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『冥途人形(メイドール)』

2021/04/04 06:16:51
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【5.メイド少女の日常;平日の巻その1】

──ジリリリリ!!(パシッ!)…………

70年代の学園物マンガにでも出て来そうな、ちょっとクラシカルなデザインの目覚まし時計が鳴り始めるのとほぼと同時に、ベッドの中から伸びた小さな手がボタンを押して止める。

「ふわぁ~もう、時間ですか……起きないと」
その声音に多少は眠気が残ってはいるようだが、意識自体キチンと覚醒しているようだ。
ベッドの上に起き上がったのは、白い木綿の寝間着を着た娘──そう、元・敏明で現在この館のメイドをしている少女だ。

“彼女”があの死神(?)の男と約束(けいやく)を交わしてから、すでにひと月あまりの時が流れていた。

当初は、いくら「身体が勝手にメイドとして最適な行動をとる」とは言え、色々と慣れないコトに戸惑ったり、予想外の出来事に慌てたりしたものだが、1ヵ月も経てばそれなりに順応して余裕もできてくる。

窓から射し込む朝焼けの光の中、手早くいつものメイド服に着替えた少女は、厨房へと足を運び、朝食の準備を始めた。

ちなみに、この屋敷の“まともな”使用人は彼女ひとりであり、また主人(=例の死神)からも言われているので、食事は彼と自身のふたり分まとめて同じものを用意するようにしている。

今朝のメニューは──ホウレンソウを主体にしたグリーンサラダとふわふわのチーズオムレツ、昨日配達で届けられた山型ホワイトブレッドの両面トーストと、ホットミルク(主人はコーヒー)だ。
敏明だった頃は“彼”もコーヒーをそれなりに好んでいたはずなのだが、変化した今の体は子供舌なのかコーヒーの苦みを受け付けず、やむなくミルクかミルクティー派へと転向していた。

「おはよう──待たせたかね」
「おはようございます、旦那様。いえ、ちょうど今、トーストが焼き上がったところです。すぐにコーヒーを淹れさせていただきます」

背広(ジャケット)を着ればすぐさま仕事に出られる格好をした主人がダイニングテーブルにつき、淹れたてのコーヒーを給仕する。

多弁ではないが無言でもない程度の頻度で彼女とポツポツと会話を交わしつつ、マナーに沿った所作で朝食を食べ終え、主人はカバンや上着をとるために自室(?)へと戻っていった。

その間に手早く食器類を台所へと運び、“彼女”はそのまま玄関へと向かう。

「毎度わざわざ見送ることもない、とは言ってあるだろうに。手間だろう、“キララ”?」
「いえ、お出かけになる旦那様をお見送りするのも、使用人の務めですから。お気になさらないでください」
僅かに苦笑を浮かべる主人に対し、真面目くさった顔でそう応える少女メイド。

ちなみに“彼女”の呼び名については……。

「その姿でトシアキは似合わないな。だが、キララという名はいい。その響きが実に君に合っている」

……という、どこぞの弓兵か銀河皇帝主従を連想させるようなやりとりの末に決まったと言う経緯があったりなかったり。

「では、いってらっしゃいませ、旦那様」
「うむ、行ってくる。帰りはいつも通りだ。家のことは任せたよ、キララ」
「はい、承りました」

屋敷の玄関前に立ち深々と頭を下げるキララに対して、軽く手をあげると、主人は門扉を出て、宙に浮いた「漆黒の空間(としか言えないモノ)」へと入って行った。

(ワープゲートとか“スキマ”みたいなものなのかなぁ)
普通なら常識を疑いそうな光景だが、毎日となれば流石に慣れる。
──そもそも、主人が「死神っぽい悪魔的存在」で、自分自身も現在進行形で「少女の魂を宿した人形と融合して、少女メイドになっている」のだから、常識云々は今さらだろう。

