらいた。
だけどこの時代だと、夜に暗くなったら、一般庶民はわりと早く寝る。
そして鈴音の場合は、特に用のない時は、十時前までには眠っていたらしい。
そういえば、少し眠くなってきたような気がする。
慣れない環境での気疲れや、ついさっき集中して絵を描いていたから、その疲労もあるだろう。
だけどこの身体は、いつもこのくらいの時刻に眠っていた。
この身体にみに付いた、その生活リズムのせいでもあるのだろう。
鈴音の記憶で、いつもそうだとわかった。
だけど、まだ少し戸惑っていたが、眠くなってもきていたし、俺はその通りにすることにした。
俺はお菊の手伝いで、部屋着からピンク色のワンピースタイプの寝巻きに着替えた。
……色々と思うところはあるが、スケスケのネグリジェじゃないだけましだと思うことにする。
あとは寝る前に、顔を洗って歯を磨くだけだ。俺は洗面所へと移動した。
お菊はその間に、いつも通りに、ベッドの準備を整えておくようだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
#ここで少し、お菊視点
鈴音お嬢様が洗面所へ行った後、私はいつものようにベッドの準備を整えた。
たいしたことではないので、すぐに準備は済んだ。
時間が余ったので、こっそり机の上の絵を見み行った。
さっきから気になっていたのだ。
「今日のお嬢様は、いつもとは少し様子が違っていた。いったいどうなされたんだろう?」
その秘密が、あの絵にあるような気がした。
お嬢様は、まるで愛しい人でも抱くように、あの絵を抱いていた。
何が描かれているのだろう?
愛しい殿方の絵だろうか?
あのお見合いを渋っていたお嬢様が、いつのまに……。
いや、だからこそ、お見合いを渋っていたのかも。
「……これは? 女の人の絵?」
おかしな絵だった。
今まで見たことのない、不思議な洋装の女性、いや少女?
お嬢様と同世代だろうか?
まさか殿方ではなく、この方がお嬢様の想い人?
私は、なぜか胸の奥がちくっと痛んだ。
そしてなぜか、絵の少女に対して、嫉妬に似た感情を感じていた。なぜ?
その理由は、私にはわからなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
#視点、鈴音(清彦)戻ります。
洗面所へと移動した俺は、まず鈴音が使用していた歯ブラシを手に取った。
この時代にも、歯ブラシはあったんだ。
この時代に来てから、何度目かわからない、同じような感想を抱いていた。
大正時代って、意外に色々あるんだな。
ただ、現代のようなプラスチック製ではなく、木製の柄のブラシだった。
ブラシは何かの動物の毛だろうか?
まあこの際、つかえるのなら、材質は別に何でもよしとしよう。問題なのは……。
「……これって間接キスにならないか?」
鈴音の歯ブラシを鈴音が使うのだから、別に間接キスでも何でもないんだが、気分の問題だった。
それでも歯を磨かないで寝るわけにもいかない。
気にしすぎないようにしながら、さっさと歯磨きをすませよう。
それでも、心の中で一言、「ごめん」と謝りながら、俺はブラシに歯磨き粉をつけて、歯を磨きはじめたのだった。
歯磨きが終わった後は、顔を洗ってタオルで拭いた。
タオルで顔を拭きながら、鏡に映っている鈴音の顔を見た。
ついさっきは、まだ高揚した気分が残っていた時にこの顔を見て、無意識に自分の顔だと認識していた。
だけど今は、気分が落ち着いた冷静な状態なせいでもあるかもしれないが、この顔は他人の顔だと認識している。
そう、これは俺の顔じゃない、鈴音の顔なんだ。
顔や身体は鈴音でも、俺の心は清彦なんだ。まだ大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は自分を安心させたのだった。
洗顔と歯磨きが終わった俺は、鈴音の部屋へと戻った。
俺が部屋に入ると、お菊はなぜか慌てた様子で俺を出迎えた。
「おかえりなさいませお嬢様。寝所の準備は整えておきました」
そんなお菊を見て、俺はふと、しっかり者のお菊がこんなに慌てているなんて珍しいな。と思った。
いったい何で慌ててたんだ?
「そう、ご苦労さま」
俺はお菊にねぎらいの言葉を掛けながら、でもまあいいか、とも思った。
特に何か失敗をした訳でもなさそうだし、お菊だって人間なんだ、たまには慌てることくらいあるだろう。
主人と使用人との関係とはいえ、俺とお菊との付き合いは短くない。俺はお菊を信頼しているんだ。
それに、「ふぁ~あ」俺は急速に眠くなってきていたんだ。
お菊の前で、つい大口をあけて、あくびをしてしまうくらいに。
いけね、いくらお菊のことを信頼してるからって、はしたない姿をみせちまったな。
案の定、そんな俺に、お菊は苦言を呈してきた。
「お嬢様、あくびをするなとは申しませんが、せめて手で口元をお隠しくださいませ」
「わかってる。次からは気をつけるわ」
一応反省の言葉を口にしながら、後のことはお菊に任せることにして、俺はベッドに横になった。
「おやすみ、お菊」
「おやすみなさいませ、鈴音お嬢様」
心身ともに疲れていたせいだろうか、俺はあっという間に深い眠りについたんだ。
こうして、平成の現代から、百年前の大正時代の過去の世界に、意識だけが飛ばされての、俺の長い一日が終わったのだった。
そしてそれは、現代での俺の清彦としての人生が中断して、大正時代での鈴音としての人生が始まった日でもあったのだった。
一日目終了
無論、時代物を書く労力がハンパないのは、自分も苦労したのでよくわかってはいるのですが……。
KCAさんのSSは好きな話が多い好きな作者さんなので、私のSSへのコメントは素直に嬉しいです。
私も大正ロマン物、時代物、大好きです。最近大ヒットした鬼滅の刃なども好きですし、ゲームだとサクラ大戦が好きだったりします。
ここのSSでいえば、ちょっと前に別の方のSSで大正時代、はいからさんが通るのパロディ物をやっていたのも好きだったです。
続き希望、完全版希望のコメントも多くてびっくり。
ちょっと短編形式で、短編を積み重ねる形で、このSSの続きの形で書いてみようかなと思いました。