C7片「激怒//容赦」
Side:みーくん
鮮烈な痛みが走る。
顔をぶん殴られた、それだけがわかった。
わざわざ近づいてくれたのだから、接触することができれば。
そんな事を考えた俺がバカだった。もっと早く気付くべきだったのだ、本気で逃げだせばよかったって。
殴られた勢いで体が宙を舞っている。
せっかく作った体が傷ついてしまうな、と考えるも、それももう遅いのかもしれない。
痛みが強くて考える間もなく、思考が余計なことを考え出す。
じわじわと鬼が近づいてくるのが見て取れる。
あんな。あんなバケモノに立ち向かえるなんて事がどうかしてたのかもしれない。俺はこの『能力』の事をどこかで過信してたのかもしれない。
そんな気弱な事を思ってしまう程に、今の一撃は恐ろしかった。
あの容赦の無い目は、初めて向けられたものだから。
乙木達の視線は、どこか愉悦に満ちていて、どこか「これ以上はいけない」という内心の恐怖が見えていたのに、あの鬼の目にはそれが無い。
本気の目だった。本気で俺を殺そうとして…、殺す…?
でも、そうだった。あの鬼は「殺すことは無い」って言って…、
…でも、待てよ?
殺す以外の事はするって…、言っていたような…。
痛みと共に言葉の意味を理解していく度、頭の中に寒気が走っていった。
…じゃあ、俺は今から、何をされるの?
鬼が近づいてくる。
恐怖が迫ってくる。
それがどんなに恐ろしいのか、今になって気付いてしまった。
嫌だ、死にたくない。あんな奴の言ってることがどれだけ信用できるってんだ。
どうせ俺を殺すに決まってる、口ではあぁ言っても本当の所はどうするかわからないんだ。
逃げないと。この場から去らないと。
体に鞭打って立ち上がり、無様な姿で逃げ出す。
それでも鬼が迫ってきていることが、熱気で分かってしまう。
熱い。恐い。熱い。嫌だ。熱い。助けて。
まとまらない頭の中で思考だけがぐるぐると回っている。
どうすれば良い、どうすれば逃げられる。
それだけを考えながら、ふらつく脚で逃げ出そうとしているのに、脚が動かない。
あのパンチのせい? それともこれは、恐怖のせい?
がくがくと震える脚に気づいたのは、一歩も逃げ出せていない事に気づいた時と同じだった。
逃げているのに近づかれているのは、俺が逃げられていないからだと、気付いた時には遅すぎた。
あぁ、熱が来る。恐怖が来る。足音を立てて、あの眼差しで、侮蔑の顔で、俺を見下して。
誰か、誰か助けて、あの鬼を近づけさせないで。
「待って!!」
恐怖で薄れようとした意識をハッキリとさせたのは、いつのまにか俺に近づいていた撫子さんの声だった。
助かるの?でもダメだよ撫子さん、アレはこんなにも恐ろしいのに。
Side:蒼火
眼前で撫子女史が、逃げようとしている羽張の前に両手を広げて立ちふさがる。
「…どけ」
「退きません!」
「理由は?」
「…私はみーくんの味方だからです!」
人外と人間との力量差を少しでも知っているというならば、この行為自体に大した意味が無い事は気付くだろうに。
しかも理由が、味方だからか。
「だからと言って、彼の暴走に付き合ったというならアンタも同罪だ。手加減はするが容赦はしないぞ」
「その前に聞かせて。どうして乙木達の依頼に応えようと思ったの?」
「向こうが困っていて、されたことが“こちらの領分”だと思ったからだ。…逆にこちらこそ聞きたい。何故止めなかった?」
「……」
「味方だというアンタが少しでも良心になってやってれば、そこまで羽張がねじくれる事は無かっただろうに。何故だ」
「…今更かもだけど、みーくんがどうするのか見たかったって言うのもある。最初に頼ってくれて嬉しかったってのもあるけど…、」
撫子女史は小さな言葉を、俺にしか聞こえない位の声音で告げてきた。
「―――――――」
小さく、か細く答えられたその理由に、ある種の納得を俺は得られた。
成程ね、羽張の能力から感じた神気の原因はそれがあったからか。
「…だが、それなら猶更だ。そのせいで羽張がねじくれたというのなら、それこそアンタが止めなきゃいけなかったんだぞ」
「分かってる、もう遅いって事くらい。でもだからこそ…、今更みーくんを裏切れないのよ!」
目に涙を浮かべようと、やりもしなかった事を後悔しようと、それは既に今更だ。
俺が手を止める理由は無いし…、羽張への攻撃を留める理由にもならない。
「あぁそっかよ…。じゃあアンタ毎叩き潰させてもらうけど、それで良いな…?」
「やるなら私からにっ、ぅ」
拳を振り上げ、撫子女史を叩く。もちろん全力ではなく、顎を掠るように。
脳を揺らされた彼女は、糸の切れた人形のように地面に倒れ伏した。…もちろん勢いよく倒れないよう、手で支えてはやった。
羽張の方を見やると、倒れた撫子の方に近寄っていた。
「撫子さん…、撫子さん…っ」
それは彼女をかばうように覆いかぶさり、後頭部を隠そうともせず俺に見せてくる。
次に出てきたのは、
「ごめんなさい…、赦してください…! 俺は殴られても良いです…、でも、撫子さんには、何もしないでください…!」
そんな、今更ながらの謝罪と自己犠牲の言葉だった。
「…………」
ごめんなさいと繰り返す羽張を見下ろし、一息吐いて鬼化を解く。髪も瞳も黒に戻り、熱は静かに収まった。