「………今日はいい天気なので、洗濯日和ですね」
深く考えることを止めたキララは、そのままメイドとしての仕事について思考を向けるのだった。


【6.メイド少女の日常;休日の巻その1】

キララが1年間の約束で仕えている主は死神悪魔(以後そう表現する)だが、だからといって、365日ずっと働かせるようなブラックな真似はしていない。
さすがに週休2日ではないものの、日曜日は完全に休みだし、それ以外にも前々日まで申告していれば、月に1日好きな日に休んで良い言われている。

また、最初目が覚めた時は、あたかも漆黒の異界にでも建てられているように思えた屋敷だが、それは単に夜だっただけで、朝になればごく普通の山中に建てられた洋館であることはわかった。

もっとも、「人里離れた山の中」にあることも事実なので、ここから麓の街──敏明も名前くらいは聞いたことがある某地方都市に出るには、徒歩だと女の子の足で2時間以上かかることは間違いない。
つまり、休日だからと気軽に外に遊びに行ける環境ではないのだ。

しかしながら、もう少し早く外に出る手段がないわけでもない。

「いつもすみません、伊野樹(いのき)さん」
メタリックネイビーに塗られた屋敷のクルマ(少し古めのカローラ)の助手席に座りつつ、キララは今日の運転手を務めてくれる人物に礼を言う。

「……ついで、だ……気にすることは、ない」
ドライバーズシートでハンドルを握る伊野樹と呼ばれた人物の口から、くぐもった声が漏れる。
長身痩躯──というと聞こえはよいが、ガリガリに痩せた、不健康そうな男性だ。

しかも、手には白手袋をつけ、顔から首にかけても包帯で覆っているため、あたかもミイラ男のような様相だった。
否、「ような」ではなく、本当に木乃伊であり、埋葬された後にとある経緯で魂がさ迷っていたところを、死神悪魔に救われ、以来、彼を主として仕えているのだ。

そんなのを一般社会(おもて)に出して大丈夫なのか、と思われるかもしれないが……。
このミイラ男以外だと、不完全にしか実体化できない泣女霊(バンシー)のメイド(一応キララの先輩だ)と、キョンシーの下男ぐらいしか、あの屋敷にはいないのだ。
前者はともかく後者も、しゃべれないうえに、動作がいろいろ不自然なので、消去法で伊野樹以外、外に出るワケにはいかない。

屋敷の必要物資は基本、特殊な配送ルートで届けられるのだが、それだけでは補いきれないものを、伊野樹が週末にクルマで買い出しに出かける慣習になっており、キララはそれに便乗させてもらっている、というわけだ。

「……では……また、午後四時に……」
「はい、お手数おかけしますが、よろしくお願いします」

山のふもとから一番近い電車の駅前でキララを下ろし、カローラは走り去って行った。

「さて、今日は何をしましょうか」
手近な店のウィンドーに映った自分の姿で、髪型や服装に見苦しい乱れがないかチェックしながら、思案するキララ。

ちなみに、今日の彼女の服装は、いつものメイド服姿ではもちろんなく、蒼い更紗の半袖ワンピースの上から、ベージュのサマーカーディガンを羽織っている。
足元はアンクルカットの編み上げショートブーツと、膝丈の黒ストッキング。
長い髪は後ろで大きめの三つ編みにしたうえで、先端近くを臙脂色のリボンで結わえ、頭には白いバスクベレーをかぶっている。

最新の流行からは少々外れているが、清楚可憐で外見年齢の12歳よりやや大人っぽい雰囲気だ。
これだけの美少女がひとりで歩いていると、よからぬ思惑の野郎共が近寄ってきそうなものだが、主から貸与された「極限まで気配を薄くするペンダント」のおかげか、幸いそういった輩に目をつけられたことはない。

「季節的に、もうちょっと涼しげな私服も揃えておきましょうか。確か、駅前近くにファッションビルがあったはずですね」
今日の目標が決まったところで、肩から斜めにかけたレザーポシェットにきちんと財布が入っていることを確かめてから、キララは歩き出した。

ちなみに月給は手取り7万円だが、屋敷に住み込みかつ3食まかない付きなので、あまり使い道がないため、(外見上)同世代の女子中学生と比べると、彼女はちょっとした小金持ちだ。
どの道、外出して街に来られるはせいぜい週一なので、こういう時は、思い切って羽を伸ばすことにしている。

目当てのビルに着くまでの道のりでも、本屋や小物ショップなど気になる店があれば立ち寄り、文庫本とコミックスを1冊ずつと、猫のシルエットを象ったメモ帳などを購入する。

テナントの8割程がファッション・アパレル関係の店で占められている駅前ビルに入ると、とりあえずは当面の目的である夏向けの衣類を探す。
好都合なことに、ちょうど5階の催し物会場で夏物特集をやっていたため、欲しいものを簡単にそろえることができた。
今日買ったのは、半袖のブラウスとデニムのミニスカート、涼しげなサンドレス風ワンピースと、キャミソールなどのアンダーウェアを何点か。

「できれば新しい靴も揃えておきかったのですけれど、さすがに持てませんか」
ビル内の大衆イタリアンの店でランチにパスタを食べながら、傍らに置いた買い物袋を眺めつつ、少しだけ残念そうに呟く。
本人は気付いていないが、最近、仕草や口調はもとより、趣味嗜好にいたるまで、だいぶ「あの娘」の側の影響を受けているようだ。

その後、アクセサリーやコスメの店を冷やかしたり、ゲーセンでぬいぐるみのキャッチャーに挑戦したり、喫茶店で少しお高めのフルーツパフェを頼んだりと休日を満喫したのち、キララは屋敷へと戻るのだった。


【7.メイド少女の日常;平日の巻その2】

キララが仕える死神悪魔は、普段の日中は“外回り”で屋敷にいないことが多い。

死とか魔とかつく存在が昼日中に堂々と表を歩いてよいのか、と一度聞いてみたことがあるが、むしろ昼間が主の担当で、夜の死者や幽鬼には(神だか魔だかは知らないが)別の存在(モノ)が当たっているらしい。

「お前の言う通り、冥気を発する存在にとっては、闇夜こそが本領を発揮できる時間。ゆえに、それを担当する側も尋常でない力と技量を要求されるのだ」
主いわく、自分は半人前や新人……とまでは言わずとも、せいぜいが中堅どころで、死神悪魔として熟達者の域にはまだ遠いのだとか。

さて、そんな中堅格の死神悪魔であるかの主だが、実は組織的な構造としても中間管理職的な地位にあるらしく、月に何度かは屋敷の自室にこもって、“上”にあげる書類仕事に専念する事がある。
そんな日は、キララも屋敷内の掃除などで騒がしくすることは極力避け、時間を銀食器磨きや裁縫などの仕事に充てるようにしていた。

「あ! たいへん、もうこんな時間」
ただ、敏明であった頃から割と凝り性かつ手先が器用で、そういうチマチマした作業を始めると尋常でない集中力を発揮する。
基本的にはソレは仕事の出来などにはプラスに働くのだが、今日は刺繍に熱中していたため、とっくに夕飯の支度を始めておらねばならない時間になっていた。

「申し訳ありません、旦那様。別の作業に没頭するあまり、晩餐が遅くなってしまいました」
極力急いだものの、普段より1時間近く遅い時刻にしか夕食を用意できなかったキララは、主にの前でこうべを垂れる。

「いや、これくらいは別に構わんが──キララが時間を間違えるのは珍しいな。何をしていたのかね?」
「いえ、その……旦那様のハンケチに縫い取りを」
「? 我の手巾に?」
「はい。旦那様がお持ちのハンケチはすべて白一色の無地で、あまりに無味乾燥というか質素な印象を他の方に与えるかと思いましたので……あの、余計なことだったでしょうか?」

恐る恐る主の様子をうかがうキララだったが、当の主の方は普段のいかめしい表情を僅かに緩めている。
「──いや、構わぬ。むしろ気を回してくれたことに、礼を言うべきだろうな。ありがとう」
「!」