…悠長かもしれないし、甘いかもしれない。そんな事は重々承知の上だ。
もしこれで自分の身を優先していたら、今度こそ容赦はしなかっただろう。
…だが、彼がいざという時に他人を優先するのなら…。
C8片「択一//脅迫」
Side:蒼火
羽張を見下ろし、内心で思った事を告げる事にする。
当然ながらこれで納得する人間はいないかもしれないが、それでも一抹の人間性を信じたい。
俺は鬼だ。
同時に人間でもあると、自分では思っている。
精神性まで鬼になりきらないよう、人間として最低限の矜持を持ち続けていたいと考えているし、そう心掛けている。
「当然だが、俺はお前を許すつもりは無い」
羽張の胸ぐらを掴む。さっき掴んだことですっかりよれてしまった服だが、もはや気にしない。
「だが…、お前が見せた彼女を庇う姿を見て、一度だけチャンスをやる」
「チャンス…?」
「あぁそうだ。今ここで、お前に一つの選択肢を突き付ける。…どちらかを選べ」
最低限の矜持、その一つとして、俺は「人間」を殺さないことを旨としている。
殺す事に慣れてしまえば、簡単に殺せるのだと理解しきってしまえば、俺の心の箍はどこかで外れてしまうだろう。
それを忌避する様に、人間に対しては常に手加減をしているのだ。
「お前が能力を悪用するか、別の使い道を考えるか。今ここで決めろ」
だからこそ、こんな場面でさえ羽張の命を取らないように考えてしまう。本当なら殺さなければ、延々と被害が増える筈だというのに。
「もし前者を選ぶのなら、今は見逃してやる。ただし俺は次に貴様の仕業らしき事件を見たならば、もう容赦はしない」
「…………」
「後者を選ぶなら、頭を冷やさせてやる。どんな風に使うのか、せいぜい考えてみせろ」
こんな物はただの言葉遊びだ。どちらを選んだにせよ、俺は羽張をこの場は見逃す事に他ならない。
だが、このまま羽張を痛めつけて乙木達の所に連れていくつもりは最早無い。
鬼である事を差し引いても、依頼をする存在相手に嘘まで吐いた連中への情も消えて失せた。
こんな依頼は反故だ反故。そもそも前金も受け取ってないし、受け取る気も無くなってたし。
「ただし、後者であると嘘を吐いた場合、俺はもうお前を人間と扱わない」
じろりと、明確に殺気を込める。
人間である定義とはどういう物か。存在か、精神性か、色々想う所はあるだろう。
だが俺は、今はまだ、羽張が「人間」である事を信じていたい。
「その場合、俺はお前の命を奪(と)りに行く。絶対にだ」
いつの間にか羽張の手に腕を掴まれていたが、何かされた様子は無いと思って腕を放す。
踵を返し、炎を消して、その場で空間を割り開いて跳ぶ。
もし羽張が行動を起こした場合、覚えた神気と匂いとですぐに追えると考えながら。
Side:みーくん
見逃された。そういうのが正しいのかもしれない。
あの殴られた腕にせっかく触れる事ができたのに、『接続』さえする事ができなかった。それ程までに彼の瞳はまっすぐで、本気だった。
恐ろしかったというのが一番大きい。
だってそうだろう。あんな本気の殺意なんて。それが向けられる理由なんて。
「……人間、か…」
思えばそうだ。こんな継ぎ接ぎができる存在を、誰が人間だと思うだろうか。『能力』の万能感に、考えが麻痺していたのかもしれない。
「けれど今更…、どうしろって言うんだ…!」
『能力』を得てからやって来たことは、あの鬼からすれば怒るような事なんだろう。
けれど俺はそれ以外の使い方をしてこなかったし、今更どんな使い方をすればいいのか、頭の中にすぐ出てくるような事じゃない。
でも確実な事が一つある。
俺は、見逃された。どうにでもできる、いざと言う時にはすぐに殺せる。そう見られたのだ。
…仮に、『交換』で色んな人から鬼に抵抗できる力を具える事ができたとしよう。
その場合俺は、まだ「人間」なのか? もし人間でなくなったのなら…人間として扱われなくなったのなら、それこそ鬼が俺を殺す理由が増えるだけだ。
「ん、んぅ…、顎いたい…」
声がした方を見ると、撫子さんが身体を起こしていた。
「撫子さん、大丈夫?」
「ん…、なんとか平気…。みーくんの方こそ大丈夫?」
「俺も大丈夫です。鬼が…、見逃してくれましたから…」
「見逃したって、どういう事…?」
そのまま、撫子さんが気絶していた時の事を話してみると、彼女は安堵の溜息を大きく吐いていた。
「はぁぁぁ~…、良かったぁ…。みーくんが殺されちゃうんじゃないかと思って、すっごい心配したよ…」
「今更ながら、どうにか生き延びられたんですね、俺…、あ…」
安心したと同時に、大きく歯の根が震える。恐怖が今更ながらに襲ってきて、俺の体を揺らしていた。
…もう嫌だ、あんな存在とかち合うのは。あんなバケモノが存在しているだなんて、知りたくなかった。
そしてふと、気になって頬をさする。…歯の根が合っている?
乙木達に殴られた時は、歯が折れる事もあったというのに、そんな事も無く綺麗なまま。
……最初から、手加減されていたのか…。
最初から相手にされていなかったのだと、ただ依頼だから俺の方を見ていたのだという事に気付き、愕然とする。
俺は“取るに足らない”存在でしかなかったのだと。