その後、夕食を食べ終えたのち、主の「どのような仕上がりか見せてほしい」という言葉に従い、今日刺繍した10枚ほどのハンケチをキララは書斎へと持参する。

「所詮は私の拙い技量の成果ではあるのですが」
「いやいや、なかなか見事なものだ。この花は水仙、こちらは柘榴かな?」
「はい。西洋では、いずれも冥界と縁の深い植物とされている、と小耳にはさんだものですから」

この日以降、それまで仕事ぶりは精勤ではあったものの、どこかよそよそしい雰囲気だったキララを、主がさりげなく話題を誘導することなどで、少しずつふたりの間に「単なる使用人とその雇用主」ではない会話が増えていくのだった。


【8.メイド少女の日常;休日の巻その2】

週の大半を屋敷内で過ごしている反動か、日曜は外出して過ごすことが多いキララだが、さすがに雨、それも本格的などしゃ降りの日までは、外に出ようとは思わない。

7月頭のまだ梅雨が明けきらない時季のこの週末も、そんな天気だったため、彼女は大人しく屋敷に残ることにした。

もっとも、屋敷に残る場合、「どうやって暇を潰すか」というのが最大の問題だったりするのだが。

テレビもケーブルテレビもなく、ラジオは古めかしい短波放送用ラジオが居間に一台あるのみ。
PCはかなり古めの国産デスクトップパソコンが主の書斎の隅に置いてあるが、滅多に使われることはなく、インターネットにもつながっていない。
もちろん、ケータイやスマホ、ゲーム機の類いも屋敷内には存在しない。電子機器関連について言えば、昭和50年代初頭で止まったような環境なのだ(一応黒電話はある)。

そんな環境でも、室内で手軽に堪能できる娯楽と言えば、やはり本だろう。
強いて言えばチェスと将棋くらいはあるのだが、生憎とキララはコマの動かし方や基本ルールくらいしか知らなかった。

屋敷に来た当初は遠慮していたものの、休日を館内で過ごすとなると、暇潰しの種がどうしても必要になり──また、最近は主ともいくらか打ち解けたこともあり、彼の許可を得て書庫に赴くようになっていた。

『あら、いらっしゃい、キララちゃん。今日はお外へはいかないの?』

あたかも肉声と錯覚するほどの明確な念話で話しかけてくる、紫のヴィクトリアンメイド風衣装を着た女性が、(一応)先輩格のメイドのバンシー、ヴィオレッタだ。
もっとも、滅多なことではこの書庫から出ず、読書と本の整理ばかりしているので、メイドというより司書といった方が正確なのだろうが。

「ええ、さすがにこの雨の中を出歩く気にはなれなかったものですから」
『この季節はイヤよね~、湿気は本の大敵なのに。ぷんぷん』

かみ合っているのかいないのか微妙な会話を交わしつつ、キララは興味を引かれる本を3冊ばかり選び出し、ヴィオレッタにことわってから借り受けた。

そのまま自室にこもろうか──と考えかけたところで、屋敷の一角、裏庭に面したほとんど人の来ないサンルームの存在を思い出し、足を運ぶ。
晴天の日は明るすぎて逆に読書には不向きなのだが、今日のような雨の日の昼間なら本を読むのにちょうどよい。

小さめの白いテーブルとセットになった木製のアームチェアに腰掛け、本のページをめくり、そこに書かれた世界へと没頭していく。

──コトン

どれくらい時間が経ったのか、不意にテーブルに缶コーヒーが置かれた音で、キララはふと我に返った。

「おや、気づいたか」
「! だ、旦那様!?」
すぐ傍らに、主である死神悪魔が立っていたことに焦るキララ。

「どうして此処に……」
「なに、今日は君が屋敷にいると聞いて、少し話をしたいと思ってね」
その缶コーヒーは“おごり”だ、とほんの僅かながら片頬に微笑のようなものを浮かべてみせる彼の様子に、キララはなぜか胸の奥がズキンと疼くような感覚を覚える。

この館での仕事に対する感想、同僚への印象、現在の待遇に不満はないか──などの主従関係がらみでの話を一通り終えたところで、ふと思いついてキララが主に質問する。

「その、お仕事とはまったく関係ないことなんですが、ひとつお聞きしてよいでしょうか?」
「何だ? 答えられることなら答えよう」
「はい、では──どうして、旦那様は、元の“俺”、雲母敏明とよく似たお姿をされているのですか?」
“彼”本来の容姿はもっと異なる、より非人間的な(それこそ悪魔めいた)姿だと、伊野樹やヴィオレッタからは聞いている。

「ああ、その事か。理由は主にふたつ。まず本性のままだと、初対面の君に恐がられ、悪印象を与える公算が高かった」
「それは……はい、わかります」
“裏”の世界と無縁だった一般人(じぶん)が、いきなり人ならざる者と遭遇した際に、SAN値ピンチにならなかったと言い切る自信はキララにはなかった。

「で、人の姿を纏う際に、どうせなら対面する相手に近いほうが、相手も親しみやすいだろうと思ったことがひとつ。
もうひとつの目的は──“雲母敏明”としての要素の保管だな」

死神悪魔によれば、今ここにいるキララは、以前説明受けた通り、雲母敏明の肉体に特殊な冥途人形を融合させた結果だが、融合といっても実態は“上書き”に近いらしい。
なるほど、確かに言われてみれば、今のキララに敏明としての要素を感じさせる部分は(少なくとも外見的には)ほとんどない。

そのままでは、契約満了後、“彼女”が“彼”に戻る際、元の姿へと復元することが困難になるため、死神悪魔の人化の際のとる姿として逆に敏明のソレを上書き保存したらしい。

「そ、そんな! 私なんかのために……」
「“なんか”というのは止めたまえ。我は君の働きぶりを買っているし、実際、とても助かっている。それに思わぬ余禄もあったからな」
人ならざる身である死神悪魔は、本来、食事も睡眠も必要ないのだが、この(敏明似の)姿となってからは、逆にそのふたつを“楽しむ”ことができるようになったのだ──と、主はキララに告げる。

「君の作る食事は大変美味だし、毎日屋敷の環境をキチンと快適に整えてくれていることに、感謝しているのだ」
正面から向かい合い、手を握って、真っ直ぐな瞳でそう告げられては、キララは、嬉しさとそれを上回る恥ずかしさに、胸が高鳴り赤面するしかない。

(勘違いしちゃダメ! コレはたぶん、融合している少女(あのこ)の側の感情なんだから……)
そう自らに言い聞かせてはいるが、胸の動悸はしばらく収まらなかった。


【9.“日常”という名の非日常の終わり】

山奥の屋敷では、変わり映えのしない──されど穏やかな日常が紡がれていく。
キララが主となる死神悪魔との契約を結んだのが春先、桜の蕾がほころび始めた頃合いだったが、それから季節は春・夏・秋・冬と流れうつろい、今再び春の足音が近づいてきていた。

少しずつこの屋敷に溶け込み、しっかり者の少女メイドとして他の者からも頼りにされるようになったキララだが、彼女──否、“彼女”の中に融合している“少女”が冥府へと旅立つべき時が目前に近づいていた。
そしてそれは、“彼”──雲母敏明が、死神悪魔と交わした契約の満了も意味していた。

その日、いつも通りに主を見送ろうとしたキララだったが、その主本人は、玄関から出る前に彼女の方へと向き直り、(少しだけ躊躇しながら)重大な事柄を告げた。

「今日は帰りが遅めなので、夕飯の準備は不要だ。
それと──今夜、少女(あのこ)の魂が旅立つ。必要なら、それまでに別れを済ませておくように」
「!! ……はい、旦那様」
先程までのにこやかな笑みを消し、厳粛な表情になったキララは、叫び出したい気持ちを堪えて短い返答だけを口にした。

望むなら今日は仕事をしなくてもよいと言われたが、キララはそれを固辞して、「いつも通りのメイドとしてのお仕事」に励むことを望んだ。

“旦那様”の寝室のベッドメイクと清掃を済ませ、二層式洗濯機にかけた洗濯ものを裏庭に干し、少し散らかり気味の台所の整理と掃除を行う。

ありあわせの材料で昼用の賄いを作り、それを厨房のテーブルで食べる。

昼食後に食休みを兼ねて、執事兼運転手の伊野樹(木乃伊)や司書メイドのヴィオレッタ(バンシー)、さらにキョンシーの門番リンフォウまで招いて、お茶会めいた集まりも催す。
──もっとも、場所は厨房の片隅で、まともに飲食できるのもキララだけだったが。

* * *

一通りの仕事をこなしたのち、伊野樹に断ってキララは少し早めだが風呂を湧かして入ることにした。
すっかり慣れた手つきで、キララはメイド服、そして女物の下着を脱いで脱衣籠に入れ、屋敷の規模の割にはやや小さめ(と言っても家風呂と考えると十分大きいが)の風呂場に足を踏み入れた。

浴室で、改めて鏡に映る“自らの裸体(からだ)”を凝視する。
普通なら“彼女”の年頃──12、3歳といえばいわゆる育ちざかりなはずだが、一年経ってもその華奢な肉体には何ら変化が見られないのは、さすがは半分人形ということだろうか。

それでも、この一年間で慣れ親しんだはずの「自分の身体」に、久々に軽い違和感のようなものを感じる──ような気がした。

『気のせいじゃありませんよ。今夜の“別離”に先立って、わたしと貴女の魂が分離しかかっているからです』
バンシーメイドとの会話以上に鮮明な“声”が脳裏に響く。

「誰……って、聞くまでもないか。あなたが、例のメイドの子?」
『はい、いろいろご迷惑おかけしています』
「迷惑と感じたことはないですよ。なんだかんだでこの一年、楽しかったし充実してましたから」
それは、去り逝く者に対する追従や気休めなどではなく、間違いなく事実だった。

「もともと受け身で保守的な性格(タチ)ですからね。この“メイド”って仕事は割と天職だったみたい」
『そうですか。“間借り”している立場で言うのも烏滸がましいですが、メイドのお仕事を楽しんでいただけたなら幸いです』
「はい……(クシュン!)」
『風邪を引くとけませんね。お風呂に入ってください』

脳内(?)の少女メイドの声に促されて、そのまま浴槽に浸かるキララ。
そのまま、遠いようで近く、近いようで遠い、不思議な存在とのおしゃべりを続ける。
直接言葉を交わすのは初めてのはずなのに、まるで物心ついた頃からそばにいる幼馴染か姉妹のような気安さと親しみを覚える相手だった。

『ちょっとのぼせてきたみたいですね。そろそろ上がっては如何です?』
「そうしますか」
湯船から出て身体や髪を洗いながらも、会話を続ける。

「そう言えば──今更ですけどすみません、私なんかが裸をこんな風に見たり、触ったりして」
『いえ、お気になさらず。この身体はわたしのものであると同時に、キララさん自身のものでもあるのですから』

やがて浴室から出たキララは、脱衣場で丁寧に濡れた身体を拭き、新しい下着を身に着けた後──寝間着ではなく着慣れたメイド服に袖を通す。
口には出さなかったが、たぶん、それが少女の願いだろうと思ったからだ。

「──そう言えば、あなたの名前を聞いていませんでしたね」
『……名前は、ないんです』
「え?」
『より正確に言えば、わたしは自分の名前を対価に、あの方と契約を交わしましたから』
あの時のわたしに支払えるものはソレくらいしかなかったので、と少し寂し気に微笑う様子が、キララの脳裏によぎった。

低温にしたドライヤーで長い黒髪を乾かしたうえで、ホワイトブリムを着け、完全にいつものメイドスタイルを整えてからバスルームを出ると、廊下にはキララの主である死神悪魔が立っていた。

「ちょうど身を清め終わったようだな──では、始めよう」
「『はい』」
キララとメイド少女の返事が重なった。


【10.惜別】

“旅立ちの儀”と聞いて、キララは複雑な魔法陣やら長々しい呪文やらを使った仰々しいモノを想像していたのだが……。

「では、キララ。そこに立ってしばらくじっとしていなさい」
星空の見えるバルコニーに連れ出され、そう言われて従うだけだった。

動きを止めた数秒後に、身体から“何か”が抜け出すのを感じる。
気配を感じて右を向くと、すぐ隣に今の自分(キララ)とそっくりな、半透明な少女が傍らに立って──いや、床から十数センチほど浮かんでいるのがわかった。

「言い残すことがあれば、それくらいは聞くが?」
『ありがとうございます。まず、貴方に対しては「一年間お世話になりました」と言わせていただきます』
「なに、気にすることはない。これは正当な契約だ」
冷静な口ぶりだったが、キララには主の表情が僅かに照れているようにも見えた。

『そして、キララさん。本当にありがとうございました。貴女のおかげで、さしたる心残りも持たず、わたしは彼岸へと旅立つことができます』
「あはは、どういたしまして。旦那様風に言えば、私の方も「正当な契約」でしたから」
『それでも、です』
少女メイド(の魂?)はキララの体に抱きつき、ギュッと抱き締める。
実体がないはずなのに、暖かさを感じる抱擁だった。

数秒後、キララから離れた少女は、死神悪魔の近くへ行くと、耳元で何かを囁く。
「──それは……可能ではあるが、本人の了解が必要となるぞ」
『なら、聞いてみてください──たぶん、答えはわかりきっていると思いますけど』
ちょっぴり悪戯っぽい笑みを死神悪魔、そしてキララにも投げかけると、そのまま少女メイドの霊体は夜空へと浮かび上がっていく。

『ではお二方、さようなら。いつの日か輪廻の輪の向こうで再び出会えることを祈っています』
満月の光がスポットライトのように収束し、少女に降り注ぐ中、彼女はその光に溶けるようにして姿を消したのだった。

「行っちゃいましたね……」
「ああ」
残されたふたりは、しばし別れの余韻に浸っていたが、やがて珍しく緊張したような貌で、主たる男が、キララと呼ばれる少女に向かって言葉を投げた。

「これで、君との契約条件も満たされたことになる。一年間、ご苦労だった」
そう言葉にされて、キララはこの泡沫の夢の“終わり”が近づいていることを改めて実感した。

「“報酬”としては当初は「大手ハウスクリーニング会社の正社員」と「人気食堂の調理師」のふたつの立場を用意していたのだが……」
いったん言葉を切った死神悪魔は、心の中で何かに迷っている、いや躊躇っているようだった。

「? 旦那様……?」
「(我らしくもないな)コホン、実はもうひとつ選択肢(アテ)ができた──君さえよければ、このままこの屋敷で働かないか? もし望むなら、その状態(すがた)のままで」

それは、心のどこかで彼女(キララ)も望み──しかし「これは一年だけなのだ」と諦めていた未来(みち)だった。

「ただし!」
一も二もなく首を縦に振ろうとしたキララを制止するように、主は声を大きくする。
「あの娘からも聞いたと思うが、契約に際しては代価が必要だ。“働き先”の方はこの一年の報酬だからよいが、「そのメイドの姿のままでいる」ことを選ぶなら──“敏明”という名は我に捧げてもらうことになるぞ」

生まれた直後に付けられ、そのまま現在に至るまでの20数年間の自分自身の証ともいえる“名前”を捨てる──いや、捧げるというのは、神魔と関わる裏の世界でも、かなり重い対価だと言えるだろう。

そちらの世界の事情には疎い(多少はこの一年でヴィオレッタなどから聞いていたが)キララにも、主の口ぶりから極めて重大な結論を迫られていることは、理解できた。

それに対するキララの答えは──。


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